オーム

和名:オーム

英名:Orme

1889年生

鹿毛

父:オーモンド

母:アンジェリカ

母父:ガロピン

謎の水銀中毒により春の英国クラシックを棒に振るもエクリプスS2連覇などマイル~10ハロン路線で活躍し、現在まで残るテディ直系の礎となる

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績18戦14勝2着3回

誕生からデビュー前まで

オーモンドや祖父ベンドアの所有者でもあった初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿によりイートンスタッドにおいて生産・所有され、オーモンドも手掛けたジョン・ポーター調教師に預けられた。生涯無敗の英国三冠馬オーモンドの数少ない初年度産駒7頭のうちの1頭である上に、名馬セントサイモンの2歳年上の全姉アンジェリカの息子という、当時の英国における最高級の血統の持ち主だった。さらに成長すると体高16ハンドに達した力強く見栄えが良い馬でもあり、かかる期待は大きかった。

デビュー直前に主戦となるジョージ・バレット騎手を鞍上に出走した距離5ハロンの非公式トライアル競走では、3歳馬マサクルや同世代の期待馬オーヴィル(本馬と同じくオーモンドの初年度産駒7頭のうちの1頭。母は英2000ギニーと英ダービーを制したショットオーヴァーであり、本馬と並んで当時の英国における最高級の血統の持ち主だった)を相手に回して、マサクルに半馬身差で勝利を収めるなど調教の動きも良かった。ちなみに別の調教では、同厩(ただし馬主は異なる)の牝馬ラフレッチェと一緒に走ったが、既に翌週にデビューする予定だったラフレッチェの仕上がりのほうが上であり、ここでは1馬身後れを取っている。それでも本馬を数か月間見てきたポーター師は、この馬は必ずや偉大な馬になるでしょうと太鼓判を押した。オーモンドは受精率が悪かった上に喘鳴症を患っており、本馬が競走年齢に達する前に英国から亜国に放出される要因となったが、本馬は喘鳴症を発症する事はなかった。

競走生活(2歳時)

2歳7月にグッドウッド競馬場で行われたリッチモンドS(T6F)で、バレット騎手を鞍上にデビューした。単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された本馬は、逃げるベンエイボンを馬群の中団で追走。残り2ハロン地点で先頭に立つと、2着となったジュライS勝ち馬フライアウェイに3/4馬身差で勝利を収めた。それから僅か2日後にはプリンスオブウェールズS(T6F)に出走した。単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された本馬は今回スタートから先頭に立ち、2着となったコヴェントリーS勝ち馬ダヌアーに1馬身差、3着ガレオプシスにはさらに4馬身差をつけて楽勝した。この2戦が終わった直後に早くも本馬は翌年の英ダービーの大本命となり、前売りオッズで6倍という、この段階では破格の高評価を受けた。グローヴナー卿に高額を提示して本馬を売って欲しいと申し出た人物もいたらしいが、グローヴナー卿は当然その申し出を断った。

次走は9月にマンチェスター競馬場で行われたランカシャープレート(T7F)となった。このレースは古馬混合戦だったが、本馬が単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持された。レースは逃げる4歳牝馬シグノリア(2歳時にミドルパークプレートを勝っている)に本馬が並びかけたところに、4歳牡馬マルタゴン(翌年にグッドウッドCを勝っている)もやって来て、3頭による勝負となった。しかしシグノリアがゴール前で二の脚を使って勝利を収め、本馬は半馬身差の2着、マルタゴンはさらに頭差の3着となった。

その後は10月のミドルパークプレート(T6F)に向かい、単勝オッズ1.53倍の1番人気に支持された。レースでは勝負どころでバレット騎手が合図を送ると本馬は即座に反応して先頭に立った。そして後方で2着争いを演じるエルディアブロとガントレット(翌年のヨークシャーオークス・パークヒルSに勝利)の2頭を尻目に悠々とゴールラインを駆け抜け、2着エルディアブロに2馬身差をつけて勝利した。

続いて出走したデューハーストプレート(T7F)では、本馬との対戦を嫌がった他馬陣営の回避が相次ぎ、10頭立てだったミドルパークプレートから一転して僅か3頭立てとなった。本馬が単勝オッズ1.06倍の1番人気で、エルディアブロが単勝オッズ21倍の2番人気、ハットフィールドが単勝オッズ51倍の最低人気となった。レースはスタートから本馬が先頭に立って逃げ、他2頭が追いかける展開となった。エルディアブロは何とか本馬との差を縮めようとしてきたが、最後まで全力を出さなかった本馬が2着エルディアブロに3/4馬身差で勝利した。

