グローリアスソング

和名:グローリアスソング

英名:Glorious Song

1976年生

鹿毛

父:ヘイロー

母:バラード

母父:エルバジェ

繁殖牝馬としてラーイやシングスピールなど数々の活躍馬を出した加国出身のエクリプス賞最優秀古馬牝馬

競走成績:2~5歳時に加米で走り通算成績34戦17勝2着9回3着1回

誕生からデビュー前まで

ノーザンダンサーニジンスキーを送り出した加国の名馬産家エドワード・プランケット・テイラー氏により、彼が所有する加国オンタリオ州ウインドフィールズファームにおいて生産された。1歳時にウッドバイン競馬場で行われたセリに出品され、世界的自動車部品会社マグナ・インターナショナルの会長で、後に21世紀初頭の米国を代表する馬産団体アデナ・スプリングスの代表者にもなる新鋭馬主フランク・ストロナック氏により、3万6千ドルで購入された。加国フレッド・H・ロシュケ調教師に預けられた。

競走生活(2・3歳時)

2歳11月に加国グリーンウッド競馬場で行われたダート7ハロンの未勝利戦でデビューし、3馬身差で快勝。その後は長期休養に入ったため、2歳時の出走はこの1戦のみだった。

3歳7月にウッドバイン競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰し、加国における主戦となるJ・ルブランク騎手を鞍上に、9馬身差で圧勝。それから8日後に出走した同コースの一般競走も不良馬場を克服して、2着クーガーキトゥンに2馬身差で勝利した。その後はフォートエリー競馬場に移動して、ダート6ハロンのハンデ競走に出たが、ユアマイチョイス(後にソヴリン賞年度代表馬インペリアルチョイスや、クイーンズプレート・加プリンスオブウェールズSの勝ち馬ゴールデンチョイスの母となる)の6馬身差5着に敗退。それから8日後に出走したフォートエリー競馬場ダート8ハロン70ヤードの一般競走は、2着フーダルティフィスに3/4馬身差で勝利した。しかしステークス競走初出走となったダッチェスS(D8.5F)は、この年のソヴリン賞最優秀3歳牝馬に選ばれる加オークス馬カマー(後にクイーンズプレートの勝ち馬キートゥザムーン、ハリウッドオークス馬ゴージャス、ケンタッキーオークス馬シーサイドアトラクションなどの母となり、1990年のケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選出。本馬の息子ラーイの代表産駒ファンタスティックライトの祖母でもある)の2馬身差2着に敗れた。

しかし翌9月にウッドバイン競馬場に戻ってくると本領を発揮。まずは初の芝競走となる新設競走オンタリオダムゼルS(T6.5F)に出走すると、分割競走となって出走馬の層が薄くなった事にも助けられて、2着フーダルティフィスに半馬身差で勝利。次走のベルマホーンS(D9F)では、前年のソヴリン賞最優秀3歳牝馬・当年のソヴリン賞最優秀古馬牝馬・翌年のソヴリン賞最優秀短距離馬に選ばれる前年の加オークス馬ラヴォヤジューズとの、後の加国顕彰馬同士の対戦となったが、本馬がラヴォヤジューズを2馬身半差の2着に破って勝利した。さらにワンダーウェアーS(T10F)も、2着フーダルティフィスに1馬身半差で勝利した。ネッティーS(T10F・現EPテイラーS)では、セニョリータポキートの10馬身差4着と完敗を喫した。しかし加国伝統の牝馬最強馬決定戦メイプルリーフS(D10F)は2着シニスタークイーンに3/4馬身差で勝利を収め、3歳時の成績は10戦7勝となった。

競走生活(4歳前半)

