エクセラー

和名:エクセラー

英名:Exceller

1973年生

鹿毛

父:ヴェイグリーノーブル

母:トゥーボールド

母父:ボールドイーグル

強烈な末脚を武器に欧米を股にかけて活躍して米国三冠馬2頭を単一競走で同時に破った史上唯一の馬となるも種牡馬入り後に非業の最期を遂げる

競走成績:2~6歳時に仏英米加で走り通算成績33戦15勝2着5回3着6回

米国三冠馬2頭を単一競走でまとめて破った史上唯一の馬としてだけでなく、種牡馬入り後の数奇な運命でも知られる、1970年代における世界有数の名馬である。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州において、ニジンスキーの所有者として知られた故チャールズ・W・エンゲルハード氏のジェーン未亡人により生産された。両親共に活躍馬だったが、何故か幼少期の評価は低く、1歳時に2万7千ドルの安値で取引された。本馬を購入したのは父ヴェイグリーノーブルの所有者でもあった米国の富豪ネルソン・バンカー・ハント氏だった。ハント氏は自身のレースアドバイザーから、長くて直立した脚の繋ぎを有する本馬は欧州の芝向きであると助言されたため、本馬を仏国に送った。最初はフランソワ・マテ調教師が管理したのだが、後にモーリス・ジルベール厩舎に転厩している。

競走生活(2・3歳時)

2歳8月にドーヴィル競馬場で行われたトック賞(T1500m)で、N・ナヴァロ騎手を鞍上にデビューしたが、後の愛ダービー馬マラケートの前に8馬身差をつけられて8着に惨敗。翌月にエヴリ競馬場で出走したブロワ賞(T1800m)では、2着アッパショナートに首差で勝利した。続いてリステッド競走ヘロド賞(T1600m)に出走したが、1位入線するも3着降着という結果だった。イヴ・サンマルタン騎手に乗り代わって出走したコンデ賞(仏GⅢ・T2000m)では、フレンチフレンドの2馬身3/4差3着に敗れ、2歳時は4戦1勝の成績に終わった。

3歳時は5月にロンシャン競馬場で行われたリステッド競走スレーヌ賞(T1850m)から始動したが、再度マラケートに敗れて1馬身差の2着。次走のリステッド競走マッチェム賞(T2000m)は2馬身半差で勝利した。

次走は仏ダービーになると思われたが、同馬主同厩馬にグレフュール賞・ダリュー賞・リュパン賞と3連勝中のユースがいたため、使い分ける目的で、本馬は仏ダービーの同日に同じシャンティ競馬場で行われたリス賞(仏GⅢ・T2400m)に出走した。結果は本馬が2着ブルアに6馬身差をつけて圧勝。同日の仏ダービーはユースが勝利し、陣営の目論見通りになった。ちなみにこの4日前に行われた英ダービーも本馬やユースと同馬主同厩のエンペリーが勝っており、この時期のジルベール厩舎はお祭り騒ぎだったのではないかと思われる。

ユースが英国のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを目標としたため、本馬はパリ大賞(仏GⅠ・T3100m)に向かった。そしてサンマルタン騎手を鞍上に、2着シークレットマンに4馬身差をつけて圧勝した。

夏場は休養に充て、秋はロワイヤルオーク賞(仏GⅠ・T3100m)から始動した。ここではG・デュブロウク騎手とコンビを組み、2着サーモンターギュに4馬身差をつけて圧勝した。

