セプター

和名:セプター

英名:Sceptre

1899年生

鹿毛

父:パーシモン

母:オナーメント

母父:ベンドア

英国クラシック5競走全てに出走してそのうち4競走を制しただけでなく繁殖牝馬としても後世に大きな影響力を与えた稀代の名牝

競走成績:2~5歳時に英仏で走り通算成績25戦13勝2着5回3着3回

ハードスケジュールに耐えて英国クラシック5競走全出走を果たした歴史上唯一の馬にして、うち4戦に勝利という、牡馬には決して真似が出来ない記録を樹立した稀代の名牝。繁殖牝馬として後世に与えた影響力も大きく、300年以上の歴史を誇るサラブレッド史上における最高の牝馬の1頭である。

誕生からデビュー前まで

本馬の母父でもある大種牡馬ベンドアや、本馬の伯父でもある生涯無敗の英国三冠馬オーモンドの生産者として知られる初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿の生産馬である。父パーシモンセントサイモン直子の大種牡馬、母オナーメントは英1000ギニー馬フェアウェルの半妹にしてオーモンドの全妹という、当時の英国でも屈指の良血馬だった。

馬体は牝馬としてはずば抜けて大きく、成長すると体高は16.5ハンドに達した。祖母リリーアグネスは喘鳴症の持病があり、オーモンドなど多くの子孫がそれを受け継いでいたが、本馬には受け継がれなかったようで、健康面では何の問題もない馬だった。

生産者のグローヴナー卿が本馬の生誕直後に死去したため、彼の所有馬は翌1900年7月にニューマーケットにおいてタタソールズ社が実施した競売にかけられた。グローヴナー卿の専属調教師だったジョン・ポーター師は、グローヴナー卿の後を継いだ孫の第2代ウェストミンスター公爵が本馬を購入する事を熱望したが、5千ギニーから開始されたセリにおいて第2代ウェストミンスター公爵は競り負けてしまい、本馬を落札できなかった。

1歳馬としては当時史上最高額となる1万ギニー(従来の記録は英国牝馬三冠馬ラフレッチェの5500ギニー)で本馬の落札に成功したのは、ロバート・シービア氏という人物だった。シービア氏はジャーナリストで、競馬雑誌“The Winning Post”の代表者兼編集者でもあったが、それ以上にギャンブラーとして名高かった。彼の賭博好きは病的なほどであり、しばしば借金を抱えていたが、その一方で賭けに勝って莫大な資産を有している時期も確かにあった。本馬がセリに登場したのは、まさにシービア氏が豊富な資産を有していた時期であり、それが本馬の運命を決定付けた。

シービア氏は2歳になった本馬を、同じセリで購入した牡馬のデュークオブウエストミンスターなどと一緒に、シャルル・モートン調教師に預けた。本馬はデビュー前調教でデュークオブウエストミンスターを子ども扱いするほどの走りを見せていた。しかし本馬がデビューする直前にシービア氏は負債を抱えてしまい、本馬かデュークオブウエストミンスターのいずれかを売却する必要に迫られていた。それを聞きつけたポーター師は、ジェラルド・ファーバー氏という人物に対して、本馬を購入するように薦めた。しかしファーバー氏は牝馬である本馬よりも牡馬であるデュークオブウエストミンスターのほうを評価し、ポーター師もその意見を尊重したために、本馬はそのままモートン厩舎に残ることになった。

競走生活(3歳初期まで)

2歳6月にエプソム競馬場で行われたウッドコートS(T6F)でデビューした。ここでは単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持された。レースでは馬なりのまま走り、後のロイヤルハントCの勝ち馬でミドルパークプレート・英シャンペンS2着のチャルダッシュを4馬身差の2着に、後のクレイヴンSの勝ち馬でミドルパークプレート3着のポートブレアをさらに3馬身差の3着に破って容易に勝利した。しかしこのレースで本馬は堅すぎる馬場が影響して膝を痛めてしまった。それでも翌月にはニューマーケット競馬場でジュライS(T5.5F)に出走した。単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持された本馬は、2着エヌエヌに2馬身差をつけてこれまた簡単に勝利した。3戦目は9月の英シャンペンS(T6F)となった。しかし冬毛が生え始めていた本馬は体調が優れず、過去のレースで既に破っていた牝馬ゲームチック(後にデューハーストプレートも勝利している)、チャルダッシュの2頭に屈して、ゲームチックの3着に敗退。2歳時は3戦2勝の成績となった。

