アフェクショネイトリー

和名:アフェクショネイトリー

英名:Affectionately

1960年生

黒鹿

父:スワップス

母:サーチング

母父:ウォーアドミラル

ニューヨーク州クイーンズ地区にあるアケダクト競馬場を主戦場として短距離路線で牡馬顔負けの活躍を続けた「女王の中の女王」

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績52戦28勝2着8回3着6回

誕生からデビュー前まで

チャールズ・ハギャード博士(ラフンタンブルの生産者として知られる)がケンタッキー州レキシントン近郊に所有していた牧場において誕生した。本馬を生産したビーバージェイコブスステーブルは、イジドール・ビーバー氏とハーシュ・ジェイコブス氏の共同馬産団体だった。ジェイコブス氏は馬主や調教師も兼ねており、本馬の母サーチングも手掛けた人物だった。本馬はジェイコブス師の妻エセル・D・ジェイコブス夫人の名義で競走馬となり、ジェイコブス師の調教を受けた。

競走生活(2歳時)

2歳1月にカリフォルニア州サンタアニタパーク競馬場で行われたダート3ハロンの未勝利戦でデビューし、1馬身半差で勝ち上がった。2戦目はそれから3か月が経過した4月にニューヨーク州アケダクト競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走となった。本馬の通算52戦中35戦を走るアケダクト競馬場初見参となったこのレースを2着マードールに7馬身差で圧勝すると、11日後に同コースで行われた一般競走では2着ファッションヴァーディクトに2馬身半差で勝利。翌週に出走したファッションS(D5F)でも、ファッションヴァーディクトを2馬身差の2着に下してステークス競走初勝利を挙げた。

さらにポリードルモンドS(D5F)は2着ボールドプリンセスに1馬身差で勝利。ナショナルスタリオンS(D5.5F)では2着チャーズピヴに2馬身差で勝利。コーリンS(D5.5F)では、前走ナショナルスタリオンSで3着だったノーレジスティングの2馬身半差2着に敗れて連勝は止まった。しかしアストリアS(D5.5F)ではノーレジスティングを2馬身半差の2着に破って借りを返した。ソロリティS(D6F)では2着ファッションヴァーディクトに5馬身差で圧勝。スピナウェイS(D6F)も、2着ナリー(ポリードルモンドS・コーリンS・ソロリティSでいずれも3着だった)に1馬身1/4差で勝利した。

その後は少し疲れが出たのか、メイトロンS(D6F)では、スマートデブとファッションヴァーディクトの2頭に屈して、スマートデブの5馬身半差3着に敗退。次走のフリゼットS(D8F)でも、パムスエゴの3馬身1/4差3着に敗退。ガーデンステート競馬場ダート8ハロンの一般競走もワイズナースの7馬身差3着に敗れ、3連敗で2歳シーズンを終えたが、この年13戦9勝の成績で、米最優秀2歳牝馬に選ばれた(ターフ&スポーツダイジェスト紙による選出。全米サラブレッド競馬協会とデイリーレーシングフォーム紙は、メイトロンSの他にアーリントンラッシーS・プリンセスパットS・マドモワゼルS・ミスシカゴSを勝ったスマートデブを米最優秀2歳牝馬に選んでいる)。

競走生活(3歳時)

半年間の休養を経て3歳6月に復帰。初戦となったアケダクト競馬場ダート6ハロンの一般競走を1馬身半差で勝ち、同コースで行われた次走の一般競走も2着ウィンディミスに1馬身半差で勝利した。しかし3歳3戦目のエイコーンS(D8F)では不良馬場が災いしたのか、単勝オッズ16倍の伏兵スパイシーリヴィングの25馬身差11着と初の大敗を喫してしまった(過去に本馬に1度も先着した事が無かったナリーが2着、この年のCCAオークス・モンマスオークス・ガゼルH・スピンスターSを勝って米最優秀3歳牝馬に選ばれるラムチョップが3着で、スマートデブは10着と惨敗している)。

マザーグースSは諦めて次走はアケダクト競馬場芝8.5ハロンの一般競走となったが、5歳牝馬エルカウンテスの3馬身3/4差5着と完敗。さらにリバティーベルH(D6F)は不良馬場に泣いて、マームーラの12馬身差6着に終わった(前年のCCAオークス・ガゼルHの勝ち馬にして英ダービー馬ロベルトの母となるブラマリーが2着だった)。次走のサラトガ競馬場ダート6ハロンの一般競走で、セーラーズハンチの1馬身1/4差3着に敗れたところで短期休養入りした。

2か月後にアケダクト競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰。このレースはセリマS勝ち馬タマロナの頭差2着だったが、同コースで出た次走の一般競走では2着スピードウェルに2馬身差で勝利。さらにインターボローH(D6F)を2着チャーズピヴに1馬身半差で制してこの年唯一のステークス競走勝利を挙げ、なんとか格好をつけた(スマートデブは3位入線だったが12着最下位に降着となっている)。3歳時は9戦4勝の成績となった。

競走生活(4歳時)

