ヘイスティングス

和名:ヘイスティングス

英名:Hastings

1893年生

青鹿

父:スペンドスリフト

母:シンデレラ

母父:トマホーク

孫のマンノウォーが誕生した直後にこの世を去っていった、激烈な気性と高い競走能力で知られたベルモントS勝ち馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績21戦9勝2着8回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州のキンダーガーテンスタッドにおいて、小規模馬産家だったJ・D・ニート博士により生産された。1歳時のセリに出品され、デビッド・ギデオン氏とジョン・ダリー氏の両名により2800ドルで購入された。

競走生活(2・3歳時)

2歳時にニューヨーク州でデビューすると、初戦から素晴らしいレースぶりを披露。サーフS(D5F)では1分00秒4の好タイムを計時し、後の好敵手ハンドスプリングを2着に下すなど3連勝した。

この後、本馬の共同所有者だったギデオン氏とダリー氏は、共同馬主を辞める事を決定し、所有していた馬の殆どをセリに出した。しかしギデオン氏は本馬をそのまま所有していたかったため、本馬をセリに出す際の初期設定額を2万5千ドルと高額にした。ところがセリの参加者達はギデオン氏の予想を超えて本馬の購入を競り合い、最終的に本馬はオーガスト・ベルモント・ジュニア氏により3万7千ドルという記録的な高額で購入された。

ベルモント・ジュニア氏の所有となった本馬はサラトガ競馬場に送られ、ジョン・J・ハイランド厩舎に所属した。しかし到着後間もなく本馬は体調を崩してしまった。一応体調が回復したと判断された後に、ベルモントフューチュリティS(D5.75F)に出走したが、リクァイタルの5着に敗れた。皮肉な事に、リクァイタルの馬主は本馬の元所有者ギデオン氏がそのまま自分で所有していた馬の一頭だった(さらに皮肉な事に「リクァイタル(Requital)」とは「報復・復讐」という意味)。どうやら本馬は体調が回復しきっていなかったようで、2歳時は以降レースに出なかった。2歳時の成績は4戦3勝だった。

3歳になった本馬は、ウィザーズS(D8F)でハンドスプリングの頭差2着に敗れたが、続くトボガンH(D6F)では古馬相手に勝利した。次走のベルモントS(D11F)では、ハンドスプリングとの再戦となった。レースではハンドスプリングが直線で先頭に立ち、ほぼ勝利を手にしたかと思われた。しかし本馬が後方から猛然と追い上げ、ハンドスプリングを頭差差し切って優勝した。続くタイダルS(D8F)では同厩のプリークネスS勝ち馬マルグレイブに敗れて2着となった。さらにローレンスリアライゼーションS(D13F)に参戦したが、ここではリクァイタルの着外に敗れた。

3歳時の成績は5戦2勝だった。ただし本馬が3歳時にカーニーSというレースで勝っているとする資料もある(4歳時に本馬はカーニーHというレースにも勝っているが、それとは別競走のようである)。それが事実ならば本馬の3歳時の成績は6戦3勝でなければならず、そうすると本馬の通算成績は22戦10勝2着8回になる(本馬がカーニーSを勝ったとする資料では21戦10勝2着8回としており、どうやらローレンスリアライゼーションSには出走していないとしているようである。どれが真実なのか筆者には分からない)。

競走生活(4歳時)

2・3歳時はあまり出走しなかった本馬だが、4歳になると数多くのレースに出走する事になった。メトロポリタンH(D8F)ではボーターの4着に敗れたが、次走のカーニーHでは、オムニウムH・オリエンタルH・フェニックスホテルHなどを勝っていた7歳の古豪クリフォードと1着同着。コニーアイランドフォールHでは3歳馬オーナメント(後にクラークHやブルックリンHを勝っている)の4着に敗れた。オーシャンH(D8F)では1歳年上のベルモントS・プリークネスS勝ち馬ベルマーに頭差で敗れて2着。オムニウムH(D9F)では同世代のケンタッキーダービー馬ベンブラッシュ、クリフォードとの対戦となったが、ベンブラッシュの1馬身差2着に敗れた(クリフォードは3着)。次走のダート6ハロンの一般競走ではオーナメントを破って勝利。

