サンデーサイレンス

和名:サンデーサイレンス

英名:Sunday Silence

1986年生

青鹿

父:ヘイロー

母:ウィッシングウェル

母父:アンダースタンディング

1980年代の米国を代表する名競走馬であるだけでなく日本の競馬界を完全制圧した、いまさら説明不要の日本競馬史上最高の種牡馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績14戦9勝2着5回

1980年代を代表する米国の歴史的名馬にして、競馬をかじったことのある日本人なら誰でも知っている日本競馬史上最高の種牡馬である。本馬の経歴については日本においても各方面で詳しく触れられており、筆者が調べた海外の資料においてもあまり目新しい内容は出てこなかった。そのため、本馬に関してはこの名馬列伝集で詳しく紹介する必要もないのではとも思うのだが、筆者なりに海外の資料を色々と漁った労力を無駄にするのもつまらない(海外の資料でも本馬に関するものは続々と出てきた。その分量は名馬列伝集で紹介している馬の中でも最多クラスである。日本だけでなく海外でも本馬は各方面で盛んに取り上げられているのである)ので、復習のつもりで記述することにする。なお、本馬を紹介した日本の資料は、米ブラッドホース誌の編集長レイ・ポーリック氏の著書「運命に噛みついた馬 サンデーサイレンス物語」の邦訳など多数存在しており、どの内容も充実しているが、それらを丸写しにするのは非常に問題があるので、筆者が各種資料から吸収して消化した後の知識に基づいて本項を執筆することとする。

誕生からデビュー前まで

1986年3月25日、アーサー・ボイド・ハンコックⅢ世氏が所有する米国ケンタッキー州ストーンファームにおいて、オーククリフサラブレッズ株式会社により生産された。母ウィッシングウェルの所有者は、オーククリフサラブレッズ株式会社の社員で石油業者のトム・テイサム氏であり、ウィッシングウェルをヘイローと交配させるために、メリーランド州ウインドフィールズファームにいたウィッシングウェルを、ヘイローが繋養されていたストーンファームまではるばる連れて来たのである。

本馬の全身は殆ど真っ黒で、青毛として登録されてもおかしくないような青鹿毛馬だった。産まれてすぐにウイルス性の腸疾患に罹り、生死の境を彷徨ったが、奇跡的に回復した。本馬の幼少期は人間からの拒絶の連続だった。大病を患った経験がある上に、血統が地味で、体格は細身で、腰が弱く、気性が非常に激しく、両後脚が内側に極度に湾曲していた本馬に対する周囲の評価は極めて低く、生産者であるはずのテイサム氏さえも本馬を所有しようとはしなかったため、本馬はとりあえずハンコックⅢ世氏の所有馬となった。テイサム氏から本馬の管理を検討するよう依頼されたゲイリー・ジョーンズ調教師は「あの馬の後脚は異常に曲がっており、まるでハンガーのように見えました」として拒否した。ロサンゼルスタイムズ紙のスポーツ記者ビル・クリスティーン氏は本馬の後脚に関して「まるで(記号の)括弧のような形でした」と述懐している。

ハンコックⅢ世氏は、本馬を1歳7月のキーンランドセールに出品した。しかし買い手が付かなかったために、ハンコックⅢ世氏は止むを得ず本馬を1万7千ドルで買い戻した。2歳時にはハリウッドパーク競馬場で行われたセリに出品されたが、希望売却額5万ドルに届かなかったため、ハンコックⅢ世氏は止むを得ず本馬を今度は3万2千ドルで買い戻した。ハンコックⅢ世氏はさらに本馬をケンタッキー州で行われるセリに出そうとしたが、ケンタッキー州に向かう途中のテキサス高速道路上で、本馬を乗せたバンの運転手が心臓発作を起こしたためにバンは転倒事故を起こした。運転手は死亡し、一緒に乗っていた馬の多くも命を落とした。本馬は奇跡的に一命を取りとめたが、動物病院で2週間ほど過ごす羽目になった。

ハンコックⅢ世氏の友人で本馬の権利の半分を所持していたポール・サリヴァン氏は、この事故の影響でセリに出せなくなりカリフォルニア州に留まる事になった本馬の権利の半分を、米国西海岸を代表する名伯楽チャールズ・ウィッティンガム師に購入するように勧めた。サリヴァン氏の勧めに従って5万ドルで権利の半分を購入したウィッティンガム師は、購入した権利の半分をさらにケンタッキー州ルイビルの外科医アーネスト・ゲイラード博士に2万5千ドルで売却した。この結果、本馬はハンコックⅢ世氏、ゲイラード博士、ウィッティンガム師の頭文字を取った、H-G-Wパートナーズ名義で競走馬となる事になった。

ウィッティンガム師の管理馬としてサンタアニタパーク競馬場において調教が開始された本馬だったが、その気性の激しさは手に負えないほどであり、後脚で立ち上がったり、急に跳ね上がったりで調教にならなかった。そのため、調教助手のパム・メイブ女史は「サンデー、止めて!」と叫ぶ毎日だった。

こんな暴れ馬の調教など普通の調教師であれば早々に匙を投げてもおかしくないのだが、既に齢75歳だった大ベテランのウィッティンガム師は、ほぼ全ての人間が見逃してきた本馬の長所、すなわち、機敏さ、迅速に加減速できる器用さ、意思の強さなどを認識しており、本馬を見捨てることはせずに辛抱強く育成していった。

競走生活(2歳時)

ウィッティンガム師の調教を受けてレースで走れる程度には成長した本馬は、2歳10月にサンタアニタパーク競馬場で行われたダート6.5ハロンの未勝利戦で、主戦となるパット・ヴァレンズエラ騎手を鞍上にデビューした。単勝オッズ2.5倍で12頭立ての1番人気に支持されたが、単勝オッズ4.7倍の2番人気馬カロラヴァーの首差2着に敗れた。

次走は翌月にハリウッドパーク競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦となった。単勝オッズ1.7倍で10頭立ての1番人気に支持された本馬は、2着モーメントオブタイムに10馬身差をつけて大圧勝した。

3戦目は12月にハリウッドパーク競馬場で行われたダート6.5ハロンの一般競走となった。このレースでは、米国三冠馬シアトルスルーと1979年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬スマートアングルの間に産まれた良血馬で、本馬が売れ残ったキーンランドセールにおいて290万ドルの値が付いたヒューストンが単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持されており、本馬は単勝オッズ2.8倍の2番人気となった。結果もヒューストンの頭差2着だったが、この走りにより本馬もケンタッキーダービー馬の候補の末席に名を連ねることになった。2歳時の成績は3戦1勝だった。

2歳から3歳になる頃、本馬は劇的に成長したという。ハンコックⅢ世氏はこの頃の本馬を振り返って、「彼は成長して白鳥に変わる醜いアヒルの子の好例でした。偉大で強力なスポーツ選手に変身する若者と同様に、一握りの馬は成熟が少し遅いのです」とロサンゼルスタイムズ紙のインタビューに対して語っている。

競走生活(3歳初期)

3歳時は3月にサンタアニタパーク競馬場で行われたダート6.5ハロンの一般競走から始動した。初めて経験する重馬場だったが、単勝オッズ1.9倍の1番人気に応えて、2着ヒロイックタイプに4馬身半差をつけて逃げ切り完勝した。

それから17日後には、サンフェリペH(GⅡ・D8.5F)に出走した。このレースでは、デルマーフューチュリティ・ホイストザフラッグS・サンラファエルSの勝ち馬でハリウッドフューチュリティ2着のミュージックメルシー、サンタカタリナSを勝ってきたフライングコンチネンタルなどが対戦相手となった。ミュージックメルシーが単勝オッズ1.5倍の1番人気、本馬が単勝オッズ3.9倍の2番人気、フライングコンチネンタルが単勝オッズ5.7倍の3番人気となった。スタートが切られるとミュージックメルシーが猛然と加速して先頭に立った。一方の本馬はスタートで躓いて最後方からの競馬となってしまった。しかしミュージックメルシーが刻んだ半マイル通過45秒2という猛烈なハイペースに遅れずに付いていき、道中で2番手まで押し上げた。そして直線入り口でミュージックメルシーをかわして先頭に立つと、大外から追い込んできたフライングコンチネンタルを1馬身3/4差の2着に抑えて勝利した。

