ベンディゴ
和名:ベンディゴ |
英名:Bendigo |
1880年生 |
牡 |
黒鹿 |
父:ベンバトル |
母:ヘイスティガール |
母父:ロードゴフ |
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当初の競走馬経歴は不明ながらも3歳暮れのケンブリッジシャーH制覇をきっかけに英国古馬最強馬の座まで上り詰めた、記念すべき第1回エクリプスSの覇者 |
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競走成績:3~7歳時に英で走り通算成績13戦6勝2着4回3着2回(確認できた範囲のみ) |
誕生からデビュー前まで
M・テイラー氏という人物により生産・所有された愛国産馬である。現役当初は調教師に関する記載が無いことから、テイラー氏が自分でも調教を手掛けていた可能性がある。
競走生活(3・4歳時)
2歳時にはレースに出走せず、3歳時も当初は名のあるレースに出走したという記録は無く、本馬がどのような競走生活を送っていたのかは定かではない。地元が愛国であることから、愛国のレースを地道に走っていたと思われるが、確証は何もない。
本馬の名前が最初に出てくるレースは、3歳暮れに出走したシザレウィッチH(T18F)である。ここで本馬に課せられた斤量は91ポンドと軽いものだったが、それでも単勝オッズ41倍の人気薄だった事から、この段階における本馬は競走馬として特に見るべきものは何も無かった事が伺える。レースは本馬より軽い80ポンドの軽量だった3歳牡馬ドンファン(こちらは単勝オッズ6.5倍と上位人気の一角を占めていた)が勝利を収め、前年のケンブリッジシャーHを勝っていた斤量102ポンドの5歳牝馬ハックネスが1馬身差の2着、斤量89ポンドの3歳牡馬コスモスがさらに1馬身差の3着で、本馬は6着に敗れた。それでも21頭立ての6着だから、それなりに走ったとは言える。
それから2週間後には、H・ルーク騎手を鞍上に、ケンブリッジシャーH(T9F)に出走した。斤量は少し増えて94ポンドとなっており、その分だけさらに評価は下がって単勝オッズ51倍の人気薄だった。ところが25頭立てで施行されたレースでは、ゴール前で左側に壮絶に斜行して外埒沿いまですっ飛んでいきながらも(そのために観客席からは本馬の姿が見えなくなったという)、斤量100ポンドの5歳牡馬トナンスを首差の2着に、斤量90ポンドの4歳牡馬メディクスをさらに3馬身差の3着に抑えて勝利を収め、大穴を空けた。
4歳時もシーズン前半はどのような競走生活を送っていたのかは不明である。この年に出走した記録が残っているレースはケンブリッジシャーH(T9F)のみである。曲がりなりにも前年の覇者である本馬には今回114ポンドが課せられた。それでも、この年のバーデン大賞・マンチェスターCを勝っていた4歳牝馬フローレンスの斤量137ポンドに比べれば遥かにましだった。レースは、シザレウィッチHで着外だったにも関わらず1番人気に支持されていたフローレンスと、単勝オッズ13.5倍の評価だったJ・スノーデン騎手騎乗の本馬の一騎打ちとなった。しかし今回も本馬はゴール前で左側によれてしまった。一騎打ちでよれては致命的であり、フローレンスが勝利を収め、本馬は頭差の2着に敗れた。本馬とフローレンスの斤量差は23ポンドもあり、それで負けたのだからこの段階の本馬の能力はその程度という見方もできるが、本馬よりもっと軽量だった3着以下にはかなり大きな差をつけていたらしく、ここは勝ったフローレンスを誉めるべきであろう。
競走生活(5歳時)
5歳になった本馬は、H・T・バークレー少佐という人物の所有馬となった。本馬の管理調教師として、W・ジョウシフェ師という人物の名前が出てくるのもこの年からである。しかしこの両名がどんな人物だったのかは資料不足で分からない。過去2年間は暮れの“Autumn Double(シザレウィッチH・ケンブリッジシャーH)”以外の出走状況は不明だった本馬だが、この5歳時からは比較的出走状況が明確になってくる。
