セクレタリアト

和名:セクレタリアト

英名:Secretariat

1970年生

栗毛

父:ボールドルーラー

母:サムシングロイヤル

母父:プリンスキロ

米国三冠競走全てを現在も破られていないレースレコードで制し、特にベルモントSでは31馬身差で圧勝して米国史上最強馬の称号を得た第9代米国三冠馬

競走成績:2・3歳時に米加で走り通算成績21戦16勝2着3回3着1回

史上9頭目の米国三冠馬にして、米国競馬史上最強馬、世界競馬史上最強馬とまで評される究極の名馬である。その知名度は日本においても抜群であり、サンデーサイレンスなど日本に縁がある馬を除けば、最も語られる機会が多い海外馬であろう。おそらくこの名馬列伝集においても、最も多くの読者を惹きつける馬の1頭であろうから、筆者もいつも以上に気合を入れて執筆することとする。

誕生:コイントスの結果で所有者が決定

米国ヴァージニア州キャロライン郡のメドウステーブルにおいて、同牧場の所有者クリストファー・T・チェネリー氏により生産された。チェネリー氏は本馬より1歳年上のケンタッキーダービー・ベルモントSの勝ち馬リヴァリッジなどの生産者であるが、リヴァリッジの項に記載したとおり、本馬が産まれた頃には重い病気に罹っていた。そのため、メドウステーブルの経営は、チェネリー氏の娘であるヘレン・“ペニー”・チェネリー女史に引き継がれており、本馬の実質的な生産者も彼女だった。

本馬の父ボールドルーラーの所有者だったホイートリーステイブルの代表者グラディス・ミルズ・フィップス夫人の息子オグデン・フィップス氏は、ボールドルーラーの種付け料を無料にする代わりに、誕生する子馬を賭けて生産者との間でコイントスを行うという一風変わった趣向の持ち主だった。具体的には、ボールドルーラーと交配される予定である2頭の繁殖牝馬が今後2年間に産む予定の子が勝負の対象であり、コイントスで勝った人が、選んだ方の牝馬が翌年に産む子と、選ばなかったもう一方の牝馬が翌々年に産む子の所有権を獲得し、コイントスで負けた人が、勝った人が選ばなかった牝馬が翌年に産む子と、勝った人が選んだ牝馬が翌々年に産む子の所有権を獲得するというものだった。

これは単にフィップス氏の趣味というだけではなく、誕生した子馬が牝馬で引退後に繁殖入りした場合には、ホイートリーステイブルに縁がなかった良血の繁殖牝馬を獲得できるという目論見もあった。これはホイートリーステイブルからボールドルーラーを預託されていたクレイボーンファームの所有者アーサー・ブル・ハンコック・ジュニア氏の入れ知恵によるものだったらしく、ボールドルーラーが種牡馬入りした当初に、交配される繁殖牝馬がホイートリーステイブルの持ち馬ばかりになる事を懸念したものだった。ボールドルーラーが押しも押されもしない大種牡馬になって以降も、その方法は変えられていなかったのである。

1969年の秋、チェネリー女史は自身が所有していた2頭の繁殖牝馬、サムシングロイヤルとヘイスティマテルダ(テューダーメロディの半妹であるメイトロンSの勝ち馬で、母としてもアラバマSの勝ち馬ゲイマテルダを産んで既に実績を残していた。ゲイマテルダはマイルCS南部杯を制したタイキシャーロックの曾祖母である)を対象としてフィップス氏とコイントスの勝負を行った。この勝負はニューヨーク競馬協会の会長だったアルフレッド・G・ヴァンダービルトⅡ世氏のオフィスにおいて行われ、ブル・ハンコック・ジュニア氏が立会人となった。そして勝負に勝ったフィップス氏がヘイスティマテルダを選択したため、フィップス氏は翌1970年にヘイスティマテルダが産む子と、1971年にサムシングロイヤルが産む子の所有権を獲得。負けたチェネリー女史は翌1970年にサムシングロイヤルが産む子と、1971年にヘイスティマテルダが産む子の所有権を獲得した。後にヘイスティマテルダの権利は、メドウステーブルが所有していた歴史的名牝シケーダのそれと交換されたが、シケーダは結果的にそれほど繁殖牝馬として成功しなかった。

そして一方のサムシングロイヤルは、翌1970年3月30日午前0時10分に、燃えるような赤い栗毛の牡駒を産んだ。この馬こそが本馬である。生後すぐの本馬を見た、メドウステーブルの敏腕秘書エリザベス・ハム女史は、「3本の脚にストッキングを履いた、とても美しい構成の馬です。肩は優れており、真っ直ぐな後脚とのバランスも良いです。この馬を見た人はみんな気に入るでしょう」と日誌に書き残している。

競走馬全盛時代の体高は16.2ハンド、胴回りは75インチ、体重は1175ポンドに達したというから、かなりの巨漢馬だった。後に2歳になった本馬をフロリダ州で初めて見たチェネリー女史は、ただ一言「ワオ!」と言う事しか出来なかった(チェネリー女史のこの言葉は本馬が産まれてすぐのものだという説が日本では一般的だが、どうやら違うらしい)。

本馬は幼少期には正式な馬名はつけられていなかった。メドウステーブルの秘書ハム女史は、“Scepter(セプター)”、“Royal Line(ロイヤルライン)”、“Something Special(サムシングスペシャル)”、“Games of Chance(ゲームズオブチャンス)”、“Deo Volente(デオヴォレンテ)”など5つの名前(資料によっては10の名前となっている)をジョッキークラブに申請したが、それらは全て様々な理由で棄却された。ハム女史は悩んだ末に、自分が以前に業界団体の事務局に勤務していた事にちなみ、英語で事務局を意味する“Secretariat”という名前を申請した。この6番目(又は11番目)に申請した名前がようやく受理され、本馬の名前はセクレタリアトとなった。

デビュー前:怠惰で食欲旺盛な馬

2歳になった本馬はフロリダ州に移動して、メドウステーブルの専属調教師で、リヴァリッジも管理していたルシアン・ローリン師に預けられた。初めてローリン厩舎に来た本馬の様子を、本馬の担当厩務員となるエディー・スウェット氏は「彼は大きくて太っていて怠惰な馬でした」と述懐している。本馬は食べて寝ることを何よりも好んだらしく、また、同厩のビリーシルヴァーという名前のポニーといつも戯れていた。

チェネリー女史や本馬の主戦となるロン・ターコット騎手と異なり、ローリン師は寡黙な人物であり、シービスケットを管理した“サイレント”・トム・スミス師や、ダマスカスを管理したフランク・ホワイトリー師と共に、無口な調教師の代名詞として知られていた。そのために、管理馬をどのように調教するのかを語る事はなく、怠惰だった本馬をローリン師がいかにして鍛え上げたのかは現在も謎に包まれている。ローリン師の調教方針は不明のままだが、担当厩務員のスウェット氏が本馬に接していた方針は判明している。スウェット氏は四六時中本馬に話し掛けていたという。ローリン厩舎の調教助手だったチャーリー・デイヴィス氏は「エディーのお陰で、セクレタリアトは私達の家族のようになっていました。セクレタリアトはまるでエディーの飼い猫のようでした」と語っている。

リヴァリッジと本馬を気性面で比較してみると、リヴァリッジは少々神経質だったのに対して、本馬はいつでもどっしりと構えていた。後に本馬が米国の英雄となり、全米から訪問客が殺到して浴びるような注目を集めるようになっても、図太い性格の本馬は平然としていたという。リヴァリッジと本馬を走り方で比較してみると、リヴァリッジがどちらかと言えば軽やかに走ったのに対して、本馬は凄まじいまでの脚の力で地面を掘るように走ったという。

本馬は非常に食欲旺盛な馬であり、視界に入るものは何でも食べたという。スウェット氏が食べ物を与えると、与えただけ際限なく食べ続けたため、周囲の人々は太るのではないかと心配したようだが、本馬が食べたものは脂肪ではなく筋肉に化けたようである。