次走は、GⅠ競走初出走となるサンタアニタダービー(GⅠ・D9F)となった。一般競走で本馬を破った後にベイショアSを勝って通算成績を3戦無敗としていたヒューストン、ノーフォークSの勝ち馬でハリウッドフューチュリティ3着のホークスター、フライングコンチネンタル、前走3着のミュージックメルシーなどが対戦相手となった。ヒューストンが単勝オッズ1.9倍の1番人気、本馬が単勝オッズ3.4倍の2番人気、ミュージックメルシーが単勝オッズ6.3倍の3番人気となった。スタートが切られると、今回もミュージックメルシーが猛然と加速して先頭に立った。本馬はスタート直後に他馬に押されて、今回も後手を踏んでしまった。しかしすぐに馬群に取り付くと、最初のコーナーで外側から先頭を奪ったヒューストンとミュージックメルシーを追撃した。三角に入ったところで外側から前の2頭をかわすと、失速するヒューストンを尻目にどんどん後続との差を広げていった。最後は2着に追い上げてきたフライングコンチネンタルに11馬身差をつけて大圧勝。このレースにより、ケンタッキーダービーの有力候補としての立場を確立させた。

ケンタッキーダービー

そしてチャーチルダウンズ競馬場に向かい、ケンタッキーダービー(GⅠ・D10F)に参戦した。対戦相手は、カウディンS・シャンペンS・ウッドメモリアルS・ゴーサムSの勝ち馬でBCジュヴェナイル2着の前年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬イージーゴア、エヴァーグレイズS・フラミンゴSを連勝してきたオウインスパイアリング、サンタアニタダービー5着後にダービートライアルSを勝ってきたヒューストン、フォアランナーSで2着してきたパームビーチS・トランシルヴァニアSの勝ち馬シャイトム、ジムビームS・ブルーグラスSを連勝してきたフロリダダービー2着馬ウエスタンプレイボーイ、アーカンソーダービーを勝ってきたダンシル、ヤングアメリカSの勝ち馬でフラミンゴS2着・シャンペンS3着のアイリッシュアクター、フェデリコテシオS・チェリーヒルマイルS・ガーデンステートSとグレード競走で3戦連続2着していたウインドスプリッター、デピュティドテスタモニーSを勝ってきたノーザンウルフ、アーカンソーダービーで2着してきたリーミントンパークダービーの勝ち馬クレヴァートレヴァー、ナシュアS・ファウンテンオブユースS・ウッドメモリアルSでいずれも3着だったトリプルバック、サンタアニタダービーで4着だったホークスター、ガーデンステートSを勝ってきたフォールトレスエンスン、サンタアニタダービー2着後にカリフォルニアダービーでも2着してきたフライングコンチネンタルの計14頭だった。

イージーゴアとオウインスパイアリングのカップリングが単勝オッズ1.8倍の1番人気、本馬が単勝オッズ4.1倍の2番人気、ヒューストンとシャイトムのカップリングが単勝オッズ6.5倍の3番人気、ウエスタンプレイボーイが単勝オッズ10.5倍の4番人気と続いた。特にセクレタリアトの再来と言われていたイージーゴアの前評判は凄まじく、早くも三冠達成確実と言われていたほどだった。しかもイージーゴアの所有者はオグデン・フィップス氏だった。ハンコックⅢ世氏の父でクレイボーンファームの代表者だったアーサー・ブル・ハンコック・ジュニア氏が1972年に死去した折に、クレイボーンファームの関係者達は、クレイボーンファームにおいて馬産を実施していたフィップス氏の意見に従って、ハンコックⅢ世氏の弟セス・ハンコック氏を後継者として選んだ。フィップス氏のせいで後継者に指名されなかったハンコックⅢ世氏は、クレイボーンファームから独立してストーンファームを設立したという経緯があり、本馬とイージーゴアの対決はハンコックⅢ世氏とフィップス氏の因縁の対決でもあったのである。

当日はみぞれ混じりの雨が降り続き、気温は華氏43度(摂氏6.1度)まで下がり、史上最も寒いケンタッキーダービーと言われた。それでも12万2653人の観衆がチャーチルダウンズ競馬場に詰め掛けていた。この雨の影響により、レースは極端な不良馬場で行われた。スタート4分前にトリプルバックの蹄鉄が外れて付け替えが行われたため、スタートは9分間ほど遅延した。本馬鞍上のヴァレンズエラ騎手は、気性が激しい本馬がスタートの遅れにより焦らつかないように、本馬を他の出走馬から離れた場所まで移動させ、誘導馬のポニーの傍で待機させた。

そしてスタートが切られると、ヒューストンとクレヴァートレヴァーの2頭が先頭を引っ張った。本馬は好スタートから馬群の4番手を追走。イージーゴアはその後方外側で泥を被らないように追走した。三角に入る頃に本馬が外側を通って進出していき、その後方からイージーゴアも上がってきた。本馬は直線入り口で先頭に立つと、右に左によれながらも後続を引き離しにかかった(ヴァレンズエラ騎手によると左右によれた理由は、観衆の絶叫に反応したためらしい)。そこに後方からイージーゴアとオウインスパイアリングが追撃してきたが、本馬を捕らえられるほどの勢いは無かった。2着となったイージーゴアに2馬身半差をつけた本馬が優勝し、ケンタッキーダービー馬の栄冠を手にした。

ハンコックⅢ世氏は1982年のガトデルソル以来7年ぶり2度目のケンタッキーダービー制覇を達成した。この3年前にファーディナンドで史上最年長ケンタッキーダービー調教師となっており、この日に自身の最年長記録をさらに更新したウィッティンガム師は、レース数分後に「この馬は三冠馬になるでしょう」と宣言した。しかし勝ちタイム2分05秒2はケンタッキーダービーとしては異例の遅さ(これより遅いタイムで決着したのは41年前にサイテーションが2分05秒4で勝った1948年が最後。この40年間における最遅タイムはヴァレンズエラ騎手の伯父ミロ・ヴァレンズエラ騎手騎乗のティムタムが勝利した1958年の2分05秒0である。いずれも時計がかかる馬場状態だった。なお、本馬が勝った年以降にこれより遅いタイムでケンタッキーダービーが決着した事は2015年現在1度も無い)だったため、競走能力云々よりも重馬場の巧拙が勝敗を分けたとする論調が多かった。

また、レース前から激しかった、米国東海岸を本拠地とするイージーゴアを応援する競馬記者や競馬ファンと、西海岸を本拠地とする本馬のファンとの対立はますます激しくなり、イージーゴア贔屓の競馬記者は本馬を“The Star No One Wanted(誰も望んでいなかったスターホース)”と呼んだ。そのため、ウィッティンガム師は、競馬記者達の本馬に対する敬意が不足しているとして憤慨した。

