スペンドアバック

和名:スペンドアバック

英名:Spend a Buck

1982年生

鹿毛

父:バッカルー

母:ベルドジュール

母父:スピークジョン

ケンタッキーダービーを圧倒的な強さで逃げ切るも陣営が名より実を取ったため米国三冠の残り二戦には不出走となった幻の米国三冠馬

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績15戦10勝2着3回3着2回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州アイリッシュヒルファームにおいてC・ロウ・ハーパー氏により生産された。1歳5月にフロリダ州ハンターファームの所有者デニス・ディアス氏により12500ドルで購入された。ハンターファームは馬ではなく牛がメインの牧場であり、ディアス氏が馬を買ったのは本馬が2頭目だったらしい。

本馬は開業4年目のカム・ガンボラティ調教師に預けられた。ガンボラティ師は、ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)に所属するフロリダ州のタンパベイ・バッカニアーズの事務処理と選手の衣類の洗浄などを担当した後に、ケンタッキー州ルイビル大学のバスケットボールチームのコーチで馬主でもあったリチャード・アンドリュー・ピティーノ氏の誘いを受けて競馬界に身を投じたという一風変わった経歴の持ち主だった。

競走生活(2歳時)

2歳7月にフロリダ州コールダー競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦で、主戦となるC・ハッシー騎手を鞍上にデビューして首差で勝ち上がった。11日後に出走した同コースの一般競走は、2着ミスターイントロワンヌに4馬身差をつけて快勝。翌月には分割競走となったクリテリウムS(D5.5F)に出走したが、2年後にBCスプリントを勝利してエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるスマイルのスピードの前に、2馬身半差をつけられて2着に敗退した。しかし12日後に出走したダート6ハロンの一般競走では、2着シークレットゴールに9馬身半差をつけて圧勝し、コールダー競馬場を後にした。

翌9月にはオハイオ州リバーダウンズ競馬場に姿を現し、クレイドルH(D8.5F)に出走。2着グランドネイティヴに15馬身差をつけて大圧勝した。さらに20日後にはアーリントンワシントンフューチュリティ(GⅠ・D8F)に出走して、2着ダスティーズダービーに半馬身差で勝利した。次走のヤングアメリカS(GⅠ・D8.5F)からは、主戦がハッシー騎手からアンヘル・コルデロ・ジュニア騎手に交代となった。主な対戦相手は、ダスティーズダービー、カウディンSで2着してきたジュヴェナイルSの勝ち馬バイオニックライト、カウディンSで3着してきたスクリプトオハイオ、サラトガスペシャルS2着馬ドゥイットアゲインダン、ローレルフューチュリティで3着してきたローマンルールなどだった。ここではスクリプトオハイオが勝利を収め、本馬は3/4馬身差の2着に敗れた。

その後は米国西海岸に向かい、ハリウッドパーク競馬場で行われた第1回BCジュヴェナイル(GⅠ・D8F)に参戦した。ホープフルS・カウディンS・ノーフォークS・サラトガスペシャルSの勝ち馬でベルモントフューチュリティS2着のチーフズクラウン、ベルモントフューチュリティSの勝ち馬スペクタキュラーラヴ、デビュー戦でチーフズクラウンを破って勝ち上がっていたセクレタリージェネラル、サマーS・グレイS・カップ&ソーサーS・コロネーションフューチュリティなど5連勝中の加国調教馬ドーフェンファビュルー、スクリプトオハイオ、前走ヤングアメリカSで3着に入っていたタンクスプロスペクト、同5着に終わっていたバイオニックライト、愛国から遠征してきた愛ナショナルS2着馬コンサートホールなど、本馬を含めて10頭が記念すべきブリーダーズカップ最初の勝ち馬(BCジュヴェナイルは7競走あったブリーダーズカップのレースの中で最初に実施された)になるべく参戦してきた。チーフズクラウンが単勝オッズ1.7倍の1番人気、スペクタキュラーラヴが単勝オッズ6.5倍の2番人気、本馬が単勝オッズ7.4倍の3番人気となった。スタートが切られると本馬が先頭に立ったが、そこへスペクタキュラーラヴ、セクレタリージェネラル、プラウデストアワー、バイオニックライトの4頭が競りかけてきて、激しい先頭争いが展開された。向こう正面で本馬が他の4頭を振り払って単独で先頭に立ち、そのまま三角と四角を回って直線に入ってきた。ここで外側からチーフズクラウンが、内側からタンクスプロスペクトが差してきて、本馬を含む3頭による勝負となった。しかし前半に脚を使っていた分だけ本馬の脚は伸びず、ゴール前で他2頭にかわされて、勝ったチーフズクラウンから1馬身半差の3着に敗退した。2歳時の成績は8戦5勝だった。