この年の初戦は3月のリンカンシャーH(T8F)で迎えた。ここでは117ポンドの斤量が課せられた本馬だったが、それでも単勝オッズ3.75倍の1番人気に支持された。そしてスノーデン騎手を鞍上に、22ポンドのハンデを与えた3歳牡馬バードオブフリーダムを3/4馬身差の2着に、17ポンドのハンデを与えた同世代の牡馬マクマホンを3着に破って勝利を収めた。負けたバードオブフリーダムはこの後にめきめきと強くなり、直後のシティ&サバーバンHでマクマホンを頭差の2着に抑えて勝つと、2か月後のエプソム金杯(現コロネーションC)も制覇。翌年にはアスコットゴールドヴァーズを勝ち、さらにその翌年には馬なりのままアスコット金杯を圧勝するほどまでになった。
一方の本馬は、リンカンシャーHの後はハードウィックS(T12F)に出走。斤量はさらに増えて、128ポンドとなっていた。それでも、スノーデン騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。この年の英2000ギニーで、この年の3歳馬ではトップクラスと目されていたパラドックスに頭差の2着まで迫ったクラフトンが単勝オッズ5倍の2番人気、前年の英チャンピオンSをトリスタンと同着で勝利していた5歳牡馬ルツェルンが単勝オッズ11倍の3番人気となった。レースは最内の経済コースを上手く立ち回ったクラフトンが直線入り口で先頭に立った。しかしそこへクラフトンをマークするように上がってきた本馬が襲い掛かると、クラフトンを並び間もなく抜き去った。そしてゴール前で2着に上がった斤量105ポンドの3歳牡馬ウィリーダーリングを4馬身差の2着に、斤量110ポンドのクラフトンをさらに頭差の3着に破って勝利した。クラフトンに大きなハンデを与えて完勝した本馬は、前年の英ダービー・ゴールドヴァーズ・シザレウィッチH・ニューマーケットフリーH・ジョッキークラブCとこの年のアスコット金杯・クイーンアレクサンドラSを勝っていたセントガティエンに次ぐ現役古馬トップクラスの馬としての評価を確立するに至った。
その後は2年ぶりの勝利を目指して、ケンブリッジシャーH(T9F)に向かった。レース直前まで本命視されていた英2000ギニー・パリ大賞・デューハーストプレートの勝ち馬パラドックスは、陣営の意思疎通の不備によるトラブルで回避していたが、それでも過去2年の同競走と比べると対戦相手の層が非常に厚かった。前述の現役英国最強古馬セントガティエンを筆頭に、直前のシザレウィッチHを勝ってきたバーデン大賞・プランスドランジュ賞の勝ち馬プレザントゥリ、4年前の英1000ギニー・英オークス・ヨークシャーオークス・ナッソーSの勝ち馬で古馬になってもドンカスターC・リヴァプールオータムC・アスコットゴールドヴァーズを勝っていたテバイス、前月の英セントレジャーで2着してきたアイソバー、仏1000ギニー・仏オークスの勝ち馬バルベリーヌ、仏グランクリテリウムの勝ち馬ザコンドル、後にこの年の英チャンピオンSでパラドックスの2着することになるリッチモンドSの勝ち馬デュークオブリッチモンド、ロイヤルハントCの勝ち馬イースタンエンペラーなど26頭が対戦相手となった。デビューから無傷の11連勝中だったセントガティエンが136ポンドのトップハンデを課されながらも単勝オッズ3倍の1番人気で、斤量2位の134ポンドを課された本馬は単勝オッズ13.5倍の5番人気だった。レースは斤量124ポンドのプレザントゥリが勝利を収め、本馬はプレザントゥリから2馬身差をつけられながらも、セントガティエン、テバイス、イースタンエンペラーなどとの接戦を制して、イースタンエンペラーを首差の3着に抑えて2着を確保した。2年ぶりの同競走勝利は成らなかったが、勝ったプレザントゥリはこの勝利により仏国調教馬でありながら英国競馬関係者から「19世紀における最高の名牝の1頭」という評価を得るに至っており、それに10ポンドのハンデを与えながら2着に入った本馬は、5着に敗れたセントガティエンと並ぶ現役英国最強古馬の地位を手に入れた。
