サーギャラハッド
和名:サーギャラハッド |
英名:Sir Gallahad |
1920年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:テディ |
母:プラッキーリエージュ |
母父:スペアミント |
||
仏2000ギニーやジャックルマロワ賞を勝つなど仏国で活躍し、米国で種牡馬として4度の首位種牡馬、12度もの母父首位種牡馬に輝く |
||||
競走成績:2~4歳時に仏英で走り通算成績25戦12勝2着4回3着3回 |
誕生からデビュー前まで
父テディの現役時代の所有者であり、種牡馬としても所有し続けていた米国人ジェファーソン・デーヴィス・コーン氏により仏国フィツジャメ牧場において生産・所有された。父テディにとっては3世代目の産駒で、母プラッキーリエージュにとっては2番子だった。成長すると体高は16.1ハンドに達した優れた馬体を有し、額に美しい流星が走った美形の馬であり、見た目上の欠点は皆無だった。気性の荒さが難点だったが、その一方で人懐っこい一面も持っていたという。
競走生活(2・3歳時)
ロバート・デンマン調教師に預けられ、2歳時にドーヴィル競馬場で行われたヴィレール賞でデビューして1番人気に支持されたが、6頭立ての5着に敗れた。次走もドーヴィル競馬場で行われたサンガシアン賞だったが、今回は5頭立ての5着最下位に敗れた。3戦目はサンクルー競馬場で行われたメディテラネ賞(T1100m)となった。過去2戦と異なり27頭立ての多頭数であり、本馬は人気を大きく落としていたが、2馬身差で勝利した。4戦目はロンシャン競馬場で行われたプティクヴェール賞(T1000m)となり、ここでは3馬身差で快勝。5戦目はサンクルー競馬場で行われたエクリプス賞(T1300m)であり、1馬身差で勝利。2歳時を5戦3勝の成績で終えた。しかしこの年の仏国2歳戦線には、仏グランクリテリウム・フォレ賞・クリテリウムドメゾンラフィットなどに勝利して2歳馬にして歴史的名馬の称号を得ていたエピナードを筆頭に、ニセアス、マッケンジーといった有力馬が大勢いたため、本馬に対する注目度は低かった。
3歳時は4月にサンクルー競馬場で行われたエドガードデラチャーム賞(T2000m)から始動した。ここではボイアール賞を勝ってきたニセアスとの顔合わせとなったが、本馬が勝利を収めた。メゾンラフィット競馬場で行われた次走ダフニ賞(T1600m)では僅か3頭立てとなったこともあり勝利した。そして迎えた仏2000ギニー(T1600m)ではニセアスを2着に破って優勝し、6連勝で仏国クラシックタイトルを手中に収めた。しかし次走のリュパン賞(T2100m)ではサンロマン賞・コンデ賞・オカール賞を勝ってきたマッシーンの5着(4着とする資料もあるがいずれにしても着外)に敗退。仏ダービー(T2400m)では、ダリュー賞を勝ってきたルカプサン、ニセアスの2頭に後れを取り、ルカプサンの3着に敗れた。次走のパリ大賞(T3000m)でもルカプサンとの対戦となったが、レース前からの焦れ込み、スタートの出遅れ、道中において折り合いを欠くなど、負ける要素が全て揃っており、着外に敗れた。ルカプサンも3着に終わり、勝ったのは後にロワイヤルオーク賞やカドラン賞も勝利する長距離得意のフィリベールドサヴォワだった。次走は仏共和国大統領賞(T2600m・現サンクルー大賞)となったが、今回もまともな競馬にならず、4歳馬バハドゥールの10着最下位に惨敗した。
その後はマイル・短距離路線に方向を転じ、ドーヴィル競馬場でマレッティス賞(T1200m)に出走。ここでは好敵手ニセアスの2着に敗れた。しかし次走となった創設3年目のジャックルマロワ賞(T1600m)ではニセアスを2着に破って勝利した。このままマイル・短距離路線に専念したわけではなく、次走はロワイヤルオーク賞(T3000m)となった。ここではパリ大賞で本馬を破ったフィリベールドサヴォワが実力どおりに勝利したが、本馬も4馬身離されながらも2着に頑張った。次走のラクープドメゾンラフィット(T2000m)では、伊ジョッキークラブ大賞やミラノ大賞を勝っていた4歳馬スコーパスの着外に敗退。次走のフォレ賞(T1400m)では2歳馬スカラムーシュの2着に敗退(と参考資料にあったが、別の資料には同競走の2着馬は2歳馬クラヴィエーレで、3着馬はニセアスとなっているから、それが正しいとすると本馬は着外ということになる。いずれが正しいのかはっきりしない)。次走のプティクヴェール賞(T1000m)でエルディファンの3着に敗れたところで3歳時を終えた。この年の成績は13戦4勝で、距離1000mから3000mまで走り回った。
競走生活(4歳時)
4歳時は英国ドンカスター競馬場で行われたリンカンシャーH(T8F)から始動した。仏国では一線級で活躍していた本馬も英国における評価は低かったようで、117ポンドの最軽量に恵まれたにも関わらず人気薄だった。しかし仏2000ギニーやジャックルマロワ賞を勝った本馬にとっておそらく最適距離だったと思われるマイル戦で最軽量であれば普通に走りさえすれば問題なく、2着イベンダーに3馬身差をつけて勝利を収め、低評価を見返してみせた。その後は仏国に戻り、サブロン賞(T2000m・現ガネー賞)に出走。ここでは前年のリュパン賞で本馬を破ったマッシーンとの対戦となったが、この年のアスコット金杯と凱旋門賞に勝利するマッシーンがこのレースを制し、シェーヌ賞・フォルス賞・ギシュ賞を勝っていたサンユベールにも後れを取った本馬は3着に敗れた。
