ペトラーク

和名:ペトラーク

英名:Petrarch

1873年生

鹿毛

父:ロードクリフデン

母:ローラ

母父:オーランド

サラブレッドの理想とされるほど見栄えが良かった英2000ギニー・英セントレジャー優勝馬だが腎臓病に悩まされ現役時代から流浪の日々を送る

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績16戦8勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

英国でJ・E・ゴスデン氏という人物により生産・所有された。ゴスデン氏は小規模牧場の牧場主だったが、所有する繁殖牝馬には有力種牡馬を積極的に交配させていた。父ロードクリフデンと母ローラの間に産まれた本馬は体格こそあまり大きくなかった(成長後の体高は15.3ハンド)上に、飛節があまり良くなかった。しかしそれらを差し引いても、素晴らしく見栄えが良い馬だった。60年間競馬記者をしてきたアレクサンダー・スコット氏は「過去60年間見てきた中で一番外見が理想的だった馬を挙げよと言われたら、私は迷わずにペトラークを挙げます」と言い、本馬より3歳年上の英ダービー馬ドンカスターや英セントレジャー馬マリースチュアートを手掛けたロバート・ペック調教師(後にドンカスターの代表産駒ベンドアも手掛けている)は本馬を初めて見た時に「何と美しい馬か!」と感嘆したという。

競走生活(3歳前半まで)

ゴスデン氏の本馬に対する期待の高さは、デビュー戦が2歳最高峰のレースの1つだったミドルパークプレート(T6F)だったという点に現れている。このレースではロリポップという馬が単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持されており、さすがにデビュー戦という点を割り引かれた本馬は単勝オッズ13.5倍の評価だった。しかしジェム・ゴーター騎手が騎乗する本馬は、他の出走馬29頭を蹴散らして2着マデイラに4馬身差をつけて圧勝し、一躍その名を世間に知らしめる事になった。ここで本馬の着外に敗れた馬の中には、当時名前が付けられていなかったキシュベルも含まれていた。

このレースに出走していた有力馬カレイドスコープの所有者だったダプリン子爵こと第12代キンノウル伯爵ジョージ・ヘイ・ドラモンド卿は本馬の購入をゴスデン氏に打診。ドラモンド卿と彼の専属調教師だったジョン・ドーソン師が見守る中で行われた試走においても見事な走りを披露した本馬は、1万ポンド(1万ギニーとも)でドラモンド卿により購入された。

本馬の1歳年上の英ダービー馬ガロピンも管理したドーソン師に委ねられた本馬は、その後当分レースに出ず、デビュー2戦目は3歳時の英2000ギニー(T8F17Y)だった。3歳シーズン当初こそ英2000ギニーや英ダービーの前売りオッズで1番人気に推されていた本馬だが、レース前の試走で同厩のカレイドスコープに先着されてしまった。ドーソン師は本馬が本調子ではなかったとドラモンド卿に伝えたが、ドラモンド卿は本馬よりカレイドスコープの方が勝つ確率が高いと判断し、カレイドスコープに大金を賭けていた。その結果、本馬はカレイドスコープに1番人気(単勝オッズ4倍)を譲ったばかりでなく、かなり人気薄(単勝オッズはブックメーカーによって異なるが21倍や41倍だったという)での出走となった。無名の減量騎手ハリー・ルーク騎手を鞍上に迎えたレースでは、逃げるカマンベールを見るように先行して抜け出すと、2着ジュリアスシーザーに3馬身差、3着カレイドスコープにはさらに1馬身半差をつけて優勝した。ゴール前では全くの馬なりであり、着差以上の強さを感じさせたため、同レース史上有数の楽勝と評された。レース前の試走とあまりにも違ったため、専門家の中には「ドラモンド卿はわざと試走で凡走させてペトラークの評価を下げさせた上で、ペトラークに賭けて大金を得ようとしたのではないか」と穿った意見を述べた者もいたが、前述のとおりドラモンド卿はカレイドスコープに賭けていたから、その見方は真相を言い当ててはいなかったようである。

次走の英ダービー(T12F29Y)では、本馬が単勝オッズ3倍の1番人気に支持され、前年のミドルパークプレートで本馬の着外に敗れた後にデューハーストプレートを勝っていたキシュベルが単勝オッズ5倍の2番人気となった。レースでは直線でいったん先頭に立ったものの、キシュベルに並びかけられると失速。後のアスコットダービーの勝ち馬フォアランナーや前走で子ども扱いしたジュリアスシーザーにも差されて、キシュベルの4着に敗れた。英2000ギニーを人気薄で勝ち、英ダービーを人気で負けた事から、前述した「ドラモンド卿のオッズ操作説」はさらに信憑性を増すことになったが、本馬の英ダービーの敗因はそんな理由では無かった。実は本馬には腎臓病の持病があり、英ダービーの前に症状が悪化していたのである。

競走生活(3歳後半)