2歳時は至って普通の出走日程だったが、本馬が3歳になった頃、シービア氏がモートン調教師と仲違いするという事件が勃発した。南アフリカのダイヤモンド王ソロモン・バーナート・ジョエル氏の兄ジャック・バーナート・ジョエル氏に招かれたモートン師は、シービア氏の専属調教師を辞したため、本馬はモートン厩舎を離れる事になった。そして馬主のシービア氏自らが調教師となって、ポーター師から借りた調教場において本馬を調教することを宣言した(もっとも、最初は調教助手を雇っていた)。そして本馬は、シービア氏の方針により異常なほどの過密日程で走る事になった。

3歳初戦は3月にリングフィールド競馬場で行われた古馬混合戦のリンカンシャーH(T8F)となった。ここでは英1000ギニー・英オークスの勝ち馬ミミの息子である4歳牡馬セントマクルーの短頭差2着に敗れた。着差はわずかだったが、斤量は本馬よりセントマクルーの方が20ポンドも重く、内容的には完敗だった。これを不服に思ったシービア氏は調教助手を解雇し、完全に自分一人で本馬の調教を行うようになった。もっとも、本馬を馬房に放置したまま英国外に出張するなど、管理体制はいい加減なものであったという。

競走生活(3歳中期から4歳初期まで):超ハードスケジュール

次走は英2000ギニー(T8F)となり、かつての同僚だったニューS・リッチモンドSの勝ち馬デュークオブウエストミンスターや、クリアウェルS・インペリアルプロデュースSの勝ち馬でデューハーストプレート2着のアードパトリックといった強豪牡馬勢が相手となった。しかし単勝オッズ5倍とそれなりの評価を受けていた本馬が牡馬勢を一蹴。2着ピストルに2馬身差、3着アードパトリックにさらに3馬身差をつけて、1分39秒0のコースレコードタイムで優勝した。

その僅か2日後に本馬は英1000ギニー(T8F)に登場して、単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。レース前に蹄鉄が歪んで外れるアクシデントがあったが、シービア厩舎には装蹄師がいなかったので本馬は蹄鉄を履かないままで出走する羽目になった。しかしレースでは馬なりのまま2着セントウインデリン(英セントレジャー馬ウールワインダーの母)に1馬身半差、3着ブラックファンシーにはさらに4馬身差をつけて優勝した。

続く英ダービー(T12F)でも単勝オッズ2倍の1番人気となった。しかしレース10日前に脚を負傷していたことに加えて、焦れ込みが災いしてスタートを失敗。しかも失敗を取り戻そうとした主戦のハーバート・ランドール騎手が無理に先行集団に付けようとしたためスタミナを消耗。その結果、直線で伸びを欠いて、アードパトリック、ライジンググラス、フライヤータックの3頭の牡馬に屈して、勝ったアードパトリックから6馬身以上の差をつけられた4着に敗れてしまった。

その2日後に出走した英オークス(T12F)では前走の敗戦が響いたのか単勝オッズは3.5倍だったが、2着グラスジャグに3馬身差、3着エルバにはさらに1馬身半差をつけて圧勝した。

春の英国クラシック競走に全て出走した本馬は、普通であればこの辺りで休養が与えられるところだが、シービア氏はそれをせず、今度は本馬を仏国に移動させてパリ大賞(T3000m)に出走させた。このレースは、仏1000ギニー・リュパン賞・仏オークスを勝っていたキジルクールガンとの英仏最強牝馬対決となった。英国の人は本馬の勝利を微塵も疑っていなかったが、生憎とここは英国と犬猿の仲である敵地仏国のロンシャン競馬場であり、発走時刻が近づいてくると観客席からランドール騎手に対して壮絶なブーイングが浴びせられかけた。ランドール騎手はそれで集中力を削がれたのか、それとも地元仏国からの出走他馬に進路を妨害される事を懸念したのか、道中は大外を走ることになった。それでも直線で追い込んできたが、疲労の蓄積も影響したのか、キジルクールガンの着外に敗れてしまい、すぐに英国に帰国した。