次走は凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)となった。エンペリーは愛ダービーで2着した後にマンノウォーSを目指して米国に遠征するも体調を崩してそのまま現役生活を終えていたが、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS惨敗後にニエル賞を勝ってきたユースは出走してきていた。他の主な出走馬は、英オークス・仏オークス・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを勝っていた3歳牝馬ポーニーズ、そのポーニーズをヴェルメイユ賞で破ってきた愛オークス馬ラギュネット、凱旋門賞馬エクスビュリ産駒の英セントレジャー馬クロウ、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSで2着だった前年の英セントレジャー馬ブルーニ、仏1000ギニー・サンタラリ賞・サンクルー大賞を勝っていた3歳牝馬リヴァークイーン、前年の仏1000ギニー・ヴェルメイユ賞勝ち馬でプランスドランジュ賞2連覇のイヴァンジカ、凱旋門賞馬シーバード産駒のリュパン賞2着馬アークティックターン、仏ダービーでユースの2着だったノアイユ賞勝ち馬ツイッグモス、ガネー賞勝ち馬インフラグリーンなどだった。本馬とユースのカップリングが1番人気に支持されたのだが、結果はイヴァンジカが勝ち、クロウが2着、ユースが3着で、本馬はなんと19着と惨敗してしまった。3歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は6戦4勝だった。

競走生活(4歳前半)

4歳時は3月のエクスビュリ賞(仏GⅢ・T2000m)から始動したが、チェローの8馬身3/4差4着と大敗。次走のガネー賞(仏GⅠ・T2100m)では、前年の凱旋門賞で7着した後に伊ジョッキークラブ大賞を勝っていたインフラグリーン、前年の凱旋門賞で12着だったアークティックターン達と接戦を演じ、アークティックターンの半馬身差2着に入った。

その後は英国に遠征して、コロネーションC(英GⅠ・T12F)に出走した。前年のコロネーションCを勝っていたニジンスキー産駒のクワイエットフリング、エクスビュリ産駒のゴードンS・プリンセスオブウェールズS勝ち馬スマッグラーなどが対戦相手となったが、デュブロウク騎手騎乗の本馬が2着クワイエットフリングに首差で勝利した。

いったん本国に戻った本馬はサンクルー大賞(仏GⅠ・T2500m)に出走。前年の凱旋門賞で2着だったクロウが主な対戦相手となったが、フレッド・ヘッド騎手とコンビを組んだ本馬が2着となったリボー産駒リボボーイに首差で勝利した。それにしても、各国が誇る歴史的名馬の子ども達(本馬も含む)が凌ぎを削ったこの時期の欧州競馬はさぞかし盛り上がっていた事であろう。

再度英国に向かって出走したキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ・T12F)では、英ダービー・愛ダービー・デューハーストSなどを勝ってきたザミンストレル、仏ダービー馬クリスタルパレス、前年の同競走で3着していた伊ダービー・ハードウィックS・ジョッキークラブSの勝ち馬オレンジベイ、クロウなどが対戦相手となった。ここではザミンストレルとオレンジベイの2頭に後れを取り、ザミンストレルの1馬身半差3着に敗れた。しかしこの段階では紛れも無く本馬は欧州トップクラスの実力馬であり、前年は惨敗した凱旋門賞などの大競走でも有力視されるべき存在だった。

ところがここで本馬は主戦場を米国に移すことになった。その理由は筆者なりに調べた海外のどの資料にも明記されていなかったが、筆者は以下の理由が有力であると考えている。いずれも本馬より1歳年下であるアレッジド、ザミンストレル、ブラッシンググルーム達の項にも記載したが、この時期に欧州で馬伝染性子宮炎という感染症が流行していた。そしてこの馬伝染性子宮炎流行の影響で欧州馬の渡米禁止措置が講じられることが決定していた。ハント氏は、いずれ本馬を米国において走らせるか、又は種牡馬入りさせる腹積もりでいたが、いったん渡航禁止措置が発動されてしまうとそれが解除されるまで渡米させる事が出来なくなるため、その前に本馬を米国に移動させる必要があった。そんなわけで本馬は急遽渡米することになったのではないだろうか。既に巨額の種牡馬シンジケートが組まれていたザミンストレルやブラッシンググルームも同時期に競走馬を引退して大至急渡米しているという事実も有力な状況証拠である。

競走生活(4歳後半)