英ダービーの後に症状がやや回復したために、プリンスオブウェールズS(T13F)に出走。セントジェームズパレスSを勝ってきたグレートトムを2着に、英ダービーで3着だったジュリアスシーザーを3着に破って勝利した。引き続いて出走したアスコットバイエニアルSでは、ニューSの勝ち馬コルトネスが勝利を収め、本馬は4頭立ての最下位。立て続けに出走したアスコットトリエニアルS(現ジャージーS)でも、モーニングスターという馬が勝利を収め、本馬は3頭立ての最下位。不安定なレースが目立つようになっていた。

そのため夏場は休養に充て、秋は英セントレジャー(T14F132Y)にぶっつけ本番で出走した。英ダービーに続いてパリ大賞も勝っていたキシュベルが単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持され、ゴーター騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ10倍の評価だった。しかし休養が効いたのか本馬の体調は戻っていた。スタートが切られると1番人気のキシュベルが果敢に先頭に立ったが、本馬は慌てずに後方をじっくりと進んだ。そして直線に入るところで、単勝オッズ101倍の伏兵ワイルドトミーと一緒に上がっていった。2頭揃ってキシュベルを抜き去ると、後はこの2頭の一騎打ちとなった。本馬鞍上のゴーター騎手は本馬に対して鞭と拍車を容赦なく使い、ようやくワイルドトミーを競り落として首差で勝利した。3着にはジュリアスシーザーが入り、直線で失速したキシュベルは着外だった。このレースに関しても、ドラモンド卿がキシュベル陣営を買収して、本馬が勝てるようにキシュベルにペースメーカー役となってもらったのだという噂が流れたらしい。19世紀の英国競馬界で八百長が横行していたのは事実だが、本馬に関しては状況証拠からして八百長とは無関係である。しかし本馬は八百長疑惑が噴出するほどレース内容が不安定だったことも確かであり、それが影響したのか、3歳時を6戦3勝の成績で終えた本馬は冬場の休養中に第4代ロンズデール伯爵セントジョージ・ローサー卿に売却された。

競走生活(4歳時)

ジョセフ・キャノン調教師の管理馬となった本馬は、4歳時は3月のリンカンシャーH(T8F)から始動した。鞍上にはフレッド・アーチャー騎手を迎えたが、125ポンドという出走馬中2番目に重い斤量も影響したようで、単勝オッズ10倍止まり。レースでも、斤量100ポンドだった同世代のコロネーションS・リヴァプールオータムCの勝ち馬フットステップスの11着に敗れた。しかしニューマーケット競馬場で出走した次のレースを単走で勝利すると、エプソム競馬場で行われたハイレベルHを勝利した。

続くアスコット金杯(T20F)では、ニューマーケットダービー・ゴールドヴァーズの勝ち馬スカイラークと人気を分け合った。キャノン師の兄トム・キャノン騎手が騎乗した本馬は仕掛け所までは今ひとつ手応えが悪いように見えたが、キャノン騎手が鞭を2~3回入れるとすぐに反応して、2着スカイラークに1馬身差で勝利した。その後のリヴァプールサマーC(T12F)では129ポンドのトップハンデを課されたが、それでも単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持された。しかし直線でいったんは先頭に立つも、19ポンドのハンデを与えたスネイルにゴール寸前で差されて頭差の2着となった。次走のグッドウッドC(T20F)でも1番人気に支持されたが、持病の腎臓病が再発してしまい、5頭立ての4着に敗退。2着スカイラークを1馬身半差の2着に抑えて勝ったのは、ようやく頭角を現し始めていた1歳年上の同父馬ハンプトンだった。その後は1歳年下の英オークス馬プラシダとのマッチレースがニューマーケット競馬場で企画されたが実現せず、4歳時の成績も6戦3勝となった。

競走生活(5歳時)

5歳時は4月にエプソム競馬場で行われたシティ&サバーバンH(T10F)から始動して、単勝オッズ6.5倍ながらも1番人気に支持されたが、この2か月後に英ダービー馬となる3歳牡馬セフトンの着外に敗れた。次走のロウス記念S(T8F)ではアーチャー騎手を鞍上に、単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持された。レースでは逃げるダルハムをゴール前で際どく捕らえて首差で勝利した。このレースの後に財政難に陥ったローサー卿により本馬はまたも転売され、今度は第5代カルソープ男爵フレデリック・ゴフ・カルソープ卿の所有馬となった。

カルソープ卿の元で本馬が出走したレースは秋の英チャンピオンS(T10F)の1戦のみだった。レースでは、この年の英オークス・英セントレジャー・ヨークシャーオークス・パークヒルSを勝っていた3歳牝馬ジャネットが、前年の英ダービー・英セントレジャー・アスコットダービーの勝ち馬でアスコット金杯2着のシルヴィオを首差抑えて勝ち、本馬とかつて同厩だったリンカンシャーHの勝ち馬カレイドスコープが3着に入る中、着外に敗れた本馬はそのまま5歳時3戦1勝の成績で競走馬を引退した。