翌4歳時はジェラルド・ベランジェ・ジュニア厩舎に転厩して米国に拠点を移し、1月から早速サンタアニタパーク競馬場でレースに出走。米国西海岸における主戦となるクリス・マッキャロン騎手とコンビを組んだ初戦のラブレアS(D7F)は、ハリウッドラッシーS・ハリウッドジュヴェナイルCSS・デルマーデビュータントS・サンタイネスSなどに勝っていたテルリングァ(後に大種牡馬ストームキャットの母となる)に追いつけずに半馬身差の2着に敗れたが、前年のハリウッドオークスを勝っていたプライズスポット(3着)には先着した。2戦目のエルエンシノS(米GⅢ・D8.5F)では、テルリングァ、プライズスポットに加えて、ヴァニティH・アラバマS・デラウェアオークス・ラフィアンH・アーリントンワシントンラッシーS・オークリーフSなどを勝っていた一昨年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬イッツインジエア(ミスタープロスペクター産駒初のGⅠ競走勝ち馬として有名)との対戦となった。しかし結果は上記3頭全てに後れを取り、勝ったイッツインジエアから3馬身3/4差の4位入線だった(ただし本馬の進路を妨害した咎でテルリングァが降着となったため3着に繰り上がりとなっている)。

しかしラカナダS(米GⅠ・D9F)では、プライズスポットを1馬身3/4差の2着、イッツインジエアを3着に退けて、1分47秒6のレースレコードで勝利。このレースを見た名馬主ネルソン・バンカー・ハント氏は、後に本馬の権利の半分を50万ドルで購入している(ただし加国競馬栄誉の殿堂のウェブサイトには、購入したのは前年3歳時だったとある)。

次走のサンタマルガリータS(米GⅠ・D9F)では、イッツインジエア、前走サンタマリアHを勝ってきた亜国出身馬カンカム、後に第1回ジャパンCで1番人気に支持されるザベリワンなどが対戦相手となったが、本馬が本格化直前のザベリワンを2馬身差の2着に退けて勝利した。

その後は米国東海岸に向かい、東海岸における主戦となるジョン・ヴェラスケス騎手とコンビを組んで、トップフライトH(米GⅠ・D9F)に出走。バーバラフリッチーH・ディスタフH・ベッドオローゼズHなど8連勝中だった同父馬ミスティーガロア、テストS・マスケットの勝ち馬でラフィアンH2着のブライティといった、東海岸を代表する強豪牝馬が迎え撃ってきたが、本馬が2着ミスティーガロアに1馬身3/4差で勝利した。

競走生活(4歳後半)

牝馬相手に敵がいなくなった本馬は、その後は牡馬相手のレースに積極的に参戦することになった。まずはアーリントンパーク競馬場に赴き、ローレンスアームールH(T9F)に出走。このレースにおける最大の強敵は、コロネーションフューチュリティ・加プリンスオブウェールズS・ブリーダーズS・ボーリンググリーンH・スターズ&ストライプスH・バーナードバルークHなどを制して、一昨年・前年と2年連続でソヴリン賞年度代表馬に選ばれていたオーヴァースケイトだった。後の加国顕彰馬同士の初対戦は、オーヴァースケイトが勝利を収め、本馬は1馬身差の2着に敗れた。その後はデトロイト競馬場に向かい、ミシガンマイル&ワンエイスH(米GⅡ・D9F)に出走。ここでもオーヴァースケイトとの対戦となったが、今回は本馬が2着プリンスマジェスティックに鼻差で勝利を収め、オーヴァースケイトは5馬身差の4着に敗れた。

その後は一度地元加国に戻り、ドミニオンデイH(加GⅢ・D9F)に出走。牡馬相手の競走でありながら、他の牡馬勢より5~12ポンド多い123ポンドのトップハンデを課されたが、2着メープルグローヴに1馬身差で勝利を収め、1953年に創設された同競走史上初の牝馬制覇を達成した。さらにカナディアンマチュリティH(T10F)に出走して、2着グレートステートに3馬身半差で勝利した。