競走生活(2歳時):2歳にしてエクリプス賞年度代表馬に選出

2歳時の7月4日の米国独立記念日にアケダクト競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦で、見習い騎手のポール・フェリシアノ騎手を鞍上にデビューした。単勝オッズ4倍で12頭立ての1番人気に支持された。しかしスタートで隣のケベックという馬に馬体をぶつけられてしまい、出遅れて12頭立ての10番手追走となってしまった。向こう正面で前方に進出しようとするが、前が塞がって失敗。直線で追い込んできたが、名門カルメットファームの生産・所有馬だったハーブルの1馬身1/4差4着に敗れた。しかしゴール前で鋭く追い込んできた末脚は印象的であり、本馬の経歴全体を花火に例える際には、このレースは導火線に例えられている。

それから11日後に出走したアケダクト競馬場ダート6ハロンの未勝利戦では、再び1番人気に支持された。今回もスタートはあまり良くなく、道中は馬群の中団後方の11頭立て6番手を追走。やがて外側を通って進出すると、残り1ハロン地点で先頭に立ち、前走で先着を許したマスターアチーヴァーを4馬身差の2着に下して初勝利を挙げた。このレースの模様を見ていたデイリーレーシングフォーム社の競馬記者チャールズ・ハットン氏(父ボールドルーラーの走りもリアルタイムで見ていた)は、「彼は電気を通すような加速力だけでなく、妖しい魅力、カリスマ性、そして凄まじいパワーを持っています。彼は非常に良い馬です」と絶賛した。

同月末にはサラトガ競馬場ダート6ハロンの一般競走に出走。ここで初めて主戦となるローリン厩舎の専属騎手“ロニー”ことロン・ターコット騎手とコンビを組んだ。そして好位追走から抜け出して、2着ラスミロンに1馬身半差で勝利した。今回もハットン氏が「未だかつてこれほど私の精神を充たしてくれる馬はいませんでした」と絶賛した他に、競馬記者のテイラー・ハーディン氏は「ネイティヴダンサー以来の名馬」と賞賛した。この直後に死去するブル・ハンコック・ジュニア氏も、このレースで本馬の走りを見てその可能性に熱狂したという。

その後は8月のサンフォードS(D6F)に出走した。ここではユースフルS・ジュヴェナイルS・トレモントSの勝ち馬で、後にサンミゲルS・サンハシントS・サンフェリペS・カリフォルニアダービー・ウィザーズS・グランプリS・サラナクSも勝って合計でステークス競走10勝を挙げる当時無敗のリンダズチーフという強敵が出現した。リンダズチーフが単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持され、本馬は単勝オッズ2.5倍で生涯唯一の2番人気に甘んじた。レースでは馬群の後方追走から、四角で先頭馬群に詰め寄った。そして直線に入ると、前を走るトレヴォスとノーススターダンサーの間を割って末脚を伸ばした。ゴール前でリンダズチーフが追いすがってきたが、最後は3馬身差をつけて、1分10秒0の好タイムで完勝した。ゴール前で十分に差が開いたため、通常であれば後は馬なりで走っても不思議ではないのだが、ターコット騎手は最後まで手綱を緩めなかった。それは今後に訪れるであろうさらなる大競走を見据えて、ゴールまで全力で走りきることを本馬に教えるためだった。

それから10日後のホープフルS(D6.5F)では、サラトガスペシャルSを勝ってきたストップザミュージックという実力馬の姿があったが、本馬が単勝オッズ1.3倍という断然の1番人気に支持された。ここではスタート直後の行き脚が悪く、最後方からの競馬となってしまった。しかし直線一気の末脚を繰り出して他の出走馬8頭をごぼう抜きにし、最後は2着フライトトゥグローリーに5馬身差をつけて圧勝した。

9月にはベルモントフューチュリティS(D6.5F)に出走した。前走で3着だったストップザミュージックも出走してきたが、本馬が単勝オッズ1.2倍という断然の1番人気に支持された。今回もスタート直後は後方を追走。そして三角から四角にかけて上がっていき、2着ストップザミュージックに1馬身3/4差をつけて勝利を収めた。

翌10月にはシャンペンS(D8F)に出走した。カウディンSを勝ってきたサラトガスペシャルS2着馬ステップナイスリー、ベルモントフューチュリティS2着後にカウディンSでも2着してきたストップザミュージック、サンフォードS2着後にカウディンSで3着してきたリンダズチーフ、それに本馬の同厩馬アングルライトなど11頭が対戦相手となった。スタートが切られるとアングルライトが先頭を引っ張り、スタートがあまり良くなかった本馬は最後方を追走した。アングルライトが作り出すペースはかなり速く、最初の6ハロン通過が1分09秒8だった。一方の本馬はレースが半分を過ぎた辺りで進出を開始。そして直線を向くと、馬群の間を割って追い込んできた。しかし残り1ハロン地点でターコット騎手が左鞭を打った際に右側によれて、隣を走っていたストップザミュージックにぶつかってしまった。この衝突にも臆さずに、2位入線のストップザミュージックに2馬身差をつけてトップゴールを果たしたが、ストップザミュージックに接触した際にその進路を妨害したと判定され、2着に降着となってしまった。

それから2週間後のローレルフューチュリティ(D8.5F)では、ストップザミュージックと4度目の対戦となった。本馬はアングルライトとのカップリングで単勝オッズ1.1倍という断然の1番人気に支持された。レースは泥だらけの不良馬場の中で行われた。ここでも後方からのレースとなったが、向こう正面で大外を通って進出。そしてゴールでは2着ストップザミュージックを8馬身ちぎって、シャンペンS降着の鬱憤を晴らした。他馬から離れた大外を走った事や、道中で鞭を使う素振りも見せなかった事などからして、鞍上のターコット騎手はシャンペンSの結果を相当意識していたようである。しかし不良馬場にも関わらず勝ちタイムは1分42秒8と優秀であり、道中で何事も無ければ、外側を走ろうが鞭を使うまいが、他馬との圧倒的な実力差を発揮できることを証明してみせた。

シーズン最終戦となった11月のガーデンステートS(D8.5F)も、後方待機策から四角で進出して抜け出し、2着アングルライトに3馬身半差をつけて楽勝した。

2歳時9戦7勝の成績を挙げた本馬は、その迫力満点の追い込みぶりが評価されて、エクリプス賞最優秀2歳牡馬に選ばれたばかりか、スカイラヴィルS・スピナウェイS・メイトロンS・フリゼットS・セリマS・ガーデニアSなど12戦全勝の成績を残した加国調教の2歳牝馬ラプレヴォヤンテ、ケンタッキーダービーとベルモントSを制した同厩のリヴァリッジなどを抑えて、2歳にしてエクリプス賞年度代表馬に選出された(具体的には、全米サラブレッド競馬協会とデイリーレーシングフォーム社が本馬を、全米競馬記者協会がラプレヴォヤンテを選出したため、2対1で本馬が年度代表馬となった)。そして当然のようにケンタッキーダービーの最有力候補と目されるようになった。

競走生活(3歳初期):スタミナ不足を指摘される

本馬が3歳になった直後の1月、メドウステーブルの牧場主クリストファー氏が長い闘病生活の末に死去した。そのため、チェネリー女史は高額の相続税を支払う必要に迫られた。チェネリー女史は相続税支払いのために、本馬の種牡馬権利を売却することを決定した。そして彼女はクレイボーンファームの経営を亡父ブル・ハンコック・ジュニア氏から受け継いでいたセス・ハンコック氏に本馬の種牡馬シンジケートを組むように依頼した。セス・ハンコック氏がシンジケートを募集すると、瞬く間に希望者が殺到。そしてまだ3歳になったばかりの本馬は、19万ドル×32株で総額608万ドル(当時の為替レートで約18億700万円)という当時史上最高額となる巨額の種牡馬シンジケートが組まれた。

本馬の3歳シーズンは、3月にアケダクト競馬場で行われたベイショアS(米GⅢ・D7F)が初戦となった。対戦相手は、スウィフトSの勝ち馬シャンペンチャーリー、グレイH・ヘリテージSの勝ち馬で後にアーカンソーダービーを勝つインペキュニアス、ハイビスカスSの勝ち馬でスウィフトS3着のアクチュアリティなどだった。ここでも本馬は後方待機から上がっていこうとしたが、今回は進路を失ってしまい、ターコット騎手が隙間を探している間に直線に入ってしまった。しかしここから馬群をこじ開けるように進出して突き抜け、2位入線のシャンペンチャーリーに4馬身半差をつけてトップゴールを果たした。最後の直線で3位入線馬インペキュニアスの進路を妨害したという疑いが持たれて審議が行われたが、2頭の騎手に対する聞き取り調査及びパトロールフィルムの確認の結果、今回はお咎めなしという判定となった。