その後はサンクルー競馬場に向かい、ボワール賞(T2000m)に出走した。前年の仏ダービーで屈した相手であるルカプサンと顔を合わせたが、今回は本馬がルカプサンを3馬身差の2着に破って完勝した。ロンシャン競馬場に戻って出走したダフニ賞(T1800m)では2着リザードに5馬身差をつけて圧勝。次走のエドガードデラチャーム賞(T2000m)も勝利した本馬は、かつては雲の上の存在だったエピナードに対抗できる器であるとの評判を今や得ていた。そこで本馬とエピナードのマッチレースが企画され、サンクルー競馬場の芝1300mで行われる事になった。結果は本馬が短首差で勝利。エピナードはこの時期に慢性的な脚の痛みを抱えていたため本調子ではなかったから、本馬がエピナードを実力で打ち負かしたとは言い切れないのだが、それでもこのマッチレースで本馬がエピナードを破った事実は後に大きな意味を有する事になる。なお、エピナードはこのマッチレースをステップに米国に遠征していった。
一方の本馬はグロシェーヌ賞(T1000m)に出走したのだが、ニセアスの2着に敗退。まだ4歳シーズンは半分以上残っていたのだが、このレースを最後に4歳時7戦5勝の成績で引退した。
競走成績を振り返るとマイル前後の距離を得意とするマイラーだったのはほぼ間違いないが、仏ダービーで3着、ロワイヤルオーク賞で2着しているように、ある程度距離の融通が利く馬だった。距離適性が短くなったのは気性面によるところが大きかったようで、潜在的なスタミナ能力は有していたと推察される。
血統
Teddy | Ajax | Flying Fox | Orme | Ormonde |
Angelica | ||||
Vampire | Galopin | |||
Irony | ||||
Amie | Clamart | Saumur | ||
Princess Catherine | ||||
Alice | Wellingtonia | |||
Asta | ||||
Rondeau | Bay Ronald | Hampton | Lord Clifden | |
Lady Langden | ||||
Black Duchess | Galliard | |||
Black Corrie | ||||
Doremi | Bend Or | Doncaster | ||
Rouge Rose | ||||
Lady Emily | Macaroni | |||
May Queen | ||||
Plucky Liege | Spearmint | Carbine | Musket | Toxophilite |
West Australian Mare | ||||
Mersey | Knowsley | |||
Clemence | ||||
Maid of the Mint | Minting | Lord Lyon | ||
Mint Sauce | ||||
Warble | Skylark | |||
Coturnix | ||||
Concertina | St. Simon | Galopin | Vedette | |
Flying Duchess | ||||
St. Angela | King Tom | |||
Adeline | ||||
Comic Song | Petrarch | Lord Clifden | ||
Laura | ||||
Frivolity | Macaroni | |||
Miss Agnes |
父テディは当馬の項を参照。
母プラッキーリエージュは当馬の項を参照。→牝系:F16号族③
母父スペアミントは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はコーン氏所有のもと、仏国で種牡馬入りした。一方、本馬とマッチレースを戦った後に渡米して米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるほどの活躍を見せたエピナードはそのまま米国で種牡馬入りしていた。
さて、ここでアーサー・ボイド・ハンコック氏という人物について触れなければならない。1875年に米国ヴァージニア州エラズリーで生を受けたハンコック氏は、父親のリチャード・ジョンソン・ハンコック大尉がエラズリースタッドにおいて馬産をしていた事もあり、自身も馬産に大いに関心を持っていた。1908年にハンコック氏はケンタッキー州の牧場一家に生まれたナンシー・タッカー・クレイ夫人と結婚すると、妻が所有していた土地をエラズリースタッドの支場とした。そしてこの支場をクレイボーンファームと命名した。ハンコック氏は同じケンタッキー州のディキシアナスタッドで種牡馬入りしたエピナードを見て感銘を受け、そしてそのエピナードをマッチレースで破った本馬についても興味を抱いた。本馬の父テディが、本馬が3歳時の1923年に仏首位種牡馬に輝いていた事も、ハンコック氏の食指を動かす要因となったようである。
ハンコック氏は早速コーン氏に本馬購入の交渉を持ちかけた。しかしコーン氏はテディの項に記載したとおり様々な二つ名で知られていた怪しげな人物であり、当然のようにふっかけてきた。最終的には取引が成立したが、その購入価格は12万5千ドルだった。この金額は、本馬より3歳年上であるマンノウォーの生涯獲得賞金24万9465ドルの約半分、マンノウォーの記録を抜いて北米賞金王になった本馬の同世代馬ゼヴの生涯獲得賞金31万3639ドルの約40%に相当するものであり、当時としてはかなりの高額だった。ハンコック氏は独力でこの金額を準備できなかったようで、ロバート・A・フェアバーン氏、ウィリアム・ウッドワード・シニア氏、マーシャル・フィールドⅢ世氏といった知り合いの馬産家達に声を掛けてシンジケートを結成することにより資金を調達した。これはおそらく世界競馬史上初の本格的な種牡馬シンジケートであろうと言われている。
