ネリーモス

和名:ネリーモス

英名:Nellie Morse

1921年生

鹿毛

父:ルークマクルーク

母:ラヴェンガンザ

母父:アバーコーン

史上4頭目にして20世紀最後の牝馬のプリークネスS覇者となり、繁殖牝馬としても成功して一大牝系を築く

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績34戦7勝(入着回数は不明)

誕生からデビュー前まで

フォックスホール・パーカー・キーン氏とウィリアム・クリーブランド氏の両名により米国ケンタッキー州キャッスルトンファームにおいて生産された。フォックスホール氏は19世紀末から20世紀初頭における米国屈指の馬主だった投資家ジェームズ・ロバート・キーン氏の息子であり、父の所有馬として欧州で活躍した名馬フォックスホールの名前の由来となったり、父が評価しなかったドミノの素質を見抜いたりするなど、この名馬列伝集でも何度か登場してきた人物である。父が1913年に死去した後に馬産活動を受け継ぎ、国立障害物競走協会の創設にも携わったが、彼本人は馬産活動よりも自分が選手として参加するスポーツの方面に関心があり、ポロ(馬に乗って行う球技)、ゴルフ、カーレースなどの選手として活躍し、1900年のパリ五輪ではポロで金メダルを獲得したほどだった。そんなわけで、キャッスルトンファームの維持管理は一族のジョン・オリヴァー・“ジャック”・キーン氏と知人のクリーブランド氏に任せていたようで、本馬の生産者もフォックスホール氏ではなくジョン氏とクリーブランド氏の両名であるとする資料もある。

フォックスホール氏が馬主活動に熱心ではなかったため、本馬は売却に出され、米国の有名な新聞漫画家ハリー・コンウェイ・“バド”・フィッシャー氏により2千ドルで購入され、フィッシャー氏の代理人としてセリに参加して本馬に目をつけたアルバート・B・ゴードン調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

本馬の競走成績に関しては不明瞭な部分が多いが、2歳戦から一線級でばりばり活躍したのは間違いない。ベルモントパーク競馬場で出走したファッションS(D5F)では、後にジェロームHで3着するクローバーSの勝ち馬イニシエイトを2着に、後にレディーズHを勝ち障害競走でも活躍するリレントレスを3着に破って勝利した。ジャマイカ競馬場で出走したローズデールS(D5F)では、コースレコードで走破したアウトラインの2着に敗れた。引き続きジャマイカ競馬場で出走したハイアワサH(D5.5F)では、ローズデールSで3着だったアンナマローネ、ネグリナの2頭に屈して、アンナマローネの3着に敗れた。サラトガ競馬場で出走したサラトガセールスS(D5.5F)は牡馬混合戦であり、この年のフラッシュS・イースタンショアHの勝ち馬ロードボルチモア、この年のイーストビューS・ジュヴェナイルSの勝ち馬ピーターキングといった牡馬勢が対戦相手となった。しかし勝ったのは牝馬サラシアで、本馬が2着だった。ベルモントパーク競馬場で出走したスピナウェイS(D6F)では、またしてもアンナマローネに敗れて2着だった。

メイトロンS(D6F)では、後の米国顕彰馬プリンセスドリーンと対決。しかしここではスピナウェイSで3着だったツリートップという馬が勝利を攫っていってしまい、本馬は2着、プリンセスドリーンは3着と共倒れになってしまった。牡馬相手のレースとなったナーサリーH(D6F)では、インフィニット、アワーモアの2頭の牡馬に屈して、インフィニットの3着に敗れた。ピムリコフューチュリティ(D8F)では、後のケンタッキーダービー3着馬ボウバトラー、グレートアメリカンSの勝ち馬ラスティック、後にローレンスリアライゼーションSを勝ちトラヴァーズS・ジョッキークラブ金杯で2着するアガカーンといった強力牡馬勢に歯が立たず、ボウバトラーの12着に大敗した。本馬は2歳戦だけで22戦を消化しているが、勝ち星は4勝止まりであり、やや勝ち切れない部分があった。

競走生活(3・4歳時)

3歳になった本馬は、一般競走を勝った後、ピムリコオークス(D8.5F)に出走。リレントレスを頭差の2着に抑えて勝利を収めた。そしてそれから僅か4日後には、牡馬相手のプリークネスS(D9F)に出走した。同競走は翌年から現行の距離9.5ハロンになっており、距離9ハロンで施行されたのはこの年が最後だった。ハドソンS・トレモントSの勝ち馬トランスミュート、後のベルモントS・ブルックリンHの勝ち馬マッドプレイなど14頭の牡馬勢が対戦相手となった。ジョン・メリメ騎手が騎乗する本馬は、前年のピムリコフューチュリティの惨敗ぶりなどから勝機は低いと思われ、単勝オッズ13.1倍の評価だった。しかし泥だらけの不良馬場の中を先頭で走り抜け、2着トランスミュートに1馬身半差をつけて見事に優勝。牝馬が同競走を勝ったのは、1903年のフロカーリン、1906年のウィムジカル、1915年のラインメイデン以来9年ぶり史上4頭目だった。この時代には牝馬が勝つ事はそれほど珍しくは無かったわけだが、本馬の後には非常に長い間牝馬の勝利は無く、2009年にレイチェルアレクサンドラが勝って史上5頭目となったのは、本馬の勝利から85年後のことだった。

