アイシングラス

和名:アイシングラス

英名:Isinglass

1890年生

鹿毛

父:アイソノミー

母:デッドロック

母父:ウェンロック

英国牡馬クラシック三冠競走・エクリプスS・アスコット金杯を全て勝利して半世紀以上に渡り英国賞金王に君臨する

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績12戦11勝2着1回

史上6頭目の英国三冠馬で、当時英国最高のレースだった英国牡馬クラシック三冠競走とエクリプスS・アスコット金杯を全て制した史上唯一の馬である。

誕生からデビュー前まで

後の英国大佐ハリー・マッカルモント氏により生産・所有された。出走計画の立案はマッカルモント氏のレーシングマネージャーで「英国競馬史上最も優れた出走計画立案人の一人」と評されたジェームズ・オクタヴィウス・マーケル氏が担当し、日々の調教は父アイソノミーも手掛けたジェームズ・ジューイット調教師が行った。

非常に馬格が優れた見栄えの良い大型馬(成長すると体高は16.1ハンドになったという)だったが、前脚には不安を抱えていた。また、気性は大人しかったが、怠惰な性格だったのか調教ではまるで走ろうとせず、ジューイット師は本馬の育成にかなり苦労したようである。しかし本馬の素質を高く評価していたマッカルモント氏は、本馬がまだデビューする前から本馬の英ダービー制覇にお金を賭けていたという。調教で走らなかった本馬だが、いざレース本番となると、無尽蔵のスタミナと驚異的な加速力を発揮する事となる。

競走生活(2歳時)

2歳5月にニューマーケット競馬場で行われた芝5ハロンの未勝利戦でジョージ・チョロナー騎手を鞍上にデビューして、3/4馬身差で勝利。翌月のニューS(T5F・現ノーフォークS)では、本馬の好敵手となるラヴェンズベリ(本馬と同じくアイソノミー産駒で、英2000ギニーと英ダービーを制した名牝ショットオーヴァーの甥に当たる良血馬。このレースを含めて本馬と8回対戦する)との初対戦となったが、スタートして早々に先頭に立つとそのまま2着フェーラーに2馬身差をつけて勝利した(ラヴェンズベリは3着)。

2歳3戦目のミドルパークプレート(T6F)ではラヴェンズベリに加えて、やはり本馬の好敵手となるレーバーン(セントサイモン産駒で、英ダービーと英セントレジャーを勝ったドノヴァンや、英1000ギニー馬セモリナの弟に当たる良血馬。このレースを含めて本馬と7回対戦する)も出走していた。このレースではスタートから加速がつかず、後方からのレースとなった。しかし鞍上のチョロナー騎手が本馬を外側に持ち出すと、一気に他馬を抜き去っていった。最後はラヴェンズベリを1馬身半差の2着に、レーバーンを着外に破って勝利した。

2歳時は3戦全勝の成績を残した本馬は、無敗のデューハーストプレート勝ち馬メドラーと共に英国クラシック競走の最有力候補となった。

競走生活(3歳時)

3歳時は2月の調教中に負傷した影響があり、本馬の脚部不安を考慮した陣営は、前哨戦を使わずに初戦に英2000ギニーを選択した。当初、ジューイット師は英2000ギニーも地面が堅過ぎるとして回避したい気持ちだったらしいが、マーケル氏がそれを許可しなかったという。そのため、陣営は本馬が脚に負担をかけずに調教できるように、樹皮で覆われた土地を本馬の調教用に購入したようである。

そして迎えた英2000ギニー(T8F)で本馬は単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。本馬にとって最大の強敵と目されていたメドラーは、この年の初めに所有者が死去したために英国クラシック競走の参戦資格を失っていた(当時はレース登録者が死亡した場合はレース登録がすべて無効になるというルールがあった)ため不出走であり、強敵とされたのは既に本馬と対戦歴があるラヴェンズベリやレーバーンだった。このレースから本馬の主戦となったT・ロータス騎手を鞍上に迎えた本馬は、ペースメーカーを見る形で2番手を追走していたが、レース半ばで早々に先頭に立った。ゴール前ではラヴェンズベリが猛追してきたが、最後まで抜かせる事はなく、2着ラヴェンズベリに3/4馬身差、3着レーバーンにはさらに4馬身差をつけて勝利した。勝ちタイム1分42秒4はレースレコードだった。

