アリダー

和名:アリダー

英名:Alydar

1975年生

栗毛

父:レイズアネイティヴ

母:スイートトゥース

母父:オンアンドオン

類稀なる能力を有しながらも米国三冠競走で全て宿敵アファームドの2着だった雪辱を種牡馬として果たすも謎に包まれた最期を遂げた米国の歴史的名馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績26戦14勝2着9回3着1回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州の名門牧場カルメットファームの生産・所有馬で、ジョン・M・ヴィーチ調教師に預けられた。本馬は少し寂しがり屋だったようで、厩務員が構ってくれないと鼻を鳴らして合図を送ってきたという。しかしその筋骨隆々の素晴らしい馬体はデビュー前から評判になっていた。

競走生活(2歳時)

2歳6月にベルモントパーク競馬場で行われたユースフルS(D5.5F)で、エディ・メイプル騎手を鞍上にデビューした。このレースには既に未勝利戦を勝っていたアファームドも出走しており、いきなり宿命のライバル2頭の初対戦となった。既に勝ち上がっていた馬達を差し置いて本馬は1番人気に支持されたが、後方から末脚不発の5着(4着とする資料もあるが映像を見る限りでは5着と思われる)に終わり、勝ったアファームドからは5馬身差をつけられた。その9日後には改めて前走と同コースの未勝利戦に出走。2着ビリーヴイットに6馬身3/4差をつけて勝ち上がった。

次走のグレートアメリカンS(D5.5F)では、アファームドと2度目の対戦となった。今回は三角で外側からまくった本馬が、先行するアファームドを最終コーナーでかわすと、直線でそのまま引き離し、2着アファームドに3馬身半差をつけて完勝した。

3週間後のトレモントS(GⅢ・D6F)では、未勝利脱出後にジュヴェナイルSで2着してきたビリーヴイットを1馬身1/4差の2着に破って勝利した。次走のサブリングS(GⅠ・D6F)では、初めて経験する不良馬場をものともせずに、ラフンタンブルSを勝ってきたヌーンタイムスペンダーを2馬身半差の2着に下して完勝し、GⅠ競走勝ち馬となった。

その2週間後のホープフルS(GⅠ・D6.5F)では、アファームドと3度目の対戦となった。レースは先行するアファームドに三角で本馬が並びかけるという、グレートアメリカンSと似たような展開となった。しかし今回はアファームドが抜かさせず、直線の一騎打ちの末に本馬は半馬身差の2着に敗退した。

そのまた2週間後のベルモントフューチュリティS(GⅠ・D7F)でも、アファームドとの対戦となった。このレースでも先行するアファームドに三角で本馬が並びかけ、最終コーナーを回りながら2頭が一騎打ちを開始した。この激闘は3ハロンにも及んだが、最後はアファームドが勝利し、本馬は鼻差の2着に敗れた。

次走のシャンペンS(GⅠ・D8F)では、アファームドと5度目の対戦となった。本馬の鞍上はこのレースからホルヘ・ヴェラスケス騎手が務める事になった。レースでは先行したアファームドが直線でサラトガスペシャルS勝ち馬ダービークリークロードと競っているところに、大外から本馬が強襲し、瞬く間にアファームドをかわすと最後は1馬身1/4差をつけて勝利した。

その2週間後のローレルフューチュリティ(GⅠ・D8.5F)でも、アファームドとの対戦となった。前走シャンペンSの勝ち方が鮮烈だったため、本馬は単勝オッズ1.4倍の断然人気に支持された(前走2着のアファームドは単勝オッズ2.4倍の2番人気)。レースでは先行したアファームドに本馬が今度は内側から並びかけ、例によって直線では2頭の一騎打ちが展開された。しかしアファームドの驚異的な粘りの前に本馬はまたも屈して首差2着に敗れた(3着スタードナスクラは10馬身後方、4着アルジェントはさらに27馬身後方だった)。

次走のレムセンS(GⅡ・D9F)ではアファームドが不在だったため、逆に油断があったのかもしれない。トレモントSで本馬の2着に敗れた後にヘリテージSを勝っていたビリーヴイットが快調に先頭を飛ばし、本馬は後方待機策。向こう正面で仕掛けたが、レースレコードで走ったビリーヴイットを捕らえきる事が出来ずに2馬身差の2着に終わった。