さて、生国である米国に戻ってきた本馬は、まずはマンノウォーS(米GⅠ・T12F)に出走。欧州から来た大物という事で、スワップスS・モンマス招待H・エイモリーLハスケルHとGⅠ競走3勝を挙げていたマジェスティックライトを抑えて1番人気に支持されたが、ここではマジェスティックライトの4馬身半差2着に敗れた。

しかし次走の加国際S(加GⅠ・T13F)では、前走でもコンビを組んだアンヘル・コルデロ・ジュニア騎手を鞍上に、マジェスティックライトを1馬身差の2着に破って借りを返した。次走のワシントンDC国際S(米GⅠ・T12F)では、マジェスティックライトに加えて、本馬と欧州で幾度か対戦したクロウも参戦してきた。しかし勝ったのは3頭のいずれでもなく、マンノウォーSと加国際Sでいずれも3着に甘んじていたレキシントンH勝ち馬ジョニーディーだった。マジェスティックライトは2馬身半差の2着で、本馬はマジェスティックライトからさらに14馬身差もの大差をつけられた3着、クロウは5着に終わった。

それから2週間後には新設競走ターフクラシックS(T12F)に出走。ここでもマジェスティックライト、ジョニーディー、クロウとの対戦となった。このレースを勝ったのはジョニーディーだった。マジェスティックライトが2着、クロウが3着に入る一方で、本馬はジョニーディーから実に22馬身も離された7着と惨敗してしまった。

この後に本馬はカリフォルニア州に向かい、チャールズ・ウィッティンガム調教師の管理馬となった。ウィッティンガム師が最初に見た時の本馬は、疲れ切ったように歩いており、あまり期待を抱かせるような状態ではなかったという。4歳時は9戦3勝の成績で終えた。

競走生活(5歳前半)

5歳時は3月にサンタアニタパーク競馬場で行われたアーケイディアH(米GⅢ・D10F)から始動した。初のダート競走だったが、主戦となるウィリアム・シューメーカー騎手を鞍上に、13ポンドのハンデを与えた2着ソルジャーズラークに1馬身1/4差で勝利を収めた。その11日後にはサンルイレイS(米GⅠ・T12F)に出走。タイダルH・ブーゲンヴィリアH・ハイアリアターフカップHの勝ち馬ノーブルダンサー、前年のサンフアンカピストラーノ招待H勝ち馬でチャールズHストラブS・センチュリーH2着のプロペランテス、アーゴノートH・セクレタリアトS・サンフェルナンドHの勝ち馬でチャールズHストラブS2着のテキストといった米国西海岸の実力馬達が対戦相手となった。ここではノーブルダンサーが2着プロペランテスに首差、3着テキストにはさらに3/4馬身差をつけて勝ち、本馬はテキストから頭差の4着に敗れた。

さらに3週間後のサンフアンカピストラーノH(米GⅠ・T14F)でも、ノーブルダンサー、プロペランテス、テキストとの対戦となった。しかしここでは本馬が巻き返し、ノーブルダンサーを首差の2着に、プロペランテスを5着に、テキストを8着に破って、前走の借りを返した。次走のセンチュリーH(米GⅠ・T11F)では、ノーブルダンサーとテキストの2頭が不在となり、3戦連続で顔を合わせたのはプロペランテスのみだった。ハンデ競走に実力馬が1~2頭程度しかいなかった場合、その実力馬には重い斤量が課せられて凡走する場合が多いが、今回もそのとおりとなり、2頭とも凡走。勝ったのは12連敗中だったロングフェローH勝ち馬ランドスケーパーで、これが現役最後のレースとなったプロペランテスは4着、本馬はランドスケーパーから3馬身1/4差の5着に終わった。