ところが何とパリ大賞の2日後にはコロネーションS(T8F)に出走。結果はドクトリンの5着(4着とする資料もある)に敗退してしまった。その翌日には今度はランドール騎手からフレッド・W・ハーディ騎手に主戦を交替して、セントジェームズパレスS(T8F)に出走。ここでは同月のアスコットダービーを勝つフライングレムールを1馬身半差の2着に、英ダービーで2着だったライジンググラスを3着に破って勝利した。英ダービーからセントジェームズパレスSまで半月の間に5戦(しかも途中で仏国遠征を挟んでいる)をこなした本馬だったが、とんでもない無茶使いはまだ続いた。翌7月にもサセックスS(T8F)に出走して、エクリプスSで3着してきた牡馬ロイヤルランサーの2馬身差2着に敗退。その3日後にはナッソーS(T12F)にも出走して、ここでは馬なりのまま2着エルバに4馬身差をつけて完勝した。

8月はさすがにレースには出走しなかった本馬は、秋初戦として9月の英セントレジャー(T14F132Y)に出走。ここでは単勝オッズ4.33倍という評価だったが、セントジェームズパレスS3着後にエクリプスSで2着していたライジンググラスを3馬身差の2着に、英ダービー3着馬フライヤータックをさらに2馬身差の3着に破って圧勝。1868年に英2000ギニー・英1000ギニー・英オークス・英セントレジャーを制したフォーモサ以来34年ぶり史上2頭目の英国クラシック競走4勝馬となった。ただし、フォーモサは英2000ギニーで1着同着の後、決勝戦に出走しなかったために公式な英2000ギニーの勝者として認められない、又は英国クラシック競走3.5勝馬として扱われる(“Thoroughbred Heritage”にこの表現が出てくる)場合が多く、本馬こそが史上唯一の英国クラシック競走4勝馬であるとする資料が多い。また、1892年のラフレッチェ以来10年ぶり史上5頭目の英国牝馬三冠馬にも輝いた。

それから2日後には英セントレジャーと同コースのパークヒルS(T14F132Y)に出走したが、さすがに疲労が出たのか、英オークスやナッソーSでは相手にもしなかったエルバの1馬身差2着に敗退。ここで3歳時の出走はようやく終了。3歳時は12戦6勝の成績だった。この頃にシービア氏の財政状態はかなり悪化しており、彼は本馬を3歳暮れに競売に出したが、最低価格に届かなかったために主取りとなった。

4歳時も現役を続行するが、3月に出走した初戦のリンカンシャーH(T8F)では、他馬勢よりも15ポンド以上重い127ポンドの斤量を課せられ、23ポンドのハンデを与えた牡馬オーヴァーノートン(前年のリンカンシャーHで本馬から頭差の3着だった)の5着に敗退。このレースでシービア氏は本馬の勝利に全財産を賭けており、この結果見事に一文無しになって破産となり、全ての所有馬を手放すことになった。こうして本馬はようやくシービア氏の魔の手から開放されることになったのだった。

競走生活(4歳中期と後期)

本馬は2万5千ギニーでウィリアム・バス卿に購入され、アレック・テイラー・ジュニア調教師に預けられた。テイラー・ジュニア師は「マントンの魔法使い」の異名を有していた名伯楽であり、長らく管理調教師に恵まれなかった本馬は、ここでようやく優れた調教師の管理下に入ることが出来た。

しかし本馬を初めて見たテイラー・ジュニア師は、あまりの状態の悪さに、何をどうすれば良いのか判断できなかった。そこでテイラー・ジュニア師はシービア氏に対して本馬の調教方法を尋ねた。その返答は「二流品のように扱うこと」だった。それを聞いて頷いたテイラー・ジュニア師は、速やかにその正反対の方針を採った。まずは当面の休養を本馬に与え、体調の立て直しを図った。そして調教が再開されても、急いだりはせず、気長に構え続けた。この「急がば回れ」的なテイラー・ジュニア師の方針が功を奏して、本馬の状態はかなり早い段階で回復した。なお、主戦は引き続きハーディ騎手が務めることになった。

