ミスタープロスペクター

和名:ミスタープロスペクター

英名:Mr.Prospector

1970年生

鹿毛

父:レイズアネイティヴ

母:ゴールドディガー

母父:ナシュア

競走成績は一流とは言い難かったが種牡馬として記録的な大成功を収め、20世紀末から21世紀にかけての世界競馬を席巻した米国の誇る大種牡馬

競走成績:3・4歳に米で走り通算成績14戦7勝2着4回3着2回

競走馬としては大成できなかったが、種牡馬として未曾有の大成功を収め、20世紀末の米国競馬界及び21世紀における世界競馬界に自身の血を爆発的に広めた大種牡馬。

誕生からデビュー前まで

1970年3月28日、米国ケンタッキー州スペンドスリフトファームにおいて、同牧場の創設者レスリー・コムズⅡ世氏により生産された。自ら立ち上げたコムズ・リッター保険会社の運営で事業家として成功したコムズⅡ世氏は、1937年に叔父のブラウンウェル・コムズ氏(米国顕彰馬マートルウッドの生産・所有者)と一緒にケンタッキー州レキシントンに127エーカーの土地を買い、19世紀の名競走馬・名種牡馬であるスペンドスリフトマンノウォーの父方の曽祖父)にちなんでスペンドスリフトファームと命名し、馬産を開始していた。現役時代にセリに出されたナシュアを入手するために125万1200ドルという超巨額の種牡馬シンジケートを組んだのも彼であるし、2歳時4戦全勝で引退したレイズアネイティヴに目をつけて種牡馬として購入したのも彼である。レイズアネイティヴが本馬の父に、ナシュアが本馬の母父に、マートルウッドが本馬の4代母になったわけであるから、本馬はコムズⅡ世一家の馬産の結晶であるとも言える。

父レイズアネイティヴは、本馬が産まれる前年に産駒マジェスティックプリンスがケンタッキーダービー・プリークネスSを無敗のまま制覇する大活躍を見せていた新進気鋭の種牡馬だった。母ゴールドディガーはコムズⅡ世氏の生産・所有馬で、ギャロレットS2連覇・マリーゴールドS・ヨータンビエンH・コロンビアナHとステークス競走5勝を含む35戦10勝を挙げ、ケンタッキーオークスで2着した実力馬だった。そのために本馬の評価は幼少期から高かった。

1歳時にキーンランド7月セールに出品された本馬は、当時としては破格の値段である22万ドル(資料によっては20万ドルとなっている)で、エイブラハム・サヴィン氏に落札され、後にホーリーブルを手掛ける事になるウォーレン・クロール・ジュニア調教師に預けられた。骨膜炎による脚部不安のため2歳時はレースに出走しなかった。

競走生活(3歳時)

3歳2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦でデビュー。主戦となるW・ブラム騎手を鞍上に、2着シュミキーに12馬身差もの大差をつける圧勝で初戦を飾った。続くハイアリアパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走も勝利。3戦目となったガルフストリームパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走では、1分07秒8というコースレコードを計時して勝利した。このコースレコードは現在でも破られていない(1999年のBCスプリントでアータックスにより破られたとする資料が存在するが、同競走におけるアータックスの勝ちタイムは1分07秒89だから、破られていない)。

本馬の同世代には、前年に2歳にしてエクリプス賞年度代表馬に選ばれていたセクレタリアトがおり、本馬がデビューする前の段階で既に総額608万ドルという当時史上最高額の種牡馬シンジケートが組まれていた。セクレタリアトはケンタッキーダービーの大本命だったが、本馬はそれに対抗できる器ではないかと評判になった。そして陣営もその気になり、本馬をセクレタリアトよりも先にケンタッキー州に派遣し、本番18日前にキーンランド競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走に出走させた。しかし結果はフラミンゴSを勝っていたアワーネイティヴの3着に敗退してしまった。

しかしこの4日後のウッドメモリアルSでセクレタリアトが3着に敗北した事もあってか、陣営はケンタッキーダービー参戦を諦めず、本馬を本番4日前のダービートライアルS(D8F)に出走させた。ところがレース中に右前脚球節の剥離骨折を発症して、セッテチェントの2着に敗退。ケンタッキーダービーどころではなくなり、そのまま休養入りとなった。3歳時はその後レースに出る事は無く、この年の成績は5戦3勝となった。本馬が休養している間に米国三冠馬となったセクレタリアトはこの年のうちに引退種牡馬入りしたため、現役時代に本馬と顔を合わせる機会は無かった(後に同じクレイボーンファームで種牡馬入りしているため、そこでは顔を合わせる機会があったかもしれない)。

