アームド

和名:アームド

英名:Armed

1941年生

黒鹿

父:ブルリー

母:アームフル

母父:チャンスショット

3歳までは開花しなかったが古馬になって本格化して重いハンデと戦い続けながら数々のレコードタイムを樹立したブルリー直子の実力派騙馬

競走成績:3~9歳時に米で走り通算成績81戦41勝2着20回3着10回

誕生からデビュー前まで

米国の名門カルメットファームの生産・所有馬で、父ブルリーの初年度産駒として誕生した。この年のカルメットファーム産馬には、本馬と同じブルリー産駒のトワイライトティアーや、ハイペリオン産駒のペンシブといった実力馬がいた。本馬は小柄な馬体の持ち主で、しかも熊手に乗せられた食事の干し草を蹴飛ばす癖があるなど気性が激しく、まともに調教を行うことも出来なかったので、それらを改善するために、2歳3月に去勢された。去勢後しばらくはリハビリの一環としてトワイライトティアーやペンシブなど同僚達の誘導馬として使われていたという。カルメットファームの専属調教師ベン・ジョーンズ師の管理馬となった。

競走生活(3歳時)

3歳2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦でデビュー。このデビュー戦では2着サワロに8馬身差をつけて圧勝した。続くハイアリアパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走も3馬身差で勝利し、騎乗したC・マクレアリー騎手をして「ケンタッキーダービーでも好勝負になる」と言わしめた。次走のピムリコ競馬場ダート6ハロンの一般競走も2着と好走したが、4戦目となったレナートH(D6F)では、この年の米年度代表馬に選ばれるトワイライトティアーの前に9馬身3/4差の8着と完敗し、3日後のケンタッキーダービーには不参加となった。結局この年のケンタッキーダービーはマクレアリー騎手鞍上のペンシブが優勝している(ペンシブはプリークネスSも勝利)。

次走のワシントンパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走では2着サーデに1馬身差で勝利したが、続いて出た同コースの一般競走では1歳年上のベルモントフューチュリティS・ブリーダーズフューチュリティS・アーリントンフューチュリティS勝ち馬オキュペイションの7馬身半差4着に敗退。4か月間の調整期間を経て出走したジャニーH(D6F)でもサルトの5馬身差6着と振るわず、その後は脚首を故障したため、3歳時を7戦3勝の成績で終えた。

競走生活(4歳時)

翌1945年は第二次世界大戦が大詰めを迎えており、年初から独国降伏の5月8日を過ぎるまで米国競馬は休止されていた。そのため本馬は4歳前半にはレースに出なかった。この頃、ジョーンズ師の息子ジミー・ジョーンズ氏が兵役から戻ってきた。ジミー氏はちょうど故障から復帰した本馬を見て気に入り、父に代わって自身が本馬の担当調教師になった。ジミー師の元で本馬はその能力を開花させていく。

シーズン初戦となった6月のジャマイカ競馬場ダート6ハロンのハンデ競走こそ騎乗ミスで5着に敗北したが、その後は主戦のダグラス・ドッゾン騎手とコンビを組んで快進撃を始めた。ワシントンパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走に3戦連続で出走して全て2馬身差以上の着差で勝利すると、ワシントンパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走も1馬身半差で勝利。分割競走シェリダンH(D7F)では2着エスピノゴールドに8馬身差で圧勝してステークス競走初勝利をマーク。同コースのワシントンパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走も3馬身差で勝利して、僅か2か月足らずの間に破竹の6連勝。

その後はシカゴH(D6F)でスリードッツの2馬身半差2着。ワシントンパークH(D10F)では、初めて経験する7ハロンより長い距離ながら、本馬より6ポンド斤量が軽かった名牝ブッシャー(メイトロンS・セリマS・サンヴィンセントS・サンタマルガリータ招待H・アーリントンHなどの勝ち馬で、この後にハリウッドダービーやヴァニティHも勝利してこの年の米年度代表馬に選ばれる)に1馬身半差2着まで迫る好走を見せた。次走のフォールハイウェイトH(D6F)ではトゥルーノースの3/4馬身差2着。ハヴァードグレイスH(D9F)でもゲイビットの3/4馬身差2着となり、ステークス競走で4戦連続2着と勝ち切れないまでも安定した走りを見せるようになっていた。

