ストロベリーロード

和名:ストロベリーロード

英名:Strawberry Road

1979年生

鹿毛

父:ウィスキーロード

母:ギフティサ

母父:リッチギフト

豪州でAJCダービーやコックスプレートなど多くの大競走を制覇した後に世界に飛び立ち欧州・米国・日本と世界を駆け巡った国際派ホースの先駆け

競走成績:2~7歳時に豪独仏米日英で走り通算成績45戦17勝2着7回3着7回

誕生からデビュー前まで

豪州ニューサウスウェールズ州でジム・パントス氏とG・ジョーゴプーロス氏の両名により生産・所有された。ニューサウスウェールズ州は豪州最大の都市シドニーがある州なのだが、パントス氏達が本馬を預けたのは、豪州クイーンズランド州ブリスベンに厩舎を構えていたダグ・ボウゴーレ調教師だった。

2歳時に初めてボウゴーレ厩舎に到着した際の本馬は体高が14.2ハンドしかなく、本馬を見たボウゴーレ師はポニーと見間違えるほど小さいと思ったという。それでも時が経つにつれて身体は大きくなり、2歳シーズンが終盤に差し掛かった頃には普通の体格になった。ボウゴーレ師が試みに試走に出してみると、残り200m地点から猛加速して先頭に立つという走り方を見せた。

競走生活(3歳前半まで)

1981/82シーズンの6月にドゥーンベン競馬場で行われたトドマンH(T1200m)でデビューしたが、ライバルプラネットの7馬身半差5着に敗れた。翌月にイーグルファーム競馬場で出走した芝1200mの2歳未勝利戦では、パナマレッドの頭差2着に敗退した。2歳時の成績は2戦未勝利だった。

82/83シーズンに入って間もなくの8月に、イーグルファーム競馬場で行われたクイーンズランド未勝利H(T1400m)に出走した。このレースはクイーンズランド州地区で行われる未勝利戦の中では最も賞金が高いレースだった。レース序盤はふらふらしながら走っていた本馬だったが、残り200m地点から猛加速して、2着チーフメートに1馬身3/4差をつけて勝利した。そのレースぶりから、ボウゴーレ師は未勝利戦を勝ったばかりの本馬の目標を大胆にも8か月後のAJCダービーとする旨を宣言した。

その後はしばらく休養し、翌年1月にイプスウィッチ競馬場で行われたインプローヴァーズH(T1100m)で復帰して、1馬身差で勝利した。引き続きドゥーンベン競馬場で出走したノービスH(T1350m)では4馬身差で圧勝。さらにイーグルファーム競馬場で出走したトランジションH(T1600m)でも2馬身3/4差で勝利した。翌月にイーグルファーム競馬場で出走したグラデュエーションS(T1838m)も2馬身3/4差で勝利した。

その後はシドニーに向かい、ウォーウィックファーム競馬場でホヴァートヴィルS(豪GⅡ・T1400m)に出走した。ここでは逃げ馬を見るように先行したのだが、直線で一気に抜け出したマースケイ(後にGⅠ競走ゴールデンスリッパーを勝つ馬で、さらに豪首位種牡馬に2度輝く名種牡馬となる)に追いつけずに、短頭差2着に敗れて連勝は5で止まった。それでも、GⅠ競走スプリングチャンピオンSを勝っていたヴェローゾ(後にシドニーC・マッキノンSも勝って合計GⅠ競走3勝)は2馬身差の3着に破っており、その能力を示すことは出来た。

競走生活(3歳後半)

翌3月に出走したカンタベリーギニー(豪GⅠ・T1900m)では、スタートから先頭を奪うもゴール直前で失速。ジョージアダムスH・ニュージーランドSと新国のGⅠ競走を2勝していたミスターマクギンティ(後にマクギンティの名前で第3回ジャパンCにも参戦している)、マースケイ、ヴェローゾ、キャマーレ(後にGⅠ競走クイーンエリザベスSを勝利)といった馬達に次々と抜かれて、勝ったミスターマクギンティから2馬身差の6着に敗退した。

翌週に出走したローソンS(豪GⅠ・T2000m)では、前走とは違って後方から追い込んだが、GⅠ競走エプソムHの勝ち馬ダルマシア、新国のGⅠ競走オークランドCの勝ち馬ファウンテンコートの2頭に届かず、勝ったダルマシアから5馬身1/4差、2着ファウンテンコートから首差の3着に敗れた。この頃の本馬は、ボウゴーレ師が目標のAJCダービーを勝つために本馬を大跳びで走らせるよう指示を出すなど、様々な戦法を試していたようである。

