キングストンタウン

和名:キングストンタウン

英名:Kingston Town

1976年生

青毛

父:ブレッチングリー

母:アダハンター

母父:アンドレアマンテナ

史上唯一のコックスプレート3連覇を達成し、豪州競馬史上初の100万ドルホースとなった初代豪州顕彰馬の1頭

競走成績:2~6歳時に豪で走り通算成績41戦30勝2着5回3着2回

1980年代豪州最強馬と讃えられた名馬で、“The King”の愛称で親しまれた。

誕生からデビュー前まで

豪州キングストンパークスタッドにおいて、デヴィッド・ヘインズ氏により生産された。豪州の一流事業家だったヘインズ氏は、退職後に趣味のゴルフに興じているときに、豪州の伝説的名ゴルファーだったノーマン・フォン・ニーダ氏と意気投合した。そして馬産家でもあったニーダ氏が所有していたアダハンターという繁殖牝馬を購入して本馬を誕生させた。

本馬はかなり神経質な気性の持ち主だったようで、1歳時にキングストンパークスタッドにおいてセリ出品前の馴致を受けていた際に、突然縄を振りほどくと放馬して柵に激突して顔面を負傷してしまった。その後現れたポニーの姿を見て驚き、柵を飛び越えてキングストンパークスタッドに戻ってきたために捕獲されたが、顔面の傷跡は生涯治らなかった。

1歳時にヴィクトリアンセールに出品されたが、誰の興味も惹くことは無く、最低競売価格の8千ドルに到達しなかったために主取りになった。そのためヘインズ氏は権利の半分をG・モンスボロー夫妻に売却して、自身の妻も含めた4名の共同所有馬として、豪州競馬史上に名を残す名伯楽トミー・J・スミス調教師に本馬を預けた。しかし相変わらず気性には問題があり、「壁に攀じ登る」と評されたほどだった。また、母アダハンターから遺伝したと思われる脚の湾曲があり、常に脚部不安に悩まされた。

競走生活(3歳前半まで)

2歳3月にカンタベリー競馬場で行われたアルファルファH(T1200m)で、主戦となるマルコム・ジョンストン騎手を鞍上にデビューしたが、スタートで出遅れた挙句に道中も後退するばかりで、13頭立ての殿負けを喫した。この結果を受けて、陣営は気性改善のために本馬を去勢した。

短い休養を経て復帰すると、強烈な差し脚を武器に快進撃を始める。復帰初戦となった6月のラウンドテーブルH(T1200m)では単勝オッズ34倍(101倍とする資料もある)の人気薄を覆して、中団から力強く伸びて2着ジャストサンデーに2馬身半差で勝利を収め、2歳時の成績は2戦1勝となった。

翌月のサーアイヴァーH(T1200m)では一転して1番人気に支持され、後にGⅠ競走ストラドブロークHを勝つベンボカヨットを頭差の2着に抑えて勝利した。次走のコミッショネールH(T1200m)も勝って3連勝。ピーターパンS(GⅡ・T1500m)では残り100mで先頭に立つと、1分30秒6のコースレコードを樹立し、同厩のスピアを2着に従えて3馬身1/4差で快勝した。さらにグローミングH(GⅡ・T1850m)も直線で鮮やかに差し切って、ショーグンやアウトカム以下に楽勝した。

次走はシドニー春季三冠競走の最終戦スプリングチャンピオンS(GⅠ・T2000m)となった。このレースでは本馬と同厩のマイティキングダムの方が前評判は高く、おそらく本馬の連勝は止まるだろうと予想されていたが、大外から豪快に差し切って2着マイティキングダムや3着ヤングショーンに5馬身差をつけて圧勝した。

その後は主戦場としていたシドニーからメルボルンに向かい、コーフィールド競馬場で行われたコーフィールドギニー(GⅠ・T1600m)に出走した。しかし不得手な重馬場になった影響もあったのか、ボールドディプロマット、ラナウェイキッドの2頭に遅れを取って3着に敗退した(1位入線はボールドディプロマットだったが2着降着のためラナウェイキッドが繰り上がり勝利)。