2歳時はこれが最後の出走で、この年の成績は10戦5勝2着4回、アファームドとの対戦成績は本馬の2勝4敗だった。米国ジョッキークラブが発表した2歳時フリーハンデではアファームドが126ポンドで首位だったが、本馬も1ポンド差の125ポンドの評価を受けた(124ポンドのビリーヴイットが3位)。

競走生活(3歳初期)

冬場は温暖なフロリダ州で過ごし、この間に元々筋肉質だった本馬の馬体はさらに成長し、体高も1インチほど高くなったという。3歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走から始動。2着ヌーンタイムスペンダーに2馬身差をつけて勝利し、順調なスタートを切った。次走のフラミンゴS(GⅠ・D9F)では、やはり3歳初戦の一般競走を勝って臨んできたビリーヴイットと顔を合わせた。レースでは後方待機策から早めに先行馬を捕らえた本馬が、最後は馬なりのまま2着ヌーンタイムスペンダーに4馬身半差をつけて圧勝し、ビリーヴイットは4着に終わった。続くフロリダダービー(GⅠ・D9F)では、本馬が単勝オッズ1.2倍という圧倒的1番人気に支持され、2番人気にはビリーヴイットが推された。スタートが切られると、いつもなら先頭を走るビリーヴイットは控え気味に進んだ。しかし本馬は向こう正面で早々に仕掛けると、直線入り口では既に先頭だった。後方からはビリーヴイットが必死に追ってきたが、本馬は悠々と先頭でゴールインし、ビリーヴイットを2馬身差の2着に破った。

次走はブルーグラスS(GⅠ・D9F)となった。ブルーグラスSはケンタッキーダービーの最重要前哨戦の一つであるのだが、この年は本馬以外にこれといった馬が出走しておらず、殆ど本馬の公開調教の場と化してしまった。例によって後方からレースを進めると、中盤で仕掛けて進出。後続を引き離して逃げていたレイモンドアールをかわすと後は独走状態となり、最後は2着レイモンドアールに13馬身差という記録的大差をつけて勝利した。

競走生活(3歳中期)

そして迎えたケンタッキーダービー(GⅠ・D10F)では、アファームドと7度目の顔合わせとなった。本馬と同様にアファームドもこの年4戦無敗で臨んできており、この2頭が出走するケンタッキーダービーは大きな盛り上がりを見せ、両馬の調教師は互いに対戦を楽しみにしていると戦前にコメントした。本馬が単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持され、アファームドが単勝オッズ2.8倍の2番人気、ファウンテンオブユースS・ハッチソンSなど6戦全勝のセンシティヴプリンスが単勝オッズ5.5倍の3番人気と続いた。スタートが切られるとセンシティヴプリンスが先手を奪い、アファームドが3番手、本馬は最後方を追走した。最終コーナーでアファームドとビリーヴイットがセンシティヴプリンスをかわして上がっていったが、本馬は直線入り口でもまだ後方だった。そして直線一気の末脚を繰り出したが、アファームドには届かず1馬身半差の2着に敗れた。3着ビリーヴイットとの着差は1馬身3/4差であり、本馬とビリーヴイットとの実力差からすると仕掛けが遅かったように思われる。

次走のプリークネスS(GⅠ・D9.5F)ではアファームドが1番人気となり、本馬は2番人気での出走となった。スタートが切られるとアファームドが先手を奪い、本馬は後方2番手につけた。しかし前走の反省からヴェラスケス騎手は向こう正面で早めに仕掛けた。そして外側からビリーヴイットなどの他馬を次々とかわし、残るはアファームドのみという状況で直線に入った。直線入り口で本馬とアファームドの差は1馬身ほどであったが、この差がなかなか縮まらなかった。結局3着ビリーヴイットには7馬身半の差をつけたが、最後まで粘り切ったアファームドに首差届かず本馬は2着に敗れた。

次走のベルモントS(GⅠ・D12F)では米国三冠が懸かるアファームドが1番人気に支持され、本馬はやはり2番人気だった。ビリーヴイットなどが回避したため、完全に2頭の一騎打ちムードだったが、12ハロンの長丁場を走りきるスタミナでは本馬に一日の長があると考える人も多かった。また、ヴィーチ師はそれまで本馬がレースでずっと装着していたブリンカーを初めて外した。それはアファームドの姿を見えやすくする事により、本馬の闘争心を一層発揮させるための作戦だった。