競走生活(3歳初期)

3歳時は膝の骨片除去手術が行われたために復帰がやや遅れ、3月にアケダクト競馬場で行われたベイショアS(GⅡ・D7F)から始動した。しかし父がセクレタリアトで全姉がハリウッドラッシーS・ハリウッドジュヴェナイルCSS・デルマーデビュータントSなどを勝ったテルリングァ(さらに書けば半弟がBCマイル馬ロイヤルアカデミーで甥が大種牡馬ストームキャット)という良血馬パンチョヴィラ、ホイストザフラッグSで2着してきたエルバスコの2頭に後れを取り、勝ったパンチョヴィラから5馬身半差をつけられた3着に敗北した。

その後はニュージャージー州ガーデンステート競馬場に向かった。このガーデンステート競馬場は1977年に火災を起こして3人の死者を出す事故があって以来経営難に陥っており、この1985年からウォール街の有力な投資家ロバート・ブレナン氏を経営責任者に迎えて立て直しを図り始めたばかりだった。まずは4月のチェリーヒルマイルH(D8F)に出走した。それほど目立つ対戦相手はおらず、前走GⅢ競走スウィフトSを勝ってきたキングババール、WPバーチS・フランシススコットキーS・スタードナスクラSとステークス競走を3勝していたアイアムザゲーム(前走ベイショアSでは本馬より下の7着に敗れていた)がいる程度だった。結果は単勝オッズ2.7倍の1番人気に支持された本馬が2着アイアムザゲームを10馬身ちぎって、1分35秒4のコースレコードで圧勝した。

その2週間後には同じガーデンステート競馬場でガーデンステートS(D9F)に出走。このガーデンステートSはかつて全米一賞金が高いレースだった時期もある2歳戦の大競走だったのだが、1972年にセクレタリアトが勝ったのを最後にいったん廃止されていた。しかしこの年から3歳戦としてリニューアルされて復活していたのである。対戦相手は、アイアムザゲーム、前走3着のキングババール、ヤングアメリカS6着後にBCジュヴェナイルには出ずに東海岸に残ってフロリダダービーで3着するなどしていたドゥイットアゲインダンなどだった。結果は本馬が再度2着となったアイアムザゲームを9馬身半ちぎって、1分45秒8のコースレコードで圧勝した。