さらに翌週に出走したローズヒルギニー(豪GⅠ・T2000m)では、このレースから主戦となったミック・ディットマン騎手とコンビを組んだ。今回はスタートダッシュを効かせて先頭に立ち、ミスターマクギンティ、キャマーレ、ヴェローゾなどを引き連れて先頭を邁進。残り200m地点で並びかけようとしてきたミスターマクギンティを楽々と突き放し、最後は2馬身1/4差をつけて快勝した。

そしてそれから16日後、目標としていたAJCダービー(豪GⅠ・T2400m)に参戦した。降りしきる雨のために馬場は泥沼状態となっていた。単勝オッズ3.2倍の1番人気に支持された本馬は好スタートを切ると、キャマーレ、ヴェローゾ、GⅠ競走オーストラリアンCの勝ち馬アドミラルリンカーン、コーフィールドC・ザメトロポリタン2回・タンクレッドSとGⅠ競走を4勝するハヤイ、後にオークランドCを勝利するセキュアードデポジットたちを引き連れて先頭に立った。本馬は常識的には重馬場には向いていないと思われる大跳びで走っていたが、それにも関わらず実に伸び伸びと走っており、むしろ後方の馬達のほうが馬場状態に悪戦苦闘していた。そして残り200m地点で本馬が二の脚を使って加速すると、後続馬は誰も付いてくることが出来なかった。最後は本馬が2着ヴェローゾに5馬身半差、3着キャマーレにはさらに16馬身差をつけて圧勝。ボウゴーレ師の宣言どおりAJCダービー制覇を成し遂げた。相当な不良馬場だったようで、勝ちタイム2分41秒8は20世紀以降、2015年現在に至るまでの115年間で最も遅いタイムだった。

その後はクイーンズランド州に戻って短い休養を取った。この時期に本馬陣営に対して150万ドルで本馬を売ってほしいという申し出があったが、陣営はそれを拒否したと伝えられている。

AJCダービーから約1か月後にイーグルファーム競馬場で行われたザXXXXH(豪GⅢ・T1866m)で戦線に復帰したが、ここでは7kgのハンデを与えたホームメイドの1馬身1/4差3着に終わった。しかし翌週にドゥーンベン競馬場で出走したチャンネル7S(T2020m)では、2着ヘイリーズホープに4馬身差をつけて勝利。それから半月後にドゥーンベン競馬場で出走したパワーホテルズクオリティH(豪GⅢ・T1350m)では、不良馬場としては優秀な1分25秒1の勝ちタイムで、2着グランドロッキーに1馬身3/4差で勝利。

それから12日後のクイーンズランドダービー(豪GⅠ・T2400m)では、逃げるトリストラムズラッドを見るようにインコース3番手をロス無く進み、残り200mでトリストラムズラッドをかわして先頭に立った。ここでトリストラムズラッドが猛然と差し返してきて、さらには後方からフォワードチャージも追い上げてきた。しかし本馬が激闘を制して、2着フォワードチャージに首差、3着トリストラムズラッドにはさらに2馬身差をつけて優勝した。

3歳シーズンを14戦10勝の成績で終え、メルボルンC・コーフィールドCを勝ったガーナーズレーンと並んで同シーズンの豪年度代表馬、及び豪最優秀3歳牡馬に選ばれた。また、この時期に米国から170万ドルで本馬を売ってほしいという申し出があり、これに関しては話が進展したようだが、最終的に話は流れた。

競走生活(4歳前半)

翌83/84シーズンは、今まで走っていたクイーンズランド州やニューサウスウェールズ州ではなく、豪州第2の都市メルボルンがあるヴィクトリア州から始動した。ヴィクトリア州までやってきた最大の目的は、ムーニーバレー競馬場で10月に行われる豪州有数の大競走コックスプレートだった。

まずは前走から約2か月後の8月にムーニーバレー競馬場で行われたフリーウェイS(豪GⅡ・T1200m)から始動した。少々距離が短いかと思われたが、豪フューチュリティS・ニューマーケットHとGⅠ競走を2勝するレッドテンポ達を引き連れてスタートから先頭を飛ばし、そのまま2着レッドテンポに2馬身差をつけて逃げ切った。次走のメンジーS(豪GⅡ・T1400m)では、前走で2着に下したレッドテンポに雪辱を許して、3/4馬身差の2着に敗れた。続くセンテニアルS(豪GⅡ・T1600m)では、3番手を進んだ本馬と4番手を進んだレッドテンポが同時に仕掛けて2頭の一騎打ちとなったが、本馬が1馬身半差で勝利を収めた。次走のアンダーウッドS(豪GⅠ・T2000m)では、スタートから先頭に立って逃げを打ったが、トライアンファルマーチやコサックプリンスといった馬達がしつこく圧力をかけてきて、自分のペースで逃げられなかった。そしてレース終盤でGⅠ競走タンクレッドSの勝ち馬トリサロが並びかけてくると抵抗できずに失速。勝ったトリサロから4馬身差の4着に敗れた。