この2週間後にはニューマーケットS(T10F)に出走。やはりレース半ばで先頭に立つと、後のセントジェームズパレスS勝ち馬フォキオンを3馬身差の2着に、ラヴェンズベリを3着に下して勝利し、単勝オッズ1.25倍の断然人気に応えた。

続く英ダービー(T12F29Y)では、単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された。このレースでは本馬は先行策を採らず、人気薄のロードウィリアムが引っ張る馬群の後方を追走した。その後は徐々に進出し、タッテナムコーナーでは先頭を伺う位置取りだった。直線入口から残り2ハロン地点まではレーバーンと並んで走っていたが、ロータス騎手が鞭と拍車を用いると本馬は速やかにレーバーンを競り落とした。最後は追い込んできた2着ラヴェンズベリに1馬身半差、3着レーバーンにはさらに2馬身差をつけて優勝した。ロータス騎手はレース後、直線入り口で大歓声を聞いた本馬が「青臭い2歳馬のように」うろたえていた旨を明らかにし、それでも勝つのだからたいしたものだと本馬の競走能力の高さを讃えた。

夏場は完全休養に充て、秋の英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。単勝オッズ1.53倍の1番人気に支持された本馬は、英ダービーと同様にレース序盤は抑え気味に進めた。そしてロータス騎手が仕掛けると抜け出して先頭に立ち、2着ラヴェンズベリに1馬身半差で優勝し、1891年のコモン以来2年ぶり史上6頭目の英国三冠馬となった。無敗での達成は1886年のオーモンド以来7年ぶり史上2頭目だった。また、ラヴェンズベリは英国三冠競走の全てで本馬の2着という屈辱を味わうこととなった。

英セントレジャーから2週間後、本馬はランカシャープレート(T8F)に出走した。このレースには、前年の英国牝馬三冠馬ラフレッチェも参戦していた。互いに一番の強敵と見定めた本馬とラフレッチェが競り合う形となり、その結果ハイペースになってしまった。本馬はラフレッチェを半馬身競り落としたものの、10ポンドのハンデを与えたレーバーンにゴール前で差されて1馬身差の2着となり、生涯唯一の敗戦を喫した。マイル戦だったこのレースは、本馬にとって得意距離ではなかったとされている。3歳時の成績は5戦4勝となった。

競走生活(4歳時)

4歳時は、晴天続きで馬場が堅い状態が続き、しかも本馬が寝具用の藁や自分の糞を食べるという悪癖を出し始め、消化不良を起こして体調が優れなかった事もあり、なかなかレースに出走できず、シーズン初戦に予定していたハードウィックSは回避となった。

ようやく本馬が競馬場に姿を現したのは7月のプリンセスオブウェールズS(T8F)だった。このレースには、ラヴェンズベリやレーバーンに加えて、この年の英2000ギニーと英ダービーを勝っていたラダスも参戦していた。前年の英国三冠馬とこの年の英国クラシック競走2勝馬の直接対決という事で大きな注目を集めた。本馬には143ポンドという酷量が課せられていた。レースは序盤からスローペースで推移し、ロータス騎手は本馬を2番手で追走させた。そしてラダスが並びかけてきたところを見計らってスパート。ラダスを突き放したところで伏兵の3歳馬バリンドンが急襲してきたが、短頭差で本馬が勝利した。ラダスは3着、ラヴェンズベリとレーバーンは共に着外だった。

