パラドックス
和名:パラドックス |
英名:Paradox |
1882年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:スターリング |
母:カズイストリー |
母父:ザマイナー |
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英ダービーこそ好敵手メルトンに敗れたが英2000ギニー・パリ大賞を勝って人気を博すも、現役時代終盤の陣営の醜聞により不当に評価を落とされた不運の実力馬 |
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競走成績:2・3歳時に英仏で走り通算成績8戦6勝2着1回3着1回 |
誕生からデビュー前まで
父スターリングの生産・所有者であるグラハム一家により、父が種牡馬として繋養されていた英国ウエストミッドランド州バーミンガム近郊のヤードリースタッドにおいて生産された。
1歳時のセリにおいて、ボーリンズ大佐という人物の代理人としてセリに参加していたジョン・ポーター調教師により700ギニーで購入され、ポーター師が厩舎を構えていた有名なキングスクレアに移動して調教が積まれた。現役当初は正式な名前が付けられておらず、“bay colt by Sterling - Casuistry(スターリングとカズイストリーの間に産まれた鹿毛の牡馬)”とか、“the Casuistry colt(カズイストリーの息子)”といった身も蓋も無い呼称だった。
本馬は成長が遅い馬で、2歳時はなかなかデビューに漕ぎ着けられなかった。しかし2歳後半には能力が開花し始め、公式戦に出走する前の試走で良い走りを見せた。この試走を見た初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿は、ボーリンズ大佐に交渉を持ち掛け、本馬を6千ポンド(今日の貨幣価値で約56万ポンド、約1億円に相当する。ちなみに当時の英ダービーの優勝賞金は4600ポンド)という高額で入手した。
競走生活(2歳時)
本馬の公式戦デビューは2歳戦の大競走ミドルパークプレート(T6F)となった。デビュー戦にも関わらず、試走の良い走りっぷりや、グローヴナー卿が大枚はたいて購入した事などが知れ渡っていたため、単勝オッズ3.25倍の1番人気に支持された。しかし公式戦未経験の本馬は少々焦れ込んでいた。そのためかスタートを失敗した上に、序盤は行きたがって折り合いを欠き、道中の下り坂で体勢を崩して位置取りを下げるなど、なんともちぐはぐなレース内容だった。結果はニューSの勝ち馬ながら129ポンドの斤量が嫌われて単勝オッズ11倍止まりだったメルトンが後方一気の豪脚で勝利を収め、後に仏2000ギニーとリュパン賞を勝つ仏国調教馬グザントレイエが2着で、ゴール前で再び順位を上げてきた本馬は、ブリティッシュドミニオン2歳Sの勝ち馬で英シャンペンS2着の実績があった後のシティ&サバーバンHの勝ち馬ロイヤルハンプトンと3着同着に持ち込むのが精一杯だった。
デビュー戦で、しかもこの内容で3着なら健闘したと思われるのだが、このレースにおける本馬の走りを見たグローヴナー卿は不満だったらしく、せっかく買った本馬を早くも売りに出してしまった。そして本馬は、ウィリアム・ブロデリック・クローテ氏という人物により購入された。
南アフリカ出身のクローテ氏は英国で事業家として成功を収めた人物だった。後に北米大陸に進出してメキシコで複数の石炭鉱山を入手すると、メキシコ国立鉄道の建設予定地を予め購入して鉄道会社の取締役の地位を手に入れるという、抜け目のない人だった。しかしその最期は、第一次世界大戦において独国のUボートが行った無差別攻撃で撃沈された客船ルシタニア号と共に大西洋に消えるという悲劇的なものだった(この事件が米国を大戦に参戦させる引き金となったのは有名である)が、それは本馬がこの世を去ってから25年も後の話である。
所有者が変わっても、ポーター厩舎に居続けた本馬(名伯楽ポーター師が手掛けているのにわざわざ別の調教師に変更する理由もないだろうが)は、引き続きデューハーストプレート(T7F)に出走した。前走の敗戦は経験不足だったためという意見がやはり大勢を占めており、2戦目であれば能力を発揮できると判断されたようで、ここでも単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。レースでは普通にスタートを切ると、そのまま無理に抑えずに先頭で馬群を引っ張った。そして徐々に後続を引き離すと、最後は馬なりのまま走り、2着となった牝馬コラに3馬身差、前走で先着を許した3着グザントレイエにはさらに4馬身差をつけて完勝した。