その後はコックスプレートかコーフィールドCのいずれかに出走することになり、陣営はコーフィールドC(GⅠ・T2400m)を選択した。しかし手前替えに手間取ってしまい、マイティキングダムの4着に終わった(コックスプレートはダルシファイが7馬身差のレコードタイムで圧勝しており、本馬が出走しても勝てたかどうかは定かではない)。

フレミントン競馬場で行われた次走のヴィクトリアダービー(GⅠ・T2400m)では、ジョンストン騎手が1番人気のマイティキングダムに騎乗したため、2番人気の本馬にはロイ・ヒギンズ騎手が騎乗した。レースでは中団待機策から残り800mで仕掛けたが、前走と同様に手前替えがスムーズにいかず、逃げ粘ったビッグプリントに鼻差届かず2着に敗れた(3馬身半差の3着にラナウェイキッドが入り、マイティキングダムは4着だった)、この3連敗をいずれも実況したビル・コリンズ氏は「彼はまるで酔っ払いのようによろめいていた」と評している。コーフィールド競馬場もフレミントン競馬場も左回りの競馬場だった(シドニーの競馬場は右回りだが、メルボルンの競馬場は左回り)だったため、本馬は左回りが苦手なのではと言われた。さらにレース後に前脚の故障が判明したため、その後はしばらく休養に入った。この休養中に耳にいぼが出来たため、除去手術が行われた。

競走生活(3歳後半)

翌年2月に地元シドニーのランドウィック競馬場で行われたエクスプレスウェイS(GⅡ・T1200m)で復帰した。後方追走から直線を6番手で向くと、楽々と先行馬勢を抜き去って、2着レディマニナに1馬身半差で勝利した。次走のヘリテージS(T1500m)でも、残り200mで先頭に立って2着モールトンに2馬身半差をつけて楽勝した。

その後はシドニー秋季三冠競走に向かったが、前脚の不安が再発したために、三冠第1戦のカンタベリーギニーは回避となり、第2戦のローズヒルギニー(GⅠ・T2000m)に直行した。レースでは先行争いを演じるローマンウォリアーとナイツアフェアーの2頭の内側から抜け出し、2着ポロプレイヤーに4馬身差をつけて完勝した。

翌週には古馬相手のタンクレッドS(GⅠ・T2400m)に出走して1番人気に支持された。道中は4番手を追走し、残り250mで逃げるダブルセンチュリーをかわして先頭に立つと、最後はダブルセンチュリーを4馬身半差の2着に、メルボルンC・マッキノンSの勝ち馬ゴールドアンドブラックを3着に破って快勝した。

その翌週にはシドニー秋季三冠競走最終戦のAJCダービー(GⅠ・T2400m)に出走して、単勝オッズ5.5倍の1番人気に支持された。レースではポロプレイヤーが逃げを打ち、本馬は好位を追走。そして直線でポロプレイヤーを抜き去ると、そのまま2着ミスターインディペンデントに3馬身1/4差をつけて快勝した。

AJCダービーの勝ち馬はこの時点で休養入りする事が多いのだが、本馬はそれから5日後のシドニーC(GⅠ・T3200m)にも参戦してきた。過密日程、初の超長距離、古馬相手、出走17頭中の大外枠と不利な条件が重なっていた。レースでは下手に後方に下げると行き場を失う恐れがあったためか、珍しく先行して5番手を追走。そして直線で前を行くダブルセンチュリー以下を抜き去り、2着ダブルセンチュリーに3馬身1/4差をつけて完勝した。これで通称“オータム・カーニバル”と呼ばれるシドニーの秋競馬において4週連続でGⅠ競走制覇を成し遂げたことになり、豪州の歴史的名馬タラックと比較する声も出始めていた。しかしシドニーだけでなくメルボルンでも活躍しなければ、タラックの領域には達しないという意見もあった。