その後は現在とは施行時期が逆だったケンタッキーオークス(D9F)に向かった。このレースにもプリンセスドリーンが出走してきて、本馬と2度目の対戦となった。しかし結果はグライドという馬がトップゴールして、プリンセスドリーンは2位、本馬は3位と、またしても共倒れになったかのように見えた。ところがグライドが進路妨害で失格となったため、プリンセスドリーンが繰り上がって勝者となり、本馬が2着という結果になった。これ以降の3歳時における出走履歴は判然としないが、3戦して全て着外だったそうであるから、この年の成績は7戦3勝だったことになる。しかし後年になってプリンセスドリーンと並んでこの年の米最優秀3歳牝馬に選ばれている。

4歳時も現役を続け、5月にアケダクト競馬場で行われたレディーズH(D8F)に出走したが、前年のガゼルHで2着していたウェットストーンの2着に敗退。5歳時には既に繁殖入りしているので、4歳限りで競走馬を引退したと思われる。4歳時には5戦したが1勝もしていないから、結果的にはプリークネスSが本馬の最後の勝利となった。

血統

Luke Mcluke Ultimus Commando Domino Himyar
Mannie Gray
Emma C. Darebin
Guenn
Running Stream Domino Himyar
Mannie Gray
Dancing Water Isonomy
Pretty Dance
Midge Trenton Musket Toxophilite
West Australian Mare
Frailty Goldsbrough
Flora Mcivor
Sandfly Isonomy Sterling
Isola Bella
Sandiway Doncaster
Clemence
La Venganza Abercorn Chester Yattendon Sir Hercules
Cassandra
Lady Chester Stockwell
Austrey
Cinnamon Goldsbrough Fireworks
Sylvia
Brown Duchess Whalebone
Clove
Colonial Trenton Musket Toxophilite
West Australian Mare
Frailty Goldsbrough
Flora Mcivor
Thankful Blossom Paradox Sterling
Casuistry
The Apple Hermit
Black Star

父ルークマクルークは現役成績6戦4勝。ベルモントS・ケンタッキーH・カールトンSの勝ち馬。種牡馬としての成績はまずまずだったが、牡馬の活躍馬を出せなかったために後継種牡馬には恵まれなかった。ルークマクルークの父アルティマスはコマンド産駒。ドミノの2×2という非常に強いインブリードの持ち主で、それが影響したのか不出走に終わったが、僅か27頭の産駒しか残せなかったコマンドの息子という事で種牡馬入り出来たようである。種牡馬としてはコマンドの後継種牡馬の1頭として活躍し、その成績はコマンドの代表産駒コリンのそれを上回るものであった。

母ラヴェンガンザの競走馬としての経歴は不明。ラヴェンガンザの半妹にメアリーデイヴィス(父ウォータークレス)【トボガンH】、ラヴェンガンザの半妹ローズリーヴス(父バロット)の子にエスピノ【ローレンスリアライゼーションS・サラトガC】、ネクタリン【マイアミビーチH】、大種牡馬ブルリー【ブルーグラスS・ワイドナーH】がいる。同じ牝系からは多くの活躍馬が出ているが、その詳細はブルリーの項や別ページの牝系図を参照してほしい。→牝系:F9号族②

母父アバーコーンは豪州産馬。豪州では、AJCダービー・VRCサイアーズプロデュースS・AJCサイアーズプロデュースS・AJCプレート・ザメトロポリタン・メルボルンS(現マッキノンS)・VRCセントレジャー・AJCセントレジャー・クレイヴンプレート2回・カンタベリープレート・スプリングS・ランドウィックプレートを勝つなど、35戦21勝の成績を挙げた名馬だった。当初は豪州で種牡馬入りして成功を収め、後に英国に輸出されたが彼の地では成功できなかった。アバーコーンの父チェスターも豪州産で、メルボルンC・ヴィクトリアダービー・豪シャンペンS・AJCサイアーズプロデュースS・AJCプレート2回・メルボルンS(現マッキノンS)2回を勝った名馬。チェスターの父ヤッテンドンも豪州産で、AJCダービー・豪シャンペンS・シドニーC・オールエイジドSを勝っている。ヤッテンドンの父サーヘラクレスも豪州産馬で、根幹種牡馬となった愛国産馬サーヘラクレスとは同名の別馬(愛国産のサーヘラクレスの娘の子に当たる)。自身は不出走馬だが、種牡馬としては豪州の歴史的名馬ザバーブを出すなど大活躍した。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はフィッシャー氏の所有のもとで繁殖入りした。受胎率があまり良くなかったのか、それとも何かの事情があったのか、平均して3年に1頭ずつしか産駒がおらず、合計で5頭の子しか残すことが出来なかった。