10月のワシントンH(D10F)ではトップハンデながら2着ディナーパーティーに3馬身半差で完勝して初めての大競走制覇を果たした。その後もピムリコ競馬場ダート6ハロンの一般競走と、ピムリコ競馬場ダート9ハロンのハンデ競走を連勝。後者は130ポンドを背負いながら、2着ランパート(最終的にブラックヘレンH・ガルフストリームパーク勝ちなど104戦31勝の名牝)に1馬身3/4差をつける勝利だった。

そしてピムリコスペシャルS(D9.5F)に参戦。このレースではグレイラグH・ブルックリンH・ウエストチェスターHを勝っていたスタイミー、この年のエイコーンS・ピムリコオークスを勝っていたギャロレット、この年のプリークネスS・ウィザーズS勝ち馬ポリネシアン、グレイラグH・クイーンズカウンティH・マサチューセッツH2回・トレントンHの勝ち馬ファーストフィドルといった米国競馬史に名を残す強豪馬達が相手となったが、スタイミーより3ポンド重い斤量を背負った本馬が、2着ファーストフィドルに4馬身差、3着スタイミーにさらに2馬身差をつけて勝利を収め、米国トップクラスの馬としての地位を確立した。

4歳時は15戦10勝の好成績を残したが、米最優秀ハンデ牡馬騙馬にはシーズン最後のレースとなったピムリコCHを8馬身差で圧勝した19戦9勝のスタイミーが選出されたために逃した。

競走生活(5歳時)

5歳時は1月からまったく休み無く走り続けた。まずはフロリダ州ハイアリアパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走を4馬身差で勝利。次走のハイアリアパーク競馬場ダート7ハロンのハンデ競走では130ポンドが課せられたが勝利した。3戦目のマクレナンH(D9F)では12ポンドのハンデを与えたコンコルディアンの5馬身差2着に敗れた。しかし次走のワイドナーH(D10F)では、前走よりさらに大きい19ポンドのハンデを与えたコンコルディアンを4馬身半差の2着に下して勝利した。その後はトロピカルパーク競馬場に向かい、ダブルイベントS(D9F)に2週続けて出走。1戦目では1分48秒6のコースレコードを樹立して、ベルモントフューチュリティS・ジェロームH勝ち馬オキュパイを1馬身半差の2着に破って勝利。2戦目でも、1戦目で3着だったヒストリアンを頭差の2着に、オキュパイを3着に破って勝利した。

シーズン最初の2か月間でフロリダ州において6戦して5勝をマークした本馬は、その後も大半のレースで130ポンドは当たり前という重い斤量を背負いながら走り続けた。129ポンドを背負ったハーフォードH(D6F)ではボバネットの1馬身1/4差2着だったが、同じ129ポンドで出走したフィラデルフィアH(D8.5F)では、2着となった前年のCCAオークス馬エルピスに1馬身1/4差をつけて、1分43秒2のコースレコード勝ちを収めた。次走のジェニングスH(D6F)では132ポンドを課されてニュームーンの3/4馬身差4着に敗れてしまい、前年初戦のハンデ競走以来の着外となり、連続入着記録(この期間内には3着も無かった)は22でストップした。

しかし130ポンドを背負って出走したディキシーH(D9.5F)では7ポンドのハンデを与えたスタイミーを3馬身半差の2着に下して完勝。さらにサバーバンH(D10F)でも130ポンドのトップハンデを背負い、スタイミー(123ポンド)、ファーストフィドル(122ポンド)、アメリカンダービー・エクセルシオールH勝ち馬ファイティングステップ(118ポンド)、ポリネシアン(114ポンド)達を蹴散らして、2着リプリーペイドと3着スタイミーに2馬身半差をつけて勝利した。スタイミーとの対戦はこれが最後で、対戦成績は本馬の3戦全勝となった。

