オーランド

和名:オーランド

英名:Orlando

1841年生

鹿毛

父:タッチストン

母:ヴァルチャー

母父:ランガー

替え玉事件による繰り上がりの英ダービー馬だが3度の英首位種牡馬になるなど種牡馬として大成功し直系を21世紀まで残す

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績11戦9勝2着1回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

英国の軍人・政治家だったジョナサン・ピール大佐により生産・所有された。ピール大佐は英国首相も務めたロバート・ピール卿(パトロール警官の制度を考案した人物として知られる)の弟で、英国ミドルセックス州マーブルヒルパラディアン邸宅において馬産も行っており、1845年の英首位種牡馬スレインなども所有していた。本馬は見栄えが良い美しい馬で、胸の筋肉が発達しており、脚(特に前脚)は短めで、現代風に言えば短距離馬の体型をしていた。

競走生活(3歳初期まで)

2歳時にアスコット競馬場で行われたプロデュースSでデビューした。スタートする前に、本馬に騎乗していたエルネイサン・フラットマン騎手は、後にウエットナースという名前を付けられる牝馬に騎乗していたジョン・デイ・ジュニア騎手に対して「お前の馬では勝ち目は無い」と言い放ったが、油断があったのかウエットナースに頭差敗れるという失態を犯したとされる。もっともフラットマン騎手は1840年から13年連続で英首位騎手になった名手であり、墓碑には「正直で真面目で控えめで質素だった」と書かれており、この逸話の信憑性は疑問である。次走のジュライS(T6F)では他6頭を蹴散らして勝利し、その翌日に出走した牝馬リテイナーとの200ソヴリンマッチレースでは2馬身差で勝利した。さらにグッドウッド競馬場に向かってハムSに出走し、ウエットナースを2着に下して勝利した。さらにグッドウッド競馬場で行われた3頭立てのスウィープSを勝利したところで2歳戦を終えた。このスウィープSにはレアンデルという馬も出走しており、この馬は翌年の英ダービーのレース中に故障して命を落としているのだが、その後に実は4歳馬(6歳以上だったという説もある)だった事が判明しており、この時点では3歳馬だった。本馬は2歳の時点で3歳馬に勝利していた事になる。2歳時の成績は5戦4勝だった。

3歳時はニューマーケット競馬場で行われた3頭立てのリドルスワースSから始動して勝利。続いて300ソヴリンスウィープSを勝ち、さらに200ソヴリンスウィープSを単走で勝利した。

英ダービー;繰り上がりによる勝利

デビュー戦以外無敗の本馬の次走は英ダービー(T12F)となった。29頭立てのこのレースで、フラットマン騎手鞍上の本馬は、先頭入線したランニングレインから3/4馬身差遅れて2位に入線した。ところがこの先頭入線した馬は実はランニングレインではなく既に死亡したはずの4歳馬のマカベアスではないかという疑惑が浮上した。ウッド氏という人物の所有馬であったランニングレインが前年に2歳戦を走って勝った際にも、敗れた馬の所有者であった第6代ラトランド公爵チャールズ・マナーズ卿や、英国の政治家で有力馬主でもあったロード・ジョージ・ベンティンク卿は、ランニングレインの外観からマカベアスではないかと疑って異議を申し立てたが、ランニングレインの担当厩務員であった少年が「この馬は間違いなくランニングレインです」と誓ったために、詳しい調査は行われなかった。英ダービーの施行前にもベンティンク卿は不正の証拠を集めていたのだが、結局レースはそのまま行われてしまった。

レース後、この疑惑はピール大佐とウッド氏との間で訴訟に発展し、この裁判でベンティンク卿はピール大佐を支援するべく既に集めていた証拠を提出したが、裁判官はそれらの証拠だけでは不十分だとしてランニングレインの馬体を調査する事を要求した。しかしランニングレインは姿を消してしまっており、調査は出来なかった。結局ウッド氏もそのまま身を引いてしまい、ランニングレインの担当厩務員であった少年の証言はウッド氏が少年に金銭を支払った事による偽証である事などが判明し、ランニングレインはやはりマカベアスであった事が確定的になったため、マカベアスは失格となり、2位入線の本馬が繰り上がって勝利馬となった。また、この英ダービーで故障して予後不良になったレアンデルも前述のとおり4歳馬だった事が判明した。また、この英ダービーでは1番人気馬と2番人気馬がいずれも騎手の八百長で敗れたとする資料もあるらしいが詳細は不明である。いずれにしても当時の英国競馬界は不正行為が横行していたのは間違いないようで、この事件はその最も有名な例である。この事件を担当した裁判官はピール大佐やベンティンク卿に対して「威張っている紳士が悪党と一緒に競走するというのは、騙される事を期待して威張っているようなものだ」と皮肉交じりに述べたとされる。