復帰初戦となった6月のハードウィックS(T12F)は単勝オッズ1.91倍の1番人気に応えて、2着ゲイゴードンに5馬身差をつけて圧勝した。

続くエクリプスS(T10F)では、前年の英ダービーで本馬を破って優勝したプリンスオブウェールズS・プリンセスオブウェールズSの勝ち馬アードパトリック、英2000ギニー・英ダービー・デューハーストプレート・セントジェームズパレスS・ウッドコートS・コヴェントリーS・英シャンペンSを勝っていた1歳年下のロックサンド(後に英セントレジャーも勝って英国三冠馬になる)との対戦となり、当時の英国競馬における三大強豪馬対決“Battle of Giants”として空前の盛り上がりを見せ、当時の英国王エドワードⅦ世を始めとする大観衆がサンダウンパーク競馬場に詰め掛けた。結果から書けば、本馬は2着に敗れてしまったのだが、このレースは英国競馬史上有数の名勝負と讃えられた。レースは単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持されたロックサンドが先行し、単勝オッズ2.75倍の2番人気だった本馬と、単勝オッズ6倍の3番人気だったアードパトリックがそれを見る形で追走。直線に入ると本馬がロックサンドに並びかけ、アードパトリックも後方から追い上げてきて、三つ巴の大激戦となった。いったん本馬が抜け出したのだが、内側からアードパトリックが猛然と追い上げてきて、ゴール前では2頭の一騎打ちとなった。そしてアードパトリックが本馬を首差抑えて勝利したのだった(ロックサンドは3馬身差の3着)。

その後は10月のジョッキークラブS(T14F)に向かった。ここでは、英セントレジャーを勝って英国三冠馬となったロックサンドとの対戦となった(当初は出走予定だったアードパトリックは脚部不安のため回避してそのまま引退)。斤量は牝馬である本馬のほうがロックサンドより6ポンド多かった(資料によっては本馬が140ポンドでロックサンドは121ポンドだったとなっており、そうすると本馬のほうが19ポンド重かった事になる)のだが、蓋を開けてみれば本馬が2着ロックサンドに4馬身差をつけて圧勝してしまった。

次走のデュークオブヨークS(T10F)では、1歳年下の英オークス馬アワーラッシーとの対戦となったが、単勝オッズ1.62倍の1番人気に支持された本馬が2着ハッピースレイヴに頭差、3着となった前年の英オークス2着馬グラスジャグにさらに3馬身差をつけて勝利を収め、アワーラッシーは着外に沈んだ。英チャンピオンS(T10F)では、1歳年下のアスコットダービーの勝ち馬クルーンスタッドが対戦相手となったが、単勝オッズ1.03倍という圧倒的な1番人気に支持された本馬が2着クルーンスタッドに10馬身差をつけて圧勝した。さらにライムキルンS(T10F)では単勝オッズ1.01倍という究極の1番人気に応えて、2着パレゴリックに8馬身差をつけて圧勝。これで4連勝となり、全盛期の強さを完全に取り戻した。4歳時の成績は7戦5勝だった。

競走生活(5歳時)

5歳になっても現役を続行。初戦のコロネーションC(T12F)では、ロックサンドと3度目の対戦となった。さらには、ロックサンドと同世代馬ながらも、馬主の死によって英国クラシック登録が全て無効となり英国三冠競走に参加できずに裏街道を進み、マンチェスターC・ゴールドヴァーズ・ゴードンS・スカーボローHを勝っていた実力馬ジンファンデルも対戦相手となった。結果はジンファンデルが勝ち、本馬は1馬身差2着に敗れたが、3着ロックサンドには三度先着した。ジンファンデルは後にジョッキークラブC・アスコット金杯も制覇して、ロックサンドに代わる世代最強馬として君臨することになる。

