ボールドフォーブス

和名:ボールドフォーブス

英名:Bold Forbes

1973年生

鹿毛

父:アイリッシュキャッスル

母:カムリーネル

母父:コモドールエム

プエルトリコから米国に来て大逃げ戦法でケンタッキーダービーとベルモントSを制した「プエルトリカンロールスロイス」

競走成績:2・3歳時にプエルトリコと米で走り通算成績18戦13勝2着1回3着4回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州において、イートンファームの所有者リー・イートン氏とレッド・ブル氏の両名により生産された(イートンファームは後にウィンチェスターファームと名を変えて社台グループの所有となっている)。

1歳時のファシグ・ティプトン社が実施したセリに出品された本馬に最初に目をつけたのは、シカゴ在住の事業家ユージン・C・キャッシュマン氏と彼の専属調教師だったポール・T・アドウェル師の両名だった。彼等はこのセリで気に入った馬が本馬を含めて2頭おり、どちらを買うか迷ったため、2人でコイントスをして決めたという。その結果、彼等は本馬ではない方の馬、後にエロキューショニストと名付けられるギャラントロメオ産駒を買うことになった。

キャッシュマン氏達に買ってもらえなかった本馬を最終的に購入したのは、エステバン・ロドリゲス・ティゾール氏という人物だった。ティゾール氏は、自身のポンセステーブル名義となった本馬をプエルトリコに連れて行き、彼の地でデビューさせた。

プエルトリコは、カリブ海の西インド諸島東部にある複数の島から成る地域であり、19世紀末の米西戦争により米国領となり、現在は米国自治連邦区(自治政府による内政は認められているが、米国憲法の適用を受けており、外交や国防は米国が担う。住民の立場から見ると、米国に対する納税義務はないが、米国大統領の投票権は無い)として、米国領でありながらも自治権が認められている地域である。

競馬の歴史は古く、16世紀にスペインから来た征服者達により伝えられたのが最初と言われており、現在も国民的スポーツとして親しまれている。主要競馬場は20世紀初頭に作られたエルコマンダント競馬場である。プエルトリコ出身の著名馬としては、デビューから56連勝するなど77戦73勝の成績を残したカマレロ、159戦して137勝(世界記録)を挙げたガルゴジュニアなどが日本でも知られている。また、プエルトリコ出身の名騎手も多く、アンヘル・コルデロ・ジュニア騎手はその筆頭格である。

ティゾール氏が本馬をプエルトリコに連れて行った理由は資料不足でよく分からないのだが、彼は名前からしてラテン系の人物だったようであるし、プエルトリコには米国系の企業が多数存在しており、その関係者だったとも考えられる。本馬は気性面で少々問題があり(海外の資料には“quirk(気まぐれ)”と書かれている)、それ故にスタートから先頭に立つ逃げ戦法、それも並の逃げではなく、いわゆる大逃げ戦法を得意とした。

競走生活(2歳時)

2歳3月にエルコマンダント競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦でデビュー。2着となったフロリダ州産馬のマイダッズブランディに17馬身差をつける圧勝で鮮烈なデビューを飾った。1か月後に同コースで出走した一般競走でも、2着となった同じケンタッキー州産馬のラブリージェイに5馬身差をつけて圧勝。さらに2週間後に同コースで出走した一般競走でも、2着ラブリージェイに8馬身半差をつけて圧勝した。それから40日後に出たエルコマンダント競馬場ダート6ハロンの未勝利戦も、2着ラブリージェイに8馬身差をつけて圧勝した。

その11日後には同コースで行われたクラシコ・ディア・デ・ロス・パドレ賞(スペイン語で「父の日賞」という意味。プエルトリコにおいてはGⅠ競走に格付けられている)に出走。1分10秒6の好タイムで2着ラブリージェイに13馬身差をつける圧勝を飾り、デビューから5連勝とした。

本馬の強さを知った馬主のティゾール氏は、本馬を米国のラザロ・ソーサ・バレラ厩舎に移し、7月下旬にベルモントパーク競馬場で行われたトレモントS(D6F)に出走させた。そしてラフィット・ピンカイ・ジュニア騎手を鞍上に、2着アイアンビットに5馬身差をつけて圧勝。続いてジョン・ヴェラスケス騎手を鞍上にサラトガスペシャルS(米GⅡ・D6F)に出走すると、今度は2着ファミリードクターに8馬身差をつける圧勝劇を演じた。

