テディ
和名:テディ |
英名:Teddy |
1913年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:アジャックス |
母:ロンド |
母父:ベイロナルド |
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一時的にスペインに疎開していた第一次世界大戦中の仏国最強馬は種牡馬としても成功し現在も競馬界に大きな影響を与える |
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競走成績:3・4歳時に西仏で走り通算成績8戦6勝3着2回 |
誕生からデビュー前まで
仏国の首都パリ郊外にあったジャルディ牧場において、仏国の名馬産家・名馬主だったエドモン・ブラン氏により生産された。1856年に生まれたブラン氏はカジノ業で成功して大富豪となった人物である。また、かなり早い時期から競馬にも興味を抱き、20歳代には既に馬主となっていた。所有馬のニュビエンヌで仏オークスとパリ大賞を制覇したのは彼が23歳のときだった。彼はその後の1883年にベルエバ牧場を購入して馬産を開始。さらに英国からアスコット金杯の勝ち馬で名種牡馬のスコッティシュチーフ、ジュライCの勝ち馬エナジー、ドンカスターCの勝ち馬リトリートといった種牡馬も導入した。既に老齢だったスコッティシュチーフはあまり活躍できなかったが、エナジーが仏グランクリテリウムの勝ち馬を3頭輩出して2度の仏首位種牡馬に輝き、リトリートも仏1000ギニーとパリ大賞を勝利したアンドレを出すなど活躍し、彼の馬産に貢献した。
1889年にジャルディ牧場を購入すると、1900年には英国三冠馬フライングフォックスを当時の世界競馬史上最高価格となる3万7500ギニーで購入してジャルディ牧場で繋養した。フライングフォックスは3度の仏首位種牡馬になる成功を収めたが、そのフライングフォックスの初年度産駒の1頭にアジャックスがいた。ブラン氏の生産・所有馬として走ったアジャックスは、ノアイユ賞・リュパン賞・仏ダービー・パリ大賞など5戦無敗の成績を残して引退・種牡馬入りした。このアジャックスに、ブラン氏が英国で購入してきた繁殖牝馬ロンドを交配させて誕生したのが本馬である。
成長すると体高16ハンドに達した当時としては大柄な馬で、バランスが取れた好馬体、力強い肩、大きな腰を有しており、後脚の飛節の角度は競走馬として理想的と評されたほどだった。本来ならブラン氏の所有馬として走るはずだったが、本馬が1歳の時に第一次世界大戦が勃発。仏国の競馬場は軍部に接収されて仏国競馬自体が中止となった。そのため、ブラン氏は本馬を競走馬として走らせる機会が無いと判断し、本馬を5400フランという安値で、米国人のジェファーソン・デーヴィス・コーン氏に売却した。
米国南北戦争時の南軍大統領ジェファーソン・デーヴィスが名付け親だったというコーン氏は、様々な事業に手を出して「英国のスポーツマン・冒険家」だの「至る所にふらりと現れる蜥蜴」だの、いろいろな呼び名を有していた怪しげな人物だったが、後に本馬との間にサーギャラハッドとブルドッグを産む名牝プラッキーリエージュの生産者ミケラム卿の秘書も務めており、仏国ボワルセル牧場をリースして馬産・馬主活動をしていたりもした。
コーン氏はとりあえず本馬を、父アジャックスも手掛けたロバート・デンマン調教師に預けたが、本馬が2歳の時も競馬は再開されず、3歳時も極小規模の開催しか行われなかったため、コーン氏は本馬を隣国のスペインに連れて行った。スペインは今も当時もそれほど競馬が盛んではないが、第一次世界大戦下で中立国だったスペインでは競馬が普通に開催されており、世界中の競馬関係者の注目が集まり、当時は世界トップクラスの競馬の質を誇っていたという。
競走生活
本馬がデビュー戦として出走したのは、スペインのバスク地方にあるサンセバスチャン競馬場で行われたサンセバスチャン大賞(T2400m)だった。このレースは元々スペインを代表するレースだったが、特にこの年は第一次世界大戦の戦火を避けた欧州各国の実力馬が集まりハイレベルな一戦になっていた。しかしレースでは2番人気に推された本馬が、直線で古馬スピリットを一気にかわして3馬身差の圧勝で初勝利を飾った。
続いて出走したのは、サンセバスチャン競馬場で行われたスペインセントレジャー(T2800m・正式名称ヴィラメジャー賞)で、これも勝利した。しかし続いて出走したサンセバスチャン金杯(T2400m・正式名称コパ・ドーロ・デルレ)は3着に敗退した。
その後、仏国で競馬が部分的に再開されたために仏国に帰国した。10月から仏国ムーランにおいて短期的に開催されたレースに立て続けに出走。僅か8日間で、ダルボンナイ賞(T1700m)、ダルネイ賞(T2400m・第一次世界大戦の影響で開催中止となったリュパン賞の代替競走)、トロワアン賞(T2400m・第一次世界大戦の影響で開催中止となった仏ダービーの代替競走)の3レースに勝利した。その後に出走したデレヴァージュ賞では、アンティヴァリとサンルスーの2頭に敗れて3着だった。3歳時の成績は7戦5勝で、スペインの最優秀3歳牡馬に選ばれている。
4歳になると、シャンティ競馬場で競馬が再開され、サブロニエール賞(T2400m)で2歳年上のラファリナと激突。ラファリナは3歳時にリュパン賞を勝ち、パリ大賞で英ダービー馬ダーバーに先着した有力馬で、本馬の真価が問われる一戦となったが、本馬はゴール前でラファリナを首差競り落とし実力を証明してみせた。本馬はこのレースを最後に4歳時1戦1勝の成績で引退したが、第一次世界大戦中の仏国最強馬の1頭として名を馳せた。
