ウエストオーストラリアン

和名:ウエストオーストラリアン

英名:West Australian

1850年生

鹿毛

父:メルボルン

母:モウリナ

母父:タッチストン

英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャーの英国三冠競走を全て制した英国競馬史上初にして世界競馬史上初の三冠馬

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績11戦10勝2着1回

競馬とは元々貴族同士の娯楽として双方の馬を走らせるスタイルが主流であり、現代のように毎年決められた時期に特定の競走を行うという習慣は当初は無かった。しかし、1780年の英ダービー創設や1793年の英国血統書(ジェネラルスタッドブック)刊行などにより、19世紀に入ってから競馬のスタイルは現代の様式に変化していった。そして、18世紀に創設された英ダービー・英セントレジャーに加えて、1809年に創設された英2000ギニーの3競走が、3歳馬の最強を決めるクラシック競走となった。後にこの3競走を総称して“Triple Crown(トリプルクラウン)”、すなわち三冠と呼ぶようになった。そしてこの英国三冠路線が成立してから44年後の1853年、遂に史上初の英国三冠馬が誕生した。それが“The West(ザ・ウエスト)”の愛称で親しまれた本馬である。

誕生からデビュー前まで

英国ダラム州バーナードキャッスル町にあるストレートラム城において、同城の所有者ジョン・ボウズ氏により生産・所有された。ボウズ氏は第10代ストラスモア伯爵ジョン・リオン・ボウズ卿の息子だったが、両親が正式に結婚する9年前に産まれた子であったため、父の後継者になる事は出来なかった。しかし海運業や石炭業で成功して財政的には恵まれており、豊富な資金を活用して趣味の美術品収集や競馬に没頭していた。

ボウズ氏の馬産を支えたのはエマという名前の1頭の牝馬だった。エマは競走馬としては2歳戦で3勝を挙げた程度だったが、繁殖牝馬としては1835年の英ダービー馬ミュンディヒを産み、ボウズ氏を21歳という若さで英ダービー馬の馬主にした。その後もエマは1843年の英2000ギニー・英ダービー勝ち馬コザーストーンを産んだ。この1843年にエマが産んだコザーストーンの全妹モウリナも英1000ギニーで2着する活躍を見せた。そして繁殖入りしたモウリナの2番子が本馬である。

体高は15.3ハンドで、血のように赤い頭、奇妙な形の耳、黄色っぽくて細長い身体、優れた肩、すらりとした脚、胴回りの深さ、逞しい骨格を有すると評された。ボウズ氏は本馬を「北方の魔法使い」の異名を持つ歴史的名伯楽ジョン・スコット調教師に預けた。本馬は体重が増えやすい傾向があった。しかし脚部があまり丈夫ではなかったため、体重を絞るために強い調教を行うと骨膜炎を起こすという、仕上げが難しい馬だった。そのためにスコット師は本馬を2歳戦ではあまり走らせなかったようである。

競走生活(2歳時)

2歳8月に、スチュワーズCを勝つ1歳年上のロングボウ(豪州の歴史的名馬カーバインの父方の曽祖父)と距離6ハロンの試走を行ったが、本馬が楽勝した(ただし斤量は本馬が21ポンド軽かった)。この試走の様子を見ていたボウズ氏は、来年の英ダービーを勝つのは本馬であると確信し、急行列車に飛び乗ってロンドンまで行き、ロンドン最大のブックメーカーであるリヴァイアサンデイヴィス社に朝一番で赴くと、本馬の英ダービー制覇に3万ポンド(現在の貨幣価値換算で165万ポンド、日本円にすると2億円を軽く超える金額)を賭けたという。

本馬の公式戦デビューは、2歳10月にニューマーケット競馬場で行われたクリテリオンS(T6F)で、主戦となるフランク・バトラー騎手が騎乗した。単勝オッズ3.5倍と人気を集めたものの、レース序盤のスローペースが本馬には合わず、スピードザプロウの半馬身差2着に敗れた。その3日後には、早くも2戦目のグラスゴーS(T6F)に出走した。ここでもスピードザプロウとの対戦となり、2頭で人気を分け合ったが、本馬がクリテリオンSで3着だったフィルバートを2馬身差の2着に抑えて初勝利を挙げた。2歳戦はこの2戦のみで終えた。