競走生活(4歳時)

復帰後の本馬は基本的に短距離路線を進むことになった。まずは4歳2月にガルフストリームパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動して勝利。すぐさまアケダクト競馬場に向かい、ポーノホクH(GⅢ・D6F)に出走したが、トーション(セクレタリアトが勝ったプリークネスSで6着最下位だった)とインフュリエイターの2頭に差されて、トーションの3着に敗れた。いったんフロリダ州に戻り、ロイヤルポインシアナH(D7F)に出走。結果は、1分21秒0のコースレコードで駆け抜けたローンツリーの2着に敗れたが、アーリントンワシントンフューチュリティなどの勝ち馬ガヴァナーマックス(3着)には先着した。そして復帰4戦目のワーラウェイH(D6F)では、ガーデンステートパーク競馬場ダート6ハロンのコースレコード1分08秒6を樹立して、2着となったスポーツページH・グレーヴセンドHの勝ち馬ペトログラードや、レベルSの勝ち馬ゲームラッド以下に勝利した。続くアケダクト競馬場ダート6ハロンの一般競走も勝利した。

次走はカーターH(GⅡ・D7F)となった。前年のグレード制導入に伴いGⅡ競走に位置付けられたカーターHは、当初はやはりGⅡ競走だったヴォスバーグHと並んで、米国短距離路線における最重要競走だった。そのため、この競走を狙っていた有力馬は他にもいた。プリンストンSの勝ち馬で後にナッソーカウンティHを勝つタイムレスモーメントなどもそうだったが、対戦相手の筆頭格は、ローマーH・ディスカヴァリーH・ドンH・ガルフストリームパークH・ワイドナーHとグレード競走5連勝中のフォアゴーだった。2頭は同世代だったが、斤量は本馬が119ポンドで、フォアゴーが124ポンドに設定された。スタートが切られると本馬が最内枠から一気に先頭を奪った。一方のフォアゴーはお決まりの最後方待機策を採った。そのまま本馬が先頭で四角に入ってきたが、いつの間にか位置取りを上げてきたフォアゴーが外側から本馬に並びかけてきた。そして2頭が並んで直線を向いたが、ここからフォアゴーが突き抜けて勝利を収め、本馬は2馬身1/4差の2着に敗れた。

後に米国競馬史上有数の名馬となるフォアゴーに邪魔されてダート短距離路線の頂点に立てなかった本馬の次走は、ベルモントパーク競馬場芝8.5ハロンの一般競走となった。しかし初芝や距離延長と不利な要素が多く、シェルターベイの4着に敗れた。続くグレーヴゼンドH(D6F)では、4か月前のポーモノクHで屈した相手であるトーションとインフュリエイターの2頭、それにカーターHで4着だったローンツリーなどが対戦相手となった。スタート直後の先行争いを制して先頭に立ったのは、本馬ではなくローンツリーだった。ローンツリーは2番手の本馬を3馬身ほど引き離す逃げを打った。先頭に立てなかった本馬だが、このレースでブラム騎手に代わって手綱を取ったハシント・ヴァスケス騎手は、2番手で上手く折り合いをつけていた。そのままの態勢で直線に入ると、内側で粘るローンツリーを残り1ハロン地点で豪快に抜き去った。そして最後は追い込んできた2着インフュリエイターに5馬身差をつけて圧勝した。

次走はフィラデルフィア州リバティーベルパーク競馬場(1986年に閉鎖されたため現存していない)で、この年だけ実施されたファイアークラッカーH(GⅢ・D6F)となった(同名のGⅡ競走が現在チャーチルダウンズ競馬場で実施されているが直接の関係は無い)。ここでもヴァスケス騎手が騎乗したのだが、今回はチャーチルダウンズH・カウントフリートHなどを勝っていたバルビゾンストリークの2着に敗退。そしてその後の調教中に種子骨を骨折してしまい、そのまま4歳時9戦4勝の成績で競走馬を引退した。獲得賞金総額は11万2171ドルで、購入金額の約半分に留まった。もっとも、サヴィン氏は後にその不足分を埋めて余りある財産を本馬によってもたらされる事になる。

馬名は「(鉱山などの)試掘者・探鉱者」の意味で、「金の採掘者」を表す母の名前にちなんでいる。そのために本馬の血を引く馬には「金」や「鉱山」に因んだ名前が付いている事が多い。名前が長いので日本では「ミスプロ」とか「MP」と略される事が多いが、米国では“Mr. P(ミスターピー)”と略されることが多い。