本馬の能力は米国でも通用すると理解したティゾール氏は、本馬をバレラ厩舎に正式に転厩させ、翌年のケンタッキーダービーを目指すことにした。キューバの首都ハバナ出身のバレラ師は若年の頃からキューバの調教師として活躍。1940年代には、より高いレベルを求めて墨国の首都メキシコシティに移住した。その後、メキシコシティで出会ったカリフォルニア州の調教師ハル・キング師の薦めを受けて米国に移住。47歳時の1971年に、管理馬のティナジェロでジェロームHを制してようやく米国における初のステークス競走勝利を挙げたという苦労人だった。そして本馬の活躍により認められた彼は、本馬より2歳年下のアファームドを米国三冠馬にまで育て上げ、1979年に調教師として米国競馬の殿堂入りを果たすという名誉も獲得する事になるのである。

バレラ師はカリフォルニア州を本拠地としていたため、本馬は主戦場を米国西海岸に移すことになった。西海岸初戦は大晦日の日にサンタアニタパーク競馬場で行われたダート5.5ハロンの一般競走だった。ここでは当面の主戦を務めるピンカイ・ジュニア騎手騎乗で出走したが、勝ったシュアファイアから5馬身差の3着に敗れて初黒星を喫した。2歳時の成績は8戦7勝で、5戦無敗だったプエルトリコでは最優秀2歳牡馬に選出されている。

競走生活(3歳初期)

3歳時はまず1月のサンミゲルS(D6F)に出走したが、シュアファイアの鼻差2着に敗れた(3着となったハリウッドジュヴェナイルCSSの勝ち馬レストレスレストレスには先着した)。3週間後に出走したサンヴィセントS(米GⅢ・D7F)では、サニースロープSの勝ち馬でノーフォークS3着のサーマルエナジー、ウエストチェスターS・サーフランシスドレイクS・カブリロS・カリフォルニアBCSとステークス競走4連勝中だったステンドグラスとの接戦に屈して、勝ったサーマルエナジーから3/4馬身差の3着に惜敗。どうもこの時期に本馬は右後脚に裂蹄を発症してしまっていたようである。しかしさらに2週間後に出走したサンハシントS(米GⅡ・D8F)では、2着グランダリーズに3馬身差をつけて快勝。

そしてケンタッキーダービーを目指して東上したのだった。ケンタッキー州に向かう前にニューヨーク州に移動した本馬は、まずはベイショアS(米GⅢ・D7F)に出走。ここで本馬は初めてプエルトリコ出身のコルデロ・ジュニア騎手とコンビを組んだ。ホープフルSの勝ち馬でサプリングS3着のユーステイス、サプリングSの勝ち馬フルアウトなどが対戦相手となったが、2着ユーステイスに7馬身3/4差をつけて圧勝した。そのままコルデロ・ジュニア騎手を主戦に迎えた本馬は、続いてウッドメモリアルS(米GⅠ・D9F)に出走。ユーステイス、ファウンテンオブユースS・ハッチソンSの勝ち馬サンキッサー、メリーランドフューチュリティの勝ち馬でスウィフトS・ゴーサムS2着のコジャック、レムセンS・ゴーサムS3着のプレイザレッド、後にジョッキークラブ金杯を勝つオンザスライなどが対戦相手となったが、本馬が2着オンザスライに4馬身3/4差をつけて、1分47秒4のレースレコードで完勝した。

ケンタッキーダービー

そしてチャーチルダウンズ競馬場に向かい、ケンタッキーダービー(米GⅠ・D10F)に出走した。ワシントンフューチュリティ・カウディンS・シャンペンS・ローレルフューチュリティ・フラミンゴS・フロリダダービー・ブルーグラスSなど破竹の9連勝中だった前年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬オネストプレジャー、かつて1歳時のセリで本馬とどちらを買うか迷ったキャッシュマン氏とアドウェル師の2人がコイントスをした結果として購入したアーカンソーダービー・ホーソーンジュヴェナイルS・フォアランナーSの勝ち馬エロキューショニスト、スパイラルSの勝ち馬でフラミンゴS2着・ブルーグラスS3着のインカロカ、オンザスライ、前走4着のプレイザレッド、同5着のコジャックなどが対戦相手となった。特にオネストプレジャーの前評判は凄まじく、ケンタッキーダービーとしてはかなり少ない9頭立てになる要因となった。当然オネストプレジャーが単勝オッズ1.4倍で断然の1番人気に支持されたのだが、本馬も対抗馬として単勝オッズ4倍で2番人気の評価を受けていた。