翌月のゴーサムS(米GⅡ・D8F)では、スタート後3ハロン通過地点で先頭を射程圏内に捉えると、直線に入って速やかに抜け出すという、今までとは異なるそつのないレースぶりで、2着シャンペンチャーリーに3馬身差をつけて快勝した。勝ちタイム1分33秒4はコースレコードタイだった。

それから2週間後のウッドメモリアルS(米GⅠ・D9F)では、米国西海岸でサンタカタリナS・サンタアニタダービーを勝ってきたシャムという新たな挑戦者が出現したが、ほとんどの競馬ファンは本馬が敗れるなどとは考えもしなかった。しかし結果は予想外のものとなった。スタートから快調に先頭を飛ばしたアングルライトが、追いすがってきたシャムとの叩き合いを頭差で制して勝利。一方の本馬は、後方待機策から向こう正面で進出を開始するも、直線で伸びを欠いて、前の2頭から4馬身差をつけられた3着とまさかの敗退を喫してしまったのである。

米国競馬において後方からレースを進めるタイプの実力馬が敗れるのは、大抵の場合は先行した快速馬がそのまま押し切ってしまうパターンだというのは古参の競馬ファンなら誰しも理解していた事だったが、今回は負けたのが本馬であるだけに、さすがに疑問の声が挙がった。レース直後にローリン師が、本馬の口の中に腫れ物が出来ていたのが敗因であるという旨の声明を出したが、それに納得しない人も多かったようで、敗因は本馬のスタミナ不足ではないかという意見が噴出した。

本馬の父ボールドルーラーは米国競馬界に燦然と名を残す大種牡馬として君臨していたのだが、その能力は明らかにスピード系であり、スタミナには疑問符がつけられていた。実際、ボールドルーラー産駒は過去に米国三冠競走を1勝もしていないという厳然たる事実が存在していたのである。ウッドメモリアルSは本馬にとって過去最長距離であったが、本番の米国三冠競走は全てウッドメモリアルSより距離が長く、これで本馬のケンタッキーダービー制覇には黄信号が点ったという意見が、本馬贔屓の人々の間でも多く聞かれるようになった。実際に、ウッドメモリアルSの翌日に発表されたルイビル・クーリエ・ジャーナル&タイムズ社によるケンタッキーダービー出走予定馬のレーティング一覧においては、シャムが本馬を抑えてトップにランクされたのだった。

ケンタッキーダービー:史上初の2分未満のタイムで勝利

そして迎えたケンタッキーダービー(米GⅠ・D10F)では、同厩のアングルライトとのカップリングで1番人気に支持されたが、距離不安が囁かれていたために単勝オッズは2.5倍止まりであった。ウッドメモリアルSの敗因とされた口内の腫れ物は、名獣医マヌエル・ギルマン博士の手腕により治癒していたが、今度は膝に不安を抱えているという噂が流れたのも、人気を下げる一因だったようである。ウッドメモリアルSで本馬に先着していたシャムが単独で単勝オッズ3.5倍の2番人気に支持された。他の対戦相手は、ブルーグラスSを勝ってきたフラミンゴS2着馬マイギャラント、アーリントンワシントンフューチュリティ・ハッチソンS・ファウンテンオブユースSの勝ち馬で後にこの年のエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるシェッキーグリーン、フラミンゴS・ホーソーンジュヴェナイルSの勝ち馬でブルーグラスS・エヴァーグレイズS2着のアワーネイティヴ、プリークネスSを牡馬相手に勝った名牝ネリーモスの玄孫であるブルーグラスS・アーカンソーダービー3着馬ウォーバックス、フロリダダービー・デイドターフS・バハマズSの勝ち馬ロイヤルアンドリーガル、エヴァーグレイズS・マイアミビーチHの勝ち馬でフロリダダービー3着のレストレスジェット、ルイジアナダービー2着馬ナヴァホ、ファウンテンオブユースS2着馬トゥワイスアプリンス、コロナドSの勝ち馬ゴールドバッグ、そして後に米国競馬史上でも十指に入るほどの名馬となるフロリダダービー2着馬フォアゴーだった。本馬は様々な不安を抱えていたが、それでもチャーチルダウンズ競馬場には本馬見たさに13万4476人という記録的な大観衆が詰めかけた。

スタートが切られるとシェッキーグリーンが快速を活かして先手を取り、シャムなどがそれを追走。そしてターコット騎手は大胆にも本馬を最後方に陣取らせた。いつもどおりの位置取りであるし、スタミナに一抹の不安を抱えていたというのも、後方待機策を採った要因であっただろうが、この大舞台で最後方というのは、かなり勇気が必要だったと思われる。やがて外側を通って徐々に進出していった本馬は、先に抜け出していたシャムに次ぐ2番手で直線に入るとターコット騎手の右鞭に応えて猛然とスパート。内側でシャムも必死に粘ったが、最後は本馬が突き抜けて、2着シャムに2馬身半差、3着アワーネイティヴにはさらに8馬身差をつけて快勝した。

勝ち時計1分59秒4は、1964年にノーザンダンサーが計時した2分00秒0のコースレコードを9年ぶりに更新するものだった。これは2015年現在でもケンタッキーダービーのレースレコードであり、同競走において2分を切るタイムで走った馬もこのレースで2着だったシャムと、2001年の勝ち馬モナーコスの2頭しかいない。このレースにおける本馬のラップタイムを列挙すると、最初の2ハロンは25秒2、次の2ハロンが24秒、次の2ハロンは23秒8、次の2ハロンが23秒4、そしてラスト2ハロンの走破タイムは23秒フラット。平坦小回りの競馬場ばかりであるため、スタートから飛ばして押し切るのが勝つための常套手段とされていた米国競馬界にあって、スタートからゴールまで一貫して加速し続けるという本馬のレースぶりは、常識からかけ離れたものだった。

プリークネスS:39年後に認定されたレースレコード

続くプリークネスS(米GⅠ・D9.5F)では、本馬、前走2着のシャム、同3着のアワーネイティヴ以外のケンタッキーダービー出走馬が全て姿を消し、前述3頭以外の出走馬は、ジェネラルジョージSの勝ち馬でミリティアH2着のエコールエテージ、アレゲニーS・ミリティアHの勝ち馬デッドリードリーム、キンダーガーデンS3着馬トーション(翌年のポーモノクHでミスタープロスペクターを3着に破って勝っている)の3頭だけだった。

スタートが切られるとトーションが先頭に立ち、シャムはそれを追って先行した。本馬は今回もスタート直後は最後方を追走したが、最初のコーナーを回るところで外側を通って進出し、向こう正面に入ったところで早くも先頭に立つという、今までとは異なる積極的な走りを見せ、レースを見ていた人々を驚かせた。これは、スローペースであることを察知したターコット騎手の判断によるものだったが、最後に末脚が鈍る危険性も孕んでいた。しかしそんな心配は不要だったようで、三角や四角でも後続馬に迫られることなく先頭を維持し、直線に入ってもしっかりと脚を伸ばし、2着シャムに2馬身半差、3着アワーネイティヴにはさらに8馬身差をつけて快勝した。ピムリコ競馬場の副代表チック・ラング氏は「フォルクスワーゲンの車列の中にロールスロイスが混ざっているように見えました」と感想を述べた。

ここで一つ小さな問題が発生した。ケンタッキーダービーを本馬がレコード勝ちしたため、スポーツ記者達はこのプリークネスSにおいても、2年前の1971年にキャノネロが計時したコースレコード1分54秒0を本馬が更新できるかどうかに注目していたのだが、レース終了直後に電光掲示板に表示された勝ちタイムは1分55秒0だった。手動でレースのタイムを計測していたピムリコ競馬場の計時担当者E・T・マクレーン・ジュニア氏は、電光掲示板の表示は誤っていると上層部に通知。そして自分が計った1分54秒4が正しいと伝えた。