さて、1926年から米国で種牡馬生活を開始した本馬は、その見栄えの良い馬体が米国の馬産家達の間で評判となり、各地から優秀な繁殖牝馬が多くやってきた。基本的にはクレイボーンファームで種牡馬生活を送ったが、他のシンジケート加入者3名が所有する牧場に派遣される事も多かった。そして米国における初年度産駒からいきなり米国三冠馬ギャラントフォックスが出現し、ギャラントフォックスが米国三冠を達成した1930年に北米首位種牡馬に輝いた。その後も次々に活躍馬を送り出し、1933・34・40年にも北米首位種牡馬に輝いた。欧州に逆輸出されて活躍した産駒もいるし、日本でも持ち込み馬のエレギャラトマスが帝室御賞典を勝つなど、世界各国で活躍馬を送り出した。567頭の産駒から65頭のステークスウイナーが出ており、ステークスウイナー率は11.5%である。
種牡馬としても成功した本馬だが、繁殖牝馬の父としてはさらに成功。シャルドン、ジョンズタウン、ギャロレット、ブラックターキンなど139頭ものステークスウイナーを送り出し、1939年、1943~52年までの10年連続、1955年と実に12回もの北米母父首位種牡馬を獲得。これは現在でも北米競馬史上最多記録となっている(2位はミスタープロスペクターの9回)。
本馬の成功により資金と名声を手にしたハンコック氏は、その後もブレニムを欧州から米国に導入して成功させ、現在でも米国有数の大牧場であるクレイボーンファームの礎を築いた。こうしてクレイボーンファーム隆盛の最大の功労馬となった本馬は、1949年に11頭の繁殖牝馬と交配したが1頭も受胎しなかったために種牡馬を引退。この段階で既に29歳という高齢だった本馬は、それから間もない7月8日の夜に眠るようにこの世を去った。遺体はギャラントフォックスの母であるマーガライトの隣に埋葬され、クレイボーンファームに墓碑が建立された。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1926 |
Lion Hearted |
クインシー賞 |
1927 |
Escutcheon |
アラバマS |
1927 |
Flying Gal |
スカイラヴィルS |
1927 |
プリークネスS・ケンタッキーダービー・ベルモントS・カウディンS・ウッドメモリアルS・ドワイヤーS・アーリントンクラシックS・ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯・サラトガC |
|
1927 |
The Scout |
ヨークシャーC |
1928 |
Sir Andrew |
プリンスオブウェールズS |
1930 |
Happy Gal |
サラトガスペシャルS |
1930 |
Iseult |
エイコーンS |
1930 |
The Spy |
ラクープ |
1931 |
Black Devil |
ドンカスターC |
1931 |
High Quest |
プリークネスS・ウッドメモリアルS |
1931 |
Trumpery |
サンヴィンセントS |
1932 |
Motto |
アーリントンラッシーS |
1932 |
Special Agent |
サンパスカルH |
1932 |
エレギャラトマス |
帝室御賞典(阪神) |
1933 |
Proclivity |
サンパスカルH |
1933 |
Tintagel |
ベルモントフューチュリティS |
1933 |
シンヨリーナトマス |
明四五歳特別(函館)・農林省賞典牝馬競走 |
1934 |
Sir Damion |
ディキシーH |
1935 |
Black Wave |
テストS |
1935 |
Fighting Fox |
ウッドメモリアルS・カーターH・マサチューセッツH・ジャマイカH |
1935 |
Great Union |
ヨークタウンH |
1936 |
Foxbrough |
ミドルパークS |
1936 |
Historical |
イングルウッドH |
1937 |
Fenelon |
トラヴァーズS・ジョッキークラブ金杯・ローレンスリアライゼーションS・ブルックリンH・マンハッタンH・ホイットニーS・ニューヨークH |
1937 |
Gallahadion |
ケンタッキーダービー・サンヴィンセントS |
1937 |
Merry Knight |
カウディンS |
1937 |
Roman |
ジェロームH |
1937 |
Sir Jeffrey |
イングルウッドH |
1938 |
Bold Irishman |
ピムリコフューチュリティ |
1939 |
Amphitheatre |
サラトガスペシャルS |
1939 |
ピムリコオークス・CCAオークス・テストS・アラバマS・ガゼルH・ベルデイムH・レディーズH |
|
1940 |
Good Morning |
メイトロンS・ヴァインランドH |
1941 |
Plucky Maud |
デラウェアH |
1942 |
Hoop Jr. |
ケンタッキーダービー・ウッドメモリアルS |
1946 |
Algasir |
カウディンS |