シーバード

和名:シーバード

英名:Sea-Bird

1962年生

栗毛

父:ダンキューピッド

母:シカラード

母父:シカンブル

英ダービーを馬なりで勝ち、史上最高級のメンバーが揃った凱旋門賞も圧倒的な強さで制覇した20世紀世界最強馬

競走成績:2・3歳時に仏英で走り通算成績8戦7勝2着1回

19世紀の仏国最強馬と言われるグラディアトゥールが1862年に誕生してからちょうど100年後に誕生した20世紀の仏国最強馬。仏国だけでなく、長年にわたって競走馬の能力を評価してきた英国のタイムフォーム社も、平地競走馬部門においては20世紀における単独最高値となる145ポンドのレーティングを与えており、20世紀欧州最強の名馬であるとの呼び声も高い。

それにも関わらず、本馬について詳しく触れた海外の資料は意外と少ない(本馬に限らず、仏国調教馬は仏語・英語を問わず資料に乏しい)。資料が比較的豊富なのは、本馬の勝利の中で最も名高い英ダービーと凱旋門賞に関してのみである。それは詰まるところ、本馬が20世紀欧州最強馬としての評価を得るには、その2戦のみで十分だという事でもあるのだが、その他の経歴等についての資料が少ないのは筆者的には困る。幸い、本馬は日本においても各方面で頻繁に取り上げられているため、部分的にそれらも参照しながら本項を執筆することとする。

誕生からデビュー前まで

仏国カルヴァドス県にあるビクター牧場において、1962年3月8日に誕生した。生産者兼馬主は、仏国で織物業者をしていたジャン・テルニンク氏である。父ダンキューピッドは無名種牡馬で、母シカラードは未勝利馬(しかも本馬を産んだ翌年に繁殖牝馬として見切りをつけられて7歳の若さで処分されていた)という本馬は、当初ほとんど評価されていなかった。

本馬は、テルニンク氏の従兄弟であるエチエンヌ・ポレ調教師の管理馬となった。本馬の調教を見たポレ師は、他馬とは比較にならないほど高い素質を感じ取ったが、最初は自分の感覚のほうがおかしいと思っており、後にあれほどの大物になるとは思わなかったと後年述懐している。

競走生活(2歳時)

本馬は、2歳6月に初勝利を挙げた父ダンキューピッドと異なり仕上がりは遅かった。2歳9月にシャンティ競馬場で行われたプレゾン賞(T1400m)で、ポレ厩舎の専属騎手で主戦となるパット・グレノン騎手を鞍上にデビューした。このレースではスタートで出遅れたが、それでもゴール前で追い込んで短頭差で勝利した。

2戦目のクリテリウムドメゾンラフィット(T1400m)では、モルニ賞の2着馬で後にクリテリウムドサンクルー・ヴィシー大賞を勝つカルヴァン、後の仏オークス馬ブラブラ、後のアンリデルマーレ賞の勝ち馬シャンプレーヴなどの実力馬が揃ったが、2着ブラブラに鼻差、3着シャンプレーヴにはさらに2馬身半差をつけて勝利した。

3戦目の仏グランクリテリウム(T1600m)では、モルニ賞・サラマンドル賞と仏国の主要2歳競走を勝っていた同厩馬グレイドーンと激突した。両馬とも主戦はグレノン騎手だったが、彼はこの時点で評価が高かったグレイドーンに騎乗し、本馬にはモーリス・ラローン騎手が騎乗した。人気も本馬よりグレイドーンのほうが上だった。スタートで本馬は今回も出遅れてしまい、後方からの競馬となってしまった。そのまま道中は最後方を走り、直線に入ると強烈な追い込みを見せて他馬勢を次々に抜き去ってきたが、スタートから終始先頭を走り続けたグレイドーンには2馬身届かず2着に敗れた。

ラローン騎手は2度と本馬に騎乗することは無く、スタートで出遅れた上に、仕掛けもあまりにも遅かった事から、騎乗ミスを指摘されたのだとされる。しかし、当時期待の大きかったグレイドーンに勝たせたかった陣営の指示により、ラローン騎手は意図的にそのようなレースをしたのではないかという説もあり、真相は不明である。この仏グランクリテリウムを筆者は映像で見た事があるが、先頭のグレイドーンからは遠く離れた後方から文字通り他馬が止まって見えるような脚で追い込んできており、後の1986年における英ダービーでダンシングブレーヴがあり得ないほどの末脚を繰り出しながらも敗れたのを想起させるレースぶりであった。ポレ師もこのレースにおける本馬について「素晴らしかった」と思ったそうである。