その後は132ポンドを課されたエクワポイズマイルH(D8F)でウィッチサーの3/4馬身差3着。130ポンドを課されたアーリントンH(D10F)でヒストリアンの首差2着。130ポンドを課されたクイックステップH(D6F)でもファイティングフランクの2馬身半差2着と、3戦続けて惜敗した。しかし130ポンドを課されたシェリダンH(D8F)で1分35秒0のコースレコードを樹立して、2着ブルックフィールドに4馬身差をつける圧勝を飾ると、やはり130ポンドを背負って出た新設競走ワーラウェイH(D9F)では、前走シェリダンHで3着だったハリウッド金杯勝ち馬チャレンジミーを1馬身1/4差の2着に破って勝利。次走のワシントンパークH(D10F)でもやはり130ポンドが課されたが、チャレンジミーを3馬身3/4差の2着に下して、2分01秒0のコースレコードを計時して圧勝した。

しかし次走のナラガンセットスペシャルS(D9.5F)では、サラトガスペシャルS・ベルモントフューチュリティS・ホープフルS・マサチューセッツHなども勝っていた前年のベルモントS優勝馬パヴォット、ウッドメモリアルS・ジャージーH・ピーターパンSなどの勝ち馬ラッキードローの2頭に後れを取り、ラッキードローの3馬身3/4差3着に敗退。この時点で9月だったが、本馬の疲労を懸念したジミー師と父ジョーンズ師が協議した結果、長期休養に入り、これがシーズン最後の出走となった。それでも5歳時は18戦11勝の成績を挙げ、米年度代表馬こそ米国三冠を達成したアソールトに譲ったが、米最優秀ハンデ牡馬騙馬に選ばれた。

競走生活(6歳時)

6歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から復帰して勝利。同コースで行われたハンデ競走では130ポンドが課されたが、2着レッツダンスに1馬身差で勝利した。やはり130ポンドが課されたマクレナンH(D9F)では、2着となった前年のアメリカンダービー馬エターナルリワードに4馬身差をつけて圧勝。129ポンドの斤量だったワイドナーH(D10F)では、2分01秒6のコースレコードを樹立して、翌年のサンタアニタH勝ち馬タロンを2馬身差の2着に破って勝利。フロリダ州からカリフォルニア州に移動して出走したサンタアニタH(D10F)では、前走ワイドナーHから僅か7日間で北米大陸を横断するという強行軍も堪えたのか、8歳馬オルハヴェリーの2馬身1/4差5着に敗れてしまった。

しかしフロリダ州に戻って出走したガルフストリームパークH(D10F)では、2着となったジョッキークラブ金杯勝ち馬ポットオラックに1馬身差をつけて、2分01秒4のコースレコードを樹立して鬱憤を晴らした。しかしこのレース中に他馬に蹴られて負傷した本馬は、次走に予定していたサバーバンHを回避する羽目になり、このレースを制した前年の米国三冠馬アソールトとの初対戦はお預けになった。

3か月の休養を経て復帰すると、132ポンドを課されたドミノH(D6F)で16ポンドのハンデを与えたウィズプレジャーの1馬身差2着、130ポンドを課されたエクワポイズマイルH(D8F)で14ポンドのハンデを与えたウィズプレジャーの首差2着と、斤量差を考慮すると十分な走りを2戦続けて披露した。そして130ポンドを背負って出たスターズ&ストライプスH(D9F)では、1分49秒2のコースレコードを樹立して、13ポンドのハンデを与えたウィズプレジャーを2馬身差の2着に破った。さらに130ポンドを課されたアーリントンH(D10F)も、デラウェアH・ガゼルH・ベルデイムH・ローマーHを勝って前年の米最優秀3歳牝馬に選ばれた名牝ブライダルフラワーを1馬身差の2着に、チャレンジミーを3着に退けて勝利した。132ポンドを課されたシェリダンH(D8F)では8ポンドのハンデを与えたウィズプレジャーの2馬身差2着だったが、130ポンドの斤量だったワーラウェイS(D9F)では1分48秒6のコースレコードを樹立し、4ポンドのハンデを与えたウィズプレジャーを半馬身差の2着に破った。130ポンドを課されたワシントンパークH(D10F)でも、サンタマリアH・シネマH・ハリウッドオークス・ハリウッドダービー・ヴァニティHなど多くのステークス競走勝利を挙げていた名牝ハネムーン(名牝ダリアの母父ハニーズアリバイの母)を3馬身半差の2着に退けて圧勝した(7ポンドのハンデを与えたウィズプレジャーは3着だった)。次走はワシントンパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走だった。ここでは5ポンドのハンデを与えたポリネシアンの2馬身半差2着に敗れたが、距離適性の差であるとして陣営は悲観視しなかった。