次走のハリウッド招待H(米GⅠ・T12F)では、ノーブルダンサー、テキスト、ランドスケーパーに加えて、ガルフストリームパークH・パンアメリカンH・ディキシーHなど破竹の6連勝中だった上がり馬ボウルゲームとの対戦となった。ボウルゲームより4ポンド重い127ポンドを背負った本馬だったが、スタート直後最後方の位置取りから向こう正面で瞬く間に位置取りを上げると三角では既に先頭。そして直線も先頭で走り抜けてゴール前では流す余裕ぶりで、追い上げてきたボウルゲームを2馬身半差の2着に破って快勝した。翌年のエクリプス賞最優秀芝馬に選ばれる強豪ボウルゲームも本馬の前では子ども扱いにされてしまった。

続いて出走したのは2度目のダート競走となるハリウッド金杯(米GⅠ・D10F)だった。このレースには、前走5着のテキストの他に、前年のスワップスSで米国三冠馬シアトルスルーを破った実力の持ち主で、サンバーナーディノH・ロサンゼルスH・カリフォルニアンSなど4連勝中だったこの年のエクリプス賞最優秀短距離馬ジェイオートービン、ハリウッドパーク招待ターフH・サンアントニオH・サンタアニタHとGⅠ競走3勝を挙げていた同じく4連勝中のヴィガーズといった強敵が出走していた。しかし128ポンドを課せられた本馬が2着テキストに首差で勝利した。

次走のサンセットH(米GⅠ・T12F)では、本馬の強さに恐れをなした既対戦馬の多くが逃げ出してしまい、アメリカンH・サイテーションHを連勝してきた一昨年のマンノウォーS勝ち馬エファヴェシング、本馬と同じく前年の夏に仏国から移籍してきたジャンドショードネイ賞勝ち馬で前走アメリカンH2着のイアグラマティックといった辺りが対戦相手となった。本馬には前走よりさらに2ポンド重い130ポンドを課されたが、2着ダイアグラマティックに1馬身1/4差で勝利。芝もダートもお構いなしの強さを発揮し続けた。

競走生活(5歳後半):米国三冠馬2頭をまとめて破ったジョッキークラブ金杯

このまま米国西海岸で走り続けるかと思われたが、陣営はここで本馬を米国東海岸に送り、ウッドワードS(米GⅠ・D10F)に出走させた。このレースには前年の米国三冠馬シアトルスルーが出走していた。1番人気は前走のマールボロCHでこの年の米国三冠馬アファームド相手に完勝していたシアトルスルーで、本馬は2番人気だった。レースではスタートから逃げるシアトルスルーを追いかけて先行したのだが、最後まで追いつくことは出来ず、コースレコードで勝利を収めたシアトルスルーから4馬身差をつけられた2着に敗退。ここでは米国三冠馬の実力をただ見せ付けられるだけで終わってしまった。

引き続き東海岸に留まった本馬の次走はジョッキークラブ金杯(米GⅠ・D12F)となった。そしてこのレースこそが本馬の名を不朽のものとしたのである。このレースには、一昨年の同競走を勝ち前年の同競走でも2着していたブルックリンH・ローレンスリアライゼーションS勝ち馬グレートコントラクターに加えて、シアトルスルーとアファームドの2頭も参戦しており、米国三冠馬の直接対決第2ラウンドとして大いに盛り上がっていた。