競走生活(英ダービー以降)

繰り上がり英ダービー馬となった本馬はアスコット競馬場に向かいディナーSに出走したが、唯一の対戦相手として予定されていた馬の陣営が罰金を払って回避したため単走で勝利した。3歳時はこのレースで終了し、この年の成績は5戦全勝となった。

4歳時は一度も走らなかった。5歳時にはロシア皇帝プレート(T20F・現アスコット金杯)に出走予定だったが、発走前に騎手を振り落として放馬してしまった。なんとか捕獲されて騎手が再騎乗したものの、本馬は負傷していた。それでもレースには出走したが、アラームの着外に敗れてそのまま競走馬を引退した。

馬名はシェイクスピアの喜劇「お気に召すまま」の登場人物オーランド(主人公ロザリンドの恋人)に由来するようで、父タッチストンも同様に「お気に召すまま」の登場人物(ロザリンドの従者である道化)である事からの連想である。

血統

Touchstone Camel Whalebone Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Selim Mare Selim Buzzard
Alexander Mare
Maiden Sir Peter Teazle
Phoenomenon Mare 
Banter Master Henry Orville Beningbrough
Evelina
Miss Sophia Stamford
Sophia
Boadicea Alexander Eclipse
Grecian Princess
Brunette Amaranthus
Mayfly
Vulture Langar Selim Buzzard Woodpecker
Misfortune
Alexander Mare Alexander
Highflyer Mare
Walton Mare Walton Sir Peter Teazle
Arethusa
Young Giantess Diomed
Giantess
Kite Bustard Castrel Buzzard
Alexander Mare
Miss Hap Shuttle
Sister to Haphazard
Olympia Sir Oliver Sir Peter Teazle
Fanny
Scotilla Anvil
Scota

タッチストンは当馬の項を参照。

母ヴァルチャーは優秀なスピードを有していた馬だったが、英セントレジャーでは距離が長かったらしく、同じランガー産駒の牡馬エリス(前出のベンティンク卿の所有馬で、ドンカスター競馬場に来場する際に世界史上初めて馬運車に乗ったことで有名)に敗れた。この敗戦の後にピール大佐に購入されて繁殖入りした。本馬が乳離れした直後に他馬に蹴られたか何かで負傷したようで、間もなく他界している。ヴァルチャーの半姉レディムーアカリュー(父トランプ)の子にはメンディカント【英1000ギニー・英オークス】がおり、メンディカントの息子にはビーズマン【英ダービー】、曾孫には名牝ショットオーヴァー【英2000ギニー・英ダービー】がいる。

ショットオーヴァーの近親や牝系子孫にはとてもここには挙げ切れないほどの活躍馬がいるが、それはショットオーヴァーの項に譲るとしてここでは省略し、それ以外のレディムーアカリューの牝系子孫の主な活躍馬を列挙すると、メンディカントの半姉レディメアリーの牝系子孫であるフィテラリ【仏2000ギニー・パリ大賞・ロワイヤルオーク賞】、メンディカントの半姉ジプシークイーンの牝系子孫であるリトルダック【仏ダービー・パリ大賞】、メンディカントの半姉レディサラの牝系子孫であるジョージフレデリック【英ダービー】、グレイラグ【ベルモントS・ブルックリンH・ドワイヤーS・メトロポリタンH・サバーバンH】、トラックロバリー【ヴァニティ招待H(米GⅠ)・アップルブロッサムH(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】、パレスミュージック【英チャンピオンS(英GⅠ)・ジョンヘンリーH(米GⅠ)】、エルナンド【リュパン賞(仏GⅠ)・仏ダービー(仏GⅠ)】、コロニアルアッフェアー【ベルモントS(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)】、キャットシーフ【BCクラシック(米GⅠ)・スワップスS(米GⅠ)】、日本で走ったトミシノポルンガ【ダービーグランプリ】といったところである。

