ロックサンド

和名:ロックサンド

英名:Rock Sand

1900年生

黒鹿

父:セインフォイン

母:ロックブルーン

母父:セントサイモン

栄光ある第10代英国三冠馬でありながら評価が低くて米国に輸出され、20世紀米国競馬の至宝マンノウォーの母の父となる

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績20戦16勝2着1回3着3回

誕生からデビュー前まで

史上10頭目の英国三冠馬。英国ニューマーケットのハミルトンスタッドにおいて、同牧場の所有者ジェームズ・ミラー卿により生産・所有され、ジョージ・ブラックウェル調教師に預けられた。

非常に神経質な性格だった母ロックブルーンの初子である本馬もまた神経質な性格の持ち主だった(もっとも、母と異なりレースに悪影響を及ぼすほどではなかった)。また、成長しても体高は15.3ハンドにしかならなかった小柄な馬であり、英ダービーなどで好勝負するには小さすぎるとして、将来はあまり有望ではないと評する者もいた。反応が悪くて加速力に欠けた馬でもあり、レースに出走する直前にはいつも駆け足でしっかりと準備運動を行う事で身体を暖める必要があった。

競走生活(2歳時)

2歳5月にニューマーケット競馬場で行われたベッドフォードS(T5F)でデビューして勝ち上がった。次走のウッドコートS(T6F)からは米国出身の名手ダニエル・マハー騎手を主戦として迎えた。このウッドコートSでは、後にアスコットダービーを勝ち英チャンピオンSで2着するクルーンスタッドを3/4馬身差の2着に抑えて勝利した。次走のコヴェントリーS(T5F)では、名牝ラフレッチェ牝駒のバロネスラフレッチェと対戦した。そしてバロネスラフレッチェに頭差まで迫られたものの勝利を収めた。さらに7月のチェスターフィールドS(T5F)も勝利。9月の英シャンペンS(T6F)も、2着ウィリアムルーファスや3着となったニューSの勝ち馬でジムクラックS2着のサーモン以下に勝利を収め、無傷の5連勝。頭差だったコヴェントリーS以外は全て楽勝であり、この時点では2歳馬最強の評価を得ていた。

しかしデビュー6戦目となったミドルパークS(T6F)では反応が鈍く、インペリアルプロデュースSを勝っていた同厩馬フロットサムと、ニューS2着馬グレイトレックスの2頭に後れを取り、勝ったフロットサムから2馬身1/4差、首差の2着だったグレイトレックスから2馬身差の3着に敗れた。このレースでマハー騎手はフロットサムに騎乗しており、本馬はウィリアム・レーン騎手に乗り代わっていたから、結果的にはマハー騎手の選択が正しかった事になった。

しかし2週間後のデューハーストS(T7F)では、リッチモンドSの勝ち馬ミードを3馬身差の2着に、グレイトレックスをさらに頭差の3着に下して勝利した。2歳時の成績は7戦6勝で、2歳戦における実績ではフロットサムに次ぐ2番手評価だったが、翌年の英ダービーの前売りオッズでは既に5倍の評価を得ており、これはフロットサムより上の評価だった。

競走生活(3歳時)

3歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたベニントンSから始動して勝利。続いて出走した英2000ギニー(T8F)では、前年の英ダービーをアードパトリックで勝っていた米国出身のスキーツ・マーティン騎手が騎乗する本馬が単勝オッズ2.5倍で11頭立ての1番人気に支持され、前年の英シャンペンSで本馬の3着に敗れたサーモンが単勝オッズ7倍の2番人気、フロットサムが単勝オッズ8倍の3番人気となった。本馬は例によってやや反応が鈍く、レース序盤は馬群の中団にいた。しかし残り距離が半分を切ったところでようやくエンジンがかかると、先行するフロットサムを一気にかわして早くも先頭に踊り出た。そして粘るフロットサムを尻目に悠々とゴールまで走り抜け、2着フロットサムに1馬身半差をつけて優勝した。フロットサムから2馬身差の3着には後に名種牡馬となるナショナルブリーダーズプロデュースSの勝ち馬ラブレーが入り、4着には後に史上最高の繁殖牝馬の父と評されるジムクラックSの勝ち馬チョーサーが入った。