レースは水溜りがあちこちにあるような不良馬場の中で実施された。スタート前にシアトルスルーがフライングでゲートを飛び出す場面があり、シアトルスルーのテンションは少々高かったようである。しかしシアトルスルーのスタートは抜群で、すぐに先頭に立った。そこにアファームドが自身の同厩馬ライフズホープと共に競りかけたため、レースは超ハイペースで先頭を飛ばしまくるシアトルスルーとアファームドのマッチレースの様相を呈した(ライフズホープは向こう正面で早くも失速して圏外に去っていた)。一方の本馬はシアトルスルーから最大で約22馬身も離された後方を追走していた(このレースを捉えた映像にはレース中盤時点における本馬は全く映っていない。実況の台詞に22馬身という数値が出てくる)。いったんシアトルスルーから離されたアファームドが三角で再び前との差を縮めようとした時、実況が「エクセラーが来た!」と叫んだ。次の瞬間、鞍ずれを起こして失速したアファームドの内側を驚異的な勢いで本馬が駆け抜けていった。そして四角途中で先頭のシアトルスルーに内側から並びかけた。この時点では本馬が一気に先頭に立つと思われるほど勢いの差があったが、本馬が来たのに気付いたシアトルスルー鞍上のコルデロ・ジュニア騎手が仕掛けると、あれだけの超ハイペースで飛ばしてきたはずのシアトルスルーがここから信じられないほどの粘り腰を発揮。そして2頭の大激戦が直線で延々と展開された。いったんは本馬が完全に前に出たが、ゴール前で再度シアトルスルーが差し返してきた。しかし最後は本馬がシアトルスルーの差し返しを鼻差抑えて優勝した。シアトルスルーから実に14馬身半もの大差をつけられた3着にグレートコントラクターが入り、アファームドはさらに4馬身半差の5着に終わった。超不良馬場だったにも関わらず勝ちタイム2分27秒2はレースレコードをちょうど1秒更新するものであり、いかに激しいレースだったかを物語っている。

2頭の米国三冠馬に勝利したのは、サイテーションに4回、アソールトに2回勝った1950年のヌーア以来28年ぶり史上2頭目の快挙であり、単一競走で米国三冠馬2頭をまとめて破ったのは本馬が史上初となった(2015年現在でも唯一。アファームド以来37年ぶり史上12頭目の米国三冠馬となったアメリカンファラオが3歳限りで競走馬を引退するような世界競馬界の現状を鑑みると、筆者の存命中に同じ快挙を見られる可能性は殆ど無さそうである)。

本馬の実力のみならず、シアトルスルーの恐るべき底力をも見せ付けたこのレースは米国競馬史上最高級の名勝負として現在でも語り継がれている。

カリフォルニア州に戻った本馬は、オークツリー招待H(米GⅠ・T12F)に出走。カールトンFバークHを勝ってきたスターオブエリン、新国から移籍してきたシドニーC勝ち馬グッドロードなどが対戦相手となったが、2着スターオブエリンに1馬身差で勝利を収めて5歳シーズンを締めくくった。

しかしこの年10戦7勝(うちGⅠ競走は芝4勝、ダート2勝の計6勝)の好成績を挙げたにも関わらず、エクリプス賞年度代表馬の座は11戦8勝(うちGⅠ競走5勝)のアファームドに、エクリプス賞最優秀古馬牡馬の座は7戦5勝(うちGⅠ競走2勝)のシアトルスルーに、エクリプス賞最優秀芝馬の座は本馬とは対戦しなかったマックディアーミダ(加国際S・ワシントンDC国際SのGⅠ競走2勝に加えて、GⅡ競走を3勝、GⅢ競走を2勝。この年に出走した芝の競走では13戦12勝の成績を残しており、タイトル獲得に相応しい馬ではあった)に持っていかれてしまい、エクリプス賞のタイトル獲得はならなかった。アファームドとシアトルスルーさえいなければ年度代表馬と最優秀古馬牡馬の獲得はほぼ確実だったはずだが、この2頭がいたからこそ本馬が歴史に名を残したとも言えるので、複雑なところである。

競走生活(6歳時)

6歳時はサンタアニタH(米GⅠ・D10F)から始動した。このレースにはアファームドも参戦しており、本馬と2度目の対戦となった。斤量は本馬の126ポンドに対してアファームドは128ポンドだったのだが、結果はコースレコードで勝利したアファームドから7馬身半差、2着に入ったサンアントニオH・ボーリンググリーンH・タイダルH勝ち馬でマンノウォーS・ワシントンDC国際S2着のティラーから3馬身差の3着(ペインテッドワゴンと同着)と完敗。本馬の米国三冠馬との対戦成績は、シアトルスルーとアファームドの双方とも1勝1敗の五分だった。

