ヒルプリンス

和名:ヒルプリンス

英名:Hill Prince

1947年生

鹿毛

父:プリンスキロ

母:ヒルデネ

母父:バブリングオーヴァー

プリークネスSやジョッキークラブ金杯などを制して3歳時に米年度代表馬に選ばれ、父プリンスキロの種牡馬としての飛躍のきっかけとなる

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績30戦17勝2着5回3着4回

誕生からデビュー前まで

米国ヴァージニア州メドウファームスタッドにおいて、クリストファー・チェネリー氏により生産・所有された。母ヒルデネにとっては4番子、当時ヴァージニア州で種牡馬生活を送っていた父プリンスキロにとっては2年目産駒に当たる。1886年生まれのチェネリー氏は、ランドルフマコン大学やワシントンアンドリー大学で工学を学び、第一次世界大戦の復員後にチェネリー・コーポレーションを設立して、水道管やガス管など各種パイプラインの製造で成功を収めた。その一方で競馬にも興味を抱いており、ニューヨーク競馬協会の創設にも携わり、1936年にメドウステーブルを設立して馬産も開始していた。ジェームズ・ホーマー・“ケーシー”・ヘイズ調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳7月にアケダクト競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦で、エディ・アーキャロ騎手を鞍上にデビューして、7馬身差の圧勝でデビュー戦を飾った。1週間後に出たモンマスパーク競馬場ダート5.5ハロンの一般競走では、ダグ・ドッドソン騎手とコンビを組んだ。このレースには、既にユースフルS・ジュヴェナイルSを勝っていたファードも出走していたのだが、本馬が2着ファードに2馬身差で勝利した。次走のサプリングS(D6F)では、アーキャロ騎手を鞍上に出走した。ところが本馬はスタートで致命的な出遅れを犯してしまい、それでもゴール前では猛然と追い上げてきたが、古馬になってメトロポリタンHを勝利するドーバーS・ニュージャージースタリオンSの勝ち馬ケースメイトの1馬身差2着に敗れてしまった。次走のモンマスパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走では、ドッドソン騎手を鞍上に、2着ジャージークイーンに1馬身差で勝利。そしてドッドソン騎手と三度コンビを組んで出たワールズプレイグラウンドS(D6F)では、馬なりのまま走り、ニュージャージースタリオンS2着馬アテンションマークを5馬身差の2着に、後のガーデンステートSの勝ち馬コーンウォールを3着に破って圧勝した。

9月のバビロンH(D6F)からは、アーキャロ騎手が主戦に固定された。このレースでは125ポンドという2歳馬としては過酷な斤量が課せられたが、20ポンドのハンデを与えた牝馬ミスディグリーを2馬身差の2着に、グレートアメリカンSの勝ち馬でユースフルS・ジュヴェナイルS・トレモントS・ホープフルS2着のネイビーチーフを3着に破って勝利した。さらに翌週に出たカウディンS(D6.5F)では、イーストビューSの勝ち馬セレクターを2馬身半差の2着に、グランドユニオンホテルSの勝ち馬でサラトガスペシャルS2着のスレイマンを3着に破って快勝。水溜りが出来ているような馬場状態だったにも関わらず、勝ちタイム1分16秒6はコースレコードだった。

2歳時は9月までしか出走しなかったが、7戦6勝2着1回の優秀な成績を収め、ピムリコフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティSなどを制したオイルキャピトルと並んで米最優秀2歳牡馬に選ばれた。ただし、2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)においてトップにランクされたのは、本馬でもオイルキャピトルでもなく、ホープフルSの勝ち馬ミドルグラウンドだった。ミドルグラウンドはテキサス州の大牧場キングランチの生産馬で、“Texas Terror(テキサスの脅威)”の異名をとった強豪馬だった。

競走生活(3歳前半)

3歳時はケンタッキーダービーを目標として、4月にジャマイカ競馬場で行われたエクスペリメンタルフリーHナンバー1(D6F)から始動した。そして2着ステアケースに1馬身1/4差で楽勝した。しかし10日後に出走したエクスペリメンタルフリーHナンバー2(D8.5F)では、スタートで躓く、道中で進路を失うなど散々なレースぶりで走る気をなくしたのか、勝ったフラミンゴS2着馬ロトホワイトから20馬身差の9着に惨敗してしまった。1週間後のウッドメモリアルS(D8.5F)では、初対戦となるミドルグラウンドに加えて、前年の一般競走で本馬の2着に敗れた後にアルバニーHで2着していたファード、後にこの年の米最優秀3歳牝馬に選ばれるデモワゼルS2着馬ネクストムーヴが出走してきた。結果は本馬が2着ミドルグラウンドに2馬身差をつけて勝利した。

