ノーザンテースト

和名:ノーザンテースト

英名:Northern Taste

1971年生

栗毛

父:ノーザンダンサー

母:レディヴィクトリア

母父:ヴィクトリアパーク

日本競馬界に父ノーザンダンサーの血を導入し、日本競馬の血統レベルを世界クラスまで引き上げた偉大なる種牡馬

競走成績:2~4歳時に仏英で走り通算成績20戦5勝2着2回3着3回

世界的大種牡馬ノーザンダンサーの後継種牡馬として日本に輸入され、11年連続で中央競馬首位種牡馬に輝き、日本の競馬界に計り知れない功績を残した歴史的大種牡馬。

誕生からデビュー前まで

父ノーザンダンサーの生産者兼所有者でもあった、加国の名馬産家エドワード・プランケット・テイラー氏により、彼が所有する加国オンタリオ州ウインドフィールズファームにおいて生産された。1歳時に米国ニューヨーク州サラトガ競馬場で行われたセリに出品された本馬に目をつけたのは、北海道白老町の社台ファーム白老などで馬産を行っていた社台グループの代表者吉田善哉氏の息子吉田照哉氏(現社台ファーム代表)だった。照哉氏は、父からノーザンダンサー直子の牡馬で一番良い馬を購入してくるよう言われていたという。ノーザンダンサーの凄さを見越していた善哉氏は、将来の社台グループを背負って立つ種牡馬候補を入手する意図を持っていたのだという。また、善哉氏が将来有望な種牡馬になると思っていた持ち込み馬フイニイ(リボーの姪の息子に当たる)が種牡馬になることなく現役中の1971年5月に夭折した事も、善哉氏が新たな種牡馬を導入する必要性にかられる動機となったようである。

本馬は背が低くて脚は短く(成長しても体高は15.3ハンド)、決して見栄えがする馬ではなかったが、骨格・筋肉などは出品された馬の中で最高だったと照哉氏は後に述懐している。本馬と父ノーザンダンサーは体高がほぼ同じ(父は体高15.2ハンド)であり、本馬は体格面では父の特徴を良く受け継いだ馬だったようである。もっとも、鹿毛だった父と異なり本馬は栗毛であり、さらに額と左目から鼻の先まで広がった極めて大きな流星で顔が覆われていた(父も大きな流星の持ち主だったが、その形は細く、本馬のものとはまるで違う)から、容姿では父に似ていなかった。また、性格も全く違っており、父は去勢されかけるほど気性が激しかったが、本馬は非常に大人しかった。

照哉氏は本馬を10万ドル(当時の為替レートで約3080万円)で落札する事に成功した。この1972年はノーザンダンサーの代表産駒ニジンスキーが英国三冠を達成した2年後であり、既にノーザンダンサー産駒の評価がうなぎ上りだった時期ではあったが、後年にノーザンダンサーバブルと評されたような産駒取引価格の高騰現象はまだ見られておらず、この年におけるノーザンダンサー産駒の1歳馬の平均取引価格は7万8333ドルだった(翌1973年には10万ドルを突破。1981年には100万ドルに到達している)。

本馬の購入後、善哉氏に電話で報告した際の照哉氏の言葉「早く日本に帰って北海道の魚(寿司という説もある)が食べたい」から「ノーザンテースト(北の味覚)」の名前がついたと言われている。

購買後は仏国に渡り、仏国シャンティに厩舎を構えていたジョン・カニングトン・ジュニア調教師に預けられて、吉田善哉氏名義の競走馬となった。

競走生活(2歳時)

2歳8月にドーヴィル競馬場で行われたクレヴェクール賞というレースでデビューしたが、3着に敗退。翌月にロンシャン競馬場で行われたロリ賞というレースが2戦目となったが、後に仏グランクリテリウム・ニエル賞を勝ちオブザーヴァー金杯・仏2000ギニー・リュパン賞で2着するミシシッピアンの2着に敗れた。3戦目は、10月にサンクルー競馬場で行われたエクリプス賞(仏GⅢ・T1300m)となった。このレースにはサラマンドル賞3着馬ムーリンも出走していたのだが、本馬が2着カラーマン以下に勝利を収め、グループ競走で初勝利を挙げる事に成功した。次走のトーマブリョン賞(仏GⅢ・T1500m)でも、2着ダンサーズプリンスに1馬身半差で勝利を収めた。