血統

Raise a Native Native Dancer Polynesian Unbreakable Sickle
Blue Glass
Black Polly Polymelian
Black Queen
Geisha Discovery Display
Ariadne
Miyako John P. Grier
La Chica
Raise You Case Ace Teddy Ajax
Rondeau
Sweetheart Ultimus
Humanity
Lady Glory American Flag Man o'War
Lady Comfey
Beloved  Whisk Broom
Bill and Coo 
Gold Digger Nashua Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Segula Johnstown Jamestown
La France
Sekhmet Sardanapale
Prosopopee
Sequence Count Fleet Reigh Count Sunreigh
Contessina
Quickly Haste
Stephanie
Miss Dogwood Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Myrtlewood Blue Larkspur
Frizeur

レイズアネイティヴは当馬の項を参照。

母ゴールドディガーの競走成績は前述のとおり。その優れた競走成績から繁殖牝馬としても大きな期待を背負っており、1984年に繁殖牝馬を引退するまでに本馬を含めて16頭の産駒を産んだが、その中から一流と言える競走成績を挙げた馬は出なかった。しかし後継繁殖牝馬には恵まれており、牝系子孫は発展している。本馬の2歳年下の半妹マートルウッドラス(父リボー)は直子の活躍馬こそ出せなかったが、孫にエクスプローシヴレッド【ハリウッドダービー(米GⅠ)・アメリカンダービー(米GⅡ)・フォアランナーS(米GⅢ)】、チーフベアハート【BCターフ(米GⅠ)・加国際S(加GⅠ)・マンハッタンハンディH(米GⅠ)・ナイアガラBCS(加GⅡ)・エルクホーンS(米GⅢ)・キングエドワードH(加GⅢ)】、曾孫に日本で走ったオウケンブルースリ【菊花賞(GⅠ)・京都大賞典(GⅡ)】、玄孫にプライヴェートゾーン【ヴォスバーグS(米GⅠ)2回・シガーマイルH(米GⅠ)・フォアゴーS(米GⅠ)】などを出した。また、本馬の7歳年下の半妹リリアンラッセル(父プリンスジョン)の孫には、スルージンフィズ【シェリダンS(米GⅢ)】、アイガットリズム【アグリームH(米GⅡ)・ラスフローレスH(米GⅢ)】、曾孫にはラインオブデイヴィッド【アーカンソーダービー(米GⅠ)】、日本で走ったサクラゴスペル【京王杯スプリングC(GⅡ)・オーシャンS(GⅢ)2回】がいる。本馬の11歳年下の全妹ゴールドマインの孫には、いずれも日本で走ったベルモントファラオ【東京シティ盃】、ベルモントノーヴァ【しらさぎ賞・トゥインクルレディー賞・東京シンデレラマイル】がいる。ゴールドディガーは1990年に28歳で他界し、スペンドスリフトファームに埋葬されている。

ゴールドディガーの母シークエンスは、プリンセスパットS勝ちなど17戦5勝。母としてはゴールドディガーの半兄ヌーアサガ(父ヌーア)【カウディンS】を産んでいる。また、ゴールドディガーの半姉インヴァイティング(父マイバブー)の曾孫にはエスシーナ【BCディスタフ(米GⅠ)・ラモナH(米GⅠ)・アップルブロッサムH(米GⅠ)・ヴァニティ招待H(米GⅠ)】が、ゴールドディガーの半姉ボールドシークエンス(父ボールドルーラー)の孫にはスイークレイ【ヴォスバーグS(米GⅠ)2回】、シェアードインタレスト【ラフィアンH(米GⅠ)】、曾孫にはフォレストリー【キングズビショップS(米GⅠ)】、キャッシュラン【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)】がいる。シークエンスの母はケンタッキーオークス馬ミスドッグウッドで、その母は米国顕彰馬マートルウッドである。ミスドッグウッドの1歳年上の半姉クレープマートルの玄孫には米国三冠馬シアトルスルーがいる。マートルウッドの祖母は大繁殖牝馬フリゼットで、その牝系子孫からは数々の活躍馬が出ている。→牝系:F13号族①

母父ナシュアは当馬の項を参照。

競走馬引退後(フロリダ州種牡馬時代)

