ラフレッチェ
和名:ラフレッチェ |
英名:La Fleche |
1889年生 |
牝 |
黒鹿 |
父:セントサイモン |
母:クァイヴァー |
母父:タクサファライト |
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英国牝馬三冠に加えてアスコット金杯・英チャンピオンSを制覇するなど超一流の競走成績を残した19世紀末英国競馬の誇る女傑中の女傑 |
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競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績24戦16勝2着3回3着2回 |
史上4頭目の英国牝馬三冠馬であるだけでなく、身重の状態でアスコット金杯や英チャンピオンSを勝ったというとんでもない馬であり、19世紀英国競馬における最強牝馬筆頭候補である。英ダービーは惜しくも2着だったが、1986年のダンシングブレーヴと同様に、あまりにも後方からレースを進めた騎手に敗北の全責任があると言われている。現役当時を通じて大衆から親しまれ、アイドル以外の何者でもないと言われた人気馬でもあった。繁殖牝馬としての成績は競走成績と比べると振るわなかったが、それでも後世に大きな影響を残している。
誕生からデビュー前まで
本馬が誕生したのは英国王室が所有するハンプトンコートスタッドであり、当時の英国ヴィクトリア女王の生産馬という事になる。成長すると体高は16ハンドに達したその馬体は、非常に均整が取れた美しいものだった。1歳6月にブシェイパドックで実施されたセリに出品された。この時点において、父セントサイモンはまだ英首位種牡馬を獲得した事が無い実力未知数の種牡馬だった(セントサイモンが初の英首位種牡馬を獲得するのはこの年)が、本馬の全姉メモワールがセリ直前の英オークスを勝っていた(後に英セントレジャーも勝利)。それに本馬の見栄えがする馬体も加わり、多くのセリ参加者から注目された。
父セントサイモンの所有者だった第6代ポートランド公爵ウィリアム・キャベンディッシュ・ベンティンク卿、ベンドアやオーモンドの所有者だった初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿の代理人ジョン・ポーター調教師、モーリス・ド・ハーシュ卿の競馬マネージャーだったマルコス・ベレスフォード卿などが競り合った結果、本馬は1歳馬の世界最高取引価格を14年ぶりに更新する5500ギニーという高値でベレスフォード卿により落札され、ハーシュ卿の所有馬となった。
1831年にミュンヘンで生まれたハーシュ卿はユダヤ系の銀行家一族の出身であり、銀行業のみならず鉄道業まで進出して成功し、当時の欧州で5本の指に入ると言われたほど莫大な財産を築いた。彼は自分の同族であるユダヤ人が迫害されることに心を痛めており、ユダヤ人の定住促進や地位向上及び教育のために莫大な資金を投じた。本馬が稼ぎ出した賞金に関しても、その全額がユダヤ人支援団体に寄付されていたという。ハーシュ卿は本馬を、本馬のセリに参加していたポーター師に預けた。本馬は馬体が良いだけでなく気性も優れており、気性が悪い馬が多いセントサイモン産駒の中では例外的な存在だった。
競走生活(2歳時)
2歳7月にニューマーケット競馬場で行われたチェスターフィールドS(T5F)で、主戦となるジョージ・バレット騎手を鞍上にデビューした。この時期における本馬の馬体には美しさだけでなく力強さが加わっており、単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。スタートしてすぐに先頭に立った本馬は、道中で何の努力もする事なく、2着レディハーミット(後のコロネーションSの勝ち馬)に2馬身差をつけて楽勝した。このレースには後の英2000ギニー馬ボナヴィスタ(大種牡馬サイリーンの父)も出走していたが3着に終わっている。
