カンタベリーピルグリム

和名:カンタベリーピルグリム

英名:Canterbury Pilgrim

1893年生

栗毛

父:トリスタン

母:ピルグリメージュ

母父:ザパルマー

チョーサーとスウィンフォードの2頭の牡駒を通じて後世に大きな影響力を与えた英オークス馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績11戦4勝3着1回

誕生からデビュー前まで

英国セフトンスタッドにおいて、モントローズ公爵夫人ことキャロライン・アグネス・ベレスフォード女史により生産された。彼女は1836年、18歳の時に第4代モントローズ公爵ジェームズ・グレアム卿と結婚したが、夫が死去した2年後の1876年に著名な馬主だったウィリアム・スターリング・クローファード氏と再婚して、自身も競馬に関わる様になり、1882年に自ら購入したニューマーケットの土地をセフトンスタッドと命名して馬産を始めていた。本馬の母である英2000ギニー・英1000ギニーを勝った名牝ピルグリメージュもベレスフォード女史により購入されてセフトンスタッドで繁殖入りしていた。翌1883年にクローファード氏が死去すると、彼女は1888年に3度目の結婚をしたが、本馬が誕生した翌1894年に自身も死去した。

彼女の息子は馬産に興味が無かったため、セフトンスタッドやそこに繋養されていた馬を売り払った。セフトンスタッドの土地の大半は第16代ダービー伯爵フレデリック・アーサー・スタンリー卿に購入され、スタンレーハウスステーブルなどになった。本馬もまたスタンリー卿により1800ギニーで購入された。スタンリー卿の専属調教師だったジョージ・ラムトン師は本馬の事を「下半身の強さには見るべきものがあるが、上半身が見栄えしないし、何より小柄である」と評したが、ベレスフォード女史の競馬マネージャーでセフトンスタッドを運営していたジョン・グリフィス氏(かつてハーミットガロピンが繋養されていたブランクニーホールスタッドの牧場長だった)が、脚腰は強いと本馬を推奨したためスタンリー卿は購入に踏み切ったという。ラムトン師の管理馬となった本馬だが、気性的な問題があり調教は困難だったという。

競走生活

2歳時にデビューして5戦したが、リヴァプールナーサリーSで3着に入ったのが唯一の入着だった。9月にドンカスター競馬場で出走した英シャンペンS(T5F152Y)では、後のミドルパークプレートで同世代の強豪セントフラスキンパーシモンの間に割って2着に入る牝馬オムラディナの着外に敗れるなど、他の4戦では着外に終わった。スタートでは優れたスピードを見せたが、終盤で失速してしまうレースが多かった。ラムトン師は本馬の競走能力に疑問を抱いたが、本馬の走り方を見たロバート・ペック調教師は、本馬は優秀な長距離馬であり、英オークスを勝てるだろうとラムトン師に助言した。

3歳になる頃にも本馬は小柄な馬体のままで、気性の激しさにも磨きがかかり、脚を蹴り上げたり物に噛み付いて強く引っ張ったりした。周囲の人間が近づく事もできなかったので、陣営はフレアアップという名の気性が大人しい古馬の騙馬を本馬の仲間として近くに置く事にした。フレアアップの落ち着いた気性は本馬の激しい気性を多少和らげ、何とか人間が扱える程度までになった。そのうち本馬は調教でも真面目に走るようになった。英オークスの前に一回試走を行ったが、本馬は容易に勝利した。

そして迎えた英オークス(T12F29Y)では、本馬は未勝利馬ながらも単勝オッズ13.5倍の穴馬としての評価を受けた。レースではフレッド・リッカビー騎手を鞍上に、先行する英1000ギニー馬タイスを鮮やかに差し切り、2着タイスに2馬身差、3着プロポジションにはさらに1馬身差をつけて優勝し、ペック師の予言どおりに英オークス馬になった。

その後はコロネーションS(T8F)に出走したが、やはりマイル戦は忙しすぎたのか、いったん先頭に立つも「燃え尽きた蝋燭のように」失速して4着に終わった。勝ったのは、後にヨークシャーオークスも勝つデューハーストプレート3着馬ヘルムで、タイスが2着に、後のナッソーSの勝ち馬ミスフレイザーが3着に入っている。引き続き出走したリヴァプールサマーC(T11F)では、豪州でドンカスターH・コーフィールドC2回・ザメトロポリタンを勝って英国に移籍してきた9歳騙馬パリスという強敵が現れた。しかしパリスより24ポンド斤量が軽かった本馬が、パリスを1馬身差の2着に抑えて勝利した。着差は小さかったが楽勝だったと伝えられている。