ヴァルチャーの半妹ランカシャーウィッチ(父トムボーイ)【英シャンペンS】の牝系子孫も発展しており、ロビンソンクルーソー【豪シャンペンS・AJCサイアーズプロデュースS・AJCダービー・AJCプレート・マッキノンS】、アモンラー【AJCサイアーズプロデュースS・コーフィールドギニー・AJCダービー・ローソンS・豪フューチュリティS・チッピングノートンS】、サイレントウィットネス【スプリンターズS(日GⅠ)・香港スプリント(香GⅠ)2回】、ソーユーシンク【コックスプレート(豪GⅠ)2回・アンダーウッドS(豪GⅠ)・ヤルンバS(豪GⅠ)・マッキノンS(豪GⅠ)・タタソールズ金杯(愛GⅠ)2回・エクリプスS(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)・プリンスオブウェールズS(英GⅠ)】、日本で走ったマーチス【皐月賞・阪神三歳S】、ナスノカオリ【桜花賞】、ナスノチグサ【優駿牝馬】、ラフォンテース【阪神三歳S】、マーベラスクラウン【ジャパンC(GⅠ)】などが出ている。

また、ヴァルチャーの半妹メイドオブモナ(父トリーボーイ)の子にはマドモワゼルドシャンティ【仏オークス・アンペルール大賞】、孫にはノヴァトゥール【仏2000ギニー】などがいるが、この牝系子孫は発展しなかった。→牝系:F13号族②

母父ランガーは現役時代15勝を挙げている。遡るとセリム、バザード、ウッドペッカーを経てヘロドへと行きつく血統。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ピール氏所有のもとで種牡馬入りした。1851年8月には、ピール氏と共に馬産に携わっておりベンティンク卿とも親交があった作家チャールズ・グレヴィル氏の所有馬となった。ピール氏とグレヴィル氏は1849年に入手した牧場を大改修して英国王室所有のハンプトンコートスタッドとして生まれ変わらせていた。本馬は繰り上がりの英ダービー馬ということで当初の種牡馬人気は低く種牡馬成績も不振であったが、一新されたハンプトンコートスタッドに繋養されるようになると、新生ハンプトンコートスタッドの中心的種牡馬として大きな成功を収めた。英国クラシック競走の勝ち馬を4頭出して、1851・54・58年の英首位種牡馬に輝き、それ以外でも2位と3位が合計7回という好成績を挙げた。本馬の産駒は352頭おり、合計で797勝を挙げている。

本馬の産駒は仕上がり早く優秀なスピードを有しており、本馬の種牡馬としての成功は競馬がスタミナ重視からスピード重視に移行するきっかけの一つとされている。逆にスタミナは不足しており、長距離を克服できた産駒は少数派だった。本馬は若年の頃から見栄えが良い美しい馬として知られていたが、それは歳をとっても変わらず、見る者を夢中にさせたという。1868年にハンプトンコートスタッドにおいて27歳で他界した。本馬は後継種牡馬にも恵まれ、トランペッターや米国に輸出されたエクリプスⅡ、豪州に輸出されたボアイルド等が優秀馬を輩出した。エクリプスⅡ産駒のアラームからヒムヤーが出て、21世紀まで本馬の直系を繋いでいる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1848

Ariosto

トライアルS

1848

Teddington

英ダービー・アスコット金杯・ドンカスターC・モールコームS

1851

Marsyas

ジュライS

1852

Chalice

ロイヤルハントC

1853

Fazzoletto

英2000ギニー

1853

Melissa

パークヒルS

1853

Spindle

ジュライS・トライアルS

1854

Imperieuse

英1000ギニー・英セントレジャー

1854

Zuyder Zee

クレイヴンS

1855

Fitz-Roland

英2000ギニー・セントジェームズパレスS

1855

Gin

ジュライS

1856

Cantine

コロネーションS・ナッソーS

1857

Crater

ロイヤルハントC

1857

Provision

ナッソーS

1858

Canary

ロイヤルハントC

1858

Diophantus

英2000ギニー・モールコームS

1859

Imperatrice

パークヒルS

1859

Pizarro

トライアルS

1862

Liddington

ニューS・ジュライS

1867

Temple

ニューS

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