プリークネスS

三冠競走2戦目のプリークネスSの1週間前、本馬は調教中に右前脚を負傷したのか、脚を引き摺る仕草を見せた。骨折を疑ったウィッティンガム師はケンタッキー州を代表する名獣医アレックス・ハートヒル博士に連絡を取り、大至急本馬を診察してもらった。ハートヒル博士の見立ては、坐石による打撲傷であって骨折のような重大な怪我ではないが、プリークネスSの1週間前というタイミングであることが問題であるというものだった。ハートヒル博士は競走馬の脚に詳しいケンタッキー州のリック・レッデン博士に、本馬の脚の状態を書き付けたファックスを送った。ファックスを受け取ったレッデン博士はアルミニウム製の特製蹄鉄を複数準備して、装蹄師のジョー・キャロル氏と共に本馬のところへ駆けつけた。そしてレントゲン検査で本馬の骨には異常が無いことを確認した上で、血液循環を良くする為に本馬の脚をエプソム塩に浸した上で、脚に湿布を巻き、傷を塞ぐために薬を塗り続けた。これらの治療が功を奏し、本馬は3日間の休養だけで、レッデン博士が用意した特製蹄鉄を装着した上で調教を再開することが出来た。

こうした経緯も影響したのか、次走のプリークネスS(GⅠ・D9.5F)では、イージーゴアが前走を上回る支持を集めて単勝オッズ1.6倍の1番人気に推され、単勝オッズ3倍の本馬は再度2番人気に甘んじた(ただし、イージーゴアも脚部不安を抱えており、治療を受けながらの参戦だった)。他の出走馬は、前走4着のダンシル、同5着のホークスター、同6着のノーザンウルフ、同8着のヒューストン、ケンタッキーダービーに不参戦だったフェデリコテシオSの勝ち馬でウッドメモリアルS2着のロックポイント、ハーシュジェイコブスSを勝ってきたパルバライジングだった。前走とは打って変わって良馬場となったピムリコ競馬場には、同競馬場としてはかなり多い部類である9万145人の観衆が詰め掛けていた。

レースが始まると好スタートからパルバライジングが先頭を伺ったが、それをヒューストンとノーザンウルフの2頭が強引にかわして先頭に立った。本馬はパルバライジングに並ぶような形の4番手、イージーゴアはその直後5番手を追走した。向こう正面で本馬が2番手に上がると、それを追うように加速したイージーゴアが本馬とヒューストンをかわして早々に先頭に上がった。そのままイージーゴアが三角に入ったが、本馬がここで仕掛けて四角で外側からイージーゴアに並びかけた。そして外側の本馬と内側のイージーゴアの2頭が並んで先頭に立った状態で直線に突入した。そして直線で2頭による大激戦が展開された。直線半ばまではイージーゴアが僅かにリードしていたが、ゴール前で本馬が僅かに前に出て、最後は鼻差で優勝した(1978年にアファームドアリダーを破った時以来となる写真判定となった)。5馬身差の3着にロックポイントが入ったが、ほとんど誰にも気付かれなかったという。

稀に見る遅さだったケンタッキーダービーの勝ちタイムと異なり、このプリークネスSの勝ちタイム1分53秒8は、1985年の勝ち馬タンクスプロスペクトが計時した1分53秒4、1984年の勝ち馬ゲートダンサーが計時した1分53秒6に次ぐ当時史上3位の好タイム(後に1973年の勝ち馬セクレタリアトの勝ちタイムが1分53秒0に訂正されたため、実際には当時史上4位である)であり、時計がかかる馬場状態だったからケンタッキーダービーを勝てた云々の批評は完全に封じ込められた。

このレースの映像を見ると、直線半ばで外側の本馬が内を向き、内側のイージーゴアが外を向いている場面があり、2頭が顔を合わせた直後にイージーゴアが怯んだように僅かに遅れている。国内外でよく言われる競走馬の闘争心(勝負根性)なるものに対して、筆者は実は少し懐疑的である。殆どの競走馬は勝とうとして走っているのではなく、騎手に強制されて嫌々ながら走っているだけだと思っているからである。ゴール前の競り合いにおける決着も、闘争心がある馬が勝つのではなく、単に余力がある又はスピードで勝る馬が勝つだけだと思っている(人間が走るマラソンや駅伝などを見れば分かるだろう。ゴール前の接戦になった場合に勝敗を分けるのは闘争心などではなく、余力又はスピードである場合が多い)。ただし、本当に相手に勝とうとする馬も稀に存在する事は筆者も認識している。そういった本当に闘争心がある馬は、多くの場合に優れた競走馬となるのも事実であろう。このレースに関しては、本馬がイージーゴアに勝とうとする気迫が上回ったようにしか見受けられないのである。このプリークネスSが多くの競馬専門家達から“Race of the Half Century(半世紀に一度の名勝負)”と呼ばれたのも頷ける話である。

なお、レース後にイージーゴア鞍上のパット・デイ騎手が、本馬から進路妨害を受けたという申し立てを行ったが、7分間の審議の末に棄却されている。ウィッティンガム師と同じく、競馬記者達の本馬に対する敬意不足に不満を抱いていたハンコックⅢ世氏は、記者会見でその不満を思う存分にぶちまけた。

ベルモントS

当然のように次の目標は三冠競走最終戦のベルモントSとなったわけだが、プリークネスSからベルモントSまでの間に一つの事件が起こった。ある朝の調教中、殺到していた報道陣が焚いたフラッシュに驚いた本馬は暴れだした。そしてその拍子に本馬の傍にいたウィッティンガム師の頭に蹴りを入れてしまったのである。メイブ調教助手が咄嗟に本馬の身体を押しのけたために、脚はウィッティンガム師の頭をかすっただけで済んだが、下手をすればウィッティンガム師は本馬に蹴り殺されるところだった。これは本馬の気性難を示す逸話であるとして紹介される場合もあるようだが、悪いのは本馬ではなく報道陣だろう。ウィッティンガム師も別に本馬に対して怒ったりはせず、「私の頭蓋はかなり厚いので、私を蹴った彼のほうが蹄を痛めてしまったのではないでしょうか」と笑い話にしてしまった。

そして迎えたベルモントS(GⅠ・D12F)では、1978年のアファームド以来11年ぶり史上12頭目の米国三冠馬に王手をかけた本馬が単勝オッズ1.9倍でようやく1番人気に支持され、1978年の米国三冠競走で全てアファームドの2着に敗れた父アリダー以来となる米国三冠競走全て2着という屈辱に王手が掛かってしまったイージーゴアは、ケンタッキーダービー3着後にプリークネスSを回避してジャージーダービーを勝ってきたオウインスパイアリングとのカップリングでありながら、単勝オッズ2.6倍で生涯唯一の2番人気となった。この3頭以外の出走馬は、ピーターパンSの勝ち馬でウィザーズS2着のインバイブ、前走3着のロックポイント、同5着のホークスター、ケンタッキーダービー9着後に一般競走を勝ってきたトリプルバック、シアトルスルーとニューヨーク牝馬三冠馬ダヴォナデイルの間に産まれた良血馬で、当初は仏国で走っていたが目が出なかったために米国に移籍してこれが初戦だったルヴォワジュール、ケンタッキーダービー7着後にピーターパンSで2着してきたアイリッシュアクター、ウィザーズSの勝ち馬でレムセンS2着・カウディンS3着のファイアメイカーだった。

6万4959人が詰め掛けたレースでは、ルヴォワジュールがまずは先頭に立ち、好スタートを切った本馬が2番手、イージーゴアがその後方3番手を追走した。実況が「とても速い」と言うほどのハイペースでレースは進んでいった。それでも先に仕掛けたのは本馬の方で、三角から四角にかけてルヴォワジュールに並びかけていった。しかしそこで満を持して仕掛けたイージーゴアが四角途中で外側から一気に本馬とルヴォワジュールの2頭を抜き去っていった。そして単騎先頭で直線に入ったイージーゴアが過去2戦の鬱憤を晴らすかのように独走して圧勝。本馬はルヴォワジュールを1馬身抑え込むのが精一杯で、イージーゴアから8馬身差をつけられた2着に敗れ、米国三冠馬誕生は成らなかった。