2歳時は3戦2勝の成績で、2歳馬フリーハンデでは60kgで首位となったグレイドーンより1.5kg低い58.5kgの評価だった。

競走生活(3歳前半)

3歳時は4月のグレフュール賞(T2100m)から始動した。例によって序盤は後方を追走したが、仏グランクリテリウムの二の舞になることはなかった。徐々に位置取りを上げると直線で一気に加速して残り400m地点で先頭に立ち、2着コーデュロイに3馬身差、後にプランスドランジュ賞・コンセイユミュニシパル賞を勝つ3着馬パスキンにはさらに4馬身差をつけて楽勝した。

次走のリュパン賞(T2100m)では、同月の仏2000ギニーでグレイドーンを2馬身差の2着に破って勝ってきたカンブルモンや、ノアイユ賞を2着シャンプレーヴに2馬身半差で勝ってきたダイアトムといった強豪が相手となった。レースでは残り400m地点で、先行したダイアトムと後方から来た本馬がほぼ並んだが、残り300m地点でグレノン騎手が本馬の脚を解き放つと、瞬く間にダイアトムをちぎり捨て、最後は2着ダイアトムに6馬身差、3着カンブルモンにはさらに半馬身差をつけて圧勝した。このレースでようやく本馬は仏国にシーバードありという評価を確立させることが出来た。

次走は仏ダービーではなく英ダービー(T12F)となった。その理由は、本馬陣営はこの2年前に既にサンクタスで仏ダービーを勝っていた事の他に、本馬は右回りを苦手にしていたため、右回りのシャティン競馬場で行われる仏ダービーでなく、左回りのエプソム競馬場で行われる英ダービーの方が向いていると判断されたためとされている。英2000ギニー馬ニクサー、デューハーストS・コヴェントリーS・グリーナムSの勝ち馬で英2000ギニー2着のシリーシーズン、インペリアルS・チェズターヴァーズの勝ち馬ガルフパール、ホーリスヒルSの勝ち馬でチェズターヴァーズ2着のフットヒル、ダンテSの勝ち馬バリメライス、ディーSを5馬身差で勝っていたルックシャープ、ホワイトローズSを5馬身差で勝っていたアイセイ、リングフィールドダービートライアルSの勝ち馬ソルスティス、ブルーリバンドトライアルSの勝ち馬ケンブリッジ、グラッドネスS・ダンテSで連続2着してきたメドウコート、デューハーストS2着馬キングログ、リングフィールドダービートライアルS2着馬アルカルデ、ダリュー賞2着馬フルーテン、ミドルパークS・愛2000ギニー3着のソヴリンエディション、後のキングエドワードⅦ世Sの勝ち馬で愛ダービー2着のコンヴァモアなど21頭が対戦相手となった。

しかし本馬の強さは既に仏国だけでなく英国にも鳴り響いており、単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持された。2番人気には米国の人気俳優ビング・クロスビー氏の所有馬だったメドウコートが推されたが、単勝オッズは11倍だった。レース前夜に、ニクサーの厩舎に暴漢が乱入して警察官や警備員に撃退されるという事件があったらしく、何やら波乱含みの雰囲気も漂っていた。1番人気に推された本馬だったが、レース前の本馬の姿を見た観衆は「背は高いが特別優れたようには見えない平凡な馬」という印象を抱いたという(もっとも、仏国とは犬猿の仲である英国の人の評価なので当てにはならない)。