本馬は現役時代を通じて腎臓病に悩まされており、ドーソン師は本馬の健康管理にいつも頭を悩ませていたという。体調が良い時は見事な走りを見せる一方で、体調が思わしくない時はいつも凡走したため、本馬に騎乗した騎手達は本馬には勇敢さが無いと批評したという(体調不良で走らないのは当たり前だと思うのだが)。しかしドーソン師は「ペトラークは優れた馬、いや、とてもとても優れた馬でした」と評価している。なお、本文中で何度か触れたように、本馬や本馬と同世代の馬の馬主達は本馬を凡走させたりする事でオッズを操作して儲けていたいう噂が流れており、海外の資料の中には噂ではなく真実であると断定しているものもある(この資料には本馬が腎臓病だったとする記載は全く無い)が、「英2000ギニーでダプリン子爵は本馬ではなくカレイドスコープに大金を賭けた」と記載されているのはその資料の中であり、矛盾しているため信憑性は低い。繰り返しになるが、確かに当時の英国競馬界ではそのような事がまかり通っていたのは事実ではあるらしいが、本馬がその対象だったとは断定し難いのではないだろうか。腎臓病に悩まされていたのは事実であるようだから、そんな中でも一流の競走成績を残した事は賞賛されてしかるべきだと思われる。

血統

Lord Clifden Newminster Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Beeswing Doctor Syntax Paynator
Beningbrough Mare
Ardrossan Mare Ardrossan
Lady Eliza 
The Slave Melbourne Humphrey Clinker Comus
Clinkerina
Cervantes Mare Cervantes
Golumpus Mare
Volley Voltaire Blacklock
Phantom Mare
Martha Lynn Mulatto
Leda
Laura Orlando Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Vulture Langar Selim
Walton Mare
Kite Bustard
Olympia
Torment Alarm Venison Partisan
Fawn
Southdown Defence
Feltona
Glencoe Mare Glencoe Sultan
Trampoline
Alea Whalebone
Hazardess

ロードクリフデンは当馬の項を参照。

母ローラはゼトランドS・マーチSを勝利したなかなかの活躍馬だったが、現役中に所有者が代わった後の調教中に故障してしまった。その後たまたまローラを目にしたゴスデン氏によって購入されて繁殖入りしていた。繁殖牝馬としては本馬の半兄プロトマーター(父セントオールバンズ)【ベンティンク記念S】、半姉フロイライ(父ナットボーン)【ドンカスターC】、半兄レムノス(父サンダーボルト)【シャンペンS】、半弟ローリエット(父ロジクルーシアン)【クレイヴンS】など多くのステークス競走の勝ち馬を産んだ。ローラの半妹にはトーメンター(父キングトム)【英オークス】が、ローラの半妹ビーフラット(父オーランド)の子にはパウル【独ダービー】が、ローラの半妹インクイジション(父セントオールバンズ)の牝系子孫にはバクーコウ【ローマ賞2回・伊ジョッキークラブ大賞】などが、ローラの半妹パインドクール(父フリポニアー)の子にはディスペア【セントジェームズパレスS・オールエイジドS(現コーク&オラリーS)】、牝系子孫には、ハイランドバッド【米グランドナショナル2回】、クリセリアム【BCジュヴェナイルフィリーズターフ(米GⅠ)・フィリーズマイル(英GⅠ)】、日本で走ったメイショウボーラー【フェブラリーS(GⅠ)】などがいる。→牝系:F10号族②

母父オーランドは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はハンプトンコートスタッドで種牡馬入りし、後にランウェイズスタッドに移動した。本馬の産駒は早熟色が強く、1883年に勝ち星を挙げた産駒9頭は全て2歳馬で、1889年には2歳馬10頭が勝ち星を挙げている。また、本馬の産駒は牝駒の活躍馬が多く、3頭いる英国クラシック競走の勝ち馬と1頭いる仏国クラシック競走の勝ち馬は全て牝馬であった。しかし本馬が牡駒の活躍馬を出さなかったわけではなく、牡馬の代表産駒の1頭であるザバードは英ダービーに10回出れば9回は勝ったと言われたほどの素質馬だったが、同世代に生涯無敗の英国三冠馬オーモンドがいたために、英ダービーで2着に負けたという不運があったりもした。

本馬は優秀な種牡馬であったが、当時の英国競馬界は、ハーミット、ベンドア、ハンプトン、ガロピンセントサイモンといったさらに優秀な種牡馬が溢れかえっていたため、流行の種牡馬ではなかった。そのためか1893年の繁殖シーズン終了後に本馬は仏国に売却され、19世紀が終わる少し前に他界したという。後継種牡馬としてはザバード、ハックラー(日本競馬史上初の首位種牡馬イボアの父)が活躍したが、直系は長く続かなかった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1881

Busybody

英1000ギニー・英オークス・ミドルパークS・グレートチャレンジS

1883

Miss Jummy

英1000ギニー・英オークス・ナッソーS・パークヒルS

1883

Presta

仏オークス・バルブヴィル賞2回

1883

The Bard

グッドウッドC・ドンカスターC

1884

Florentine

ミドルパークS・セントジェームズパレスS

1886

Laureate

ケンブリッジシャーH・ロイヤルハントC

1888

Cereza

コロネーションS・パークヒルS

1888

Peter Flower

オールエイジドS

1891

Throstle

英セントレジャー・コロネーションS・ナッソーS

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