本馬も凡走したわけではなく、3着ルヴォワジュールと4着オウインスパイアリングとの着差は12馬身もあり(その点ではルヴォワジュールは大健闘と言える)、イージーゴアが強すぎただけだった。ウィッティンガム師も同じ考えだったようで、レースが終わった後に「私達は良いレースをしました。しかしイージーゴアがそれを凌駕しました」と静かに語った。プリークネスSの直後にイージーゴアを過大評価と評していたヴァレンズエラ騎手も「今日のイージーゴアは最高の馬でした」と脱帽せざるを得なかった。それでも米国三冠競走で最高の成績を残したため、本馬陣営には100万ドルのボーナスが支給された。

競走生活(3歳中期)

米国三冠馬の栄誉は逃したが、ケンタッキーダービー・プリークネスS優勝という勲章を抱いて米国西海岸に戻ってきた本馬は、前走から1か月半後のスワップスS(GⅡ・D10F)に出走して、単勝オッズ1.2倍という断然の1番人気に支持された。レースでは後続を一時は4馬身ほど離して快調にゴールを目指していたのだが、ゴール直前で失速したところを、6ポンドのハンデを与えた単勝オッズ6倍の2番人気馬プライズドに出し抜け気味にかわされてしまい、3/4馬身差の2着に敗れた(3着となったカリフォルニアダービー馬エンドウはさらに10馬身後方だった)。プライズドもこの年のBCターフを勝つほどの馬であり、後から見れば決して弱い相手に負けたわけではなかったのだが、この当時は大変な番狂わせと言われた。ベルモントSの時はヴァレンズエラ騎手を一切非難しなかったウィッティンガム師も「今日は少し悪い判断をしました。もう少し仕掛けを待つべきでした。既に後続を引き離していたのに何故さらに差を広げようとしたのでしょうか」と批判めいたコメントを残している。

その後は2か月ほど休養を取り、この年はフロリダ州ガルフストリームパーク競馬場で行われるBCクラシックを目指して9月に東上。フロリダ州に行く途中のルイジアナ州ルイジアナダウンズ競馬場で行われるスーパーダービー(GⅠ・D10F)に出走した。ベルモントS4着後にアメリカンダービーを勝っていたオウインスパイアリング、米国三冠競走には不参戦だったルイジアナダービーの勝ち馬でブルーグラスS・アメリカンダービー2着のディスパーザル、ベルモントS3着後はハスケル招待H・トラヴァーズSでいずれも5着と今ひとつだったルヴォワジュールなどが対戦相手となった。本馬が単勝オッズ1.4倍の1番人気、オウインスパイアリングが単勝オッズ4.5倍の2番人気、ディスパーザルが単勝オッズ9倍の3番人気となった。スタートが切られるとルヴォワジュールが先行して、本馬は馬群の中団5番手、オウインスパイアリングはさらに後方から競馬を進めた。向こう正面で本馬が進出して先行馬群の間をすり抜けて先頭に立った。そして1馬身ほどのリードを保った状態で直線に入った。今回の本馬はスワップスSのように直線でもたつく場面は無く、直線で着実に後続との差を広げ、2位入線(進路妨害により最下位に降着)のビッグアーリーに6馬身差、3位入線(2着に繰り上がり)のオウインスパイアリングにさらに頭差をつけて完勝した。

BCクラシック

そしてその5週間後、BCクラシック(GⅠ・D10F)に登場した。しかしBCクラシックの1週間前に主戦のヴァレンズエラ騎手がコカインを使用した咎で騎乗停止処分を受けており、本馬の鞍上はクリス・マッキャロン騎手に乗り代わっていた。また、スワップスSで本馬を負かしたプライズドがその後のジョッキークラブ金杯において勝ったイージーゴアから20馬身以上も離されて惨敗していた影響もあったのか、単勝オッズ1.5倍の1番人気にはベルモントS・ホイットニーH・トラヴァーズS・ウッドワードS・ジョッキークラブ金杯とGⅠ競走を5連勝中のイージーゴアが支持され、本馬は単勝オッズ3倍の2番人気だった。

他の出走馬は、ケンタッキーダービー15着後はアーリントンクラシックS3着など一息のレースが続いたが前走ペンシルヴァニアダービーを勝ってきたウエスタンプレイボーイ、フロリダダービー・ペガサスH・ドンH・ワイドナーH・エヴァーグレイズS・ホーソーン金杯H2回・パターソンHとGⅠ競走4勝を含むグレード競走8勝を挙げていたクリプトクリアランス、ミシガンマイル&ワンエイスH・ナショナルジョッキークラブH・エクワポイズマイル・カンタベリーカップH・ハロルドCラムザーシニアH・グッドウッドHとこの年だけでグレード競走6勝を挙げていたプレゼントバリュー、仏2000ギニー・ハリウッド金杯・ピムリコスペシャルH・レイザーバックH・ワシントンパークHなどを勝っていたブラッシングジョン、パンアメリカンH・メドウランズCH・ロングブランチS・ランプライターH・ドミニオンデイHの勝ち馬ミセレクト、ガルフストリームパークH・オークローンH・サルヴェイターマイルHの勝ち馬スルーシティースルーだった。古馬勢で実績最上位のクリプトクリアランスはイージーゴアとの2度の対戦でまるで敵わなかったため、レースはイージーゴアと本馬の2強ムード(3番人気のウエスタンプレイボーイでも単勝オッズ17.9倍)であり、「10年に1度の大一番」「勝ったほうがエクリプス賞年度代表馬確実」という状況だった。

5万1342人の観衆が見守る中でスタートが切られると、スルーシティースルーが先頭に立ち、本馬は慎重に中団好位の4番手を追走した。一方のイージーゴアはスタートダッシュが悪く、本馬から離された6番手を追走した。三角手前でイージーゴアが仕掛けて外側から本馬に並びかけようとした。しかしここで本馬も仕掛けて加速し、イージーゴアに並ばせようとはしなかった。2番手追走からスルーシティースルーをかわしたブラッシングジョンが先頭で直線に入り、その直後に本馬、少し離れた3番手でイージーゴアという態勢で直線を向いた。本馬はすぐにブラッシングジョンに並びかけて得意の叩き合いに持ち込み、2頭揃ってイージーゴアを引き離しにかかった。残り半ハロン地点で本馬がブラッシングジョンを競り落としたところに、ようやくエンジン全開となったイージーゴアが猛然と迫ってきた。しかし最後は本馬がイージーゴアの追撃を首差凌いで、2分00秒2のコースレコードで優勝。イージーゴアとの対戦成績を3勝1敗とした。イージーゴアから1馬身差の3着にブラッシングジョンが入り、4着プレゼントバリューはさらに10馬身近くも後方だった。

BCクラシックが終わってしばらく経った頃、本馬の膝に剥離骨折が発見され、11月に骨片除去手術が行われたため、しばらくは休養することになった。この年9戦7勝2着2回の成績を残した本馬は、エクリプス賞年度代表馬及び最優秀3歳牡馬に選出された。年度代表馬の選考では、1981年のジョンヘンリー以来の圧倒的な得票数となる242票中223票を獲得し、14票のバヤコア、4票のイージーゴア、1票のセイフリーケプトに大差をつけての受賞だった。なお、ウィッティンガム師も240票中179票を集めてエクリプス賞最優秀調教師に選ばれているが、ヴァレンズエラ騎手はコカイン使用が嫌われたのかエクリプス賞最優秀騎手の投票において1票も入らなかった(ケント・デザーモ騎手が受賞)。また、この年の本馬の獲得賞金総額457万8454ドルは、1頭の競走馬が1シーズンで稼いだ賞金の北米記録だった。

競走生活(4歳時)

本馬が4歳になった頃、日本の馬産団体社台グループの代表者吉田善哉氏が、本馬の権利の25%を250万ドルで購入している。米国ケンタッキー州に牧場を開設した際にハンコックⅢ世氏と親交を深めていた吉田氏は、本馬のレースぶりを映像で見て惚れ込み、いずれは日本で種牡馬入りさせたいと考えたのだという。