スタートが切られるとアファームドがすぐに先頭に立ち、同競走史上稀に見る超スローペースの逃げに持ち込んだ。しかし本馬は3番手追走から早めに仕掛け、残り7ハロン地点で早くもアファームドに外側から並びかけた。そこでアファームドがペースアップすると、本馬も遅れずに付いて行き、2頭のマッチレースがここから延々と展開される事になった。直線入り口では僅かにアファームドがリードしていたが、本馬は懸命にアファームドに並びかけて2頭横並びの大激闘となった。本馬が前に出るかと思われた瞬間もあったが、ゴール前で驚異的な粘りを見せたアファームドが再度差し返して優勝。本馬はベルモントS史上最少着差とも言われる鼻差2着に敗れてしまい、史上11頭目の米国三冠馬の栄誉を手にしたアファームドとは対照的に、三冠競走全て2着という米国競馬史上唯一の屈辱を味わう事になってしまった。3着ダービークリークロードには13馬身差をつけており、本馬の競走能力が他馬を圧倒するものである事は確かだった。ヴィーチ師は「アファームドは真に偉大な馬です。何故ならアリダーという偉大な馬に勝ったからです」と語り、アファームドを管理したラザロ・ソーサ・バレラ調教師も「アファームドはセクレタリアトより上でしょう。何故ならアリダーという強敵を打ち負かして三冠を達成したからです」と語り、自身の管理馬と相手の管理馬を共に讃え合った。

競走生活(3歳後期)

次走のアーリントンクラシックS(GⅡ・D10F)ではアファームドが不在とあって本馬に敵う馬は存在せず、強烈な追い込みを決めて2着チーフオブディキシーランド(アーカンソーダービー2着馬で、ケンタッキーダービーでは9着だった)に13馬身差をつけて圧勝した。続くホイットニーS(GⅡ・D9F)では、スワップスS・カリフォルニアンS・リッチモンドS・英シャンペンS・マリブS・サンバーナーディノH・ロサンゼルスHなどの勝ち馬でこの年のエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれる4歳馬ジェイオートービン、サラナクS・ピーターパンSを勝っていた本馬とは未対戦の3歳馬バッカルー、ホブソンH・ジムダンディSの勝ち馬ファーザーホーガンなどが相手となった。特にジェイオートービンは前年のスワップスSで米国三冠馬シアトルスルーに初黒星をつけた馬であり、本馬の能力が他世代にも通用するものかどうかを占う重要な一戦となった。レースはバッカルーが先行してジェイオートービンがそれを追い、本馬は相変わらずの後方待機策だった。しかしヴェラスケス騎手が仕掛けると本馬は一気に前との差を縮めて先頭を奪い、最後は2着バッカルーに10馬身差をつけて圧勝した。

その2週間後のトラヴァーズS(GⅠ・D10F)では、アファームドと10度目の対戦となり、同競走史上最高となる5万人の大観衆がサラトガ競馬場に詰め掛けた。レースはアファームドが先行し、本馬が内側からそれをかわそうとしたが、三角でアファームドが内側に斜行し、進路を塞がれた本馬は体勢を崩してしまった。結局そのままアファームドに追いつく事は出来ずに1馬身3/4差の2位入線となった。しかし本馬鞍上のヴェラスケス騎手は三角におけるアファームドの進路妨害をアピール。審判員はこのアピールを認め、アファームドは2着降着となり、本馬が繰り上がって勝利馬となった。この判定については当時から議論の的になっているようだが、映像で見た限りでは本馬が相当な不利を受けているのは間違いない。

その後はマールボロCHを目標として調整されていたが、左前脚蹄骨の骨折を発症してしまい、回避となった(トラヴァーズSで体勢を崩した際に故障したとする意見も根強い)。このマールボロCHではシアトルスルーとアファームドの米国三冠馬対決が実現しており、そこに本馬が加われば一層盛り上がっただろう事は想像に難くなく、これは残念な事である。結局本馬はこの後3歳シーズンは全休となってしまった。3歳時の成績は10戦7勝2着3回で、アファームド以外の馬には一度も先着されなかった。本馬とアファームドが競馬場で対戦する事は二度と無く、アファームドとの対戦成績は通算で本馬の3勝7敗となった。

