プラッキーリエージュ

和名:プラッキーリエージュ

英名:Plucky Liege

1912年生

鹿毛

父:スペアミント

母:コンサティーナ

母父:セントサイモン

各国の首位種牡馬4頭の母となり、牝系子孫も大きく発展させた20世紀前半の仏国の誇る大繁殖牝馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績13戦4勝(入着回数は不明)

競走馬としての成績は振るわなかったが、繁殖牝馬としては記録的大成功を収め、20世紀における最も重要な繁殖牝馬の1頭とされている。

誕生からデビュー前まで

英国の投資家兼慈善家だった初代ミケラム男爵ハーバート・スターン卿により生産・所有された英国産馬である。父は英ダービー・パリ大賞の勝ち馬スペアミント、母はセントサイモン牝駒のコンサティーナで、本馬は母の12番子であった。2歳時にデビューした時は名前が付けられておらず、単に「コンサティーナの牝馬」と呼ばれていたが、その後「Lucky Liege(ラッキーリエージュ)」と命名(「幸運な王」という意味)された。この頃に第一次世界大戦が勃発し、ドイツ軍がベルギーに侵攻を開始。8月にベルギー東部の都市リエージュ(綴りはLiegeで、本馬のこの時点の名前の後半部分と同じ)の要塞において、3万人のベルギー軍が10万人のドイツ軍相手に勇敢に戦った(「リエージュの戦い」と呼ばれ、第一次世界大戦初期の重要な一戦と言われている)。最終的には、ドイツ軍の参謀エーリヒ・ルーデンドルフ(この一戦をきっかけに出世街道を歩み第一次世界大戦におけるドイツ軍の実権を握った。後にアドルフ・ヒトラーと組んでミュンヘン一揆を起こしたが、ヒトラーと仲違いして不遇のまま没した)の策謀と、装備及び兵力の違いでベルギー軍は敗れたが、仏国や英国などの連合軍側はこの健闘を絶賛した。第一次世界大戦において英国軍の病院として使用してもらうためにパリのホテルを購入するなど、連合軍を支援する活動を行うことになるスターン卿もこのベルギー軍の勇敢さに感銘を受け、本馬の名前を「勇敢なリエージュ」という意味の「Plucky Liege(プラッキーリエージュ)」に改名した。

競走生活

2歳時の本馬は主要な競走には勝っていないが、6戦4勝の好成績を挙げた。勝ったレースは全て5ハロン戦だった。この年の2歳フリーハンデでは、牝馬ではトップのレディジョセフィンより1ポンド低い117ポンドで第3位にランクされた。

3歳時は英1000ギニー(T8F)に参戦したがヴォークルスの着外に敗れた。他のレースでも、クイーンズバリーH(T5F)でミドルパークS勝ち馬フライアーマーカスの3着に入ったのが目立つ程度で、3歳時は7戦未勝利に終わり、現役を引退した。

血統

Spearmint Carbine Musket Toxophilite Longbow
Legerdemain
West Australian Mare West Australian
Brown Bess
Mersey Knowsley Stockwell
Orlando Mare
Clemence Newminster
Eulogy
Maid of the Mint Minting Lord Lyon Stockwell
Paradigm
Mint Sauce Young Melbourne
Sycee
Warble Skylark King Tom
Wheat Ear
Coturnix Thunderbolt
Fravolina 
Concertina St. Simon Galopin Vedette Voltigeur
Mrs. Ridgway
Flying Duchess The Flying Dutchman
Merope
St. Angela King Tom Harkaway
Pocahontas
Adeline Ion
Little Fairy
Comic Song Petrarch Lord Clifden Newminster
The Slave
Laura Orlando
Torment
Frivolity Macaroni Sweetmeat
Jocose
Miss Agnes Birdcatcher
Agnes

スペアミントは当馬の項を参照。

母コンサティーナは英国産馬だが、具体的な競走成績はよく分からない。4歳時に本馬の半姉で豪州に競走馬として輸出されたプレイアウェイ(父カーバイン)【豪フューチュリティS・豪ニューマーケットH】を産んでいる。その後15歳時の1911年にスターン卿によって2800ギニーで購入されたが、その時点でコンサティーナの胎内にいたのが本馬である。

本馬の半姉オーリナ(父オーラム)の牝系子孫には、ソーマレズ【凱旋門賞(仏GⅠ)・パリ大賞(仏GⅠ)】、ラッシュラッシーズ【コロネーションS(英GⅠ)・ヨークシャーオークス(英GⅠ)・愛メイトロンS(愛GⅠ)】、フォーグヒーン【英チャンピオンハードル(英GⅠ)・クリスマスハードル(英GⅠ)2回・パンチェスタウンチャンピオンハードル(愛GⅠ)】、日本で走ったアズマテンラン【菊花賞】などがいる。