本馬とイージーゴアの両馬は揃って4歳時も現役を続行した。2頭の5度目の対戦を誘致しようとした米国各地の競馬場は、多額の賞金を出して招致合戦を展開した。しかし本馬は前年末に受けた手術からの回復が長引き、ようやく実戦に復帰したのは6月のカリフォルニアンS(GⅠ・D9F)だった。本馬との対戦を避ける他馬陣営が多く、対戦相手は、智2000ギニー・エルエンサーヨ賞とチリのGⅠ競走を2勝した後に米国に移籍して前走マーヴィンルロイHで2着してきたシャーラタン、サンヴィンセントSの勝ち馬でサンタアニタH3着のスタイリッシュウイナーの2頭だけだった。126ポンドの本馬が単勝オッズ1.1倍の1番人気、110ポンドのシャーラタンが単勝オッズ5.2倍の2番人気、115ポンドのスタイリッシュウイナーが単勝オッズ6.8倍の3番人気となった。本馬の鞍上には、騎乗停止処分が解けたヴァレンズエラ騎手の姿があった。レースはスタートしてしばらく走ったところから、本馬とスタイリッシュウイナーの2頭がシャーラタンを置き去りにして先頭争いを開始した。しかし概ね本馬がスタイリッシュウイナーを1馬身ほどリードした状態でレースが進んだ。そのままの態勢で直線に入ると、逃げ込みを図る本馬を、11ポンドの斤量差を活かしたスタイリッシュウイナーが追い詰めてきたが、本馬が凌いで3/4馬身差で勝利した。

次走は3週間後のハリウッド金杯(GⅠ・D10F)となった。サンタアニタH・マーヴィンルロイH・ジャマイカH・サンバーナーディノH2回などの勝ち馬ルールマン、メトロポリタンH・ピムリコスペシャルH・サンパスカルH・サンアントニオHの勝ち馬クリミナルタイプ、元々は欧州で走ってエクリプスSで名馬ナシュワンの2着などの実績を挙げた後に米国に移籍してオークローンH・レイザーバックHを勝っていた後のBCマイル馬オープニングヴァーズ、スタイリッシュウイナー、前年のBCクラシックでは8着だったが3月のガルフストリームパークHでGⅠ競走3勝目を挙げていたミセレクトなどが対戦相手だった。126ポンドの本馬と124ポンドのルールマンが並んで単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持され、前走メトロポリタンHでイージーゴアを3着に破ってきた121ポンドのクリミナルタイプが単勝オッズ3.4倍の3番人気となった。レースはクリミナルタイプが先行して、本馬がそれを追いかける展開となった。直線に入ると本馬が猛然とクリミナルタイプを追い詰めたが、驚異的な粘りを見せたクリミナルタイプに頭差届かずに2着に敗れた。

その後は短い休養を経て、8月のアーリントンチャレンジCでイージーゴアとの5度目の対戦に臨むためにアーリントンパーク競馬場に移動した。しかしそこでの調教中に、ウィッティンガム師は本馬の左前脚が熱を持っているのに気付いた。レントゲン検査の結果、左前脚の靭帯損傷が判明。8月初めに競走馬引退が発表された。この2週間ほど前にはイージーゴアも右前脚剥離骨折のためにアーリントンチャレンジCに出ることなく引退しており、2頭の直接対決第5戦を見ることは出来なかった。2頭が不参戦となったアーリントンチャレンジCは、賞金が当初の予定100万ドルから25万ドル以下まで下落して、結果としてステインレンなど他の有力馬も回避する結果を招いた。

血統

Halo Hail to Reason Turn-to Royal Charger Nearco
Sun Princess
Source Sucree Admiral Drake
Lavendula 
Nothirdchance Blue Swords Blue Larkspur
Flaming Swords 
Galla Colors Sir Gallahad
Rouge et Noir
Cosmah Cosmic Bomb Pharamond Phalaris
Selene
Banish Fear Blue Larkspur
Herodiade
Almahmoud Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Arbitrator Peace Chance
Mother Goose 
Wishing Well Understanding Promised Land Palestinian Sun Again
Dolly Whisk
Mahmoudess Mahmoud
Forever Yours
Pretty Ways Stymie Equestrian
Stop Watch
Pretty Jo Bull Lea
Fib
Mountain Flower Montparnasse Gulf Stream Hyperion
Tide-Way
Mignon Fox Cub
Mi Condesa
Edelweiss Hillary Khaled
Snow Bunny
Dowager Free France
Marcellina

ヘイローは当馬の項を参照。肉食獣に例えられたほどの気性が激しい馬で、“黒い野獣”の異名を頂戴した本馬の激烈な気性は父譲りとも言える。しかしヘイローは競走馬時代に厩務員から虐待を受けたために気性難になったと言われており、幼少期に色々と酷い目に遭った本馬と同様、その気性難が生まれつきのものだったのかどうかは定かではない。

ウィッシングウェルと母父アンダースタンディングは、ウィッシングウェルの項を参照。→牝系:F3号族③

ウィッシングウェルの母、祖母、曾祖母、4代母は全て未勝利馬又は不出走馬であり、近親にも活躍馬は見当たらない。ウィッシングウェルの5代母ベルメアはモールコームSの勝ち馬で、さらにその曾祖母ラフレッチェは英1000ギニー・英オークス・英セントレジャー・アスコット金杯・英チャンピオンSなどを制した歴史的名牝なのだが、これだけ遡らないと名馬の名前が出てこないというのは、牝系としては非常に貧弱である。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はハンコックⅢ世氏所有のもと、1000万ドルの種牡馬シンジケートが組まれてストーンファームで種牡馬入りする予定だった。本馬の競走馬引退が決定した際にハンコックⅢ世氏は「これは素晴らしく神聖な競走経歴の終了ですが、同時に新しい出来事の始まりでもあります。彼は素晴らしい競走馬でしたが、素晴らしい種牡馬にもなるでしょう」とニューヨークタイムズ誌のインタビューに応じて語っている。ハンコックⅢ世氏のこの言葉は、本馬のその後を見事に言い当てたものだったが、米国の馬産家達は誰もハンコックⅢ世氏の言葉を信じようとしなかった。好敵手イージーゴアがその良血や見栄えの良さから種牡馬として大人気だったのとは対照的に、血統的魅力が無い上に馬体もあまり優れていなかった本馬は、ほぼ全ての米国の馬産家達から無視され、本馬の種牡馬シンジケート株を買おうする人は殆ど現れなかったのである。

既に本馬の権利の25%を250万ドルで購入していた社台グループの吉田善哉氏は、ハンコックⅢ世氏に対して、さらに750万ドル(先の250万ドル及びウィッティンガム師に対する金銭補償100万ドルと合わせて1100万ドル。当時の為替レートで約16億5千万円)で本馬の権利を全て売ってくれるように持ちかけた。ちょうどストーンファームを拡張するために借金を抱えていたハンコックⅢ世氏が首を縦に振ったため、本馬は当時史上最高額となる25億円の種牡馬シンジケートが組まれて、社台スタリオンステーションで種牡馬入りする事になった。

初年度の種付け料は1100万円とかなりの高額だった。そのために当初期待されていたほど繁殖牝馬が集まらず、社台グループは威信を掛けて自身が所有する最高級の繁殖牝馬を本馬に集め、ひとまず初年度は77頭の牝馬と交配した。2年目は84頭と交配。3年目は種付け料を800万円に値下げした影響もあって99頭を集め、4年目となる1994年には118頭を集めたが、質的にはやや中弛み的な雰囲気があった。

