ラプレヴォヤンテ

和名:ラプレヴォヤンテ

英名:La Prevoyante

1970年生

鹿毛

父:バックパサー

母:アークティックダンサー

母父:ニアークティック

2歳時12戦全勝の成績でソヴリン賞年度代表馬に選ばれエクリプス賞年度代表馬の候補に挙がるほどの活躍を見せるも、肺破裂により現役中に夭折した薄幸の名牝

競走成績:2~4歳時に加米で走り通算成績39戦25勝2着5回3着3回

誕生からデビュー前まで

加国の馬産家ジーン・ルイス・レベスク氏により生産・所有された。父は米国の歴史的名馬バックパサーで、母アークティックダンサーはノーザンダンサーの全妹だった。本馬が誕生した1970年にはノーザンダンサー産駒のニジンスキーが英国三冠馬になる大活躍をしており、本馬に対する期待も一層大きくなったと思われる。加国ヨニー・スター調教師に預けられた。2歳時には全レースでジョン・ルブラン騎手が鞍上を務めたが、3歳時以降にはクリス・ロジャーズ騎手も騎乗している。

競走生活(2歳時):惜しくも受賞できなかったエクリプス賞年度代表馬

2歳7月にウッドバイン競馬場で行われたマイディアS(D6F)でステークス競走に初出走して勝利。それから1週間後にはレベスク氏の地元である加国ケベック州モントリオールにあるブルーボネット競馬場で行われたフルールドリスS(D5F)に出走。マイディアSと異なり牡馬混合戦だったが、これも勝利した。そのまた13日後にはフォートエリー競馬場で行われた加国2歳路線の重要競走コリンS(D6.5F)に出走。これも牡馬混合戦だったが、後に加国最大の2歳戦コロネーションフューチュリティを勝利する牡馬ザカスピリットを2着に破って勝ち、1956年に創設された同競走史上初の牝馬制覇を果たした。

その後は米国に向かい、前走から11日後の8月2日にサラトガ競馬場で行われたスカイラヴィルS(D6F)に参戦。これは牝馬限定戦だったが、この10日後にソロリティSを勝つスパーカラークという地元米国の有力牝馬が対戦相手となった。しかし本馬がスパーカラークを2着に破って勝利した。その23日後にはスピナウェイS(D6F)に出走。ここでは後のアスタリタS勝ち馬プリンセスダブルデイが強敵だったが、やはり本馬がプリンセスダブルデイを2着に破って勝利した。

その後はいったん加国に戻り、9月のプリンセスエリザベスS(D8.5F)に出走した。このレースは加国の2歳牝馬限定戦としては最重要の地位にあるものであり、ケイリージェーンやバーバーバーボールドといった同世代の有力牝馬が本馬に挑んできた。しかし本馬がケイリージェーンを2着に破って勝利した。

その後は再び米国に向かい、前走から2週間後にベルモントパーク競馬場でメイトロンS(D7F)に出走。このレースには後にレディーズHを勝つなどGⅠ競走で4度の入着を果たすコラッジオソという実力馬の姿があったが、やはり本馬には敵わず、コラッジオソは3着に敗退。本馬が伏兵アップアバヴを2着に退けて勝利した。それからさらに2週間後にはフリゼットS(D8F)に出走した。このレースは泥だらけの不良馬場で行われたのだが、本馬には関係なかったようで、後のゴールデンロッドS勝ち馬カムアクスを2着に破って勝利した。

その後はローレルパーク競馬場に向かい、前走から3週間後のセリマS(D8.5F)に出走した。ここでは重馬場の中で他馬との絶対的な性能差を見せつけ、2着ナイーブに14馬身差をつけて大圧勝した。それから2週間後にはガーデンステート競馬場でガーデニアS(D8.5F)に出走。ここでは後にGⅢ競走を3勝して日本に繁殖牝馬として輸入されるノースブロードウェイとの対戦となったが、やはり本馬が勝利を収めた。