次走は9月27日にベルモントパーク競馬場ダート10ハロンにおいて行われた、前年の米国三冠馬アソールトとの10万ドルを賭けたスペシャルマッチレースとなった。アソールトも過去にスタイミーを何度も破っており、どちらが最強馬なのか非常に注目された1戦となった。レースでは長年コンビを組んだドッゾン騎手が騎乗した本馬がスタートからアソールトを引き離していき、最後はアソールトに8馬身差をつけて圧勝した。アソールトが故障していた事が後に判明しているが、このマッチレースは当に本馬の現役生活における白眉と言えるレースである。

さらにサイソンビーマイルS(D8F)でこの年の好敵手ウィズプレジャーを1馬身1/4差の2着に破って勝利した本馬は、獲得賞金総額が76万1500ドルに達し、全米賞金王に輝いた(ただし僅か16日後スタイミーによって記録は破られ、以降本馬がトップに立つ事は無かった)。シーズン最後のレースとなったピムリコスペシャルS(D9.5F)こそ、本馬と同じカルメットファームの生産・所有馬だったフェーヴェント、カウディンS・ローレンスリアライゼーションS・トレントンH・ディスカヴァリーH・ローマーHの勝ち馬コズミックボムの2頭に屈して、フェーヴェントの3馬身1/4差3着に負けてしまったが、6歳時はステークス競走勝ち9回を含む17戦11勝の好成績を残し、米最優秀ハンデ牡馬騙馬だけでなく、アソールトと並んで米年度代表馬のタイトルも手中に収めた。本馬は4~6歳時の3年間で50戦32勝2着12回3着3回、うちステークス競走勝ち19回、入着率94%という素晴らしい成績を挙げた。

競走生活(7~9歳時)

種牡馬になれない騙馬の宿命でその後も走り続けたが、長年の激戦を耐え抜いてきた本馬も7歳以降はさすがに衰えが隠せなかった。7歳時は初戦となった1月のガルフストリームパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走こそ半馬身差で辛うじて勝利したが、次走ガルフストリームパークH(D10F)では、この年に本格化したランパートの鼻差2着に敗退。続くハイアリアパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走では、本馬と同父で同じカルメットファームの生産・所有馬だった後の米国三冠馬サイテーションとの対戦となったが、17ポンドのハンデを与えたサイテーションの6馬身1/4差6着に敗れた。次走のセミノールH(D7F)でも、16ポンドのハンデを与えたサイテーションの1馬身1/4差3着に敗退。その後もマクレナンH(D9F)でエルモノの1馬身3/4差3着、アソールトとの再戦となったワイドナーH(D10F)でもエルモノの5馬身半差4着(アソールトは5着)と敗戦が続き、しかも過密日程が影響したのか故障を発生してしまい、1年間の長期休養に入った。7歳時の成績は6戦1勝に終わった。

8歳時も現役を続けたが、かつての本馬からは考えられないほど斤量が軽くなっていた(最大で122ポンド)にも関わらず勝ち星にはあまり恵まれなかった。まずは1月のハイアリアパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走で復帰したが3着。ハイアリアパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走も4着に敗れたが、3戦目となったガルフストリームパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走で久々の勝利を挙げた。次走はガルフストリームパークH(D10F)となったが、本馬と同父で同じカルメットファームの生産・所有馬だったこの年の米年度代表馬コールタウンが2着スリーリングスに7馬身差をつけて圧勝し、本馬はスリーリングスから半馬身差の3着に敗れた。

その後は初めてチャーチルダウンズ競馬場に向かい、ダート6ハロンの一般競走を勝利した。しかしクラークH(D8.5F)ではシャイガイの5馬身差3着、チャーチルダウンズH(D7F)ではクラークHで2着だった同厩馬フリーアメリカの1馬身1/4差2着に敗れた。アーリントンパーク競馬場に向かって6月に出たダート6ハロンの一般競走では7着に大敗。しかしその後は少し立て直し、アーリントンパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走を3馬身差で勝ち、次走スターズ&ストライプスH(D9F)ではコールタウンの1馬身1/4差2着。続くアーリントンH(D10F)ではコールタウンの4馬身差3着だった。秋にはワシントンパークH(D10F)に出走してコールタウンの3/4馬身差2着となり、8歳時の成績は12戦3勝となった。

