アードパトリック
和名:アードパトリック |
英名:Ard Patrick |
1899年生 |
牡 |
青鹿 |
父:セントフローリアン |
母:モルガネッティ |
母父:スプリングフィールド |
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英国クラシック競走4勝馬セプターと名勝負を繰り広げた愛国出身の英ダービー馬は独国で名種牡馬として活躍する |
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競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績11戦6勝2着2回3着2回(異説あり) |
誕生からデビュー前まで
当時は英国に併合されていた愛国において、同国の馬産家ジョン・ガビンズ氏により生産された。本馬の母モルガネッティは既に愛ダービー馬ブレアファインドや英国三冠馬ガルティモアを産んでいた大繁殖牝馬だった。そのモルガネッティの交配相手として、1898年にガビンズ氏が指名したのは無名種牡馬セントフローリアンだった。当時セントフローリアンは体調が非常に悪かった事もあり、周囲の人間は反対したが、ガビンズ氏は頑として譲らず、モルガネッティにセントフローリアンを交配させた。その1週間後にセントフローリアンは他界したが、翌年にモルガネッティが産んだセントフローリアン産駒が本馬である。
体高17ハンドの大型馬ながら細身で柔らかい身体の持ち主で、脚が僅かに湾曲している以外は欠点が無い馬だった。本馬は誕生したノッカニースタッドの近くにあるアードパトリック村の名前にちなんで命名された。本馬を管理する事になった英国のサム・ダーリン調教師は本馬の素質を見抜き、慎重に本馬を仕上げていった。その結果デビューは2歳秋までずれ込んだ。
競走生活(2・3歳時)
ケンプトンパーク競走場で迎えたデビュー戦のインペリアルプレート(T6F)では、13ポンドのハンデを貰ったロイヤルランサーに短頭差をつけて勝利したが、ハンデ差が大きかっただけに高い評価は得られなかった(斤量差を3ポンドとする資料もある)。しかし4日後のクリアウェルSでは3ポンド差までハンデが縮まったロイヤルランサーを再度破って勝利し、ここでようやく評価された。
次走のデューハーストプレート(T7F)では、インペリアルプロデュースS・シャンペンSを勝っていた牝馬ゲームチックの首差2着となり、2歳時は3戦2勝の成績となった。それでもリッチモンドSやニューSを勝っていたデュークオブウエストミンスターなどと共に翌年の英ダービーの有力候補の1頭に挙げられ、本馬を2万ギニーで購入したいという申し出をガビンズ氏が断ったという話も伝わっている。
翌年は英国クラシック競走を目指したが、調整が遅れてしまい、ぶっつけ本番で英2000ギニー(T8F)に出走することとなった。このレースではデュークオブウエストミンスターと牝馬セプターが人気を集めており、本馬は3番人気だった。結果はレコードタイムで勝ったセプターから5馬身差、2着ピストルからも3馬身差の3着に終わった。翌週に出走したメイプレート(T8F)では21ポンドのハンデを与えたロイヤルアイヴィーの2馬身差2着に敗れた。続いてニューマーケットS(T10F)に出走。ここではゴール前でふらつきながらもフォーリングピースに頭差をつけてトップゴールしたが、ロイヤルランサーの進路を妨害したとして失格(3着降着とする資料もある)となった。
しかしこのレースから本馬の調子は上向き、次走の英ダービー(T12F)では、英2000ギニーと異なり好調で出る事が出来た。レースは雨天のため観衆は例年より少なかったが、英国王エドワードⅦ世夫妻を始めとする多くの人々に見守られながら開始された。米国人のジョン・“スキーツ”・マーティン騎手を鞍上に迎えた本馬は、2~3番手追走からタッテナムコーナーで先頭に立つと、直線で競りかけてきた1番人気のセプターを楽に振り落とし、追い込んできたライジンググラスに3馬身差をつけて快勝。この走りは後に「まるでライオン」「放たれた矢のような勢い」と評された。英2000ギニーの2日後に英1000ギニーも勝ち、後に英オークス・英セントレジャーも制するセプターにとっては前人未到(前馬未到か)の英国クラシック競走5戦完全制覇の夢を絶たれる痛恨の黒星となった。