血統
Ajax | Flying Fox | Orme | Ormonde | Bend Or |
Lily Agnes | ||||
Angelica | Galopin | |||
St. Angela | ||||
Vampire | Galopin | Vedette | ||
Flying Duchess | ||||
Irony | Rosebery | |||
Sarcasm | ||||
Amie | Clamart | Saumur | Dollar | |
Finlande | ||||
Princess Catherine | Prince Charlie | |||
Catherine | ||||
Alice | Wellingtonia | Chattanooga | ||
Araucaria | ||||
Asta | Cambuslang | |||
Lady Superior | ||||
Rondeau | Bay Ronald | Hampton | Lord Clifden | Newminster |
The Slave | ||||
Lady Langden | Kettledrum | |||
Haricot | ||||
Black Duchess | Galliard | Galopin | ||
Mavis | ||||
Black Corrie | Sterling | |||
Wild Dayrell Mare | ||||
Doremi | Bend Or | Doncaster | Stockwell | |
Marigold | ||||
Rouge Rose | Thormanby | |||
Ellen Horne | ||||
Lady Emily | Macaroni | Sweetmeat | ||
Jocose | ||||
May Queen | Claret | |||
Lady Blanche |
父アジャックスは前述のとおり、英国三冠馬フライングフォックスの初年度産駒。2歳時は1戦1勝。3歳時は初戦のノアイユ賞を勝ち、さらに20世紀初頭における仏国の主要3歳競走であるリュパン賞・仏ダービー・パリ大賞を全て制した。しかしその後に調教中の怪我で引退。通算成績5戦全勝という名馬だった。種牡馬としては、1915年2月に14歳で早世したことに加えて、第一次世界大戦で産駒の活躍の場が奪われた影響もあり、本馬を輩出した以外にそれほど実績は残せなかった。
母ロンドは英国三冠馬ロックサンドの生産・所有者として知られるジェームズ・ミラー卿の生産・所有馬。現役時代は英国のハンデ競走を主戦場に活躍して、プランテーションS・ハードウィック2歳S・プリンスオブウェールズナーサリーH・ロウザーS・ダリンガムS2回・チャンピオンブリーダーズバイエニアルフォールSなどに勝利した。1906年にミラー卿が死去すると、ロックサンドなどと共にセリに掛けられて、ブラン氏により購入された。しかしこの際にロンドが身篭っていたロックサンド産駒は死産。その後はフライングフォックスやアジャックスと主に交配されたが、死産や不受胎が相次ぎ、13歳時に産んだ本馬がようやく2番子だった。本馬以降にも何頭かの子を産んだが、勝ち上がり馬は登場しなかった。結局ロンドの産駒6頭のうち、勝ち星を挙げたのは本馬のみである。見栄え的には決して悪くなかった本馬をブラン氏が安値で売ったのは、両親ともに繁殖成績が悪く、本馬に対する期待も低かった影響もあると言われる。
ただし、ロンドの牝系は本馬の全妹ユージェニックを通じて米国で生き残り、その子孫からは、2001年のエクリプス賞年度代表馬ポイントギヴン【プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・ハリウッドフューチュリティ(米GⅠ)・サンタアニタダービー(米GⅠ)・ハスケル招待H(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)】を筆頭に、バジャーランド【フラミンゴS(米GⅠ)】、ロストマウンテン【ハスケル招待H(米GⅠ)】などが登場している。
ロンドの祖母レディエミリーの半妹ローゼルの孫にはウィムジカル【プリークネスS】が、レディエミリーの半妹ローザメイの曾孫にはローズドロップ【英オークス】、ローズドロップの子には英国三冠馬にして名種牡馬のゲインズボロー【英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・アスコット金杯】がいる。→牝系:F2号族③
母父ベイロナルドは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は仏国フィツ・ジャメ牧場で種牡馬入りして、後にボワルセル牧場に移動した。1923年には3年目産駒のサーギャラハッドの活躍で仏首位種牡馬の座を獲得した。その後はしばらく大物産駒を出さなかったが、安定して活躍馬を輩出し、1925・26・28・29・32年の5回にわたり仏国種牡馬ランキングトップ3入りした。晩年にはオルテロなどの大物競走馬を再度輩出。最終的に産駒のステークスウイナーは65頭に達した。