9歳時も現役を続け、1月にトロピカルパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動して2着。次走のトロピカルパーク競馬場ダート8.5ハロンの一般競走は2馬身差で勝利。ロイヤルパームH(D9F)ではスリーリングスの3/4馬身差2着。しかし次走のマクレナンH(D9F)ではスリーリングスの7馬身差6着に敗退(コールタウンが3着)し、続くガルフストリームパーク競馬場ダート9ハロンのハンデ競走も2着に敗れた。

そして3月にガルフストリームパーク競馬場ダート8.5ハロンで行われた一般競走に出走したのが本馬の現役最後のレースになった。しかしこのレースでは1分43秒0のコースレコードを樹立して2着スタッドポーカーに1馬身差で勝利し、かつての最強馬としての意地を見せた。

本馬は厳しい出走日程や重いハンデと戦いながら9回のレコード勝ちを記録した快速馬だった。去勢後もしばらく本馬の気性の激しさはそれほど改善されなかったが、ジミー師が担当するようになってから次第に気性が落ち着き、ジミー師の姿が見えると彼に挨拶をして大人しく指示に従うようになったという。ジミー師は本馬について「彼は過去のどんな名馬と比べても遜色ありませんでした。エンジンがかかるのは遅かったのですが、一度スピードに乗ると、他のどの馬も寄せ付けませんでした」と語り、カルメットファームが所有した馬の中では、本馬の後に登場したサイテーションに次ぐ馬だと評している。

血統

Bull Lea Bull Dog Teddy Ajax Flying Fox
Amie
Rondeau Bay Ronald
Doremi
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Rose Leaves Ballot Voter Friar's Balsam
Mavourneen
Cerito Lowland Chief
Merry Dance
Colonial Trenton Musket
Frailty
Thankful Blossom Paradox
The Apple
Armful Chance Shot Fair Play Hastings Spendthrift
Cinderella
Fairy Gold Bend Or
Dame Masham
Quelle Chance Ethelbert Eothen
Maori
Qu'elle est Belle Rock Sand
Queen's Bower
Negrina Luke Mcluke Ultimus Commando
Running Stream
Midge Trenton
Sandfly
Black Brocade Neil Gow Marco
Chelandry
Black Velvet Veles
Black Duchess

ブルリーは当馬の項を参照。

母アームフルは現役成績37戦2勝。繁殖牝馬としては初子と2番子が走らなかったため、カルメットファームの所有者サー・ウォーレン・ライト氏はアームフルを売ろうとしたが、買い手が見つからずに断念したという経緯があった。なお、本馬はアームフルの3番子である。アームフルは後に本馬の全妹ラップフル【デルマーデビュータントS・サンタイネスS】も産んでいる。

アームフルの母ネグリナの全姉ジェーンボウドレの牝系子孫は発展しており、ファビウス【プリークネスS・ジャージーS】、トリプルベンド【サンタアニタH】、名種牡馬リローンチ、ハイランドブレード【パンアメリカンS(米GⅠ)・ブルックリンH(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)】、1992年のエクリプス賞最優秀短距離馬ルビアノ【NYRAマイルH(米GⅠ)・カーターH(米GⅠ)・ヴォスバーグS(米GⅠ)】、1993年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬フォーンチャッター【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・オークリーフS(米GⅠ)】、北米首位種牡馬タピット【ウッドメモリアルS(米GⅠ)】、2009年のエクリプス賞最優秀3歳牡馬サマーバード【ベルモントS(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)】などが出ているが、アームフルの牝系子孫は発展しなかった。→牝系:F3号族②

母父チャンスショットはフェアプレイ産駒で、現役成績22戦8勝。ベルモントS・ウィザーズS・サラトガスペシャルSを勝っている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のカルメットファームに戻り、悠々自適の余生を過ごした。1963年に米国競馬の殿堂入りを果たした。その翌年1964年に腸の腫瘍のため23歳で他界、遺体はカルメットファームに埋葬された。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第39位。

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