ピムリコ競馬場は電子計測器が故障していたと判断(故障の原因は、馬場の内野席に向かう途中の観衆達が何らかの悪戯をしたためと推定されている)し、マクレーン・ジュニア氏の進言に従って1分54秒4を公式な勝ちタイムとして発表したのだが、デイリーレーシングフォーム社の計時担当者が計測した勝ちタイムが1分53秒4だったため、論争になってしまった。CBSテレビはキャノネロが勝ったプリークネスSと、本馬が勝ったプリークネスSの映像を並べて再生し、本馬のほうが速かったという結論を導き出した。しかしピムリコ競馬場はこれらの意見を否定し、1分54秒4を公式タイムとして確定させた。デイリーレーシングフォーム社は1分54秒4を公式記録として認めながらも、そのタイムの隣に括弧書きで1分53秒4の非公式タイムを印字するという、前例がない手法を採ることにした。

その後かなり長い間、本馬の公式なプリークネスSの勝ちタイムは1分54秒4ということになっていたのだが、これから実に39年後の2012年6月19日になって、メリーランド州競馬委員会が、本馬の所有者チェネリー女史を交えて2時間ほど議論した結果、満場一致で本馬の勝ちタイムは訂正された。訂正後の勝ちタイムは当初言われていた1分53秒4よりも0秒4速い1分53秒0だった。これは、チェネリー女史が雇った会社によるビデオ分析結果に基づくものである。これで本馬のプリークネスSにおける勝ちタイムは、キャノネロの1分54秒0は勿論のこと、この時点で最速となっていた2007年の勝ち馬カーリンの1分53秒46よりも速いものとなり、同競走史上最速タイムとして正式に認められた(ただし、1991年のピムリコスペシャルでファーマウェイが計時したコースレコード1分52秒4を更新することは出来なかった)。デイリーレーシングフォーム社もこの結果に従い、それまで使用していた1分53秒4を破棄して、1分53秒0を採用することに決めた。この1分53秒0もまたケンタッキーダービーと同じく2015年現在でも同競走最速の地位を維持している。

ベルモントS:いずれも空前絶後の31馬身差&2分24秒0のタイムで米国三冠を達成

話を本馬の競走生活に戻すと、プリークネスSを制覇したことで、1948年のサイテーション以来25年ぶり史上9頭目の米国三冠馬に王手を掛けた。この時点で既に本馬はかなりの有名人(馬)であり、ベルモントSの前週には、タイム誌、ニューズウィーク誌、スポーツ・イラストレイテッド誌という米国を代表する3つの週刊誌の表紙を飾るまでになっていた。なお、後述するように本馬が表紙を飾ったタイム誌が発売されたのはベルモントSの2日後であるが、ベルモントSを本馬が勝ったからタイム誌の表紙を飾ったわけではない。だいいち、それでは発売に間に合わない。ベルモントSを本馬が勝つ前から、タイム誌の表紙を本馬が飾ることは決まっていたのである。

そして6月9日、米国三冠競走最終戦ベルモントS(米GⅠ・D12F)の日を迎えた。対戦相手は、シャム、ジャージーダービーを勝ってきたプライヴェートスマイルズ、ケンタッキーダービーで9着だったマイギャラント、同12着だったトゥワイスアプリンスの4頭だった。本馬は単勝オッズ1.1倍という断然の1番人気に支持された。もっとも、本馬の単勝馬券を買った人の多くは、それを換金せずに記念品として持ち帰ったという。

レースの数日前、本馬の最終調教が終わった直後に、ローレン師とターコット騎手は連れ立って夕食に出掛けた。この食事中に、さすがにプレッシャーを感じていたターコット騎手が「もし負けたら、私は首を吊らなければならないでしょう」と本気とも冗談ともつかない台詞を言ったところ、ローレン師は次のように応じた。「ロニー、あの馬は歴史上最も偉大な競走馬です。もし負けたら、私は過去に登場したあらゆる馬や調教師、レース名が掲載された本や資料を全米中から全て集めてきてことごとく川に投げ捨てましょう。」実際に本や資料を全て集めてくるなど不可能であり、要するにローレン師は本馬が負ける恐れは一切ないと言いたかったのである。これでターコット騎手も腹をくくった。

本馬の名を不朽のものとしたこのベルモントSの模様については、ここで詳しく語る必要も無いのではないかと思うが、せっかくの機会なので記載しておく。スタートが切られるとシャムがまずは先頭に立ったが、あまりスタートが良くなかった本馬もすぐに内側から進出してシャムに並びかけ、この2頭が先頭を引っ張る展開となった。本馬とシャムが猛然と競り合ったために、後続馬ははるか後方に置き去りにされた。向こう正面の中間地点辺りで早くもシャムはスタミナ切れを起こして徐々に後退していったが、本馬はそのまま驀進を続けた。CBSテレビの実況アナウンサーであるチック・アンダーソン氏は「セクレタリアトが差を広げています!戦闘飛行機のような凄まじい勢いです!」と絶叫した。そして既に決定的な差をつけた状態で三角と四角を回っていった。直線に入った後も後続との差を広げる一方だった。ターコット騎手は、本人曰く他馬が今どの辺りを走っているのかを確かめるために、後方を振り返る必要があった。最後は2着トゥワイスアプリンスに31馬身差をつけてゴールし、サイテーション以来25年ぶりの米国三冠を達成。ベルモントパーク競馬場に詰め掛けた6万7千人のファンを熱狂の渦に巻き込んだ。

そして勝ち時計の2分24秒0は、1957年にギャラントマンが計時した2分26秒6を2秒6も更新するコースレコードであり、1964年のマンハッタンHでゴーイングアブロードが計時した2分26秒2をも2秒2更新する全米レコード(世界レコード)でもあったのである。この世界レコードは2015年現在も未だに破られていない。ベルモントS史上2位のタイムで勝ったのは1989年のイージーゴアであるが、その勝ちタイムは2分26秒0であり、本馬より2秒も遅い。レースの走破タイムというものは、そのときの馬場状態やレース展開などによって左右されるものであるし、普通の騎手はレースに勝ちたいとは思っていても、レコードタイムを出したいとは考えていないのだから、タイムだけで競走馬の能力を図る事は出来ない(これは別に筆者だけが思っているわけではなく、米国における本馬のファンサイトにおいて明記されている事である)。しかし米国三冠競走全てが現在も破られていないレースレコードである上に、ベルモントSの勝ちタイムが2位の馬より2秒も速いとなれば話は別であろう。一概には言えないが、2秒差は約10馬身に相当すると一般的に言われるから、歴代ベルモントS勝ち馬を一緒に走らせたら、他馬は全て本馬に10馬身以上ちぎられるという事になるのである。

ところでこの31馬身という着差は、果たして正確なものなのだろうかという、少し意地が悪い疑問を抱いてしまったので、ちょっと調べてみた。実はこのベルモントSの直後に出た公式記録には、31馬身差という数字は出てこない。以下はデイリーレーシングフォーム社が出したこのレースの公式文書である。「セクレタリアトは内側を通ってシャムに並びかけ、共に向こう正面に入りました。4分の3マイルを通過した時点で後続を引き離しました。そして最終コーナーを回ると、ターコット騎手を背中に乗せたまま、物凄いパフォーマンスを見せて、記録を確立しました。」

レース直後に実況のアンダーソン氏は「25馬身差くらいでしょう」と言っているが、これは1943年にカウントフリートが勝ったときとまったく同じ数字であるから、彼の脳裏にはカウントフリートと同程度という考えがあったのであろう。レース後にデイリーレーシングフォーム社が映像を詳しく分析した結果として、31馬身差という数字が導き出されたものであった。レース翌日の新聞には既に31馬身差という数字が出ているから、デイリーレーシングフォーム社の分析はかなり早い段階で行われたようである。

何馬身差という表現は、当該競走に出走した馬の体格によっても左右されるものであるから、メートル法等で正確に計測できない類のものである。英タイムフォーム社のレーティングやワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング(旧国際クラシフィケーション)などにおいては、着差をレーティングに反映させる必要があるために、かなり正確に着差が測定されて公式記録とされているのだが、本馬が現役だった頃の米国競馬界は英タイムフォーム社のレーティングや国際クラシフィケーションの対象外だった(米国調教馬が対象に含まれるようになったのは1995年から。1977年創設の国際クラシフィケーションは当時存在さえしていなかった)事もあり、そこまで正確に着差が測定されていたわけではない。最終的には31馬身差という数字が公式記録として確定されたが、元々この数字は公式記録ではなかったというのが実際のようである。したがって、31馬身差という数字が独り歩きするのはあまり妥当でない気もするのだが、それでも本馬がベルモントSで発揮した圧倒的な強さを一言で表現するには最も相応しいものであるのは確かであり、本馬が語られる際には必ず31馬身差という数字が出てくるようになっている。