2歳時は4戦2勝の成績で、英タイムフォーム社のレーティングでは129ポンドの評価を得た。これは、137ポンドという異例の高評価を受けたオブザーヴァー金杯の勝ち馬アパラチーよりはかなり下だったが、ミシシッピアンの131ポンド、クリテリウムデプーリッシュの勝ち馬ヒッポダミア、モルニ賞・サラマンドル賞の勝ち馬で仏グランクリテリウム2着のノノアルコの130ポンドに次いで、2歳馬では単独5位の評価であり、翌年の欧州クラシック競走の有力候補の一角として認知された。

競走生活(3歳前半)

3歳時は4月にメゾンラフィット競馬場で行われたジェベル賞(T1400m)から始動して、エクリプス賞で3着だったムーリンを2着に破って勝利した。このムーリンが直後の仏2000ギニーを勝つわけであるから、本馬も仏2000ギニーに向かっていれば好勝負になっていたかもしれないが、陣営は本馬を渡英させて英国クラシック競走に参戦させることにした。

まず出走した英2000ギニー(英GⅠ・T8F)では、ノノアルコ、ジムクラックS・英シャンペンSの勝ち馬ジャコメッティ、グラッドネスSを勝ってきたアパラチーの3頭に続く4着だった。勝ち馬ノノアルコからは2馬身3/4差、2着ジャコメッティからは1馬身1/4差、3着アパラチーからは首差であり、もう一息といったところだった。

次走の英ダービー(英GⅠ・T12F)では、ノノアルコ、ジャコメッティ、サンダウンクラシックトライアルS・リングフィールドダービートライアルSの勝ち馬バスティノ、チェスターヴァーズ2着馬インペリアルプリンスなどとの対戦となった。18頭立ての3番人気に推された本馬だったが、道中で後方に置かれてしまった結果、直線だけの競馬となり、勝った単勝オッズ51倍の11番人気馬スノーナイトから8馬身1/4差の5着に敗れた。この英ダービーを勝ったスノーナイトは、この年の秋に本馬の生産者テイラー氏により100万ドルで購入されて渡米し、翌年のエクリプス賞最優秀芝馬に選ばれる活躍を見せることになる。また、2着馬インペリアルプリンスは後に愛ダービーとベンソン&ヘッジズ金杯で2着(ベンソン&ヘッジズ金杯の勝ち馬は名牝ダリア)、3着馬ジャコメッティは後に英チャンピオンSを勝利、4着馬バスティノは後に英セントレジャー・コロネーションCを勝ちキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSでグランディと激闘を演じている。また、6着馬ミスティグリは後の愛セントレジャー馬で、7着だったノノアルコも後にジャックルマロワ賞を勝利しているから、この年の英ダービーはかなりレベルが高かったと言える。

競走生活(3歳後半)

一方の本馬は仏国に戻り、7月にサンクルー競馬場で行われたユジェーヌアダム賞(仏GⅢ・T2000m)に出走した。しかし、伊2000ギニー・伊共和国大統領賞の勝ち馬マンスフェルド、プリティポリーS・フレッドダーリンSの勝ち馬で愛1000ギニー2着の同父馬ノーザンジェムの2頭に後れを取り、勝ったマンスフェルドから2馬身差、2着ノーザンジェムから1馬身半差の3着に敗れた。8月にドーヴィル競馬場で出走したコートノルマンディ賞(仏GⅢ・T2000m)では、ツイッグ、ノーザンジェム、クレオパトル賞の勝ち馬トロピカルクリームなど4頭に屈して、勝ったツイッグから1馬身3/4差の5着だった。距離が長いと判断されたようで、以降は短距離~マイル路線を進むことになる。

9月にロンシャン競馬場で出走したロンポワン賞(仏GⅢ・T1600m)では、ジャックルマロワ賞を勝ってきたノノアルコ、ロベールパパン賞・モーリスドギース賞の勝ち馬リアンガ、ギシュ賞の勝ち馬リサロとの大接戦となった。結果はノノアルコが勝利を収め、翌年に欧州短距離女王として君臨するリアンガが短首差の2着、リサロがさらに首差の3着で、本馬はさらに短首差の4着と惜敗した。