2週間後のサンルイレイS(米GⅠ・T12F)では、ティラー、前年のオークツリー招待Hで3着同着だったグッドロードに加えて、前年のハリウッド招待Hで本馬の3着に敗れた後は別路線を進みユナイテッドネーションズH・カナディアンターフH・パンアメリカンSを勝っていた現在3連勝中のノーブルダンサーの姿もあった。ハンデ競走では無いため本馬に厳しい斤量が課せられることは無く、当然のように断然の1番人気に支持されたが、勝ったノーブルダンサーから29馬身差の6着と惨敗した。

次走のサンフアンカピストラーノH(米GⅠ・T14F)では、ノーブルダンサー、前走2着のティラーとの対戦となった。このレースはハンデ競走であり、当然本馬がトップハンデかと思われたが、トップハンデは128ポンドのノーブルダンサーだった。本馬が127ポンドで、ティラーが126ポンドという設定だった。結果的にはかなり絶妙なハンデ設定であり、この3頭がゴール前で接戦を演じた末に、ティラーが勝利を収め、3/4馬身差の2着が本馬、さらに3/4馬身差の3着がノーブルダンサーだった。

次走のセンチュリーH(米GⅠ・T11F)にはティラーもノーブルダンサーも不在だった。しかし勝ったのは前走サンフアンカピストラーノHで5着に終わっていたステートディナーで、2着には前年の同競走でも2着だったサンバーナーディノH勝ち馬スタースパングレッドが入り、本馬はステートディナーから3馬身差の3着に敗れた。勝ったステートディナーはこの直後のメトロポリタンHとサバーバンHでいずれもアリダーを破って連勝する事になるが、一方の本馬は5歳時の輝きを取り戻せないまま、このレースを最後に6歳時4戦未勝利で現役引退となった。

競走馬としての評価と特徴

本馬は、年度代表馬など米国競馬における年度表彰に縁が無かった米国調教馬としては、ギャラントマンルアーなどと共に最上級の評価を受けている馬の1頭であり、無冠の帝王と言える存在である。

レース終盤における爆発的な末脚を武器とした典型的な追い込み馬であり、ハリウッド金杯やオークツリー招待Hではラスト2ハロンを23秒4で走破(前者はダート競走なのに)しており、勝つときはラスト2ハロンを25秒以内で駆け抜けるのが常だったという。

血統

Vaguely Noble ヴィエナ Aureole Hyperion Gainsborough
Selene
Angelola Donatello
Feola
Turkish Blood Turkhan Bahram
Theresina
Rusk Manna
Baby Polly
Noble Lassie Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Belle Sauvage Big Game Bahram
Myrobella
Tropical Sun Hyperion
Brulette
Too Bald Bald Eagle Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Siama Tiger Bull Dog
Starless Moment
China Face Display
Sweepilla
Hidden Talent Dark Star Royal Gem Dhoti
French Gem
Isolde Bull Dog
Fiji
Dangerous Dame Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Lady Kells His Highness
Anyway

ヴェイグリーノーブルは当馬の項を参照。

母トゥーボールドは現役成績24戦13勝で、バーバラフリッチーH2回・ベッドオローゼズH・コロンビアナHなどを勝った活躍馬。繁殖牝馬としても活躍しており、本馬の半弟で種牡馬として成功したボールドスキー(父ニジンスキー)、本馬の半弟でやはり種牡馬として成功した1986年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬カポウティ(父シアトルスルー)【BCジュヴェナイル(米GⅠ)・ノーフォークS(米GⅠ)】、全弟ヴェイグリーヒドゥン【ニュージャージーターフクラシックS(米GⅢ)】などを産み、1986年のケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選ばれた。また、本馬の半妹ブラゾン(父アクアク)の玄孫にはゴードンロードバイロン【フォレ賞(仏GⅠ)・スプリントC(英GⅠ)・ジョージライダーS(豪GⅠ)】が、半妹バルドファクツ(父インリアリティ)の孫には日本で走ったアドマイヤマンボ【全日本三歳優駿(GⅡ)】が、半妹マイソングフォーユー(父シアトルソング)の孫にはボブアンドジョン【ウッドメモリアルS(米GⅠ)】がいる。