また、本馬の半妹ガロンラス(父ローズランド)の牝系子孫はかなり発展しており、その孫にはダスター【愛ダービー・コロネーションC・英チャンピオンS】と英国三冠馬バーラム【英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・ミドルパークS】の兄弟がいるほか、ザフェニックス【愛2000ギニー・愛ダービー】、日本で走ったキョウエイプロミス【天皇賞秋】、サクラチヨノオー【朝日杯三歳S(GⅠ)・東京優駿(GⅠ)】とサクラホクトオー【朝日杯三歳S(GⅠ)】の兄弟、シャダイカグラ【桜花賞(GⅠ)】、アロンダイト【ジャパンCダート(GⅠ)】、ストレイトガール【ヴィクトリアマイル(GⅠ)2回・スプリンターズS(GⅠ)】、クリソライト【ジャパンダートダービー(GⅠ)】とマリアライト【エリザベス女王杯(GⅠ)】の兄妹などもガロンラスの牝系子孫から登場している。→牝系:F16号族③

母父セントサイモンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、スターン卿の秘書だったジェファーソン・デーヴィス・コーン氏に購入された。コーン氏は仏国に本馬を連れて行き、自身が借りていたボワルセル牧場に繋養した。同じ牧場には、コーン氏がエドモン・ブラン氏から購入した種牡馬テディも繋養されており、本馬はテディとの間に多くの子をもうけることになる(ただし、繁殖生活後半はコーン氏が世界恐慌の煽りを受けて経済的に苦境に陥り、テディを米国に売却したため、他の種牡馬と交配されるようになった)。本馬は繁殖入り後の3年間は産駒がおらず、初子を産んだのは7歳時だった。なお、本馬の生産者スターン卿は、本馬が初子を産む直前の1919年1月に67歳で死去しており、本馬が正式にコーン氏の所有馬となったのはスターン卿の死後である可能性もある。

本馬の初子は牝駒マルグリットドヴァロワ(父テディ)で、競走馬としては仏国で走り4勝を挙げ、しばらく仏国で繁殖生活を送った後に米国に輸入された。マルグリットドヴァロワは母としてはマンノウォーとの間にエイコーンS勝ち馬ホスティラティを産んだ。ホスティラティは本馬の牝系を大きく発展させた1頭で、その牝系子孫には、ファピアノ【メトロポリタンH(米GⅠ)】、オジジアン【ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・ドワイヤーS(米GⅠ)・ジェロームH(米GⅠ)】、クワイエットアメリカン【NYRAマイルH(米GⅠ)】、デアアンドゴー【ストラブS(米GⅠ)・パシフィッククラシックS(米GⅠ)】、キーパーヒル【ラスヴァージネスS(米GⅠ)・ケンタッキーオークス(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】、コメンダブル【ベルモントS(米GⅠ)】、ベニーザブル【フランクJドフランシス記念ダッシュS(米GⅠ)・ドバイゴールデンシャヒーン(首GⅠ)】、ソルフィット【エイントリーハードル(英GⅠ)・パンチェスタウンチャンピオンハードル(愛GⅠ)・モルジアナハードル(愛GⅠ)2回・ディセンバーフェスティバルハードル(愛GⅠ)・愛チャンピオンハードル(愛GⅠ)・ワールドハードル(英GⅠ)・リヴァプールハードル(英GⅠ)】、日本で走ったエーシンフォワード【マイルCS(GⅠ)】、トーホウジャッカル【菊花賞(GⅠ)】などがいる。また、ホスティラティの半姉マドモアゼルデヴァロ(父サルダナパル)の牝系子孫からは1965年の米年度代表馬ローマンブラザー【シャンペンS・ジャージーダービー・アメリカンダービー・ウッドワードS・ジョッキークラブ金杯】が出ている。

8歳時に産んだ2番子は牡駒サーギャラハッド(父テディ)で、仏2000ギニー・ジャックルマロワ賞勝ちなど24戦12勝の成績を挙げた。競走馬引退後はしばらく仏国で種牡馬生活を送った後に米国に種牡馬として輸入され、4度の北米首位種牡馬に輝いたばかりか、史上最多となる12度の北米母父首位種牡馬に輝くという大成功を収めた(詳細は当馬の項を参照)。

9歳時に産んだ3番子は牝駒ノアヨハン(父テディ)で、競走馬としては17戦3勝の成績を挙げた。このノアヨハンも本馬の牝系子孫を大きく発展させた功労馬であり、その牝系子孫からは、サンクタス【仏ダービー・パリ大賞】、ピア【英オークス】、セブンスプリングス【ロベールパパン賞(仏GⅠ)・モルニ賞(仏GⅠ)】、チーフシンガー【ジュライC(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)】、プレザントリーパーフェクト【BCクラシック(米GⅠ)・ドバイワールドC(首GⅠ)・パシフィッククラシックS(米GⅠ)】、ボイポルウステデス【クイーンマザーチャンピオンチェイス(英GⅠ)・メリングチェイス(英GⅠ)2回・アスコットチェイス(英GⅠ)】、イルーシヴケイト【マルセルブサック賞(仏GⅠ)・ロートシルト賞(仏GⅠ)2回・ファルマスS(英GⅠ)】、そしてお馴染みのシーザリオ【優駿牝馬(GⅠ)・アメリカンオークス(米GⅠ)】とエピファネイア【菊花賞(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)】、リオンディーズ【朝日杯フューチュリティS(GⅠ)】の母子などが出ている。