次走のエクリプスS(T10F)でも、ラダス、ラヴェンズベリ、レーバーンとの対戦となった。ここでも本馬には142ポンドという酷量が課せられたが、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。重馬場で行われたレースにおいて、ペースメーカーを務めた同厩のプリーストホームがハイペースで引っ張る中を本馬は2番手で追走。直線では並びかけてきたラダスとの一騎打ちとなったが、ラダスを1馬身差の2着に下して勝利した。3着には牝馬スロッスルが入り、ラヴェンズベリとレーバーンは共に着外だった(ラヴェンズベリが3着とする資料もある)。

その後はしばらくレースに出ず、9月にジョッキークラブS(T10F)に出走した。同年に新設されたこのレースにはレーバーンの他に、英セントレジャーでラダスを2着に下して優勝したスロッスル、ロワイヤルオーク賞を勝ってきた仏国調教馬グーヴェルナイユなどが参戦していた。本馬には再度142ポンドが課せられた。エクリプスSと同様に、同厩のプリーストホームがレースを引っ張り、本馬はその後方を追走した。そして残り2ハロンで先頭に立つと、2着グーヴェルナイユに2馬身差をつけて勝利した。3着には3歳馬サンオーマインが入り、レーバーンとレース序盤に逸走したスロッスルはいずれも着外だった。

本馬の4歳時の成績は3戦全勝となった。この時点で本馬は「英国競馬史上最も偉大な競走馬の一頭」と評価された。2頭とも出走はしなかったが、この年のシザレウィッチHにおいて本馬に割り当てられた斤量は146ポンドで、ラフレッチェの129ポンドより17ポンドも上だった。

競走生活(5歳時)

5歳時はアスコット金杯のみを目標として現役を続行した。ラダス陣営からマッチレースの申し込みがあったが、本馬に余計な負担をかける事を嫌ったマッカルモント氏はそれを拒否した。そして迎えたアスコット金杯(T20F)で、本馬に挑んできたのはグッドウッドC勝ち馬キルサラガンとリマインダーの2頭しかおらず、本馬は単勝オッズ1.18倍の断然人気に支持された。レースではキルサラガンが先頭に立ち、本馬はその後方を悠然と追走した。そしてロータス騎手が残り6ハロン地点で仕掛けると本馬はあっさりと先頭に立ち、最後は追い込んできた2着リマインダーに生涯最大着差タイの3馬身差をつけて完勝した。まるで遊び半分だったと評されたこのレースを最後に本馬は競走馬を引退した。

当時における英国の主要牡馬競走全てを制覇した本馬は、獲得賞金総額が5万8655ポンドに達した(本馬を紹介した日本語の資料では5万7455ポンドとするものが多いが、海外の資料では軒並み5万8655ポンドになっている)。これはドノヴァンが保持していた5万5443ポンドを更新する英国記録であり、世界記録でもあった。本馬の世界記録が更新されるのは、28年後の1923年に英ダービー馬パパイラスとの10万ドルマッチレースをゼヴが制するまで待たねばならず、本馬の英国記録が更新されるのは、57年後の1952年にキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSをタルヤーが制するまで待たねばならなかった。

また、本馬は、ラヴェンズベリには8戦全勝、レーバーンには6勝1敗、他にも別世代の英国クラシック競走勝ち馬ラフレッチェ、ラダス、スロッスルや、仏国のクラシック競走勝ち馬グーヴェルナイユなどもことごとく破っており、まさしく時代の最強馬として君臨した。

馬名は食材のアイシングラス(古くはチョウザメの鰾(うきぶくろ)から、現在ではタラやニベの鰾から作られるゼラチン。食材以外にも酒造や製薬、接着剤などにも使用されている)に由来する。

血統

Isonomy Sterling Oxford Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Honey Dear Plenipotentiary
My Dear
Whisper Flatcatcher Touchstone
Decoy
Silence Melbourne
Secret
Isola Bella Stockwell The Baron Birdcatcher
Echidna
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Isoline Ethelbert Faugh-a-Ballagh
Espoir
Bassishaw The Prime Warden
Miss Whinney
Dead Lock Wenlock Lord Clifden Newminster Touchstone
Beeswing
The Slave Melbourne
Volley
Mineral Rataplan The Baron
Pocahontas
Manganese Birdcatcher
Moonbeam
Malpractice Chevalier d'Industrie Orlando Touchstone
Vulture
Industry Priam
Arachne
The Dutchman's Daughter The Flying Dutchman Bay Middleton
Barbelle
Red Rose Rubini
Sweetbriar