スタートが切られるとスタートダッシュを見せた本馬が先頭に立ち、オネストプレジャーが2番手を追いかける展開となった。しかし本馬鞍上のコルデロ・ジュニア騎手は最初のコーナーを回る際にちらりと後方を振り向くと、そのままオネストプレジャーを引き離し、本馬に大逃げを打たせた。「猛烈なペース」で飛ばし、向こう正面で一時はオネストプレジャーに5馬身ほどの差をつけた本馬は、四角でいったん後続馬に迫られたものの、直線に入ると二の脚を使って粘り込みを図った。外側からはオネストプレジャーが必死に追ってきたが、本馬の脚色も最後まで衰えることはなく、2着オネストプレジャーに1馬身差、3着エロキューショニストにはさらに3馬身1/4差をつけて優勝した。

プリークネスS

次走のプリークネスS(米GⅠ・D9.5F)では、オネストプレジャー、エロキューショニスト、前走6着のコジャック、同8着のプレイザレッド、イリノイダービーの勝ち馬でハリウッドダービー2着・サンタアニタダービー3着の同厩馬ライフズホープ(後にジャージーダービー・エイモリーLハスケルHとGⅠ競走を2勝しているが、それよりも2年後のジョッキークラブ金杯でアファームド、シアトルスルーエクセラーが戦った際に、シアトルスルー潰しのラビット役として出走した事で知られる)の5頭だけが対戦相手となり、ライフズホープ以外の全馬がケンタッキーダービー出走馬だった。ここでもオネストプレジャーが1番人気に支持され、本馬とライフズホープのカップリングが2番人気、エロキューショニストが3番人気だった。

ここでも本馬はスタートから猛烈なペースで逃げを打った。しかし前走で本馬を単騎で逃がした反省からか、今回はオネストプレジャーが猛然と競りかけてきた。そのために最初の6ハロン通過が1分09秒6というプリークネスS史上最速級の超ハイペースとなった。あまりに無理に競りかけたためにオネストプレジャーは先に失速したが、自分のペースで逃げられなかった本馬もまた最後の直線で失速してしまい、エロキューショニストとプレイザレッドの2頭に差されて、勝ったエロキューショニストから4馬身差、2着プレイザレッドから半馬身差の3着に敗れてしまった(オネストプレジャーは5着)。

エロキューショニストの所有者キャッシュマン氏と管理調教師アドウェル師は、かつてコイントスの結果で買い損なった本馬を、コイントスの結果で買ったエロキューショニストで破った事により、ケンタッキーダービーの無念を少しは晴らしたと思われる。なお、このプリークネスSの敗因は乱ペースだけではなかったようで、コルデロ・ジュニア騎手は後のベルモントSの直後に「プリークネスSで脚を負傷していました」と語っている。

ベルモントS

しかし負傷の程度はそれほどひどくはなかったようで、ベルモントS(米GⅠ・D12F)には出走してきた。このベルモントSは、オネストプレジャーが2連敗を受けて再調整の必要が生じたため回避し、エロキューショニストも右前脚の負傷のため回避(そのまま引退)していた。それで出走馬が手薄になったかと言えばそんな事もなく、有力馬が相次いで回避したために勝算ありと見込んだ三冠競走前2戦不参戦組がこぞって出走してきて、9頭立てだったケンタッキーダービーより多い10頭立てとなった。ケンタッキーダービーの出走馬より同年のベルモントSの出走馬のほうが多いというのはかなり珍しく、サイテーションが勝った1948年以来28年ぶりだった(その前は1905年。なお、この1976年以降は2015年現在に至るまで一例も無い)。

有力な対戦相手は、前走2着のプレイザレッドを除けば、グレートアメリカンSの勝ち馬でフロリダダービー2着のグレートコントラクター(後にジョッキークラブ金杯・ブルックリンHを勝利)、ルファビュリュー産駒でスタミナには自信があるハリウッドダービー4着馬マッケンジーブリッジ、カヴァルケイドHを勝ってきたマジェスティックライト(後にスワップスS・モンマス招待H・エイモリーLハスケルH・マンノウォーSとGⅠ競走を4勝する。日本で活躍したニシノフラワーの父)といった前2戦不参戦組ばかりだった。そのため本馬が単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持され、プレイザレッドが単勝オッズ5.1倍の2番人気となった。