デビュー戦の13日後には、グッドウッド競馬場でラヴァントS(T5F)に出走。このレースには、本馬には及ばないにしても4000ギニーという高値で取引されて注目を集めていたプリーステスという牝馬も出走していた。プリーステスはこの年の英1000ギニー・英オークスを勝利したミミの半妹でもあり、メモワールの妹である本馬と立ち位置が近かった。レースはプリーステスがかなり速いペースで先頭を飛ばし、本馬がそれを積極的に追いかける展開となった。プリーステスの逃げ脚はゴール前になってもあまり衰えなかったが、それを上回る脚を繰り出した本馬が、プリーステスを計ったように差し切って1馬身差で勝利した。この2日後には同コースで行われたモールコームS(T5F)に出走すると、2着アドレーションに1馬身半差で楽勝した。
9月にはドンカスター競馬場で英シャンペンS(T5F)に出走。ここには、ロウス記念S・トリエニアルSを勝ってきた牡馬サーヒューゴの姿があったが、本馬が2着ゴスーンに1馬身半差で勝利を収め、サーヒューゴは3着だった。
2歳時の成績は4戦全勝で、ミドルパークプレート・デューハーストプレート・リッチモンドSに勝つなど6戦5勝だった同世代同厩の牡馬オーム(ただし馬主は異なり、オームはグローヴナー卿の所有馬だった)とどちらが強いかが各方面で議論され、この時点から既に本馬は英ダービーに向かうだろうと言われていた。
競走生活(3歳前半)
3歳時は、厩舎内で本馬が脚を滑らせて転倒し膝を負傷するというアクシデントから始まった。ハーシュ卿は顔を青ざめさせたが、幸いにも大事にはならず、その後は至って順調に調整されていった。ポーター師は、本馬を英1000ギニーへ、オームを英2000ギニーへ直行させる予定だった。ところが英2000ギニーの数日前、オームの体調が突然悪化し、診断の結果水銀中毒である事が判明した。結局オームは春シーズン全休となってしまった。オームに誰かが水銀を盛ったとされ、犯人は本馬を贔屓するあまりにオームを敵視した誰かではないかと根も葉もない噂が流れた。真相は現在も不明のままであるが、オームの休養入りによって本馬に懸かる期待がますます大きくなったのは確かである。
本馬は予定どおりに英1000ギニー(T8F11Y)に出走した。本馬と対戦するのを嫌がった他馬陣営が多かったらしく、対戦相手は6頭だけだった。単勝オッズ1.5倍という断然の1番人気で登場した本馬は、逃げるアドレーションを見る形で2番手を進むと、残り1ハロン地点で悠々と抜け出して、2着ザスミューに1馬身差、3着アドレーションにはさらに3/4馬身差で楽勝した。勝ちタイム1分52秒4は、この年の英2000ギニーにおけるボナヴィスタの勝ちタイム1分54秒0より1秒6も速かった。
次走はやはり英ダービー(T12F29Y)となった。同厩馬オームが参戦できなかったために代理で出走したという説もあるが、オームと本馬は所有者が異なるから、その説にはあまり賛同できない。英ダービーに出走したという事はすなわち1歳時に英ダービーの出走登録をされていたという事であるから、ハーシュ卿が早い段階から本馬の英ダービー出走を視野に入れていた事は間違いなく、オームが無事であっても本馬は英ダービーに出てきた可能性が高いだろう。英2000ギニー・ウッドコートSの勝ち馬ボナヴィスタ、英2000ギニー2着馬で後にセントジェームズパレスSなどを勝つセントアンジェロ、仏グランクリテリウムの勝ち馬で後にパリ大賞を勝つリュエイユなどが対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持された。
数回のフライングのために30分遅れで正規のスタートが切られると、仏国から参戦してきたブチェンタウロという馬が先頭を引っ張り、本馬は最後方を進んだ。タッテナムコーナーでセントアンジェロとリュエイユの2頭が衝突して馬群が乱れる場面があり、後方を進んでいた本馬はここで思うように位置取りを上げられなかった。そして後方のまま直線に入ってきたが、ここから直線一気の末脚を繰り出した。残り1ハロン地点で先頭に立っていたのは、かつて英シャンペンSで3着に破っていた単勝オッズ41倍の伏兵サーヒューゴだった。次々に他馬を抜き去って2番手に上がった本馬はサーヒューゴに並びかけたが、予想外の粘りを見せたサーヒューゴが押し切って勝ち、本馬は3/4馬身差の2着に敗れた。
