ワーラウェイ
和名:ワーラウェイ |
英名:Whirlaway |
1938年生 |
牡 |
栗毛 |
父:ブレニム |
母:ダストワール |
母父:スイープ |
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コーナリングが下手という欠点をケンタッキーダービー直前に克服して史上5頭目の米国三冠馬に輝いた第二次世界大戦中における米国競馬の救世主 |
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競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績60戦32勝2着15回3着9回 |
史上5頭目の米国三冠馬。単純に“Whirly(ワーリー)という愛称で呼ばれた他にも、非常に長くてふさふさした尻尾がトレードマークだったために、“Mr. Longtail(ミスター・ロングテール)”または“The Flying Tail(空を飛ぶ尻尾)”の愛称でも親しまれた。さらには古馬になっても重い斤量を背負いながら米国各地の競馬場で頑健に走り続けて勝ち星を増やした。そのレースぶりも後方一気の豪脚で差し切るという、ファンを魅了するものだったため、第二次世界大戦最中の米国において国民的英雄として大きな人気を博した。
誕生からデビュー前まで
米国ケンタッキー州の名門牧場カルメットファームの生産・所有馬で、本馬が1歳の時にカルメットファームの専属調教師になったベンジャミン・ジョーンズ師の管理馬となった。小柄ながらも筋肉質の馬体を有する本馬は、幼少期から周囲の人間が止めないと何時までも走り続ける事が出来たため、小柄なのに疲れ知らずと評判の馬だった。しかし父ブレニムに似たのか神経質ですぐ苛苛するという気性面の問題があり、特に蝿など昆虫の類が周囲に来ることを非常に嫌がったために、本馬の馬房には虫除けネットが完備されるようになった。
走る事自体はおそらく好きだったと思われる本馬だが、1つ問題があった。それは真っ直ぐ走ることができずに右に左によれながらジグザグに走ってしまうという事だった。そのため、ベン・ジョーンズ師は厩舎の他馬を息子のジミー・ジェームズ調教師に任せ、付きっ切りで本馬を調教した。ベン・ジョーンズ師の観察により、本馬はルーチンワークが好きな馬であり、朝の調教等で普段と別のコースを走った場合にはかなり不機嫌になる事が判明した。また、他馬と併走すれば割と真面目に走るが、他馬の姿が見えなくなると退屈して勝手に減速していた。本馬の速度についていける他馬はなかなかいなかったため、本馬の調教は困難を極めた。
それでもベン・ジョーンズ師がそんな本馬を宥めながら我慢強く育成を続けたところ、直線コースでは真っ直ぐ、しかもベン・ジョーンズ師が過去に手掛けた馬の中では一番と言えるほどの速さで走れるようになった。ところがコーナーを回る際にも真っ直ぐ走ろうとするため、外側に膨らんでしまう事が多かった。このコーナリングの下手さはデビュー後もかなり長い間改善されなかったため、道中はいつも後方に置かれてしまい、最後の直線に入ってから一気に追い込むというレーススタイルがすっかり身に付いてしまった。ジョーンズ師父子は「ワーラウェイは1940年に2歳だったカルメットファーム産馬の中で最も有望でしたが最も困難な馬でもありました」と口を揃えているが、息子のジミー・ジェームズ師はそれに付け加えて「あれは私が今までに見てきた中で最も偉大な調教でした」と父親の手腕を賞賛している。
競走生活(2歳時)
2歳6月にニューヨーク州リンカーンフィールズ競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦でデビューし、前述のとおり外側に膨れながらも鼻差で勝利した。その後はイリノイ州シカゴ近郊のアーリントンパーク競馬場に向かい、ダート5.5ハロンの一般競走に出たが、マイビルの3馬身3/4差3着に敗れた。翌週に同コースで出た一般競走では、2着ディカーブに1馬身差で勝利。同コースで続いて出たハイドパークS(D5.5F)では、ラファイエットSの勝ち馬で後にメイトロンS・シェリダンH・フォールズシティHを勝ちデラウェアオークス・ジェロームH・トップフライトHで2着する強豪牝馬ミスティアイルの7馬身半差4着に敗退。2週間後に同コースで出た一般競走も、ミスティアイルの4馬身差4着に敗れた。1週間後のアーリントンフューチュリティ(D6F)では当面の主戦を務める事になるジョニー・ロングデン騎手とコンビを組んだが、泥だらけの不良馬場も影響したのか、大きく離された後方からの追い込みが届かず、勝ったスウェインから5馬身半差、2着に入ったヴァルディーナグルームから鼻差の3着に終わった。
