ヘイルトゥリーズン

和名:ヘイルトゥリーズン

英名:Hail to Reason

1958年生

黒鹿

父:ターントゥ

母:ノーサードチャンス

母父:ブルースウォーズ

走りまくった2歳時しか競走生活を送らなかったが種牡馬として成功し現在の日本競馬界を自身の血脈で埋め尽くす

競走成績:2歳時に米で走り通算成績18戦9勝2着2回3着2回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州において、馬産家・馬主・調教師を兼業していたハーシュ・ジェイコブス氏とイザドア・ビーバー氏の共同馬産団体ビーバー・ジェイコブス・ステーブルにより生産・所有され、調教もジェイコブス氏自身が行った。なお、本馬の馬主名義はジェイコブス氏の娘であるパトリス・ジェイコブス女史(彼女は馬産家ルイス・ウルフスン氏の2番目の妻となり、後に夫と共に米国三冠馬アファームドを生産している)になっている。

競走生活(2歳初期)

デビューは非常に早く、2歳1月21日にサンタアニタパーク競馬場で行われたダート3ハロンの未勝利戦だった。しかしこのデビュー戦では14頭立ての12着に惨敗。3週間後に出走した2戦目も同じコースの未勝利戦だったが、14頭立ての13着とまたも惨敗した。その後は米国東海岸に移動して、3月21日にアケダクト競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦が3戦目となった。しかし勝ったガーウォルに8馬身半差をつけられ、9頭立ての6着と3戦連続の惨敗となった。本馬がようやくまともに走ったのは、その5日後に出走した同じコースの未勝利戦で、スタンザマンの2馬身差2着に入った。その5日後にはやはり同じコースの未勝利戦に出て、ノーダンスの1馬身3/4差2着している。その5日後にはまたも同じコースの未勝利戦に出走して、2着ミックスドディールに9馬身差をつけて圧勝し、6戦目にして初勝利を挙げた。なお、ここで本馬に初騎乗したボビー・ユーザリー騎手は後に本馬の主戦となり、本馬がステークス競走に出る際には必ず騎乗する事になる。

勝ち上がった本馬は、11日後に同じコースの一般競走に出走して、キングズソングの1馬身3/4差3着に入った。その18日後の5月初めにも同じコースの一般競走に出走して、3月に同コースで行われた未勝利戦で敗れた相手であるスタンザマンを5馬身差の2着に下して圧勝した。その8日後に出走した同コースのユースフルS(D5F)では、かつて本馬を惨敗せしめたガーウォルが参戦してきた。しかし本馬がガーウォルを3/4馬身差の2着に下して、ステークス競走初勝利を挙げた。負けたガーウォルは、この後にピムリコフューチュリティを勝ち、ナショナルスタリオンS・シャンペンSで2着、カウディンS・ベルモントフューチュリティSで3着するなど2歳戦で活躍し、3歳以降もナッソーカウンティHを勝ち、ジェロームH・ブルックリンH・ガルフストリームパークHで2着、サバーバンH2回・ホイットニーS・ジョッキークラブ金杯で3着するなど一線級で活躍を続けるが、その頃には本馬は既に種牡馬入りしている。

ユースフルSの2週間後には、8戦連続でアケダクト競馬場ダート5ハロン競走の出走となるジュヴェナイルS(D5F)に参戦したが、ここではチェリーヒルSを勝ってきたアイアンレール、後にウッドメモリアルS・アーリントンクラシックS・サラナクS・ウエストチェスターHを勝ちプリークネスS・ベルモントS・カウディンS・ベルモントフューチュリティSなどで2着するグローブマスターの2頭に後れを取り、勝ったアイアンレールから2馬身半差の3着だった。6月にはモンマスパーク競馬場に移動して、下旬のタイロS(D5.5F)に出走したが、チンチラの5馬身半差5着に敗れた。なお、このレースには当時全く無名だった後のケンタッキーダービー・プリークネスS・カウディンS・ガーデンステートS・レムセンS・エヴァーグレーズS・フラミンゴS・フロリダダービー・ジェロームH・トレントンH2回・メトロポリタンH・モンマスH・ホイットニーSの勝ち馬キャリーバックも出走して3着に入っている。