最後方からレースを進めて直線で届かなかった結果から、これは“most erratic ride(最も常軌を逸した騎乗)であるとバレット騎手は非難の声に晒された。現在でも本馬の英ダービー敗戦は騎乗ミスだったという説が強く、各資料で散々に叩かれている。なお、「バレット騎手は道中で最後尾につけると、鞍上で何やら大声を張り上げながら鞭をいたずらに振り回していた」とする日本の資料があるが、さすがにこれは尾ひれが付き過ぎで、信用できる海外の資料でそこまで書かれているものは無い。なぜここでバレット騎手が後方からレースを進めたのかは不明である。筆者が思うに、94年後のダンシングブレーヴと同様にスタミナ面で不安を抱いていたためではなかろうか。本馬は血統的にはスタミナ面の不安は無かったが、過去のレース内容からするとスピードに勝ったタイプだったからである。また、2日後に英オークスに出走する予定だったため、余計にスタミナを温存する必要を感じたのかもしれない。
その英オークス(T12F92Y)でも1番人気に支持されたが、単勝オッズは当初の1.4倍から1.73倍に若干上昇していた。スタートが切られるとブロードコリー(米国三冠馬サイテーションの5代母)が先頭に立ち、本馬は前走とは異なり先行した。そして直線に入るとブロードコリーをかわして先頭に立ち、そのまま楽勝かと思われた。しかしここで後方から英1000ギニー2着馬ザスミューが襲い掛かってきた。英1000ギニーで本馬とザスミューの着差は1馬身差だったが、そのときは2頭の実力差は歴然としていた。しかし今回はザスミューが本馬をかわすほどの勢いで迫ってきたため、バレット騎手は必死になって本馬を追い、辛うじて短頭差凌いで勝利した。
競走生活(3歳後半)
その後は少し間隔を空けて、7月末のナッソーS(T8F)に出走した。本馬は見るからに仕上がりが不十分と思われる状態だったらしいが、それでも単勝オッズ1.73倍の1番人気に支持された。そしてゴール前で印象的な加速を見せ、2着ブロードコリーに1馬身半差で勝利した。
それから5週間後には英セントレジャー(T14F132Y)に出走した。このレースには、英ダービーで苦杯を舐めさせられたサーヒューゴ、プリンスオブウェールズSを勝ちセントジェームズパレスS・サセックスSで2着していたウオータークレスに加えて、水銀中毒から回復してエクリプスSとサセックスSを勝ってきたオームの姿もあった。オームが単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持され、本馬が単勝オッズ4.5倍の2番人気となった。今まで一貫して本馬に乗ってきたバレット騎手がここではオームに騎乗したため、本馬には初騎乗となるジョン・ワッツ騎手が騎乗した。雨天の中でスタートが切られるとオームが先頭に立ち、本馬はオームをマークするように好位につけた。直線に入ってからワッツ騎手が仕掛けると本馬は力強く伸び、失速するオームと入れ代わりに先頭に立った。そして2着サーヒューゴに2馬身差、3着ウオータークレスにはさらに3馬身差をつけて完勝(オームは5着だった)。1874年のアポロジー以来18年ぶり史上4頭目の英国牝馬三冠馬となった。この時点で本馬は「英国競馬史上最高の牝馬の1頭」としての評価を受けた。