競走生活(3歳時):世界史上初の三冠馬誕生

3歳時は4月の英2000ギニー(T8F17Y)から始動。出走馬7頭の中で、単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。大雨が降りしきる中でスタートが切られると、2番人気のオリノコがレースを引っ張り、本馬を含む後続馬もそれについて行った。残り2ハロン地点で本馬が先頭に立って粘り込みを図った。ゴール前ではシッティングボーンが追撃してきたが、半馬身差で本馬が勝利を収めた。

その後は少し休養してから、厩舎があるヨークシャー州からエプソム競馬場まで列車で移動。エプソム競馬場到着から数日後の英ダービー(T12F)に参戦した。スコット師は、本馬の脚部を加熱と感染症から守るため、英ダービーの1週間前から本馬の脚を粘土で覆っていたという。出走頭数は28頭であり、英2000ギニーとは異なり多頭数となっていたが、本馬が単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。レースは本馬があまり得意では無いと思われていた良馬場で行われた。スタートが切られると、チェダーとシネアスの2頭が先頭を伺ったが、それをかわしてウンブリエルが逃げを打った。そして本馬は馬群の中団を追走した。ウンブリエルが失速すると代わってラトルとシネアスの2頭が先頭に立ったが、そこへ本馬とシッティングボーンの2頭が襲い掛かり、残り1ハロン地点からはこの2頭による白熱した一騎打ちが展開された。最後は本馬がシッティングボーンを首差抑えて優勝し、頭差遅れた3着にはシネアス、4着には1歳年上の英2000ギニー・英セントレジャー勝ち馬ストックウェルの全弟ラタプランが入った。

夏場は休養に充て、秋は英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。本馬が現役競走馬だった時期にはまだ「三冠」という用語は使用されていなかった(一般的に使用され始めたのは1870年代になってから)が、既に当時から英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャーの3競走が3歳牡馬最高峰の競走として確立されていた。英2000ギニー・英ダービーを勝って英セントレジャーに出走した馬は、ちょうど10年前の1843年にコザーストーンの例があるのみだった。本馬の伯父であるコザーストーンは本馬と同じくスコット師の管理馬だったが、惜しくもナットウィズの頭差2着に敗れていた。そのため、スコット師にとっては10年越しの雪辱戦となった。

本馬は出走10頭中、単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。レースはペースメーカー役のフェヴァーシャムが先頭を狙うが、シッティングボーンがそれをかわして先頭を奪った。本馬は最初馬群の後方にいたが、シッティングボーンが先行するのを見て、離されないようについていった。そして残り1ハロン地点で先頭に立つと、追い上げて2着に入ったセントジェームズパレスS勝ち馬ザレイヴァーと3着ラタプランに「少しの努力も無く」3馬身差をつけて楽勝し、ここに英国競馬史上初の三冠馬が誕生した。これは同時に、世界競馬史上初の三冠馬誕生でもあった。快挙を達成した本馬に対しては「まさしく台風のような喝采」が送られたという。バトラー騎手はレース後に「1度だけ鞭を使いましたが、後は何もしなくても馬なりのまま勝ってしまいました」と話した。

英セントレジャーの僅か3日後には、ニューマーケット競馬場で行われた賞金200ポンドのスウィープSに出走したが、出走予定だった他馬12頭が全て回避したために、単走で勝利した。10月にはやはりニューマーケット競馬場で行われたグランドデュークマイケルSに出走したが、ここでも対戦相手がおらず、単走で勝利した。3歳時の成績は5戦全勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳時はニューマーケット競馬場で行われた賞金250ギニーのマッチレースから始動したが、対戦相手のバルバツスが回避したために本馬が単走で勝利した。このレース後に本馬は、当時英国内の優秀な競走馬や種牡馬を買い漁っていた英国の政治家・外交官である初代ロンデスボロー男爵アルバート・デニソン卿(後にストックウェルも購入している)により5000ギニーというかなりの高額で購入された(ストックウェルの購入額は3000ギニー)。6月にはアスコット競馬場で行われたトリエニアルS(T20F)に出走して、2着ヴァンダーデッケンに4馬身差で楽勝した。