競走生活(2歳中期)

すぐにアケダクト競馬場に戻ってきた本馬は、7月初めにトレモントS(D5.5F)に出走。ここでは2着ブロンゼルーラに3馬身差をつけて快勝した。それから2週間後のグレートアメリカンS(D5.5F)では、2着ブロンゼルーラに2馬身差、3着キャリーバックにはさらに鼻差をつけて勝利した。8月1日にはサラトガ競馬場で行われたサンフォードS(D6F)に参戦し、2着ブッシャーズビューティに6馬身差をつける圧勝劇を演じた。

その5日後には再度モンマスパーク競馬場に向かい、サプリングS(D6F)に出走。ここでは珍しくスタートで出遅れてしまったが、直線入り口8番手から大外を豪快に追い込み、バッシュフォードマナーSの勝ち馬で後にブリーダーズフューチュリティS・ケントS・ミッドウエストSを勝つヒーズアピストルを半馬身差の2着に、キャリーバックをさらに2馬身半差の3着に破って勝利した。

休む間もなくサラトガ競馬場に戻った本馬は、前走から11日後のサラトガスペシャルS(D6.5F)に出走。しかしここでは10ポンドのハンデを与えたブロンゼルーラから7馬身半差の6着と凡走してしまい、後にゴーサムS・ジャージーダービー・ディスカヴァリーH・グレイラグHを勝ちガーデンステートS・ローレンスリアライゼーションSで2着するアンビオポイズ(2着)、チンチラ(3着)にも先着された。米国の伝説的競馬作家チャールズ・ハットン氏が出版した米国の競馬年鑑「アメリカン・レーシング・マニュアル1961年版」によると、この敗因はレース中に脛が痙攣を起こしたためであるらしい。

それから10日後、サラトガスペシャルSと全く同じコースで行われたホープフルS(D6.5F)では、前走で負かされた相手であるブロンゼルーラを10馬身差の2着に、チンチラを3着にちぎり捨て、1分16秒0のコースレコードを計時して圧勝した。このホープフルSは1925年にダート6.5ハロンで行われるようになってから、バイムレックワーラウェイデヴィルダイヴァーネイティヴダンサーナシュアニードルズ、ファーストランディングなど多くの歴史的名馬が勝っていた登竜門的レースであり、これをレコードタイムで勝った本馬の名声はかなり高まったと「アメリカン・レーシング・マニュアル1961年版」には記載されている。

翌9月にはアトランティックシティ競馬場に向かい、10日のワールズプレイグラウンドS(D7F)に出走。クリスティアーナSの勝ち馬イッツアグレートデイを4馬身差の2着に、キャリーバックを4着に破って圧勝した。

故障のため2歳途中で競走馬を引退

その後も陣営は本馬を走らせまくるつもりだったと思われるが、ワールズプレイグラウンドSから数日後、アケダクト競馬場で行われた朝の調教中に落鉄した本馬は、その拍子に両前脚の種子骨を骨折してしまった。ジェイコブス師と息子のジョン・ジェイコブス氏は即座に患部にギプスを装着させて治療を開始した。当時は競走馬に使用できる鎮痛剤が存在しておらず、その苦痛は相当なものだったと思われるが、賢い馬だったと評された本馬は暴れることも無くその苦痛に耐え続け、なんとか一命を取り留めることが出来た。しかし現役続行は不可能であり、そのまま引退を余儀なくされた。

2歳1月のデビューから2歳9月の引退まで僅か9か月足らずの短い競走生活だったが、この間に18戦をこなして、ステークス競走7勝を含む9勝を挙げ、この年の米最優秀2歳牡馬に選ばれた。