次走のコーフィールドS(豪GⅠ・T2000m)では、ミスターマクギンティに先手を奪われてしまい、後に同年のエプソムHを勝利するクールリヴァー、ジョージライダーS・ドンカスターマイル・ジョージメインSとGⅠ競走で3勝を挙げていたエマンシペーションといった馬達にも屈して、勝ったミスターマクギンティから5馬身半差をつけられた6着に完敗した。レース後に本馬がウイルス性の感染症に罹患している事が判明し、目標としていたコックスプレート出走に暗雲が立ち込めた。

しかし獣医師のジョン・ブライデン博士の治療により何とか出走には漕ぎ着けた。このコックスプレート(豪GⅠ・T2050m)では、ミスターマクギンティ、エマンシペーション、トリサロ、ゴールデンスリッパー・スプリングチャンピオンSを勝ってきた3歳馬サーダッパー、MRC1000ギニーの勝ち馬パーフェクトブリスなどが強敵だった。ミスターマクギンティが1番人気に支持され、本馬は状態不安から人気を落としていた。しかしレースでは逃げ馬を見る形で先行し、そのまま先頭に立つと2着キーウィスレイヴに3馬身半差をつけて完勝し、豪州競馬の頂点に立った。

このレースを最後に引退して種牡馬入りする話が持ち上がったが、本馬の膝に故障があるために種牡馬生活には耐えられないとして破談になり、結局競走生活を続ける事になった。しかしいったん種牡馬入りする事になっていた馬を再度競走馬として仕上げるのはボウゴーレ師の腕をもってしても難しかったようである。

競走生活(4歳後半)

翌1984年は2月のアポロS(豪GⅡ・T1400m)から始動したが、エマンシペーションの3馬身3/4差3着に敗退。翌月のチッピングノートンS(豪GⅡ・T1600m)でも、エマンシペーション、トリサロ、コックスプレート敗退後に新国に戻ってニュージーランドSを勝ってきたミスターマクギンティなどに屈して、エマンシペーションの1馬身3/4差5着に敗退。

このレースの直後に、本馬の所有権がレイ・シュテール氏とジョン・シングルトン氏の2人により100万ドルで購入された。この2人はプリンセスファームの所有者であり、本馬が競走馬を引退した暁にはプリンセスファームで種牡馬入りさせるつもりで購入したそうである。

勝負服が変わった最初のレースとなったのは、前走から2週間後のローソンS(豪GⅠ・T2000m)だった。しかしキャマーレに先手を取られた上に、ミスターマクギンティ、トリサロ、クイーンエリザベスSでGⅠ競走2勝目を挙げていた前年の同競走2着馬ファウンテンコートなどに徹底マークを受けてしまい、勝ったミスターマクギンティから2馬身差の5着に敗れてしまった。

翌4月のタンクレッドS(豪GⅠ・T2400m)では、ファウンテンコート、ミスターマクギンティ、トリサロ、コーフィールドC・ザメトロポリタンを勝っていたハヤイ、アドミラルリンカーン、コーフィールドギニー・カンタベリーギニーの勝ち馬ビーチクラフトといった馬達の半ばペースメーカー役となってしまい、勝ったハヤイから3馬身差の7着に敗退した。

このように負けが込み始めた状況を見たシュテール氏とシングルトン氏は、種牡馬入りの計画を急遽変更して、凱旋門賞を目標として欧州で走らせる事にした。そしてシドニーに厩舎を構えていたジョン・ニコルス調教師に本馬を委ねた。83/84シーズンの成績は豪州においては10戦3勝だった。

競走生活(1984年後半):豪州を飛び出して海外に向かう

ニコルス師と共に欧州に到着した当初の本馬は落ち着きが無かったが、馬房に設置されていた扉を撤去して外が見えるようにすると落ち着き、新しい環境に順応していったという(地元の人達は外部から本馬の姿が見える光景に驚いたという)。