そして本馬はケンタッキーダービー(D10F)に向かった。このレースで最も注目を集めていたのは、前哨戦のフォアランナーSでオイルキャピトルやミスタートラブルといった有力馬相手に6馬身半差で圧勝していた、デルマーフューチュリティ・カリフォルニアブリーダーズチャンピオンS・サンフェリペS・サンタアニタダービーの勝ち馬ユアホストだった。他の出走馬は、ブルーグラスSの勝ち馬でユナイテッドステーツホテルS2着・ホープフルS3着のミスタートラブル、ウッドメモリアルS2着後に出走したダービートライアルSでも2着だったミドルグラウンド、この年はエヴァーグレイズS・フラミンゴSを勝ちブルーグラスSで2着してきたオイルキャピトル、ファウンテンオブユースS・ダービートライアルSの勝ち馬ブラックジョージ、シャンペンS・ケンタッキージョッキークラブS・ダービートライアルS3着のサングロウ(名馬ソードダンサーの父)、ロトホワイトなどだった。ユアホストが1番人気に支持され、直前に熱発を起こしていた本馬は2番人気となった。スタートが切られるとオイルキャピトルが先頭を伺ったが、すぐにユアホストが先頭を奪取。それにミスタートラブルが猛然と競りかけて超ハイペースとなり、本馬は馬群の中団後方につけた。自分のペースで逃げられなかったユアホストはやがて失速。その後も粘り続けるミスタートラブルを、好位から追い上げてきたミドルグラウンドが直線でかわして先頭に立った。一方の本馬は直線で進路が塞がる不利があり、ようやく馬群を抜け出して追い上げてきたが届かず、ミドルグラウンドの1馬身1/4差2着に敗れた。この敗戦が本馬の所有者チェネリー氏にとってケンタッキーダービーにおけるケチのつき始めとなり、彼が遂にケンタッキーダービー初制覇の悲願を果たしたのは、これから22年後のリヴァリッジによるものであり、それは彼の死の前年だった。

その翌週に出走したウィザーズS(D8F)では、早くもミドルグラウンドとのリターンマッチとなった。そしてここでは直線で早めに抜け出して、ミドルグラウンドを1馬身半差の2着に、ウッドメモリアルS3着後にケンタッキーダービーを回避していたファードを3着に破り、1分35秒8のレースレコードタイで快勝した。

さらに翌週のプリークネスS(D9.5F)は僅か6頭立てとなった。うち3頭はこれといった実績が無い馬だったが、残りの3頭は本馬、ミドルグラウンド、ミスタートラブルであり、これほど予想が難しいプリークネスSは1873年の同競走創設以来無かった事だとまで評された。しかし3万人の観衆が詰め掛けたレースの結果は実に呆気なかった。バルカンという馬に競り掛けられたミスタートラブルは直線で失速し、代わりに先頭に立った単勝オッズ1.7倍の1番人気の本馬が、2着ミドルグラウンドに5馬身差をつけて圧勝してしまった。雨のために馬場状態がかなり悪くなっていたのも本馬に味方したようである。

その後はベルモントSに直行せず、プリークネスSから10日後のサバーバンH(D10F)で古馬に挑戦。113ポンドという軽ハンデだった上に、この年のメトロポリタンHを本馬と同じ3歳馬のグリークシップが勝っていたので、陣営は勝算十分と踏んだのだろうか。しかしそんなに甘くは無く、前年のメトロポリタンH・ヴォスバーグH・ディキシーH・ベイショアHを勝っていたルーザーウィーパー、グランドユニオンホテルS・ユナイテッドステーツホテルS・ナショナルスタリオンS・カウディンS・エクスペリメンタルフリーHナンバー1・エクスペリメンタルフリーHナンバー2・ウッドメモリアルS・ドワイヤーS・ニューオーリンズH・エクセルシオールH・エッジメアHなどを勝ちケンタッキーダービーで3着していたマイリクエスト(次走のブルックリンHを勝っている)の2頭の5歳馬に屈して、2着マイリクエストを首差抑えて勝ったルーザーウィーパーから2馬身3/4差の3着に敗退してしまった。しかもこのレース中に本馬は鼻出血を発症していた。

そんな状態で出走した10日後のベルモントS(D12F)では勝負になるわけもなく、早めに先頭に立って押し切ろうとするも失速して、勝ったミドルグラウンドから4馬身差の7着に敗れた。2着にはレムセンH・ピーターパンHの勝ち馬ライツアップが入り、3着がミスタートラブルだった。次走のドワイヤーS(D10F)でも、3馬身ほどのリードを保って先頭で直線に入ってきたが、ここからジャージーS2着・ベルモントS4着のグリークソング(翌月のアーリントンクラシックSを勝っている)に差されて1馬身半差2着に敗退した(3着はライツアップだった)。不調続きのために、陣営は本馬をしばらく休養させることにした。