なお、それまで追い込み戦法がほとんどだった本馬が、このベルモントSで積極的に先行した理由については、実はよく分かっていない。ローリン師はレース前にターコット騎手に対して色々と指示をしていたらしいが、実際の走りはローリン師の指示とはまるで違っていたらしい。このレースの数年後にシカゴ・トリビューン紙の競馬記者ネイル・ミルバート氏の取材に応じたローリン師は「ロニーがセクレタリアトをどのように走らせるつもりなのかを理解したのは向こう正面に入った時点でした。もしその時点で私が銃を持っていたら、ロニーを撃っていたでしょう。」「私はペニー夫人にこう言いました。私達は勝てません。彼は敗れ去るでしょうと。しかし彼はそのまま行き続けました」と語っているのである。ターコット騎手が本馬を積極的に先行させた理由は、当のターコット騎手本人も明言していないため分からないのだが、おそらく彼は余程自信があったのだろう。もしかしたら30年前の同競走においてスタートから爆走したカウントフリートの事が念頭にあったのかもしれない。

ベルモントSの2日後、本馬は前述のとおり、米国の代表的週刊誌であるタイムの表紙を飾り、5ページに渡る特集記事が組まれた。これによってセクレタリアトという名は世界中の競馬と無縁の人達にも知られるようになった。同じく燃えるような赤い栗毛の巨体を有していた米国の歴史的名馬マンノウォーのニックネーム“Big Red”を襲名することもここで許された。この年における米国は、ウォーターゲート事件で政界に激震が走ったり、ベトナム戦争で米軍が撤退を余儀なくされたりと、あまり芳しからぬ話題が多かった。そんな暗い状況下で出現した本馬は、米国民全体の英雄となった。政治家に対して不信感が強まっていた時期だったから、「セクレタリアトが大統領選挙に立候補すれば当選するだろう」という冗談が流行った。

競走生活(3歳中期)

そんな本馬に対して、全米各地の競馬場から出走依頼が殺到した。しかしベルモントSが終わった時点では、前述のとおり既に本馬の種牡馬シンジケートが組まれており、3歳いっぱいで引退することが決定していた。そのため現役を続けられる期間は限られており、チェネリー女史とローリン師は、可能な限り各地からの出馬要請に応えられるような綿密な出走スケジュールを組んだ。

ベルモントSの3週間後、まずはシカゴのアーリントンパーク競馬場に向かい、同競馬場が本馬を招致するために12万5千ドルを投じて開催したアーリントン招待S(D9F)に出走した。アーリントンパーク競馬場には4万1223人という、同競馬場としては記録的な大観衆が詰めかけた。本馬以外の出走馬は、ベルモントSで3着だったマイギャラント、ベルモントSに参加せずにその1週間後のオハイオダービーを勝っていたアワーネイティヴ、ポンチアックグランプリSで2着してきた後のウエストヴァージニアダービー馬ブルーチップダンの3頭だけだった。本馬が単勝オッズ1.05倍の1番人気に支持され、他の出走馬3頭が無理矢理にカップリングされて単勝オッズ6倍となった。今回はベルモントSと異なり、後方から慎重にレースを進めていたが、向こう正面で加速して先頭を奪取。そのままゴールまで駆け抜け、2着マイギャラントに9馬身差をつけて大勝した(もっともベルモントSで本馬とマイギャラントの着差は31馬身半あったから、それに比べればかなり縮まってはいる)。たいして本気で走っているようにも見えなかったが、勝ちタイム1分47秒0は、1967年のアメリカンダービーでダマスカスが計時したコースレコード1分46秒8に0秒2及ばないだけだった。なお、このアーリントン招待Sは翌年からセクレタリアトSと改名されて現在まで施行されている。

それから5週間後にはニューヨークに戻って、サラトガ競馬場で行われたホイットニーS(米GⅡ・D9F)に出走した。ところがこのレースは予想外の結果となった。4歳馬オニオンがスタートから快調に先頭を飛ばし、本馬は後方2番手から向こう正面で上がっていくという常套戦法に出た。そして三角で逃げるオニオンに内側から並びかけたが、ここからオニオンが意外な粘りを発揮して本馬に抜かさせなかった。そして2頭が並んで直線に入り、内側の本馬と外側のオニオンの叩き合いとなった。そしてこの叩き合いを制したのはオニオンで、本馬は1馬身差2着に敗退してしまったのである。オニオンはこの年のカーターH・ポーモノクHの2着馬で、この11日前にはサラトガ競馬場ダート6.5ハロンのコースレコードを樹立していた快速馬ではあったが、それまでステークス競走勝ちの実績は無い無名馬であり、大変な番狂わせと言われた。

実はサラトガ競馬場は「チャンピオンの墓地」の異名を持つほど、有力馬が予想外の敗北を喫してきた歴史があった。1919年にマンノウォーがアップセットに敗れたサンフォードSも同競馬場におけるものであったし、1930年に米国三冠馬ギャラントフォックスとその好敵手ウィッチワンが単勝オッズ101倍の伏兵ジムダンディに敗れたトラヴァーズSもそうであった。そしてオニオンを管理していたのはH・アレン・ジャーケンズ調教師だったのである。かつて管理馬のボーパープルで名馬ケルソに何度も苦杯を舐めさせたジャーケンズ師は、“The Giant Killer(大物食い)”の異名で呼ばれていたのだった。

このレースにおける本馬の敗因については、ウイルス性疾患のために微熱と下痢の症状が見られていたためという説が有力となっている。特に下痢の症状はかなり酷く、担当厩務員スウェット氏と調教助手デイヴィス氏によると「下痢は彼の後脚を滝のように流れ落ちていました」とのことである。通常であればこんな状態でレースに出るのは妥当ではないのだが、本馬陣営はサラトガ競馬場に詰めかけていた多くの観衆達を失望させたくなかった事と、体調不良でも本馬の実力を持ってすれば何とかなると判断して出走に踏み切ったようである。チェネリー女史はレース後に「私達の決定は間違っていました」と述べている。

競走生活(3歳後期)

この敗戦でスケジュールに狂いが生じ、やたらと各地の競馬場に向かう事はできなくなった。そのため次走はホイットニーSから6週間後にベルモントパーク競馬場において行われたマールボロC招待H(D9F)となった。このレースは元々、本馬とリヴァリッジのマッチレースの舞台として用意されたものだった。この2頭はケンタッキーダービー馬の先輩後輩であったが、同馬主同厩だけに、同じレースであいまみえる機会は無いと思われていた。しかし本馬とまともに戦えそうな馬の筆頭格はリヴァリッジだった事もあり、2頭の対戦を求める声が大きかったのである。それに目を付けた世界最大の煙草会社フィリップ・モリス社の代表取締役で熱烈な競馬ファンでもあったジャック・ランドリ氏が、ベルモントパーク競馬場に25万ドルを拠出して、2頭の対戦の場を用意したものであった。

しかしホイットニーSで本馬が予想外の敗戦を喫しただけでなく、リヴァリッジもホイットニーSの3日前にサラトガ競馬場で行われた一般競走において単勝オッズ52倍の伏兵ウィチタオイルに敗れていた事に加えて、ベルモントパーク競馬場があるニューヨーク州政府が、2頭が同馬主同厩であるために公正なレースにならないのではと懸念を示したため、2頭のマッチレースの話は流れる寸前となってしまった。しかしランドリ氏は諦めず、2頭以外にも複数の馬を招待することで、ニューヨーク州政府の懸念を払拭することに成功。チェネリー女史やローリン師も、2頭の対戦をファンが待ち望んでいると感じたために、出走を決断したのだった。