欧州における初戦は8月に独国バーデンバーデン競馬場で行われたエッティンゲンレネン(独GⅢ・T1600m)となった。前走タンクレッドSの完敗から4か月しか経っていなかったが、ニコルス師の調教が本馬によく適合したのか、本馬自身に欧州の芝が合っていたのか、4kgのハンデを与えた3歳牡馬ホイヤの鼻差2着と、遠征初戦としては上々の内容を見せた。

そして次走のバーデン大賞(独GⅠ・T2400m)では、オイロパ賞・ミラノ大賞の勝ち馬で英セントレジャー2着・ジャパンC・仏ダービー・サンクルー大賞3着のエスプリデュノール、ベルリン大賞2回・メルセデスベンツ大賞の勝ち馬でバーデン大賞・オイロパ賞2着のアバリといった欧州の実力馬達を相手に回して単勝オッズ3.6倍の1番人気に支持された。そして豪州出身のブレント・トンプソン騎手を鞍上に、2着エスプリデュノールに短頭差をつけて勝利を収め、欧州GⅠ競走の勝ち馬となった。

次のレースは当初からの目標だった翌月の凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)だった。陣営は本馬の鞍上に9年前の凱旋門賞をスターアピールで勝っていたクレヴィル・スターキー騎手を配した。対戦相手は非常に手強く、仏オークス・ヴェルメイユ賞・ノネット賞の勝ち馬でサンタラリ賞2着のノーザントリック、愛2000ギニー・エクリプスS・愛チャンピオンS・ベレスフォードS・デリンズタウンスタッドダービートライアルSの勝ち馬で仏ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS2着のサドラーズウェルズ、前年の凱旋門賞を筆頭にヴェルメイユ賞・ロスマンズ国際S・ターフクラシックS・ワシントンDC国際Sなどを勝ち前年のエクリプス賞年度代表馬に選ばれていたオールアロング、ニエル賞・コンセイユドパリ賞・フォワ賞の勝ち馬でガネー賞2着のサガス、英オークス・英チャンピオンS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・コロネーションC・サンチャリオットSの勝ち馬で英1000ギニー・エクリプスS2着のタイムチャーター、英オークス・ヨークシャーオークス・英セントレジャーの勝ち馬で前年の凱旋門賞とこの年のコロネーションC2着のサンプリンセス、愛オークス馬プリンセスパティ、グレートヴォルティジュールSの勝ち馬でデューハーストS・愛ダービー2着のレインボークエスト、ノアイユ賞・ユジェーヌアダム賞・ニエル賞の勝ち馬カリエロール、エスプリデュノール、ベルリン大賞2連覇のアバリ、ラクープドメゾンラフィットの勝ち馬で前年のヴェルメイユ賞2着のエストラペイドなどが参戦してきた。かなりの不良馬場の中でレースが行われたため、スターキー騎手は積極的に本馬を先行させて粘らせる作戦を採った。そして先頭で直線に入ってきたのだが、さすがにロンシャン競馬場の長い直線を押し切るのは難しかったようで、サガス、ノーザントリック、オールアロング、エスプリデュノールの4頭に差されて、勝ったサガスから9馬身差の5着に敗れた。当時の欧州トップクラスの馬の多くに先着しており、健闘した部類に入るとは思うが、陣営はハイペースを深追いしたスターキー騎手の騎乗内容に不満を漏らし、結局スターキー騎手が本馬に乗ることは2度となかった。

その後は米国に遠征してワシントンDC国際S(米GⅠ・T12F)に1番人気で出走。鞍上は豪州出身の名手ジョージ・ムーア騎手だった。しかしサラマンドル賞の勝ち馬で愛チャンピオンS2着のシアトルソング、ディキシーH・セネカH・ゴールデンハーヴェストHの勝ち馬パーシャンティアラの2頭に屈して、勝ったシアトルソングから3馬身半差、2着パーシャンティアラから半馬身差の3着に敗退した。