2歳時の成績は12戦全勝と完璧なものであり、北米競馬における2歳牝馬の最多連勝記録も樹立した(牡馬を含めても1884年に13戦無敗の成績を残したトレモントに次ぐ史上2位)。その勝ち方も圧倒的なものばかりで、2着馬につけた着差平均は6馬身を超えていた。

この当時は加国の年度表彰ソヴリン賞において最優秀2歳牝馬のタイトルが無かった(1975年に創設)ため、同タイトルの受賞は成らなかったが、ソヴリン賞年度代表馬を受賞した。2歳馬がソヴリン賞年度代表馬を受賞したのは、1953年のキングメープル、1968年のヴァイスリーガルに次いで4年ぶり史上3頭目だったが、2歳牝馬としては初の快挙だった。

また、米国の年度表彰エクリプス賞においても最優秀2歳牝馬のタイトルを獲得。さらにエクリプス賞年度代表馬の有力候補にも挙がった。本馬と並んで有力候補に挙げられたのは同じ2歳馬のセクレタリアトだった。本馬の12戦全勝に対して、セクレタリアトは9戦7勝だったため、本馬のほうが相応しいという意見も少なくなかったらしいが、結果は全米サラブレッド競馬協会とデイリーレーシングフォーム紙がセクレタリアトを、米国競馬記者協会が本馬を推したため、2対1で敗れてこのタイトルは逃した。

しかしこの選考結果には賛否両論が出た。「この結果は著しく不公平である。セクレタリアトが年度代表馬に相応しくないとまでは言わないが、ラプレヴォヤンテのほうがより相応しい」という意見や、本馬が14馬身差で圧勝したセリマSとセクレタリアトが8馬身差で圧勝したローレルフューチュリティが同日同じ競馬場で施行された同距離のレース(しかも斤量は2頭とも同じ122ポンド)だったためにその内容を比較検討して「着差ではラプレヴォヤンテが上だが、勝ちタイムではセクレタリアトのほうが断然速かった(筆者注:本馬のセリマSの勝ちタイムは1分46秒2で、セクレタリアトのローレルフューチュリティにおけるそれは1分42秒4だった)から、セクレタリアトのほうが上位だ」という反対意見も出て、かなりの論争になった。

競走生活(3歳時)

3歳時は米国フロリダ州ガルフストリームパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動したが、2着に敗れて初黒星を喫した。その後はケンタッキーオークスを目標として、本番6日前にチャーチルダウンズ競馬場で行われたラトロワンヌS(D7F)に出走した。前年のメイトロンSで対戦したコラッジオソの姿もあったが、本馬が勝利を収めた。

そしてケンタッキーオークス(米GⅡ・D8.5F)に駒を進めた。このレースにもコラッジオソが出走していたが、本馬の勝利を阻んだのはコラッジオソではなく、アルキビアデスSでコラッジオソの2着していたバッグオブチューンズという馬で、本馬は2着、コラッジオソは3着に敗れた。

その後は加国に戻り、ブルーボネット競馬場で行われたヴィルマリーSに出走して勝利。翌6月には同じくブルーボネット競馬場でケベックダービー(D9F)に出走。レースは泥だらけの不良馬場で行われたが、重馬場を苦にしない本馬にとってはむしろ歓迎だったようで、後にソヴリン賞最優秀古馬牡馬に選ばれるヴィクトリアンプリンスを2着に破って勝利した。それから1週間後にはカナディアンオークス(D9F)に出走。しかしナタルマS・シリーンSの2着馬スクエアエンジェルやマザリンS・シリーンS勝ち馬インプレッシヴレディに屈して、スクエアエンジェルの3着に敗れた。