ベルモントパーク競馬場にはラテン系の人々が大勢詰め掛けて、プエルトリコの旗を振りながら、本馬とコルデロ・ジュニア騎手、さらにはバレラ師に対しても大きな声援を送っていた。今回も本馬はスタートから猛然と飛ばして、向こう正面では後続を6馬身ほど引き離す大逃げを打った。最初の4ハロン通過タイムは47秒だった。もっとも、これはバレラ師が事前にコルデロ・ジュニア騎手に対して指示していたとおりのタイムだった。6ハロン通過は1分11秒2で、プリークネスSよりは遅かったが、何しろ距離12ハロンのベルモントSだけに、このまま逃げ切れるのかが懸念された。しかし単騎で逃げられた分だけプリークネスSより手応えが良く、今回は最後まで粘り切り、マッケンジーブリッジとグレートコントラクターの追い上げを凌いで、2着マッケンジーブリッジに首差、3着グレートコントラクターにもさらに首差をつけて勝利した。勝ち戻ってきたコルデロ・ジュニア騎手は、スタンドに詰め掛けていたラテン系の人々に向かって、指でVサインを作って見せた。しかしこのレースを走った事により、この年の初めに発症した裂蹄が悪化してしまったためしばらく休養を取ることになった。

競走生活(3歳後期)

10月にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰した。ただの一般競走ではあったが、ドワイヤーHの勝ち馬で、後にカーターH・サバーバンHも勝つクワイエットリトルテーブルという有力馬が相手となった。しかし本馬が2着クワイエットリトルテーブルに1馬身半差で勝利した。続いて11日後のヴォスバーグH(米GⅡ・D7F)に出走。ブラックアイドスーザンS・テストS・コティリオンH・ヴェイグランシーHなどを勝っていた4歳牝馬マイジュリエット(GⅠ競走4勝の名牝ステラマドリッドの母。日本で活躍したダイヤモンドビコーの祖母)、欧州でグラッドネスS・タイロSなどを勝った後に米国に移籍してメモリアルデイHを勝っていたイッツフリージングなどが対戦相手となった。ここでは、この年のエクリプス賞最優秀短距離馬に選出されるマイジュリエットが勝利を収め、2位入線の本馬は3位入線のイッツフリージングの進路を妨害したとして3着に降着となった。そしてこれが現役最後のレースとなった。

3歳時の成績は10戦6勝で、エクリプス賞年度代表馬の座はフォアゴーに譲ったものの、最優秀3歳牡馬を受賞した。また、管理したバレラ師もこの年のエクリプス賞最優秀調教師を初めて受賞している(翌年に2歳を迎えたアファームドの活躍により、この年から4年連続で受賞)。

スタートから猛然と先頭を飛ばす本馬は、“the Puerto Rican Rolls Royce(プエルトリカン・ロールスロイス)”の異名で呼ばれたが、これは主戦のコルデロ・ジュニア騎手が名付け親であるらしい。

血統

Irish Castle Bold Ruler Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Miss Disco Discovery Display
Ariadne
Outdone Pompey
Sweep Out
Castle Forbes Tulyar Tehran Bois Roussel
Stafaralla
Neocracy Nearco
Harina
Longford Menow Pharamond
Alcibiades
Bold Irish Fighting Fox
Erin
Comely Nell Commodore M. Bull Lea Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Rose Leaves Ballot
Colonial
Early Autumn Jamestown St. James
Mlle. Dazie
Equinoctial Ultimus
Hurakan
Nellie L. Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Nellie Flag American Flag Man o'War
Lady Comfey
Nellie Morse Luke Mcluke
La Venganza

父アイリッシュキャッスルはボールドルーラー産駒。現役成績は18戦4勝で、ホープフルSなどを勝っている。当初はマイナー種牡馬だったが、本馬の活躍で繁殖牝馬の質量共に向上、その後も複数の活躍馬を輩出している。

母カムリーネルは米国の名門カルメットファームの生産馬。カムリーネルの母ネリーエルはケンタッキーオークス・エイコーンSの勝ち馬。ネリーエルの母ネリーフラッグもメイトロンS・セリマS・ケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬で、1934年の米最優秀2歳牝馬に選ばれた名牝。そしてネリーフラッグの母ネリーモスはプリークネスS・ピムリコオークスを制した歴史的名牝である。3代続けて活躍馬となっている優れた牝系であるが、カムリーネル自身は生誕時に目を負傷したために不出走に終わり、本馬の生産者イートン氏がカルメットファームから購入して繁殖入りさせた。