出走馬は本馬とリヴァリッジの他に、サンガブリエルH・サンマルコスH・サンフアンカピストラーノ招待H・カリフォルニアンS2回・ハリウッド招待ターフH・オークツリー招待S2回・センチュリーH2回・サンタアニタH・サンセットHと西海岸における主要競走を総なめにしていた南米チリ出身の名馬クーガー、クイーンズプレート・サンアントニオH・ハリウッド金杯・カップ&ソーサーS・グレイH・ドミニオンデイH・サンディエゴHなどの勝ち馬でサンタアニタHではクーガーの2着に入っていた加国の名馬ケネディロード、ホイットニーSで本馬を破ったオニオン、トラヴァーズS・ジュヴェナイルS・ブリーダーズフューチュリティ・センチネルS・ミニットマンHの勝ち馬でモンマス招待H2着のアニヒレイテーム、そして前年にダービートライアルS・ウィザーズS・ブルックリンH・ホイットニーH・トラヴァーズS・ウッドワードSを勝ちリヴァリッジを抑えてエクリプス賞最優秀3歳牡馬に選ばれたサバーバンH・エクセルシオールHの勝ち馬キートゥザミントの5頭であり、この当時の米国競馬を代表する実力馬達が一堂に顔を揃えることになった。

スタートが切られるとやはりオニオンが先手を取ったが、リヴァリッジがオニオンをすんなりと逃がさずに競りかけていった。一方の本馬は、慎重に5番手を追走した。三角に入るとリヴァリッジがオニオンをかわして先頭に立ち、そこへ後方から本馬も進出を開始した。そして直線に入ると、本馬とリヴァリッジの一騎打ちとなった。しかしそれは長くは続かず、本馬がリヴァリッジを置き去りにして抜け出し、最後は2着リヴァリッジに3馬身半差をつけて快勝。勝ちタイム1分45秒4は、前年のスタイミーHにおいてキャノネロがリヴァリッジを破って樹立した1分46秒2を更新する、ダート9ハロンの世界レコードだった。なお、ホイットニーSで本馬を破ったオニオンは4着に敗れ、以降はあまり活躍することなく引退したが、騙馬でありながらも、あのセクレタリアトを破った馬という事で所有者から大切にされ、26歳まで生きたということである。いずれにしてもランドリ氏の目論みは的中し、このレースは絶大な盛り上がりを見せた。そしてマールボロC招待Hはベルモントパーク競馬場秋シーズンの名物競走として、1987年まで続くことになる。

本馬の次走はウッドワードS(米GⅠ・D12F)となった。前走マールボロC招待Hで本馬から5馬身半差の3着だったクーガーも参戦していたが、マールボロC招待Hに比べると出走馬の層は薄く、本馬の勝利を疑う者は殆どいなかった。ところが結果はまたも予想外のものとなった。スタートから珍しく本馬が先手を奪ったものの、直線で失速。単勝オッズ17倍の伏兵だった4歳馬プルーヴアウトに差されてしまった本馬は、3着クーガーには11馬身差をつけたものの、プルーヴアウトに4馬身半差をつけられて2着に負けてしまったのである。

本馬の過去4度の敗戦は、出遅れと不利、降着、口内の腫れ物、ウイルス性疾患と、理由がはっきりしていたのだが、今回の敗因は今ひとつはっきりとしていない。一般的には不良馬場が災いしたと言われている。かつてサイテーションを管理していたジミー・ジョーンズ調教師は、「サイテーションはセクレタリアトより上である。何故ならセクレタリアトは重馬場では駄目だったからだ」と言ったそうだが、これは本馬のこの敗戦を受けての発言のようである。しかし本馬は2歳時に泥んこ不良馬場で行われたローレルフューチュリティを圧勝した実績があるのだから、重馬場が全く駄目だったとは考えづらい。

実はこのウッドワードSに当初出走予定だったのは本馬ではなくリヴァリッジだった。ところがリヴァリッジは疑いようのないほど重馬場を大の苦手としていた。そこでリヴァリッジに代わって、当初はウッドワードSの9日後に行われるマンノウォーSに向かう予定だった本馬が急遽出走したらしく、少なくとも陣営は本馬が重馬場を苦手にしていたとは思っていなかったようである。プルーヴアウトはそれまでにステークス競走を勝った事が無かったが、次走のジョッキークラブ金杯を勝ってその実力を証明している。結局のところ今回の敗因は、本馬以上に重馬場を得意としていたプルーヴアウトが存分に実力を発揮した上に、リヴァリッジの代役で急遽出走した本馬は準備不足だったというのが妥当なところであろう。ちなみにプルーヴアウトの母イコールヴェンチャーは米国三冠馬アソールトの全妹であり、プルーヴアウトの娘パサドブルはマイル女王ミエスクの母だったりもする。

さらにはプルーヴアウトを管理していたのは、またしてもジャーケンズ師だったのである。だから「セクレタリアトはプルーヴアウトに負けたというより、ジャーケンズに負けたのだ」などと言われることになった。これで“The Giant Killer”の異名を一層確立したジャーケンズ師は、25年後のジョッキークラブ金杯でも管理馬のワゴンリミットでスキップアウェイジェントルメンをまとめて葬り去るなど、長年にわたって大物キラーぶりを発揮し続けることになる。また、本馬が3歳時に敗れたステークス競走は、ウッドメモリアルS(Wood Memorial Stakes)・ホイットニーS(Whitney Stakes)・ウッドワードS(Woodward Stakes)と全てWの頭文字で始まるという奇妙な符号もあった。

芝競走を2度走っていずれも勝利を収めて競馬場を去る

本馬の次走は当初から出走予定だったマンノウォーS(米GⅠ・T12F)となった。初の芝コースに挑んだ意図は、ダートだけでなく芝も走れる本馬の万能性を証明するためだったと言われている。ターコット騎手は「信じない人もいるでしょうが、セクレタリアトはダートよりも芝のほうが走るのではと私は思っていました」と述べているのである。ここでは、メトロポリタンH・ガヴァナーSといったダートのGⅠ競走だけでなく芝のGⅠ競走ユナイテッドネーションズHも勝っていたテンタムや、やはり芝のGⅠ競走サンルイレイSを勝っていたビッグスプルースが、俺達の縄張りを荒らすなと言わんばかりに立ち塞がってきた。今回も本馬は逃げ戦法を選択。向こう正面で後方からテンタムが迫ってきたが、ターコット騎手が少しばかり本馬に合図を送ると、瞬く間にテンタムを引き離した。そして2分24秒8のコースレコードを樹立した本馬が、2着テンタムに5馬身差をつける完勝を収め、芝適性を見事に証明してみせた。

マンノウォーSの20日後、本馬の姿は加国のウッドバイン競馬場にあった。引退レースとなる、加国際CSS(加GⅡ・T13F)に出走するためだった。加国の競走を最後に選択した理由は、ローリン師とターコット騎手が共に加国出身だったからである(初代ビッグレッドことマンノウォーの引退レースも加国だったことも少しは影響していたかもしれない)。本馬の名は加国内にも轟いており、当時は珍しい競走馬の空輸によってトロント国際空港に降り立った本馬は、加国の人々からも熱狂的な歓迎を受けた。「ビッグレッド最後のレース」と題したドキュメンタリーを作成するために、テレビ局や映画会社のカメラも待ち構えており、本馬の姿を存分に映像に捉えた。

このレースでは、騎乗停止処分を受けていたターコット騎手に代わって、エディー・メイプル騎手と最初で最後のコンビを組んだ。前走3着のビッグスプルース、ケネディロード、ミシガンマイル&ワンエイスH・ホーソーンダービーの勝ち馬でアメリカンダービー2着のゴールデンドンなど11頭が本馬の最後の対戦相手となった。特にケネディロードの主戦だった加国の名手アベリーノ・ゴメス騎手は、スタートから先頭をひた走ってセクレタリアトを負かすつもりだと豪語した。スタートが切られると実際にケネディロードが先手を取ったが、向こう正面で本馬が仕掛けて先頭を奪い、そのまま2着ビッグスプルースに6馬身半差をつけて圧勝。

これで有終の美を飾った本馬は、ニューヨークに凱旋してアケダクト競馬場で引退式を行い、栄光に包まれた競走馬生活に終止符を打った。3歳時は12戦9勝の成績で、2年連続でエクリプス賞年度代表馬に選出され、最優秀3歳牡馬・最優秀芝馬にも選ばれた。