その後は北上してブリズベンのイーグルファーム競馬場に向かい、グランプリS(GⅡ・T2200m)に出走した。本馬を恐れた他馬陣営の回避が多かったためか、対戦相手は僅か2頭だけだった。レースはスターダイナスティが逃げてレッドキルトと本馬がそれを追走。残り300m地点でレッドキルトがスターダイナスティに並びかけたが、本馬が馬なりのまま前の2頭を抜き去り、2着レッドキルトに2馬身3/4差をつけて楽勝した。次走のクイーンズランドダービー(GⅠ・T2400m)でも対戦相手は僅か4頭だった。レースでは先行するプリンスルーリングを残り300mで抜き去ると、2着レッドキルトに2馬身1/4差で勝利した。

しかしレース後の本馬は疲労が激しく、その後のブリズベンCは回避してそのまま休養入りした。しかし79/80年シーズンは16戦13勝の成績を残し、豪州年度代表馬に選出された。

競走生活(4歳時)

翌80/81シーズンは8月末のウォーウィックS(GⅡ・T1400m)から始動し、1分23秒2のレースレコードを樹立して、2着ブロックバスターに1馬身差で勝利した。翌月のチェルムスフォードS(T1800m)では、逃げるミングダイナスティを残り200mで抜き去ると瞬く間に差を広げて、最後は2着ミングダイナスティに5馬身差をつけて圧勝した。さらにSTCカップ(GⅢ・T2400m)では、前走チェルムスフォードSで2・3着だったミングダイナスティとアーガイルモルガンをやはり残り200mでかわすと、追い上げてきた2着オーバージオーシャンに2馬身差をつけて勝利した。

その後はメルボルンに向かい、コーフィールドS(GⅠ・T2000m)に出走した。メルボルンでは過去に3戦全敗であり、前述したように本馬は左回りの競馬場を苦手とするのではないかと言われていた。レースでは直線で前年のメルボルンC勝ち馬ハイペルノとの一騎打ちとなったが、外側によれて首差2着に敗れ、前シーズンからの連勝は11で止まってしまった。翌週にはコーフィールドC(GⅠ・T2400m)に出走。前年の出走時は48.5kgの斤量だったが、この年は60kgが課された。レースでも、3年ぶりの同競走勝利を飾ったミングダイナスティから1馬身1/4差、2着ハイペルノから首差の3着に終わった。これで本馬はメルボルンにおける出走では5戦全敗となってしまい、左回りを不得手とするという評価が確立されてしまった。

それでも陣営は本馬の次走にメルボルンのムーニーバレー競馬場で行われるコックスプレート(GⅠ・T2050m)を選択した。ムーニーバレー競馬場も左回りであり、しかもかまぼこ型のコース形態をしているためコーフィールド競馬場やフレミントン競馬場よりもコーナーが急であり、不安視する声がかなり大きかった。しかし本馬はシドニーにおける調教でも、不思議と小回りの急カーブでは左回りでもバランスを保って走っていたため、陣営は今回こそ本馬の能力を発揮できると確信していたようである。対戦相手は、プリンスルーリング、マールボロC・トゥーラックHとGⅠ競走を連勝してきたトーベック、コーフィールドギニー・ヴィクトリアダービーを勝つソヴリンレッド、後のAJCダービー馬アワパディーボーイ、3年前の覇者でもある古豪ファミリーオブマン、新国から来た名牝ヤアティズなどだった。レースではトーベックがアワパディーボーイやプリンスルーリングを引き連れて逃げ、ソヴリンレッド、ファミリーオブマン、本馬、ヤアティズがそれに続いた。残り600m地点でアワパディーボーイが先頭に立ち、プリンスルーリング、ヤアティズ、本馬がそれを追撃した。しかし本馬は今まで左回りで苦戦していたのが嘘のように素晴らしい伸び脚を見せ、直線入り口3番手から瞬く間に他馬を置き去りにすると、2着プリンスルーリングに5馬身差をつけて圧勝した。

このメルボルンにおける初勝利により、10日後のメルボルンCの大本命となったが、前脚の靭帯を損傷していることが判明し、そのまま長期休養に入った。怪我の回復は長引き、80/81シーズンの出走はコックスプレートが最後となった。このシーズンの成績は6戦4勝だった。

競走生活(5歳時)