この17日後にはランカシャープレート(T8F)に出走した。ここではサーヒューゴ、アスコットダービーの勝ち馬ランソニーに加えて、ニューS・ポートランドS・サセックスS・グレートヨークシャーS・ニューマーケットセントレジャー・ニューマーケットダービー・ニューマーケットフリーH・ロウス記念Sの勝ち馬で英2000ギニー・エクリプスS2着のオーヴィエットなどの古馬勢が対戦相手となった。バレット騎手が鞍上に戻ってきた本馬が単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。ここでは逃げ馬を見るように先行すると、直線に入って瞬く間に抜け出す得意戦法で、2着オーヴィエットに3馬身差をつけて楽勝した(サーヒューゴは着外だった)。
さらにその5日後にはグランドデュークマイケルS(T10F)に出走。本馬以外の出走馬はコヴェントリーSを勝っていた同世代の牡馬デヌアーだけで、2頭立てとなった。結果は単勝オッズ1.025倍という圧倒的な支持を得た本馬が馬なりのまま走り、6ポンドのハンデを与えたデヌアーに2馬身差をつけて勝利した。そのまた12日後にはニューマーケットオークス(T15F203Y)に出走。レース序盤は積極的に行かずに後方からの競馬となったが、直線に入ると悠々と先頭に立ち、19ポンドのハンデを与えた2着ゴルコンダに1馬身差をつけて、“very easily”な勝利を収めた。
次走はケンブリッジシャーH(T9F)となった。グループ競走とハンデ競走が明確に路線分けされた現在では地元英国の競馬ファン以外にはあまり知られていないこの競走も、その当時はシザレウィッチHと共に英国を代表する競走の1つとして世界的に知られており、本馬を含めて30頭が栄冠を目指して参戦してきた。本馬には122ポンドが課せられたが、それでも単勝オッズ4.5倍の1番人気に支持された。このレースは、本馬より34ポンド軽い88ポンドの斤量だったペンショナーという3歳牡馬と本馬のマッチレースの様相を呈した。しかしゴール前で闘志に火が点いた本馬がペンショナーを引き離し、1馬身半差をつけて勝利した。
本馬の周囲が騒がしくなったのは、ケンブリッジシャーHから間もなくした頃だった。本馬を管理するポーター師は多くの馬主から馬を預けられていたが、それらの馬主の中で最大のお得意様はオームの所有者グローヴナー卿だった(ポーター師はグローヴナー卿の代理として本馬のセリにも参加したほどである)。そのグローヴナー卿と、ハーシュ卿の競馬マネージャーとして本馬をセリで購入したベレスフォード卿との間に仲違いが生じたのである、その結果、ポーター厩舎に所属していたハーシュ卿の所有馬は、本馬も含めて全てリチャード・マーシュ厩舎に転厩する事になった。
競走生活(4歳時)
3歳時を9戦8勝の成績で終えた本馬は、4歳時も現役を続行した。古馬になっても以前と変わらないか、それ以上に見栄えがする馬体を保っていると評された本馬だったが、何故か4歳時はなかなかレースに出てこず、結局シーズン初戦は7月のエクリプスS(T10F)となった。このレースでは、本馬と別厩舎になってしまったオームとの対戦となった。オームは前年の英セントレジャーこそ完敗したが、その後はグレートフォールS・英チャンピオンS・ライムキルンS・ロウス記念Sを勝つなど、マイル~10ハロン路線で大活躍していた。本馬とオームが並んで単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。バレット騎手騎乗の本馬は先行して直線で抜け出そうとしたが、久々が災いしたのか調教師が変わったのが影響したのか、いつもの爆発的な伸びは無く、オームだけでなく無名の3歳牡馬メディシスにも差されて、2連覇を果たしたオームから3馬身半差の3着に敗れた。
2週間後のゴードンS(T10F)でもオームとの対戦となった。ここでは本馬とオームがゴールまで激戦を演じたが、オームが残り1ハロン地点で左側によれながらも首差で勝利を収め、本馬は2着に敗れた。