8月にはニューヨーク州サラトガ競馬場に向かい、ユナイテッドステーツホテルS(D6F)に出走したが、名馬エクワポイズ産駒のアテンション(ナショナルスタリオンSの勝ち馬で、後に本馬と何度も対戦する事になる)に首差届かずに2着に敗れた。翌週のサラトガスペシャルS(D6F)では、あまりに外側に膨れたため外埒に衝突したが、それでも最後は2着ニューワールドに1馬身半差をつけて先頭でゴールインし、ステークス競走初勝利を挙げた。このレース前までベン・ジョーンズ師は本馬の事を“a knucklehead(馬鹿、のろま)”と公の場で酷評していたが、これ以降はそういう悪口を言わなくなった。また、この段階で競馬記者ビル・コラム氏は「ワーラウェイはホープフルSとベルモントフューチュリティSに勝つだけでなく、来年の米国三冠競走も全て勝つでしょう」と予測した(彼の予測は1つだけ外れる)。
2週間後のグランドユニオンホテルS(D6F)では、前走で負かしたニューワールドに借りを返されて、1馬身半差の2着に敗れた。さらに翌週のホープフルS(D6.5F)では、またしても泥だらけの不良馬場となった。しかもレース中に何かの破片が飛んできて、本馬の目に当たって負傷した。それでも、ユナイテッドステーツホテルSで屈した相手であるアテンションを1馬身差の2着に、前走グランドユニオンホテルSで3着だったハイコップを3着に退けて勝利した。
目の治療(獣医師だけでなく人間の眼科医も協力した)のため少し休養を取ったが、1か月もしないうちの9月下旬にニューヨーク州ベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走した。しかし結果はアワーブーツの6馬身差5着に敗退。4日後のベルモントフューチュリティS(D6.5F)でも、アワーブーツ、後にカウディンS・ウィザーズSを勝つキングコールの2頭に後れを取り、勝ったアワーブーツから3馬身1/4差の3着に敗れた。翌10月にはケンタッキー州キーンランド競馬場に向かい、ダート6ハロンの一般競走に出走して、2着となったメイフラワーSの勝ち馬ブルーペアに2馬身差で勝利。それから11日後のブリーダーズフューチュリティ(D6F)でも、2着ブルーペアに1馬身差で勝利を収め、3着だったアワーブーツに一矢を報いた。翌11月にはメリーランド州ピムリコ競馬場に向かい、ピムリコフューチュリティ(D8.5F)に出走したが、シャンペンS2着馬ボールドアイリッシュマンとアワーブーツの2頭に後れを取って、勝ったボールドアイリッシュマンから5馬身差の3着に敗退。次走のウォルデンS(D8.5F)で、後の4歳時に本馬の主戦を務める事になるジョージ・ウルフ騎手(シービスケットの主戦騎手の1人として有名)を鞍上に、2着マグニフィセントに4馬身差をつけて圧勝(後にジェロームHを勝つスティマディが3着だった)したところで2歳戦を終えた。
2歳時は16戦7勝2着2回3着4回の成績で、アワーブーツと並んで米最優秀2歳牡馬に選出された(ターフ&スポーツダイジェストマガジン誌が本馬を、デイリーレーシングフォーム紙がアワーブーツを選出)。
競走生活(3歳当初)
3歳時はカルメットファームの念願だったケンタッキーダービー制覇を目標として、2月からフロリダ州でキャンペーンを開始。まずは2月上旬にハイアリアパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に、カルメットファームの専属騎手となっていた新進気鋭の若手騎手ウェンデル・イーズ騎手を鞍上に出走して、レムセンS3着馬シグネーターを軽く捻って頭差で勝利した。しかし10日後のハイアリアパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走では5馬身差の3着に敗れた。
この時期の本馬に関して、カルメットファームの代表者ウォーレン・ライト氏は脚元が悪いのではと考えており、フラミンゴSなどのステークス競走には出走させずに、体調回復に専念させるようにベン・ジョーンズ師に命じた。ベン・ジョーンズ師は後に「この時期のワーラウェイには特に問題はありませんでした」と述懐しているが、ライト氏の命令には逆らえずに、本馬の脚にギプスを装着して形式的な治療を施していた。その後は3月下旬のトロピカルパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走に出たが、リトルビーンズの1馬身3/4差3着に敗れた。それから6日後のトロピカルパーク競馬場ダート5.5ハロンの一般競走では敗戦濃厚ながらもゴール前の怒涛の追い込みにより首差で勝利した。
この頃、ベン・ジョーンズ師が僅か1か月の休養だけで本馬を実戦復帰させた事に関してライト氏は疑問を抱いたらしく、ベン・ジョーンズ師と改めて話し合いの機会を持った。その結果、ライト氏は「私は調教師ではありませんから」と折れて、今後の一切をベン・ジョーンズ師に委ねることに合意した。そして4月にキーンランド競馬場に向かい、ダート6ハロンのハンデ競走に出走して、前年のブリーダーズフューチュリティで2着に破ったブルーペアを首差の2着に抑えて勝利した。続いてブルーグラスS(D9F)に出走したが、相変わらず外側に膨らんでしまい、宿敵アワーブーツに6馬身差をつけられて2着に敗れた。それから5日後のダービートライアルS(D8F)でも外側に膨らむコースロスが響いて、ブルーペアの3/4馬身差2着に敗戦。3歳時の本馬の主戦を務めてきたイーズ騎手はここで本馬の主戦から降ろされてしまい(完全に降ろされたわけではなく時々騎乗することにはなる)、過去に1度も本馬に騎乗した事が無いエディ・アーキャロ騎手が改めて主戦として迎え入れられた。