競走馬にはなれなかったカムリーネルだが、繁殖牝馬としてはかなりの成功を収めている。確かに直子の活躍馬は本馬くらい(ケンタッキーダービー馬を産んだ時点で大きな成功と言えるだろうが)だが、本馬の2歳年下の全妹プライスレスフェイムが繁殖牝馬として大きな成功を収めており、その子にはダンベス【レーシングポストトロフィー(英GⅠ)・ロイヤルロッジS(英GⅡ)】、サラトガシックス【デルマーフューチュリティ(米GⅠ)・ハリウッドジュヴェナイルCSS(米GⅡ)・バルボアS(米GⅢ)】が、孫にはレイクウェイ【ラスヴァージネスS(米GⅠ)・サンタアニタオークス(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)・ハリウッドオークス(米GⅠ)】、ジルバブ【CCAオークス(米GⅠ)】、エインシャントワールド【ヴィットーリオディカープア賞(伊GⅠ)】、日本で走ったバンブーエール【JBCスプリント(GⅠ)・東京盃(GⅡ)・クラスターC(GⅢ)】が、曾孫にはジャイアントライアン【ヴォスバーグ招待S(米GⅠ)】が、玄孫にはムシュカ【スピンスターS(米GⅠ)】がいる。また、本馬の半妹ネリーフォーブズ(父セクレタリアト)も牝系子孫を伸ばしており、その孫にはインペリアルビューティー【アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)】、ヤンフェルメール【クリテリウム国際(仏GⅠ)】、トゥギャザー【クイーンエリザベスⅡ世CCS(米GⅠ)】がいる。さらに本馬の半妹シーユーアトザトップ(父リヴァリッジ)も牝系子孫を伸ばしており、その子にはライフアトザトップ【マザーグースS(米GⅠ)・レディーズH(米GⅠ)・ロングルックH(米GⅡ)・ラスヴァージネスS(米GⅢ)・レアパフュームS(米GⅢ)・ランパートH(米GⅢ)】が、玄孫にはグレイスホール【スピナウェイS(米GⅠ)】、カットラスベイ【ガネー賞(仏GⅠ)】がいる。

ネリーフラッグの牝系子孫には、本馬と同じ時代を走った米国の歴史的名馬フォアゴーや、日本で走った桜花賞馬シャダイソフィア、二冠牝馬ベガとその息子達など活躍馬が多くいるが、その詳細はネリーモスの項を参照してほしい。→牝系:F9号族②

母父コモドールエムはブルリー産駒のカルメットファーム産馬で、現役成績は13戦5勝。特にこれといった勝ち鞍も無い地味な馬だったが、馬名がカルメットファームの牧場主ルシール・パーカー・ライト・マーキー夫人の再婚相手でハリウッドの著名な脚本家・映画プロデューサーだったユージーン・ウィルフォード・“ジーン”・マーキー氏にちなんで命名された(“Commodore M.”は「M提督」という意味。マーキー氏は第二次世界大戦で提督に任官されていた)ものだったため、夫の名前がついた馬を手放すのに忍びなかったマーキー夫人の指示により、カルメットファームで種牡馬入りしていた。ネリーエルの交配相手に指名されたくらいだから、それなりに期待されてはいたようだが、結局直子から活躍馬を出すことは出来なかった。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、生誕地イートンファームと同じ米国ケンタッキー州ウィンチェスター通りに所在するストーンファームで種牡馬入りした。種牡馬としての成績はまずまずと言ったところで、ストーンファームで供用された13年間で460頭の産駒(ただし名前がある産駒のみ)を出し、そのうち66%に当たる304頭が勝ち上がり、30頭がステークスウイナーとなった。1985年にはプエルトリコの殿堂入りを果たしたという。1991年に種牡馬を引退し、同年4月にケンタッキーホースパークに移動。その後はフォアゴーなどと共に、チャンピオンズホールで余生を過ごした。2000年8月に腎不全と胃腸炎による合併症のため、安楽死の措置が執られた。享年27歳で、当時存命中の最年長ケンタッキーダービー馬だった。遺体はフォアゴーと共に、チャンピオンズホール内に埋葬されている。後継種牡馬には恵まれなかったが、代表産駒のティファニーラスが日本に輸入されて牝系を伸ばしている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1978

Dame Mysterieuse

ブラックアイドスーザンS(米GⅡ)

1979

Air Forbes Won

ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ゴーサムS(米GⅡ)

1979

Danebo

サンカルロスH(米GⅡ)・サンパスカルH(米GⅡ)

1979

Sir Pele

アーケイディアH(米GⅡ)・サンルイオビスポH(米GⅡ)

1980

Bold Apparel

ウンブリア賞(伊GⅡ)・プティクヴェール賞(仏GⅢ)

1980

St. Forbes

ホーソーンダービー(米GⅢ)

1983

Tiffany Lass

ケンタッキーオークス(米GⅠ)・ファンタジーS(米GⅠ)・フェアグラウンズオークス(米GⅢ)

1985

Bold Wench

ネクストムーヴBCH(米GⅢ)

1986

Irish Actor

ヤングアメリカS(米GⅠ)

1986

Soho Sunday

ベッツィーロスH(米GⅢ)・ヴァインランドH(米GⅢ)

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