2歳時の成績は2戦1勝だったが、デューハーストプレートの勝ち方から同世代トップクラスの馬とみなされ、翌年の英ダービーの最有力候補の1頭として評価された。この時期に本馬を1万ソヴリンで売ってほしいという申し出がクローテ氏に対してあったらしいが、クローテ氏がそれを拒否した旨が後にオタゴ・ウィットネス紙の記事に載っている。
競走生活(3歳前半)
3歳になった本馬は、ここで初めて「パラドックス」と命名され、英2000ギニー(T8F17Y)で初戦を迎えた。英ダービーだけでなく英2000ギニーの最有力候補でもあった本馬は、単勝オッズ1.33倍という同競走史上最少オッズでの登場となった。これは2015年現在でも、1896年にセントフラスキンが記録した1.12倍に次ぐ史上2位の低さである(史上3位は1974年のアパラチーの1.44倍、同4位は2011年のフランケルの1.5倍。1934年のコロンボは資料によって単勝オッズ1.29倍と単勝オッズ1.57倍の2つの数字がある)。本馬の評価には、鞍上が名手フレッド・アーチャー騎手であった事も影響したと思われる。そんな本馬に恐れをなしたのか、対戦相手は6頭とかなり少なめだった。
好スタートを切った本馬はそのまま先行し、3ハロンほど走ったところで単独先頭に立った。対戦相手6頭のうち5頭は本馬に付いていくことが出来ずに悪戦苦闘していたが、1頭だけ例外がいた。それはキシュベル産駒の無名の牡馬(後にクラフトンと命名される)であり、ゴール前で本馬に猛然と迫ってきた。本馬はどうやら先頭に立つと気を抜く癖があったらしく、本馬とクラフトンの差はみるみる縮まってきた。アーチャー騎手は必死になって本馬に拍車を用い、2頭がほぼ同時にゴールインした。結果は本馬の頭差勝ちであり、3着となった後のアスコットダービーの勝ち馬チャイルドオブザミストはさらに4馬身後方だった。クラフトン陣営はゴール前の叩き合いにおいて本馬から妨害を受けたとして異議申し立てを行ったが認められなかった。
次走は英ダービー(T12F29Y)となった。このレースには、ミドルパークプレート勝利後にクリテリオンS・ペインSも勝っていた英2000ギニー不参戦のメルトンも出走してきた。アーチャー騎手はメルトンの主戦でもあり、本馬が敗れた前年のミドルパークプレートでメルトンに騎乗していたのも彼だった。そしてアーチャー騎手がメルトンを選択したため、本馬はフレッド・ウェブ騎手に乗り代わった。乗り代わりに加えて英2000ギニーの苦戦が影響したのか、単勝オッズ2.875倍の1番人気に支持されたのはメルトンで、本馬は単勝オッズ5倍の2番人気だった。他にも、仏2000ギニーとリュパン賞を勝って仏国から再び遠征してきたグザントレイエ、ミドルパークプレートで本馬と3着同着だったロイヤルハンプトンといった馬達の姿もあった。
スタートが切られると、ロイヤルハンプトンが先頭に立ち、本馬やグザントレイエも先行。一方のメルトンは馬群の後方からレースを進めた。直線に入ると失速したロイヤルハンプトンやグザントレイエをかわして、残り2ハロン地点で本馬が先頭に立った。しかしそこへ後方からメルトンが襲い掛かってきた。アーチャー騎手は本馬の気抜き癖のために前走で危うく負けるところだったから、敵に回った今回は本馬のその癖を逆手にとる腹積もりだったようである。そしてゴール直前で計ったようにかわされた本馬は、頭差の2着に惜敗してしまった。しかし所有者のクローテ氏は、本馬の走りとウェブ騎手の騎乗内容には十分満足したと表明し、ウェブ騎手に100ポンドの報奨金を支給した。
英ダービーから僅か11日後、本馬の姿は仏国ロンシャン競馬場にあった。パリ大賞(T3000m)に出走するためだった。メルトンは不参戦であり、本馬の鞍上はアーチャー騎手に戻っていた。仏ダービー・ギシュ賞の勝ち馬レリューサン、モルニ賞の勝ち馬プレゼントタイムスといった地元仏国の有力馬6頭が対戦相手となった。英国生まれで所有者も調教師も騎手も英国の人という生粋の英国馬である本馬は、愛国心が強い仏国の競馬ファンから当然敵視された。しかし英国から渡ってきた応援団が本馬の単勝馬券を買い漁った影響があったのか、本馬が単勝オッズ1.33倍という断然の1番人気に支持された。競馬場側が観衆の整理に手間取ったために、レース発走は30分ほど遅延した。