競走馬を引退した本馬は、サヴィン氏が米国フロリダ州オカラ近郊に所有していたサヴィンファームで種牡馬入りした。初年度の種付け料は7500ドルに設定された。米国馬産の中心地ケンタッキー州ではなくフロリダ州で種牡馬入りしたというのは、グレード競走勝ちが無い本馬に対する当時の一般的な評価を物語っている。もっとも、フロリダ州の馬産家の中には本馬の卓越したスピード能力に魅せられた人が少なからずおり、彼等は1966年のケンタッキーオークス馬ネイティヴストリート(本馬と同世代のフロリダダービーの勝ち馬ロイヤルアンドリーガルの母)、ネイティヴストリートの娘でロイヤルアンドリーガルの半妹であるストリーツグローリー、カーターHの勝ち馬ネイティヴロイヤリティの半妹であるアウインドイズライジング、アーリントンラッシーSの勝ち馬ダークウィンテージの娘ダークデュエット、ケントS・サンライズHとGⅢ競走2勝を挙げた本馬の同世代馬シェーンズプリンスの母であるマンマオソ、ケンタッキーダービーやベルモントSなどを制したフロリダ州出身の歴史的名馬ニードルズの半妹ファーストノミニーなど、可能な限り優秀な繁殖牝馬を種牡馬入り1年目の本馬の元に送ってきた。

本馬の初年度産駒は27頭であるが、これはフロリダ州繋養種牡馬としては多い数字である。したがって、日本でも海外でもしばしば言われる「種牡馬入り当初のミスタープロスペクターは繁殖牝馬の質や量に恵まれなかった」という見解は、フロリダ州馬産界に対する偏見的な見方であり、間違っていると言ってよいだろう。もちろんトップクラスの種牡馬に比べれば見劣りするだろうが、字面上の本馬の競走成績からすれば上記の交配相手の質はかなり優れているのである。なお、きちんと調べている人は「割と良質な繁殖牝馬が集まりました」と書いてくれている。

さて、この27頭の初年度産駒からは4頭のステークスウイナーが出た。そのうちグレード競走を勝ったのは唯1頭である。しかしその1頭であるイッツインジエアは大物だった。前述アウインドイズライジングの娘であるイッツインジエアは、2歳時にアーリントンワシントンラッシーS・オークリーフSを勝利して1978年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬に選ばれた。そして本馬もこの年の北米新種牡馬ランキングでトップになった。イッツインジエアが2歳時に勝った上記2競走はいずれもGⅡ競走だったが、3歳7月にヴァニティHを勝ったのを皮切りにGⅠ競走を合計5勝する活躍を見せた。

しかしイッツインジエアだけが活躍したのであればただの一発屋である。しかし1979年にデビューした2年目産駒からも活躍馬が登場した。欧州の名馬主ダニエル・ウィルデンシュタイン氏に購入されたハローゴージャスは英国でウィリアムヒルフューチュリティS・ロイヤルロッジSを勝ち、米国で走ったゴールドステージもブリーダーズフューチュリティSを勝利した。彼等の活躍により本馬はこの1979年に北米2歳首位種牡馬を獲得した。翌1980年の種付け料は4万ドルに上昇した。

競走馬引退後(ケンタッキー州移動後)

そんな本馬をケンタッキー州の馬産家達が放っておくはずも無く、この年にクレイボーンファームの代表者セス・ハンコック氏がサヴィン氏を説得して種牡馬シンジケートを結成。本馬は翌年からクレイボーンファームで種牡馬入りすることになった。この1980年にはミスワキがサラマンドル賞を勝ち、米国・英国に続いて仏国でもGⅠ競走勝ち馬が出た。そして1981年から本馬は、かつて雲の上の存在だったセクレタリアトも繋養されていたクレイボーンファームにおいて、種付け料10万ドルで種牡馬生活を開始した。この1981年に、2年目産駒の1頭ファピアノがメトロポリタンHを、4年目産駒のコンキスタドールシエロがサラトガスペシャルSを勝利して本馬の評価はさらに上昇。

そして翌1982年には、メトロポリタンHとベルモントSを連続圧勝したコンキスタドールシエロがエクリプス賞年度代表馬及び最優秀3歳牡馬を、同じく4年目産駒のゴールドビューティがエクリプス賞最優秀短距離馬を受賞した。本馬産駒の活躍の場はそれまでは短距離戦に偏っていたのだが、コンキスタドールシエロがメトロポリタンHの僅か6日後に出走したベルモントSで14馬身差の圧勝劇を演じた衝撃度は凄まじく、本馬に対する印象度も大きく変化させた。ここに本馬の種牡馬としての地位は完全に確立されたのである。