翌81/82シーズンは、8月に地元ローズヒル競馬場で行われたプレミエールS(GⅢ・T1200m)で復帰した。道中は5番手を追走し、プリンスルーリングと一緒に上がっていき、モアミンクをかわして先頭に立った。その後は馬なりのままプリンスルーリングを競り落とし、ゴール前で盛り返してきたモアミンクを2着に抑えて勝利した。次走のウォーウィックS(GⅡ・T1400m)では、プリンスルーリングに加えて、AJCダービー・マッキノンS勝ちの強豪ベルムララッドとの対戦となったが、本馬が単勝オッズ4.5倍の1番人気に支持された。本馬はスローペースを中団で追走し、直線ではベルムララッドとの一騎打ちとなった。残り100m地点でベルムララッドがいったん前に出たが、本馬が悠々と差し返して半馬身差で勝利した。次走のチェルムスフォードS(GⅡ・T1800m)でも、残り200m地点で先頭に立ち、ベルムララッドを1馬身3/4差の2着に退けて勝利した。

次走のSTCカップ(GⅡ・T2400m)では、豪州競馬史上初となる獲得賞金総額100万ドル到達が懸かっていた。レースでは4番手追走から楽々と先行馬をかわすと、逃げ粘った2着ロードワーデンに4馬身差をつけて快勝。ここに豪州競馬史上初の100万ドルホースが誕生した。

前走から距離が3分の2になったジョージメインS(GⅠ・T1600m)でも、残り250mで先頭に立つと、1分34秒3のレースレコードを樹立して、2着アーボガストに2馬身3/4差で勝利した。

そしてメルボルンに向かい、コーフィールドS(GⅠ・T2000m)に参戦した。対戦相手は、ハイペルノ、ソヴリンレッド、ドンカスターマイルの勝ち馬ロウマン、3年前のメルボルンCの勝ち馬アルウォンなどだった。レースではロウマンとアルウォンが先手を取ったが、本馬鞍上のジョンストン騎手は手前替えに手間取って仕掛けが遅れる事を懸念したのか、珍しく3番手追走という積極策を採った。そのうち後方にいたソヴリンレッドが仕掛けて本馬に並びかけてきたが、ゴール前でもう一伸びした本馬がソヴリンレッドを1馬身半差の2着に、ハイペルノを3着に抑えて勝ち、5戦目にして初めてコーフィールド競馬場における勝利を挙げた。

次走のコックスプレート(GⅠ・T2050m)では連覇に向けて何の障害も無いように思えたが、直前に主戦のジョンストン騎手が騎乗停止になったため、ロン・クィントン騎手に乗り代わるという事態が発生した。ここではソヴリンレッド、プリンスルーリング、ベルムララッド、ロウマンなどお馴染みのメンバーに加えて、コーフィールドギニーを勝ってきたビンビンガ、ローズヒルギニーで牡馬を蹴散らして勝った牝馬デックザホールズ、コーフィールドCを勝ってきたシルバーバウンティ、後のアンダーウッドS勝ち馬フィアレスプライドなどが対戦相手となった。レースでは直線でロウマンがビンビンガをかわして先頭に立ち逃げ込みを図ったが、外側から強襲してきた本馬がロウマンを3/4馬身かわして2連覇を達成した。

次走はヴィクトリアダービー以来2度目のフレミントン競馬場登場となったマッキノンS(GⅠ・T2000m)となった。しかしコーフィールド競馬場は克服できた本馬もフレミントン競馬場は相変わらず不得手だったようで、3着ノーピアーを鼻差抑え込むのが精一杯で、前年の覇者ベルムララッドの1馬身半差2着に敗れた。しかも長年悩まされてきた脚部不安が再発したため、次走に予定されていたメルボルンC(GⅠ・T3200m)への出走は危うくなった。獣医の検査を受けた結果、一応出走には漕ぎ着けたものの、レース中盤で既に失速してしまい、ジャストアダッシュの20着と大惨敗を喫してしまった。

その後は休養に入り、年明け1月に調教に復帰したが、2月に脚部不安が再発したため、結局81/82シーズンはメルボルンCが最後のレースとなった。このシーズンの成績は9戦7勝だった。

競走生活(6歳時)