次走は9月のランカシャープレート(T8F)となった。このレースには無敗の英国三冠馬となったばかりだった1歳年下のアイシングラスが参戦してきて、本馬との二強ムードだった。本馬の斤量は143ポンドで、アイシングラスは137ポンドだった。レースはお互いを唯一の相手と見定めた本馬とアイシングラスが序盤から競り合った。その結果として共倒れになってしまい、この2頭を差し切った斤量127ポンドの3歳馬レーバーン(英2000ギニーと英ダービーでいずれもアイシングラスの3着だった)が漁夫の利で勝利を収めた。1馬身差の2着が生涯唯一の敗戦を喫したアイシングラスで、本馬はさらに半馬身差の3着に敗れた。
次走のロウザーS(T10F)でバレット騎手は本馬の主戦を降ろされてしまい、代わりに英セントレジャーで騎乗経験があるワッツ騎手が主戦として固定されることになった。ここでは、この年の仏2000ギニー・英チャンピオンSの勝ち馬でミドルパークプレート・英セントレジャー3着のルニシャムを6馬身差の2着に下して圧勝した。次走のケンブリッジシャーH(T9F)では、前年より11ポンド重い133ポンドの斤量が課せられた。結果は斤量91ポンドの4歳牝馬モリーモーガンが、斤量113ポンドのレーバーンを4馬身差の2着に、斤量98ポンドのドンカスターCの勝ち馬プリズナーをさらに2馬身差の3着に破って勝利を収め、8着に敗れた本馬は生涯初めての着外を喫した。しかし132ポンドを背負って出走したリヴァプールオータムC(T11F)では、2着プリズナーに1馬身1/4差で勝利した。次走のマンチェスターノーベンバーH(T14F)では、137ポンドの斤量に加えて泥だらけの不良馬場が堪えて、ゴールデンドロップの6着に敗れた。4歳時はこれが最後のレースとなり、この年の成績は7戦して2勝止まりだった。
競走生活(5歳時)
5歳になった本馬はアスコット金杯の勝ち馬モリオンと交配されて受胎したが、妊娠した状態で競走馬生活を続行した。まずは6月のアスコット金杯(T20F)に出走した。4歳時に出走した各競走とは異なり定量戦であるため厳しい斤量に悩まされる心配は無かったが、それにしても単勝オッズ1.4倍という圧倒的な1番人気に支持されたというのは、よほど本馬の人気が高かったからなのだろう。対抗馬と目されていたのは、仏国から参戦してきたリュパン賞の勝ち馬カリストレートだった。スタートが切られると、20ハロンという長丁場を意識したのかワッツ騎手は本馬を抑え気味に走らせ、序盤は馬群の中団後方を進んだ。そして直線に入ったところでスパートを開始すると、並ぶ間もなくカリストレートを差し切った。最後は2着カリストレートに3馬身差、3着となった前年のシザレウィッチHの勝ち馬で英オークス3着のキュプリアにはさらに6馬身差をつけて圧勝した。
次走はなんと翌日のハードウィックS(T12F)となった。この日程にも関わらず、単勝オッズ1.2倍の1番人気となった。直線では、前年の英国三冠競走と一昨年のミドルパークプレートで全てアイシングラスの2着に敗れたラヴェンズベリと激戦を演じたが、さすがにゴール前で力尽きて半馬身差の2着に敗れた。このレースで当時のアルバート・エドワード皇太子(後の英国王エドワードⅦ世)は本馬の単勝にしこたま賭けており、大損を喫したと伝えられている。
その後はしばらくレースに出なかったが、前走から3か月が経過した9月下旬になってプリンスエドワードH(T8F)に出走。しかし133ポンドの斤量が響いたのか、クルーイドの4着に敗れてしまった。それから17日後には英チャンピオンS(T10F)に出走した。当初はプリンセスオブウェールズS・エクリプスS・ジョッキークラブSとこの年3戦全勝のアイシングラスも参戦予定だったが、アイシングラス陣営が本馬との対戦を嫌がって回避してしまい、このレースは本馬とラヴェンズベリの2頭立てとなってしまった。単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持された本馬はスタートから着実にラヴェンズベリとの差を広げていき、最後は馬なりのまま走って、8馬身差で圧勝。これが本馬の引退レースになる事を知っていた観衆から拍手喝采を受けながら競馬場を後にした。