ケンタッキーダービー
それでも本番のケンタッキーダービー(D10F)では、アワーブーツ、ブルーペア、リトルビーンズ、サンタアニタダービーの勝ち馬ポーターズキャップ、ウッドメモリアルSの勝ち馬マーケットワイズ、フラミンゴSの勝ち馬ディスポーズ、エクセルシオールHの勝ち馬ロバートモリス、後のハリウッドダービー馬ステアトーアなどを抑えて、単勝オッズ3.9倍の1番人気に支持された。
実はベン・ジョーンズ師はこのレースの前日調教において、視野を完全に塞がないように内側に小さな穴を開けたブリンカーを本馬の右目だけに装着させ、外側に膨らまないように工夫をこらしていた。そしてこの調教において、自分が騎乗するポニーを内埒から10フィートほど離れた場所で走らせ、本馬鞍上のアーキャロ騎手に対して、ポニーの内側を突いてコーナーを回るように指示を出した。もし本馬がそこで外側に膨らんだらポニーに衝突して大事故に繋がりかねない危険な実験だったが、ベン・ジョーンズ師は自分の身体を賭けて本馬の大外逸走癖を治す事にしたのだった。そしてベン・ジョーンズ師の賭けは成功した。この調教で本馬は外側に膨らむことなくポニーの内側を通り抜けた。ブリンカー効果抜群と見たベン・ジョーンズ師は本番でもそれを装着させることにした。そしてそれを聞き知ったファン達が本馬を1番人気に押し出したのだった。
ブリンカーを付けたからと言って今まで後方待機策が主体だった本馬がいきなり逃げ先行馬になるわけではなかった。本馬はルーチンワークが好きな馬だった事は前述したとおりであり、おいそれと戦法を今までと変えるわけにはいかなかった。というわけでスタートが切られると本馬はやはり馬群の後方(先頭の馬からは最大14馬身差)を追走したわけだが、ブリンカーの効き目によりコーナリングにはそれほど問題が無く、大外に膨らむ悪癖は影を潜めていた。そして向こう正面で仕掛けて馬群のすぐ外側を的確に通りながら最終コーナーを回ると、直線に入ってすぐに突き抜けて独走状態に突入。最後は2着ステアトーアに8馬身差をつけて、2分01秒4のコースレコードを計時して圧勝し、カルメットファームに初のケンタッキーダービータイトルをもたらした。このレコードは1962年にディサイデッドリーが2分00秒4を計時して破られるまで21年間保持された。本馬のあまりの強さに薬物投与疑惑が出たほどだった(現在でも色々憶測されているカルメットファーム産馬の薬物疑惑は当時から存在していたわけである)が、その噂を耳にしたライト氏は普段の穏やかな性格を一変させて激怒すると、チャーチルダウンズ競馬場側に本馬の唾液検査を要求。この検査で陰性が出たため、薬物疑惑は公式に否定された。
プリークネスS
それから1週間後に出たプリークネスS(D9.5F)では、単勝オッズ2.15倍の1番人気に支持された。ところがレースでは「歩くようにスタートを切った」と評されるほど出遅れてしまった。これは比喩ではなく、映像で見ると確かに走り始めたというよりも歩き始めたと言ったほうが正確である。そして他の出走馬7頭が一団となって前方を走っている8馬身ほど後方をぽつんと1頭だけで追走した。レースはスローペースで推移したため、さすがにどうかと思われたが、向こう正面に入ったところで進出を開始すると、三角に入るところでは既に先行集団に取り付いていた。そしてそのまま馬群の中に突っ込み、四角に入る頃には既に馬群を突き抜けて先頭に立っていた。あとは前走と同じく直線で独り旅を満喫するだけで、最後はキングコールを5馬身半差の2着に、ケンタッキーダービーで8着に終わっていたアワーブーツを3着に破って圧勝した。
このレースでスタートが悪かったのは、最内枠発走だったために、他馬が巻き上げた埃を被るのが嫌だったかららしい。アーキャロ騎手はレース後に「たとえ竜巻が来ても私達を止める事は出来なかったでしょう!」と歓喜した。ジョー・パーマー氏は米ブラッドホース誌の記事で「ワーラウェイはサラブレッドが保持できるうちの最強最悪の兵器を装備しています。すなわちそれは、まるでワープするような爆発的な瞬発力です。しかもレースのどの段階においてもその兵器のスイッチをオンにする事が出来るのです」と書き立てた。このレースの模様を見ていたウルフ騎手は「私が今まで見てきた中で最も信じられないパフォーマンスでした」と脱帽した。
ベルモントS
ベルモントSまで4週間あったため、本馬はその間にベルモントパーク競馬場ダート8.5ハロンの一般競走に脚慣らし代わりに出走した。このレースは古馬混合戦であり、対戦相手の中には、サンフアンカピストラーノ招待H2回・アメリカンダービー・ウエストチェスターH・サンパスカルH・サンアントニオHを勝っていたミオランドという実力馬もいた。しかし本馬が2着ミオランドに2馬身1/4差をつけてあっさり勝利してしまった。