次走のムーランドロンシャン賞(仏GⅠ・T1600m)では、フォンテーヌブロー賞の勝ち馬で仏グランクリテリウム・エクリプスS・サセックスS3着のマウントハーゲンに3馬身差をつけられて2着に敗れたが、本馬から2馬身差の3着だったリアンガや、10着に終わったノノアルコには先着した。

翌10月に出走したフォレ賞(仏GⅠ・T1400m)では、シェーヌ賞の勝ち馬で前年のフォレ賞2着のベイラーン(ブラッシンググルームの全兄)、グッドウッドマイル・ハンガーフォードS・ブルーリバンドトライアルSの勝ち馬でミドルパークS・デューハーストS・愛2000ギニー2着のピットカーン、モートリー賞・エドモンブラン賞・リゾランジス賞・ポルトマイヨ賞の勝ち馬でクリテリウムドメゾンラフィット・ロッキンジS2着のエルラストロ、後にクリテリウムドメゾンラフィット・ジャンプラ賞を勝つスピーディーダコタなどの強敵を相手に回して、重馬場の中を激走。2着エルラストロに1馬身差、3着スピーディーダコタにはさらに頭差をつけて勝ち、GⅠ競走初勝利を挙げた。

しかし翌11月にサンクルー競馬場で出走したパース賞(仏GⅢ・T1600m)では、エルラストロの8着に惨敗。3歳時の成績は9戦2勝となった。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続け、3月にサンクルー競馬場で行われたエドモンブラン賞(仏GⅢ・T1600m)から始動したが、アファヨーン、エルラストロなどに屈して、アファヨーンの4着に敗退。同月にエヴリ競馬場で出走したリゾランジ賞(仏GⅢ・T1600m)でも、エルラストロとアファヨーンの2頭に屈して、勝ったエルラストロから6馬身半差、2着アファヨーンから5馬身差の3着に敗れた。

3か月間の調整期間を経て、6月にロンシャン競馬場で行われたポルトマイヨ賞(仏GⅢ・T1400m)で再起を図るも、3歳牝馬ハマダの5着に終わった。8月のモーリスドギース賞(仏GⅢ・T1300m)も、ロベールパパン賞の勝ち馬でサラマンドル賞3着のスカイコマンダー、サラマンドル賞の勝ち馬でチェヴァリーパークS2着のデルモラ、アランベール賞の勝ち馬レイズアボーイの3頭の3歳馬に敗れて、スカイコマンダーの4着までだった。

ここまでのGⅢ競走路線では勝てないまでもそれなりに走っていたが、次走のジャックルマロワ賞(仏GⅠ・T1600m)では、ポルトマイヨ賞でハマダの2着した後にジュライCを勝ってきたリアンガ、スカイコマンダー、デルモラといった面々に屈して、2着スカイコマンダーに6馬身差をつけて圧勝したリアンガから遥か後方の、11頭立ての10着でゴールインした。

次走は10月にロンシャン競馬場で行われたリステッド競走パン賞(T1400m)となった。さすがにここでは実力最上位だったようで、前年のフォレ賞以来約1年ぶりの勝利を挙げた。しかしその9日後に参戦したフォレ賞(仏GⅠ・T1400m)では、2歳馬ローンスターの8着に敗れて連覇は成らず。このレースを最後に、4歳時7戦1勝の成績で競走馬を引退した。

競走馬としての評価

競走馬としてだけ見ると、確かにGⅠ競走を勝ってはいるが、客観的にはGⅡ~GⅢ競走レベルの馬で、一流半程度といったところだった(もっとも、ノーザンダンサー産駒は、ニジンスキーを除けば一流半以下の競走成績の馬の方が種牡馬として成功しているわけだが)。英タイムフォーム社のレーティングでは、2歳時が129ポンドだったのに対して、3歳時は126ポンド、4歳時は122ポンドと年を追うごとに下がっており、競走馬としてはやや早熟傾向があったように思われる(ただし、2歳馬、3歳馬、古馬のレーティングを同じ基準で比較する事は実際には出来ない)。

なお全くの余談だが、本馬と現役時代に対戦した馬には、後に種牡馬として日本に輸入された馬が多い。具体的には、ミシシッピアン、ムーリン、ノノアルコ、ツイッグ、ベイラーン、ピットカーンが輸入されているが、日本で成功したと言えるのはノノアルコくらいである。