ケンタッキーダービー

その後は2週間後のケンタッキーダービー(GⅠ・D10F)に向かった。対戦相手は、BCジュヴェナイル勝利後もスウェイルS・フラミンゴS・ブルーグラスSと連勝して目下6連勝中(正確にはフラミンゴSは1位入線2着降着の裁定が後に覆ったもの)だった前年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬チーフズクラウン、フロリダダービー・ファウンテンオブユースSの勝ち馬でフラミンゴS・ウッドメモリアルS2着(正確にはフラミンゴSは2位入線1着繰り上がりの裁定が後に覆ったもの)のプラウドトゥルース、ヤングアメリカS4着後にエヴァーグレイズSを勝ちウッドメモリアルSで3着してきたローマンルール、ベイショアSで本馬より下の6着だった後にゴーサムS・ウッドメモリアルSを連勝してきたエターナルプリンス、エルカミノリアルダービー・アーカンソーダービーを勝ってきた前年のBCジュヴェナイル2着馬タンクスプロスペクト、ハリウッドフューチュリティ・レキシントンSの勝ち馬でファウンテンオブユースS2着・フラミンゴS3着のステファンズオデッセイ、サンタアニタダービーの勝ち馬でサンフェリペH2着のスカイウォーカー、ルイジアナダービー・アーカンソーダービーで連続3着してきたアイリッシュファイター、サンラファエルS・サンタアニタダービー・ダービートライアルSでいずれも2着してきたファストアカウント、本馬と同じくガーデンステートSから向かってきたアイアムザゲーム、アーカンソーダービーで2着してきたエンコルアー、ブルーグラスSで2着してきたフローティングリザーヴの計12頭だった。チーフズクラウンが単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持され、本馬が単勝オッズ5倍の2番人気となった。

スタートが切られると本馬はすぐに先頭を奪い、そのまま単騎で逃げを打った。半マイル通過が45秒8、6ハロン通過は1分09秒6というハイペースで飛ばし、向こう正面で2番手との差は7~8馬身という大逃げとなった。そしてリードを保ったまま三角と四角を回ってきた。1マイル通過タイムは1分34秒8というかなり速いものだったが、直線を向いても全く後続を寄せ付けなかった。最後は2着ステファンズオデッセイに5馬身1/4差、3着チーフズクラウンにはさらに半馬身差をつけて圧勝。ガンボラティ師はケンタッキーダービーに初めて送り込んだ管理馬が優勝するという快挙を成し遂げた(その後ガンボラティ師の管理馬がケンタッキーダービーに参戦することは無かったから、唯一の挑戦で勝利した事になる)。勝ちタイムの2分00秒2は、1973年にセクレタリアトが計時した1分59秒4、1964年にノーザンダンサーが計時した2分フラットに次ぐ同競走史上当時3位の好タイムだった。後の2001年にモナーコスが1分59秒97を計時したために2015年現在は4位になっているが、それでも同競走史上屈指の好タイムである事には変わりが無い。なお、スタートからゴールまで完全に逃げ切って計時したタイムとしては、本馬のそれが同競走史上最速である。

プリークネスSを蹴ってジャージーダービーに向かう

この鮮烈な勝ち方から米国三冠馬誕生が大きく期待された本馬の次走は当然、ピムリコ競馬場で行われる米国三冠競走第2戦のプリークネスSとなる、のが一般的のはずだった。しかし陣営は本馬をプリークネスSではなく、プリークネスSの9日後にガーデンステート競馬場で行われるジャージーダービー(GⅢ・D10F)に出走させる旨を表明した。

実はこの年のシーズン初めに、ガーデンステート競馬場の経営責任者ブレナン氏が集客を目的として、チェリーヒルマイルH・ガーデンステートS・ケンタッキーダービー・ジャージーダービーの4競走を全て制した馬には200万ドルのボーナスを出す旨を明らかにしていた。このボーナスはジャージーダービーの優勝賞金60万ドルに加算されるものだったから、チェリーヒルマイルH・ガーデンステートS・ケンタッキーダービーの3競走を既に制していた本馬がジャージーダービーを勝てば260万ドルが本馬陣営に支払われることになっていた。

この260万ドルという金額がどれだけの金額かと言うと、当時の為替レートで6億5千万円である。本馬が仮にプリークネスS・ベルモントSをいずれも勝って米国三冠馬になったとしても、三冠達成ボーナスを含めた賞金総額はこの260万ドルより大幅に低かった。大体、ジャージーダービーの60万ドルという優勝賞金自体も相当な金額で、この年のケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントSの3競走の優勝賞金総額にほぼ匹敵する額だった。このジャージーダービーというレースは1864年創設で、1875年創設のケンタッキーダービーより歴史が古い由緒あるレースだったから、それに対抗したいという意識もブレナン氏の中にはあったようである。そして本馬陣営は三冠挑戦よりもボーナス挑戦を選択したのだった。