すると今度は米国西海岸に向かい、ハリウッドパーク競馬場で行われた第1回BCターフ(米GⅠ・T12F)に参戦した。本馬の父ウィスキーロードは豪州のローカル種牡馬だったためブリーダーズカップ登録があったとは思えず、高額の追加登録料を支払っての出走だったと思われる。鞍上は米国の誇る名手ウィリアム・シューメーカー騎手だった。対戦相手は、加国際S2回・マンノウォーS2回・ソードダンサーH2回・レキシントンSなどの勝ち馬マジェスティーズプリンス、凱旋門賞3着後に出走した加国際Sで4着だったオールアロング、一昨年のケンタッキーダービー馬ガトデルソル、仏グランクリテリウム・グロット賞・プシシェ賞の勝ち馬トレジエム、アーリントンH・ケルソHの勝ち馬フーズフォーディナー、ウィリアムヒルフューチュリティS・リングフィールドダービートライアルの勝ち馬アルファベイティム、パーシャンティアラ、コンセイユドパリ賞を勝ってきたラシュカリなどだった。マジェスティーズプリンスが単勝オッズ2.5倍の1番人気、オールアロングが単勝オッズ4.2倍の2番人気、本馬が単勝オッズ6.2倍の3番人気となった。今回は凱旋門賞以上に積極的な走りを見せ、スタートから先頭に立って馬群を牽引した。直線に入っても粘っていたが、最後に力尽き、勝った単勝オッズ54.4倍の最低人気馬ラシュカリから1馬身1/4差の4着に敗れた。

その後は来日して第4回ジャパンC(日GⅠ・T2400m)に参戦した。鞍上は英国の名手レスター・ピゴット騎手に委ねられた。ジャパンCは第1回・第2回こそ日本馬が海外馬の前に手も足も出ずに完敗したのだが、前年の第3回で天皇賞馬キョウエイプロミスが頭差の2着と好走していた上に、この年は前年の中央競馬三冠馬ミスターシービーとこの年の中央競馬三冠馬シンボリルドルフが出走していたため、今回は日本馬にもチャンスがあるのではと言われていた。

出走馬は、海外馬勢が、本馬、BCターフで6着に終わっていたマジェスティーズプリンス、凱旋門賞4着後に出走した加国際Sで3着していた前年3着馬エスプリデュノール、ゴントービロン賞・セプテンバーS・カンバーランドロッジSなど4連勝中の英国調教馬ベッドタイム、マンハッタンH・ラトガーズH・タイダルH・バーナードバルークHの勝ち馬でマンノウォーS・ターフクラシックS2着の米国調教馬ウイン、伊ダービー・イタリア大賞・エマヌエーレフィリベルト賞の勝ち馬でミラノ大賞2着の伊国調教馬ウェルノール、オイロパ賞で2着してきた独国調教馬カイザーシュテルン、加国三冠競走最終戦のブリーダーズSを勝ちEPテイラーSで2着していたバウンディングアウェイ、本馬の豪州最後のレースとなったタンクレッドSにも出走していたウエスタンメイルクラシック・ヴィクトリアダービー・アンダーウッドS・マッキノンSの勝ち馬バウンティーホーク、本馬がコックスプレートを勝った直後に行われたメルボルンCを勝利したキーウイの計10頭。

日本馬が、前走の天皇賞秋を勝ってきたミスターシービー、菊花賞で三冠を達成して中1週という強行日程で臨んできたシンボリルドルフ、宝塚記念・NHK杯・京都新聞杯・サンケイ大阪杯・毎日王冠・京阪杯の勝ち馬カツラギエース、桜花賞・サファイヤSの勝ち馬で優駿牝馬2着・エリザベス女王杯3着のダイアナソロンの計4頭だった。

ミスターシービーが1番人気、ベッドタイムが2番人気、マジェスティーズプリンスが3番人気、シンボリルドルフが4番人気と続き、本馬は7番人気止まりだった。

スタートが切られると10番人気馬カツラギエースが先頭に立ち、ウイン、エスプリデュノール、バウンティーホークなどが先行。その少し後方にシンボリルドルフ、ベッドタイムがつけ、さらにマジェスティーズプリンス、本馬がその後方。ミスターシービーはお決まりの最後方待機策を採った。カツラギエースは向こう正面で後続を優に10馬身以上引き離す大逃げを打った。ミスターシービーは先頭のカツラギエースから25馬身程度離されていたが、何しろ追い込み馬の代名詞ミスターシービーだけに、他馬の騎手達はレース中盤まで人気薄のカツラギエースよりも1番人気のミスターシービーの方に意識を向けていたようである。三角手前でようやくミスターシービーが仕掛けると、本馬を含む馬達も一斉に加速して、カツラギエースとの差を縮めていった。そしてカツラギエースが先頭で直線に入ってきたが、既にその直後にはベッドタイム、シンボリルドルフ、ウインなどの後続馬勢が迫っていた。ところが初めてのメンコを装着して気分よく逃げていたカツラギエースには余力があり、直線に入ると二の脚を使って先頭を維持。結果はカツラギエースがそのまま逃げ切って日本馬として初のジャパンC勝ち馬という栄冠を手にし、1馬身半差の2着がベッドタイム、さらに頭差の3着が初黒星を喫したシンボリルドルフ。本馬はさらに2馬身3/4差の7着で、ミスターシービーは10着に敗れた。