続くアスコット金杯(T20F)では、そのジンファンデルと2度目の対戦となった。しかし結果は単勝オッズ21倍の伏兵スローアウェイが勝ち、ジンファンデルが1馬身差の2着、本馬はさらに3/4差の3着に敗退した。このレースについては、愛国生まれの大作家ジェイムズ・ジョイスの代表作である小説「ユリシーズ」の中で触れられている。新聞社の広告とりをしている主人公のレオポルド・ブルームが知人の競馬狂バンタム・ライアンズに会った際に、今日のアスコット金杯に出走予定の仏国調教馬マクシマムの様子を知りたかったライアンズは、ブルームが持っていた新聞を見せてもらうよう頼んだ。この際にブルームは “Throw Away(英語で「捨てる」の意味)”するつもりだったんだと言いながら新聞をライアンズに渡したところ、ライアンズはそれを馬名の“スローアウェイ(Throwaway)”だと解釈して、スローアウェイに賭けるつもりになったが、結局迷ってマクシマムに賭けて外してしまうのだった。「ユリシーズ」にはこのレースの模様も描写されており、それによると、スローアウェイとジンファンデルは当初並んで走っていた(本馬はどこを走っていたか書かれていない)が、やがてスローアウェイが先に仕掛けて一気に先頭に立ち、ジンファンデルと本馬を抑えて勝利したとある。

直後のハードウィックS(T12F)では、ロックサンドと4度目の対戦となった。しかしコロネーションCから直行してきたロックサンドと、間にアスコット金杯を挟んでいた本馬とでは疲労の度合が違っていたようで、レースはロックサンドが2着サントリーに2馬身差をつけて勝利を収め、本馬はサントリーからさらに3馬身差の3着に敗れた。これで本馬に雪辱を果たしたロックサンドだったが、過去に3度も本馬に苦杯を舐めさせられたこともあり、通算成績20戦16勝の立派な英国三冠馬でありながらその競走能力に疑問符が付けられてしまい、種牡馬入り後も評価されずに米国に放出されて、母父としてマンノウォーを出すことになる。

一方の本馬はこのハードウィックSを最後に、5歳時3戦未勝利の成績で競走馬を引退した。馬名は「王笏」という意味で、最初の馬主シービア氏が、裕福な階級の出身でなかった自身に箔を付けてくれる願いを込めて名付けたという。

テイラー・ジュニア厩舎に移った後の本馬は、シービア厩舎にいた頃の反動か、それとも元からなのか、かなり我儘な性格になっていたという。特に食事には非常にうるさかった(馬体が大きかったので食欲旺盛だったようである)。“The Bloodstock Breeders' Review”には次のように記されている。「現役時代の彼女は林檎が大好物でした。現役引退後の好物はチョコレートでした。彼女はマントンにやって来た後に、非常に食事の好みがうるさくなり、凝り性になりました。彼女は白いカラス麦を食べようとしませんでしたが、黒いカラス麦は食べていました。ところがある日、彼女はいきなり白いカラス麦のほうを好きになりました。それで結局は白と黒の混合カラス麦が与えられるようになりました。食事の方法についても気まぐれで、飼い葉桶に入れて与えられると、それを改めて別の容器に入れて与えるように要求してきました。そうかと思えば、別の日には飼い葉桶に入れた餌でなければ見向きもしませんでした。彼女の気まぐれと要望を充足させることは容易ではありませんでした。」

血統

Persimmon St. Simon Galopin Vedette Voltigeur
Mrs. Ridgway
Flying Duchess The Flying Dutchman
Merope
St. Angela King Tom Harkaway
Pocahontas
Adeline Ion
Little Fairy
Perdita Hampton Lord Clifden Newminster
The Slave
Lady Langden Kettledrum
Haricot
Hermione Young Melbourne Melbourne
Clarissa
La Belle Helene St. Albans
Teterrima
Ornament Bend Or Doncaster Stockwell The Baron
Pocahontas
Marigold Teddington
Ratan Mare
Rouge Rose Thormanby Windhound
Alice Hawthorn
Ellen Horne Redshank
Delhi
Lily Agnes Macaroni Sweetmeat Gladiator
Lollypop
Jocose Pantaloon
Banter
Polly Agnes The Cure Physician
Morsel
Miss Agnes Birdcatcher
Agnes

パーシモンは当馬の項を参照。

母オナーメントは現役成績1戦未勝利だが、英1000ギニー馬フェアウェルの半妹にして、生涯無敗の英国三冠馬オーモンドの全妹という良血馬。繁殖牝馬としてはかなり活躍しており、本馬の半兄ラブラドール(父シーン)【英チャンピオンS・ジュライS】、半兄カラー(父セントサイモン)【ハードウィックS・トライアルS(現クイーンアンS)】も産んでいる。