最終的には171頭ものステークスウイナーを出し(ステークスウイナー率は16%弱)、1987・88年には北米首位種牡馬を獲得した。種付け料が最も高かった1994年は、無事生誕保証が無いにも関わらず46万ドルの種付け料だったという。本馬と同じクレイボーンファームで当時繋養されていた他の種牡馬と比較すると、前年の1993年まで3年連続で北米首位種牡馬に輝いていたダンチヒは15~17万ドル、この年に種牡馬生活4年目で急死してしまったイージーゴアは5万ドルだった。なお、本馬がクレイボーンファーム移動時に組まれた種牡馬シンジケート額は、“Thoroughbred Almanac(サラブレッド年鑑)”によると当時世界最高額となる2000万ドル(50万ドル×40株)であり、608万ドルのセクレタリアト、1200万ドルのシアトルスルー、1140万ドルのアファームドの3頭の米国三冠馬を上回る金額だった(直後にスペクタキュラービッドが2200万ドルの種牡馬シンジケートを組まれているため、本馬が世界最高の地位にいた期間は極めて短かったけれども)。

種牡馬ビジネスのバブルを形成

なお、本馬を日本に輸入しようという動きがあったが、価格交渉が不調に終わって実現しなかったとする噂が日本には存在する。あくまでも噂の領域を出ず、筆者はおそらくガセネタだと思うが、一応は検証してみる。まず時期に関してだが、可能性があるとすれば初年度産駒や2年目産駒が走り始めた直後、本馬の種牡馬シンジケートが組まれる直前であろう。フロリダ州にいた本馬に産駒が走る前から目をつける事はまず考えられないし、ケンタッキー州に来た後の本馬が取引の対象になる事はもっとあり得ないからである。2000万ドルものシンジケートが組まれる直前の時期であれば、価格交渉が不調に終わるのは当然である。何しろ2000万ドルは当時の為替レートで約50億円(時代が10年ずれているから単純比較は出来ないが、サンデーサイレンスの輸入金額は約16億5千万円)であり、サンデーサイレンスと違って競走成績が冴えなかった本馬に対して50億円を超える額を提示するというのは不可能だっただろう。というわけで、仮に本馬が日本に輸入されていたら云々という議論は、輸入可能性が無かった以上、全く無意味という事になる(輸入可能性があったとしても、輸入されなかった以上はやはり無意味な議論か)。

一般的に種牡馬ビジネスのバブル絶頂期は、ノーザンダンサーの時代であると言われている。240万ドルのシンジケートが組まれて種牡馬入りしたノーザンダンサーは、全盛期には種付け料が100万ドルに達しており、確かにこんな金額は後にも先にも存在しない。しかしノーザンダンサーの種付け料が高騰したのは、その年間交配数上限が原則36頭(実際には諸々の理由でこれより多かったが)と抑えられていたために、交配権利の希少価値が高かったためという側面もある。1件当たりの種付け料ではなくシンジケート額で見ると、本馬の時代から急激に高騰しており、1000万ドル以上のシンジケートが組まれて種牡馬入りする馬が続出するようになった。その最たる例が本馬晩年の最高傑作の1頭フサイチペガサスの6000~7000万ドルであるから、本馬とノーザンダンサーは種牡馬ビジネスのバブル期を形成した双璧なのである。

産駒の傾向としては一部例外もあったが、自身と同様に卓越したスピードを武器とする馬が多かった。また、自身は2歳戦で走っていないから早熟だったかどうかは判断できないのだが、産駒は全体的に仕上がりが早く、早熟傾向が見て取れた。

生涯現役種牡馬

本馬は1999年6月1日に腹膜炎に伴う重度の疝痛を発症したため、クレイボーンファームにおいて29歳で安楽死の措置が執られたが、生涯現役種牡馬で、他界した年にも47頭に種付けして31頭の受胎が確認されていた。本馬は老齢になっても受精率がそれほど下がらず、クレイボーンファームの牧場マネージャーだったガス・コッホ氏は「私達が知る限りでは最も受精率が高い種牡馬でした」と評している。今日なら、これだけの大種牡馬であれば毎年100頭(日本の種牡馬やシャトル種牡馬であれば200頭)以上の交配をこなすのが当然であるが、本馬の場合は一番多い時期でも60頭ほどに抑えられていた(米国競馬界における一般的な年間交配数50~70頭とほぼ同値)。遺体はクレイボーンファーム内にあったセクレタリアトとニジンスキーの墓の間に埋葬された。