競走馬としての特徴

本馬の生産者兼馬主兼調教師であるジェイコブス一家は、過去に131戦35勝のスタイミー、89戦25勝のサーチング(ただし最初の20戦はオグデン・フィップス氏名義)を頑健に走らせ、本馬の後にも、サーチングの娘である52戦28勝のアフェクショネイトリー、本馬の娘である99戦21勝のストレートディールなどを頑健に走らせている。生産・所有・調教まで全て一家内でこなさなければならないため、所有馬を走らせまくって賞金を稼ぐ必要があり、所有馬を故障させないだけの調教技術も有していたとは思われる。

本馬の場合は果たしてどうだったか。本馬の父ターントゥは仕上がり早かったが脚部不安で早々に引退に追い込まれている。しかし本馬の母ノーサードチャンス(現役時代の馬主はジェイコブス一家ではないが、管理調教師はジェイコブス師だった)は仕上がりも比較的早かったが、長期間に渡り頑健に走り続けている。陣営が本馬を仕上がり早い馬と判断したのは血統的にも結果的にも誤りではないだろう。しかし頑健さという点で本馬をどう評価していたのか。本馬は母に似て頑丈な馬であり、運悪く早い時期に故障しただけなのか。本馬は父に似て脚部不安があったが、それを承知の上で使える内に使いまくろうと考えたのか。それとも本馬を故障させないくらい調教技術に自信があったのか。筆者には判断がつかない。「アメリカン・レーシング・マニュアル1961年版」によると、本馬の故障後にジェイコブス一家に対する風当たりはやはり強かったようである。ただ、故障した本馬をあっさりと処分せずに治療した事は確実に評価できる。それが無ければシアトルスルーサンデーサイレンスもこの世に生まれなかった事になるからである。「アメリカン・レーシング・マニュアル1961年版」には「ヘイルトゥリーズンの故障は競走面においては損失でしたが、無事に種牡馬入り出来た事は繁殖面においては有益でした」と、本馬の将来性を予言するかのような記載がある。

本馬の健康面に関しては結局よく分からないが、気性面に関しては、どの資料においても「賢い馬」という評価で一致している。「アメリカン・レーシング・マニュアル1961年版」には、著者のハットン氏が引退直後の本馬に会いに行った感想が載っており、「この若い種牡馬は知的な目をしており、何にでも興味を示していました。ネアルコの子孫達は気性が激しい傾向があるのですが、彼にはそうした面は見られませんでした。牧場の椅子に座って本を読むジェイコブス夫人の忠実な番犬としての役割を担っており、見知らぬ他人が来ると、ジェイコブス夫人を守ろうとしていました」と書かれている。こんな馬からヘイローとサンデーサイレンスの親子のような気性が激しい馬が出るのだから、「父は大人しい⇔子は大人しい」「父は気性難⇔子は気性難」といった式は必ずしも成立しない事がよく分かる。もっとも、ヘイローやサンデーサイレンスの気性難は取り扱う側の人間に問題があったからでもあるのだが。

血統

Turn-to Royal Charger Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Sun Princess Solario Gainsborough
Sun Worship
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Source Sucree Admiral Drake Craig an Eran Sunstar
Maid of the Mist
Plucky Liege Spearmint
Concertina
Lavendula  Pharos Phalaris
Scapa Flow
Sweet Lavender Swynford
Marchetta
Nothirdchance Blue Swords Blue Larkspur Black Servant Black Toney
Padula
Blossom Time North Star
Vaila
Flaming Swords  Man o'War Fair Play
Mahubah
Exalted High Time
Lady Comfey
Galla Colors Sir Gallahad Teddy Ajax
Rondeau
Plucky Liege Spearmint
Concertina
Rouge et Noir St. Germans Swynford
Hamoaze
Baton Rouge Man o'War
Baton