日本競馬史上最高の種牡馬

しかしこの1994年に産駒がデビューした本馬の種牡馬成績は、もはや伝説の領域に入っていると言えるほどの凄まじさだった(海外の資料でも「伝説」と表現されている)。本馬産駒として最初に競馬場に姿を現したキタサンサイレンスが6月18日の新馬戦を制して最初の勝ち上がり馬になった。7月31日にはプライムステージが札幌三歳Sを制して最初の重賞制覇を達成。12月11日にはフジキセキが朝日杯三歳Sを制して最初のGⅠ競走勝ち馬となり、1994年の新種牡馬ランキングで1位になった。初年度産駒の活躍を受けて、本馬の種牡馬人気は急上昇し、種牡馬入り5年目の1995年には質量共に過去最高となる142頭の繁殖牝馬を集めた。この年の皐月賞は、三冠馬確実とも言われたフジキセキが故障で直前に引退したにも関わらず、本馬産駒のジェニュインとタヤスツヨシのワンツーフィニッシュだった。その後、優駿牝馬を本馬産駒のダンスパートナーが、東京優駿をタヤスツヨシが制した頃には、もはや本馬無しで日本の競馬を語る事は出来ないほどになっていた。

この後の本馬産駒の活躍ぶりについては、ここで詳しく語る必要は無いであろう。この1995年に僅か2世代の産駒だけで全日本首位種牡馬及び中央競馬首位種牡馬を獲得(いずれも史上初の快挙)すると、その後も毎年のように全日本首位種牡馬及び中央競馬首位種牡馬を獲得し続け、2007年まで13年連続で全日本首位種牡馬及び中央競馬首位種牡馬に輝いた。

産駒の活躍に伴い、種付け料はどんどん高騰し、1999年には2500万円、2002年には3000万円に達した。それでも所有する繁殖牝馬と本馬を交配させたいと希望する生産者は毎年殺到した。6年目は183頭、7年目は171頭、8年目は185頭、9年目は199頭、10年目は197頭、11年目の2001年には223頭もの繁殖牝馬を集めた。日本における本馬の大成功は海外でも大きく取り扱われ、「日本のノーザンダンサー」と呼ばれたそうである。なお、本馬を種牡馬として評価しなかった米国の馬産家達の反応に関しては何も伝わってこない。

1996年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第31位(好敵手イージーゴアは第34位)。

本馬の気性の激しさは種牡馬入りした後も変わる事は無く、社台スタリオンステーションのボスと呼ばれていた。他の馬達は本馬を恐れて近づこうとしなかったらしいが、メジロマックイーンが近くにいるときだけは大人しくなることが多かったため、本馬とメジロマックイーンの放牧地は隣同士にされていたことはよく知られている。

2002年5月の初め頃、本馬は馬房内で右前脚を壁にぶつけて跛行を発症し、この年の種付けを中止(同年は159頭と交配していた)して休養に入った。その後、本馬の右前脚に細菌が感染してフレグモーネ(進展性の化膿性炎症)を発症していることが判明した。しかも抗生物質が効きにくい深屈腱の感染性腱鞘炎だった。英国からフレグモーネの専門医を招いて3度に渡る切開手術を行った結果、右前脚の症状は改善された。しかし今度は右前脚を庇ったことにより8月初め頃に左前脚の蹄葉炎を発症してしまった。24時間体制で懸命の看護が行われたが、状態は悪化する一方だった。社台グループの関係者達は本馬を安楽死させるべきかどうか何日も議論したが、過去に何度も死の淵から蘇ってきた本馬の生命力に期待したいとする意見もあって、結論は出なかった。結局本馬は安楽死の措置が執られることは無く、鎮痛剤の投与を受けながら最後まで病気と闘い続け、8月19日午前11時に衰弱性心不全により他界した。享年16歳、まだ決して長寿とは言えない年齢だった。

日本中央競馬会の高橋政行理事長は「私達に非常に多くの素晴らしい競走馬を与えてくれ、我が国だけでなく世界の至る所で知られているサンデーサイレンスの訃報に接して非常に悲しく思います。私は競馬及び馬産における彼の子孫達が成功する事を祈ります」と一種牡馬の死としては異例の公式声明を出した。本馬の主戦を務めたヴァレンズエラ騎手は本馬の訃報を聞いて「彼は常に戦士でした」と語った。本馬の遺体は社台スタリオンステーションを見下ろす丘の頂上に埋葬され、現在も子孫達の活躍を見守っている。

産駒の特徴

本馬は日本において12世代の産駒を出したが、その全てからGⅠ競走勝ち馬が登場している。中央・地方・海外を合わせたGⅠ競走勝ち馬数は42頭、中央・地方・海外を合わせたGⅠ競走勝ち数は78勝、中央競馬の重賞勝ち馬(地方交流重賞を含む)は141頭、中央競馬の重賞勝利数(地方交流重賞を含む)は320勝、産駒の中央競馬勝利数は2749勝(地方競馬も含めると3700勝以上に達し、これは世界記録である。2015年現在も更新中)、産駒の獲得賞金総額は中央・地方合わせて815億9282万3千円となっており、どれもこれも史上最多記録である。中央競馬の平地GⅠ競走のうち、本馬産駒が勝たなかったのはNHKマイルCとジャパンCダートの2戦のみである。

本馬の産駒はスピード・闘争心・精神力・瞬発力などに優れ、仕上がりも早く、短距離馬から長距離馬まで幅広い距離適性を誇った。ただし、父同様に気性が荒い産駒が多く、また、類稀なスピード能力が逆に仇となって脚部不安に悩まされる産駒も少なくなかった。産駒の多くは中央競馬で走ったこともあり、地方競馬における成績は中央競馬に比べると明らかに低く、地方競馬の種牡馬ランキングはゴールドアリュールが地方交流GⅠ競走を3勝した2002年の6位が最高で、10位以内に入ったのはこの年しかない。中央競馬で13回も首位種牡馬を獲得したにも関わらず、中央競馬のダート競走限定ランキングでは1回も1位になった事が無い(2004年の2位が最高)など、産駒は明らかに芝向きであり、ダートで活躍した馬は比較的少数派である。

後世に与えた影響

現在は母父としての活躍が顕著で、2007年(中央競馬のみの集計では2006年)以降、毎年のように母父首位種牡馬となっている。同時に、本馬を父に持つ牡駒が後継種牡馬として成功する例も増え、2008年に本馬から全日本首位種牡馬を奪取したのは息子のアグネスタキオンで、翌年の全日本首位種牡馬も息子のマンハッタンカフェであった。他にも、フジキセキ、ダンスインザダーク、ステイゴールド、スペシャルウィーク、ネオユニヴァース、ディープインパクト、ハーツクライなど多くの後継種牡馬が活躍しており、現在日本の競馬界では本馬の血を持たない馬の方が少数派であり、寝ても覚めても活躍するのは本馬の血を引く馬ばかりとなっている。サンデーサイレンスは、まさに日本競馬史上最も偉大なる種牡馬であった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1992

キングオブダイヤ

中山記念(GⅡ)

1992

サイレントハピネス

オークストライアル四歳牝馬特別(GⅡ)・ローズS(GⅡ)

1992

サマーサスピション

青葉賞(GⅢ)

1992

サンデーウェル

セントライト記念(GⅡ)

1992

ジェニュイン

皐月賞(GⅠ)・マイルCS(GⅠ)

1992

タヤスツヨシ

東京優駿(GⅠ)・ラジオたんぱ杯三歳S(GⅢ)

1992

ダンスパートナー

優駿牝馬(GⅠ)・エリザベス女王杯(GⅠ)・京阪杯(GⅢ)

1992

フジキセキ

朝日杯三歳S(GⅠ)・弥生賞(GⅡ)

1992

ブライトサンディー

サファイアS(GⅢ)・函館記念(GⅢ)

1992

プライムステージ

札幌三歳S(GⅢ)・フェアリーS(GⅢ)