翌82/83シーズンは、8月のウォーウィックS(GⅡ・T1400m)で復帰した。2番手追走から抜け出すとレアフォームの追撃を3/4馬身抑えて、同競走3連覇で復帰戦を飾った。しかし次走のチェルムスフォードS(GⅡ・T1800m)では、逃げて失速したポートカーリングに進路を塞がれてしまい、レアフォームの4着に敗退。同競走の3連覇が成らなかっただけでなく、地元シドニーで敗戦を喫したのはデビュー戦以来であり、シドニーにおける連勝記録は21で止まった。

雪辱を期して出走した次走のヒルS(GⅡ・T1750m)では、対戦相手はレアフォーム、コサックプリンス、フェアリーゴッドの3頭だけと少頭数であり、前走のような不運な敗戦は起こらないはずだった。しかしレースでは先頭に押し出されたところを他馬からの集中マークを受け、馬齢の関係で11kgも斤量が軽かった3歳馬コサックプリンスに差されて頭差の2着に敗れた。

この連敗を受けて、本馬は既に全盛期を過ぎているから引退させるべきだという声も上がり始めた。しかし本馬の状態を一番よく分かっている陣営は、本馬をヒルSから1週間後のジョージメインS(GⅠ・T1600m)に向かわせた。レースでは逃げるノーザンリワードに直線で並びかけると、叩き合いを半馬身差で制し、限界説を封じ込めた。

その後はメルボルンに向かい、コーフィールドS(GⅠ・T2000m)に参戦した。このレースでは騎乗停止中のジョンストン騎手に代わってピーター・クック騎手が騎乗した。レースでは逃げるデブズメイトを残り200mでかわして勝ち、同競走の2連覇を果たした。

その後は3連覇を目指してコックスプレート(GⅠ・T2050m)に参戦。コックスプレートを2連覇した馬は、過去にファーラップ、ヤングアイデア、ボーヴィート、フライト、ハイドロゲン、トビンブロンズの6頭(本馬を含めると7頭)いたが、3連覇を成し遂げた馬は存在せず、同競走を3勝した馬もいなかった(最もコックスプレート3勝に近かったのは1932・34年の勝ち馬チャタムで、1931年にファーラップの2着だった)。本馬の3連覇を阻むべく、コーフィールドギニー・ヴィクトリアダービーの勝ち馬グローヴナー、コーフィールドCを勝ってきたガーナーズレーン、アンダーウッドSを勝ってきたフィアレスプライド、後のマッキノンS勝ち馬マイアクスマン、マールボロCの勝ち馬マガリ、ロウマン、ソヴリンレッド、レアフォーム、デブズメイト、ノーピアー、GⅠ競走ローソンSの勝ち馬で前走コーフィールドSの3着馬アレビジューなどが参戦してきた。

レースではフィアレスプライドとデブズメイトが先頭を奪い、本馬は馬群の中団を追走した。仕掛けどころで本馬鞍上のクック騎手が鞭を落としてしまい、これを見た実況のコリンズ氏が思わず「キングストンタウンは勝つことが出来ません」と言ってしまったが、そこから本馬がまるでコリンズ氏の声を聞いて発奮したかのように進出した。残り70m地点でグローヴナーが先頭に立ったが、直線大外一気に伸びてきた本馬が残り30m地点でそれをかわし、最後は半馬身差で勝利した。これで本馬は史上初のコックスプレート3連覇を達成した。コックスプレート3連覇は現在に至るまで本馬以外に達成馬はいない(同一競走3連覇は世界中を見回せば他にも例はあるが、3勝全て騎手が異なるというのは珍しい)。この歴史的勝利は、ムーニーバレー競馬場に詰め掛けた観衆を狂乱の渦に巻き込んだ。フライング実況をしてしまったコリンズ氏はゴール前で「キングストンタウンが王者に返り咲く!キングストンタウンが彼等(他馬)を圧倒する!キングストンタウン!」と言い直したが、時既に遅く、彼の実況は本馬の豪州競馬史上に残る快挙が語られる際には必ず付きまとう、史上に残る迷実況として語り継がれることになってしまった。