本馬はこの1984年はこれが最後のレースで、豪州外におけるこの年の成績は6戦1勝だった。それでも、この年の独最優秀古馬に選出されている。

競走生活(1985年前半)

翌1985年は、4月のアルクール賞(仏GⅢ・T2000m)から始動した。パース賞の勝ち馬で前年の仏2000ギニー2着のグリーンパラダイス、ガネー賞の勝ち馬ロミルドなどが出走してきたが、本馬がそれを一蹴して2着グリーンパラダイスに4馬身差、3着ロミルドにはさらに2馬身半差をつけて完勝した。

この後に本馬は前年の凱旋門賞馬サガスの所有者だったダニエル・ウィルデンシュタイン氏に購入され、サガスを管理していた仏国パトリック・ルイ・ビアンコーヌ厩舎に転厩した。

次走はガネー賞の予定だったがサガスが出走するために回避し、少し間隔を空けてサンクルー大賞(仏GⅠ・T2500m)に出走した。そして、オーモンドSの勝ち馬サイズミックウェーブを1馬身半差の2着に、仏グランクリテリウム・グロット賞・プシシェ賞の勝ち馬トレジエムをさらに1馬身半差の3着に破り、地元仏国でもGⅠ競走タイトルを手中に収めた。ちなみにこの2レースの鞍上は仏国の名手イヴ・サンマルタン騎手。これだけ世界的名手が入れ代わり立ち代わり鞍上を務めた馬も珍しいもので、馬主の影響力もあるだろうが、本馬自身にも乗ってみたいと思わせるだけの素質が感じられたからなのではないだろうか。

サンクルー大賞の次走は英国初見参となるキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ・T12F)となった。しかしここでは、プリンセスオブウェールズSを勝ってきた3歳馬ペトスキ、英1000ギニー・英オークス・フィリーズマイル・ネルグウィンSなど6戦無敗のオーソーシャープ、前年の凱旋門賞では18着に沈んだもののコロネーションCを勝ちエクリプスSで2着してきたレインボークエストなどに屈して、勝ったペトスキから4馬身差の6着に敗退した(日本からの遠征初戦だった東京優駿の勝ち馬シリウスシンボリは11着だった)。

競走生活(1985年後半)

その後は本馬と同馬主同厩となったサガスとの競合を避けるように、米国遠征に向かった。ウィルデンシュタイン氏が本馬を購入した理由は、サガスの凱旋門賞2連覇を脅かす存在を敵から味方に引き入れたからではないかという噂が豪州では流れたという。

米国東海岸に到着した本馬はまずターフクラシックS(米GⅠ・T10F)に出走した。しかしここでは単勝オッズ56倍の伏兵ノーブルファイターの大駆けに遭い、前年のジャパンC5着後にバーナードバルークHを勝っていたウインにも遅れて、勝ったノーブルファイターから5馬身1/4差の3着に敗れた。この時期に本馬はアレン・ポールソン氏とブルース・マクナル氏の両名に購入されている。

その後はこの年にアケダクト競馬場で開催されたBCターフ(米GⅠ・T12F)に向かった。鞍上には米国出身の名手スティーブ・コーゼン騎手を配した。対戦相手は、英1000ギニー・エクリプスS・英チャンピオンS・トラストハウスフォルテマイル・ネルグウィンSを勝っていた名牝ペブルス、カリフォルニアンS・ハリウッド金杯・サンバーナーディノHの勝ち馬でサンフェルナンドS・チャールズHストラブS・サンタアニタH・サンセットH・バドワイザーミリオン2着のグレイントン、前年の勝ち馬ラシュカリ、バドワイザーミリオン・クイーンエリザベスⅡ世S・愛国際S2回・デズモンドS・クインシー賞の勝ち馬テレプロンプター、伊共和国大統領賞・プリンスオブウェールズSの勝ち馬で伊ダービー・愛チャンピオンS・マンノウォーS2着のボブバック、ジェフリーフリアS・セプテンバーSの勝ち馬シェルナザール、レキシントンS・ローレンスリアライゼーションS・ラトガーズHなどの勝ち馬デンジャーズアワー、ジャンプラ賞の勝ち馬バイアモン、ボーリンググリーンH・レッドスミスHの勝ち馬シャランプール、デリンズタウンスタッドダービートライアルSの勝ち馬で愛ダービー2着のシアトリカル、前年のBCターフ7着後にシープスヘッドベイH・ラプレヴォヤンテHを勝っていたパーシャンティアラ、前年のBCターフ9着後にタイダルHを勝っていたフーズフォーディナー、ユジェーヌアダム賞・コートノルマンディ賞・ケルソHの勝ち馬ムルジャネなどだった。ペブルスが単勝オッズ3.2倍の1番人気、グレイントンが単勝オッズ3.6倍の2番人気、本馬とシアトリカルのカップリングが単勝オッズ4.8倍の3番人気となった。スタートが切られるとテレプロンプターが先頭に立ち、フーズフォーディナーや本馬が先行した。本馬は四角でいったん位置取りが下がったが、直線に入ると外側に持ち出して追い上げてきた。そして最内を突いて先頭に立っていたペブルスに並びかけて叩き合いに持ち込んだが、首差及ばず2着に敗れた。