競走生活(3歳後半)

2か月間の休養を経て、8月のアメリカンダービー(D10F)で復帰した。ここには、ケンタッキーダービー9着後にいったん西海岸に戻ってケントSを勝ち、再び東上してディックウェルズSを勝っていたユアホストも出走してきていた。しかしすっかり疲労が取れていた本馬が、レース中盤からゴールまで“blistering speed(猛烈な速さ)”で駆け抜けて2着オールブルーに1馬身半差で勝利を収め、ユアホストは3着に終わった。次走のジェロームH(D8F)では、ミドルグラウンドに加えて、この年のメトロポリタンHを筆頭にウェイクフィールドS・フラッシュS・メイフラワーS・ルイジアナダービー・モンマスH・チョイスSを勝っていた前出のグリークシップとの対戦となった。しかし本馬がグリークシップを4馬身差の2着に、ネイビーチーフを3着に破り、“sensational run(驚くような走り)”と評された圧勝を決めた。このレースでミドルグラウンドは着外であり、本馬とミドルグラウンドの対戦成績は本馬の4勝2敗となった。

続くジョッキークラブ金杯(D16F)には、サンタアニタH・サンフアンカピストラーノH・フォーティナイナーズH・ゴールデンゲートHと4戦連続で米国三冠馬サイテーションを2着に破っていた現役米国最強古馬ヌーアが西海岸から遠征して出走してきていた。他にも、モンマスオークス・アラバマS・デラウェアH・エンパイアシティ金杯を勝っていたアディルもおり、出走馬5頭の少頭数だったがレベルは高かった。しかしレースではスタートから積極的に先頭を走った本馬が、2着ヌーアに4馬身差、3着アディルにはさらに7馬身差をつけて圧勝した。

すると今度は本馬のほうが今まで主戦場としていた東海岸から西海岸に移動して、ハリウッドパーク競馬場で行われたサンクスギビングデイH(D8.5F)に出走した。ここでは、3度目の対戦となるユアホストに加えて、ケンタッキーダービー・アーリントンクラシックS・ピーターパンS・アメリカンダービー・ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯・サンタアニタマチュリティS・サンアントニオH・アーリントンHを勝ちまくっていた1歳年上の強豪ポンダーも出走してきて、4万人の観衆が詰め掛ける注目レースとなった。レースでも本馬、ポンダー、ユアホストが殆ど並んでゴールインする好勝負となったが、今度はユアホストが写真判定の末に勝利を収め、ポンダーが鼻差2着、スタートで出遅れたロスがあった本馬はポンダーからさらに頭差の3着に敗退した。

次走のハリウッド金杯(D10F)では、ヌーアとの再戦となった。しかし今度は勝ったヌーアに逆に4馬身差をつけられ、2着となったジャージーS・エンパイアシティH・ウエストチェスターHの勝ち馬で前年のプリークネスS2着・ケンタッキーダービー・ベルモントS3着のパレスティニアン(翌年にブルックリンHを勝っている)にも3馬身屈して3着に敗れた。ここでも道中で進路が塞がる不利があり、前走のサンクスギビングデイHと同じく消化不良のレースだった。

続くサンセットH(D9F)では、ウッドメモリアルS4着後にプライオレスS・CCAオークス・デラウェアオークス・ガゼルH・ベルデイムH・レディーズH・シンデレラS・ヴァニティHを勝ちまくっていたネクストムーヴ、デルマーダービー・オークランドH・シネマHの勝ち馬でサンフェリペS2着・サンタアニタダービー3着のグレートサークルとの対戦となった。本馬の斤量は128ポンドで、これは同世代馬ネクストムーヴより14ポンドも重いものだった。しかし後方からネクストムーヴを差し切って3/4馬身差で勝利を収め、3歳シーズンを締めくくった。

この年は15戦8勝の成績を収め、ミドルグラウンドを抑えて米最優秀3歳牡馬に選ばれただけでなく、ヌーアを抑えて米年度代表馬のタイトルをも獲得した。

競走生活(4歳時)