血統

Bold Ruler Nasrullah Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Mumtaz Begum Blenheim Blandford
Malva
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine
Miss Disco Discovery Display Fair Play
Cicuta
Ariadne Light Brigade
Adrienne
Outdone Pompey Sun Briar
Cleopatra
Sweep Out Sweep On
Dugout
Somethingroyal Princequillo Prince Rose Rose Prince Prince Palatine
Eglantine
Indolence Gay Crusader
Barrier
Cosquilla Papyrus Tracery
Miss Matty
Quick Thought White Eagle
Mindful
Imperatrice Caruso Polymelian Polymelus
Pasquita
Sweet Music Harmonicon
Isette
Cinquepace Brown Bud Brown Prince
June Rose
Assignation Teddy
Cinq a Sept

ボールドルーラーは当馬の項を参照。

母サムシングロイヤルは1戦未勝利と凡庸な競走馬だったが、テストSの勝ち馬インペラトリスの娘で、CCAオークス・ピムリコオークスを制したスキャッタード(父ワーラウェイ)の半妹であるから、血統的には優れていた。そして繁殖牝馬としては非常に優秀で、18頭の産駒中11頭が勝ち上がり、名種牡馬となった本馬の半兄サーゲイロード(父ターントゥ)【サプリングS・エヴァーグレイズS・バハマズS・ナショナルスタリオンS・タイロS・グレートアメリカンS】、本邦輸入種牡馬でホウヨウボーイの父となった半兄ファーストファミリー(父ファーストランディング)【パームビーチS・ガルフストリームパークH】、全姉シリアンシー【アスタリタS・セリマS】、そして本馬と合計4頭のステークスウイナーの母となった。本馬を産んだのは18歳時であるが、これは米国三冠馬を産んだ最年長記録である。1973年には本馬の活躍によりケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選ばれた。サムシングロイヤルはかなり長生きした馬で、没年は1983年で享年31歳であった。

本馬の兄弟達はその血統背景から、競走成績や繁殖成績が振るわなくても大切に扱われた。本馬の末弟ストレートフラッシュ(父リヴァリッジ)は現役成績28戦3勝ながら、引退後はテキサス州において種付け料200ドルで種牡馬入りした。優秀な馬の弟が凡庸な競走成績ながらも種牡馬入りするのはよくある話であるが、それが種牡馬として不発に終わった場合には、たとえそれが馬肉を食する習慣がない米国であっても屠殺場送りになる事が多い(米国内で生産された馬肉は米国外に輸出されている)。ストレートフラッシュも種牡馬としては失敗に終わり、屠殺場送りにされるところだったが、繋養先だったテキサス州の牧場主が競馬記者ステファニー・ディアス氏に状況を連絡。話を聞いたディアス氏によって買い取られたストレートフラッシュはカリフォルニア州の牧場へ移動して、2007年に32歳で他界するまで悠々自適の余生を送った。30歳以上まで生きる馬は稀であり、しかもその大多数が競走馬又は繁殖馬として活躍した馬に限られる中で、競走馬としても種牡馬としても不成功だったストレートフラッシュが32歳まで生きられたのは、ひとえに本馬のおかげに他ならないのである。

話をサムシングロイヤルに戻すと、その牝系子孫はかなり発展しており、世界中で活躍馬が登場している。サムシングロイヤルの後継繁殖牝馬として特筆すべきなのは、前述のシリアンシーと、本馬の全姉ザブライドの2頭である。

シリアンシーはアラダ【コティリオンH(米GⅡ)・シュヴィーH(米GⅡ)】の母となった他に、アラダの孫であるサラトガデュー【ガゼルH(米GⅠ)・ベルデイムS(米GⅠ)】の曾祖母となった。サラトガデューの孫が、日本の新世紀短距離王ロードカナロア【スプリンターズS(GⅠ)2回・香港スプリント(香GⅠ)2回・高松宮記念(GⅠ)・安田記念(GⅠ)・京阪杯(GⅢ)・シルクロードS(GⅢ)・阪急杯(GⅢ)】である。シリアンシーの牝系子孫には、日本の地方競馬で活躍したセイエイシェーン【ベラミロード記念かもしか賞・北関東桜花賞】、フィリアレギス【浦和桜花賞】などもいる。

一方のザブライドは、孫であるデュプリシトが日本に繁殖牝馬として輸入された際に身篭っていたニシノフラワー【阪神三歳牝馬S(GⅠ)・桜花賞(GⅠ)・スプリンターズS(GⅠ)・デイリー杯三歳S(GⅡ)・マイラーズC(GⅡ)・札幌三歳S(GⅢ)】の曾祖母となった他に、パーソナルビジネス【ジョンAモリスH(米GⅠ)】、日本の地方競馬で活躍したチャームアスリープ【関東オークス(GⅡ)・浦和桜花賞・東京プリンセス賞】、マキノチーフ【ロジータ記念】、エイシンオニオンタ【オータムC・マーチC・スプリング争覇】、ニシケンメイピン【黒潮皐月賞・高知優駿】などを子孫から出している。

既に記載した以外にサムシングロイヤルの牝系子孫から登場した馬としては、本馬の半姉チェリーヴィル(父コレスポンデント)の子孫であるザヴァーミネーター【ザメトロポリタン(豪GⅠ)】、本馬の半姉スワンシー(父ターントゥ)の子孫である本邦輸入種牡馬チチカステナンゴ【リュパン賞(仏GⅠ)・パリ大賞(仏GⅠ)】などがいる。

サムシングロイヤルの半姉である前述のスキャッタードの子にはヒアアンドゼア【アラバマS】、ディスパース【ヘンプステッドH】が、サムシングロイヤルの半姉クイーンズムーン(父ハンターズムーン)の子にはクイーンズダブル【スピナウェイS・デモワゼルS】、玄孫にはフォーサーティンドック【シャンペンS(米GⅠ)】が、サムシングロイヤルの半妹インペリアルヒル(父ヒルプリンス)の牝系子孫には、アモニタ【マルセルブサック賞(仏GⅠ)】、フラニーフルード【プライオレスS(米GⅠ)】、日本で走ったマヤノペトリュース【シンザン記念(GⅢ)】、アズマリーフ【ロジータ記念】、ディーエスサンダー【マーキュリーC(GⅢ)】が、サムシングロイヤルの半妹スピードウェル(父ボールドルーラー)の孫にはキュアザブルース【ローレルフューチュリティ(米GⅠ)】、曾孫には日本で走ったフェスティバル【とちぎ大賞典】がいる。→牝系:F2号族④

母父プリンスキロは当馬の項を参照。

父ボールドルーラーのスピードと母父プリンスキロのスタミナを、いずれも余す所無く受け継いだのが本馬であったとよく言われる。スピードは父方から、スタミナは母方からというのはよく言われることではあるが、それは本馬の登場によって言われるようになったのではないかと思えるほどである。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、本馬のデビュー前年に他界していた父ボールドルーラーが繋養されていたケンタッキー州クレイボーンファームで種牡馬入りした。馬房は父がかつて使っていたものが用意された。本馬の元には現役時代と同様にひっきりなしにファンが訪れた。最初はクレイボーンファームの経営者セス・ハンコック氏もファンを喜んで迎えていたが、やがてマナーの悪いファンも増えてきた。ある日、あるファンが、牧場にファン用のテーブルを十分に準備していないとセス・ハンコック氏に激しく苦情を申し立てるという事件が起きた。これをきっかけにセス・ハンコック氏は本馬をファンに公開する事を禁止してしまった。日本でもシンボリルドルフの鬣をファンが切り取ったためにシンボリルドルフが公開禁止になるという事件があったが、一部ファンのマナーの悪さで全体が迷惑するのは古今東西変わらないようである。引退の翌年1974年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

本馬に対する種牡馬としての期待は絶大であり、初年度産駒の1頭カナディアンバウンド(キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSを2連覇した名牝ダリアの半弟に当たる)は、1976年のキーンランド7月セールにおいて150万ドル(今日の価格に換算すると、621万6667ドルに相当するらしい)の値がつき、史上初めて100万ドルを超える値段で取引された1歳馬となった。ところが1977年にデビューした本馬産駒の成績はそれほど芳しくなかった。前述のカナディアンバウンドも4戦未勝利に終わってしまった(あまりに高額で取引された馬はえてしてこういう結果になりがちではあるが)。2年目産駒がデビューした1978年には北米2歳首位種牡馬に輝いているから、決して悪い成績というわけでもなかったのだが、当初の大きすぎる期待と比較すれば、やはりそれほどでもないという意見が多かった。