そして再び米国に向かい、エイモリーLハスケルH(米GⅠ・D9F)に出走した。このレースには、ケンタッキーダービー・プリークネスS・シャンペンS・ローレルフューチュリティ・フロリダダービー・フラミンゴS・ブルーグラスS・マールボロCH・チャールズHストラブS・サンタアニタH・カリフォルニアンSとGⅠ競走11勝を挙げていた、米国競馬史上10指に入る名馬中の名馬スペクタキュラービッドが参戦していた。当時8連勝中と向かうところ敵なし状態だったスペクタキュラービッドには132ポンドが課された。本馬はそれより15ポンド軽い117ポンドだったが、他の牡馬勢より7ポンドほど多く、2番目に重い斤量だった。レースでは本馬は中団好位、スペクタキュラービッドはさらにその後方を追走。向こう正面でスペクタキュラービッドが上がってくると、本馬は抜かれまいと先に仕掛けて三角では先頭に踊り出た。そして四角先頭から押し切りを図ったが、直線入り口で既に本馬のすぐ外側まで上がってきていたスペクタキュラービッドにやがてかわされてしまい、食い下がったものの1馬身3/4差の2着に敗れた。しかし過去にスペクタキュラービッドと戦った馬の大半が2馬身以上ちぎられており、スペクタキュラービッドが勝利したGⅠ競走でスペクタキュラービッドに2馬身以内に食い下がった馬は本馬唯1頭である。そのために本馬の走りは賞賛され、米国の競馬年鑑アメリカン・レーシング・マニュアルの著者であるジョー・ハーシュ氏は「スペクタキュラービッドに本物の試練を与えた」と評している。

4歳最後のレースとなったのは9月のマールボロCH(米GⅠ・D9F)で、加国産馬としては同レース史上初の招待馬だった。レースでは直線で末脚を繰り出すが、先に抜け出していたブルックリンH・サバーバンHの勝ち馬ウインターズテイルには及ばず、4馬身半差の2着に敗れた(この年のベルモントS・トラヴァーズSの勝ち馬で次走のジョッキークラブ金杯も制してエクリプス賞最優秀3歳牡馬に選ばれるテンパランスヒルは本馬から7馬身半差の5着だった)。4歳時の成績は11戦6勝で、この年のエクリプス賞最優秀古馬牝馬、並びにソヴリン賞年度代表馬及び最優秀古馬牝馬を受賞した。

競走生活(5歳前半)

翌5歳時はハント氏の単独所有馬となり、ジョン・ケアンズ厩舎に転厩して現役を続行し、前年と同じく1月のサンタアニタパーク開催からレースに出走。初戦は牡馬相手のサンカルロスH(米GⅡ・D7F)となったが、前年のサンフェルナンドSでスペクタキュラービッドに1馬身半差まで迫ったサンタアニタダービー・ハリウッドダービー・デルマーフューチュリティ・ノーフォークSなどの勝ち馬フライングパスターが勝利を収め、本馬は6馬身半差の4着に敗れた。

2戦目のサンタマリアH(米GⅡ・D8.5F)は牝馬限定競走だったが、その分だけ斤量が厳しくなり、127ポンドが課せられた。しかし本馬が2馬身差で勝利した。2着となったトラックロバリーは後にヴァニティ招待H・アップルブロッサムH・スピンスターSとGⅠ競走で3勝を挙げる馬(さらに書けば、BCクラシック馬キャットシーフの祖母ともなる)であり、3着となったミスハンティントンも後のアップルブロッサムHの勝ち馬だった。

次走のサンタマルガリータH(米GⅠ・D9F)では、前年のハリウッドオークスやエルエンシノSを勝っていたプリンセスカレンダ、翌年のサンタマルガリータ招待H・サンタバーバラH・ゲイムリーHの勝ち馬アクズシークレットといった有力牝馬が相手となった上に、本馬には130ポンドという非常に厳しい斤量が課せられた。その結果、プリンセスカレンダの首差2着に惜敗した。