2歳時の出走はこれで終了ではなく、10月末にニューマーケット競馬場で行われたホームブレッドフォールポストS(T5.5F)がこの年最後の出走となった。単勝オッズ1.03倍の1番人気に支持された本馬は、2着エスモンドに2馬身差、3着ルースルムにはさらに3馬身差をつけて楽勝し、2歳時を6戦5勝で終えた。

この時点において、世紀の名馬と言われた父オーモンドよりも上なのではないかという意見も出ていた。2歳フリーハンデでは2歳時4戦全勝で同世代2位の評価を受けていたラフレッチェより10ポンドも高い評価を受けた。強力な相手と戦った経験が無い事から、この段階で評価を決定付けるのは時期尚早であるという慎重な意見もあったが、12月時点における英ダービーの前売りオッズは3倍という、この段階では異例の低さだった。

競走生活(3歳前半):謎の水銀中毒

年が明けるとラフレッチェの評価が急上昇したために相対的に本馬の評価は若干下がったが、3月時点でもまだ英ダービーの前売りオッズ3.5倍を維持していた。3歳時は英2000ギニーを経由して英ダービーへ向かうという青写真だった。しかし英2000ギニーが目前に迫った4月21日になって、当日の朝には何の異常も無かった本馬の身体に異変が発生した。口内から喉までの範囲が腫れ上がり、口から唾液を垂れ流すようになったのである。最大の目標は英ダービーであったため、とりあえず英2000ギニーは回避が決定。当初は虫歯や歯槽膿漏などの口内疾患が疑われ、歯科医が呼ばれて治療が施された。その後いったん軽い調教に戻り、英ダービーを目指す事になったが、本馬の体調は悪化の一途を辿っていた。そのために改めて獣医師のウィリアムズ博士が呼ばれて診察を行ったところ、水銀中毒の疑いが強いという結果が出た(一口に水銀中毒と言っても、無機水銀と有機水銀では症状が異なる。無機水銀の場合は食道・胃腸などの消化器官に炎症を起こし、場合によっては腎臓に障害が出る。有機水銀の場合は神経系に障害が出る。本馬の症状からすると無機水銀の中毒である)。厩舎総出の介抱によってやがて状態は快方に向かったが、6月1日の英ダービーにはとても間に合いそうになく、5月23日に正式に回避が発表された。

公式発表の場でグローヴナー卿は、何者かが本馬の口に水銀を入れたのだと確信した旨と、犯人に繋がる情報提供に対しては1000ポンドの報酬を支払う旨を宣言した。しかし結局犯人に繋がる情報は出てこなかった。巷で噂されたのは、ラフレッチェを贔屓する何者かが、ラフレッチェに英ダービーを勝ってもらいたいと考え、最大の邪魔者である本馬を排除するために毒を漏ったのだという説だったが、決定的証拠があるわけではなく憶測の域を出なかった。また、本馬が歯科医の診察を受けていたことから、歯の治療に用いられた水銀アマルガムが原因ではないかという意見も出たが、本馬が最初に歯科医の診察を受けた時点では既に水銀中毒の症状が出ていたのだから、その説は間違いであると陣営は否定した。結局のところ、本当に水銀中毒だったかどうかも定かではなく、この一件の真相は今日に至るまで不明のままである。ちなみに英1000ギニーを勝ったラフレッチェは英ダービーに出走したが伏兵サーヒューゴの3/4馬身差2着に惜敗している。これは本馬の代打で出たとする意見も見受けられるが、本馬とラフレッチェは同厩であっても馬主が異なっており、しかもラフレッチェは2歳戦が終わった段階で既に英ダービーに向かう公算が強いとされていたから、筆者はこの代打説は間違っていると思っている。いずれにしても本馬が何事も無く英ダービーに出走していたら確実に勝っただろうと当時は言われていた(後世から本馬の競走成績を振り返ると、英ダービーの距離では長かったと思われるのだが)。

競走生活(3歳後半)

さて、健康体に戻った本馬の目標はエクリプスSに設定され、その4日前に非公式のトライアル競走に出た。対戦相手は本馬の半兄である5歳馬ブルーグリーンと、6歳馬オルムズの2頭だった。斤量は年下である本馬のほうが重かったのだが、それでも2着オルムズに2馬身差で勝利して、順調な回復ぶりをアピールした。