それでも徐々に産駒成績は上向き、リズンスターレディーズシークレットなど、最終的には57頭のステークスウイナーを輩出した。また、繁殖牝馬の父としてはかなり優秀で、1992年には北米母父首位種牡馬に輝いている。本馬は1989年秋に四肢全てに蹄葉炎を発症したため、10月4日に19歳で安楽死の措置が執られた。遺体はクレイボーンファームに埋葬されたが、米国において競走馬が土葬される場合には、頭部と心臓、それに蹄だけが埋葬されて、残りは焼却されるのが一般的である(衛生上の問題があるためである)のに対して、本馬は遺体全てが余すところなく埋葬された。これは稀な名誉であるとされている(日本でも土葬が許可された競走馬は数えるほどしかいない)。

超巨大な心臓

なお、死後の検死において、本馬の心臓は通常の馬と比べて飛び抜けて大きかった事が判明している。その重さは実に22ポンド(約10kg)あったとされており、これは通常のサラブレッドの平均9ポンドをはるかに上回るものだった。ただし、検死を行ったケンタッキー大学の解剖学者トマス・スワークチェック博士は、実際に本馬の心臓の重さを量ったわけではなかった。後の1993年に本馬と米国三冠競走全てで対戦したシャムの検死をスワークチェック博士が行った際には、シャムの心臓の重さを量っており、それは18ポンドだった。そしてスワークチェック博士は、シャムよりも本馬の心臓のほうがおそらく4ポンドほど重かったと感じたため、22ポンドという数字を導き出したというものである。スワークチェック博士は検死において本馬の心臓を目の当たりにしたときの事を次のように述懐している。「私達は静寂の中で呆然として立ち尽くしていました。私達はそれを信じることは出来ませんでした。心臓は完全であり、何も病的な問題はありませんでした。それはまさしく巨大なエンジンでした。」

この本馬の巨大な心臓は、心臓の重さが14ポンドあったという18世紀英国の歴史的名馬エクリプスからの遺伝であると言われている。豪州の血統研究家マリアンナ・ホーン氏の著書“X-Factor”によると、牝系経由で受け継がれるX染色体が関係しているという。本馬の牝系を遡っても、エクリプス牝駒の名前は出てこない(公式な血統表上においては、サムシングロイヤルの17代母アレクザンダーメアがエクリプス産駒アレクザンダーの娘であるというのが、本馬の牝系における最も近いエクリプスの血である)のだが、最近の研究で実際には本馬の牝系はエクリプス牝駒に遡ることが出来るという結果が出ているらしい。高校で生物を選択しておらず、女性はX染色体のみ、男性はX染色体とY染色体を持つというくらいの知識しかない筆者であるから、あまり深く踏み込むのは避けるが、隔世遺伝というにはあまりにも遠すぎるし、同じくエクリプス牝駒を牝系先祖に持つサラブレッドは星の数ほどいるはずなのに、その特性が滅多に出現しない(実際にはもっとたくさんいたが、検死されてそれが判明する馬が少なかったのかもしれないけれども)というのでは、遺伝というよりも突然変異と言ってしまったほうがしっくりくる気がする。いずれにしても、この心臓の大きさが本馬の卓越した競走能力の源泉だったとされているようである。

競走馬としての評価

1999年に米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選ではマンノウォーに次ぐ第2位。同年に英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が出版した“A Century of Champions”の平地競走馬部門においては144ポンドのレーティングが与えられており、これはシーバードの145ポンドに次ぐ第2位で、139ポンドのマンノウォーや142ポンドのサイテーションを上回り米国調教馬ではトップである。同年には米国郵政公社が、本馬の肖像が印刷された33セント記念切手を発表。やはり同年に米国のスポーツチャンネルESONが発表した、20世紀米国の偉大なスポーツ選手100選においては第35位に選出され(隣の第34位が2130試合連続出場を果たしたメジャーリーグの鉄人ルー・ゲーリッグ。ちなみに1位はバスケットボールの神様マイケル・ジョーダン。2位がベーブ・ルースで、3位はモハメド・アリだった)、これは競走馬としては最上位である(他にランクインしたのは、84位のマンノウォーと97位のサイテーションの2頭のみ)。

2010年には、ファンを最も興奮させた馬に贈られることになった新設の賞が、本馬の名を冠した「セクレタリアト民衆の声賞」と命名され、翌年に最初の受賞馬ゼニヤッタの陣営に対して、チェネリー女史から賞が贈られた。同じ2010年には、本馬の生涯がディズニーにより映画化された。この映画「セクレタリアト」の主人公は本馬よりもむしろチェネリー女史であり、当のチェネリー女史本人もカメオ出演しているらしいが、筆者は未見である。死後25年が経過した今日においても本馬の人気は衰えておらず、本馬のファンサイトにおいては、本馬のぬいぐるみやフィギュアが未だに販売されている。

後世に与えた影響

母父としてはエーピーインディサマースコールストームキャットセクレトゴーンウエストチーフズクラウンなど数多くの優駿を出している。この中にはエーピーインディやストームキャットなど種牡馬として大成功した馬も含まれている。本馬の直系は、代表産駒であるリズンスターが種牡馬としてまったくの不振に終わるなどしたために、現在ではほぼ途絶えてしまっているが、上記種牡馬達の活躍により、その血は今でも競馬界に影響力を有している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1975

Dactylographer

ウィリアムヒルフューチュリティS(英GⅠ)

1976

General Assembly

ホープフルS(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)・サラトガスペシャルS(米GⅡ)・ゴーサムS(米GⅡ)・ヴォスバーグS(米GⅡ)

1976

Sifounas

エリントン賞(伊GⅡ)

1976

Terlingua

ハリウッドラッシーS(米GⅡ)・ハリウッドジュヴェナイルCSS(米GⅡ)・デルマーデビュータントS(米GⅡ)・サンタイネスS(米GⅢ)

1977

Cinegita

レイルバードS(米GⅢ)

1977

Globe

エクセルシオールH(米GⅡ)・グレイラグH(米GⅢ)

1978

Who's to Answer

ベッドオローゼズH(米GⅢ)

1979

D'Accord

ブリーダーズフューチュリティS(米GⅡ)

1980

Weekend Surprise

スカイラヴィルS(米GⅢ)・ゴールデンロッドS(米GⅢ)

1982

Fiesta Lady

メイトロンS(米GⅠ)・デルマーデビュータントS(米GⅡ)

1982

Image of Greatness

サンフェリペS(米GⅠ)

1982

Lady's Secret

BCディスタフ(米GⅠ)・マスケットS(米GⅠ)2回・ラフィアンH(米GⅠ)2回・ベルデイムS(米GⅠ)2回・ラカナダS(米GⅠ)・サンタマルガリータ招待H(米GⅠ)・シュヴィーH(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)・テストS(米GⅡ)・バレリーナS(米GⅡ)・モリーピッチャーH(米GⅡ)・エルエンシノS(米GⅢ)

1982

Pancho Villa

ベイショアS(米GⅡ)・シルヴァースクリーンH(米GⅡ)・ナショナルスプリントCS(米GⅢ)

1984

Clever Secret

ランプライターH(米GⅡ)・アケダクトH(米GⅢ)

1985

Athyka

オペラ賞(仏GⅡ)2回・クロエ賞(仏GⅢ)・コリーダ賞(仏GⅢ)・ラクープ(仏GⅢ)

1985

Bluebook

プリンセスマーガレットS(英GⅢ)・フレッドダーリンS(英GⅢ)・セーネワーズ賞(仏GⅢ)

1985

Risen Star

プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・レキシントンS(米GⅡ)・ルイジアナダービー(米GⅢ)

1985

Summer Secretary

ボーゲイH(米GⅢ)2回

1986

Academy Award

マンハッタンH(米GⅠ)

1986

Kingston Rule

メルボルンC(豪GⅠ)

1987

Tiffanys Secret

加オークス

1988

Super Staff

イエローリボンS(米GⅠ)・パロマーH(米GⅡ)・ラスパルマスH(米GⅡ)

1989

ヒシマサル

きさらぎ賞(GⅢ)・毎日杯(GⅢ)・京都四歳特別(GⅢ)

1990

Tinners Way

パシフィッククラシックS(米GⅠ)2回・カリフォルニアンS(米GⅠ)

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