続いて前年の雪辱を果たすべくメルボルンC(GⅠ・T3200m)に参戦した。道中は中団を追走し、残り300m地点で先頭に立ったが、後方から来たガーナーズレーンに差されて惜しくも首差の2着。遂にメルボルンCを勝つことは出来なかった。

その後は豪州西海岸のパース市に向かい、まずはウエスタンメールクラシック(GⅠ・T1800m)に出走した。鞍上のジョンストン騎手は西海岸の堅い馬場に慣れされるために、あまり本馬を強く走らせる事はしなかったが、それでも残り100m地点でゲッティングクローサーを競り落として1馬身差で勝利した。しかしこのレース後に脚部不安が悪化してしまい、目標としていたパースCには出走することなくシドニーに戻ってきた。

故障が完治せずに引退

今回の故障は非常に長引き、年が明けて春を過ぎて冬になっても回復の兆しは見えなかった。何とかコックスプレートには間に合わせたいところだったが、結局出走できず、4連覇の夢は絶たれた(本馬不在の同競走は、本馬と入れ代わるように出現した新星ストロベリーロードが勝利している)。

さらに年が明けた1984年2月、本馬は脚の靭帯を治療するために米国に移送された。いったん脚の状態は改善されたため、本馬は名伯楽チャールズ・ウィッティンガム調教師の元で調整されて米国で再出発を切る事になった。ちょうどこの時期の米国芝路線は、9歳にして復活したジョンヘンリーが猛威を振るっており、ジョンヘンリーより1歳半若かった本馬はその対抗馬になり得る器として大きく期待された。しかし競走復帰直前に脚部不安が再発。結局米国では一度も走ることなく、ロサンゼルスオリンピックに参加した乗馬の豪州代表チームと一緒に11月に豪州に戻ってきた。

その後も調教は継続して行われ、翌年9月に地元シドニーのローズヒル競馬場で行われたSTCカップにおけるレース前行進に参加した後、メルボルンに移動して競走馬復帰を目指した。まずはフレミントン競馬場で行われる距離1400mのリンリスゴーSを目標として調整され、2週間前にムーニーバレー競馬場において実施された調教において、馬なりのまま400mを24秒5という素晴らしいタイムで走破して見物人を呆然とさせた。しかしリンリスゴーSの前日に雨が降って馬場状態が悪化したために回避となり、シドニーに戻ってきた。

そして今度はフェスティバルHを目標に調整されていたが、レース1週間前に脚部不安が再発。遂に陣営も現役復帰を断念し、ウエスタンメールクラシック以来3年間にも及ぶ現役復帰計画は終了した。

競走馬としての特徴と評価

本馬は脚の湾曲が原因なのか、本文中に書いたように左回りの競馬場を苦手としており、フレミントン競馬場では4戦全敗、コーフィールド競馬場では6戦2勝だった。ただし、同じ左回りでも小回りは得意だったようで、ムーニーバレー競馬場では3戦全勝だった。

距離適性に関係なく出せるレースにどんどん出す傾向がある豪州競馬ではあるが、1200mから3200mまで幅広い距離でグループ競走を勝っている本馬はかなり距離の融通性がある馬だった。本馬の脚に問題が無く、左回りも普通にこなせていたら、果たしてどのくらいの結果を残していたのかは現在でも議論の的になっている。

血統

Bletchingly Biscay Star Kingdom Stardust Hyperion
Sister Stella
Impromptu Concerto
Thoughtless
Magic Symbol Makarpura Big Game
Cap d'Or
Magic Wonder Newtown Wonder
Conveyor
Coogee Relic War Relic Man o'War
Friar's Carse
Bridal Colors Black Toney
Vaila
Last Judgement Fair Trial Fairway
Lady Juror
Faustina Felstead
Romneya
Ada Hunter Andrea Mantegna Ribot Tenerani Bellini
Tofanella
Romanella El Greco
Barbara Burrini
Angela Rucellai Rockefella Hyperion
Rockfel
Aristareta Niccolo Dell'Arca
Acquaforte
Almah Alycidon Donatello Blenheim
Delleana
Aurora Hyperion
Rose Red
Gradisca Goya Tourbillon
Zariba
Phebe Pharos
La Grelee