10歳時に産んだ4番子は牡駒シヴァリー(父グッドラック)で、競走馬としては9戦2勝の成績に留まり、種牡馬入りしたと言う記録も無い。

12歳時に産んだ5番子は牝駒ノーブルレディ(父テディ)で、競走馬としては2勝を挙げた程度に終わり、繁殖牝馬としても活躍しなかった。

14歳時に産んだ6番子は牝駒エルザドブラバン(父テディ)で、競走馬としては4戦1勝の成績で、繁殖牝馬としても活躍しなかった。

15歳時に産んだ7番子は牡駒ブルドッグ(父テディ)で、現役成績は8戦2勝だったが、兄サーギャラハッドが米国で種牡馬として成功していたために、やはり米国で種牡馬入りした。そして兄と同じく米国で種牡馬として成功し、1943年の北米首位種牡馬、及び1953・54・56・58年の北米母父首位種牡馬に輝いた(詳細はブルドッグの代表産駒ブルリーの項を参照)。

16歳時に産んだ8番子は牡駒クアトルブラス(父テディ)で、現役時代はヤコヴレフ賞・フォートワースH・セントパトリックズデイH勝ちなど54戦11勝を挙げた。競走馬引退後は米国で種牡馬入りし、トラヴァーズS勝ち馬ユーラシアンなどを出したが、産駒のステークスウイナーは8頭に留まり、サーギャラハッドやブルドッグほどの成功は出来なかった。

17歳時に産んだ9番子は牝駒ディアーヌドポワチエ(父アセルスタン)で、競走馬としては11戦1勝の成績だった。競走馬引退後は米国で繁殖入りしたが活躍馬を出すことも牝系を伸ばすことも出来なかった。

19歳時に産んだ10番子は牡駒アドミラルドレイクだった。アドミラルドレイクの父クレイガンエランはサンドリッジの代表産駒である英2000ギニー・英ダービー馬サンスターの直子で、現役時代は7戦3勝だったが、その3勝が英2000ギニー・セントジェームズパレスS・エクリプスSという大レースばかりだった。アドミラルドレイクは現役成績26戦5勝。パリ大賞・ビエナル賞を勝ち、仏2000ギニーで2着、仏ダービーで3着の成績を残した。種牡馬としても成功し、1955年の仏首位種牡馬に輝いた。

21歳時に産んだ11番子は牡駒ベルアセル(父アセルスタン)で、25戦してダリュー賞など4勝を挙げた。競走馬引退後は米国で種牡馬入りして何頭かのステークスウイナーを出したが、10歳で早世した影響もあって成功は出来なかった。

本馬がベルアセルを産んで間もない1933年10月に破産したコーン氏は完全に馬産事業から手を引き、本馬や繋養していた種牡馬(ヴァトーも含まれていた)をレオン・ボルテラ氏に売却した。ボルテラ氏がコーン氏から入手したボワルセル牧場で繁殖生活を続けた本馬は23歳時に、(死産を除けば)最後の子となる、12番子の牡駒ボワルセル(父ヴァトー)を産んだ。ボワルセルは現役成績3戦2勝だったが、うち1勝が英ダービーで、種牡馬としても成功し、1949年の英愛首位種牡馬に輝いた(詳細は当馬の項を参照)。なお、本馬がボワルセルを産んだ時の年齢23歳は、20世紀における英ダービー馬を産んだ最高齢記録である。

ボワルセルを産んだ2年後の1937年3月、本馬はキャステラリとの間の子を死産した1週間後に25歳で他界した。本馬は12頭の子を産んだが、その全てが勝ち上がり(11頭しか勝ち上がっていないとする資料が多いが、筆者が調べた限りでは12頭全てに勝利した記録がある)、英仏両国でクラシック競走の優勝馬を出した。しかも4頭の牡駒が英愛仏米の4か国で首位種牡馬となり、2頭の牝駒が根幹繁殖牝馬として牝系を伸ばし、いずれも後世に大きな影響力を残した。そのため本馬の血が後世に与えた影響力は素晴らしく、本馬の血を受けていないサラブレッドは現在殆どいないのではないかと思われる。例えば、名種牡馬ロベルトは、血統表にサーギャラハッドの名前が2つ、ブルドッグとアドミラルドレイクが1つずつあり、本馬の5×5×7×5のインブリードを有している。同じくサンデーサイレンスも血統表を遡ると、血統表にサーギャラハッドの名前が4つ、ブルドッグとアドミラルドレイクが1つずつある。

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