馬名は仏語で「矢」という意味であり、母の名前“Quiver”が英語で「矢筒」という意味であることからの連想だと思われる。なお、母父の名前“Toxophilite”は「弓の名手」という意味であり、母の馬名はここから来ていると推察される。
血統
St. Simon | Galopin | Vedette | Voltigeur | Voltaire |
Martha Lynn | ||||
Mrs. Ridgway | Birdcatcher | |||
Nan Darrell | ||||
Flying Duchess | The Flying Dutchman | Bay Middleton | ||
Barbelle | ||||
Merope | Voltaire | |||
Juniper Mare | ||||
St. Angela | King Tom | Harkaway | Economist | |
Fanny Dawson | ||||
Pocahontas | Glencoe | |||
Marpessa | ||||
Adeline | Ion | Cain | ||
Margaret | ||||
Little Fairy | Hornsea | |||
Lacerta | ||||
Quiver | Toxophilite | Longbow | Ithuriel | Touchstone |
Verbena | ||||
Miss Bowe | Catton | |||
Orville Mare | ||||
Legerdemain | Pantaloon | Castrel | ||
Idalia | ||||
Decoy | Filho da Puta | |||
Finesse | ||||
Young Melbourne Mare | Young Melbourne | Melbourne | Humphrey Clinker | |
Cervantes Mare | ||||
Clarissa | Pantaloon | |||
Glencoe Mare | ||||
Brown Bess | Camel | Whalebone | ||
Selim Mare | ||||
Brutandorf Mare | Brutandorf | |||
Mrs. Cruickshanks |
父セントサイモンは当馬の項を参照。
母クァイヴァーの競走馬としての経歴はよく分からないが、繁殖成績は紛れも無く超一流であり、クァイヴァーがいなければ20世紀以降のサラブレッド血統地図はまるで違うものになっていた事が確実である。
まず、本馬の7歳年上の半姉サッチェル(父ガロピン)はザプライズ【英シャンペンS】の母となった他に牝系子孫も発展させた。この名馬列伝集で紹介するような大物は少ないが、それでもゴントラン【仏2000ギニー・仏ダービー】、ベルオブオール【英1000ギニー】、エラマナムー【エクリプスS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS】、カラリーナ【エイコーンS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)】、日本で走ったインターナショナル【阪神三歳S】などが出ている。
本馬の3歳年上の半姉メイドマリアン(父ハンプトン)は、何と言っても大種牡馬ポリメラス【英チャンピオンS・リッチモンドS・プリンセスオブウェールズS】の母となった功績が大きい。メイドマリアンの子には豪首位種牡馬4回のグラフトンもいる。メイドマリアンの牝系子孫からは他にも、ポンレヴェク【英ダービー】、ミオランド【サンフアンカピストラーノ招待H2回・アメリカンダービー・サンアントニオH・アメリカンH】、ワイルドリスク【仏チャンピオンハードル2回】、ライトロイヤル【サラマンドル賞・仏グランクリテリウム・仏2000ギニー・リュパン賞・仏ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS】、ネプテューヌス【仏グランクリテリウム・仏2000ギニー】、シーホーク【クリテリウムドサンクルー・サンクルー大賞】、スターパレード【サンタマリアH(米GⅠ)2回・ミレイディH(米GⅠ)】、日本で走ったメジロタイヨウ【天皇賞秋】、メジロアイガー【中山大障害春】、メジロマスキット【中山大障害秋】、エイシンサニー【優駿牝馬(GⅠ)】なども出ている。