そして米国三冠馬の栄誉を目指してベルモントS(D12F)に出走した。本馬と戦うことを嫌がった他馬陣営の回避が多く、対戦相手は、ケンタッキーダービーで9着だったピーターパンSの勝ち馬ロバートモリス、ヤンキーチャンス、イタボの3頭だけだった。当然のように本馬は単勝オッズ1.25倍の1番人気に支持された。スタート直後は3番手だった本馬だが、本馬の追い込み戦法を破るために他馬の騎手達が意図的に後方に下げていったため、レースは超スローペースで推移し、本馬は向こう正面で先頭に立つ事になった。しかしアーキャロ騎手はお構いなしにそのまま本馬を加速させて、後続に7馬身ほどの差をつけて直線に入ってきた。直線では後続馬が必死に追ってきたが、本馬は軽く流して走っただけで、2着ロバートモリスに2馬身半差、3着ヤンキーチャンスにはさらに5馬身差、4着最下位のイタボにはさらに5馬身差をつけて快勝。1937年のウォーアドミラル以来4年ぶり史上5頭目の米国三冠馬になった。対戦相手が弱すぎたからそれほど目を見張るようなパフォーマンスとは言えなかったと評する人もいたが、相手が弱いのは別に本馬のせいではないだろう。小柄な本馬が鋭い豪脚を武器に米国三冠馬になった様を、ジョン・ハーヴェイ氏は後に著書“American Race Horses(アメリカの競走馬)”の中で「これらの偉大な行事を、さながら小口径ピストルの弾丸のように制圧した3歳馬は過去にいなかったでしょう」と評している。
競走生活(3歳後半)
疲れ知らずの本馬は、三冠達成の2週間後にはニューヨーク州アケダクト競馬場でドワイヤーS(D10F)に出走して、ケンタッキーダービーで3着だったマーケットワイズを1馬身1/4差の2着に、ロバートモリスを3着に抑えて勝利した。その後はアーリントンパーク競馬場に向かい、スペシャルイベント(D9F)に出走して、2着デイリートラブルに2馬身半差で勝利した。次走のアーリントンクラシックS(D10F)では、2歳時から戦ってきたアテンションの1馬身半差2着に敗れた。しかしニューヨークに戻ってきてサラトガ競馬場で出走したサラナクH(D8F)では130ポンドを背負いながらも、13ポンドのハンデを与えたウォーレリック(マサチューセッツHの勝ち馬で、その父マンノウォーの直系を後世に伝えた功労馬でもある)を鼻差の2着に抑えて勝利。
続いて出たトラヴァーズS(D10F)では130ポンドを課せられた(この時期のトラヴァーズSは定量戦ではなく別定戦だったらしく、本馬の翌年もシャットアウトが130ポンドを課せられながらも勝っている)上に、不良馬場となったが、全く関係なく、2着フェアリーマントに3馬身3/4差で圧勝した。米国三冠馬は歴史上12頭いるが、その中でトラヴァーズSも勝ったのは本馬唯1頭である。そもそも米国三冠馬がトラヴァーズSに出走する事例自体が少なく、本馬以外には、ギャラントフォックス、アファームド、アメリカンファラオの3頭しかいない。ちなみにギャラントフォックスは単勝オッズ101倍の伏兵ジムダンディの前にまさかの敗戦を喫し、アファームドは1位入線したが好敵手アリダーの進路を妨害した咎で降着になり、アメリカンファラオは単勝オッズ17倍の伏兵キーンアイスの2着に敗れている。ちなみに米国三冠競走とトラヴァーズSを全て勝った本馬は「米国四冠馬」と日本で呼ばれることがあるらしいが、これは勿論日本のみの呼称であり、地元米国では「二冠馬」や「四冠馬」といった表現が使用される事は皆無である。しかしトラヴァーズSの長い歴史と一貫した格の高さを考慮すると、本馬については「米国四冠馬」と呼称してしまっても構わないような気はする。
トラヴァーズSを完勝した本馬にはまだ疲れは無く、早くもその翌週にはイリノイ州シカゴにあるワシントンパーク競馬場でアメリカンダービー(D10F)に出走して、2着となったアーリントンクラシックS3着馬ブッシュワッカーに2馬身3/4差で勝利。3週間後にロードアイランド州ナラガンセットパーク競馬場で出たナラガンセットスペシャルH(D9.5F)では、ウォーレリックに4馬身半差をつけられて2着に敗れた。しかし翌週のローレンスリアライゼーションS(D13F)では、2着アラキングに8馬身差をつけて圧勝した。さらにその翌週にはジョッキークラブ金杯(D16F)に出走。ここではマーケットワイズに鼻差敗れて2着だったが、前年のジョッキークラブ金杯・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションSとこの年のブルックリンH・マンハッタンH・ホイットニーSを勝っていたフェネロン(3着)には先着した。さらに書けば、マーケットワイズの勝ちタイム3分20秒8は全米レコードだったから、それに鼻差まで迫った本馬も十分な走りを見せたと言える。ジョッキークラブ金杯を最後にようやく本馬の長い3歳シーズンは終わりを迎えた。
3歳時は20戦13勝2着5回3着2回着外無しの成績で、当然のように米最優秀3歳牡馬に選ばれただけでなく、メイフラワーS・ハイドパークS・ワシントンパークフューチュリティS・イースタンショアH・シャンペンS・ウォルデンSに勝つなど22戦15勝の成績を挙げた2歳馬アルサブを96票対91票の僅差で抑えて米年度代表馬にも選ばれた。