ところで、このケンブリッジシャーHで本馬に騎乗したのは、フレッド・アーチャー騎手だった。英国クラシック競走全てに加えて、シザレウィッチH・英チャンピオンS・プリンスオブウェールズS・セントジェームズパレスS・ヨークシャーオークス・エプソム金杯・デューハーストプレート・ミドルパークプレートなど英国の主要競走の多くを制したアーチャー騎手だったが、ケンブリッジシャーHやアスコット金杯などには勝っていなかった。アーチャー騎手は勝っていないケンブリッジシャーHを勝利するために翌年に強引な減量をして心身共に衰弱し、その結果として錯乱して拳銃自殺を遂げたと言われている。ということは、もし本馬でこの年に勝っていれば彼の自殺は無かったかもしれないわけだが、彼が精神を病み始めたのは妻子に先立たれた事がきっかけであり、減量苦はそれに追い打ちをかけたものであるから、ケンブリッジシャーHを勝っていようがいまいが彼はいずれ似たような最期を遂げたと筆者は自分の経験上思っている。
競走生活(6歳時):第1回エクリプスS
6歳になった本馬はシーズン初戦として、その競走馬生活におけるハイライトと言えるレースに出走する事になった。そのレースとは、この1886年に創設された英国競馬史上初の1万ポンド競走エクリプスS(T10F)だった。この魅力的な賞金に惹かれて、前年のケンブリッジシャーH5着後にジョッキークラブC・ロウス記念Sを勝っていたセントガティエンに加えて、この年の英1000ギニー・英オークスを勝っていたミスジャミー、後にグレートヨークシャーS・ロイヤルハントCを勝つ英シャンペンS2着馬ゲイハーミット、この年のエプソム金杯を勝っていたキャンドルマスといった3歳馬勢も参戦してきた。もっとも、本当にこの年の3歳トップクラスだったオーモンド、ミンティング、ザバードといった馬達は不参戦だった(この中でミンティングだけは出走予定だったのだが故障のため回避した)。そのためにこのレースは本馬とセントガティエンの古馬2頭による一騎打ちになると目されており、133ポンドの本馬が単勝オッズ2.5倍の1番人気、136ポンドのセントガティエンが単勝オッズ3.25倍の2番人気となった。
スタートが切られると、トム・キャノン騎手が騎乗する本馬が先頭に立ち、セントガティエンが本馬をマークするように追走してきた。キャノン騎手は本馬の手綱を強く引っ張っており、本当は逃げるつもりではなかったようだが、結局は諦めてそのまま先頭をひた走ることになった。直線に入ると、セントガティエンが本馬に並びかけようとしたが、残り2ハロン地点で二の脚を使って伸びた本馬がセントガティエンを一気に突き放した。そしてゴール前で2着に上がった斤量119ポンドのキャンドルマスに3馬身差、3着セントガティエンにはさらに半馬身差をつけて勝利を収め、記念すべき第1回エクリプスSの覇者として歴史に名を刻むことになった。ゴール前で本馬は完全に馬なりで走っており、セントガティエンより3ポンド斤量が軽かったと言っても、それを埋めて余りあるセントガティエンとの実力差を見せつけた事により、セントガティエンを蹴落として完全に英国最強古馬の地位を手に入れた。6歳時はエクリプスS以外にレースに出たという記録は無く、このレースのためだけのシーズンだった。
競走生活(7歳時)
7歳時も現役を続けたが、この年はエクリプスSが施行されなかった。その理由は筆者が調べてもよく分からなかったが、翌1888年から同競走は3・4歳馬限定戦になっている事から、施行条件に関して何らかの論議となったために中止されたと考えるのが妥当かと思われる。そんな次第で、この年の本馬の目標はエクリプスS以外のところに求めなければならなかった。なお、この年の本馬にはほぼ一貫してジョン・ワッツ騎手が騎乗する事になる。まずは5月にケンプトンパーク競馬場でグレートジュビリーS(T8F)に出走。本馬には136ポンドが課せられ、これはこの年の英ダービー3着馬マートリーの96ポンドより40ポンドも重いという極めて厳しいものだった。それでも単勝オッズ5倍の評価を受けた本馬は、マートリーを3/4馬身差の2着に抑えて勝利を収めた。