しかし4歳になった本馬は、3歳時の出走過多が祟ったのか、右後脚の砲骨に故障を発生してしまい、次走に予定していたサンタアニタマチュリティSは勿論、シーズン前半を完全に棒に振ることになった。9月になってようやく復帰すると、まずはアケダクト競馬場ダート6ハロンのハンデ競走に出走した。結果はティーメイカーの5馬身半差3着だったが、これは調教代わりの1戦だったようである。また、勝ったティーメイカーは前年のヴォスバーグHの勝ち馬で、他にもオータムデイH・アメリカンレギオンH2回・フリートウイングH・ジャマイカH・ウィルミントンHを勝ち、翌年の米最優秀短距離馬に選ばれるほどの快速馬でもあり、距離適性面でもここでは劣っていた。

しかし9日後のベルモントパーク競馬場ダート8ハロンの一般競走では、2着シェイラスリワードに5馬身差で圧勝。このシェイラスリワードも前年にフリートウイングH・インターボローH・セレクトH・フライングヒールズHを勝って米最優秀短距離馬に選ばれ、この年もクイーンズカウンティH・ベイショアH・ロングブランチHを勝利して2年連続で米最優秀短距離馬に選ばれる快速馬だったのだが、マイル戦で、しかも1戦叩いた本馬の敵ではなかった。

続くニューヨークH(D9F)では128ポンドを背負いながらも、マンハッタンH・ピムリコスペシャル・マサチューセッツH・ホイットニーS・エッジメアHなどを勝っていた実力馬ワンヒッターを5馬身差の2着に下して圧勝した。次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では、この年のベルモントS・ピーターパンH・ローレンスリアライゼーションSの勝ち馬でプリークネスS2着のカウンターポイント、エイコーンS・デラウェアオークス・アラバマS・ガゼルHの勝ち馬でCCAオークス2着・ベルデイムH・レディーズH3着のキスミーケイト(この年の米最優秀3歳牝馬に選出)との顔合わせとなった。レースでは本馬が16ハロンの長丁場を先行してそのまま直線を押し切ろうとしたが、後方から来たカウンターポイントにゴール前で捕まって頭差の2着となり、連覇を逃した(キスミーケイトが3着だった)。次走のエンパイアシティ金杯(D13F)でも、カウンターポイントの1馬身1/4差2着に敗れた。そして次走のトレントンH(D9F)では、コールオーバーの5馬身1/4差4着と完敗した。

4歳時の成績は僅か6戦2勝で、ステークス競走勝ちはニューヨークHのみだったが、それでもニューヨークHの勝ち方が評価されて、ハリウッド金杯・アメリカンHを勝利したサイテーションと並んで、米最優秀ハンデ牡馬に選ばれた。ちなみに米年度代表馬は、米最優秀3歳牡馬ともどもカウンターポイントが受賞している。

競走生活(5歳時)

5歳時には再度西海岸に向かい、新設競走サンマルコスH(D8F)に出走。ここでは、前年のピムリコスペシャル・ウエストチェスターH・アケダクトHの勝ち馬である同厩馬ブリアンジー(後に本馬の姪シケーダの父になる)、前年のワシントンバースデイH・サンフアンカピストラーノ招待H・アーゴノートHを勝っていたビーフリートなどが対戦相手となったが、本馬が2着ブリアンジーに2馬身差で勝利した。しかし1番人気に支持された次走のサンタアニタH(D10F)では129ポンドの斤量も響いたのか、亜国からやって来てタンフォランH・イングルウッドH・サイソンビーHを勝っていた単勝オッズ27倍の伏兵ミッシュの8馬身3/4差5着に敗退(正確にはサンタアニタマチュリティを勝ってきたインテントが1位入線だったが、進路妨害で2着に降着となったためにミッシュが繰り上がった)。この後に今度は右前脚の故障が判明したため、このレースを最後に5歳時2戦1勝の成績で競走馬生活にピリオドを打った。

血統

Princequillo Prince Rose Rose Prince Prince Palatine Persimmon
Lady Lightfoot
Eglantine Perth
Rose de Mai
Indolence Gay Crusader Bayardo
Gay Laura
Barrier Grey Leg
Bar the Way
Cosquilla Papyrus Tracery Rock Sand
Topiary
Miss Matty Marcovil
Simonath
Quick Thought White Eagle Gallinule
Merry Gal
Mindful Minoru
Noble Martha
Hildene Bubbling Over North Star Sunstar Sundridge
Doris
Angelic St. Angelo
Fota
Beaming Beauty Sweep Ben Brush
Pink Domino
Bellisario Hippodrome
Biturica
Fancy Racket Wrack Robert le Diable Ayrshire
Rose Bay
Samphire Isinglass
Chelandry
Ultimate Fancy Ultimus Commando
Running Stream
Idle Fancy Ben Brush
Fair Vision