その数日後にはアスコット金杯(T20F)に参戦。英国ヴィクトリア女王夫妻を含む大観衆が見守る中、グッドウッドC勝ち馬キングストンを頭差2着に、ラタプランを3着に退けて優勝。レース後には国王夫妻がいるスタンド前でパレードが行われた。その後は7月にグッドウッド競馬場で行われた賞金300ポンドのスウィープS(T12F)に出走して、2着コブナットに20馬身差をつけて圧勝した。その後はグッドウッドCで英1000ギニー馬ヴィラーゴと対戦する予定だったが、結局回避して4歳時4戦全勝で現役引退となった。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌は、19世紀における名馬ランキングを作成するために、競馬関係者100人にアンケートを行った。本馬は63票を獲得し、65票を獲得した2代目英国三冠馬グラディアトゥールに次いで第2位となった。また、同時に行われた「自分の目で見た最も偉大な競走馬」の投票では、グラディアトゥール、アイソノミーに次ぐ第3位だった(ただし、本馬はグラディアトゥールより12歳年上、アイソノミーより25歳年上であり、実際に自分の目で見た人間の数は他2頭より少なかった事には留意するべきである)。スコット師は自分が調教した馬の中ではタッチストンに次いで2番目に優れた馬だったと評し、バトラー騎手は自分が乗った中では最高の馬だったと評している。ニュースポーツマガジン誌は本馬を「かつて見られた英国競走馬の中で最も素晴らしい見本の一つ」と評した。馬名は父メルボルンの馬名がオーストラリア東部の都市名だったことに由来するようである。

血統

Melbourne Humphrey Clinker Comus Sorcerer Trumpator
Young Giantess
Houghton Lass Sir Peter Teazle
Alexina
Clinkerina Clinker Sir Peter Teazle
Hyale
Pewett Tandem
Termagant
Cervantes Mare Cervantes Don Quixote Eclipse
Grecian Princess
Evelina Highflyer
Termagant
Golumpus Mare Golumpus Gohanna
Catherine
Paynator Mare Paynator
St. George Mare 
Mowerina Touchstone Camel Whalebone Waxy
Penelope
Selim Mare Selim
Maiden
Banter Master Henry Orville
Miss Sophia
Boadicea Alexander
Brunette
Emma Whisker Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Gibside Fairy Hermes Mercury
Rosina
Vicissitude Pipator
Beatrice

父メルボルンは3~6歳時に英で走り通算成績17戦9勝。リンカーンC・メンバーズプレート・リヴァプールパラタインH・チェスターCなどを勝ち、5歳時のクイーンズプレートで「英国競馬の女王」ビーズウイングの2着している。チェスターCでは130ポンドを背負いながらも22ポンドのハンデを与えた2着馬以下に勝利している。種牡馬としてはかなりの成功を収め、1853・57年の英首位種牡馬に輝いた。メルボルンの血統を遡ると、ハンフリークリンカー、コーマスを経てソーサラーへと行きつく。

母モウリナは前述のとおり英1000ギニー2着馬。モウリナの産駒には、本馬の全妹ヴィクトリア【コロネーションS・ヨークシャーオークス】、全妹ゴーアヘッド【ナッソーS】、半妹オールドオレンジガール(父キングストン)【ベンティンク記念S3回】、半弟バラガー(父ストックウェル)【ベンティンク記念S2回・エボアH】などがいる。

モウリナの牝系子孫はなかなかの発展を見せており、今世紀も残っている。

ゴーアヘッドの曾孫にはドノヴァン【英ダービー・英セントレジャー・ミドルパークプレート・デューハーストプレート】とセモリナ【英1000ギニー】の兄妹がいる他、牝系子孫には、1980年の英愛首位種牡馬ピットカーン、アセッサー【ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)・カドラン賞(仏GⅠ)】、インヴィンシブルスピリット【スプリントC(英GⅠ)】、バチアー【仏2000ギニー(仏GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)】などがいる。

また、オールドオレンジガールの娘にはトゥワインザプレイデン【パークヒルS】とレコンシリエーション【ナッソーS】がいる他、ロックフェル【英1000ギニー・英オークス・英チャンピオンS】とその息子である名種牡馬ロックフェラ、トピオ【凱旋門賞】、トニービンの父カンパラ、大種牡馬ダンチヒジェントルメン【ドスミルギネアス大賞(亜GⅠ)・ポージャデポトリジョス大賞(亜GⅠ)・ナシオナル大賞(亜GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・パシフィッククラシックS(米GⅠ)】、ルソー【伊ダービー(伊GⅠ)・アラルポカル(独GⅠ)・香港ヴァーズ(香GⅠ)2回・ドイツ賞(独GⅠ)・バイエルン大賞(独GⅠ)】、ウォーサン【コロネーションC(英GⅠ)2回・バーデン大賞(独GⅠ)2回】、クリスキン【英ダービー(英GⅠ)】、ザフューグ【ナッソーS(英GⅠ)・ヨークシャーオークス(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)・プリンスオブウェールズS(英GⅠ)】、アヴニールセルタン【仏1000ギニー(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)】などがいる。