1992

マーベラスサンデー

宝塚記念(GⅠ)・京都大賞典(GⅡ)・大阪杯(GⅡ)・エプソムC(GⅢ)・札幌記念(GⅢ)・朝日チャレンジC(GⅢ)

1992

マジックキス

北九州記念(GⅢ)

1993

アグネスカミカゼ

目黒記念(GⅡ)

1993

イシノサンデー

皐月賞(GⅠ)・ダービーグランプリ(盛岡)・京都金杯(GⅢ)

1993

サイレントハンター

大阪杯(GⅡ)・新潟大賞典(GⅢ)2回・中山金杯(GⅢ)

1993

ダンスインザダーク

菊花賞(GⅠ)・弥生賞(GⅡ)・京都新聞杯(GⅡ)

1993

チアズサイレンス

名古屋優駿(名古屋)

1993

バブルガムフェロー

朝日杯三歳S(GⅠ)・天皇賞秋(GⅠ)・スプリングS(GⅡ)・鳴尾記念(GⅡ)・毎日王冠(GⅡ)

1993

ロイヤルタッチ

ラジオたんぱ杯三歳S(GⅢ)・きさらぎ賞(GⅢ)

1993

ローゼンカバリー

セントライト記念(GⅡ)・アメリカジョッキークラブC(GⅡ)・日経賞(GⅡ)・目黒記念(GⅡ)

1994

エアウイングス

阪神牝馬特別(GⅡ)

1994

オレンジピール

オークストライアル四歳牝馬特別(GⅡ)・クイーンC(GⅢ)・チューリップ賞(GⅢ)

1994

サイレンススズカ

宝塚記念(GⅠ)・毎日王冠(GⅡ)・金鯱賞(GⅡ)・中山記念(GⅡ)・小倉大賞典(GⅢ)

1994

ステイゴールド

香港ヴァーズ(香GⅠ)・ドバイシーマクラシック(首GⅡ)・目黒記念(GⅡ)・日経新春杯(GⅡ)

1994

ビッグサンデー

スプリングS(GⅡ)・マイラーズC(GⅡ)・東京新聞杯(GⅢ)

1995

エガオヲミセテ

阪神牝馬特別(GⅡ)・マイラーズC(GⅡ)

1995

サンデーセイラ

七夕賞(GⅢ)

1995

サンプレイス

新潟記念(GⅢ)

1995

ジュビレーション

JTB賞(金沢)

1995

ジョービッグバン

函館記念(GⅢ)・中山金杯(GⅢ)・小倉大賞典(GⅢ)

1995

スペシャルウィーク

東京優駿(GⅠ)・天皇賞春(GⅠ)・天皇賞秋(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)・弥生賞(GⅡ)・京都新聞杯(GⅡ)・アメリカジョッキークラブC(GⅡ)・阪神大賞典(GⅡ)・きさらぎ賞(GⅢ)

1995

タヤスアゲイン

青葉賞(GⅢ)

1995

タヤスメドウ

新潟大賞典(GⅢ)

1995

マルカコマチ

京都牝馬特別(GⅢ)

1995

メイショウオウドウ

大阪杯(GⅡ)・鳴尾記念(GⅢ)

1996

アドマイヤベガ

東京優駿(GⅠ)・京都新聞杯(GⅡ)・ラジオたんぱ杯三歳S(GⅢ)

1996

エイシンルーデンス

チューリップ賞(GⅢ)・中山牝馬S(GⅢ)

1996

キングオブサンデー

北海道三歳優駿(GⅢ)

1996

クリアーベース

九州王冠(KG3)

1996

サイキョウサンデー

中日スポーツ賞四歳S(GⅢ)

1996

サンデーピクニック

クレオパトル賞(仏GⅢ)

1996

スティンガー

阪神三歳牝馬S(GⅠ)・オークストライアル四歳牝馬特別(GⅡ)・京王杯スプリングC(GⅡ)2回・京都牝馬特別(GⅢ)

1996

テイエムサンデー

シルクロードS(GⅢ)

1996

トゥザヴィクトリー

エリザベス女王杯(GⅠ)・阪神牝馬特別(GⅡ)・クイーンS(GⅢ)・府中牝馬S(GⅢ)

1996

フサイチエアデール

桜花賞トライアル四歳牝馬特別(GⅡ)・シンザン記念(GⅢ)・ダービー卿チャレンジトロフィー(GⅢ)・マーメイドS(GⅢ)

1996

ブラックタキシード

セントライト記念(GⅡ)

1996

ペインテドブラック

ステイヤーズS(GⅡ)・青葉賞(GⅢ)

1996

マルカキャンディ

府中牝馬S(GⅢ)

1996

ロサード

オールカマー(GⅡ)・新潟三歳S(GⅢ)・京阪杯(GⅢ)・小倉記念(GⅢ)2回

1997

アグネスフライト

東京優駿(GⅠ)・京都新聞杯(GⅡ)

1997

アドマイヤボス

セントライト記念(GⅡ)

1997

ウインマーベラス

京都ハイジャンプ(JGⅡ)・京都ジャンプS(JGⅢ)・小倉サマージャンプ(JGⅢ)・阪神ジャンプS(JGⅢ)

1997

エアシャカール

皐月賞(GⅠ)・菊花賞(GⅠ)

1997

チアズグレイス

桜花賞(GⅠ)

1997

トウカイオーザ

アルゼンチン共和国杯(GⅡ)

1997

バンドオンザラン

東海金杯(SPⅠ)

1997

フサイチゼノン

弥生賞(GⅡ)

1997

フサイチランハート

アメリカジョッキークラブC(GⅡ)

1997

フューチャサンデー

クイーンC(GⅢ)

1997

マニックサンデー

オークストライアル四歳牝馬特別(GⅡ)

1997

メイショウドメニカ

福島記念(GⅢ)

1997

ヤマニンリスペクト

函館記念(GⅢ)

1997

ユキノサンロイヤル

日経賞(GⅡ)

1998

アグネスゴールド

スプリングS(GⅡ)・きさらぎ賞(GⅢ)

1998

アグネスタキオン

皐月賞(GⅠ)・弥生賞(GⅡ)・ラジオたんぱ杯三歳S(GⅢ)

1998

インターレジェンダ

九州記念(KG3)

1998

ウインラディウス

京王杯スプリングC(GⅡ)・東京新聞杯(GⅢ)・富士S(GⅢ)

1998

サンライズペガサス

大阪杯(GⅡ)2回・毎日王冠(GⅡ)

1998

タイムトゥチェンジ

マーチC(SPⅡ)

1998

ダイヤモンドビコー

ローズS(GⅡ)・阪神牝馬S(GⅡ)・中山牝馬S(GⅢ)・府中牝馬S(GⅢ)

1998

ダイワルージュ

新潟三歳S(GⅢ)

1998

タガノテイオー

東京スポーツ杯三歳S(GⅢ)

1998

ダンツプライズ

中島記念(KG1)

1998

チアズブライトリー

京阪杯(GⅢ)・七夕賞(GⅢ)

1998

トラストファイヤー

ラジオたんぱ賞(GⅢ)

1998

ハッピーパス

京都牝馬S(GⅢ)

1998

ビリーヴ

スプリンターズS(GⅠ)・高松宮記念(GⅠ)・セントウルS(GⅢ)・函館スプリントS(GⅢ)

1998

ボーンキング

京成杯(GⅢ)

1998

マンハッタンカフェ

菊花賞(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)・天皇賞春(GⅠ)

1998

ミレニアムバイオ

マイラーズC(GⅡ)・北九州記念(GⅢ)・富士S(GⅢ)

1998

メジロベイリー

朝日杯三歳S(GⅠ)

1998

ローズバド

フィリーズレビュー(GⅡ)・マーメイドS(GⅢ)

1999

Silent Honor

チェリーヒントンS(英GⅡ)

1999

Sunday Joy

AJCオークス(豪GⅠ)・WHストックスS(豪GⅢ)