そして迎えた本番のエクリプスS(T10F)では、本馬が単勝オッズ2.25倍の1番人気、ニューS・サセックスSを勝っていた4歳馬オルヴィエートが単勝オッズ3.75倍の2番人気だった。馬群の中団でレースを進めた本馬とオルヴィエートの2頭は直線に入ってからほぼ同時に仕掛けて、逃げ馬をほぼ同時にかわして先頭に立った。さらに後方からはハードウィックSを勝ってきた3歳馬セントダミアンも襲い掛かってきた。ゴール直前ではオルヴィエートが僅かに先頭だったのだが、バレット騎手が檄を飛ばすと本馬はそれに応え、オルヴィエートをかわして首差で勝利した。3着馬セントダミアンはオルヴィエートから3/4馬身差であり、かなりの激戦だった。

それから12日後にはサセックスS(T8F)に出走して、単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持された。ここではゴール前で同厩馬ウォータークレスとの激闘となったが、本馬が競り勝って頭差で勝利した。

その後はさらに体調が上向いたため、春シーズンは出走さえ出来なかった英国クラシック競走の戴冠を目指して英セントレジャー(T14F132Y)に参戦した。本馬が単勝オッズ1.91倍の1番人気、英ダービー敗戦直後の英オークスを勝っていたラフレッチェが単勝オッズ4.5倍の2番人気、英ダービー馬サーヒューゴが単勝オッズ11倍の3番人気、メイデュークが単勝オッズ15.3倍の4番人気だった。スタートが切られるとクレイヴンS勝ち馬ザラヴァーが先頭に立ったが、初期のペースが遅く、バレット騎手は本馬を先行させた。そして直線に入るとバレット騎手はすぐに本馬に鞭を使ったが、普段であればすぐに反応する本馬がここでは反応が悪く、残り2ハロン地点から失速して、後方から来たラフレッチェ、サーヒューゴ、ウォータークレス、メイデュークに次々と抜き去られた。レースは結局ラフレッチェが2着サーヒューゴに2馬身差をつけて英国牝馬三冠馬の栄誉を手中に収め、本馬は5着と完敗した。バレット騎手は「私の人生最大の失望です。彼はまるで石のように固まってしまい、何の努力もしようとしませんでした」と敗北を嘆いた。このレースで他馬に乗っていた騎手達は口を揃えて「オームは焦れ込んでいました」と語っており、今日では本馬の敗因は距離が長すぎて折り合いを欠いた事であるとほぼ確定されている。

その後はマイル~10ハロン路線に専念する事になった本馬は、ニューマーケット競馬場に向かい、まずはグレートフォールS(T10F)に出走した。前走の敗戦のため少し評価を下げていたが、それでも単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持された。そして人気に応えて、2着ヴェルサイユに1馬身半差で楽勝した。次走の英チャンピオンS(T10F)では、エクリプスSで激戦を演じた相手であるオルヴィエートの1頭のみが対戦相手だった。単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持された本馬は、スタートからオルヴィエートに1馬身ほどの差をつけて先頭を維持。ゴール前でバレット騎手が合図を送ると今回はすぐに反応してオルヴィエートを突き放し、2馬身差をつけて勝利した。

それから2週間後のライムキルンS(T8F)では、サーヒューゴ、オルヴィエート、エルディアブロ、フランクマーシュなどが対戦相手となった。単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された本馬はスタートから先行して残り2ハロン地点で先頭に立った。今回はバレット騎手が合図を送る必要も無く、勝手に加速して後続を引き離し、2着エルディアブロに3馬身差をつけて楽勝した。この翌日にはサブスクリプションS(T6F)に出走。単勝オッズ1.25倍の1番人気に支持されると、スタートからゴールまで先頭を走り抜け、2着ポリッジに1馬身半差で危なげなく勝利した。その翌日にはフリーハンデキャップスウィープS(T10F)に出走。3日連続出走だったが、単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。スタートが切られると単勝オッズ6倍の2番人気に推されていたブッシーパークが逃げを打ち、本馬はそれを見るように好位を追走。残り2ハロン地点でブッシーパークをかわして先頭に立った。しかしここで後方からいずれも単勝オッズ9.33倍の3番人気だったエルディアブロとザラヴァーの2頭が襲い掛かってきた。本馬はザラヴァーの追撃を3/4馬身抑えたものの、エルディアブロに1馬身半差かわされて2着に敗退。しかしエルディアブロは本馬より22ポンド、ザラヴァーは本馬より16ポンド斤量が重かったから、これが実力負けでない事は明らかだった。3歳時の成績は8戦6勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続け、バレット騎手に代わる新しい主戦としてモルニ・キャノン騎手を迎えた。まずは6月にアスコット競馬場で行われたロウス記念S(T7.5F)から始動した。対戦相手はクイーンズスタンドプレート(現キングズスタンドS)を勝っていたレディレナという牝馬1頭のみであり、本馬が単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持された。レースは本馬が先行してレディレナがそれを追う展開。終盤になってレディレナが本馬に並びかけようとしてきたが、キャノン騎手は最後まで本馬を馬なりのまま走らせ、2馬身差をつけて勝利した。