本馬がプリークネスSに参戦しない事とその理由を知ったピムリコ競馬場の副代表チック・ラング氏は、ブレナン氏に向かって「このインチキな商売人め!」と罵ったという。それでも当日のガーデンステート競馬場には30360人もの観衆が集まったから、集客効果は十分に出たようである。主な対戦相手は、ダービートライアルSの勝ち馬でハッチソンS・エヴァーグレイズS・ルイジアナダービー2着のクレームフレーシュ、ベイショアS2着後にウィザーズSを勝ってきたエルバスコ、ケンタッキーダービーでは13着最下位に終わるもプリークネスSでは4着と一定の結果を出してきたアイアムザゲーム、一般競走を3連勝して臨んだプリークネスSで9着に終わっていたスキップトライアルなどだった。コルデロ・ジュニア騎手が同日にベルモントパーク競馬場で行われたメトロポリタンHでGⅠ競走2勝馬トラックバロンに乗る先約があったため、本馬の鞍上はラフィット・ピンカイ・ジュニア騎手に乗り代わっていたが、それでも単勝オッズ1.05倍という圧倒的な1番人気に支持された。しかしレースはそれほど楽なものにはならなかった。本馬はスタートで躓いて出遅れてしまい、常套戦法だった逃げを打つことが出来なかったのである。それでも直線に入ってから猛然と追い上げ、本馬、クレームフレーシュ、エルバスコの3頭が横一線になってゴールインした。写真判定の結果、本馬が2着クレームフレーシュに首差、3着エルバスコにはさらに頭差をつけて勝利しており、本馬陣営は260万ドルという莫大な金額を手にした。

この260万ドルという金額は、単独のレースにおける獲得賞金としては当時米国競馬史上最高額であり、19年後の2004年にスマーティジョーンズがレベルS・アーカンソーダービー・ケンタッキーダービーの3競走を制してオークローンパーク競馬場から500万ドルのボーナスを支給されるまで更新されることは無かった。ちなみにここで本馬に騎乗したピンカイ・ジュニア騎手はボーナスの10%に当たる26万ドルを貰ったが、本馬のボーナス獲得に最も貢献したはずのコルデロ・ジュニア騎手(彼がメトロポリタンHで騎乗したトラックバロンは3着であり、それで彼の懐に入ったお金は4千ドルだった)には何も支払われなかったため、コルデロ・ジュニア騎手はディアス氏に対する不満をニューヨークポスト紙の記者にぶちまけた。

ベルモントSも回避

ジャージーダービーの12日後のベルモントSは回避した(ジャージーダービーで本馬に敗れたクレームフレーシュが勝利している。ちなみにプリークネスSはケンタッキーダービー7着のタンクスプロスペクトが勝っている)ため、本馬はケンタッキーダービー馬でありながら、故障でもないのに米国三冠競走の残り2競走には不参戦という事になった。これは米国三冠路線が確立されて以降では極めて異例の事であった。

この3年前の1982年にもケンタッキーダービー馬ガトデルソルがプリークネスSに出なかった事があったが、その理由は距離が短いと陣営が判断したため(と表向きにはなっているがプリークネスSはケンタッキーダービーより半ハロン短いだけであるから、実際には休養を取るのが目的だったようである)であり、ベルモントSには参戦している。ガトデルソルの前にプリークネスSに出なかったケンタッキーダービー馬は1959年のトミーリーで、その理由はレース間隔が短すぎるというものだった。