次走はサンタアニタH(米GⅠ・D10F)となった。牡馬混合戦となった分だけ斤量は119ポンドまで下がったが、今度は対戦相手が非常に強力となった。フライングパスターだけでなく、前年に引退したスペクタキュラービッドに代わって米国最強馬の地位へと上り詰めようとしていた、サンルイレイS・サンフアンカピストラーノ招待H・ハリウッドパーク招待ターフH・オークツリー招待Hなどの勝ち馬ジョンヘンリーが参戦してきたのである。ジョンヘンリーの斤量は128ポンドだったがそれでも勝利を収め、本馬は5馬身半差の5着に敗れた。

次走のマーヴィンルロイH(米GⅡ・D8F)も牡馬相手のレースだった。ここでは、この年のハリウッド金杯でジョンヘンリーを破って勝利することになるイレヴンスティッチーズが勝ち、本馬は首差の2着に惜敗した。

競走生活(5歳後半)

ひとまず地元加国に戻った本馬は、ドミニオンデイH(加GⅢ・D9F)に出走。前年のクイーンズプレートを勝っていた牡馬ドライビングホームの姿もあったが、125ポンドのトップハンデを課せられたのは本馬のほうだった。しかし本馬がドライビングホームを5馬身半差の2着に破り、1分48秒0のコースレコードを計時して勝利した。この時点で本馬は加国産馬の歴代賞金王に君臨した。

その後は再び米国東海岸に向かい、モンマスH(米GⅠ・D9F)に出走。しかしここでは、ドワイヤーS・カーターHの勝ち馬アンバーパスの8馬身差7着に敗れた(8着ドライビングホームには一応先着した)。2年連続出走となったマールボロCH(米GⅠ・D10F)では、アンバーパス、この年はサバーバンHを勝っていた前年の同競走5着馬テンパランスヒル、スワップスS・ドワイヤーS・ジェロームHを勝っていたノーブルナシュアなどに加えて、ケンタッキーダービー・プリークネスS・レムセンS・ウッドメモリアルS・ウッドワードSを勝っていた現役米国最強3歳牡馬プレザントコロニーも出走してきた。結果はノーブルナシュアが勝ち、プレザントコロニーは6馬身半差の4着、本馬はさらに2馬身3/4差の7着に終わった。

プレザントコロニーはこのレースを最後に現役から退いたが、本馬は引き続き牝馬限定戦のベルデイムS(米GⅠ・D10F)に出走した。前年のベルデイムSやアラバマS・テストS・ガゼルH・シープスヘッドベイHなどを勝っていたラヴサイン、マスケットSの勝ち馬で後にレディーズH・デラウェアH・モリーピッチャーHも勝つジャミーラ(GⅠ競走7勝の名馬ガルチの母)などが対戦相手となった。結果はラヴサインが直線独走で7馬身差の圧勝劇を演じ、本馬とジャミーラが2着同着だった。

その後はケンタッキー州に向かい、スピンスターS(米GⅠ・D9F)に出走。ここでは先に抜け出したトゥルーリーバウンド(優駿牝馬の勝ち馬シルクプリマドンナの祖母)をゴール前で首差かわして勝ち、トップフライトH以来1年半ぶりのGⅠ競走タイトルを獲得した。

その後は米国西海岸に向かい、新設競走メイトリアークS(T9F)に出走。ここでは、ムーランドロンシャン賞を勝った後に米国に移籍してイエローリボンSを勝っていたキリジャロが勝ち、本馬は2馬身半差の2着だった。次走も新設競走シルヴァーベルズH(D9F)となった。このレースには、サンタマリアHで本馬の2着に敗れた後に本格化して、ヴァニティ招待H・ウィルシャーH・ビヴァリーヒルズHを勝っていたトラックロバリーも出走していた。しかし勝ったのはいずれでもなく、亜国でGⅢ競走を3勝した後に米国に移籍してきたハッピーゲスで、トラックロバリーは2着、本馬はハッピーゲスから2馬身3/4差の4着に敗れた。

このレースを最後に、5歳時12戦3勝の成績で競走馬生活を終えた。この年もソヴリン賞最優秀古馬牝馬に選出されている。獲得賞金総額はシルヴァーベルズH4着で得た7500ドルを加えて100万4534ドルに達し、加国産馬としては史上初の100万ドルホースとなった。