血統

Northern Dancer Nearctic Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Lady Angela Hyperion Gainsborough
Selene
Sister Sarah Abbots Trace
Sarita
Natalma Native Dancer Polynesian Unbreakable
Black Polly
Geisha Discovery
Miyako
Almahmoud Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Arbitrator Peace Chance
Mother Goose 
Lady Victoria Victoria Park Chop Chop Flares Gallant Fox
Flambino
Sceptical Buchan
Clodagh
Victoriana Windfields Bunty Lawless
Nandi
Iribelle Osiris
Belmona
Lady Angela Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Sister Sarah Abbots Trace Tracery
Abbots Anne
Sarita Swynford
Molly Desmond

ノーザンダンサーは当馬の項を参照。

母レディヴィクトリアは現役時代加国で走り20戦4勝、プリンセスエリザベスS・メイプルリーフS・タトリングHを勝っている。レディヴィクトリアの母レディアンジェラの産駒には、レディヴィクトリアの半兄ニアークティック(父ネアルコ)【サラトガスペシャルS・ミシガンマイルH・カナディアンマテュリティS】、同じく半兄のチョパリオン(父チョップチョップ)【コロネーションフューチュリティS】がいる他、レディヴィクトリアの半妹カウンテスアンジェラの子にはタイトルドヒーロー【クイーンズプレート・ブリーダーズS】がいる。ニアークティックは本馬の父ノーザンダンサーの父であるから、本馬はレディアンジェラの2×3という強いインブリードを持っていることになる。

レディヴィクトリアの産駒には、6戦してエイコムSの1勝を挙げた本馬の半弟タンゾア(父ニジンスキー)、14戦2勝の全弟サドンソーがおり、いずれも本馬の後に日本に種牡馬として輸入された。しかしタンゾアは全く活躍馬を出せず、サドンソーも本馬には程遠い種牡馬成績に終わっている。母系を遡ると、20世紀初頭の英国で活躍した世紀の名牝プリティポリーに行きつく(レディアンジェラの曾祖母であるチェヴァリーパークSの勝ち馬モリーデズモンドがプリティポリーの娘)。プリティポリーの牝系子孫は世界的に大繁栄しているため、本馬と同じ牝系には多くの活躍馬がいるわけだが、その詳細はプリティポリーやニアークティックの項を参照してほしい。→牝系:F14号族①

母父ヴィクトリアパークは加米で走り通算成績19戦10勝。2歳時はレムセンS・コロネーションフューチュリティS・カップ&ソーサーSを勝って加最優秀2歳牡馬に選ばれた。3歳時はケンタッキーダービー3着、プリークネスS2着と米国三冠路線で健闘した後、カナダに戻ってクイーンズプレートをレコード勝ちし、1960年の加年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選ばれた。種牡馬としても活躍したが、繁殖牝馬の父としての功績が顕著で、ザミンストレルが大活躍した1977年には英愛母父首位種牡馬を獲得している。1976年には加国競馬の殿堂入りを果たし、1985年に他界している。

ヴィクトリアパークの父チョップチョップは現役成績11戦4勝、エンパイアシティHでプリンスキロを破ってレコード勝ちしたのが目立つ程度の競走馬だったが、種牡馬としては加国で大成功し、加首位種牡馬に7回輝いた。チョップチョップの父フレアズは米国三冠馬ギャラントフォックスの直子で、同じく米国三冠馬となったオマハの全弟に当たる。現役時代は兄オマハが果たせなかった欧州の大レース制覇を目指して早い時期に渡英し、英チャンピオンS・アスコット金杯・プリンセスオブウェールズSを制して兄の無念を晴らした。種牡馬としては兄同様ジャージー規則に抵触したため米国に戻ったが、あまり成功しなかった。

競走馬引退後:日本における種牡馬としての大成功

競走馬を引退した本馬は、その年のうちに当初の予定どおり来日して、翌1976年から社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始した。初年度は58頭の繁殖牝馬を集め、2年目は71頭、3年目は83頭と順調に交配数を増やした。しかし本馬の来日当初は、その見栄えのしない馬格から、一部生産者から「牛のような馬」と嘲笑を受けた事もあったという。また、自身の競走成績からしても、本馬の産駒は早熟な短距離馬になるだろうと見られていた(実際に産駒の仕上がりは早く、1984~86・88~91年の7度に渡って全日本2歳首位種牡馬に輝く事になる)。初年度産駒がデビューした4年目の1979年には種牡馬人気は若干下がり、この年の交配数は64頭、5年目は61頭と減少に転じた。