本馬は続いてプリンスオブウェールズS(T13F)に出走したが、スタート前からよろめく場面があり、英ダービーの激闘の疲労が抜け切っていないのではないかと思われた。レースでも13ポンドのハンデを与えたカップベアラーに3/4馬身遅れを取って2位入線だったが、カップベアラーが進路妨害で失格になったため、本馬が繰り上がって勝利馬となった。しかしこのレースで腱の故障を発症してしまい、次走に予定していたエクリプスS(英ダービーやプリンスオブウェールズSで本馬に敗れたチアーズという馬が勝っている)はおろか、秋の大目標だった英セントレジャーまでも不出走となってしまい、セプターの英国牝馬三冠達成を阻む事も出来なかった。
ようやく復帰したのは英セントレジャーが終わった後のジョッキークラブS(T14F)だったが、131ポンドを課された結果、12ポンドのハンデを与えたライジンググラスの3着に終わり、3歳時の成績は6戦2勝となった。
競走生活(4歳時)
その後は脚を完全に治すために当分休養したが、この間に本馬を1万5千ポンドで購入したいという申し出があり、例によってガビンズ氏が断ったと伝えられている。4歳時は7月のプリンセスオブウェールズS(T12F)から始動して、ロイヤルランサーやチアーズを相手にせず馬なりのまま楽勝した。
次走は4歳時の最大目標としていたエクリプスS(T10F)となった。このレースにはセプターに加えて、この年の英2000ギニー・英ダービー勝ち馬で後に英セントレジャーを制して英国三冠馬となるロックサンドも参戦してきて、当時の英国競馬における三大強豪馬対決“Battle of Giants”として空前の盛り上がりを見せ、英国王エドワードⅦ世を始めとする大観衆がサンダウンパーク競馬場に詰め掛けた。1番人気はロックサンドで単勝オッズ2.25倍、2番人気がセプターで単勝オッズ2.75倍、本馬は単勝オッズ6倍の3番人気だった。この年の英首位騎手となるハーバート・“オットー”・マッデン騎手(余談だがハンガリーの名牝キンチェムの主戦だったM・マッデン騎手の息子であるらしい)が手綱を取った本馬は先行したロックサンドを見る形でレースを進め、直線に入るとセプターと共にロックサンドに並びかけ、観衆の期待通り三つ巴の激戦となった。最初にロックサンドが遅れてセプターが抜け出したが、内側から本馬が猛然と追撃。最後は本馬がゴール寸前きわどく首差セプターを逆転して優勝(ロックサンドは3馬身差の3着)、本馬の地元である愛国の人々を熱狂の渦に巻き込んだ。このレースはオーモンド、ミンティング、ベンディゴの3頭が激戦を演じた1887年のハードウィックSに並ぶ英国競馬史上の名勝負と讃えられた。
この後、ジョッキークラブSで再度セプター、ロックサンドと対決する予定だったが、脚部不安のために出走できずそのまま4歳時2戦2勝の成績で引退した。
同期のセプターの派手な活躍と比べると本馬の戦績は少し地味であるが、英タイムフォーム社は本馬を「英国の平地競馬における最も偉大な知られざる英雄」として、歴代の英ダービー馬の中でも高評価を与えている。
血統
St. Florian | St. Simon | Galopin | Vedette | Voltigeur |
Mrs. Ridgway | ||||
Flying Duchess | The Flying Dutchman | |||
Merope | ||||
St. Angela | King Tom | Harkaway | ||
Pocahontas | ||||
Adeline | Ion | |||
Little Fairy | ||||
Palmflower | The Palmer | Beadsman | Weatherbit | |
Mendicant | ||||
Madame Eglentine | Cowl | |||
Diversion | ||||
Jenny Diver | Buccaneer | Wild Dayrell | ||
Little Red Rover Mare | ||||
Fairy | Warlock | |||