本馬が他界した翌年には、フサイチペガサスが本馬の産駒として初のケンタッキーダービー制覇を達成した。これによって、本馬は種牡馬としてケンタッキーダービー・プリークネスS(1985年にタンクスプロスペクトが勝利)・ベルモントS(1982年にコンキスタドールシエロが勝利)の米国三冠競走を全て制覇した事になった。これは、本馬以降には孫のアンブライドルドと、そのアンブライドルドの孫であるパイオニアオブザナイル(産駒のアメリカンファラオが1頭で全て勝ったから)の2頭しか達成していない記録である。

後世に与えた影響

そして本馬の凄さは産駒が競走馬としてだけでなく種牡馬としても次々に成功したことにある。ファピアノ、ミスワキ、ウッドマンアフリートガルチゴーンウエストシーキングザゴールドフォーティナイナーマキャヴェリアンキングマンボスマートストライクなど後継種牡馬として活躍した産駒は数知れない。本馬の息子はその競走成績の優劣を問わずに種牡馬としての需要が大きく、世界各国で合計312頭も種牡馬入りしている(同時代を生きた世界的大種牡馬では、ダンチヒが184頭、ストームキャットが189頭、サドラーズウェルズが121頭であるらしい)。“The Sire of Sires(種牡馬の種牡馬)”と評された馬は本馬以外にもいるが、その呼称が最も相応しい馬が本馬である事は間違いない。

米国三冠競走において現在最も幅を利かせているのは本馬の直系馬であり、1982年から2015年までの34年間で、32頭が合計43勝している。本馬の直系は米国だけでなく欧州や日本など世界全体に広がっており、どの地域でも本馬の影響力を無視することは出来なくなっている。さらに本馬は繁殖牝馬の父としても超一流で、260頭以上のステークスウイナーを出し、1997・98・99・2000・01・02・03・05・06年に北米母父首位種牡馬に輝いた。北米首位種牡馬9回というのは、12回のサーギャラハッドに次ぐ史上2位の記録である。こうして本馬の血は父系と母系とを問わずに絶大な繁栄ぶりを見せ、現在も世界中で本馬の血を受け継ぐ馬同士が競走をしているのである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1976

It's in the Air

ヴァニティH(米GⅠ)2回・アラバマS(米GⅠ)・デラウェアオークス(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・アーリントンワシントンラッシーS(米GⅡ)・オークリーフS(米GⅡ)・エルエンシノS(米GⅢ)

1977

Fappiano

メトロポリタンH(米GⅠ)・ディスカヴァリーH(米GⅢ)

1977

Gold Stage

ブリーダーズフューチュリティS(米GⅡ)

1977

Hello Gorgeous

ウィリアムヒルフューチュリティS(英GⅠ)・ロイヤルロッジS(英GⅡ)・ダンテS(英GⅡ)

1978

Miswaki

サラマンドル賞(仏GⅠ)

1979

Conquistador Cielo

ベルモントS(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)・サラトガスペシャルS(米GⅡ)・ドワイヤーS(米GⅡ)・ジムダンディS(米GⅢ)

1979

Distinctive Pro

ハッチソンS(米GⅢ)

1979

Fast Gold

パターソンH(米GⅡ)・エクセルシオールH(米GⅡ)

1979

Gold Beauty

テストS(米GⅡ)・フォールハイウェイトH(米GⅡ)・トゥルーノースH(米GⅢ)

1979

Vain Gold

ガーデニアS(米GⅢ)

1980

Eillo

BCスプリント(米GⅠ)

1980

Strike Gold

ベイショアS(米GⅢ)

1980

Widaad

クイーンメアリーS(英GⅢ)

1981

Optimistic Lass

ナッソーS(英GⅡ)・ムシドラS(英GⅢ)

1981

Procida

フォレ賞(仏GⅠ)・ハリウッドダービー(米GⅠ)・クリテリウムドメゾンラフィット(仏GⅡ)

1981

Proskona

ウンブリア賞(伊GⅡ)2回・セーネワーズ賞(仏GⅢ)

1981

Witwatersrand

パッカーアップS(米GⅢ)

1982

Damister

ダンテS(英GⅡ)・グレートヴォルティジュールS(英GⅡ)・サンダウンクラシックトライアルS(英GⅢ)

1982

Gold Crest

ベレスフォードS(愛GⅡ)

1982

Tank's Prospect

プリークネスS(米GⅠ)・アーカンソーダービー(米GⅠ)

1983

Gold Alert

エクリプスS(加GⅢ)・ドミニオンデイH(加GⅢ)

1983

Mogambo

シャンペンS(米GⅠ)・ゴーサムS(米GⅡ)