血統

Halo Hail to Reason Turn-to Royal Charger Nearco
Sun Princess
Source Sucree Admiral Drake
Lavendula 
Nothirdchance Blue Swords Blue Larkspur
Flaming Swords 
Galla Colors Sir Gallahad
Rouge et Noir
Cosmah Cosmic Bomb Pharamond Phalaris
Selene
Banish Fear Blue Larkspur
Herodiade
Almahmoud Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Arbitrator Peace Chance
Mother Goose 
Ballade Herbager Vandale Plassy Bosworth
Pladda
Vanille La Farina
Vaya
Flagette Escamillo Firdaussi
Estoril
Fidgette Firdaussi
Boxeuse
Miss Swapsco Cohoes Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Belle of Troy Blue Larkspur
La Troienne
Soaring Swaps Khaled
Iron Reward
Skylarking Mirza
Jennie

ヘイローは当馬の項を参照。

母バラードは現役成績8戦2勝。繁殖牝馬としては非常に優秀で、いずれも本馬の全弟である、1983年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬デヴィルズバッグ(タイキシャトルの父)【シャンペンS(米GⅠ)・ローレルフューチュリティ(米GⅠ)・カウディンS(米GⅡ)】、2005年の北米首位種牡馬セイントバラード【アーリントンクラシックS(米GⅡ)・シェリダンS(米GⅢ)】も産んでいる。また、本馬の全妹エンジェリックソングの子にはスライゴーベイ【ハリウッドターフCS(米GⅠ)・シネマH(米GⅢ)】、日本で走ったレディバラード【クイーン賞(GⅢ)・TCK女王盃(GⅢ)】がおり、レディバラードの子にはダノンバラード【アメリカジョッキークラブC(GⅡ)・ラジオNIKKEI杯2歳S(GⅢ)】がいる。バラードの半妹デヴィルズシスター(父アレッジド)の子には、日本で走ったヒシナタリー【ローズS(GⅡ)・阪神牝馬特別(GⅡ)・フラワーC(GⅢ)・小倉記念(GⅢ)】がいる。バラードの母ミススワップスコーはアッシュランドSの勝ち馬で、ミススワップスコーの伯父にはハイセイコーの母父として知られるカリムが、ミススワップスコーの半妹パイファイギャルの曾孫にはグラスワンダーがおり、日本でも馴染み深い名前が多く出てくる牝系である。→牝系:F12号族①

母父エルバジェは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は米国で繁殖入りした。競走馬としても成功した本馬は、繁殖入り後の活躍によりさらなる名声を手にすることになった。

7歳時には初子の牡駒リヴォシャス(父リヴァーマン)を産んだ。リヴォシャスは18戦5勝の成績で、ステークス競走の勝ちは無かったが、血統が評価されて種牡馬入りした。

8歳時には2番子の牡駒グランドオペラ(父ニジンスキー)を産んだ。グランドオペラは競走成績こそ1戦未勝利と振るわなかったものの、日本に種牡馬として輸入されて、公営所属馬として史上初めて中央競馬のGⅠ競走を勝ったメイセイオペラを出した。

9歳時には3番子の牡駒ラーイ(父ブラッシンググルーム)を産んだ。ラーイはベルニアH(米GⅡ)を勝つなど13戦6勝の成績を残した後に種牡馬入りして大きな成功を収めた(詳細は当馬の項を参照)。

10歳時には4番子の牡駒ノーザンスコア(父ノーザンダンサー)を産んだ。ノーザンスコアは不出走のまま種牡馬入りしたが8歳時に骨折のため早世した。

11歳時には5番子の牡駒ラキーン(父ノーザンダンサー)を産んだ。ラキーンは現役成績18戦8勝。当初は英国で走ったが芽が出なかったために南アフリカに移籍して、アレンスニージマンS(南GⅡ)・オーケートライアルH(南GⅢ)を勝ち、ロスマンズジュライ(南GⅠ)で3着した。競走馬引退後はそのまま南アフリカで種牡馬入りした。