続いて出走したのは、本馬、ベンブラッシュ、ハンドスプリング、リクァイタルの4頭で企画されたマッチレースのファーストスペシャルS(D8.5F)。ここではリクァイタル(3着)とハンドスプリング(4着)には先着したが、ベンブラッシュに敗れて2着だった。カルヴァーH(D6F)でも勝ち馬フライングダッチマンから首差の2着に敗れた。次走のモリスパーク競馬場ダート5ハロンの一般競走では130ポンドを背負って勝利した。続くウエストチェスターハイウェイトHでは140ポンドを課されたが勝利した。その後2回出走した一般競走でいずれも2着に敗れたところで競走馬を引退。4歳時の成績は12戦4勝で着外は2回だけだった。

なお、本馬は非常に気性が激しい馬で、炎のような馬と評された。まず馬具を着けられる事を激しく嫌がった。勿論、調教される事も大嫌いで、強力な厩務員が数人必要だった。当然、本馬に乗る騎手も散々苦労させられた。本馬が競走馬を引退した時、本馬の関係者は揃って胸を撫で下ろしたという。

血統

Spendthrift Australian West Australian Melbourne Humphrey Clinker
Cervantes Mare
Mowerina Touchstone
Emma
Emilia Young Emilius Emilius
Shoveler
Persian Whisker
Variety
Aerolite Lexington Boston Timoleon
Sister to Tuckahoe
Alice Carneal Sarpedon
Rowena
Florine Glencoe Sultan
Trampoline
Melody Medoc
Haxall's Moses Mare
Cinderella Tomahawk King Tom Harkaway Economist
Fanny Dawson
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Mincemeat Sweetmeat Gladiator
Lollypop
Hybla The Provost
Otisina
Manna Brown Bread Weatherbit Sheet Anchor
Miss Letty
Brown Agnes West Australian
Miss Agnes
Tartlet Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Don John Mare Don John
Lollypop

スペンドスリフトは当馬の項を参照。かなり優秀な種牡馬だったため人気種牡馬であり、小規模馬産家だった本馬の生産者ニート博士が種付けの予約をするのには苦労が伴ったらしい。

母シンデレラはトーマス・スロックモートン卿という人物により生産された英国産馬で、アスコットゴールドヴァーズ・グッドウッド金杯の勝ち馬スウィートミート(英2000ギニー・英ダービー勝ち馬マカロニの父)の半妹の曾孫に当たる。1歳時にエグモント・ローレンス氏という輸入業者により他の9頭の牝馬と一緒に米国に輸入されていた。そしてケンタッキー州レキシントンで実施されたセリに出品され、ニート博士により500ドルという安値で購入された(この時ニート博士はシンデレラと一緒に輸入されたタランテラという牝馬も400ドルで購入している。タランテラは後にベルモントS勝ち馬ジョーマッデンの母となった)。

競走馬としてはデビュー前調教で優れたスピード能力を披露するも、調教中に故障して不出走に終わった。あまり形が良くない流星が顔に走った小柄な馬で、しかも気性が非常に激しかった(本馬の気性は母譲りだと言われている)事から、甚だしく魅力に欠ける馬であると評された。しかしながら繁殖牝馬としては非常に優秀で、本馬の半弟プローディット(父ヒムヤー)【ケンタッキーダービー・クラークH】、半弟ハンサム(父ハノーヴァー)【ハイドパークS】、半弟グレニム(父ハノーヴァー)【ジュヴェナイルS】などを産んだ。こうした繁殖成績を評価したウィリアム・コリンズ・ホイットニー氏により1万ドルでリースされてホイットニー氏の牧場で繁殖生活を送った時期もあったが、しばらくしてホイットニー氏が死去したためにニート博士のところに戻り、1906年6月に心臓病のため21歳で他界した。シンデレラが他界した旨を報じた「ザ・サラブレッド・レコード」の記事では、シンデレラを19世紀英国半ばにおける大繁殖牝馬ポカホンタスストックウェル、ラタプラン、キングトムの母)と比較している。ポカホンタスの息子3頭はいずれも後世に大きな影響力を与えた種牡馬となったが、シンデレラの息子のうち本馬とプローディットの2頭もやはり後世に大きな影響力を与えた種牡馬となっている。しかしシンデレラが他界した時点においては後世の事は分からなかったはずであり、「ザ・サラブレッド・レコード」の記事を書いた記者の慧眼は賞賛されるべきであろう。