1999

アドマイヤマックス

高松宮記念(GⅠ)・東京スポーツ杯2歳S(GⅢ)・富士S(GⅢ)

1999

オースミシュネル

ステイヤーズC(H1)2回

1999

ゴールドアリュール

ジャパンダートダービー(GⅠ)・ダービーグランプリ(GⅠ)・東京大賞典(GⅠ)・フェブラリーS(GⅠ)・アンタレスS(GⅢ)

1999

サクセスビューティ

フィリーズレビュー(GⅡ)

1999

シャイニンルビー

クイーンC(GⅢ)

1999

ダイワレイダース

七夕賞(GⅢ)

1999

チアズシュタルク

共同通信杯(GⅢ)・毎日杯(GⅢ)

1999

デュランダル

スプリンターズS(GⅠ)・マイルCS(GⅠ)2回

1999

ビーポジティブ

クイーン賞(GⅢ)

1999

ヤマニンセラフィム

京成杯(GⅢ)

1999

リミットレスビッド

東京盃(GⅡ)2回・ガーネットS(GⅢ)・根岸S(GⅢ)・兵庫ゴールドトロフィー(GⅢ)2回・黒船賞(GⅢ)・さきたま杯(GⅢ)

2000

アドマイヤグルーヴ

エリザベス女王杯(GⅠ)2回・ローズS(GⅡ)・阪神牝馬S(GⅡ)・マーメイドS(GⅢ)

2000

ヴィータローザ

セントライト記念(GⅡ)・ラジオたんぱ賞(GⅢ)・中山金杯(GⅢ)

2000

オレハマッテルゼ

高松宮記念(GⅠ)・京王杯スプリングC(GⅡ)

2000

クワイエットデイ

マーチS(GⅢ)・平安S(GⅢ)

2000

サイレントディール

シンザン記念(GⅢ)・武蔵野S(GⅢ)・佐賀記念(GⅢ)

2000

サクラプレジデント

札幌記念(GⅡ)・中山記念(GⅡ)・札幌2歳S(GⅢ)

2000

スズカドリーム

京成杯(GⅢ)

2000

スティルインラブ

桜花賞(GⅠ)・優駿牝馬(GⅠ)・秋華賞(GⅠ)

2000

ゼンノロブロイ

天皇賞秋(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)・青葉賞(GⅡ)・神戸新聞杯(GⅡ)

2000

チアズメッセージ

京都牝馬S(GⅢ)

2000

チアフルスマイル

キーンランドC(GⅢ)

2000

チューニー

クイーンC(GⅢ)

2000

ネオユニヴァース

皐月賞(GⅠ)・東京優駿(GⅠ)・スプリングS(GⅡ)・大阪杯(GⅡ)・きさらぎ賞(GⅢ)

2000

ピースオブワールド

阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)・ファンタジーS(GⅢ)

2000

ヘヴンリーロマンス

天皇賞秋(GⅠ)・阪神牝馬S(GⅡ)・札幌記念(GⅡ)

2000

リンカーン

阪神大賞典(GⅡ)・京都大賞典(GⅡ)・日経賞(GⅡ)

2001

Sundrop

プリンセスエリザベスS(英GⅢ)・カーディナルH(米GⅢ)

2001

アズマサンダース

京都牝馬S(GⅢ)

2001

アドマイヤビッグ

東京スポーツ杯2歳S(GⅢ)

2001

エアシェイディ

アメリカジョッキークラブC(GⅡ)

2001

キョウワロアリング

北九州記念(GⅢ)

2001

グレイトジャーニー

シンザン記念(GⅢ)・ダービー卿チャレンジトロフィー(GⅢ)

2001

スウィフトカレント

小倉記念(GⅢ)

2001

スズカマンボ

天皇賞春(GⅠ)・朝日チャレンジC(GⅢ)

2001

ダイワエルシエーロ

優駿牝馬(GⅠ)・クイーンC(GⅢ)・京阪杯(GⅢ)・マーメイドS(GⅢ)

2001

ダイワメジャー

皐月賞(GⅠ)・天皇賞秋(GⅠ)・マイルCS(GⅠ)2回・安田記念(GⅠ)・マイラーズC(GⅡ)・毎日王冠(GⅡ)・ダービー卿チャレンジトロフィー(GⅢ)

2001

ダンスインザムード

桜花賞(GⅠ)・ヴィクトリアマイル(GⅠ)・フラワーC(GⅢ)・キャッシュコールマイル招待S(米GⅢ)

2001

ハーツクライ

有馬記念(GⅠ)・ドバイシーマクラシック(首GⅠ)・京都新聞杯(GⅡ)

2001

ハイアーゲーム

青葉賞(GⅡ)・鳴尾記念(GⅢ)

2001

ハットトリック

マイルCS(GⅠ)・香港マイル(香GⅠ)・京都金杯(GⅢ)・東京新聞杯(GⅢ)

2001

フィーユドゥレーヴ

函館2歳S(GⅢ)

2001

ブラックタイド

スプリングS(GⅡ)

2001

ムーヴオブサンデー

フィリーズレビュー(GⅡ)

2001

レクレドール

ローズS(GⅡ)・クイーンS(GⅢ)

2002

Layman

カブール賞(仏GⅢ)・ソヴリンS(英GⅢ)

2002

Silent Name

アーケイディアH(米GⅡ)・コモンウェルスBCS(米GⅡ)

2002

アドマイヤジャパン

京成杯(GⅢ)

2002

エアメサイア

秋華賞(GⅠ)・ローズS(GⅡ)

2002

キングストレイル

セントライト記念(GⅡ)・京成杯オータムH(GⅢ)

2002

シックスセンス

京都記念(GⅡ)

2002

ショウナンパントル

阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)

2002

スズカフェニックス

高松宮記念(GⅠ)・阪神C(GⅡ)・東京新聞杯(GⅢ)

2002

ダンツキッチョウ

青葉賞(GⅡ)

2002

デアリングハート

クイーンS(GⅢ)・府中牝馬S(GⅢ)2回

2002

ディアデラノビア

フローラS(GⅡ)・京都牝馬S(GⅢ)・愛知杯(GⅢ)

2002

ディープインパクト

皐月賞(GⅠ)・東京優駿(GⅠ)・菊花賞(GⅠ)・天皇賞春(GⅠ)・宝塚記念(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)・弥生賞(GⅡ)・神戸新聞杯(GⅡ)・阪神大賞典(GⅡ)

2002

トウカイワイルド

日経新春杯(GⅡ)

2002

ペールギュント

デイリー杯2歳S(GⅡ)・シンザン記念(GⅢ)

2002

マチカネオーラ

中京記念(GⅢ)

2002

モエレフェニックス

九州王冠(KJ3)

2002

ローゼンクロイツ

金鯱賞(GⅡ)・毎日杯(GⅢ)・中京記念(GⅢ)

2002

ロフティーエイム

福島牝馬S(GⅢ)

2003

アクシオン

鳴尾記念(GⅢ)・中山金杯(GⅢ)

2003

アドマイヤキッス

ローズS(GⅡ)・チューリップ賞(GⅢ)・愛知杯(GⅢ)・京都牝馬S(GⅢ)

2003

アドマイヤメイン

青葉賞(GⅡ)・毎日杯(GⅢ)

2003

トーセンシャナオー

セントライト記念(GⅡ)

2003

フサイチパンドラ

エリザベス女王杯(GⅠ)・札幌記念(GⅡ)

2003

マツリダゴッホ

有馬記念(GⅠ)・アメリカジョッキークラブC(GⅡ)・オールカマー(GⅡ)3回・日経賞(GⅡ)

2003

マルカシェンク

デイリー杯2歳S(GⅡ)・関屋記念(GⅢ)

2003

モエレソーブラッズ

兵庫ジュニアグランプリ(GⅢ)

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