スタートが切られると、スナセリが先頭を引っ張り、本馬は馬群の中団を追走した。そして位置取りを上げながらタッテナムコーナーを回って6番手で直線に入った。先行していたアイセイが直線に入って後続を引き離しにかかったが、そこに外側から弾丸のような勢いで本馬がやって来て、残り2ハロン地点でアイセイをかわして先頭に立った。しかしこの時点においても本馬鞍上のグレノン騎手は「まるで彫像のように」微動だにしていなかった。そしてグレノン騎手が本馬に合図を送ると、瞬く間に後続を引き離して勝負あり。ゴール前ではグレノン騎手が手綱を緩めて大きく減速させるほどの余裕ぶりで、追い上げて2着に入ったメドウコートに2馬身差、3着アイセイにはさらに1馬身半差をつけて優勝した。2馬身差と書くと、それほどの着差ではないように見えるが、実際には着差以上の実力差があることは明らかであり、もしグレノン騎手が直線で本馬をまともに追い続けていたら、おそらく16年後の1981年にシャーガーが記録した10馬身差に匹敵する大差で勝っていただろうと評されている。史上最も楽な勝ち方だったと評されたこの英ダービーの時点で既に、本馬は世紀の名馬であるとの評価が確定したとされる。

競走生活(3歳後半)

仏国に戻った本馬は、翌7月のサンクルー大賞(T2500m)に出走した。仏グランクリテリウムで本馬に土をつけたグレイドーンに加えて、グレフュール賞・オカール賞・ボイアール賞・ガネー賞などの勝ち馬でこの年の仏国古馬勢の中では最強の評価を得ていた4歳馬フリーライドなどとの対戦となったが、今度もゴール前で速度を落とす余裕ぶりを見せ付けて、2着クールークーに2馬身半差、3着フランシリュースにはさらに2馬身差をつけて楽勝した。

サンクルー大賞の後はしばらく休養し、秋は前哨戦を使わずに凱旋門賞(T2400m)に直行した。この年の凱旋門賞は、当時は勿論のこと、現在でも同レース史上最強メンバーが揃ったと言われているほど、世界各国の強豪馬達が名を連ねていた。仏ダービー・パリ大賞・ロワイヤルオーク賞など5戦全勝の成績を誇り、マッチレルコといった偉大なる兄達が果たせなかった凱旋門賞制覇を目指していた3歳馬リライアンス。リュパン賞で本馬の2着した後に、仏ダービーとパリ大賞でもリライアンスの2着に入り、前哨戦のプランスドランジュ賞を快勝してきたダイアトム。英ダービーで本馬の2着した後に、愛ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSを勝ち、英セントレジャーで2着していたメドウコート。プリークネスS・アーリントンクラシックS・アメリカンダービーを勝ち、ケンタッキーダービーで3着、ベルモントSで2着して、この年の米最優秀3歳馬に選ばれることになる米国からの挑戦者トムロルフ。現在でもソビエト連邦史上最強馬と謳われるソ連三冠馬アニリン。クリテリウムドメゾンラフィットで本馬の着外に敗れた後に、クリテリウムドサンクルー・ヴィシー大賞を勝ち、仏ダービー・ロワイヤルオーク賞で3着していたカルヴァン。プランタン大賞(現ジャンドショードネイ賞)の勝ち馬で、バーデン大賞を4馬身差で勝ってきたドミドゥイユ。伊ダービーにおいてスタートで25馬身も出遅れながら驚異的な末脚で3着まで追い上げたため、実質的に当時の伊国最強と言われていたミラノ大賞2着馬マルコヴィスコンティ。ダフニ賞・シャンティ賞と前哨戦のフォワ賞の勝ち馬で、ジャンプラ賞・イスパーン賞・ユジェーヌアダム賞2着のシジュベール。コロネーションC・ロイヤルS・リングフィールドダービートライアルS・ジョッキークラブCの勝ち馬で、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS3着のオンシデュウム。仏1000ギニー・フォレ賞・モルニ賞などに勝ち凱旋門賞で2着した名牝エスメラルダの息子で、モーリスドニュイユ賞を勝っていたエメラルド。コンセイユミュニシパル賞・ボワ賞の勝ち馬で、ロワイヤルオーク賞・ドーヴィル大賞2着のティミーラッド。グレートヴォルティジュールSの勝ち馬で、ロワイヤルオーク賞でリライアンスの2着してきたラガッツォ。クリテリウムドメゾンラフィットで本馬の2着に敗れた後に仏オークスを勝利したブラブラ。ジョンポーターS・ハードウィックSの勝ち馬で、デューハーストS・コロネーションC・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS2着のソデリニ。マルセイユ大賞の勝ち馬で前哨戦フォワ賞3着のアーダバン。サンクルー大賞で本馬の着外に敗れた雪辱を期して参戦してきたフリーライド。サンクルー大賞で本馬の3着だったフランシリュース。愛セントレジャーで3着してきたカリフ。以上の19頭が本馬の対戦相手となった。

