テディントン

和名:テディントン

英名:Teddington

1848年生

栗毛

父:オーランド

母:ミストゥイッケナム

母父:ロッキングハム

他馬より異常に重い斤量を課されることが多かったが優れた闘争心で大半のレースで見せ場を作り、アスコット金杯でストックウェルも撃破した英ダービー馬

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績18戦10勝2着1回3着4回

誕生からデビュー前まで

英国ケンブリッジシャー州にある市場町ハンティンドンに住んでいたジャック・トムリンソン氏という鍛冶屋により生産された。全身が赤っぽい栗毛で覆われており、特に頭部は「まるで血のように」赤かった。その真っ赤な顔に流星が走っていた。ここまで読めば派手で見栄えがする馬だったと思われるかも知れないが、しかし如何せん他の特徴が悪く、良い馬にはとても見えなかったという。まず、成長しても体高は15ハンド程度にしかならない小柄な馬だった。しかも片方の前脚が湾曲していた上に爪先が少し変形しており、普通の蹄鉄を装着させる事は出来ず、状況に応じてその都度蹄鉄を作り替える必要があったほどだった。

こんな馬が高値で売れるはずもなく、買い手がついただけでもトムリンソン氏は良しとしなければならなかった。本馬を250ギニーで購入したのは、第3代准男爵ジョセフ・ヘンリー・ハーレイ卿だった。保安官を務めていたハーレイ卿はなかなかの名馬主でもあり、最終的には英国クラシック5競走全てを制覇する事になり、英ダービーに至っては合計4勝を挙げた。しかし本馬を買った時点では、マイアミで勝った1847年の英オークスしか英国クラシック競走を勝っておらず、馬主としてはまだそこまでの名声を得ていなかった。ハーレイ卿は、第10代准男爵ジョン・マッセイ・スタンレー卿と馬主業において提携をしていた。そして本馬は当時スタンレー卿の専属調教師をしていた名伯楽アレック・テイラー師の管理馬となった。

本馬はあまり気性が素直な馬では無かったようで、調教助手では本馬を乗りこなすことが出来なかった。そこでテイラー師は自らが本馬に騎乗して調教を施した。

競走生活(3歳前半まで)

2歳3月にテイラー師が本馬を非公式の試走に出してみると、1歳年上のスラングという馬をあっさりと破った。そこで、それからしばらくしてニューマーケット競馬場で行われたスウィープSで公式戦デビューとなった。しかし結果は着外。エプソム競馬場で出走したウッドコートS(T6F)でも、マールボロバックの3着に敗れてしまった。7月にニューマーケット競馬場で出走したチェスターフィールドS(T5F)で8頭の対戦相手を蹴散らして、3戦目で初勝利を挙げた。このチェスターフィールドSは英国きっての出世レースの1つであり、以前には名牝クルシフィックスが勝っていたし、本馬の後にもクレモーンベンドアイロコイセントマルゲリートなどがこのレースを勝って名馬への道を歩み始めることになる。しかし翌月にグッドウッド競馬場で出走したエグリントンSでは、フレグラの3着に敗退した。翌日にグッドウッド競馬場で出走したモールコームS(T6F)では勝利したが、対戦相手は1頭しかおらず2頭立てのレースだった。2歳時の成績は5戦2勝で、同世代トップクラスと呼ぶには憚られる状況だった。

3歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたスウィープSから始動して勝利を収めた。しかしこの時期に本馬が走ったレースとしてむしろ重要だったのは、非公式の試走だった。この試走の対戦相手はバチカンという5歳牡馬で、一昨年のニューマーケットSを勝ち英セントレジャーでザフライングダッチマンの3着という実績を有していた。斤量は本馬のほうが6ポンド重かったにも関わらず、本馬が先着した。この話が知れ渡ったために、本馬は一躍英ダービーの本命馬と目されるようになった。