オナーメントは非常に有力な牝系を構築しており、特に本馬の半姉スプレンディド(父シーン)の牝系子孫からは、プリモネッタ【アラバマS・スピンスターS】、シャトーゲイ【ケンタッキーダービー・ベルモントS・ブルーグラスS・ジェロームH】、リトルカレント【プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)】、カムローディローリー【デラウェアオークス(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・ベルデイムS(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】、センセーショナル【フリゼットS(米GⅠ)・セリマS(米GⅠ)・レディーズH(米GⅠ)】、デザートワイン【チャールズHストラブS(米GⅠ)・カリフォルニアンS(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)】、テクノロジー【フロリダダービー(米GⅠ)・ハスケル招待H(米GⅠ)】、メニフィー【ブルーグラスS(米GⅠ)・ハスケル招待H(米GⅠ)】、ファスリエフ【愛フェニックスS(愛GⅠ)・モルニ賞(仏GⅠ)】、コンガリー【スワップスS(米GⅠ)・シガーマイルH(米GⅠ)2回・カーターH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)】、レザルク【ゴールデンジュビリーS(英GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)】、バーバロ【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)】、ミスティフォーミー【モイグレアスタッドS(愛GⅠ)・マルセルブサック賞(仏GⅠ)・愛1000ギニー(愛GⅠ)・プリティポリーS(愛GⅠ)】、日本で走ったクレオパトラトマス【帝室御賞典(東京)】、名種牡馬クモハタ【東京優駿】、ハマカゼ【桜花賞】、タカクラヤマ【天皇賞春】、ハクチカラ【東京優駿・天皇賞秋・有馬記念・ワシントンバースデイH】、ニホンピロムーテー【菊花賞】、パンフレット【中山大障害春】、ゴールドシップ【皐月賞(GⅠ)・菊花賞(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)・宝塚記念(GⅠ)2回・天皇賞春(GⅠ)】、ラキシス【エリザベス女王杯(GⅠ)】などが登場している。

オナーメントの母リリーアグネスや祖母ポリーアグネス、曾祖母ミスアグネスも非常に強力な牝系を構築しているが、その詳細はリリーアグネスの項や別ページの牝系図を参照してもらいたい。→牝系:F16号族②

母父ベンドアは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、バス卿が所有するマントンスタッドで繁殖牝馬となった。

7歳時に初子となる牝駒メイドオブザミスト(父サイリーン)を出産。メイドオブザミストはチェヴァリーパークS・ナッソーSなど3勝を挙げる活躍を見せた。

8歳時には2番子の牝駒メイドオブコリンス(父サイリーン)を出産。メイドオブコリンスもチェヴァリーパークSなど2勝を挙げ、英1000ギニーで2着する活躍を見せた。

本馬の繁殖成績はここまで順調だったのだが、以降は下降線を辿った。9歳時には3番子の牝駒コロネーション(父アイシングラス)を出産。コロネーションは伊国に輸出されて、そこで勝ち星を挙げた。

10歳時には4番子の牝駒クイーンカーバイン(父カーバイン)を出産した。クイーンカーバインは100ギニープレートを勝った程度に終わった。11・12歳時は不受胎で産駒はいなかった。

本馬が12歳時の1911年にバス卿が馬産から撤退したため、本馬は繁殖牝馬のセリに出され、タタソールズ社の経営一族の一人エドムンド・サマーヴィル・タタソール氏により7千ギニーで落札された。翌13歳時に5番子の牝駒キュリア(父キケロ)を出産したが、キュリアは未勝利に終わった。

14歳時には6番子にして最初で最後の牡駒となるグローヴナー(父キケロ)を出産。本馬の生産者の名前をつけられたグローヴナーは850ギニープレートを勝利したが、それほど活躍することは出来なかった。

1914年にタタソール氏は15歳になった本馬を知人のジョン・マスカー氏に売却。本馬はさらに転売されて最終的にはロード・グラネリーによって2500ギニーで購入された。翌16歳時に7番子の牝駒セプターズドーター(父スウィンフォード)を出産したが、この子は不出走に終わった。

17歳時は産駒がおらず、18歳時に8番子の牝駒クイーンエンプレス(父グレネスキー)を産んだ。しかしクイーンエンプレスも不出走に終わった。そしてこれが本馬の最後の出産で、以降は不受胎続きだった。