スタートが切られると、アーチャー騎手は本馬を抑えて後方から進ませた。そして少しずつ順位を上げて、2番手で直線に入ってきた。そして先頭のレリューサンを直線半ばで捕らえると、アーチャー騎手は本馬が気を抜かないようにあえて差を広げず、そのまま本馬を馬なりで走らせた。そして2着レリューサンに1馬身差、3着プレゼントタイムスにはさらに3馬身差をつけて勝利。本馬の勝利に熱狂した英国の応援団はユニオンジャックを振りかざして本馬の勝利を祝福したが、それは仏国の競馬ファンにとっては甚だ面白くない行為だったようで、両者は一触即発の雰囲気になったという。
長居は無用とばかりに速やかに英国に戻ってきた本馬は、引き続きサセックスS(T8F)に出走。現在のサセックスSと異なり当時のこのレースは別定重量戦であり、パリ大賞のような大競走の勝ち馬には12ポンドが加算される事になっていた。そんなわけで本馬には134ポンドが課せられてしまい、これは英ダービーで本馬に続く3着に粘っていたロイヤルハンプトンの125ポンドより9ポンド重かった。それでも本馬は単勝オッズ1.57倍の1番人気となった。レースでは好位を進み、残り2ハロン地点で先頭に立った。そしてアーチャー騎手は例によって後続を下手に引き離さずに他馬との差を最小限に維持したまま本馬を走らせ、2着ロイヤルハンプトンに3/4馬身差、3着となったセントジェームズパレスS3着馬ドゥカット(斤量122ポンド)にもさらに3/4馬身差をつけて勝利した。
競走生活(3歳後半)
その後は休養入りして秋に備えた。英セントレジャーには登録が無かったようで、秋の最大目標はおそらくケンブリッジシャーHになると推測されていた。本馬には124ポンドが課せられる事になっていたが、それでも前売りオッズでは断然の1番人気に支持されていた。
ところがケンブリッジシャーHの直前に騒動が起こった。本馬の所有者クローテ氏は前述のとおりメキシコで石炭鉱山を入手しており、本馬が休養している間は英国ではなくメキシコに居た。そしてケンブリッジシャーHの少し前になって英国に戻ってきたのだが、どうやら彼は本馬がケンブリッジシャーHに出走する予定であることをポーター師から聞かされていなかったらしいのである。激怒したクローテ氏とポーター師の間で深刻な対立が起きてしまった。クローテ氏が激怒した理由は、ポーター師が本馬をケンブリッジシャーHに出走させる旨を早い段階で示唆していたため、本馬のケンブリッジシャーHにおける前売りオッズが大きく下がってしまい、自分が本馬に賭けて儲ける旨味が無くなったからだという噂も流れた。また、あえてポーター師と大喧嘩してみせる事で、本馬のケンブリッジシャーH出走を曖昧なものにして、本馬のオッズを上昇させようとしたのではないかという、さらに裏を読んだ噂も流れた。真相は定かではないが、結局クローテ氏は本馬のケンブリッジシャーH出走登録を取り消した。そして彼は本馬を含めて自身がポーター師に預けていた競走馬全てをリチャード・マーシュ厩舎に転厩させてしまった。
本馬の秋初戦は、英チャンピオンS(T10F)となった。本馬の斤量は120ポンドだったが、これは当時減量に悩んでいたアーチャー騎手にとっては厳しかった。ポーター師はアーチャー騎手の減量苦を知っていたはずだから、あまり斤量が軽くなるレースには本馬を出走させたくなかったのかも知れない。それでもアーチャー騎手は無理矢理減量して本馬と共に英チャンピオンSに臨んだ。馬場が湿っていたため、過去にこういった馬場を経験した事が無い本馬は少々てこずったが、それでも、前年のニューマーケットフリーHで歴史的名馬セントガティエンの2着に入っていたリッチモンドSの勝ち馬デュークオブリッチモンドを2着に抑えて勝利を収めた。しかしケンブリッジシャーH出走取消を巡る騒動のため、本馬やクローテ氏に対する大衆人気は大きく下落していた。この英チャンピオンSにおいても、ニューマーケット競馬場に詰めかけていた観衆は、沈黙で本馬の勝利を迎えたと伝えられている。