6歳時に産んだ初子の牝駒サラバードン(父スポーティングブラッド)は61戦11勝の成績を残した。

7歳時に産んだ2番子の牡駒モスコード(父スポーティングブラッド)は不出走だった。

11歳時に産んだ3番子の牝駒ネリーフラッグ(父アメリカンフラッグ)は、メイトロンS・セリマS・ケンタッキージョッキークラブSに勝つなど22戦6勝の成績を残し、1934年の米最優秀2歳牝馬に選ばれた。ケンタッキーダービーにも挑戦して1番人気に支持されているが、米国三冠馬となるオマハの4着だった。フィッシャー氏は元々本馬にマンノウォーを交配させたかったらしいのだが、結局機会を得られなかったので、マンノウォーの息子アメリカンフラッグを代わりにしたという逸話がある。

本馬がネリーフラッグを産んだ年にフィッシャー氏は馬主活動から手を引き、所有する馬全てを売りに出した。そして本馬は、従兄弟のブルリー(ただしこの時点では生まれてもいない)が種牡馬生活を送ることになるカルメットファームの代表者ウォーレン・ライト氏により6100ドルで購入され、カルメットファームで繁殖生活を続けた。

12歳時に産んだ4番子の牡駒カウントモス(父レイカウント)は、クラークH・ベンアリH・ブルー&グレイH・グレートウェスタンHに勝つなど114戦15勝の成績を挙げた頑健な馬だった。ちなみにライト氏に本馬を購入するように助言したのは、レイカウントの所有者だったジョン・ダニエル・ハーツ氏(米国のタクシーの代名詞「イエローキャブ」の創設者としても知られる)だったらしい。

16歳時に産んだ5番子の牡駒ハドモア(父ハダガル)も頑健に走り、78戦7勝の成績を残した。1941年に本馬は20歳で他界した。

後世に与えた影響

本馬の後継繁殖牝馬としてはネリーフラッグが大活躍し、さらに本馬の牝系を大きく発展させた。ネリーフラッグの子には1943年の米最優秀ハンデ牝馬マーケル【ベルデイムH・トップフライトH】、ネリーエル【ケンタッキーオークス・エイコーンS】、サンシャインネル【トップフライトH】、孫にはマークイウェル【サンタアニタH・アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・サンタアニタマチュリティS・サンフェルナンドS・サンアントニオH】、ジョヴィアルジョーヴ【ブリーダーズフューチュリティS】、フィネガン【サンフェリペS】、デュワン【ブルックリンH・サンフェリペS・サンアントニオH】、曾孫にはイースタンフリート【フロリダダービー】、1976年のエクリプス賞最優秀3歳牡馬ボールドフォーブス【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・ウッドメモリアルS(米GⅠ)】、カリーン【サンタスサナS(米GⅠ)】、玄孫世代以降には、エクリプス賞年度代表馬3回の歴史的名馬フォアゴー【ウッドワードS(米GⅠ)4回・ブルックリンH(米GⅠ)3回・メトロポリタンH(米GⅠ)2回・サバーバンH(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)・ワイドナーH(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)・ワイドナーH(米GⅠ)・マールボロカップ招待H(米GⅠ)】、サラトガシックス【デルマーフューチュリティ(米GⅠ)】、ライフアトザトップ【マザーグースS(米GⅠ)・レディーズH(米GⅠ)】、ベットトゥワイス【ベルモントS(米GⅠ)・アーリントンワシントンフューチュリティ(米GⅠ)・ローレルフューチュリティ(米GⅠ)・ハスケル招待H(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH】、レイクウェイ【ラスヴァージネスS(米GⅠ)・サンタアニタオークス(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)・ハリウッドオークス(米GⅠ)】、インペリアルビューティー【アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)】、日本で走ったシャダイソフィア【桜花賞】、ベガ【桜花賞(GⅠ)・優駿牝馬(GⅠ)】、アドマイヤベガ【東京優駿(GⅠ)】、アドマイヤドン【朝日杯フューチュリティS(GⅠ)・JBCクラシック(GⅠ)3回・マイルCS南部杯(GⅠ)・フェブラリーS(GⅠ)・帝王賞(GⅠ)】、バンブーエール【JBCスプリント(GⅠ)】、ハープスター【桜花賞(GⅠ)】などが出ている。

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