4歳時は1月にサンタアニタパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動した。良馬場でもあり、本馬にはベストの条件のはずだったが、デルマーオークス勝ち馬ハイレイティッドの5馬身半差7着に敗れてしまった。1か月後に同コースで行われた一般競走ではケアの1馬身差2着。さらに翌週に出走したサンタモニカH(D7F)は、チョップハウスの5馬身3/4差12着に敗退した。アケダクト競馬場に舞い戻って出走したコレクションH(D6F)では、2着デシマルコインエイジに2馬身半差で勝利した。

しかしその後もあまり調子が上がらなかった。コロニアルH(D6F)では、ノーレジスティングの4馬身3/4差4着に敗退。アケダクト競馬場ダート7ハロンの一般競走では、コロニア(ケンタッキーダービー・プリークネスS勝ち馬プレザントコロニーの祖母)の2馬身差2着。次走のアケダクト競馬場ダート6ハロンのハンデ競走は2着スパークリングサイレンに2馬身差で勝ったが、ベルデイムSなどを勝っていた6歳牝馬オイルロイヤリティとの対戦となったヴェイグランシーH(D7F)では、ノーレジスティングの1馬身1/4差4着に敗退(オイルロイヤリティは2着)。牡馬相手のアーリントンクラシックSなどを勝っていた3歳牝馬最強のトスマーとの対戦となったリバティーベルH(D6F)では、勝ったトスマーから15馬身差の8着と惨敗した。続くアケダクト競馬場ダート6ハロンのハンデ競走は2着チョップハウスに1馬身半差で勝ったが、不振から脱出できないまま夏場は休養入りした。

しかし秋になって復帰すると、シーズン前半の不安定さは影を潜めていた。復帰初戦となったアケダクト競馬場ダート6ハロンの一般競走を2着ゴールドフレイムに2馬身差で勝つと、インターボローH(D6F)では14ポンドのハンデを与えた2着バレットローズに2馬身差で勝利。さらに牡馬相手のレースとなったスポートページH(D6F)も2着レッドガーに1馬身半差で勝利。続くヴォスバーグH(D7F)も2着レッドガーに1馬身差で勝利を収め、1952年のパレーディングレディ以来12年ぶり史上2頭目の同競走牝馬制覇を果たした。

その後はカリフォルニア州に飛び、大晦日のラスフローレスH(D6F)に出走して、6ポンドのハンデを与えたチョップハウスと1着同着で勝利。6連勝で4歳シーズンを締めくくり、この年の成績を15戦8勝とした。

競走生活(5歳時)

本馬の全盛期は翌5歳時に訪れる。年初の分割競走サンタモニカH(D7F)は前年の勝ち馬チョップハウスの3馬身半差2着、サンタマリアH(D8.5F)はバトゥールの1馬身差2着だったが、アケダクト競馬場に戻って出走したコレクションH(D6F)では、この年の分割競走サンタモニカHを勝ったもう1頭の馬であるフェイスザファクツを2馬身差の2着に、チョップハウスを3着に退けて勝利。さらにディスタフH(D7F)では128ポンドを背負いながらも、2着トリーチェリーに3馬身差で勝利した。

その翌週に出走した牡馬相手のトボガンH(D6F)では、2着チーフテン(カウディンSの勝ち馬で、名馬トムロルフの1歳年上の半兄。種牡馬としても成功している)に5馬身差をつけて圧勝。同競走を牝馬が勝利したのは1910年のメリーデイヴィス以来55年ぶり史上5頭目だった。127ポンドを背負って出走したローズベンH(D7F)では、ナショナルとチーフテンの牡馬2頭に屈して、ナショナルの4馬身半差3着だった。

その僅か3日後にはトップフライトH(D9F)に出走。このレースにはデラウェアH・スピンスターSなどを勝って前年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれていたオールドハット(この年も本馬と並んで受賞している)も出走しており、短距離路線で活躍してきた本馬にとっては距離的にもやや厳しいと思われた。しかし蓋を開けてみれば2着スティープルジルに8馬身差をつけた本馬の圧勝だった(オールドハットは3着)。これが本馬にとっては7ハロンを超える距離で勝った最初で最後のレースとなった。

さらに9日後にはメトロポリタンH(D8F)に出走。ここではサンフェルナンドS・チャールズHストラブS・サンアントニオH2回・ガルフストリームパークH・ブルックリンH・ホイットニーH・ワシントンパークH・ウッドワードS・ドンHを勝っていた強豪ガンボウとチーフテンに屈して、ガンボウの3馬身1/4差3着だった。

それから10日後のリバティーベルH(D6F)では、牝馬としては過酷な132ポンドの斤量が課せられた上に、過去2年はいずれも惨敗している験が悪いレースだったが、2着ソングスターに6馬身差をつけて圧勝した。

この勝ち方が仇となり、次走のヴェイグランシーH(D7F)では牝馬としては極限ともいえる137ポンドを課せられる事となった。しかも他馬勢とは17ポンド以上の斤量差があったが、ソートアフターとの接戦を頭差制して勝利。このレースにおける本馬の走りは、ニューヨーク競馬協会の書記トミー・トロッター氏をして「今年の競馬の頂点」と言わしめた。