競走生活(4歳時)

4歳時は3月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走から始動。やはり格が違いすぎたようで、2着フォートプレヴェルに7馬身差をつけて圧勝した。ところが次走のオークローンH(GⅡ・D8.5F)では、グレード競走初出走の上にステークス競走勝ちすらも無かった単勝オッズ12倍の伏兵サンファンヒルに鼻差敗れて2着となり、2歳時のレムセンSでビリーヴイットに負けて以来久々にアファームド以外の馬に先着を許した。

次走のカーターH(GⅡ・D7F)では、この年のエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるスタードナスクラ、ケンタッキーダービー6着後に米国三冠競走残り2戦を回避してジェロームH・ホーソーンダービー・ガルフストリームパークH・セミノールHを勝っていたセンシティヴプリンス、前年のエクリプス賞最優秀短距離馬の座をジェイオートービンと分け合っていたヴォスバーグS勝ち馬ドクターパッチェスなどが対戦相手となった。しかしこの距離では本馬よりも現役最強短距離馬スタードナスクラの方に僅かに分があったようで、本馬は首差の2着に敗れた。そしてメトロポリタンH(GⅠ・D8F)では、前走センチュリーHでGⅠ競走初勝利を挙げて勢いに乗るステートディナーが勝利を収め、本馬はステートディナーから12馬身差の6着と、デビュー戦以来の惨敗を喫してしまった。

次走のナッソーカウンティH(GⅢ・D9F)では、泥だらけの不良馬場の中を快走し、前年のブルックリンH・アメリカンダービー勝ち馬で、本馬とアファームドが戦ったベルモントフューチュリティS・トラヴァーズSでいずれも3着だったナスティアンドボールドを3馬身3/4差の2着に下して勝利した。しかしサバーバンH(GⅠ・D10F)では、メトロポリタンHから直行してきたステートディナー、亜国のGⅠ競走5月25日大賞を勝った後に米国に移籍してきたジョンBキャンベルH勝ち馬ミスターブレアの2頭に屈して、ステートディナーの1馬身1/4差3着に敗退。この後はブルックリンHを目標に調整されていたが、調教中に右後脚種子骨を骨折してしまったため、このまま4歳時6戦2勝の成績で競走馬を引退する事になった。

血統

Raise a Native Native Dancer Polynesian Unbreakable Sickle
Blue Glass
Black Polly Polymelian
Black Queen
Geisha Discovery Display
Ariadne
Miyako John P. Grier
La Chica
Raise You Case Ace Teddy Ajax
Rondeau
Sweetheart Ultimus
Humanity
Lady Glory American Flag Man o'War
Lady Comfey
Beloved  Whisk Broom
Bill and Coo 
Sweet Tooth On-and-On Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Two Lea Bull Lea Bull Dog
Rose Leaves
Two Bob The Porter
Blessings
Plum Cake Ponder Pensive Hyperion
Penicuik
Miss Rushin Blenheim
Lady Erne
Real Delight Bull Lea Bull Dog
Rose Leaves
Blue Delight Blue Larkspur
Chicleight

レイズアネイティヴは当馬の項を参照。

母スイートトゥースはカルメットファームの生産・所有馬で、現役成績は41戦10勝。アルキビアデスSで2着しているがステークス競走勝ちは無かった。しかし繁殖牝馬としては非常に優秀で、13頭の産駒中10頭が競走馬となり、うち8頭が勝ち上がっている。産駒の質も高く、本馬の全兄で本邦輸入種牡馬であるホープフリーオン、半姉で1977年のエクリプス賞最優秀3歳牝馬に選ばれたアワーミムス(父エルバジェ)【CCAオークス(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)・デラウェアH(米GⅠ)・ファンタジーS(米GⅡ)】、半妹シュガーアンドスパイス(父キートゥザミント)【マザーグースS(米GⅠ)・コティリオンH(米GⅡ)・アッシュランドS(米GⅢ)】などを産んでおり、1977年にはアワーミムスと本馬の活躍によりケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選ばれている。アワーミムスの孫にはエルムハースト【BCスプリント(米GⅠ)】、曾孫にはコンティニュアスリー【ハリウッドターフカップS(米GⅠ)】がいる。また、シュガーアンドスパイスの子にはシナモンシュガー【ロングルックH(米GⅡ)】がいる。