ターントゥは当馬の項を参照。

母ノーサードチャンスは前述のとおり頑健に走り続けた馬で、エイコーンSに勝ち、カムリーS・レディーズHで2着するなど93戦(95戦とする資料もある)11勝の成績を残した。ちなみに、ノーサードチャンス(三度目は無い)とは、第三次世界大戦が起こらないようにという願いを込めてジェイコブス氏が付けた名である(ノーサードチャンスが産まれた1948年は、2月のチェコスロバキア政変をきっかけに東西冷戦が本格化し、戦勝国により占領されていた独国の東西分断が決定的になった年である)。本馬の馬名の意味「理性を呼び掛ける」も母の名に由来している。本馬の血が世界中に広がったように、人間の理性も世界中に広がってほしいものだが、昨今の世界情勢を見る限りでは残念ながら期待薄のようである。

本馬の半妹ビーサスピシァス(父ポーターハウス)の孫には、メドウレイク【アーリントンワシントンフューチュリティ(米GⅠ)】とレオキャステリ【ピーターパンS(米GⅠ)】の兄弟がいる。

ノーサードチャンスの祖母ルージュエトノワールの半兄にはファイアソーン【ジョッキークラブ金杯2回・サバーバンH・ローレンスリアライゼーションS】、半妹にはクレオールメイド【CCAオークス・スカイラヴィルS】がおり、クレオールメイドの子にはナッチェズ【トラヴァーズS】、曾孫には大種牡馬ダンチヒの母父であるアドミラルズヴォヤージ【ウッドメモリアルS・カーターH・サンカルロスH】、牝系子孫にはトライフォーサイズ【ソードダンサーH(米GⅠ)】、ショウイングアップ【セクレタリアトS(米GⅠ)・ハリウッドダービー(米GⅠ)】などがいる。→牝系:F4号族④

母父ブルースウォーズはブルーラークスパーの直子で、現役成績22戦5勝。レムセンH・イースタンショアH・アーズリーHなどを勝ったが、同世代に運悪くカウントフリートという米国競馬史上において五指に入る名馬がおり、シャンペンS・ウッドメモリアルS・ケンタッキーダービー・プリークネスSでは全てカウントフリートの2着に敗れた。競走馬としてはカウントフリートに歯が立たなかったし、種牡馬としても及ばなかったブルースウォーズだが、母父として本馬を出した事により、後世に与えた影響力はカウントフリートと互角かそれ以上である。種牡馬としては、ノーサードチャンスの他にブルーマン【プリークネスS・フラミンゴS・ドワイヤーS】などを出した。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ケンタッキー州ハグヤードファームで種牡馬入りした。しかし当初の種牡馬人気は至って低調であり、初年度産駒は僅か13頭だった。ところがこの13頭の中から、ベルモントS・トラヴァーズSを勝利したヘイルトゥオール、99戦してステークス競走13勝を挙げて1967年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれたストレートディール、アーリントンワシントンラッシーSの勝ち馬アドマイアリング(前述のサーチングの娘で、アフェクショネイトリーの半妹に当たる)など5頭のステークスウイナーが登場した。

これにより人気種牡馬となった本馬はその後も活躍馬を出し続け、1970年には米年度代表馬パーソナリティなどの活躍により、ボールドルーラーの8連覇を阻止して北米首位種牡馬に輝いた。同年には北米2歳首位種牡馬にもなっている。

産駒は米国のみならず欧州でも活躍しており、国籍・馬場を問わないオールマイティな種牡馬能力を発揮した。本馬は英ダービー馬とケンタッキーダービー馬を両方出した数少ない種牡馬の一頭である(他にはリーミントンブレニムハイペリオンニジンスキーしかいない)。1976年2月にハグヤードファームにおいて18歳で他界した。