こうした状況が一変したのは、初年度産駒のアンバーシャダイが古馬になってから本格化して有馬記念を勝った6年目の1981年からである。この年の交配数は75頭と上昇に転じ、7年目となる1982年には過去最高となる98頭の繁殖牝馬を集めた。そしてこの1982年にはテスコボーイを退けて1度目の中央競馬首位種牡馬を獲得。その後も1993年にリアルシャダイに破られるまで11年連続で中央競馬首位種牡馬の座を守り続けた(ミルジョージに破られた1989年以外の10年間は全日本首位種牡馬になっている)。1981年から2000年まで20年連続で全日本種牡馬(中央競馬も)ランキング10位以内という記録も樹立した。

当然種牡馬人気は絶大で、8年目は89頭、9年目は88頭、10年目は94頭、11年目は79頭、12年目は60頭、13年目も60頭、14年目は62頭、15年目は66頭、16年目は61頭、17年目は56頭、18年目は60頭、19年目は67頭、20年目は61頭、21年目の1996年は25歳と既にかなりの高齢だったにも関わらず、72頭の繁殖牝馬を集めた。

本馬は種牡馬成績も超一流だったが、繁殖牝馬の父としても超一流で、1991年以降15年連続で中央競馬の母父首位種牡馬に輝いている(全日本の集計では1990年から17年連続)。ほかにも、1979年から1996年までの18年連続で産駒が重賞勝利、1977年産から1996年産までの20世代連続で産駒が重賞勝利、1979年から2006年まで28年連続で産駒が中央競馬で勝ち星を挙げるなど、本馬の種牡馬としての偉大さを示す記録を数え上げればきりがないほどである。

後にサンデーサイレンスが数々の大記録を樹立してしまったため、本馬の記録は少々影が薄くなってしまった感もあるが、競走や馬産界を取り巻く環境等が、本馬の時代とサンデーサイレンスの時代とでは大きく異なる(例えば年間交配数で見ると、本馬は1982年の98頭が最高であるのに対して、サンデーサイレンスは2001年の226頭が最高であり、実に2倍以上の差がある)ため、単純比較は出来ない。

日本競馬界に与えた影響

本馬が登場する以前の日本競馬界は、海外における主流血脈からはかけ離れた血統が支配しており(プリンスリーギフトの系統も、海外で繁栄したナスルーラの流れではあるが、プリンスリーギフト系自体は日本限定の系統と言っても過言ではない)、血統のレベル的には国際的な水準と比べて見劣りがしていた。しかし本馬が大活躍した時期は、海外で同じノーザンダンサーの系統が猛威を振るった時期と一致しており、これでようやく日本の馬産における血統レベルは国際水準に並んだと言える。

また、本馬が種牡馬入りした1976年頃、社台グループは20頭を超える数の種牡馬を繋養していた。しかしそのうち種牡馬としてまともな成績を収めたのは障害競走馬の父として成功したバウンティアスくらいであり、社台グループの屋台骨を支え続けていたガーサントが1974年に他界していた事もあり、社台グループの経営状態はかなり厳しかった。しかしそこに登場した本馬の大活躍により、社台グループの経営状態は大幅に改善。そうして得た資金を活用して、リアルシャダイトニービン、サンデーサイレンスなどを海外から導入し、今日の社台グループの天下が訪れる事になったのである。

天寿を全うする

こうして日本競馬界に大きな足跡を残した偉大なる本馬は、前述のとおり晩年になっても息長く種牡馬活動を続けた。26歳になった1997年も65頭の繁殖牝馬を集めた。しかしこの年から受精率の低下が顕著となり、翌23年目は31頭と交配して誕生した産駒は14頭、24年目の1999年は13頭と交配して誕生した産駒は僅か1頭だった。そしてこの年を最後に、24年間に及ぶ種牡馬生活に終止符を打って引退した。