アイソノミーは当馬の項を参照。

母デッドロックは不出走馬であり、近親には活躍馬がおらず、母系もあまり優秀ではなかった。デッドロックを僅か19ポンドで手に入れたマッカルモント氏だったが、早々にデッドロックを手放してしまった。その後、デッドロックがマッカルモント氏の元にいる時に産んだアイソノミー産駒の牡駒イズリントンが一定の走りを見せたため、デッドロックを手放した事を後悔したマッカルモント氏はデッドロックを買い戻そうとしたが、デッドロックの消息は遥として知れなかった。マッカルモント氏が諦めかけていたある日、たまたまマッカルモント氏を訪ねてきた人物が乗ってきた馬車を引く馬を見た彼は、その馬こそがデッドロックである事に気付いて驚いた。マッカルモント氏はその場でデッドロックを買い戻し、再度アイソノミーを交配させた結果として誕生したのが本馬だという逸話がある。

デッドロックは本馬の前にイズリントン、ジャーヴァス(父トラピスト)という2頭の下級ステークス競走勝ち馬を産んではいるが、本馬以外には目立つ産駒を産む事はなく、本馬を産んだ3年後に他界している。デッドロックの牝系子孫は21世紀まで残っており、子孫には歴史上最強クラスの障害競走馬フライングボルト【チャンピオンチェイス・愛チャンピオンハードル・愛グランドナショナル】や、日本で走ったアヅマライ【農林省賞典四歳馬(菊花賞)】、南関東三冠馬ハツシバオー【羽田盃・東京ダービー・東京王冠賞・東京大賞典】などがいるが、他には特筆できる活躍馬はいない。→牝系:F3号族②

母父ウェンロックはロードクリフデン産駒の英セントレジャー優勝馬だが、種牡馬としてはそれほど成功せず、むしろ母父として活躍し、本馬の他にも英ダービー馬セインフォインを出している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、マッカルモント氏の所有のまま英国チェヴァリーパークスタッドで種牡馬入りした。1900年と1905年の2回英愛種牡馬ランキング2位になったが、首位になる事は無く、英ダービー馬を出せなかった事もあって、現役時代の華々しい活躍と比べるとやや見劣りするという意見もあるが、それでも3頭の英国クラシック競走勝ち馬を出しており、種牡馬としては決して失敗ではなかった。また、1912年には英愛母父首位種牡馬になっている。本馬はその前年の1911年にチェヴァリーパークスタッドにおいて21歳で他界した。現在、本馬の遺骨は現在ロンドン自然史博物館に展示されている。

本馬の直系は、現役時代に本馬と戦ったラフレッチェとの間に産まれたジョンオゴーントがスウィンフォードの父となってサイアーラインを21世紀まで伸ばした他に、直子ルヴィエの直系子孫から出たティチノが9年連続で独首位種牡馬になる活躍を示している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1898

Jacobite

ロワイヤルオーク賞・コンデ賞・ドーヴィル大賞

1898

Star Shoot

1898

Veles

英チャンピオンS・プリンセスオブウェールズS・ジュライS

1899

Rising Glass

ジョッキークラブS

1901

Challenger

セントジェームズパレスS

1902

Cherry Lass

英1000ギニー・英オークス・セントジェームズパレスS・ナッソーS

1902

Pure Crystal

アスコットダービー

1903

Glasconbury

ナッソーS

1903

Wombwell

ハードウィックS

1904

Glass Doll

英オークス

1906

Louviers

コヴェントリーS

1908

Alice

ヨークシャーオークス・チャイルドS

1908

Moenus

独2000ギニー

1909

Belleisle

チェヴァリーパークS・ナッソーS

1910

Louvois

英2000ギニー・デューハーストS・プリンスオブウェールズS

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