その後は軽度の脚の負傷のため少し休養を挟み(英2000ギニー云々という話は全く出てこない事から、当初から出走予定は無かった模様)、英ダービーに向かった。怪我の具合は特に深刻なものでは無かったが、調教が不十分となってしまった上に、本馬は食欲不振に陥ってしまい、小さなトウモロコシの穂から少しばかりの実を食べるだけという状態だった。それでも迎えた英ダービー(T12F)では、単勝オッズ4倍で33頭立ての1番人気に支持された。この年の英ダービーは殊のほか出走馬が多く、この33頭立てというのは、英ダービーの200年以上にわたる歴史上で、1862年の34頭立てに次ぐ史上2位タイの他頭数だった。単勝オッズ4.5倍の2番人気は前年のウッドコートSで本馬を破ったマールボロバックで、英2000ギニー馬ヘルナンデスが単勝オッズ8倍の3番人気だった。レースが始まると、ジョブ・マーソン騎手が騎乗する本馬は逃げ馬を見るように先行態勢を取った。そして4ハロンほど走ったところで早くも先頭に躍り出た。その後は淡々と馬群を引っ張り、そのまま直線に入ってきた。直線入り口で後続馬勢が一瞬だけ並びかけようとしてきたが、マーソン騎手が合図を送ると本馬は二の脚を使って逆に差を広げた。ゴール前ではマーソン騎手が手綱を抑えながら走るという余裕たっぷりの内容で、2着マールボロバックに2馬身差、3着ニーシャムにはさらに1馬身差をつけて優勝した。

競走生活(3歳後半から4歳時まで)

夏場は休養に充て、秋はドンカスター競馬場に向かった。しかしどうやら本馬は英セントレジャーの登録が無かったようで、同競走には出走しなかった。その代わりにドンSというレースに出走したのだが、対戦相手がいなかったために単走で勝利した。10月にはニューマーケット競馬場で、マウンテンディアーという馬との1000ポンドを賭けた距離10ハロンのマッチレースに出走した。マウンテンディアーは主要競走の勝ちこそ無かったが、当時の有力馬として知られており、2頭のマッチレースは、この年の春に行われた有名なザフライングダッチマンとヴォルティジュールのマッチレースを上回るとも評されたほどの注目を集めた。レースは本馬が先手を取り、同斤量のマウンテンディアーが追いかけてくる展開となった。そして残り1ハロン地点でマウンテンディアーが本馬に並びかけてきて、激しい叩き合いとなった。そこでマーソン騎手が鞭と拍車を連打すると、それに応えた本馬が競り勝ち、半馬身差で勝利した。3歳時の成績は4戦全勝だった。

4歳時も現役を続け、3月にノーサンプトンシャーS(T16F)に出走。しかし結果はプードルという3歳馬の4着に敗れてしまった。本馬とプードルの斤量差はなんと64ポンドもあったと言うから、さすがにこれは無茶苦茶だった。4月に出走したニューマーケットHでも、47ポンドもの斤量差が影響して3着に敗退。さらにグッドウッドC(T21F)でも、27ポンドのハンデを与えたキングストン、32ポンドのハンデを与えたリトルハリーの2頭の3歳牡馬との接戦に後れを取り、勝ったキングストンから1馬身1/4差、2着リトルハリーから3/4馬身差の3着に敗れた。しかし斤量差があった事や、やはり大きなハンデを与えた7頭の馬に先着したこともあり、本馬は良い走りをしたと評価された。このレースには本馬不在の英セントレジャーを勝ったニューミンスターも参戦していたが6着に終わっている。その直後にグッドウッド競馬場で出走した200ポンドパースでは単走で勝利を収めた。9月にはウォーウィック競馬場でウォーウィックCに出走。ここでも他の出走馬3頭とはかなり大きな斤量差があったが、単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持された。ここではナット・フラットマン騎手とコンビを組んだ本馬は、グッドウッドCと同じく32ポンドのハンデを与えたリトルハリーを今度は頭差の2着に抑えて勝利した。

次走のドンカスターC(T18F)では、キングストンとの2度目の対戦となった。斤量差はグッドウッドCから縮まってはいたが、それでも19ポンド差があった。このレースには本馬とキングストン以外にも、ニューミンスターや翌年の同競走を勝つハンガーフォードなどが出走していたのだが、ほぼ本馬とキングストンのマッチレースになるだろうとみなされていた。そしてその予想どおりに直線では本馬とキングストンの激しい叩き合いとなった。最後は本馬が競り勝って首差で勝利を収めた。このレースは競馬のお手本とされるほど美しい名勝負だったらしい。4歳時の成績は6戦3勝だった。