トミーリーやガトデルソルのときもちょっとした騒ぎにはなったようだが、本馬の場合は理由が金銭だったためにその時以上の大騒ぎとなり、チャーチルダウンズ競馬場、ピムリコ競馬場、ニューヨーク州競馬協会の3者は協議を行い、米国三冠馬になった際のボーナスを大幅に値上げして500万ドルとした。その甲斐あって、ケンタッキーダービー馬がプリークネスSを回避した事例は翌1986年以降には1例しかなく、その唯一の例である1996年の勝ち馬グラインドストーンもケンタッキーダービーの5日後に骨折が判明してそのまま引退したものであるから、ケンタッキーダービー馬がプリークネスSを目指さない事例は皆無となった。もっとも、肝心の米国三冠馬がなかなか誕生しないという状態が長らく続き、三冠達成馬に対する500万ドルのボーナスも2005年から削減された。それでも、2015年にアメリカンファラオが37年ぶり史上12頭目の米国三冠馬となったのは周知のとおりである。

後続が追走するのが精一杯だったケンタッキーダービーのレースぶりを映像で見た限りでは本馬の実力は相当なもので、この年にガーデンステート競馬場のボーナスが無かったら、20世紀最後の米国三冠馬はアファームドではなく本馬だったかもしれない。

ただし、“bay bullet(茶色の弾丸)”という異名で呼ばれていた快足を誇る本馬にとって、距離12ハロンのベルモントSは厳しいのではと元々陣営は考えていたらしい。あと、これを付け加えるとますます本馬が悪役視されてしまうかも知れないが、本馬がラシックスを使用していたのもベルモントS回避の要因だったと推測される(言うまでもないがラシックスはその利尿効果によりドーピング隠しに使用できる。ベルモントSが行われるニューヨーク州では当時禁止されていた)。

そんなこんなで、この事態の原因を招いたガーデンステート競馬場とブレナン氏、それにディアス氏やガンボラティ師といった本馬陣営の人々は米国競馬関係者のみならず米国の一般マスコミからも悪役扱いされることになった。それが影響したのかは定かではないが、ガーデンステート競馬場は後の2001年に閉鎖された。原因は競馬場のレストランで食事を採った従業員が次々とクロイツフェルトヤコブ病を発症した事を隠匿するために畜産団体から圧力がかかったためだと言われているが真相は不明であり、公式には他の娯楽施設との競争で敗れたためだとされている。ブレナン氏は2000年に証券詐欺罪で起訴され、ガーデンステート競馬場が閉鎖される16日前に10年の実刑判決を受けて表舞台から姿を消した(2011年に出所している)。しかし米国における競馬場間の競争は激しく、ブレナン氏が集客のためにボーナスを設定したのも一概に非難は出来ない。元々は牛の牧場主だったディアス氏は競馬の伝統をあまり重視する人物ではなかったと思われるし、彼が名より実を取ったのも金額が金額だけに止むを得ない一面はあるだろう。

競走生活(3歳後半)

閑話休題、ジャージーダービーの勝利後に本馬は短い休養を取った。この期間中に本馬の種牡馬としての権利がケンタッキー州レーンズエンドファームの代表者ウィリアム・S・ファシッリュⅢ世氏により購入されている。購入金額は公表されていないが、600万~1000万ドルの間であると推定されている。

休養から復帰した本馬は、ジャージーダービーからちょうど2か月後のハスケル招待H(GⅠ・D9F)に出走した。対戦相手は、ベルモントS勝利後にアメリカンダービーも勝ったクレームフレーシュ、ベイショアSで本馬を破って勝利した後はゴーサムSで2着するもウッドメモリアルSで大敗したために米国三冠競走に参加せずにシルヴァースクリーンHを勝っていたパンチョヴィラ、ジャージーダービー3着後に出走したベルモントSでは9着に終わっていたエルバスコ、メリーランドガヴァナーズカップHを勝ってきたリーガルカウント、ジャージーダービー5着後にオハイオダービーを勝っていたスキップトライアル、ケンタッキーダービー10着後にオハイオダービーで2着していたエンコルアーの6頭だった。実績的には本馬とクレームフレーシュの2頭が抜けており、本馬には127ポンド、クレームフレーシュには126ポンドが課せられた。その結果、116ポンドの軽量を活かした単勝オッズ36.5倍の6番人気馬スキップトライアルに2頭揃って足元を掬われてしまい、スタートから逃げて直線で差された本馬は3馬身3/4差の2着、クレームフレーシュはさらに1馬身差の3着に負けてしまった。