1983

Scoot

フラワーボウルH(米GⅠ)

1983

Woodman

アングルシーS(愛GⅢ)・愛フューチュリティS(愛GⅢ)

1984

Afleet

ジェロームH(米GⅠ)・ペンシルヴァニアダービー(米GⅢ)・トボガンH(米GⅢ)

1984

At Risk

ロックフェルS(英GⅢ)

1984

Chic Shirine

アッシュランドS(米GⅠ)

1984

Gone West

ドワイヤーS(米GⅠ)・ゴーサムS(米GⅡ)・ウィザーズS(米GⅡ)

1984

Gulch

BCスプリント(米GⅠ)・ホープフルS(米GⅠ)・ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・ウッドメモリアルS(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)2回・カーターH(米GⅠ)・サラトガスペシャルS(米GⅡ)・ベイショアS(米GⅡ)・トレモントS(米GⅢ)・ポトレログランデH(米GⅢ)

1984

Homebuilder

フェイエットS(米GⅡ)・ベンアリH(米GⅢ)・ボルティモアBCH(米GⅢ)

1984

Jade Hunter

ドンH(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)

1984

Mining

ヴォスバーグS(米GⅠ)

1985

Blue Jean Baby

ソロリティS(米GⅡ)

1985

Classic Crown

フリゼットS(米GⅠ)・ガゼルH(米GⅠ)

1985

Forty Niner

ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)・ハスケル招待H(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)・サンフォードS(米GⅡ)・ブリーダーズフューチュリティS(米GⅡ)・ファウンテンオブユースS(米GⅡ)

1985

Over All

スピナウェイS(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)・アディロンダックS(米GⅡ)・ランダルースS(米GⅢ)・スカイラヴィルS(米GⅢ)

1985

Prospectors Gamble

ベルエアH(米GⅡ)・トリプルベンドH(米GⅢ)・アフィナミナンH(米GⅢ)

1985

Ravinella

英1000ギニー(英GⅠ)・仏1000ギニー(仏GⅠ)・チェヴァリーパークS(英GⅠ)・アランベール賞(仏GⅢ)

1985

Seeking the Gold

ドワイヤーS(米GⅠ)・スーパーダービー(米GⅠ)・ピーターパンS(米GⅡ)

1985

True Panache

ロイヤルハントC

1986

Cascading Gold

ランチョベルナルドH(米GⅢ)

1986

Ebros

ラウンドテーブルH(米GⅡ)

1986

Fantastic Find

ヘンプステッドH(米GⅠ)

1986

Gild

ガーデニアS(米GⅡ)

1986

Gold Seam

キヴトンパークS(英GⅢ)

1986

Idabel

アークラテックスH(米GⅢ)

1986

Queena

バレリーナS(米GⅠ)・マスケットS(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・ファーストフライトH(米GⅡ)・ヴェイグランシーH(米GⅢ)

1986

Tersa

モルニ賞(仏GⅠ)・ボワ賞(仏GⅢ)

1987

Carson City

サプリングS(米GⅡ)・フォールハイウェイトH(米GⅡ)・ブージャムH(米GⅢ)

1987

Colour Chart

オペラ賞(仏GⅡ)・ノネット賞(仏GⅢ)・ミュゲ賞(仏GⅢ)

1987

Golden Reef

スカイラヴィルS(米GⅡ)

1987

Jade Robbery

仏グランクリテリウム(仏GⅠ)

1987

Jarraar

ニューオーリンズH(米GⅢ)

1987

Machiavellian

モルニ賞(仏GⅠ)・サラマンドル賞(仏GⅠ)

1987

Rhythm

BCジュヴェナイル(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)

1988

Barkerville

フェイエットS(米GⅡ)・トロピカルパークH(米GⅢ)

1988

Cuddles

ハリウッドスターレットS(米GⅠ)・ジュニアミスS(米GⅢ)・オークローンBCH(米GⅢ)

1988

Dodge

ベストターンS(米GⅢ)

1988

Get Lucky

アフェクショネイトリーH(米GⅢ)

1988

Lycius

ミドルパークS(英GⅠ)

1988

Man From Eldorado

アメリカンH(米GⅡ)

1988

Scan

ジェロームH(米GⅠ)・ペガサスH(米GⅠ)・カウディンS(米GⅡ)・レムセンS(米GⅡ)

1988

Sha Tha

オールアロングS(米GⅡ)

1988

Withallprobability

フォワードギャルBCS(米GⅡ)・ボニーミスS(米GⅡ)・シカゴBCH(米GⅢ)