競走生活(5歳時)

5歳時も現役を続け、まずはロシア皇帝プレート(T20F・現アスコット金杯)から始動した。このレースにおける最大の強敵は誰が何と言っても、英2000ギニー・英セントレジャー・ニューマーケットS・グランドデュークマイケルS・ニューマーケットセントレジャーを勝っていた1歳年下のストックウェルだった。本馬とストックウェルの直接対決となったこのレースは絶大な注目を集め、競馬狂として知られていたアルバート・エドワード皇太子(後の英国王エドワードⅦ世)は言うまでもなく、平素はそれほど競馬に興味を抱いていなかったヴィクトリア女王も、王室所有のアスコット競馬場に姿を見せていた。斤量はストックウェルより本馬が9ポンド重かった。

レースは7頭立てで行われたが、マーソン騎手は本馬をその最後方から進ませた。そして徐々に順位を上げていき、直線入り口では2番手。本馬の前にいるのはストックウェルのみという状況となった。そしてストックウェルとの差を縮めると、残り1ハロン地点で遂に追いついた。そして「驚くべき速度の爆発」と評されたほどの脚を使って一気にストックウェルを抜き去った。そして1馬身ほどの差をつけたのだが、本馬はここで力尽きたのか左側によれて失速。そこへストックウェルが差し返してきて、ゴール前では大接戦となった。しかしマーソン騎手は本馬の体勢を立て直すと再び加速させた。そしてストックウェルを首差の2着に抑えて優勝。勝ち馬表彰式場に歩いてきた本馬を讃える観衆の大声援はアスコット競馬場内にこだまとなって轟き渡ったという。なお、この年の3月にクリミア戦争が勃発しており、翌年に英国がロシアに宣戦布告して2国は敵対関係になったため、アスコット金杯がロシア皇帝プレートの名称で実施されたのはこれが最後となり、本馬は最後のロシア皇帝プレートの勝ち馬となった。

その後は10月のシザレウィッチH(T18F)に出走した。本馬に課せられた斤量は133ポンド。そして勝ったのは斤量82ポンドの3歳牡馬ハコで、本馬は着外に敗れた。そして同日午後には同じニューマーケット競馬場でザホイップ(T32F)なるレースに出走。このレースは、キングストンとのマッチレースの場として設けられたものであり、今回の斤量は2頭とも140ポンドと同じに設定された。しかし距離2マイル2ハロンのレースを走った同じ日に距離4マイルのレースに出るというのはやはり無茶だったようで、キングストンに6馬身差をつけられて敗退。このレースを最後に5歳時3戦1勝の成績で競走馬を引退した。

本馬は圧勝する事があまりなく、ゴール前の叩き合いを制して勝つことが多かった。負けたレースでもハンデを与えた相手に最後まで食らいついて見せ場を作る事が多く、その手に汗を握る走り方は見る者を魅了し、絶大な人気を誇った。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第20位にランクインした。

血統

Orlando Touchstone Camel Whalebone Waxy
Penelope
Selim Mare Selim
Maiden
Banter Master Henry Orville
Miss Sophia
Boadicea Alexander
Brunette
Vulture Langar Selim Buzzard
Alexander Mare
Walton Mare Walton
Young Giantess
Kite Bustard Castrel
Miss Hap
Olympia Sir Oliver
Scotilla
Miss Twickenham Rockingham Humphrey Clinker Comus Sorcerer
Houghton Lass
Clinkerina Clinker
Pewett
Medora Swordsman Prizefighter
Zara 
Trumpator Mare Trumpator
Peppermint
Electress Election Gohanna Mercury
Dundas Herod Mare
Chestnut Skim Woodpecker
Milsintowns Herod Mare
Stamford Mare Stamford Sir Peter Teazle
Horatia
Miss Judy Alfred
Manilla