競走生活(4歳前半)
翌4歳時は米国西海岸最大の競走サンタアニタHを最初の目標としており、3歳シーズンの暮れには既にカリフォルニア州に移動していた。ところが前年の12月8日に真珠湾攻撃が起こって太平洋戦争が勃発しており、サンタアニタパーク競馬場は日系米国人の強制収容所になってしまった。しかも北米大陸を横断して東海岸と西海岸を行き来する飛行機にも制限がかけられる事になったため、西海岸におけるレース出走は断念となり、早々に東海岸に戻ってきた。
しかも戦時中の米国内では競馬などしている場合ではないという気運が高まっていた。米国競馬委員会は戦時緊急救助金として200万ドルを寄付することで競馬の続行に漕ぎ着けたが、その寄付金の穴埋めに、競馬場に客を呼ぶ必要が生じた。そこで、当時その個性と強さでアイドルホースとしての地位を確立していた本馬に各競馬場からの出走依頼が殺到する事になった。この年の本馬はその期待に応えて全米各地(西海岸を除く)を回る事になる。また、この年はアーキャロ騎手が長期間の騎乗停止を受けたため、本馬の手綱は主にウルフ騎手が取ることになる。
まずは4月にキーンランド競馬場で行われたフェニックスH(D6F)に128ポンドを背負って出走。ここでは15ポンドのハンデを与えた3歳馬デヴィルダイヴァーに頭差敗れて2着だった。しかし相手のデヴィルダイヴァーも後に米国の歴史的名馬に出世するわけだから、この敗戦は恥ではなかった。それから6日後に出走した同コースのハンデ競走でも、フェニックスHで3着だった3歳馬サンアゲインの半馬身差2着に敗れた。サンアゲイン自身は一流の競走成績を残したとは言い難かったが、息子のサングロウを経由してソードダンサーとダマスカス父子を送り出す事になる。その10日後にはチャーチルダウンズ競馬場で行われたクラークH(D8.5F)に出走した。127ポンドの斤量が課せられたが、単勝オッズ1.1倍の1番人気に応えて、2着アンヴァールに頭差ながらも勝利した。
その11日後にはピムリコ競馬場で行われたディキシーH(D9.5F)に出走。ここでは128ポンドが課せられた上に、長年の好敵手アテンション、前年のベルモントSの直前の一般競走で本馬に捻られた後にアメリカンHを勝っていたミオランド、そして本馬の登場直前まで米国最強馬の地位に君臨していたプリークネスS・ローレルフューチュリティ・ピムリコフューチュリティ・アーリントンクラシックS・ナラガンセットスペシャルH・ホーソーン金杯・ハヴァードグレイスH2回・ピムリコスペシャルS2回・ハリウッド金杯・ホイットニーSの勝ち馬シャルドンが参戦してきた。しかし本馬がアテンションを3/4馬身差の2着に、ミオランドを3着に、シャルドンを4着に抑えて勝利した。
5月末にはベルモントパーク競馬場で行われたサバーバンH(D10F)に出走。しかし129ポンドを課せられて、前年のジョッキークラブ金杯勝利後にピムリコスペシャルS・ギャラントフォックスHを勝っていたマーケットワイズの2馬身差2着に敗れた(アテンションが3着だった)。その2週間後にはアケダクト競馬場で行われたカーターH(D7F)に出走した。しかし130ポンドを課せられた本馬は、当時の快速馬として鳴らしていたダブルラブ、後にこの年のホイットニーSを勝つスウィングアンドスウェイとの接戦で後れを取り、2着スウィングアンドスウェイを頭差抑えて勝ったダブルラブから僅か3/4馬身差の3着に敗れた。そのままアケダクト競馬場に留まり、9日後に出たダート9ハロンの一般競走では、前月のメトロポリタンHを勝っていたアテンションを鼻差の2着に破って、1分49秒4のコースレコードで勝利した。
それから5日後のブルックリンH(D10F)では128ポンドを課せられたが、18ポンドのハンデを与えたスウィングアンドスウェイを1馬身3/4差の2着に、アテンションを3着に破り、2分02秒4のコースレコードで勝利した。翌週にニューヨーク州エンパイアシティ競馬場で出たバトラーH(D9.5F)では132ポンドが課せられて、コースレコードで勝ったトラローズの2馬身半差2着に敗れた(スウィングアンドスウェイが3着だった)。その後はマサチューセッツ州サフォークダウンズ競馬場に向かい、前走から11日後にマサチューセッツH(D9F)に出走した。ここでは130ポンドを背負いながら、2着ラウンダーズに2馬身1/4差をつけて、1分48秒2のコースレコードで完勝した(アテンションが3着だった)。
競走生活(4歳後半)
続いてアーリントンパーク競馬場に向かい、8月のアーリントンH(D10F)に同じ130ポンドで出走したが、今回は馬場状態が悪かったのが影響したのか、ラウンダーズの3馬身半差2着に敗れた。その後ニュージャージー州ガーデンステート競馬場に向かい、8月末に行われた新設競走トレントンH(D9F)に出走した。斤量はやはり130ポンドだったが、ダイアナHを勝っていた牝馬ローズタウンを1馬身差の2着に抑えて、1分50秒8のコースレコードで勝利した。そして今度はナラガンセットパーク競馬場に向かい、前走から2週間後のナラガンセットスペシャルH(D9.5F)に出走。やはり130ポンドを背負いながら2着ボイジーに2馬身差で勝利した(この年のドワイヤーSを勝ちアーリントンクラシックSで2着、ケンタッキーダービーで3着していたヴァルディナオーファンが3着だった)。