1989

Line in the Sand

ルイジアナダービー(米GⅢ)

1989

Lion Cavern

トゥルーノースH(米GⅡ)・ホーリスヒルS(英GⅢ)・グリーナムS(英GⅢ)

1989

Mineral Wells

サンヴィンセントS(米GⅢ)

1989

Portroe

イロコイS(米GⅢ)

1989

Preach

フリゼットS(米GⅠ)

1989

Prospector's Delite

アッシュランドS(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)・フェアグラウンズオークス(米GⅢ)

1989

Steinbeck

ロシェット賞(仏GⅢ)・ダフニ賞(仏GⅢ)

1990

Educated Risk

フリゼットS(米GⅠ)・トップフライトH(米GⅠ)・チャーチルダウンズディスタフH(米GⅡ)・ランパートH(米GⅡ)・ヴァージニアH(米GⅢ)・シャーリージョーンズH(米GⅢ)

1990

Elizabeth Bay

エクリプス賞(仏GⅢ)

1990

Kingmambo

仏2000ギニー(仏GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)

1990

Miner's Mark

ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)・ジムダンディS(米GⅡ)

1990

Namaqualand

ランプライターH(米GⅢ)

1990

Placerville

プリンスオブウェールズS(英GⅡ)

1991

Coup de Genie

モルニ賞(仏GⅠ)・サラマンドル賞(仏GⅠ)・カブール賞(仏GⅢ)

1991

Distant View

サセックスS(英GⅠ)

1991

Numerous

ダービートライアルS(米GⅢ)

1991

ショウリノメガミ

京都牝馬特別(GⅢ)・中山牝馬S(GⅢ)

1992

Chequer

ウイリアムPキーンH(米GⅢ)

1992

Kayrawan

トムフールH(米GⅡ)

1992

Macoumba

マルセルブサック賞(仏GⅠ)

1992

Miesque's Son

リゾランジ賞(仏GⅢ)

1992

Red Carnival

チェリーヒントンS(英GⅢ)

1992

Smart Strike

フィリップHアイズリンH(米GⅠ)・サルヴェイターマイルH(米GⅢ)

1992

Tereshkova

カブール賞(仏GⅢ)

1992

シェイクハンド

ニュージーランドトロフィー四歳S(GⅡ)

1993

Cat's Career

アクアクH(米GⅢ)

1993

Dance Sequence

ロウザーS(英GⅡ)

1993

Golden Attraction

スピナウェイS(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)・フリゼットS(米GⅠ)・スカイラヴィルS(米GⅡ)・ターフウェイBCS(米GⅡ)

1993

Race Artist

ヴァージニアH(米GⅢ)

1993

Ta Rib

仏1000ギニー(仏GⅠ)

1993

Wall Street

カンバーランドロッジS(英GⅢ)

1994

Sahm

ニッカボッカーH(米GⅡ)

1995

Chester House

アーリントンミリオンS(米GⅠ)・ブリガディアジェラードS(英GⅢ)

1995

Souvenir Copy

デルマーフューチュリティ(米GⅡ)・ノーフォークS(米GⅡ)・ダービートライアルS(米GⅢ)

1995

Strategic Mission

フォートマーシーH(米GⅢ)

1996

Cape Canaveral

サンミゲルS(米GⅢ)

1997

Fusaichi Pegasus

ケンタッキーダービー(米GⅠ)・サンフェリペS(米GⅡ)・ウッドメモリアルS(米GⅡ)・ジェロームH(米GⅡ)

1997

Moon Driver

アランベール賞(仏GⅢ)

1997

Ocean of Wisdom

ロシェット賞(仏GⅢ)

1997

Scatter the Gold

クイーンズプレート・加プリンスオブウェールズS

1997

Strike Smartly

ニジンスキーS(加GⅡ)

1997

Traditionally

オークローンH(米GⅠ)

1998

Aldebaran

サンカルロスH(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)・フォアゴーH(米GⅠ)・チャーチルダウンズH(米GⅡ)・トムフールH(米GⅡ)

1998

Dancethruthedawn

ゴーフォーワンドH(米GⅠ)・クイーンズプレート・加オークス

1998

E Dubai

ドワイヤーS(米GⅡ)・サバーバンH(米GⅡ)

1998

Full of Wonder

ナイアガラBCS(加GⅠ)

1998

Pyrus

リッチモンドS(英GⅡ)・フォートマーシーH(米GⅢ)

1999

Golden Sonata

オークローンBCS(米GⅢ)

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