12歳時には初の牝駒となる6番子のモーンオブソング(父ブラッシンググルーム)を産んだ。モーンオブソングは7戦3勝でステークス競走の勝ちも無かったが、後継繁殖牝馬として成功。モーンオブソングの子にはメゾソプラノ【ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】が、孫にはクレアモン【リス賞(仏GⅢ)・ナドアルシバトロフィー(首GⅢ)】、日本で走ったフレールジャック【ラジオNIKKEI賞(GⅢ)】、マーティンボロ【中日新聞杯(GⅢ)・新潟記念(GⅢ)】が、曾孫にはヴィルシーナ【ヴィクトリアマイル(GⅠ)2回・クイーンC(GⅢ)・2着桜花賞(GⅠ)・2着優駿牝馬(GⅠ)・2着秋華賞(GⅠ)・2着エリザベス女王杯(GⅠ)】がいる。

13歳時には7番子の牡駒ヘイマーケット(父ダンチヒ)を産んだ。ヘイマーケットは現役成績8戦1勝だったが、血統が評価されてフロリダ州オカラで種牡馬入りした。

14・15歳時には産駒がいなかったが、16歳時には直子最大の大物となる8番子の牡駒シングスピール(父インザウイングス)を産んだ。シングスピールは現役成績20戦9勝、ジャパンC(日GⅠ)・ドバイワールドC・コロネーションC(英GⅠ)・英国際S(英GⅠ)・加国際S(加GⅠ)・リチャードS(英GⅢ)・セレクトS(英GⅢ)を勝ち、種牡馬としても成功した(詳細は当馬の項を参照)。

17歳時には9番子の牝駒リングオブミュージック(父サドラーズウェルズ)を産んだ。リングオブミュージックは競走馬としては不出走だったが、後継繁殖牝馬として活躍。リングオブミュージックの子にはキャンプアノーロジスト【ドイツ賞(独GⅠ)・ラインラントポカル(独GⅠ)・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)・キングエドワードⅦ世S(英GⅡ)・ドバイシティオブゴールド(首GⅡ)・ウインターヒルS(英GⅢ)】が、孫にはウェルラウンディド【メイトリアークS(豪GⅡ)】が、曾孫には日本で走ったホワイトフーガ【関東オークス(GⅡ)】がいる。

18歳時には10番子の牡駒ソングオブフリーダム(父アラジ)を産んだ。ソングオブフリーダムは18戦4勝の成績だった。

19歳時は産駒がおらず、20歳時に11番子の牡駒メラーフ(父ナシュワン)を産んだ。メラーフは4戦1勝の成績だった。

21・22歳時には産駒がおらず、23歳時に12番子の牡駒マスターオプス(父シャリーフダンサー)を産んだ。マスターオプスは2戦未勝利だった。

24歳時には13番子の牝駒シャンソネット(父マークオブエスティーム)を産んだ。シャンソネットは競走馬としては5戦未勝利に終わったが、日本に繁殖牝馬として輸入されて、ダノンシャンティ【NHKマイルC(GⅠ)・毎日杯(GⅢ)】を産んだ。

このようにして、本馬の血は世界中に広がっている。なお、本馬だけでなく競走馬時代に本馬と戦った牝馬の多くも繁殖入りして活躍しているのは興味深い事だとされている(本文中に書いた以外にも、イッツインジエアは英チャンピオンSなどの勝ち馬ストーミングホームや仏1000ギニー馬ミュージカルチャイムズの祖母に、スピンスターSで本馬に敗れたスウィーテストチャントは名種牡馬ディストーテッドユーモアの祖母になっている)。

本馬は1995年に加国競馬の殿堂入りを果たした。本馬は繁殖入り後に何度か所有者が変わっているのだが、2003年にドバイのシェイク・モハメド殿下に購入された後に、米国から英国ダルハムホールスタッドに移動した。同年に腸の手術を行ったが経過が思わしくなく、7月に27歳で安楽死の措置が執られた。

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