続いてサバーバンH(D10F)に出走したが、距離が長過ぎたのか、勝ったピアスターから25馬身差の6着と大敗して夏場の休養に入った。

秋はマスケットH(D8F)から始動し、前年の同競走で2着オールドハットに6馬身差をつけて圧勝していたトスマーと対戦した。2頭の斤量は同じ128ポンドだったが、惜しくもトスマーの鼻差2着に敗れた。しかし3着だったハリウッドオークス馬ストレイトディール(後にレディーズH・サンタマルガリータ招待H・トップフライトH・デラウェアH・スピンスターSなど数々のステークス競走を勝ち翌々年の米最優秀ハンデ牝馬に選出されている)には先着した。

次走のベルデイムS(D9F)では、プライオレスS・アラバマS・ガゼルHを勝ってきたこの年の米最優秀3歳牝馬ワットアトリートの3馬身差5着に敗れ、ストレイトディール(3着)にも先着された。続くキーンランド競馬場ダート7ハロンの一般競走ではヴァニティH勝ち馬スターマギーを3/4馬身差の2着に抑えて何とか勝利したが、スポートページH(D6F)ではヴォスバーグHなどを勝っていた牡馬オーナメントの3/4馬身差2着に敗れ、このレースを最後に現役引退となった。

5歳時の成績は15戦7勝で、この年の米最優秀ハンデ牝馬・米最優秀短距離馬のタイトルを獲得した(米最優秀ハンデ牝馬はオールドハットと同時受賞)。米最優秀短距離馬を牝馬が受賞したのはこれが史上初の例である。獲得賞金総額は54万6660ドルで、牝馬としてはシケーダに次いで史上2頭目の50万ドルホースとなった。

本馬は先に書いたとおり通算52戦のうち約3分の2に当たる35戦をアケダクト競馬場で走り、そのうち21戦で勝利している。アケダクト競馬場がニューヨーク州のクイーンズ地区にあったことから、本馬は地元の競馬ファンから「女王の中の女王」に掛けた“The Queen of Queens”の愛称で親しまれた。かつてスタイミー、サーチング、ヘイルトゥリーズンなどを手掛け、米国競馬の殿堂入りも果たすジェイコブス師は、本馬を「私が手掛けた最高の馬」と評した。

血統

Swaps Khaled Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Eclair Ethnarch The Tetrarch
Karenza
Black Ray Black Jester
Lady Brilliant
Iron Reward Beau Pere Son-in-Law Dark Ronald
Mother in Law
Cinna Polymelus
Baroness La Fleche
Iron Maiden War Admiral Man o'War
Brushup
Betty Derr Sir Gallahad
Uncle's Lassie
Searching War Admiral Man o'War Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token
Brushup Sweep Ben Brush
Pink Domino
Annette K. Harry of Hereford
Bathing Girl
Big Hurry Black Toney Peter Pan Commando
Cinderella
Belgravia Ben Brush
Bonnie Gal
La Troienne Teddy Ajax
Rondeau
Helene de Troie Helicon
Lady of Pedigree

スワップスは当馬の項を参照。

サーチングの詳細に関しては当馬の項を参照してもらうとして、ここでは簡単に記載する。米国の超名門牝系の祖であるラトロワンヌの孫であるサーチングは、ヴェイグランシーH・ギャロレットH2回・ダイアナH2回・マスケットH・トップフライトH・ディスタフH・モリーピッチャーHに勝つなど89戦25勝の成績を残した。米最優秀ハンデ牝馬などのタイトルには縁が無かったが、死後の1978年に米国競馬の殿堂入りを果たしている。本馬以外に特筆すべきサーチングの子には、本馬の3歳年下の半妹プライスレスジェム(父ヘイルトゥリーズン)がいる。プライスレスジェムは競走馬としてもベルモントフューチュリティSでバックパサーを破って勝つなど活躍したが、母としては世界競馬史上最強牝馬の有力候補である凱旋門賞馬アレフランスを産んでその名を馳せた。→牝系:F1号族②

母父ウォーアドミラルは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ビーバージェイコブスステーブル所有のまま繁殖入りした。本馬は繁殖牝馬としても名門ラトロワンヌ系らしい活躍を示した。初子のパーソナリティ(父ヘイルトゥリーズン)がプリークネスS・ウッドメモリアルS・ウッドワードSを勝つなど25戦8勝の成績を挙げ、1970年の米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬に輝いたのである(詳細は当馬の項を参照)。パーソナリティの後に本馬は3頭の子を産んだが、うち競走馬になったのは1頭のみだった。本馬は1979年に19歳で他界し、1989年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米国顕彰馬の中で両親共に米国顕彰馬であるのは本馬とティムタムの2頭のみであり、さらに母父も米国顕彰馬であるのは本馬のみである。この点において本馬は当に米国競馬におけるサラブレッドの中のサラブレッドと言えるかもしれない。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第81位。

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