オーランドは当馬の項を参照。

母ミストゥイッケナムの競走馬としての経歴は不明。

本馬の半妹ストロベリーヒル(父オールドイングランド)の子にギヨームルタスィテュルヌ【カドラン賞・ビエナル賞】がいるが、ミストゥイッケナムの牝系子孫は発展しなかった。

ミストゥイッケナムの半妹サーヘラクレスメア(父サーヘラクレス)の子にヨーディン【ジュライS】、ジン【ジュライS】、曾孫にシューリオ【パリ大賞】、玄孫にゴールド【アスコット金杯・英チャンピオンS】がいるが、この牝系もそれ以上発展しなかった。

牝系が後世まで残っているのは、ミストゥイッケナムの半妹スピリットヴォート(父セントルーク)で、スピリットヴォートの孫にセントオーバンス【英セントレジャー】、ギャングフォワード【英2000ギニー】、玄孫世代以降にデュードネ【ミドルパークS・サセックスS・英チャンピオンS】、キーストーン【英オークス】、キーソー【英セントレジャー・ナッソーS】、ディスプレイ【プリークネスS】、バリモス【凱旋門賞・愛ダービー・英セントレジャー・コロネーションC・エクリプスS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS】、ノットナウケイト【英国際S(英GⅠ)・タタソールズ金杯(愛GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)】、日本で走ったビッグウィーク【菊花賞(GⅠ)】などが出ている。

ミストゥイッケナムの祖母スタンフォードメアの半兄にはラウンジャー【英セントレジャー】がおり、遠縁には根幹種牡馬サーヘラクレスやブラックロックの名前も見られる。→牝系:F2号族④

母父ロッキングハムは英セントレジャー・ドンカスターC・グッドウッドCの勝ち馬。さらに遡ると、ハンフリークリンカー、クラレットSの勝ち馬で英ダービー3着のコーモスを経て、名種牡馬ソーサラーに行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は英国で種牡馬入りしたが、1859年の英1000ギニー馬マヨネーズを出した程度で、あまり成功できなかった。13歳時の1861年に1700ポンドで取引されて、オーストリア・ハンガリー帝国に輸出された。キンチェムの項にも記載したが、この当時のオーストリア・ハンガリー帝国は英国から優れた馬を積極的に導入して馬産の強化を図っていたのだった。本馬は船に乗って英国を旅立ち、まずはベルギーのアントワープ港に到着した。ところが船から降りてきた本馬は誤って海に転落してしまい、一大救出劇が展開された。無事に助け出された本馬は、その後は何事もなくオーストリア・ハンガリー帝国に到着し、帝室所有のキシュベルスタッドで種牡馬生活を続けた。没年は不明だが、1866年産馬がいるため、17歳時の1865年までは存命していたはずである。

種牡馬としては失敗に終わり、直系も伸ばせなかった本馬だが、牝駒のマリーゴールドが本馬の好敵手ストックウェルとの間に英ダービー・アスコット金杯の勝ち馬ドンカスターを産み、さらにドンカスターがベンドアの父となった事で、その血が後世に受け継がれた。あと、別方面から本馬の血を後世に伝えたのは代表産駒であるマヨネーズで、彼女が優れた牝系の始祖となった事でも本馬の血が後世に受け継がれた。マヨネーズの牝系子孫から誕生した活躍馬は多数おり、その中の一部を抜粋して名前だけ挙げると、コロラド、サイテーション、ダヴォナデイル、サマースコール、エーピーインディ、スキーパラダイス、シルバーチャーム、レモンドロップキッド、デュークオブマーマレード、ハヴァードグレイス、ルーラーオブザワールド、日本で走ったヤシマドオター 、コダマ、ガーネツト、キタノカチドキ、カツラノハイセイコ、ニホンピロウイナー、ダイコウガルダン、サンドピアリス、ポレール、マチカネフクキタル、スペシャルウィーク、メイショウサムソン、ウオッカ、リアルインパクトなどがいる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1856

Emblem

英グランドナショナル

1856

Mayonaise

英1000ギニー

1858

Emblematic

英グランドナショナル

1860

Marigold

スチュワーズC

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