この頃、ラムトン師が健康を害したため、本馬は若手のハリー・シャープ師とチャールズ・モービィ師の両名に引き継がれた。それでも本馬は次走のパークヒルS(T14F132Y)では単勝オッズ1.91倍の1番人気に応えて、文字どおりの馬なりのまま走り、3ポンドのハンデを与えたハーストボーンSの勝ち馬で英1000ギニー3着のジョリーボートを2馬身差の2着に破って勝利した。次走のケンブリッジシャーH(T9F)では、後にドンカスターC・コンセイユミュニシパル賞を勝ちアスコット金杯でパーシモンの2着するウインクフィールズプライドの着外に敗れた。しかしそれから2日後に出走したジョッキークラブC(T18F)では、2着グリスタンを15馬身ぶっちぎって圧勝した。このレースを最後に、3歳時6戦4勝の成績で競走馬を引退した。

血統

Tristan Hermit Newminster Touchstone Camel
Banter
Beeswing Doctor Syntax
Ardrossan Mare
Seclusion Tadmor Ion
Palmyra
Miss Sellon Cowl
Belle Dame
Thrift Stockwell The Baron Birdcatcher
Echidna
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Braxey Moss Trooper Liverpool
Bassinoire
Queen Mary Gladiator
Plenipotentiary Mare 
Pilgrimage The Palmer Beadsman Weatherbit Sheet Anchor
Miss Letty
Mendicant Touchstone
Lady Moore Carew
Madame Eglentine Cowl Bay Middleton
Crucifix
Diversion Defence
Folly
Lady Audley Macaroni Sweetmeat Gladiator
Lollypop
Jocose Pantaloon
Banter
Secret Melbourne Humphrey Clinker
Cervantes Mare
Mystery Jerry
Nameless

トリスタンは当馬の項を参照。

ピルグリメージュは当馬の項を参照。→牝系:F1号族⑥

母父ザパルマーはピルグリメージュの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はスタンリー卿が所有するノーズリースタッドで繁殖牝馬となった。10頭の産駒を産み、うち7頭が勝ち上がっている。本馬の産駒10頭中7頭が牝馬で、その中にはナッソーSを勝った4番子の牝駒グラスコンベリー(父アイシングラス)もいるが、後世に与えた影響力の大きさでは3頭の牡馬のうち2頭が群を抜いている。その1頭は7歳時に産んだ2番子のチョーサー(父セントサイモン)【ジムクラックS】、もう1頭は14歳時に産んだ7番子のスウィンフォード(父ジョンオゴーント)【英セントレジャー・エクリプスS・ハードウィックS2回・プリンセスオブウェールズS】である。この2頭の詳細についてはそれぞれ当馬の項を参照してほしいが、この2頭を通じて本馬の血は後世に大きく広まった。また、本馬の牡馬で唯一競走馬としても種牡馬としても振るわなかった9番子のハリーオブヘレフォード(父ジョンオゴーント)も、米国三冠馬ウォーアドミラルの祖母の父として名を残している。

もっとも、本馬の牝系子孫が後世に影響力を残さなかったというわけではない。

初子の牝駒セントヴィクトリン(父セントサーフ)は不出走馬だったが、その子孫からは豪州の歴史的大種牡馬スターキングダム、パッシブ【マナワツサイアーズプロデュースS・新1000ギニー・新2000ギニー・新ダービー】、カークランドレイク【サラマンドル賞・フォレ賞】、リボヴィレ【SAダービー(南GⅠ)・ホースチェスナットS(南GⅠ)・ダーバンジュライ(南GⅠ)】、セントアンドリュース【ガネー賞(仏GⅠ)2回】などが出ている。

5番子の牝駒ワイフオブバス(父セントサイモン)は7戦未勝利だったが、その子孫からは、シリーシーズン【デューハーストS・セントジェームズパレスS・英チャンピオンS・ロッキンジS】、ダンシングキャップ(オグリキャップの父)、モンフィス【英2000ギニー(英GⅠ)】、ゴンドリエ【SAクラシック(南GⅠ)・デイリーニューズ2000(南GⅠ)・ダーバンジュライ(南GⅠ)】などが出ている。

6番子の牝駒ピルグリムズウェイ(父セントフラスキン)の牝系子孫からは、ライトボーイ【キングズスタンドS・ジュライC2回・ナンソープS2回】、レインラヴァー【メルボルンC2回・マッキノンS・アンダーウッドS】、ブラ【英チャンピオンハードル2回】、日本で走ったアシヤフジ【東京大賞典・開設記念(川崎記念)】などが出ている。

最後の子である10番子の牝駒ヌンズヴェイリング(父ロクロール)の牝系子孫からは、レミッタンスマン【クイーンマザーチャンピオンチェイス(英GⅠ)・メリングチェイス(英GⅠ)】、日本の地方競馬で走った強豪グレートローマンなどが出ている。

このように本馬の牝系子孫はそれほど繁栄しているわけではないが、21世紀に入った現在も各国に残っている。

本馬は21歳時に最後の子ヌンズヴェイリングを産んだ3年後の1917年に24歳で他界したが、現在世界中で走っているサラブレッドの血統表を遡ると、まず間違いなくどこかに本馬の名前が出てくるはずである。

TOP