トゥーボールドの母ヒドゥンタレントはケンタッキーオークス・アッシュランドSの勝ち馬。トゥーボールドの1歳年上の半姉ターントゥタレント(父ターントゥ)の孫には1994年の北米首位種牡馬ブロードブラッシュ【ウッドメモリアルS(米GⅠ)・メドウランズCH(米GⅠ)・サンタアニタH(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)】がいる。また、ヒドゥンタレントの1歳年下の全妹ヘヴンリーボディー【メイトロンS】の曾孫にはサキー【凱旋門賞(仏GⅠ)・英国際S(英GⅠ)】がいる。→牝系:F21号族①

母父ボールドイーグルは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は父ヴェイグリーノーブルも種牡馬生活を送っていた米国ケンタッキー州ゲインズウェイファームで種牡馬入りした。牧場スタッフによると、本馬は大人びた気性を有する頑健な馬で、14歳の子どもでも扱う事が出来たという。ヴェイグリーノーブルの後継種牡馬として本馬に対する期待は非常に大きく、種牡馬入り後しばらくの種付け料はゲインズウェイファームで供用されていた種牡馬の中でも屈指の高さを誇った。ところが本馬の産駒成績は振るわなかった。ステークスウイナーは19頭に留まり、自身を髣髴とさせるような産駒は1頭も出なかった。

そのため、1991年に北欧スウェーデンの馬産家ヨーテ・オストランド氏に購入されて、スウェーデンに輸出された。1986年には5万ドルだった種付け料は輸出時点では2500ドルまで下落していたという。

はるばるスウェーデンにやって来た本馬だったが、伝染病に罹っているという噂が流れたために、オストランド氏が期待していたほど繁殖牝馬が集まらなかった(本当に病気だったのかどうかは不明)。一時的にデンマークに移動した時期もあったようだが、結果は変わらなかった。

もっとも、本馬のスウェーデンにおける種牡馬成績は決して悪いものではなく、1994年の新種牡馬ランキングでは2位、1995年は全体の種牡馬ランキングで6位、1996年は全体で4位に入っている。競馬のレベルが高くないスウェーデンにおける成績とは言え、産駒の少なさからすると結構な好成績であり、どうやら本馬が伝染病であるという噂はデマだった可能性が高そうである。

しかしこの1996年にオストランド氏は破産してしまった。スウェーデンの法令により、破産者は競馬に関係するあらゆる金融取引が禁止されるため、本馬のところに来る繁殖牝馬は皆無になってしまった。その後に本馬はオストランド氏の知人アン・パグマー女史が所有するヤボルダー牧場という小牧場に移り住んだ。しかし破産したために余分な馬を飼育する余裕が無くなったオストランド氏は、パグマー女史に「私はあなたにエクセラーの飼育料金を支払えないので、殺してほしい」と依頼した。パグマー女史は「殺すくらいなら、私がこのまま無償で引き取ります」と依頼を拒否した。しかし本馬の種牡馬成績が期待外れだったと感じて頭に来ていたオストランド氏は本馬を殺すよう強硬に何度も要求し続け、最後にはスカンジナビア政府競馬局に対して本馬が病気又は老齢で授精能力が無くなったため殺処分したいという申請を行い、殺処分許可書をパグマー女史に送りつけてきた(実際に授精能力が無くなっていたかどうかは不明)。パグマー女史は遂に諦めて、1997年4月に24歳の本馬は屠殺場に自ら歩いて連れて行かれた上で食肉にされた。この話はすぐには米国に伝わらず、同年7月に米国デイリーレーシングフォーム社の企画において本馬の消息を調査した結果判明したものである。もっとも、オストランド氏と同じ立場になっても筆者はそのような行動を取らないと断言できる自信は無く、筆者にはオストランド氏を一方的に非難する事は出来ない。米国の歴史的名馬を独力で輸入したくらいだから、彼もまた情熱を持った競馬人だったはずである。彼も風評被害や財政的理由で追い詰められた被害者なのである。