それからさらに1週間後にはクイーンズプレート(D10F)に出走したが、得意の不良馬場だったにも関わらず、ロイヤルチョコレートの着外に敗れた。翌7月に出走したフライアーロックS(D6.5F)では、牡馬シンメトリックやミスウッドフォードSを勝っていた牝馬シェイクアレッグの2頭に敗れて、シンメトリックの3着に終わった。3歳時はこの後にステークス競走で入着する事は無く、一般競走の勝ち星を増やしたのみで、この年の成績は14戦7勝。2歳時の大活躍からすると物足りない結果に終わり、ソヴリン賞最優秀3歳牝馬の座もカナディアンオークスで屈したスクエアエンジェルに取られてしまった。基本的に本馬は短距離馬であり、7ハロンまでなら素晴らしい快速を発揮できるが、走る距離が1マイル以上になるとスタミナが切れてしまう事が多かったという。

競走生活(4歳時):肺破裂のために他界する

4歳時は専ら短距離戦を走り、サラトガ競馬場で行われた短距離の一般競走を3連勝するなど6勝を挙げたが、ステークス競走では牝馬限定競走シーウェイS(D7F)でミスリバウンドの2着に入ったのが最高成績だった。この年の12月28日にフロリダ州コールダー競馬場で行われたミスフロリダH(D8.5F)が本馬にとって最後のレースとなった。ここで8着に敗れた本馬はレース後に歩いて自分の厩舎まで戻ったが、その直後に体調を崩して倒れ、そのまま息を引き取った。死因は肺破裂だった。なお、レース前に装鞍所で急に体調が悪くなったために出走を取り消して厩舎に戻った後に他界したとする資料もあるが、加国競馬名誉の殿堂ウェブサイトには「ミスフロリダHで彼女は普段どおりに先行できずに8着に終わった」と明記されているし、米国競馬名誉の殿堂ウェブサイトでも「ミスフロリダHが彼女の最後のレースだった」と明記されているから、出走した後に他界したというのが正しい。

4歳時の成績は13戦6勝で、ステークス競走勝ちが無かったにも関わらず、この年のソヴリン賞最優秀古馬牝馬に選ばれた。また、1976年には加国競馬の殿堂入りを果たし、1995年には米国競馬の殿堂入りも果たした。1975年にはウッドバイン競馬場において本馬の名を冠したラプレヴォヤンテSが、1976年にはコールダー競馬場において本馬の名を冠したラプレヴォヤンテHがそれぞれ創設されている。

血統

Buckpasser Tom Fool Menow Pharamond Phalaris
Selene
Alcibiades Supremus
Regal Roman
Gaga Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Alpoise Equipoise
Laughing Queen
Busanda War Admiral Man o'War Fair Play
Mahubah
Brushup Sweep
Annette K.
Businesslike Blue Larkspur Black Servant
Blossom Time
La Troienne Teddy
Helene de Troie
Arctic Dancer Nearctic Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Lady Angela Hyperion Gainsborough
Selene
Sister Sarah Abbots Trace
Sarita
Natalma Native Dancer Polynesian Unbreakable
Black Polly
Geisha Discovery
Miyako
Almahmoud Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Arbitrator Peace Chance
Mother Goose 

バックパサーは当馬の項を参照。

母アークティックダンサーはノーザンダンサーの2歳年下の全妹で、1歳時に生産者のエドワード・プランケット・テイラー氏によりセリに出され、レベスク氏が10万ドルで買い取っていた。現役成績は2戦未勝利で、マイディアSで2着に入った程度だった。繁殖牝馬としては、8頭の産駒を産み、うち5頭が競走馬となり、本馬を含む4頭が勝ち上がっている。本馬の死から2年後の1976年に、クレイボーンファームでバックパサーと交配中に後脚と骨盤を骨折して13歳で他界している。本馬の全妹ダンスーズエトワールの子にドラポートリコロール【フェイエットS(米GⅡ)・ノリスタウンH(米GⅢ)】とダンピエール【クインシー賞(仏GⅢ)】がいる。近親にはノーザンダンサーの他にも多くの活躍馬がいるが、その詳細はノーザンダンサーの祖母アルマームードの項を参照してほしい。→牝系:F2号族①

母父ニアークティックは当馬の項を参照。

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