次走はニューマーケットフリーH(T10F)となった。ここで本馬に課せられた斤量は129ポンドであり、アーチャー騎手にとっては助かる設定だった。本馬の大衆人気は落ちていたが、馬券人気とは別の話で、ここでは単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された。レースでは例によってゴール前では馬なりのまま走り、15ポンドのハンデを与えたグレートヨークシャーS・グレートヨークシャーHの勝ち馬キングモンマスを1馬身差の2着に、35ポンドのハンデを与えたコロネーションS3着馬アヴリーヌをさらに半馬身差の3着に破って勝利を収めた。しかしこの見事な勝利にも関わらず、ニューマーケット競馬場に詰めかけていた観衆はまたしても沈黙したと伝えられている。3歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は6戦5勝だった。
4歳時もしばらくは競走馬登録が残っており、アスコット金杯を目標とする事になっていたようだが、結局4歳時は1度もレースに出ることなく競走馬を引退した。その理由は、元々あまり良くなかった本馬の気性がますます悪くなり調教が困難になったからであるようだが、3歳最後の2戦で「熱狂的な言葉も祝福の台詞も何も無し」という仕打ちを観衆から受けたクローテ氏が、これ以上同じ目に合うのを嫌がったからというのも一因ではないかと筆者は推測している。本馬の主戦を務めたアーチャー騎手は、本馬の3歳時に自己最多の246勝を挙げたが、オーモンドの項に記載したとおりの事情で精神を病んでおり、この1886年の11月に自ら命を絶った。
本馬は相当な実力馬だったはずだが、現役時代終盤の醜聞が災いしたのか、この1886年の6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、1歳年下のオーモンドや父スターリングがランクインしたにも関わらず、ランク外だった。もっとも好敵手メルトンもランク外だったから、本馬の世代はレベルが低いと当時は思われていたのかもしれない。
血統
Sterling | Oxford | Birdcatcher | Sir Hercules | Whalebone |
Peri | ||||
Guiccioli | Bob Booty | |||
Flight | ||||
Honey Dear | Plenipotentiary | Emilius | ||
Harriet | ||||
My Dear | Bay Middleton | |||
Miss Letty | ||||
Whisper | Flatcatcher | Touchstone | Camel | |
Banter | ||||
Decoy | Filho da Puta | |||
Finesse | ||||
Silence | Melbourne | Humphrey Clinker | ||
Cervantes Mare | ||||
Secret | Hornsea | |||
Solace | ||||
Casuistry | The Miner | Rataplan | The Baron | Birdcatcher |
Echidna | ||||
Pocahontas | Glencoe | |||
Marpessa | ||||
Manganese | Birdcatcher | Sir Hercules | ||
Guiccioli | ||||
Moonbeam | Tomboy | |||
Lunatic | ||||
Lady Caroline | Orlando | Touchstone | Camel | |
Banter | ||||
Vulture | Langar | |||
Kite | ||||
Lady Blanche | Stockwell | The Baron | ||
Pocahontas | ||||
Clementina | Venison | |||
Cobweb |
父スターリングは当馬の項を参照。
母カズイストリーは、後に英国首相も務める第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズ卿の所有馬だったが、競走馬としては特に目立つところなく終わった。競走馬引退後にグラハム一家により購入されて繁殖入りしていた。本馬以外に競走馬として活躍した子はいないが、本馬の1歳年下の全妹インチボニーの孫娘ドクサとアブサーディティの2頭がいずれも一大牝系を構築した事により、カズイストリーの子孫は世界中に広まった。