次走の英ダービー(T12F29Y)は、ラダスが勝った1894年以来となる7頭立ての少頭数となった(20世紀以降の英ダービーでは、2015年現在でも単独で最少頭数となっている)。今回はマハー騎手が手綱を取る本馬は単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。当時の英国王エドワードⅦ世一家を含む大観衆が見守る中でスタートが切られると、まずはミードが先頭に立ち、珍しくスタートダッシュが良かった本馬はミードを追うように先行した。そしてタッテナムコーナーを回りながら先頭に立つと、エプソム競馬場の長い直線で押し切りを狙った。後方からは2番人気の仏2000ギニー・モルニ賞の勝ち馬ヴィニシウスが追撃してきたが、本馬を捕まえることは出来なかった。本馬が2着ヴィニシウスに2馬身差、3着フロットサムにもさらに2馬身差をつけて優勝した。これにより、一昨年にヴォロディオフスキーで勝ったレスター・レイフ騎手、昨年にアードパトリックで勝ったマーティン騎手に続いて、3年連続で米国出身騎手が英ダービーを制覇した事になった。これは別に偶然ではなく、当時の米国競馬界には反賭博運動が吹き荒れており、米国の名騎手達が英国に拠点を移していたからだった。

その後はセントジェームズパレスS(T8F)に向かった。ここでは単勝オッズ1.1倍という圧倒的な1番人気に応えて楽勝した。

次走は初の古馬相手のレースとなるエクリプスS(T10F)となった。このレースには、英2000ギニー・英1000ギニー・英オークス・英セントレジャー・ウッドコートS・ジュライS・セントジェームズパレスS・ナッソーSと前月のハードウィックSを勝っていた前年の英国クラシック競走4勝馬セプターと、そのセプターを破った英ダービーを筆頭にインペリアルプロデュースS・プリンスオブウェールズS・プリンセスオブウェールズSを勝っていたアードパトリックも出走しており、“the three best horses in England(英国における最も優れた馬3頭)”による対決となった。「おそらく英国だけでなく世界中の競馬の競走としては最高のメンバー構成だろう」と評され、かつて無いほどの大変な盛り上がりを見せた。競馬好きで知られていたエドワードⅦ世も、この“Battle of Giants(巨人達の対決)”を観戦するためにサンダウンパーク競馬場に姿を見せていた。単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持されたのは本馬で、セプターが単勝オッズ2.75倍の2番人気、アードパトリックが単勝オッズ6倍の3番人気だった。スタートが切られるとコロネーションSを勝ってきたオリオールが先頭を伺ったが、本馬もそれに積極的に並びかけて、2頭が先頭を引っ張る展開となった。そしてセプターとアードパトリックは揃って本馬をマークするように追走してきた。そして直線に入ると単独で先頭に立った本馬に、セプターとアードパトリックの2頭が並びかけて三つ巴の勝負になると思われた。しかし真っ先に本馬は遅れてしまい、勝ったアードパトリックから3馬身1/4差、首差の2着だったセプターから3馬身差の3着と完敗を喫し、“desperate finish(絶望的なゴール)”だったと言われてしまった。このレースの結果により、本馬の世代のレベルには疑問符が投げかけられることになってしまった。

しかし同世代馬相手である英セントレジャー(T14F132Y)では、単勝オッズ1.4倍の圧倒的1番人気に支持された。マハー騎手が手綱を取った本馬は、ミードなど他4頭の馬を相手にもせずに我が道を突き進み、2着ウィリアムルーファスに4馬身差、3着ミードにはさらに半馬身差をつけて勝ち、1900年のダイヤモンドジュビリー以来3年ぶり史上10頭目の英国三冠馬の名誉を手中に収めた。

続いて出走したジョッキークラブS(T14F)では、セプターと2度目の対戦となった(アードパトリックも当初は参戦予定だったが脚部不安のために回避してそのまま引退)。斤量はセプターのほうが本馬より6ポンド重かった(資料によっては、セプターの斤量は140ポンドで、本馬は121ポンドと、その差は19ポンドとなっている。セプターが6ポンド重かったというのは、年齢と性別を考慮すると通常は13ポンドの差であるべきだが、さらに6ポンドのハンデを追加したという意味なのかもしれない)。しかしこの斤量差にも関わらず、結果はセプターが勝ち、本馬は4馬身差をつけられて2着に完敗した。3歳時の成績は7戦5勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳時は6月のコロネーションC(T12F29Y)から始動した。このレースには、セプターに加えて、本馬と同世代の実力馬ジンファンデルも参戦してきた。ジンファンデルは史上6頭目の英国三冠馬アイシングラスの生産・所有者だったハリー・マッカルモント大佐の所有馬だった。ところが1902年12月にマッカルモント大佐が心不全のため41歳の若さで急死してしまい、彼がジンファンデルに関して行っていた英国クラシック登録が当時のルールに従って全て無効となった。そのために本馬が制した英国三冠競走に参加する事は出来ずに裏街道を進んで、マンチェスターC・アスコットゴールドヴァーズ・ゴードンS・スカーボローSを勝ち、シザレウィッチHで23ポンドのハンデを与えた古馬グレイトリックの3/4馬身差2着するなどしていた。そしてようやく表舞台に飛び出してきたジンファンデルは、今までの鬱憤を晴らすかのように、セプターを2着に下して優勝し、本馬は3着に敗退。英ダービーと同コースで行われたコロネーションCで同世代馬に負けてしまった事により、本馬は世代最強の座から転落した。