シンデレラの牝系子孫は、ホイットニー氏のところで繁殖生活を送っていた時期に産んだ最後の産駒スリッパーズ(父メドラー)が発展させた。スリッパーズの子にはバスキン【プリークネスS・メトロポリタンH】が、孫にはプルデリー【アラバマS・スピナウェイS】、プルディッシュ【CCAオークス】、マコー【クイーンズカウンティH・カーターH】が、曾孫にはウィスカリー【ケンタッキーダービー】、ヴィクトリアン【プリークネスS・ウィザーズS・マンハッタンH】、ハルシオン【クイーンズカウンティH2回・ジャマイカH】が登場している。

スリッパーズの牝系子孫からは他にも、ネジ【米グランドナショナル2回】、モンゴ【ワシントンDC国際S・ユナイテッドネーションズH2回・ワイドナーH】、ヘヴンリーコーズ【フリゼットS(米GⅠ)・セリマS(米GⅠ)・ファンタジーS(米GⅠ)・ケンタッキーオークス(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)】、バウンディングバスク【ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ブルックリンH(米GⅠ)・メドウランズCH(米GⅠ)】、オープニングヴァーズ【BCマイル(米GⅠ)・オークローンH(米GⅠ)】、リーサルフォース【ダイヤモンドジュビリーS(英GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)】、フロティラ【BCジュヴェナイルフィリーズターフ(米GⅠ)・仏1000ギニー(仏GⅠ)】、日本で走ったジュピック【優駿牝馬】などが出ている。→牝系:F21号族①

母父トマホークは、名種牡馬キングトム(ポカホンタスの子)と英オークス馬ミンスミートの間に産まれた良血馬で、ウェストフィールドC・ポーツマスSなどを勝っている。なお、本馬の母父はトマホークではなく、ブルールインという馬である可能性も高い。英国血統書(ジェネラルスタッドブック)にも“Blue Ruin or Tomahawk”と記載されている。筆者が調べた限りでは、一応トマホークを母父として扱っている資料の方が多かったが、どちらが本当の母父なのかは不明である。ブルールインはウインザーHなどを勝った記録がある。その父はブルーマントルで、遡るとグッドウッドC勝ち馬キングストン、ヴェニスン(英愛首位種牡馬2回)、パルチザンを経てウォルトンに行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はベルモント・ジュニア氏が所有していたケンタッキー州ナーサリースタッドで種牡馬入りした。しかし種牡馬入りしても本馬の気性難は相変わらずで、牧場関係者は杖で武装しなければ本馬に近付けなかった。種付けのために本馬を移動させるのにも非常に危険が伴ったので、本馬専用の小さな牧場区画が用意された。そこで本馬は日常生活や種付けまでをこなしたため、本馬を移動させる機会と危険は大幅に縮小された。それでも本馬に攻撃されそうになった時のために、牧場関係者が出入りする扉は回転扉にされた。危うく本馬に蹴られそうになった関係者は、回転扉に体当たりして外に脱出し、難を逃れたという。

そんな本馬だが、種牡馬としては非常に優秀であり、初年度産駒マスターマンがベルモントSを勝ち、1902年には僅か2世代の産駒だけで北米首位種牡馬に輝くという史上初めての快挙を達成した。なお、スペンドスリフト、本馬、マスターマンの3頭で父子3代ベルモントS優勝を成し遂げている。1908年には代表産駒フェアプレイの活躍で2度目の北米首位種牡馬を獲得した。生涯で輩出したステークスウイナーは51頭にも達した。

1917年、本馬は身体中が麻痺する症状に襲われて倒れた。しかし相変わらず気性は激烈で、しばらくは安楽死の措置を行う事も出来ないほどだった。結局6月17日に本馬はナーサリースタッドで安楽死の措置が執られて24歳で他界したが、同年3月29日には同じナーサリースタッドで本馬の後継種牡馬フェアプレイを父に持つ栗毛の牡馬が誕生しており、本馬が息を引き取った日にも元気に牧場内を走り回っていた。後にその子馬にはマンノウォーという名前が与えられる。本馬が病に倒れてからもなおしばらく生き長らえたのは、孫の能力を見極めるためだったのだろうか。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1899

Gunfire

メトロポリタンH

1899

Masterman

ベルモントS

1900

Mizzen

トボガンH

1900

Rosetint

クイーンズカウンティH

1902

Blandy

ウィザーズS

1902

Glorifier

メトロポリタンH・カーターH

1904

Don Enrique

プリークネスS

1905

Fair Play

ブルックリンダービー・ジェロームH・ローレンスリアライゼーションS

1909

Flamma

ケンタッキーオークス

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