ドクサは米国が誇る根幹繁殖牝馬ラトロワンヌの曾祖母であるから、その牝系子孫から登場した活躍馬の列挙はラトロワンヌの項に譲るとして、本項ではアブサーディティの牝系から登場した主な活躍馬を列挙する。アブサーディティの子に新国首位種牡馬5回のアブサード【ミドルパークプレート】、ジェスト【英1000ギニー・英オークス】、ブラックジェスター【英セントレジャー・コロネーションC・サセックスS】、孫にユーモリスト【英ダービー】、曾孫にピクチャープレイ【英1000ギニー】、玄孫世代以降に、ロイヤルパレス【英2000ギニー・英ダービー・コロネーションC・エクリプスS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS】、ウェルシュページェント【クイーンエリザベスⅡ世S・クイーンアンS・ロッキンジ2回】、ニゾン【ローマ賞(伊GⅠ)】、グレイントン【サンタアニタH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・カリフォルニアンS(米GⅠ)】、スタイリッシュセンチュリー【スプリングチャンピオンS(豪GⅠ)・ヴィクトリアダービー(豪GⅠ)・AJCクイーンエリザベスS(豪GⅠ)】、パドクワ【ケープダービー(南GⅠ)・J&Bメトロポリタン(南GⅠ)・グレイヴィルチャンピオンS(南GⅠ)・ターフフォンテンチャンピオンS(南GⅠ)】、ユーザーフレンドリー【英オークス(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)・ヨークシャーオークス(英GⅠ)・英セントレジャー(英GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)】、デザートプリンス【愛2000ギニー(愛GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)・クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅠ)】、ドワイエン【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)】、ミスフィンランド【ゴールデンスリッパー(豪GⅠ)・MRC1000ギニー(豪GⅠ)・クラウンオークス(豪GⅠ)・オーストラリアンギニー(豪GⅠ)・アローフィールドスタッドS(豪GⅠ)】、ケープブランコ【愛ダービー(愛GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)・マンノウォーS(米GⅠ)・アーリントンミリオンS(米GⅠ)・ジョーハーシュターフクラシック招待S(米GⅠ)】、エッソテリーク【ロートシルト賞(仏GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・サンチャリオットS(英GⅠ)】、日本で走ったグレートヨルカ【菊花賞・朝日杯三歳S】、ベストウォーリア【マイルCS南部杯(GⅠ)2回】などがいる。
カズイストリーの曾祖母クレメンティナは1847年の英1000ギニー馬。クレメンティナの半兄にはベイミドルトン【英2000ギニー・英ダービー】、アクメット【英2000ギニー】がおり、クレメンティナの母コブウェブは英1000ギニー・英オークスの勝ち馬。→牝系:F1号族②
母父ザマイナーはグレートヨークシャーSで名馬ブレアアソールを2着に破った馬で、ドンカスターCで英2000ギニー馬ジェネラルピールの3着という実績もある。種牡馬としては不成功に終わった。ザマイナーの父ラタプランはポカホンタスの項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は英国で種牡馬入りしたが、1890年に腸捻転のため8歳の若さで急逝した。種牡馬入り当初の種付け料は30ギニーだったが、産駒の出来が良かったのか100ギニーに値上げされた矢先の死だった。産駒の出来は良くても競走においてはあまり実績を残せず、本馬の種牡馬成績は結果的には不振だった。後継種牡馬にも恵まれなかったが、娘のサンクフルブロッサムが、優れた名牝系を構築した20世紀最後の牝馬のプリークネスSの勝ち馬ネリーモスと、米国の大種牡馬ブルリーの曾祖母となった事により、その血を後世に伝える事には成功した。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1888 |
Unicorne |
スチュワーズC |
1890 |
Red Ensign |
プリンスオブウェールズS |