その1週間後には同じナラガンセットパーク競馬場ダート9.5ハロンのコースで行われた、1歳年下のアルサブとの2万5千ドルマッチレースに出走した。アルサブは3歳シーズン当初は不振だったが、5月頃から強さを取り戻し、プリークネスS・ウィザーズS・アメリカンダービーを勝ちケンタッキーダービー・ベルモントSで2着するなどして、3歳最強馬としての地位を確立していた。ウルフ騎手はアルサブにも何度か乗ったことがあったが、ここでは迷わず本馬を選んだ。レースは先行するアルサブを3馬身ほど後方で追いかけた本馬が残り1ハロン地点から猛然と差を縮めて、最後は写真判定に縺れ込むほどの大激戦となった。結果はアルサブが鼻差で勝ち、本馬は敗れてしまったが、斤量は本馬が7ポンド多かったため、本馬の評価が一般的に落ちる事は無かった。もっとも、ベン・ジョーンズ師は渾身の仕上げで臨ませた本馬が負けて随分と失望したようである。
すぐにベルモントパーク競馬場に戻り、翌週のマンハッタンH(D12F)に出走したが、132ポンドの斤量が堪えたのか、このレースを一昨年に勝利していたボーリングブローク(翌年も勝って3勝目。その後もホイットニーS・ニューヨークH・ジョッキークラブ金杯に勝つなど古馬一線級で活躍した)の1馬身半差2着に敗れた。しかし再度アルサブとの対戦となった翌週のジョッキークラブ金杯(D16F)では、アルサブを3/4馬身差の2着に、ボーリングブロークを3着に破って勝利を収め、鼻差2着だった前年の同競走と過去2戦の雪辱を同時に果たした。さらに翌週のニューヨークH(D18F)では130ポンドを課せられた結果、9ポンドのハンデを与えたアルサブの1馬身1/4差3着に敗退。これがアルサブとの最後の顔合わせで、その対戦成績は本馬の1勝2敗となったが、強豪馬2頭の名勝負に米国競馬ファンは酔いしれた。
本馬は続いてメリーランド州ローレル競馬場に向かい、10月下旬に行われたワシントンH(D10F)に出走。130ポンドの斤量を跳ね返して、後にサンタアニタH・ワシントンパークH・サンパスカルHなどを勝つサムズアップを半馬身差の2着に、翌週のウエストチェスターHと翌年のエクセルシオールH・ディキシーHを勝つリヴァーランドを3着に破って勝利した。その4日後にはピムリコ競馬場で行われたピムリコスペシャルS(D9.5F)に出走したが、対戦相手が集まらず単走となった。鞍上のウルフ騎手は過去にシービスケットとシャルドンの2頭でこのレースを3勝していたが、激しいレースになったそれらと異なり、今回はゆったりと愛馬を走らせて勝利した。さらに6日後にはリグスH(D9.5F)に130ポンドを背負って出走したが、ここでは馬場状態がかなり悪かった影響もあったのか、ウエストチェスターHを勝ってきたリヴァーランドの首差2着に敗れた。この8日後のガヴァナーボウイーH(D13F)では、129ポンドを課せられた上に、前走以上に馬場状態が悪かったのだが、2着となった牝馬ダークディスカヴァリーに3馬身差をつけて勝利した。この1か月後の12月12日には、ルイジアナ州フェアグラウンズ競馬場で新設競走ルイジアナH(D9F)に出走した。例によって130ポンドの斤量と不良馬場という二重苦だったのだが、2着ハートマンに1馬身半差で勝利した。そしてようやく4歳時の戦いを、22戦12勝2着8回3着2回着外無しの成績で終えた。
本馬がこの年に出走した22戦で米国競馬委員会は合計500万ドルの収益を得て、戦時緊急救助金の200万ドルを埋めて余りあった。米国競馬を守るために孤軍奮闘の活躍を示した本馬は、この年もアルサブを抑えて米年度代表馬に選出(76票対45票と、前年ほど僅差にはならなかった)されただけでなく、米最優秀ハンデ牡馬にも選出された。
競走生活(5歳時)
5歳時も現役を続けたが、前年最終戦のルイジアナHで腱を痛めていた本馬は本調子では無かった。まずは6月にワシントンパーク競馬場でダート8ハロンの一般競走に出走したが、暮れのベルデイムH・トップフライトHを勝ってこの年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれる事になるマーケルの3馬身1/4差3着に敗れた。それから僅か4日後にはエクワポイズマイルH(D8F)に出たが、前年の同競走を勝っていたベストセラーの5馬身1/4差5着に敗退。このレースを最後に本馬は競走馬を引退する事になり、それから9日後にワシントンパーク競馬場で行われた引退式で長年の調教助手ピンキー・ブラウン氏を鞍上に公共の場における最後の走りを披露したのを最後に、競馬場を後にした。それから8日後の7月13日に本馬はケンタッキー州に戻ってきたが、この日は「ワーラウェイの日」であるとして公式に認定された。8月8日に生まれ故郷のカルメットファームに戻ってきたときには、本馬陣営の人だけでなく、競馬関係者や州会議員を含む数千人のファンが英雄の帰還を迎え、その光景はラジオで全国中継された。獲得賞金総額は56万1161ドルで、米国競馬史上初の50万ドルホースとなった。