後世に与えた影響

本馬の辿った末路に関する話は、米国の競馬関係者及びファンの間に大きな衝撃をもたらした(米国においては本馬級の名馬が同じ運命を辿った前例が無かったからだという)。そのため、引退した競走馬の処遇についての議論が活発化し、その結果として、「エクセラー基金」「再出発(ReRun)」「サラブレッド引退競走馬情報伝達同盟(CANTER)」「オールドフレンズ」など、引退した競走馬を保護する民間の組織が複数誕生する事となった。

このうち本馬の名を冠したエクセラー基金は、引退した競走馬を引き取り、故障した馬にはリハビリテーションを行い、乗馬やコンパニオンアニマル等別の用途で働く事が出来そうな馬には必要な再教育プログラムを施し、それが困難な馬であってもなるべく天寿を全うさせる事を目的としている。全てが寄付金によって賄われており、必要な土地は有志の私有地を使用させてもらい、従業員は全てボランティアであり有給の職員はいないそうである。最少で毎月15ドルの会費で会員になる事が出来るが、別に会員にならなくてもあらゆる任意の寄付を受け入れているという。

しかしこれらの活動は米国外にはあまり伝わっておらず、日本では功労馬繋養展示事業が設立されたり、民間のNPO法人引退馬協会が頑張ったりしているが、知名度的にはまだまだである。そして2002年には日本でケンタッキーダービー馬ファーディナンドが本馬と同じ運命を辿ったと報道されたために大問題となり、日本にいた多くの米国出身の種牡馬がオールドフレンドにより米国に買い戻される結果を招いた。米国の資料では、本馬とファーディナンドを並べて紹介している事も多く、言外に日本は競馬後進国だと言われているようである。別にそれを否定はしないが、競馬先進国であるはずの英国においても以前は用済みになった馬は活躍馬であっても銃殺するのが当たり前という風潮があり(アリシドンの項を参照)、米国でも既に十分活躍した馬を無駄に酷使した結果として死なせてしまった例は少なくない(パンザレタオールドローズバドブラックゴールドなどの項を参照)という黒い歴史がある。英国や米国では馬肉食がタブー視されているために「屠殺」という言葉に対して敏感に反応されるが、食用にするかしないかの違いがあるだけで、活躍馬に非業の死を遂げさせるという点においては、時代を遡れば英国も米国も現在の日本とたいして違わなかったのである。つまり、今からでも日本が現在の英国や米国に追いつけばよいのである。しかしGⅠ競走を勝ったり繁殖として活躍したりした馬であっても、繁殖生活を退いた後に非業の死を遂げたという噂が後を絶たない(例を挙げるとトロットサンダーやダイタクヤマトなど。2頭とも噂の域を出ないけれども、「最後はどうなったのか分からない」ために「そういう噂が出る」のは間違いない)現状を見ると、当分は期待薄である。ちなみに活躍馬とは言い難い馬の引退後の処遇に関する筆者の考え方は、ファーディナンドの項に記載している(ドライな意見なので、人によっては読まないほうが良いかもしれない)。

本馬は1999年に米国競馬の殿堂入りを果たした。当初、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトには本馬の死の経緯は記載されておらず、単に1997年に死んだと書かれているだけだったが、現在は簡潔ではあるが経緯も記載されている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第96位。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1981

Eastland

クレオパトル賞(仏GⅢ)

1981

Squan Song

コティリオンH(米GⅢ)・レアトリートH(米GⅢ)・アフェクショネイトリーH(米GⅢ)

1982

Slew's Exceller

フラワーボウルH(米GⅠ)

1983

Autumn Glitter

ラスパルマスH(米GⅡ)

1983

Krotz

バーデナーマイレ(独GⅢ)

1984

Mountain Kingdom

ヨークシャーC(英GⅡ)・オーモンドS(英GⅢ)

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