しかしこのメンバー構成の中でも、英ダービーからさらに成長していた本馬の評価は断然であり、久々の影響か発汗が見られたものの、単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持された。リライアンスが単勝オッズ5.5倍の2番人気、ダイアトムとフリーライドのカップリングが単勝オッズ8.5倍の3番人気、メドウコートとカリフのカップリングが単勝オッズ8.75倍の4番人気、トムロルフが単勝オッズ9倍の5番人気、アニリンが単勝オッズ23倍の6番人気と続いていた。

スタートが切られるとマルコヴィスコンティが先手を取って、ハイペースの逃げを演出した。本馬はリライアンス、メドウコート、トムロルフと共に中団を追走した。そのうちにアニリンが進出して2番手に上がり、本馬とリライアンスも徐々に位置取りを上げていった。そして直線を向くと、本馬とリライアンスの2頭が稲妻のようにアニリンをかわして馬群を抜け出した。2頭の一騎打ちになると思われたのは一瞬だった。残り400m地点でグレノン騎手が合図を送ると、本馬は隣にいたリライアンスを置き去りにして独走状態に入った。抜け出した本馬は残り200m地点の辺りから、延々と左側によれ続けた(最初はリライアンスより内側を走っていたが、ゴール前ではリライアンスを始めとする全ての他馬よりも外側になっていた)が、それでも後続との差は縮まらなかった。最後は2着リライアンスに6馬身差、3着ダイアトムにはさらに5馬身差をつけて圧勝した。実際にはリライアンスとの差は4馬身半ほどだったといくつかの資料に記載されているのだが、筆者が映像を見る限りでは6馬身差と称しても不自然さを感じさせないくらいの差は開いている。いずれにしても、鞍上のグレノン騎手がゴール前100m地点で本馬の首を軽く叩きながら悠々とゴールした事、直線であれだけ左に斜行しながらも圧勝した(真っ直ぐ走っていれば後続に10馬身差はつけていたとも言われる)事などから、着差云々以上に圧倒的な勝ち方であった事は間違いない。引き揚げていく本馬に対しては、かつての皇帝ナポレオン1世にも似た、競走馬に対するものとしては仏国史上最大級の拍手喝采が送られた。

この凱旋門賞の直前に、名馬リボーを種牡馬としてリース供用していた米国の馬産家ジョン・W・ガルブレイス氏が、リボーと同じ135万ドルで本馬を5年間種牡馬としてリースする契約をテルニンク氏との間に締結していたため、本馬はこのレースを最後に3歳時5戦全勝の成績で競走馬を引退した。

しかし、英ダービーや凱旋門賞で本馬にまるで歯が立たなかった馬達が、本馬の引退直後に世界各国の大競走を勝利した。ダイアトムはワシントンDC国際Sを、英ダービーで着外に終わったシリーシーズンは英チャンピオンSを、凱旋門賞で5着だったアニリンはオイロパ賞を、凱旋門賞で7着だったドミドゥイユはローマ賞を、それぞれ勝利した。また、翌年以降にも、英ダービーで3着だったアイセイがコロネーションCを、凱旋門賞で10着だったマルコヴィスコンティがミラノ大賞2回・伊ジョッキークラブ大賞をそれぞれ勝利し、凱旋門賞で着外だったシジュベールは翌年の凱旋門賞で2着した事により、本馬の評価はさらに上昇した。

競走馬としての評価と特徴

本馬は1回しか英国で走ったことが無かったが、240票中228票という圧倒的な得票数で、この年の英年度代表馬に選出された。また、英タイムフォーム社がこの年の本馬に対して与えたレーティング145ポンドは、当時史上最高値であったばかりでなく、20世紀中にこれを超える評価の馬が現れることは無く、長年にわたって最高の地位にあり続けた(2012年にマイル戦のクイーンアンSを11馬身差で圧勝したフランケルが147ポンドの評価を獲得したために史上最高の座からは陥落したが、距離12ハロン路線においては現在でも史上最高値のままである)。英年度代表馬にしても、英タイムフォーム社のレーティングにしても、本馬の地元仏国とは仲が良くない英国内における評価であり、本馬の強さはそうした仏英両国の長年にわたる不仲をも超越するものだったと言える。