競走馬としての評価
本馬の勝率は53.3%で、12頭いる米国三冠馬の中では上から9番目(高い順に並べると、シアトルスルーの82.4%がトップで、アメリカンファラオの81.8%、ウォーアドミラルの80.8%、カウントフリートとセクレタリアトの76.2%、アファームドの75.9%、サイテーションの71.1%、ギャラントフォックスの64.7%、本馬、アソールトの42.9%、サーバートンの41.9%、オマハの40.9%と続く)と、それほど高くは無い。
しかし入着率は93.3%と一気に跳ね上がる(それでも12頭いる米国三冠馬の中では上から8番目というのは、さすが歴代米国三冠馬といったところか。ちなみにトップはカウントフリートの100%で、サイテーションの97.8%、アファームドの96.6%、ウォーアドミラルの96.2%、セクレタリアトの95.2%、ギャラントフォックスとシアトルスルーの94.1%、本馬、アメリカンファラオの90.9%、オマハの81.8%、サーバートンの77.4%、アソールトの76.2%と続く)。もっとも、出走レース数が多いほど勝率や入着率は下がる傾向があるから、歴代米国三冠馬の中で最多の60戦を消化したにも関わらず入着率90%以上というのはたいしたものである。
特筆すべきなのは、合計42戦した3・4歳時の入着率が100%だった事である。3・4歳時にいずれも走った米国三冠馬は本馬を含めて7頭いるが、その中で2年連続入着率100%なのは本馬とオマハのみである。オマハはその2年間で13戦のみ(ただしオマハは4歳時に英国で芝競走を走っており、同列に比較するのは実のところ適当ではない)であるから、重いハンデを背負いながら各地の競馬場を回って2年間で42戦して着外無しという本馬の凄さの一端がこのデータで理解できるのではないだろうか。
血統
Blenheim | Blandford | Swynford | John o'Gaunt | Isinglass |
La Fleche | ||||
Canterbury Pilgrim | Tristan | |||
Pilgrimage | ||||
Blanche | White Eagle | Gallinule | ||
Merry Gal | ||||
Black Cherry | Bendigo | |||
Black Duchess | ||||
Malva | Charles O'Malley | Desmond | St. Simon | |
L'Abbesse de Jouarre | ||||
Goody Two-Shoes | Isinglass | |||
Sandal | ||||
Wild Arum | Robert le Diable | Ayrshire | ||
Rose Bay | ||||
Marliacea | Martagon | |||
Flitters | ||||
Dustwhirl | Sweep | Ben Brush | Bramble | Bonnie Scotland |
Ivy Leaf | ||||
Roseville | Reform | |||
Albia | ||||
Pink Domino | Domino | Himyar | ||
Mannie Gray | ||||
Belle Rose | Beaudesert | |||
Monte Rosa | ||||
Ormonda | Superman | Commando | Domino | |
Emma C. | ||||
Anomaly | Bend Or | |||
Blue Rose | ||||
Princess Ormonde | Ormondale | Ormonde | ||
Santa Bella | ||||
Ophirdale | Ben Holladay | |||
Berriedale |
父ブレニムは当馬の項を参照。
母ダストワールは不出走馬だが、繁殖牝馬としては、ケンタッキーダービーでウォーアドミラルの3着だった本馬の半兄リーピングリワード(父シックル)【ユナイテッドステーツホテルS・ケンタッキージョッキークラブS・ニューイングランドフューチュリティ・ラトニアダービー】も産んでいる。