その後も社台グループ最大の功労馬として、専用の馬房と自由に出入りできるパドックを与えられ、悠々自適の余生を過ごした。この時期になっても、本馬の外見は若々しく、外見は20歳の頃とあまり変わっていなかった。種牡馬時代から本馬は病気や怪我などとは無縁の存在であり、その健康さも種牡馬として大成功を収める要因であったのは間違いないだろう。また、気性は相変わらず非常におっとりしており、猫と戯れる姿が頻繁に目撃されていた。2004年12月11日午後3時20分、本馬は社台スタリオンステーションで老衰のため眠るようにその生涯を閉じた。33歳という長命だった。遺体は社台スタリオンステーション敷地内の高台に埋葬された。

産駒の特徴

本馬の産駒は長距離馬、短距離馬、早熟馬、晩成馬、ダート馬、障害競走馬と、とにかく何でもありだったが、あえて特徴を記すと「ノーザンテーストの子は3度成長する」と言われた成長力だろうか。早熟でも晩成でも能力のピークは長く、頑健に走り続けることが可能だった。大物競走馬も多かったが、どちらかというと自己条件で自身の能力なりに走る馬主孝行タイプの産駒が多かった。闘争心にも優れ、馬場を苦にすることもなかった。自身の競走能力を伝えるというよりは、牝系の良さを引き出す能力に長けているようだった。

後世に与えた影響

本馬の後継種牡馬としてはアンバーシャダイ・メジロライアン親子が成功したが、その後は続かず、他の後継種牡馬もサイアーラインを伸ばせなかった。2015年現在、本馬の直系である現役種牡馬は1頭もおらず、中央競馬に所属する本馬直系の競走馬も皆無となっているため、本馬の直系は残念ながら途絶えてしまう事になった。本馬の産駒は牡馬より牝馬の活躍馬が多かった影響もあるとは言え、これだけの大種牡馬でも死後10年足らずで直系が滅亡してしまうという日本の馬産界のレベルの低さには呆れるばかりである。血統面では本馬の貢献で国際水準に達しても、人間側がまるで国際水準に達していないようである。

もっとも、本馬の繁殖牝馬の父としての優秀さからして、直系が途絶えても本馬の血の影響力が無くなる事はさすがに無さそうである。母父としては、GⅠ(級)競走の勝ち馬だけ挙げても、ダイナコスモス、サッカーボーイ、バンブービギン、レッツゴーターキン、イブキマイカグラ、ブロードマインド、サクラバクシンオー、サクラチトセオー、サクラキャンドル、フラワーパーク、エアグルーヴ、ファストフレンド、アドマイヤコジーン、ギルデッドエージ、マイネルコンバット、アドマイヤマックス、デュランダル、テレグノシス、ユートピア、カンパニー、ダイワメジャー、エアメサイア、グレイスティアラ、キストゥヘヴン、ダイワスカーレット、トーセンジョーダン、レインボーダリアなどを送り出しており、重賞競走の勝ち馬となると枚挙に暇が無いほどである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1977

アンバーシャダイ

有馬記念・天皇賞春・目黒記念・アメリカジョッキークラブC2回

1977

シャダイダンサー

京成杯三歳S・桜花賞トライアル四歳牝馬特別

1977

ピーチシャダイ

東京障害特別春

1978

シャダイコスモス

中山牝馬S(GⅢ)

1979

アスワン

京成杯・NHK杯

1979

シャダイアイバー

優駿牝馬

1979

マイティダイナ

いぬ鷲賞(金沢)

1980

ギャロップダイナ

天皇賞秋(GⅠ)・安田記念(GⅠ)・東京新聞杯(GⅢ)

1980

グローバルダイナ

小倉大賞典(GⅢ)・北九州記念(GⅢ)・阪神牝馬特別(GⅢ)

1980

シャダイソフィア

桜花賞・函館三歳S・サファイアS・阪急杯(GⅢ)

1980

シャダイチャッター

小倉記念(GⅢ)

1980

ダイナカール

優駿牝馬

1980

ダイナマイン

新潟記念(GⅢ)・牝馬東京タイムズ杯(GⅢ)

1981

ダイナシュガー

桜花賞トライアル四歳牝馬特別(GⅡ)

1982

ダイナシュート

京成杯三歳S(GⅡ)・新潟三歳S(GⅢ)・七夕賞(GⅢ)