しかし1929年、米国ウォール街で発生した株価大暴落に端を発する世界恐慌が仏国にも波及し、その煽りを受けたコーン氏は1931年に破産してしまった。そして本馬は売りに出されることになった。この前年1930年に、本馬の息子サーギャラハッドが米国三冠馬ギャラントフォックスの大活躍により北米首位種牡馬に輝いていた。そのサーギャラハッドの父が売りに出されると聞いた米国の馬産家が何もしないはずはなく、本馬は米国人のF・ウォリス・アームストロング氏とケネス・ギルピン氏の両名により購入されて、ギルピン氏が米国ヴァージニア州に所有していたモンタナホールスタッド(ケントメアファーム)に移動した。
既に老年だった影響もあってか、米国ではあまり成功できなかったが、米国における初年度産駒からサンテディが登場しているから、本馬の米国移動は無駄にはならなかった。1935年には、本馬の生産者ブラン氏が死の直前に見初めて購入した凱旋門賞2連覇の名馬クサールも米国に輸入されてモンタナホールスタッドで繋養され、ブラン氏に縁がある仏国の名馬2頭が米国の同じ牧場で種牡馬生活を送ることになった。しかし2頭が共に過ごした期間は非常に短く、翌1936年に本馬はモンタナホールスタッドにおいて腸捻転のため23歳で他界した(クサールも翌1937年に他界している)。本馬の遺体はモンタナホールスタッドに埋葬されたらしいが、現在では墓石が失われており、どこに本馬が眠っているかは不明である。
本馬が仏国供用時代にプラッキーリエージュとの間に輩出した、サーギャラハッドとブルドッグの全兄弟が共に北米首位種牡馬になり、ブルドッグの直系からは米国三冠馬サイテーションが登場。また、サンテディの直系からは名馬ソードダンサーとダマスカスが登場して、本馬の直系を現代に繋いでいる。また、本馬の系統は繁殖牝馬の父としての評価が高く、本馬の娘ラトロワンヌは20世紀世界屈指の名牝系の祖である。また、サンデーサイレンス、ニジンスキー、ダンチヒ、ノーザンテースト、レイズアネイティヴ、アファームド、ザミンストレル、ストームバードなど母父に本馬の直系を持つ名競走馬・名種牡馬は数多い。そのため、本馬は20世紀における最も重要な種牡馬の1頭であると評されている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1919 |
Lady Elinor |
フロール賞 |
1920 |
Anna Bolena |
仏1000ギニー・クロエ賞 |
1920 |
Checkmate |
グレフュール賞・ヴィシー大賞・ユジェーヌアダム賞 |
1920 |
Royal Mistress |
ヴァントー賞 |
1920 |
仏2000ギニー・ジャックルマロワ賞・エクリプス賞・プティクヴェール賞・ダフニ賞・ボイアール賞 |
|
1921 |
Persephone |
モーリスドギース賞 |
1922 |
Aethelstan |
ダフニ賞・ゴントービロン賞 |
1922 |
Ptolemy |
仏グランクリテリウム・ユジェーヌアダム賞・ラクープドメゾンラフィット・フォルス賞・エドヴィル賞 |
1923 |
Asterus |
仏2000ギニー・英チャンピオンS・エクリプス賞・グレフュール賞・ロイヤルハントC |
1923 |
Huntersdale |
ゴントービロン賞 |
1923 |
King Arthur |
クインシー賞・エドモンブラン賞・ジョンシェール賞 |
1923 |
Rayon de Soleil |
ヴァントー賞 |
1924 |
Queen Iseult |
ユジェーヌアダム賞 |
1925 |
Brumeux |
ジョッキークラブC |
1925 |
La Moqueuse |
フォレ賞・ロンポワン賞 |
1925 |
Lilybee |
フロール賞 |
1926 |
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1926 |
凱旋門賞・伊ダービー・イタリア大賞・ミラノ大賞 |
|
1926 |
Tivoli |
アスタルテ賞・モーリスドギース賞 |
1927 |
Bull Dog |
ダフニ賞 |
1927 |
La Voulzie |
クリテリウムドサンクルー |
1927 |
Potiphar |
トーマブリョン賞・ダリュー賞・ユジェーヌアダム賞 |
1927 |
Rose of England |
英オークス |
1928 |
Brunhild |
ロワイヤリュー賞 |
1928 |
Celerina |
アスタルテ賞・ドーヴィル大賞 |
1928 |
Salpiglossis |
イタリア大賞 |
1929 |
Bishop's Rock |
オカール賞 |
1929 |
Incessu Patuit |
クリテリウムドサンクルー・ペネロープ賞 |
1929 |
Shred |
リュパン賞・ダリュー賞 |
1930 |
Betty |
コロネーションS・モールコームS |
1931 |
Anatolie |
フィユドレール賞・ミネルヴ賞 |
1932 |
Crisa |
ヴェルメイユ賞 |
1932 |
Le Gazon |
エクリプス賞 |
1932 |
Medea |
フロール賞・ロワイヤリュー賞 |
1932 |
Tara |
クインシー賞 |
1933 |
Sun Teddy |
アーリントンH |
1935 |
Invoke |
ガゼルH |
1936 |
Knickerbocker |
メトロポリタンH |