本馬の2歳年上の全姉は、本馬がセリで高く売れた理由の1つともなったメモワールで、英オークス・英セントレジャー・ナッソーS・ジュライCに勝った一流馬だった。メモワールは英1000ギニーでセモリナの3/4馬身差2着に敗れており、惜しくも本馬との姉妹英国牝馬三冠達成は成らなかった。メモワールは牝系子孫もかなり発展させており、ウガンダ【仏オークス・ロワイヤルオーク賞】、ウダイパー【英オークス】、ウミッドウォー【英チャンピオンS】、ヒンドスタン【愛ダービー】、パレスタイン【英2000ギニー】、ミスターライト【サンタアニタH・ウッドワードS・ドワイヤーH・サバーバンH】、ナイトナース【英チャンピオンハードル2回・エイントリーハードル】、ワジマ【モンマス招待H(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)・ガヴァナーS(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)】、ワイルドアゲイン【BCクラシック(米GⅠ)・メドウランズCH(米GⅠ)】、日本で走ったアローエクスプレス【朝日杯三歳S】、ファンタスト【皐月賞】、バンブーアトラス【東京優駿】、サンオーイ【東京大賞典・羽田盃・東京ダービー・東京王冠賞】、プリモディーネ【桜花賞(GⅠ)】など多くの活躍馬を登場させた。→牝系:F3号族③
母父タクサファライトは現役成績13戦9勝で、アスコットダービー・グランドデュークマイケルSを勝ち、英ダービーで2着している。19世紀豪州最高の名馬カーバインの父マスケットの父でもある。遡ると、スチュワーズCの勝ち馬ロングボウ、リヴァプールセントレジャーの勝ち馬イズリエルを経由してタッチストンに行きつく。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はハーシュ卿所有の牧場で繁殖入りし、6歳時の1895年に現役時代から身篭っていた牝駒ラヴェーヌ(父モリオン)を産んだ。そしてこの年はハンプトンと交配されたが不受胎だった。翌1896年には再びモリオンを交配されたが、その直後の4月にハーシュ卿が死去したため、本馬はラヴェーヌ共々セリにかけられた。そしてラヴェーヌは3100ギニーで、本馬は12600ギニーという記録的超高額で、英国ヨークシャー州スレッドメアスタッドの所有者タットン・サイクス卿の妻ジェシカ夫人(後にムムタズマハルを生産した事で知られる)により競り落とされた。しかし自分の妻が本馬を競り落とした金額を耳にしたサイクス卿は、自分はそんな金額を認めるわけにはいかないと主張して、列車に乗ってスレッドメア駅に到着した本馬の受け入れを拒否。周囲の人々に説得されたサイクス卿が首を縦に振るまで2週間もの間、本馬は駅舎の中で待ちぼうけを食らう羽目になった。その間はスレッドメア駅の駅長が自分のポケットマネーから費用を支出して本馬に飼葉をやっていたという。
サイクス卿の許可を得てスレッドメアスタッドで繁殖生活を開始した本馬は、まずは翌8歳時に2番子の牡駒ストロングボーイ(父モリオン)を産んだ。2700ギニーで取引されたストロングボーイはアスコットバイエニアルSなど5勝を挙げたが、それほど活躍はできず、種牡馬入りしたという記録も無い。なお、初子のラヴェーヌは競走馬としても繁殖牝馬としても記録が残っていない。
9歳時に産んだ3番子は、競走馬時代に1度だけ対戦経験があるアイシングラスとの間にもうけた牝駒サジッタだった。2300ギニーで取引されたサジッタは2歳時にチャンピオンブリーダーズフォールSというレースを勝ったが、やはり競走馬としてはそれほど活躍できなかった。サジッタは繁殖入りして牝系を伸ばしたが、ここに特筆できるほどの活躍馬は出ていない。