その後は6月のアスコットジュビリーS(T8F)に向かった。このレースには、本馬とは初対戦となるミドルパークプレート・パリ大賞・英シャンペンS・シートンデラヴァルSの勝ち馬で英2000ギニー2着のミンティングが参戦してきた。さらには、アスコットダービーの勝ち馬で英セントレジャー・ケンブリッジシャーH2着・英ダービー3着のセントミリン(前年のケンブリッジシャーHでアーチャー騎手はこの馬に乗るために無理な減量をしたとされる)も出走してきた。斤量は本馬とミンティングが134ポンド、セントミリンが124ポンドに設定された。結果はミンティングが勝ち、セントミリンが1馬身差の2着で、本馬は3歳牡馬エイントリーと3着同着に持ち込むのがやっとだった。
次走のハードウィックS(T12F)では、ミンティングだけでなく、もう1頭の強敵が出走してきた。その馬の名前はオーモンド。英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・デューハーストプレート・英チャンピオンS・クリテリオンS・セントジェームズパレスS・ハードウィックS・ニューマーケットセントレジャー・ニューマーケットフリーH・ロウス記念Sなど14戦全勝の英国三冠馬だった。しかし間違いなく英国競馬史上に出現した最高の名馬と賞賛されたオーモンドは、この時期に持病の喘鳴症がかなり悪化しており、およそ本調子にはなかった。それでもオーモンドが単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持され、過去に何度もオーモンドに煮え湯を飲まされていたが今回こそは勝ち目があると陣営が意気込んでいたミンティングが単勝オッズ2.75倍の2番人気で、本馬は単勝オッズ13.5倍と離された3番人気だった。レースは事前予想どおりにオーモンドとミンティングの壮絶な死闘となったが、オーモンドが首差で勝利を収めて無敗記録を死守し、本馬は2着ミンティングから3馬身差をつけられた3着に敗退。斤量は他2頭の136ポンドに対して本馬は138ポンドと2ポンド差があったが、オーモンドの体調や着差を考慮すると完敗だった。
その後はシザレウィッチH(T18F)に出走した。本馬には133ポンドが課せられた。結果は斤量104ポンドの3歳牡馬ヒュームウッド(本当は99ポンドの予定だったが、騎手の減量失敗により5ポンド超過で出走する羽目になっていた)が勝利を収め、本馬は1馬身半差の2着に敗退。しかし斤量128ポンドのドンカスターC・チェスターC・マンチェスターCの勝ち馬カールトンは、本馬からさらに5馬身差の3着であり、本馬が相変わらず英国トップクラスの古馬である事には変わりが無かった。
それは次走の英チャンピオンS(T10F)ですぐに証明され、セントミリンを3馬身差の2着に、この年のエプソム金杯の勝ち馬エイリズポードを3着に下して楽勝した。
次走は4年ぶりの制覇を目指してのケンブリッジシャーH(T9F)となった。本馬には139ポンドが課せられ、これは4年前に勝った時より45ポンドも重かった。レースでは、斤量104ポンドのグロリエーション、斤量89ポンドのクイックサンドの2頭の3歳牡馬との接戦となったが、グロリエーションが勝利を収め、本馬は半馬身差の2着に惜敗。これが現役最後のレースとなった。
本馬が現役中の1886年6月に、英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第37位にランクインした。これは本馬がエクリプスSを勝つ直前に実施されたものなので、実施時期がもう少し後であればもっと上位に入っていたかもしれない。しかし翌年にオーモンドやミンティングに負かされた後に実施されていたらランク外だったかもしれない。したがって、本馬の立ち位置は微妙なところではあるのだが、それでも当時の英国競馬界を代表する実力馬であり、第1回エクリプスSの覇者に相応しい強者であった事は疑う余地が無い。
血統
Ben Battle | Rataplan | The Baron | Birdcatcher | Sir Hercules |
Guiccioli | ||||
Echidna | Economist | |||
Miss Pratt | ||||
Pocahontas | Glencoe | Sultan | ||
Trampoline | ||||