Leila | ||||
Morganette | Springfield | St. Albans | Stockwell | The Baron |
Pocahontas | ||||
Bribery | The Libel | |||
Splitvote | ||||
Viridis | Marsyas | Orlando | ||
Malibran | ||||
Maid of Palmyra | Pyrrhus the First | |||
Palmyra | ||||
Lady Morgan | Thormanby | Windhound | Pantaloon | |
Phryne | ||||
Alice Hawthorn | Muley Moloch | |||
Rebecca | ||||
Morgan La Faye | Cowl | Bay Middleton | ||
Crucifix | ||||
Miami | Venison | |||
Diversion |
父セントフローリアンはセントサイモンの直子。しかし現役成績は8戦1勝、ニューマーケットSで英ダービー馬ラダスの2着した程度の目立たない競走馬だった。しかし姉にナッソーS勝ち馬メイズ、リッチモンドS勝ち馬シフォニア、コロネーションS勝ち馬シレーネなど活躍馬が多数いる血統が評価され、ガビンズ氏により購入されて種牡馬となり、前述のとおり本馬の母モルガネッティとの種付けを終えた1週間後に7歳でこの世を去った。なお、セントフローリアンの死後にセントフローリアンの半妹ミューザが英オークスを勝っている。
母モルガネッティは喘鳴症があったため現役成績1戦未勝利に終わった。繁殖牝馬として見切りをつけられ売りに出されたところをガビンズ氏に見出され購入されていた。モルガネッティの母レディモルガンの産駒にはジュライS勝ち馬ルペラや、プリンスオブウェールズS勝ち馬アロウェーがおり、レディモルガンの妹には英オークス・英セントレジャー・コロネーションS・ヨークシャーオークスなどを制した名牝マリースチュアートがいたため、牝系としては優秀だった。モルガネッティは繁殖牝馬としては超一流の成績を残し、本馬の半兄ブレアファインド(父ケンダル)【愛ダービー】、半兄で英国三冠馬のガルティモア(父ケンダル)【英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・ミドルパークプレート・プリンスオブウェールズS】も送り出している。→牝系:F5号族③
母父スプリングフィールドは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、すぐに独国に輸出され、ドイツ帝国牧場で種牡馬入りする事になった(最後のレースとなったエクリプスSの前に独国政府が本馬を2万1千ポンドで購入したいとガビンズ氏に申し出てきており、ガビンズ氏がそれを最終的に了承したため)。これはガビンズ氏が痛風を患って馬産が困難になっていたためだが、それ以外にも後にセントサイモンの悲劇と言われるセントサイモンの血の飽和状態が既に始まっていた影響があったものと思われる。本馬が種牡馬入りして間もなく、ロシアで種牡馬入りしていた兄ガルティモアもドイツ帝国牧場にやって来て、兄弟2頭で独国競馬界をリードした。ガルティモアも1910年の独首位種牡馬に輝いたが、本馬はそれを上回る1909・11・13・14年と4度の独首位種牡馬に輝いた。ガルティモアの死から6年後の1923年に本馬は24歳で他界した。死因はシュタイナハ手術の名称で知られる授精能力回復手術の失敗とされている。
本馬の直系は繁栄しなかったが、本馬とガルティモアの血は独国競馬に大きな影響を与え、独国の競馬レベルの向上に大きく寄与した。現在でも独国における活躍馬の多くにはこの2頭の血が入っている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1907 |
Letizia |
独オークス |
1909 |
Dolomit |
ベルリン大賞 |
1911 |
Ariel |
独ダービー |
1911 |
Terminus |
独2000ギニー |