次走は初の古馬相手の競走となるモンマスH(GⅠ・D9F)となった。前年のトラヴァーズS・ジムダンディSの勝ち馬でマールボロC招待H・サバーバンH・ホイットニーH2着のカードナスクラ、前年のサルヴェイターマイルHの勝ち馬ランプシャス、前年のスタイヴァサントHとこの年のサルヴェイターマイルHの勝ち馬ヴァリアントラークなどが主な対戦相手となった。レースは118ポンドの本馬と120ポンドのカードナスクラが激戦を演じた末に、本馬が鼻差で勝利を収めた。

その後は9月のペンシルヴァニアダービーを目標としたが、それに向けた調教中に右脚首に故障を発生したため、3歳時7戦5勝の成績で競走馬を引退した。本馬が3歳時に勝ったGⅠ競走は2つであり、ベルモントS・アメリカンダービー・ジェロームH・スーパーダービーとGⅠ競走4勝のクレームフレーシュ、フラミンゴS・ブルーグラスS・トラヴァーズS・マールボロCHとGⅠ競走4勝のチーフズクラウン、BCクラシック・フロリダダービー・ピーターパンSとGⅠ競走3勝のプラウドトゥルースといった同世代馬達より数では劣っていた。しかしケンタッキーダービーの勝ち方等が評価されたのか、前評判では本命視されていたプラウドトゥルースを抑えた本馬がこの年のエクリプス賞年度代表馬(ただし201票中74票の獲得で、有効得票率は36.8%だった。次点のプラウドトゥルースは40票)及び最優秀3歳牡馬を受賞した。

獲得賞金総額は422万689ドルで、ジョンヘンリーの659万7947ドルに次ぐ当時米国競馬史上2位。3歳時に獲得した賞金355万2704ドルは、前年にジョンヘンリーが稼いだ233万6650ドルを上回り、1頭の競走馬が1シーズンで稼いだ賞金の北米記録となった。

血統

Buckaroo Buckpasser Tom Fool Menow Pharamond
Alcibiades
Gaga Bull Dog
Alpoise
Busanda War Admiral Man o'War
Brushup
Businesslike Blue Larkspur
La Troienne
Stepping High No Robbery Swaps Khaled
Iron Reward
Bimlette Bimelech
Bloodroot
Bebop Prince Bio Prince Rose
Biologie
Cappellina Le Capucin
Bellina
Belle de Jour Speak John Prince John Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Not Afraid Count Fleet
Banish Fear
Nuit de Folies Tornado Tourbillon
Roseola
Folle Nuit Astrophel
Folle Passion
Battle Dress Jaipur Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Rare Perfume Eight Thirty
Fragrance
Armorial Battlefield War Relic
Dark Display
Tellaris Pharis
Donatella

父バッカルーはバックパサー産駒で現役成績18戦5勝。アファームドアリダーの同世代だが、米国三冠競走には不出走だった。サラナクS(米GⅡ)・ピーターパンS(米GⅢ)を勝っているが、ホイットニーS(米GⅡ)ではアリダーに10馬身離された2着に敗れている。種牡馬としては1985年の北米首位種牡馬になっている。これは本馬がジャージーダービーで稼いだ賞金によるところが大きいが、それでも本馬と同世代のルーアートが翌1986年にGⅠ競走を2勝するなど、バックパサーの後継種牡馬として一定の成功を収めている。