プリンスキロは当馬の項を参照。種牡馬入り当初は奥手の長距離血統として敬遠されていたが、本馬の活躍などにより人気種牡馬となり大成功を収めた。

母ヒルデネは、現役成績8戦未勝利。競走馬引退後に、本馬の生産者チェネリー氏が600ドルで購入して繁殖入りさせていた。繁殖牝馬としては優秀な成績を収め、本馬の全弟サードブラザー【ローマーH・カムデンH・ボウイH・ロングアイランドH】、1958年の米最優秀2歳牡馬に選ばれた半弟ファーストランディング(父ターントゥ)【グレートアメリカンS・サラトガスペシャルS・ホープフルS・シャンペンS・ガーデンステートS・エヴァーグレイズS・サンタアニタマチュリティ・モンマスH】と活躍馬を次々に産んだ。本馬が米年度代表馬に選ばれた1950年には、ケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選ばれている。ヒルデネはメドウステーブルの設立初期時からいた馬の1頭であり、ヒルデネがいなければメドウステーブルの繁栄もなく、メドウステーブル産馬であるリヴァリッジセクレタリアトもこの世に生まれなかった事になる。

また、本馬の半妹ファーストフラッシュ(父フラッシング)はかなり牝系を発展させており、その子にはボールドエクスペリエンス【ソロリティS】、孫にはアッパーケース【フロリダダービー・ウッドメモリアルS】、曾孫にはクルセイダーソード【ホープフルS(米GⅠ)】、チェロキーコロニー【フラミンゴS(米GⅠ)】、プティットイル【愛セントレジャー(愛GⅠ)】、タークパサー【ターフクラシック招待S(米GⅠ)】、牝系子孫には2004年のエクリプス賞最優秀短距離馬スパイツタウン【BCスプリント(米GⅠ)】、マニバーヴァン【スピナウェイS(米GⅠ)】などがいる。また、本馬の半妹サツマ(父ボスエット)の娘には米国顕彰馬となった名牝シケーダ【ケンタッキーオークス・エイコーンS・マザーグースS・スカイラヴィルS・スピナウェイS・アスタリタS・メイトロンS・フリゼットS・ベルデイムS・ディスタフH・ヴェイグランシーH・シープスヘッドベイH】がいる。サツマの玄孫には、アストラ【ゲイムリーS(米GⅠ)2回・ビヴァリーヒルズH(米GⅠ)2回】、日本で種牡馬として活躍したヤマニンスキーなどもいる。→牝系:F9号族③

母父バブリングオーヴァーはアイドルアワーストックファーム産馬で、現役成績は13戦10勝。ケンタッキーダービー・シャンペンS・ブルーグラスSの勝ち馬だが、ケンタッキーダービーのレース前から視力が低下しており(その後に完全に失明)、生涯最高の勝利を最後に、底を見せないまま引退してしまった。種牡馬としてもケンタッキーダービー・プリークネスSの勝ち馬バーグーキングを出したが、むしろ母父としての活躍のほうが顕著である。なお、ヒルデネも晩年は完全に失明したらしく、それはバブリングオーヴァーからの遺伝ではないかと言われている。バブリングオーヴァーの父ノーススターはブルーラークスパーの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、引退年の1952年から米国ケンタッキー州クレイボーンファームで種牡馬入りした。種牡馬としても23頭のステークスウイナーを出して一定の成功を収めたが、活躍馬に牝馬が多かった影響で、直系は長く続かず、曾孫の代で途絶えた。しかし牝馬の活躍馬が多いという事は、すなわち繁殖牝馬の父として優秀という事で、ダークミラージュシュヴィースルーオゴールド、コースタル、スルーオダイナなど母系に本馬の名が出てくる名馬は少なくない。1969年に種牡馬を引退した後は生まれ故郷のメドウファームスタッドに戻り、翌1970年に心臓発作のため23歳で他界した。遺体は同じくヴァージニア州でその生涯を閉じた20世紀前半の名馬サンボウの隣に埋葬されたという。1991年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第75位。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1953

Levee

CCAオークス・セリマS・モンマスオークス・ベルデイムH

1953

Riley

ドワイヤーS・ローレンスリアライゼーションS

1954

Bayou

エイコーンS・ガゼルH・マスケットH

1954

Lebkuchen

セリマS

1955

Royal Living

サンフアンカピストラーノ招待H

1956

Fiji

アルキビアデスS

1956

Merry Hill

フリゼットS

1956

Middle Brother

バーナードバルークH・ディスカヴァリーH・ローレンスリアライゼーションH

1956

Toluene

ブラックアイドスーザンS

1957

Salt Lake

プライオレスS

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