手放しで本馬を絶賛している代表的な人物は、英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏であり、彼の著書“A Century of Champions”では、英タイムフォーム社のレーティングの対象外となっているセクレタリアトなどの米国調教馬を含めても、20世紀中に走った競走馬の中では本馬が最強であると評価されている。そのため、本項執筆のために海外の資料を色々と調べる前は、本馬を最強だと主張しているのはモリス氏だけであって、それ以外の人は違う評価をしているのではないかという懸念を筆者は抱いていたが、どうやらそのような事は無いようである。英ダービーの結果を報じるモントリオール・ガゼット紙において既に“A wonder horse , a super-horse”と賞賛されているなど、各方面で本馬は絶賛されていた。

なお、“A Century of Champions”において随分と強調されていたことが影響してか、本馬は左回りが得意で右回りは苦手だったと言われる事が多い。しかし確かに凱旋門賞のゴール前における大斜行は壮絶だったが、同じロンシャン競馬場で行われたリュパン賞(このレースも筆者は映像で見た)では直線入り口からゴールまで真っ直ぐに走っており、本馬が本当に左回りを苦手としていたかどうかは正直言って疑問である。

馬名に関して

なお、本馬の名前に関してここで少し触れておく。言うまでも無く“Sea”と“Bird”は共に英語である(仏語で「海」はMer、「鳥」は“Oiseau”)。“Sea”に関しては仏語でも「海」という意味で使用されることが稀にあるようだが、“Bird”は仏語では通常使われない単語のようである。しかし“Sea-Bird”というようにハイフンで繋げて一つの単語にすると、仏語で「海鳥」という意味になるそうである。そのため、地元仏国で本馬の名前を表記する際は通常“Sea Bird”ではなく“Sea-Bird”である。しかし本馬の現役当時における英語圏ではハイフンを入れず、しかも同名の馬が過去に存在したことから、“Sea Bird Ⅱ”と表記されていた。現在は英語圏でもハイフンを入れる仏語表記が一般的らしいが、Ⅱを加えて“Sea-Bird Ⅱ”と表記される場合もあるようである。

なお、名前の読み方は英語読みでは「シーバード」だが、仏語読みでは「セアビール」である。筆者は仏語を専攻した事が無いので自信は無いが、ポレ師に対するインタビュー映像において彼は「セアビール」と発音していたように聞こえたし、仏語と英語は発音のルールがかなり違うので、少なくとも仏語で“Sea-Bird”を「シーバード」と読む事はないはずである。セントサイモンではなくサンシモン、ダンチヒではなくダンチグ、ヌレイエフではなくヌレエフ、セントジョヴァイトではなくサンジョヴィート、ピルサドスキーではなくピウスツキが正しいなど、海外馬の名前の読み方について拘る人は少なくないようだが、仏国産まれで馬主も調教師も仏国人という生粋の仏国馬である本馬について、その名の読み方は英語ではなく仏語でないとおかしいという議論を見た事は1度も無い。20世紀最強馬と言われる本馬でさえそうなのだから、結局のところ海外馬の名前の読み方を云々言う人は自分が目についた馬だけを議論の俎上に乗せているに過ぎない。そもそも言語体系が異なる外国語を完全に正しく日本語表記とすることなど不可能である。海外馬の名前の読み方に関して筆者にはあまり拘りが無いのはそのためである。

血統

Dan Cupid Native Dancer Polynesian Unbreakable Sickle
Blue Glass
Black Polly Polymelian
Black Queen
Geisha Discovery Display
Ariadne
Miyako John P. Grier
La Chica
Vixenette Sickle Phalaris Polymelus
Bromus
Selene Chaucer
Serenissima
Lady Reynard Gallant Fox Sir Gallahad
Marguerite
Nerva Fair Play
Zephyretta
Sicalade Sicambre Prince Bio Prince Rose Rose Prince
Indolence
Biologie Bacteriophage
Eponge
Sif Rialto Rabelais
La Grelee
Suavita Alcantara
Shocking
Marmelade Maurepas Aethelstan Teddy
Dedicace
Broceliande La Farina
Reine Mab
Couleur Biribi Rabelais
La Bidouze
Colour Bar Colorado
Lady Disdain