そのため、ロード・グラネリーは1923年に本馬をブラジルに売却することを決めた。売却価格は500ギニーで、かつて1歳時に本馬がシービア氏によって購入されたときの20分の1の価格だった。しかし本馬がブラジルに売却されることを知った英国の競馬ファン達がロード・グラネリーに思い留まるように懇願したために、彼は売却を取り止めた。その後はかつての所有者タタソール氏が中心となって設立したセプター基金のもとで余生を過ごし、3年後の1926年2月に老衰のため27歳で他界した。

後世に与えた影響

繁殖牝馬としての成績は期待はずれだったと評されてしまった本馬だが、その牝系子孫からは多くの活躍馬が登場し、一大牝系を形成することに成功している。

まず本馬の牝系発展に寄与したのは初子のメイドオブザミストである。メイドオブザミストの子にはサニージェーン【英オークス】、種牡馬としても成功したクレイガンエラン【英2000ギニー・エクリプスS・セントジェームズパレスS】が、孫にはバッカン【エクリプスS2回・英チャンピオンS・ドンカスターC】、ソルタッシュ【エクリプスS】、米国で種牡馬入りして成功したセントジャーマンズ【コロネーションC・ドンカスターC】が、曾孫にはティベリウス【アスコット金杯・グッドウッドC】が、玄孫世代以降には、コマンチラン【英セントレジャー(英GⅠ)・ベンソン&ヘッジズ金杯(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)】、ミリグラム【クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅠ)】、レッドビュレット【プリークネスS(米GⅠ)】、ピコセントラル【サッコー少佐大賞(伯GⅠ)・リオデジャネイロ州大賞(伯GⅠ)・カーターH(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)・ヴォスバーグS(米GⅠ)】、ジプシーズウォーニング【セクウィニS(南GⅠ)・SAフィリーズクラシック(南GⅠ)・メイトリアークS(米GⅠ)】、日本で走ったミッドファーム【天皇賞秋】、スピードシンボリ【天皇賞春・有馬記念2回・宝塚記念】、ボールドシンボリ【朝日杯三歳S】、シンボリモントルー【中山大障害秋】、スタビライザー【帝王賞】などがいる。

3番子のコロネーションは伊国の天才馬産家フェデリコ・テシオ氏が所有する繁殖牝馬となり、その牝系子孫から、ティソ【イタリア大賞・伊ジョッキークラブ大賞・ローマ賞2回・伊共和国大統領賞・エミリオトゥラティ賞】、マッチ【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・ロワイヤルオーク賞・サンクルー大賞・ワシントンDC国際S】、レルコ【英ダービー・仏2000ギニー・ロワイヤルオーク賞・ガネー賞・コロネーションC・サンクルー大賞】、リライアンス【仏ダービー・パリ大賞・ロワイヤルオーク賞】、ティスランド【伊ダービー(伊GⅠ)・伊共和国大統領賞(伊GⅠ)・ミラノ大賞(伊GⅠ)】、日本で走ったランドパワー【中山大障害(JGⅠ)】などが出ている。

仏国で繁殖入りした4番子クイーンカーバインの曾孫にはペーパーウェイト【デューハーストS】、名種牡馬のペティション【エクリプスS】が、玄孫にはジョヴィアルラッド【WATCダービー・トゥーラックH】、牝系子孫には日本で走ったロックステーツ【優駿牝馬】などがいる。

5番子キュリアの曾孫にはフライオン【アスコット金杯】が、牝系子孫からは、クードゥフュージル【デラウェアH(米GⅠ)・ジョンAモリスH(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)】、デザートコード【BCターフスプリント】などが出ている。

最後の子である8番子クイーンエンプレスの牝系子孫からは、ヌーア【サンタアニタH・サンフアンカピストラーノ招待H・アメリカンH・ハリウッド金杯】、タブン【英2000ギニー・ロベールパパン賞】、キッケンクリス【アーリントンミリオンS(米GⅠ)・セクレタリアトS(米GⅠ)】、日本で走ったダイナガリバー【東京優駿(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)】、サンビスタ【JBCレディスクラシック(GⅠ)・チャンピオンズC(GⅠ)】などが出ている。

TOP