その2週間後にはこの年ブリーダーズカップより遅く行われたワシントンDC国際S(米GⅠ・T12F)に出走した。しかしサバーバンH・ジョッキークラブ金杯の勝ち馬でウッドワードS2着のヴァンランディンガム、オークツリー招待H・ドラール賞・ギシュ賞の勝ち馬でイスパーン賞2着のヤシュガン、ハードウィックS・コンセイユドパリ賞・セントサイモンS・ジョンポーターSを勝っていた翌年のジャパンC勝ち馬ジュピターアイランドなどに叩きのめされ、勝ったヴァンランディンガムから11馬身差をつけられた8着と惨敗した。1985年の成績は6戦2勝だった。

競走生活(1986年以降)

翌1986年は米国西海岸の名伯楽チャールズ・ウィッテンガム厩舎に転厩して現役を続行した。まずは1月のサンマルコスH(米GⅢ・T10F)に出走したが、ハリウッドダービー・タンフォランH・ゴールデンゲートH・ローリンググリーンH・カールトンFバークHを勝っていたシルヴィーヴィルに首差敗れて2着だった。2月のサンルイオビスポH(米GⅡ・T12F)では、前年のソードダンサーH2着馬タラケノ、ハリウッドダービー・ロジャーズ金杯の勝ち馬フォスカリーニの2頭に屈して、勝ったタラケノから5馬身半差の3着に敗れた。

しかし3月のアーケイディアH(米GⅡ・T10F)では、ペガサスHの勝ち馬でローレルフューチュリティ・ジョッキークラブ金杯2着のヘイルボールドキングを2馬身1/4差の2着に破り、米国における初勝利をマークした。

次走のサンルイレイS(米GⅠ・T12F)では、リュパン賞・センチュリーH・サンガブリエルH・サンマルコスHの勝ち馬ダハール、一昨年のBCターフ5着後にハリウッドターフカップSを勝っていたアルファベイティム、そして一昨年のジャパンCで3着に敗れた後に有馬記念2回・天皇賞春・ジャパンCなどを勝利して日本国内では敵がいなくなったために海外に遠征してきたシンボリルドルフなどが対戦相手となった。ゲイリー・スティーヴンス騎手が手綱を取る本馬はスタートから快調に先頭を飛ばしたが、ゴール前でダハールに差されて1馬身3/4差の2着に敗れた。このレース中に故障を起こして6着に終わったシンボリルドルフはそのまま現役引退となった。

次走のサンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ・T14F)では、ダハール、ジュピターアイランド、サンタバーバラH・サンゴルゴーニオHの勝ち馬マウンテンベアなどに屈して、勝ったダハールから7馬身1/4差の7着に敗退した。次走のハリウッド招待H(米GⅠ・T12F)でも、ダハール、WLマックナイトH2回・ブーゲンヴィリアH2回の勝ち馬フライングピジョン、オークツリー招待H・ハリウッドパーク招待ターフH・タンフォランH2回の勝ち馬ボスエンズバーニングなどに屈して、勝ったフライングピジョンから4馬身1/4差の5着に敗退した。この後に長期休養に入り、1986年の成績は6戦1勝に終わった。

復帰したのは翌年1月のサンマルコスH(米GⅢ・T10F)だったが、ハリウッドターフカップS・サンセットH・サイテーションH・イングルウッドHの勝ち馬ゾファニー、カールトンFバークHの勝ち馬ルイルグランの2頭に屈して、勝ったゾファニーから5馬身差の3着に敗退。これが現役最後のレースとなった。