その後の本馬はジンファンデルを避けるようにレースに出走した。まずはハードウィックS(T12F)に出走して、ここでセプターと4度目の対戦となった。今回は本馬が2着サントリーに2馬身差、3着セプターにはさらに3馬身差をつけて勝ち、これが現役最後のレースだったセプターに初めて先着する事が出来た。ただしセプターは距離20ハロンのアスコット金杯に出走した直後だったから、本馬とセプターの評価がこれで逆転するような事にはならなかった。

続くプリンセスオブウェールズS(T12F)では、同月のグッドウッドCを勝つソルトペトラを2着に、ウィリアムルーファスを3着に破って楽勝した。数日後にはリングフィールドパークS(T10F)に出走して、デューハーストSの勝ち馬で英2000ギニー3着の3歳牡馬ヘンリーザファーストと対戦。結果は本馬が2着ロックライアン以下に勝利を収め、ヘンリーザファーストは3着だった。さらに7月のニューマーケットファーストフォールSも勝利した。

9月末に行われたジョッキークラブS(T14F)が本馬の4歳時最後のレースとして設定された。ここには英セントレジャーでプリティポリーの2着してきたヘンリーザファースト、ウィリアムルーファスに加えて、この年の英2000ギニー・英ダービーを勝っていたセントアマントも出走してきた。しかし英セントレジャーでプリティポリーの着外に敗れて英国三冠馬になれなかったセントアマントは本馬の敵ではなく、ここでも着外に惨敗。スタートでいつも以上に加速が悪かった本馬が、それでもヘンリーザファーストを1馬身半差の2着に、ウィリアムルーファスをさらに4馬身差の3着に従えて勝利を収めた。ニューマーケット競馬場に詰め掛けた観衆は、引き揚げていく本馬に熱烈な声援を送り、あまりの声援の大きさに、人々が乾杯する時の掛け声が聞こえないほどだったという。4歳時の成績は6戦5勝だった。

翌年はアスコット金杯を目標として調整されていたが、前年の最終戦ジョッキークラブSのレース前から脚を引きずる仕草を見せていた本馬は腱を故障してしまい、5歳時はレースに出ることなく競走馬を引退した。

血統

Sainfoin Springfield St. Albans Stockwell The Baron
Pocahontas
Bribery The Libel
Splitvote
Viridis Marsyas Orlando
Malibran
Maid of Palmyra Pyrrhus the First
Palmyra
Sanda Wenlock Lord Clifden Newminster
The Slave
Mineral Rataplan
Manganese
Sandal Stockwell The Baron
Pocahontas
Lady Evelyn Don John
Industry
Roquebrune St. Simon Galopin Vedette Voltigeur
Mrs. Ridgway
Flying Duchess The Flying Dutchman
Merope
St. Angela King Tom Harkaway
Pocahontas
Adeline Ion
Little Fairy
St. Marguerite Hermit Newminster Touchstone
Beeswing
Seclusion Tadmor
Miss Sellon
Devotion Stockwell The Baron
Pocahontas
Alcestis Touchstone
Sacrifice

父セインフォインはスプリングフィールド産駒で、英国ヴィクトリア女王がハンプトンコートスタッドにおいて生産した馬である。1歳時のセリで英国の政治家だった初代准男爵ロバート・ジャーディン卿とジョン・ポーター調教師の両名により購入されて競走馬となった。デビューから5連勝で英ダービーを制したが、その後はハードウィックS2着がある程度で勝ち星を上乗せできずに通算成績8戦5勝で引退した。種牡馬としては本馬の活躍で1903年の英愛種牡馬ランキング2位になっているが、本馬以外の活躍馬は少ない。しかし、繁殖牝馬の父としてはファラリスハリーオンを出しており、後世に与えた影響は大きい。

母ロックブルーンは名牝カンタベリーピルグリムの生産者モントローズ公爵夫人がセフトンスタッドにおいて生産した馬で、モントローズ公爵夫人が死去した後の1歳時にミラー卿に4100ギニーで購入され、現役時代はニューS・ゼトランドSの2勝を挙げている。しかし「調教師にとっての悪夢」の異名を取るほど極めて神経質な馬であり、3年間の競走馬生活で僅か3戦しかしていない。