父ブレッチングリーは豪州で走り現役成績5戦4勝2着1回。ザギャラクシー2回・ムーンバH・ウィンダラHに勝つなど、短距離路線で活躍した馬だったが、底を見せないまま早期引退した。種牡馬としては距離を問わずに62頭のステークスウイナーを出す大活躍を見せ、79/80、80/81、81/82シーズンと3季連続で豪州首位種牡馬に輝いた(本馬の貢献度が最も大きい)。また、87/88シーズンには豪州2歳首位種牡馬になっている。ブレッチングリーの父ビスケイはスターキングダムの直子で、現役成績は8戦6勝。主に2歳戦で活躍し、デビュータントS・マリバーノンプレート・マーソンクーパーSなどを勝ったが、やはり底を見せないまま引退した。種牡馬としては40頭のステークスウイナーを出して活躍した。

母アダハンターは独国産の不出走馬。スターキングダムの血を引く種牡馬に適合する繁殖牝馬を探していたニーダ氏により豪州に輸入された。ニーダ氏は伊国の天才馬産家フェデリコ・テシオ氏のファンでもあり、アダハンターがテシオ氏の最高傑作リボーの血を受け継いでいた事も輸入の動機になったようである。アダハンターは繁殖牝馬としては本馬以外に9頭の子を産んでおり、そのうち本馬の全兄プライベートソーツ【ファーラップS(豪GⅡ)・クオリティH(豪GⅢ)】がステークスウイナーとなっている。晩年は米国で繁殖生活を送り、シアトルスルーなどの一流種牡馬と交配されたが、活躍馬は出せなかった。アダハンターの母アルマーの半姉には仏オークス馬タヒチがいる。また、アルマーの全姉サマンダの牝系子孫はかなり発展しており、テレプロンプター【バドワイザーミリオン(米GⅠ)】、イブンベイ【イタリア大賞(伊GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)・ベルリン銀行大賞(独GⅠ)・愛セントレジャー(愛GⅠ)】、ロジートターン【ヨークシャーオークス(英GⅠ)】、オウイントン【ジュライC(英GⅠ)】、レッドブルーム【フィリーズマイル(英GⅠ)】、ウィジャボード【英オークス(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)・BCフィリー&メアターフ(米GⅠ)2回・香港ヴァーズ(香GⅠ)・プリンスオブウェールズS(英GⅠ)・ナッソーS(英GⅠ)】、オーストラリア【英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・英国際S(英GⅠ)】、ディックウィッティントン【愛フェニックスS(愛GⅠ)】などの活躍馬が出ている。→牝系:F12号族①

母父アンドレアマンテナはリボーの直子で、現役時代は伊国で走り現役成績9戦7勝、エスターテ賞・ローマヴェッキア賞・ユニール賞・ボスケッティ賞・サルトリオ賞を勝ったが、大競走には縁が無かった。当初は伊国で種牡馬入りしたが、13歳時の1974年に米国に輸入された。伊国では何頭かの活躍馬を出したが、米国では成功できなかった。

競走馬引退後

競走馬を完全に引退した本馬はキングストンパークスタッドに移り住み、数多くの記念行事に参加するなどして多くのファンに囲まれながら余生を送っていた。しかし1990年の暮れ、放牧中に他馬と遊んでいる最中に誤って脚を蹴られて骨折。通常であればその場で安楽死の措置が執られるほどの重傷だったが、これほどの名馬をそう簡単に死なせるわけにはいかず、米国など各国の専門家に意見を求め、隔離治療が実施された。1か月半に及んだ治療はひとまず功を奏し、本馬は再び歩けるまでに回復した。ところが1991年3月、近くにいた他馬を見て興奮したのか怯えたのか、本馬は負傷した脚で壁を蹴り上げてしまい、せっかく治りかけていた脚に致命的な怪我を負ってしまった。今回ばかりは手の施しようがなかったため、すぐに安楽死の措置が執られた。享年14歳。遺体はキングストンパークスタッドに埋葬された。

2001年には、カーバイン、ファーラップ、バーンボロー、タラックと共に豪州競馬の初代顕彰馬に選出された。

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