父ダンキューピッドはネイティヴダンサー直子の米国産馬で、本馬と同じくポレ調教師の管理馬として走り、15戦5勝の成績を残した。主な勝ち鞍はサブロンヴィーユ大賞・サンジャメ大賞・プールタレ賞・ボワ賞であり、大競走の勝ちは無いが、仏ダービーでエルバジェの2着に入り、ミドルパークSでも2着、モルニ賞で3着した実績がある。ただし、英2000ギニー・英ダービーでは共に着外に終わっている。競走馬引退後は仏国で種牡馬入りしていた。本馬は父の初年度産駒だが、2年目以降の産駒からも、リュパン賞・グレフュール賞の勝ち馬ダンカロ、仏グランクリテリウム・ノネット賞の勝ち馬シルバークラウド、プリンスオブウェールズS・ドラール賞の勝ち馬ギフトカード、ドーヴィル大賞・ケルゴルレイ賞の勝ち馬ミスダン、ノーアリバイ(本邦輸入種牡馬・ホワイトフォンテンの父)などが出て、それなりの成功を収めた。

母シカラードは競走馬としては2戦して2着が最高という未勝利馬だった。シカラードの母マーマレードは1戦未勝利、マーマレードの母クールールも障害競走では勝ち星を挙げたが平地では未勝利、クールールの母カラーバーも未勝利馬、カラーバーの母レディディスデインも2戦未勝利といった具合に、本馬の母系は5代遡っても平地で勝利を挙げた馬が存在しないという貧弱な牝系である。唯一の例外はマーマレードの全姉カマリーで、テルニンク氏の所有馬として英1000ギニーを優勝した。カマリーが活躍しなければ、これだけの貧弱な牝系をテルニンク氏が我慢して飼い続ける事は無かっただろうと言われている(カマリーの1歳年下、マーマレードの1歳年上の半姉グランドールの牝系子孫には日本で走ったアストンマーチャン【スプリンターズS(GⅠ)】がいるが、後の世の話である)。本馬の登場以前にこの牝系から登場した活躍馬はカマリーのみと言ってよく、近親には活躍馬は見当たらない。このように血統が悪かった上に競走成績も冴えなかったシカラードに対するテルニンク氏の評価は非常に低く、本馬を含めて僅か4頭の子を産んだだけで、前述のとおり本馬を産んだ翌年に7歳の若さで処分されている。シカラードが産んだ子は全て牡駒で、内訳はデラシカ(父ドーミエ)、スタツクォー(父エルレリカリオ)、本馬、シンコム(ボウプリンス)であるが、本馬以外に競走馬として活躍した馬はいない。→牝系:F2号族③

母父シカンブルは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ガルブレイス氏が所有する米国ケンタッキー州ダービーダンファームに移動して、同牧場で暮らしていたリボーと共に種牡馬生活を送った。5年間のリースが満了した後の1972年に仏国に戻り、テルニンク氏が所有するプチテリエ牧場で種牡馬生活を続けた。ところが翌1973年3月、腸閉塞から来る疝痛を発症した本馬は、11歳の若さで夭折してしまった。代表産駒アレフランスが凱旋門賞を制して父に続いて仏国競馬の頂点に立つ前年のことであった。