ロックブルーンはシャルルーという種牡馬とも交配され、本馬の半妹ロケットを産んだ。シャルルーは英ダービー・英オークスを勝ったシニョリネッタの父であり、シニョリネッタの項に記載したように当て馬をしていた凡庸な種牡馬だった(ロケットはシニョリネッタより1歳年上)。しかしロケットの牝系子孫は発展し、ロケットの子にダゴール【仏2000ギニー・仏ダービー】、孫にパヴィヨン【ロベールパパン賞】、ドーヴィル【ロベールパパン賞】、曾孫にロゼテー【仏1000ギニー】、ブルーツァー【サラマンドル賞】、牝系子孫にキングスウェイ【英2000ギニー】、フォートナポレオン【イスパーン賞・ジャックルマロワ賞】、ベラパオラ【英1000ギニー・英オークス・仏グランクリテリウム・ヴェルメイユ賞・英チャンピオンS】、ポーラベラ【仏1000ギニー・ムーランドロンシャン賞】、レフィック【仏ダービー(仏GⅠ)・パリ大賞(仏GⅠ)】、ペルセポリス【リュパン賞(仏GⅠ)】、ナトルーン【仏ダービー(仏GⅠ)】、レインボーダンサー【ハリウッドパークターフH(米GⅠ)・オークトゥリーターフS(米GⅠ)】、ヴァラヌール【パリ大賞(仏GⅠ)・ガネー賞(仏GⅠ)】、ミスサタミクサ【ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)】、インディアンインク【チェヴァリーパークS(英GⅠ)・コロネーションS(英GⅠ)】、ブルーバンティング【英1000ギニー(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)・ヨークシャーオークス(英GⅠ)】などが出ている。

ロックブルーンの母セントマルゲリートは当馬の項を参照。→牝系:F4号族④

母父セントサイモンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷のハミルトンスタッドで種牡馬入りした。しかし上の世代のセプターやアードパトリック、同世代のジンファンデルに敵わなかった本馬は、対戦相手が弱かったから英国三冠馬になれた馬というレッテルを貼られ(現在でもその評価はあまり変わっていない)、種牡馬としては甚だ不人気だった。競走馬登録された初年度産駒は僅か3頭と、栄光ある英国三冠馬とは思えないほど繁殖牝馬は集まらなかった。

1906年に所有者のミラー卿が死去するとセリに出された本馬は、米国ジョッキークラブの初代会長オーガスト・ベルモント・ジュニア氏により2万5千ドルで購入され、米国ケンタッキー州レキシントンにあるナーサリースタッドに移り住んだ。米国でも本馬の種牡馬成績は数字上では芳しくなく、北米種牡馬ランキングで20位以内が2回(最高は1915年の5位)だった。ただし、所有者のベルモント・ジュニア氏は本馬の有力産駒の何頭かを米国ではなく欧州で走らせたから、このランキングを額面どおりに受け取ってはいけない(欧州で活躍した産駒の成績はこのランキングに反映していないため)。1912・13年には英愛種牡馬ランキングで共に4位に入っているから、欧米合計の種牡馬成績はそれほど悪くは無い。

米国では6年間暮らしたが、ニューヨーク州で賭博禁止法が成立するなど、競馬を禁止する州が増えてきたため、1912年に仏国に輸出された。この時期になると、元々神経質だった本馬の気性はさらに悪化しており、小屋の壁を蹴ったり、就寝用の藁を食べたりする問題行動が発生していたという。1914年7月に心臓病のため14歳で他界した。現在本馬の骨格はパリにある国立歴史博物館に展示されている。

本馬の後継種牡馬としてはトラップロックとフライアーロックが一定の成功を収めた。特にフライアーロックの直系孫には米国顕彰馬エイトサーティが出て、しばらく米国においてサイアーラインは残った。また、曾孫に当たるコングリーヴが亜国で競走馬及び種牡馬として大成功を収め、本馬の直系は南米において21世紀まで続く事となったが、現在はかなり衰退しているようである。本馬の種牡馬成績は悪くは無かったと言ってもそれほど優秀だったとも言えないが、繁殖牝馬の父としてはかなり優秀な成績を収め、北米母父種牡馬ランキングでは10位以内に4回(最高は1924年の3位)入っている。繁殖牝馬の父として送り出した最高傑作は何と言ってもマンノウォーであり、他にもエピナードダイオライト、それに優秀な障害競走馬も多く出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1909

Mission

米グランドナショナル

1909

Qu'elle est Belle

仏オークス

1909

Tracery

英セントレジャー・エクリプスS・英チャンピオンS・セントジェームズパレスS・サセックスS

1910

Rock Flint

ジュライS・モールコームS

1910

Rock View

ウィザーズS・トラヴァーズS・ブルックリンダービー・ローレンスリアライゼーションS・トボガンH

1910

Vulcain

ノアイユ賞

1913

Damrosch

プリークネスS

1913

Fernrock

スタイヴァサントH

1913

Friar Rock

ベルモントS・ブルックリンH・サバーバンH・サラトガC

1913

Malachite

アラバマS

1915

Gave

ビエナル賞

TOP