10歳時はケンダルを不受胎だったため産駒がおらず、11歳時に4番子の牝駒バロネスラフレッチェ(父ラダス)を産んだ。バロネスラフレッチェはエイコーンS(英国の競走。米国で実施されている同名の大競走とは異なる)を勝ったが、やはり競走馬としてはそれほど活躍できなかった。
12歳時には5番子の牡駒ジョンオゴーント(父アイシングラス)を産んだ。ジョンオゴーントは脚部不安に悩まされながらも英2000ギニーと英ダービーでいずれもセントアマントの2着と好走したが、勝ち星はハーストボーンSの1つだけだった。しかもジョンオゴーントの同世代には超名牝プリティポリーがいたため、セントアマントやジョンオゴーントといった牡馬勢は悉くその引き立て役になってしまった。
ジョンオゴーントを産んだ後の本馬は不受胎や死産(ラダスとの間にできた双子)が続き、17歳時になってようやく6番子の牡駒アークドゥトリオンフ(父ガリニュール)が産まれた。しかしアークドゥトリオンフは競走馬として活躍できず、後に仏国で種牡馬入りするも結果は出なかった。
18歳時にはアイシングラスとの間に7番子の牝駒を産んだが、この子は名前が付けられる前に1歳で夭折した。その後の本馬は不受胎が続き、次の子を産むことはないまま、1911年に22歳で繁殖牝馬を引退した。その後はスレッドメアスタッドで余生を送り、1916年4月に27歳で他界した。
後世に与えた影響
こうして繁殖牝馬としては失敗に終わったかに見えた本馬だったが、本馬の血はバロネスラフレッチェとジョンオゴーントの2頭を通じて後世に受け継がた。
まずジョンオゴーントは父として名馬スウィンフォードを出し、スウィンフォードからは大種牡馬ブランドフォードが出て、後世に大きな影響を与えた。
バロネスラフレッチェは母として英1000ギニー馬シナを産んだ。バロネスラフレッチェの子はシナ以外にもおり、その牝系子孫からはヴィクトリクス【ロワイヤルオーク賞・サブロン賞・仏共和国大統領賞】、メルカル【カドラン賞(仏GⅠ)】、タイガーヒル【バーデン大賞(独GⅠ)2回・ダルマイヤー大賞(独GⅠ)】、日本で走ったオーライト【平和賞春(天皇賞春)】、メジロムサシ【天皇賞春・宝塚記念】、オキノサキガケ【中山大障害春・中山大障害秋】、ファビラスラフイン【秋華賞(GⅠ)】などが出ている。
しかしバロネスラフレッチェの牝系子孫から登場した最大の大物は、シナから7代目に当たるサンデーサイレンス【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)・BCクラシック(米GⅠ)・サンタアニタダービー(米GⅠ)・スーパーダービー(米GⅠ)・カリフォルニアンS(米GⅠ)】で決まりだろう。他にもシナの牝系子孫からは、トリトン【AJCオールエイジドS・ストラドブロークH・エプソムH】、ユンベル【タンテオデポトリジョス賞・チリ競馬場大賞2回・インテルナショナル大賞典・ワイドナーH】、ダルシファイ【ヴィクトリアダービー・ローズヒルギニー・オーストラリアンC・AJCダービー・コックスプレート・マッキノンS】、スカイチェイス【豪シャンペンS(豪GⅠ)・ローズヒルギニー(豪GⅠ)・コーフィールドS(豪GⅠ)】、名種牡馬インディアンリッジ、ショウアハート【TJスミスクラシック(豪GⅠ)・コーフィールドギニー(豪GⅠ)・トゥーラックH(豪GⅠ)・ストラドブロークH(豪GⅠ)】、マミファイ【サウスオーストラリアンダービー(豪GⅠ)・アンダーウッドS(豪GⅠ)・コーフィールドC(豪GⅠ)・ヤルンバS(豪GⅠ)・シンガポール航空国際C(星GⅠ)】、シーサイレン【BTCカップ(豪GⅠ)・ドゥーンベン10000(豪GⅠ)・マニカトS(豪GⅠ)】などが出ている。本馬の牝系子孫は一流牝系と言えるほどの発展はしていないけれども、それを語らずに競馬史を語ることも出来ない。