現在こそ欧州、米国、豪州、アジアを股にかけて走る競走馬は珍しくなくなったが、当時はかなり珍しく、本馬はインターナショナルホースの先駆け的存在だったと言える。

血統

Whiskey Road Nijinsky Northern Dancer Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
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父ウィスキーロードは米国産馬。現役成績は4戦1勝で、唯一の勝ち鞍がレパーズタウンボーインS。競走馬としての実績には見るべきものが無いが、父が歴史的名馬ニジンスキー、母が米国顕彰馬ボウルオブフラワーズ、母の弟にグロースタークヒズマジェスティの名種牡馬兄弟がいるという血統は超豪華版であり、その血統が評価されて豪州ニューサウスウェールズ州ストラットハランスタッドで種牡馬入りした。競走成績が振るわない良血馬は南半球で種牡馬入りして成功する事が多いが、ウィスキーロードもその中の一頭で、しっかりと豪州で実績を残している。

母ギフティサは新国産馬で、1歳時に本馬の生産者パントス氏により3千ドルで購入された。競走馬としては7戦1勝の成績に終わった。繁殖牝馬としては初子の本馬以外に5頭の子を産んだが、本馬以外に活躍馬は出す事はできなかった。本馬の全妹ストロベレッテの孫にミスターマルティーニ【ビルスタットS(豪GⅡ)・キングストンタウンS(豪GⅢ)】が、本馬の全妹ウィスキーズギフトの孫にイースターギフト【スマーティジョーンズS(米GⅢ)】がおり、牝系は維持されているが、あまり繁栄はしていない。母系は20世紀初頭に豪州から新国に渡って伸びたオセアニア土着のものであるが、かなり遡ってもこれといった馬が出てこない目立たない牝系である。→牝系:F18号族

母父リッチギフトはプリンスリーギフト産駒。主な勝ち鞍がウィルトンプレート・スウェイルデイルHという地味な馬だった。種牡馬としては新国で供用され、18頭のステークスウイナーを出す活躍を見せた。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、引退したその年からポールソン氏所有のケンタッキー州ブルックサイドファームにおいて種付け料7500ドルで種牡馬生活を開始した。当初は豪州でも種牡馬活動を行う計画があり、正式決定直前まで話が進んでいたのだが、体調不良に伴う検疫問題やら何やらにより最終的に話は流れた。本馬は37頭以上のステークスウイナーを出し、種牡馬としてもかなりの好成績を挙げて、豪州出身馬の血の優秀さを証明して見せた。1995年4月に本馬は感染症による腹膜炎と肺炎を併発し、2度に渡る手術が行われたが体重が150kgも減少してしまった。体力が極度に衰え、立っている事も出来なくなった本馬は6月に右後脚の大腿骨を折ってしまい、15歳で安楽死の措置が執られた。後の2009年、豪州競馬の殿堂入りを果たしている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1988

Dinard

サンタアニタダービー(米GⅠ)・サンラファエルS(米GⅡ)

1988

Fowda

ハリウッドオークス(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)・モンマスオークス(米GⅡ)・ルイビルBCH(米GⅡ)

1988

Fraise

BCターフ(米GⅠ)・ソードダンサーH(米GⅠ)・ハリウッドターフCS(米GⅠ)・パンアメリカンH(米GⅡ)2回・ラウンドテーブルH(米GⅢ)

1990

Royal Chariot

ハリウッドターフCS(米GⅠ)・デルマー招待H(米GⅡ)

1992

Admiralty

パームビーチS(米GⅢ)

1992

Strawberry Wine

フェアマウントダービー(米GⅢ)

1993

Escena

BCディスタフ(米GⅠ)・ラモナH(米GⅠ)・アップルブロッサムH(米GⅠ)・ヴァニティ招待H(米GⅠ)・ファンタジーS(米GⅡ)・ルイビルBCH(米GⅡ)・フルールドリスH(米GⅢ)

1994

Ajina

BCディスタフ(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)・デモワゼルS(米GⅡ)・テンプテッドS(米GⅢ)・ピムリコディスタフH(米GⅢ)

1994

Garbu

フォートローダーデールH(米GⅢ)

1994

Mud Route

カリフォルニアンS(米GⅡ)・サンディエゴH(米GⅢ)

1994

Sky Blue Pink

サラブレッドクラブオブアメリカS(米GⅢ)

1995

Chilito

フラミンゴS(米GⅢ)

1995

Dominique's Joy

ジョーネイマスH(米GⅢ)

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