1982

ダイナシュペール

小倉三歳S(GⅢ)

1983

ダイナアクトレス

毎日王冠(GⅡ)・スプリンターズS(GⅡ)・京王杯スプリングC(GⅡ)・函館三歳S(GⅢ)・京王杯オータムH(GⅢ)

1983

ダイナオレンジ

新潟記念(GⅢ)

1983

ダイナガリバー

東京優駿(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)・共同通信杯四歳S(GⅢ)

1983

ダイナフェアリー

京成杯(GⅢ)・牝馬東京タイムズ杯(GⅢ)・エプソムC(GⅢ)・新潟記念(GⅢ)・オールカマー(GⅢ)

1983

レジェンドテイオー

アルゼンチン共和国杯(GⅡ)・セントライト記念(GⅢ)

1984

スルーオダイナ

ステイヤーズS(GⅢ)2回・ダイヤモンドS(GⅢ)2回

1984

ダイナサンキュー

デイリー杯三歳S(GⅡ)

1984

ダイナレター

札幌記念(GⅢ)・根岸S(GⅢ)

1985

スカーレットリボン

桜花賞トライアル四歳牝馬特別(GⅡ)

1985

ミリオンプリンス

北陸三県畜産会長賞(金沢)・鳥海大賞(上山)2回

1985

ロングニュートリノ

サマーC(笠松)2回・くろゆり賞(笠松)・名古屋大賞典(名古屋)・東海大賞典(笠松)

1986

サクラアラシオー

二十四万石賞(高知)・珊瑚冠賞(高知)

1986

センリョウヤクシャ

阪急杯(GⅢ)

1986

マンジュデンカブト

ブリーダーズゴールドC(旭川)

1986

メインキャスター

阪神牝馬特別(GⅢ)

1986

リストレーション

牝馬東京タイムズ杯(GⅢ)

1987

ノーモアスピーディ

京成杯(GⅢ)

1988

イイデサターン

毎日杯(GⅢ)

1988

キクノホープ

青藍賞(水沢)

1988

スカーレットブーケ

札幌三歳S(GⅢ)・クイーンC(GⅢ)・京都牝馬特別(GⅢ)・中山牝馬S(GⅢ)

1988

タイヤン

京都大障害秋

1988

ニフティダンサー

七夕賞(GⅢ)

1988

ノーザンドライバー

デイリー杯三歳S(GⅡ)・ペガサスS(GⅢ)

1988

ビッグファイト

京成杯三歳S(GⅡ)・新潟三歳S(GⅢ)

1989

アドラーブル

優駿牝馬(GⅠ)

1989

エリザベスローズ

セントウルS(GⅢ)

1989

オーディン

新潟記念(新潟)

1989

ディスコホール

桜花賞トライアル四歳牝馬特別(GⅡ)・テレビ東京賞三歳牝馬S(GⅢ)

1989

ノーザンコンダクト

ラジオたんぱ杯三歳S(GⅢ)

1989

マチカネタンホイザ

目黒記念(GⅡ)・アメリカジョッキークラブC(GⅡ)・高松宮杯(GⅡ)・ダイヤモンドS(GⅢ)

1990

サマニベッピン

阪神牝馬特別(GⅡ)・金鯱賞(GⅢ)・府中牝馬S(GⅢ)

1990

ノーザンレインボー

中山大障害春・東京障害特別秋

1991

シャイニンレーサー

マーメイドS(GⅢ)

1991

ノルディクダンサー

二十四万石賞(高知)・トレノ賞(高知)2回・桂浜月桂冠賞(高知)

1991

ビッグショウリ

マイラーズC(GⅡ)

1992

ファッションショー

マリーンC(GⅢ)

1993

インターフラッグ

ステイヤーズS(GⅡ)・東北サラブレッド大賞典(上山)

1994

クリスザブレイヴ

富士S(GⅢ)

1994

グローバルゴット

北上川大賞(盛岡)2回・みちのく大賞(盛岡)

1995

エアデジャヴー

クイーンS(GⅢ)

1996

テイエムダイオー

京都ハイジャンプ(JGⅡ)・阪神ジャンプS(JGⅢ)

1998

ビッグテースト

中山グランドジャンプ(JGⅠ)

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