そして2連覇を目指してエクリプスS(T10F)に出走した。このレースにはラフレッチェの姿があったが、この時点で本馬とラフレッチェは同厩馬ではなくなっていた。詳細はラフレッチェの項に記載したが、グローヴナー卿とラフレッチェ陣営の間に諍いが起こったために、ラフレッチェは3歳限りでポーター厩舎を去って別厩舎に移っていたのである。本馬とラフレッチェの評価は互角であり、並んで単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。レースはラフレッチェが先行して、本馬がそれを見るように進む展開となった。直線に入ると押し切りを図るラフレッチェを本馬が楽にかわして先頭に立った。しかし次の瞬間に本馬は左側によれてしまい失速。その隙を突いて差を詰めてきたのはラフレッチェではなく、メディシスという馬だった。しかし本馬が凌ぎきり、2着メディシスに半馬身差、3着ラフレッチェにはさらに3馬身差をつけて勝利。史上初のエクリプスS2連覇を達成した。

次走のゴードンS(T10F)では、ラフレッチェ、ハードウィックSを勝ってきたウォータークレス、ロイヤルハリーの3頭だけが対戦相手となった。単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された本馬は、レース中盤までラフレッチェと競り合うように走っていたが、徐々に前に出て残り2ハロン地点ではほぼ勝負を決定付けた。しかしここで本馬鞍上のキャノン騎手は何を思ったのか本馬を減速させて、いったんラフレッチェのところまで下げさせた。そしてそれから再加速して2着ラフレッチェに首差で勝利した(3着ウォータークレスはさらに6馬身後方だった)。キャノン騎手がこのようなレースをした理由は資料に明記されておらず不明であるが、グローヴナー卿と仲違いしてポーター厩舎を出て行ったラフレッチェ陣営に対する当て付けである可能性が高そうである。

その後は前年に勝利したライムキルンS(T8F)に向かい、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。しかしここで本馬に課せられた斤量は140ポンドと過酷なものであり、33ポンドのハンデを与えた3歳馬チャイルドウィック(日本競馬黎明期の大種牡馬インタグリオーの父)の3/4馬身差2着に敗れてしまった。実はこのレースの少し前から本馬の脚には不安が見られるようになっていた。そこへ140ポンドの斤量で走ったものだから、レース中に靱帯を損傷してしまったのである。結局この負傷が原因で、4歳時4戦3勝の成績で現役引退となった。

ポーター師は後に、本馬は父オーモンドより7~10ポンド程度下の実力であるとして、父オーモンドには遠く及ばないと評しているが、それでも2歳時より3歳時、3歳時より古馬になってからの方が強かったとも評し、その成長力を評価している。

血統

Ormonde Bend Or Doncaster Stockwell The Baron
Pocahontas
Marigold Teddington
Ratan Mare
Rouge Rose Thormanby Windhound
Alice Hawthorn
Ellen Horne Redshank
Delhi
Lily Agnes Macaroni Sweetmeat Gladiator
Lollypop
Jocose Pantaloon
Banter
Polly Agnes The Cure Physician
Morsel
Miss Agnes Birdcatcher
Agnes
Angelica Galopin Vedette Voltigeur Voltaire
Martha Lynn
Mrs. Ridgway Birdcatcher
Nan Darrell
Flying Duchess The Flying Dutchman Bay Middleton
Barbelle
Merope Voltaire
Juniper Mare
St. Angela King Tom Harkaway Economist
Fanny Dawson
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Adeline Ion Cain
Margaret
Little Fairy Hornsea
Lacerta