なお、本馬の死後にテルニンク氏が遺体の頭部を剥製業者に売却し、残りは食肉業者に売却したが、頭部は損傷がひどく、剥製業者によって焼却処分されたという逸話が原田俊治氏の「新・世界の名馬」で紹介されている。これは日本において非常に有名な逸話となっており、本馬が語られる際には、そのレースぶりよりもその最期が強調されがちになるという事態を招いている。「新・世界の名馬」によると、本馬が食肉にされた件に関して英国の競馬関係者や動物愛護団体は仏国を非難したというのだが、海外の資料には、本馬が死後に業者に売られたという話自体がどこをどう探しても全く見当たらない。仏国の恥とも言えるこの逸話が仏国側の資料に載らないのは当然かも知れないが、本当に英国側が仏国側を非難したというのなら、それが英国側の資料にすらも全く出てこないというのはおかしい。これは筆者の個人的見解に過ぎないが、馬肉食が一般的である仏国を貶すために、馬肉を食べる習慣が無い英国側が流布させたデマである可能性が大きいのではないだろうか。本馬の母シカラードが食肉にされたのは事実であるから、それも噂に尾ひれをつける原因となったのかも知れない。

後世に与えた影響

日本においては、本馬は種牡馬としては失敗だったという意見が大勢を占めている。中には「種牡馬として20世紀最高の期待はずれを演じてしまった」と極端すぎる意見を言う人までいるほどである。海外の種牡馬に対する日本人の成功失敗の評価は、海外における評価とは違っている事が多く、日本では失敗種牡馬とされている多くの海外馬(セクレタリアトやアファームドなど)が海外の資料では成功種牡馬と評価されている。しかし本馬に関しては海外の資料においても、その種牡馬成績は期待に比べると少々寂しいものだったと書かれている。このことからすると、本馬はやはりそれほど種牡馬として成功したとは言い難いのだろう。しかし、自身が競走馬として凄すぎたために種牡馬成績が相対的に見劣りするという一面がある上に、産駒が僅か7世代しかいないため、その種牡馬としての真の実力は結局のところ未知数である。筆者が本馬の産駒及びステークス競走の勝利歴に関して簡単な調査を行ってみた(ただしニアークティックの項に記載した理由であまり正確な調査とは言えない)ところ、222頭の産駒中32頭がステークスウイナーとなっているようである。ステークスウイナー率は14.4%で、この数値は一流種牡馬のものであり、正確な調査では無いと言っても本馬が種牡馬として無能だったわけでは断じてない事を証明するデータではあると思う。

アークティックターンの直子である仏ダービー馬ベーリングが種牡馬として成功し、史上最強馬シーバードの血を後世に残している。また、東京優駿馬タニノギムレットの祖母の父も本馬であり、タニノギムレットの代表産駒ウオッカにも本馬の血は受け継がれている事になる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1967

Burd Alane

ディスカヴァリーH

1967

Great Heron

ポルトマイヨ賞

1967

Gyr

サンクルー大賞・ダリュー賞・オカール賞

1967

Rudo Bird

ロングアイランドH

1967

Strider

フォールズシティH

1968

Kittiwake

コロンビアナH(米GⅡ)・マーゲイトH・フィレンツェH・マーゲイトH・アーリントンメイトロンH

1968

Sea Saga

レディーズH

1969

Dubassoff

アーリントンH(米GⅡ)・ウッドローンS・アメリカンダービー

1969

Open Season

レイルウェイS(愛GⅢ)

1969

Shearwater

シープスヘッドベイH(米GⅡ)

1970

Allez France

凱旋門賞(仏GⅠ)・クリテリウムデプーリッシュ(仏GⅠ)・仏1000ギニー(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)・ガネー賞(仏GⅠ)2回・イスパーン賞(仏GⅠ)・アルクール賞(仏GⅡ)・ドラール賞(仏GⅡ)・フォワ賞(仏GⅢ)2回

1970

Sea Pigeon

英チャンピオンハードル2回・エボアH

1971

Diomedia

マーゲイトH(米GⅢ)

1971

Gulls Cry

ヴァインランドH(米GⅡ)・ギャロレットH(米GⅢ)・コロンビアナH(米GⅢ)

1971

Little Current

プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・エヴァーグレイズS(米GⅡ)

1971

Sea Sister

レアトリートS(米GⅢ)

1971

Sea Songster

ジムダンディS(米GⅢ)

1972

Sea Sands

オペラ賞(仏GⅡ)・ヴァントー賞(仏GⅢ)

1973

Arctic Tern

ガネー賞(仏GⅠ)・トーマブリョン賞(仏GⅢ)・フォンテーヌブロー賞(仏GⅢ)

1973

Sweet Rhapsody

ポモーヌ賞(仏GⅢ)

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