Marpessa | Muley | |||
Clare | ||||
Young Alice | Young Melbourne | Melbourne | Humphrey Clinker | |
Cervantes Mare | ||||
Clarissa | Pantaloon | |||
Glencoe Mare | ||||
Sweet Hawthorn | Sweetmeat | Gladiator | ||
Lollypop | ||||
Alice Hawthorn | Muley Moloch | |||
Rebecca | ||||
Hasty Girl | Lord Gough | Gladiateur | Monarque | The Emperor |
Poetess | ||||
Miss Gladiator | Gladiator | |||
Taffrail | ||||
Battaglia | Rataplan | The Baron | ||
Pocahontas | ||||
Espoir | Liverpool | |||
Esperance | ||||
Irritation | King of Trumps | Velocipede | Blacklock | |
Juniper Mare | ||||
Mrs. Gill | Viator | |||
Lady Fractious | ||||
Patience | Assault | Touchstone | ||
Ghuznee | ||||
Newton Lass | Hetman Platoff | |||
Velocipede Mare |
父ベンバトルは1874年の愛ダービー馬だが、本馬と異なり英国産馬である。種牡馬としては愛国で供用され、2頭の愛ダービー馬を出した。ベンバトルの父ラタプランはポカホンタスの項を参照。
母ヘイスティガールの競走馬としての詳しい経歴は不明だが、勝ち星は挙げているようである。母としては、英セントレジャーで100~150ヤード出遅れながらも勝ったと言われる本馬の半弟キルワーリン(父アービトレーター)【英セントレジャー・グレートチャレンジS】を産んでいる。また、本馬の半妹ベリンツォーナ(父ネクロマンサー)の子には、ファリマン【レイルウェイS】、バレンザ【コロネーションC】、玄孫世代以降にはニュープロビデンス、ワンドの2頭の加国三冠馬、ボウジーニアス【フィリップHアイズリンH(米GⅠ)】などがおり、辛うじて今世紀まで牝系を維持している。
ヘイスティガールの半姉グリーンエリン(父ブラーニー)の牝系子孫からは、マスターチャーリー【ホープフルS】、サイピツト【帝室御賞典(小倉)】などが出たが、こちらの牝系は現在残っていない。→牝系:F9号族①
母父ロードゴフはセントジェームズパレスS2着馬。それほど優れた競走馬では無かったが、種牡馬としてはほぼ完全な失敗に終わった英国三冠馬グラディアトゥール産駒の中では競走成績上位だったために、種牡馬入りを果たした。父と同じく種牡馬として好成績を挙げることは出来なかったが、母の父として本馬とキルワーリンの兄弟の他に、帝室御賞典の勝ち馬を史上最多の23頭出すなど日本で種牡馬として大成功したイボアを出した事により、血統界に影響力を有する事になった。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はリンカンシャー州ブランクニースタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は100ギニーに設定された。しかし種牡馬としては完全な失敗に終わり、没年すらも明らかではない。しかしブラックチェリーという牝馬を出したことにより、その血が後世に受け継がれた。ブラックチェリーは、英1000ギニー・英オークス馬チェリーラスの母となった他にも、大種牡馬ブランドフォードの祖母となり、他にもサンチャリオット、サンタクロース、カロ、シャーラスタニ、ゴールデンフェザント、ルアー、コンサートボーイなど多くの優駿が登場した優れた牝系の始祖となった。