後世に与えた影響

本馬と本馬の後継種牡馬達は、優れたスピードを産駒に伝え、どんな繁殖相手とも優れた和合性を示し、相手方の長所を引き出す能力が高かったとされる。本馬の直系は特にノーザンダンサーの血が強くなった日本の馬産界において、その血を適度に中和することで成功したとされる。産駒のロベルトリアルシャダイブライアンズタイムの父。同じく産駒のヘイローはサンデーサイレンスの父である。現在の日本競馬界は本馬の直系が一大勢力を築いており、母系も含めて本馬の血を持たない馬は少数派である。本馬は繁殖牝馬の父としても一流で、ボールドリーズニング(シアトルスルーの父)、アレフランストリプティクなど、100頭以上のステークスウイナーを出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1962

Admiring

アーリントンワシントンラッシーS

1962

Hail to All

ベルモントS・トラヴァーズS・ジャージーダービー

1962

Straight Deal

ハリウッドオークス・レディーズH・サンタマルガリータ招待H・サンタバーバラH・ベッドオローゼズH2回・シープスヘッドベイH・フィレンツェH・オーキッドH・トップフライトH・デラウェアH・ヴァインランドH・スピンスターS

1963

Priceless Gem

ベルモントフューチュリティS・フリゼットS

1964

Proud Clarion

ケンタッキーダービー・ローマーH

1964

Reason to Hail

カリフォルニアダービー

1964

Regal Gleam

フリゼットS・セリマS

1964

Silver True

スピナウェイS

1964

Woozem

ゴールデンロッドS・デモワゼルS

1966

Hail to Patsy

ケンタッキーオークス

1966

Mr. Leader

ジェロームH・スターズ&ストライプスH・タイダルH

1967

Hail the Grey

サンタバーバラH

1967

Personality

プリークネスS・ウッドワードS・ウッドメモリアルS・ジャージーダービー・ジムダンディS

1968

Bold Reason

トラヴァーズS・ハリウッドダービー・レキシントンH・アメリカンダービー

1968

Dutiful

アディロンダックS

1968

Good Counsel

ワイドナーH・ロングフェローH

1968

Inca Queen

デモワゼルS・コロンビアナH・トップフライトH・シープスヘッドベイH

1968

Limit to Reason

ピムリコローレルフューチュリティ・シャンペンS

1969

Halo

ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)・ローレンスリアライゼーションS・タイダルH(米GⅡ)

1969

Roberto

英ダービー(英GⅠ)・ベンソン&ヘッジズ金杯(英GⅠ)・コロネーションC(英GⅠ)・愛ナショナルS(愛GⅡ)・アングルシーS(愛GⅢ)

1970

Hail the Pirates

ガルフストリームパークH(米GⅠ)・プレイヤーウイルズS(愛GⅡ)・ガリニュールS(愛GⅡ)・ニジンスキーS(愛GⅡ)・セミノールH(米GⅡ)・デスモンドS(愛GⅢ)・クイーンズカウンティH(米GⅢ)

1970

Stop the Music

サラトガスペシャルS・シャンペンS・ドワイヤーH(米GⅡ)

1970

Winds of Thought

センチュリーH(米GⅠ)

1971

Hippodamia

クリテリウムデプーリッシュ(仏GⅠ)

1971

Within Hail

ヴォランテH(米GⅢ)

1972

Prince Thou Art

フロリダダービー(米GⅠ)

1973

Oilfield

ニッカボッカーH(米GⅢ)・ブライトンビーチH(米GⅢ)

1974

Cum Laude Laurie

デラウェアオークス(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・ベルデイムS(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)・クイーンズカウンティH(米GⅢ)

1974

Mrs. Warren

スピナウェイS(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)・フィレンツェH(米GⅡ)・スカイラヴィルS(米GⅢ)

1974

Trillion

ガネー賞(仏GⅠ)・ドラール賞(仏GⅡ)2回・アルクール賞(仏GⅡ)・ミネルヴ賞(仏GⅢ)・ロワイヤリュー賞(仏GⅢ)・フォワ賞(仏GⅢ)

1976

Quiet Crossing

ランプライターH(米GⅢ)

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