母ベルドジュールは現役成績10戦1勝。日本に繁殖牝馬として輸入された本馬の半妹ジョード(父ダンチヒ)の娘にフラエンジェル【愛1000ギニー(愛GⅠ)・ロックフェルS(英GⅡ)】、孫に日本で走ったオールザットジャズ【福島牝馬S(GⅢ)2回】、ジャジャウマナラシ【兵庫ジュニアグランプリ(GⅡ)】、曾孫にコウギョウデジタル【ウイナーC・ひまわり賞・不来方賞・あすなろ賞・フェアリーC】が、本馬の半妹クラウンオブシーバ(父アリシーバ)の娘にスパイスアイランド【ロングアイランドH(米GⅡ)】、その息子にアイスボックス【フロリダダービー(米GⅠ)】がいる。母系を遡ると根幹繁殖牝馬ラトロワンヌの半妹である仏オークス馬アダルガティスに行きつく。→牝系:F1号族②

母父スピークジョンはプリンスジョン産駒で、現役成績12戦4勝。デルマーダービー・ラスベガスHを勝っている。1985年には本馬の活躍により北米母父首位種牡馬になっている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ケンタッキー州レーンズエンドファームで種牡馬入りした。生涯で約30頭のステークスウイナーを出しており、完全な失敗種牡馬とは言えないが、期待を下回る成績だったのは確かなようで、13歳時にはテキサス州のマクダーモットランチ牧場に、17歳時にはルイジアナ州のレッドリバーファームに移動させられ、19歳時に以前からシャトルされて活躍馬を出していたブラジルに売却された。翌2002年11月にペニシリンによるアナフィラキシーショックが原因で、繋養先のベーグ・ド・スル牧場において20歳で他界した。いずれもブラジル産馬であるピコセントラルやアインシュタインが後継として種牡馬入りしているが、共に成功していない。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1987

Worth Avenue

テンプテッドS(米GⅢ)

1989

Pie in Your Eye

チェリーヒルマイルS(米GⅢ)

1990

Adhocracy

フェアマウントダービー(米GⅢ)

1990

Clausen Export

ABCCC大賞(シダージジャルジン)(伯GⅠ)・サッコー少佐大賞(伯GⅠ)

1991

Dust Bucket

シャーリージョーンズH(米GⅢ)

1992

No Spend No Glow

エセックスH(米GⅢ)・レイザーバックH(米GⅢ)

1993

Antespend

ラスヴァージネスS(米GⅠ)・サンタアニタオークス(米GⅠ)・デルマーオークス(米GⅠ)・ミエスクS(米GⅢ)・ハネムーンH(米GⅢ)

1998

Investor's Dream

ジュリアーノマルティンス大賞(伯GⅠ)

1998

Irish Lover

エンリケポッソーロ大賞(伯GⅠ)・マルシアノデアギアルモレイラ大賞(伯GⅠ)

1999

Hard Buck

リネアヂパウラマシャド大賞(伯GⅠ)・ガルフストリームパークBCターフS(米GⅠ)・リバーシティH(米GⅢ)

1999

Hatif

サンパウロジョッケクルブ大賞(伯GⅠ)

1999

Jockey's Dream

ブラジルジョッケクルブ大賞(伯GⅠ)

1999

Pico Central

サッコー少佐大賞(伯GⅠ)・リオデジャネイロ州大賞(伯GⅠ)・カーターH(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)・ヴォスバーグS(米GⅠ)・サンカルロスH(米GⅡ)

2002

Einstein

サンタアニタH(米GⅠ)・ガルフストリームパークBCターフS(米GⅠ)2回・ターフクラシックS(米GⅠ)2回・マーヴィンHムニスジュニア記念H(米GⅡ)・クラークH(米GⅡ)

2003

L'Amico Steve

ブラジル大賞(伯GⅠ)

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