モウリナの母エマは2歳時に3勝を挙げたが、3歳時は英セントレジャー着外など6戦未勝利で引退した。繁殖牝馬としては17頭の子を産んだが、その中には前述のとおりにモウリナの半兄ミュンディヒ(父キャトン)【英ダービー】、全兄コザーストーン【英2000ギニー・英ダービー】がいる。また、エマの子にはミュンディヒの全兄に当たるトラスティーもいる。トラスティーは英ダービー3着馬で、米国顕彰馬ファッションなどを出して1848年の北米首位種牡馬に輝いた。エマの全妹マリアの牝系子孫からは、1899年の英国三冠馬フライングフォックス、米国顕彰馬コールタウン、仏首位種牡馬シカンブルスタネーラベタールースンアップのジャパンCの勝ち馬2頭、ブラジル出身の名馬サンドピット、それにハギノトップレディやダイイチルビーなどの華麗なる一族、1981年の二冠馬カツトップエース、オグリキャップとオグリローマンの兄妹、桜花賞馬キョウエイマーチなどが出ている。同じくエマの全妹キャロラインの牝系子孫からはジャパンCの勝ち馬ランドなどが、同じくエマの全妹メイドオブルーンの牝系子孫からは、凱旋門賞馬サンサン、それに日本で活躍したクリフジ、リュウズキ、テンモン、ブロケード、メジロデュレン、メジロマックイーン、オフサイドトラップ、トロットスター、ブルーコンコルド、サンライズバッカスなどが出ており、4姉妹で世界中にその血を広げている。→牝系:F7号族①

母父タッチストンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はデニソン卿所有のもと、英国カークビーファームで種牡馬入りした。種付け料は30ギニーに設定された。しかし同じ牧場に「種牡馬の皇帝」ストックウェルがいた影響もあり、期待ほどの成績を収めることはできなかった。1860年にデニソン卿が死去すると、本馬とストックウェルはセリに掛けられた。ストックウェルはリヴァプールの銀行家リチャード・C・ネイラー氏により4500ギニーで落札されて英国で種牡馬生活を続けた。一方の本馬は、女優サラ・ベルナールの支援者として知られる仏国の政治家シャルル・オーギュスト・ルイ・ジョゼフ・ド・モルニ卿によって4千ギニーで購入されて、仏国ヴィロフレー牧場に移動した。

5年後の1865年にモルニ卿が死去すると(この年に追悼記念競走として創設されたのがモルニ賞である)、モルニ卿の異父兄でもあった当時の仏国皇帝ナポレオン3世の所有馬となり、仏国の国立牧場であるピン牧場に移動した。

それからさらに5年後の1870年5月2日に本馬はピン牧場において20歳で他界した。ストックウェルが他界する3日前の事だったが、本馬の死はストックウェルほど大きく取り上げられなかった。英スポーティングタイムズ誌が「ストックウェル及びウエストオーストラリアンの死」と題した記事を掲載したが、最初にストックウェルの競走成績及び種牡馬成績を並べ上げ、本馬については記事の終わりに僅か2つの文章で触れられたのみだった。かつて英国競馬史上最高とまで言われた競走馬の最後としては何とも寂しいものだった。後に生誕の地であるストレートラム城において本馬を讃える記念碑が建立され、今日においても見ることが出来る。

本馬は短期的視点では種牡馬として不成功だったかもしれないが、長期的視点では成功したとも言える。産駒オーストラリアンの子孫からマンノウォー、同じくソロンの子孫からハリーオンが出て、貴重なゴドルフィンアラビアンの直系を後世に伝えることに成功しているのである。母父としてはマスケット(カーバインの父)を出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1856

Summerside

英オークス

1857

The Wizard

英2000ギニー・アスコットダービー

1863

Czar

仏グランクリテリウム・グロシェーヌ賞

1864

Jeune Premiere

仏オークス

1864

Ruy Blas

バーデン大賞・ギシュ賞・ケルゴルレイ賞

1865

Lady Henriette

コンデ賞

1868

Eole

モルニ賞

1869

Seul

モルニ賞

1871

Bieville

ビエナル賞

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