ダストワールはかなり優秀な牝系を構築しており、本馬の半姉ダストスウィープ(父チャンスショット)の孫にはインリザーブ【サンタマリアH】、玄孫世代以降には、エルコレドール【シガーマイルH(米GⅠ)】、ローマンルーラー【ハスケル招待H(米GⅠ)】などが、本馬の半姉パノラミック(父チャンスショット)の子にはハネムーン【サンタマリアH・シネマH・ハリウッドオークス・ハリウッドダービー・ヴァニティH・トップフライトH】、ペディグリー【シネマH・ウェスターナーH】、孫にはグレートサークル【サンタアニタマチュリティS・サンセットH】、ハニーズアリバイ(ダリアの母父)【マリブS】、ハニーズジェム【ミレイディH・ラモナH】、玄孫世代以降には、ファールセイル【エイコーンS・マザーグースS】などが、本馬の半姉ロストホライズン(父サーギャラハッド)の子にはワールアバウト【テストS・ガゼルH・ダイアナH・サンタバーバラH】、曾孫にはマーケットバスケット【ハリウッドオークス・サンタモニカH】、シビルブランド【ハリウッドオークス】、ソロリーブルー【デルマーオークス】、玄孫世代以降には、リチャーズキッド【パシフィッククラシックS(米GⅠ)2回・グッドウッドS(米GⅠ)】、シャンハイボビー【BCジュヴェナイル(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)】などが、本馬の全妹ワールライトの孫にはルーシーズネイティヴ【フロリダダービー(米GⅠ)】、玄孫世代以降には、コンキスタドールシエロ【ベルモントS(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)】、オーヴァーオール【スピナウェイS(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)】、エローラヴ【ハリウッドスターレットS(米GⅠ)・アッシュランドS(米GⅠ)】などがいる。
ダストワールの半兄にはオズマンド(父スウィーパー)【ジェロームH・トボガンH2回・カーターH】、半弟にはブレヴィティ(父シックル)【フロリダダービー】が、ダストワールの半姉ゴールデンメロディ(父モンドール)の子にはキングコウル【カウディンS・ウィザーズS】がいる。また、ダストワールの半妹ミスブリーフ(父シックル)も優れた牝系を築いており、その牝系子孫には、ハーフブライドルド【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・デルマーデビュータントS(米GⅠ)】、ウェルアームド【ドバイワールドC(首GⅠ)・グッドウッドS(米GⅠ)】、そして日本で活躍したシンボリクリスエス【天皇賞秋(GⅠ)2回・有馬記念(GⅠ)2回】がいる。ダストワールの曾祖母オフィールデールの半姉ビトゥリカの子にはマスケット【スピナウェイS・ベルモントフューチュリティS・メイトロンS・アラバマS・レディーズH】がいる。→牝系:F8号族③
母父スウィープは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はカルメットファームで種牡馬入りした。それから数年後に米国にやって来た仏国の名馬産家マルセル・ブサック氏は本馬を一目見て気に入り、仏国にリースさせてくれるようにライト氏に頼み込んだ。契約が成立したため、1950年8月に本馬は仏国に渡り、ブサック氏がノルマンディーに所有していたフレスネー・ル・ビュファール牧場で種牡馬供用された。本馬を気に入りすぎていたブサック氏はやがて米国に返すのが惜しくなり、ライト氏と再び交渉して1952年9月には正式に自分の所有馬とした。しかし本馬は翌1953年4月に神経組織の病気により15歳で他界した。遺体はいったんフレスネー・ル・ビュファール牧場に埋葬され、ノルマンディー上陸作戦で落命した兵士達の記念碑の近くでしばらく眠ることになった。後に本馬の遺体は掘り返されてカルメットファームに返還された。そして墓碑が建立され、現在は生まれ故郷の地で眠りに着いている。
本馬は米国では一定の種牡馬成績を収めたが、仏国では種牡馬生活が短かった影響もあったのかあまり活躍馬を出せなかった。産駒のステークスウイナーは合計18頭となっている。1959年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第26位。本馬の直系は残っておらず、その血を引く馬もそれほど多くは無い。本馬の名前が血統表にある馬の中で筆者が思い浮かぶ筆頭格はヘヴンリープライズ(その4代母の父が本馬)で、他にもBCスプリントの勝ち馬ダンシングスプリーやGⅠ競走4勝のエルセニョールの血統表にも本馬の名がある(2頭とも曾祖母の父が本馬)。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1945 |
Scattered |
CCAオークス・ピムリコオークス |
1945 |
Whirl Some |
セリマS |
1946 |
Going Away |
マイアミビーチH |
1946 |
Lady Pirouette |
AJCシャンペンS |
1947 |
Alister |
AJCダービー・コックスプレート・ヴィクトリアダービー |
1947 |
Duchess Peg |
アーリントンラッシーS |
1948 |
Away Away |
カウディンS |
1948 |
Spur On |
ミシガンマイル&ワンエイスH |
1952 |
Kurun |
ダリュー賞・ジョッキークラブS |