オーモンドは当馬の項を参照。

母アンジェリカは前述のとおりセントサイモンの2歳年上の全姉だが、幼少期の評価は低かった。仮にセントサイモンの姉ではなく妹で、セントサイモンが活躍した後であれば評価されたはずなのだが、そうではなかったために1歳時のセリで僅か50ギニーという安値で取引された。そして競走馬としては不出走のまま繁殖入りして、何度か転売された。しかしセントサイモンの活躍後になってグローヴナー卿に目を付けられ、7歳時の1886年にイートンスタッドの一員に加わった。本馬はアンジェリカの5番子である。アンジェリカは本馬の半兄ブルーグリーン(父コエルレウス)【クリテリオンS・クイーンアレクサンドラS・ジャージーS】も産んでいる。

アンジェリカの牝系を発展させたのは本馬の半姉ディングル(父グレンデール)であり、その牝系子孫には、ヒルゲイル【ケンタッキーダービー・アーリントンフューチュリティ・サンタアニタダービー】、日本で走ったアイフル【天皇賞秋】、ロングハヤブサ【阪神三歳S】、ミホノブルボン【朝日杯三歳S(GⅠ)・皐月賞(GⅠ)・東京優駿(GⅠ)】、そして日本を代表する名牝系の祖であるスターロッチ【優駿牝馬・有馬記念】と、その子孫であるハードバージ【皐月賞】、サクラユタカオー【天皇賞秋(GⅠ)】、サクラスターオー【皐月賞(GⅠ)・菊花賞(GⅠ)】、ウイニングチケット【東京優駿(GⅠ)】などがいる。

ブルーグリーンもディングルもアンジェリカがイートンスタッドに来る前の子(正確にはブルーグリーンはイートンスタッドで誕生しているのだが、受胎した時点ではまだアンジェリカはイートンスタッドに来ていなかった)で、その父はいずれも無名種牡馬であるから、アンジェリカが潜在的に有していた能力の高さを示しているとも言える。→牝系:F11号族②

母父ガロピンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はグローヴナー卿の所有のまま、生まれ故郷のイートンスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は200ギニーに設定され(正確には担当厩務員に対するチップ1ギニーが加算されて201ギニーだったらしい)、この料金は本馬が種牡馬として成功した後も不変のままだった。種牡馬として各地を転々とさせられた父オーモンドとは異なり、本馬は最期の瞬間までイートンスタッドで暮らした。

本馬は種牡馬としては242頭の勝ち上がり馬を送り出して成功を収めた。その最大の大物は自身が1つも勝てなかった英国牡馬クラシック競走を全て制したフライングフォックスであり、フライングフォックスが英国三冠馬となった1899年には英首位種牡馬を獲得した。この1899年にグローヴナー卿が死去すると、フライングフォックスなど彼の持っていた馬の大半は競売にかけられたが、本馬、ベンドア、オナーメント(セプターの母)、ヴァンパイア(フライングフォックスの母)など少数の馬だけはグローヴナー卿の遺志によりイートンスタッドに留まった。

本馬は1912年に種牡馬を引退した後もイートンスタッドで余生を送っていたが、晩年は歯を悪くしたことから体調を悪化させてしまい、1915年9月に26歳で他界した。遺体はイートンスタッドにあった母アンジェリカと祖父ベンドアの墓地の隣に埋葬された。

後継種牡馬としてはフライングフォックス、オービーの2頭が成功。オービーは英1000ギニー勝ち馬ディアデムなどを出し、さらにその後継種牡馬のザボスが優れたスピードを武器にサイアーラインを伸ばした。また、わが国初の三冠馬セントライトの父ダイオライトもオービーの直系である。しかしオービーの直系は現在では全て途絶えてしまっている。フライングフォックスは直子のアジャックスが名馬テディを輩出し、現在まで残るテディの系統を確立させることに成功した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1896

Flying Fox

英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・エクリプスS・ニューS・プリンセスオブウェールズS・ジョッキークラブS

1896

Frontier

デューハーストS・アスコットダービー

1897

The Raft

サセックスS

1898

Orchid

英シャンペンS

1899

Duke of Westminster

ニューS・リッチモンドS

1899

Flying Lemur

アスコットダービー

1904

Orby

英ダービー・愛ダービー

1904

Witch Elm

英1000ギニー・チェヴァリーパークS

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