スイートトゥースの母プラムケーキもカルメットファームの生産・所有馬で、現役成績21戦8勝、ジャスミンSの勝ち馬。プラムケーキの母は米国顕彰馬リアルディライト【アッシュランドS・ケンタッキーオークス・CCAオークス・アーリントンメイトロンH2回・ベルデイムH】で、近親にはプリンセスタリア【ケンタッキーオークス・エイコーンS・デラウェアH】、フォワードパス【ケンタッキーダービー・プリークネスS・エヴァーグレイズS・フロリダダービー・ブルーグラスS・アメリカンダービー】、コーデックス【プリークネスS(米GⅠ)・サンタアニタダービー(米GⅠ)・ハリウッドダービー(米GⅠ)】、クリスマスパスト【CCAオークス(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)】、グランドスラム【ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)】、オラトリオ【ジャンリュックラガルデール賞(仏GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)】、日本で走ったスティンガー【阪神三歳牝馬S(GⅠ)】など活躍馬が多数いる名門牝系である。→牝系:F9号族③

母父オンアンドオンはナスルーラ直子で、やはりカルメットファームの生産・所有馬だった。現役成績は58戦12勝、オハイオダービー・シェリダンS・ブルックリンH・アークワード記念H・オレンジボウルH・マクレナンH・トロピカルパークHなどを勝っている。種牡馬としては1968年のケンタッキーダービーとプリークネスSを制した本馬の近親馬フォワードパスなどを出した。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のカルメットファームで種牡馬入りした。1987年にはスペンドスリフトファームで種牡馬入りしていたアファームドもカルメットファームにやって来て、かつてのライバル2頭が並んで生活する事になった。本馬は種牡馬としてアファームドを大きく上回る大成功を収めた。アファームドも決して種牡馬として不成功だったわけではないのだが、本馬との対比において失敗種牡馬と評価されがちである。自身が無縁だった米国三冠競走も種牡馬としては全て制覇している。そのため、競走馬としてはアファームドが勝ち、種牡馬としてはアリダーが勝ったとしばしば言われる。1990年には北米首位種牡馬に輝いたが、同年11月15日に右後脚の骨折により他界した。1989年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第27位。母父としても一流で、ルアーパントレセレブルキャットシーフジオポンティ、日本でもヤマニンパラダイスやイシノサンデーなど数多くの優駿を輩出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1981

Althea

ハリウッドスターレットS(米GⅠ)・サンタスサナS(米GⅠ)・アーカンソーダービー(米GⅠ)・ハリウッドジュヴェナイルCSS(米GⅡ)・デルマーデビュータントS(米GⅡ)・デルマーフューチュリティ(米GⅡ)

1981

Miss Oceana

アーリントンワシントンラッシーS(米GⅠ)・フリゼットS(米GⅠ)・セリマS(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)・ガゼルH(米GⅠ)・マスケットS(米GⅠ)・ボニーミスS(米GⅢ)

1982

Alydar's Best

仏グランクリテリウム(仏GⅠ)・プリティポリーS(愛GⅡ)・シルケングライダーS(愛GⅢ)

1982

Buckley Boy

ギャラントフォックスH(米GⅡ)

1982

Endear

ヘンプステッドH(米GⅠ)・ミスグリオS(米GⅢ)・ランパートH(米GⅢ)

1982

Fatah Flare

ムシドラS(英GⅢ)

1982

Red Attack

レイザーバックH(米GⅡ)・エクワポイズマイル(米GⅢ)

1982

Saratoga Six

デルマーフューチュリティ(米GⅠ)・ハリウッドジュヴェナイルCSS(米GⅡ)・バルボアS(米GⅢ)

1982

Turkoman

ワイドナーH(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)・オークローンH(米GⅡ)・アファームドH(米GⅢ)

1983

Clabber Girl

トップフライトH(米GⅠ)・チュラヴィスタH(米GⅡ)・ランチョベルナルドH(米GⅢ)

1983

I'm Sweets

デモワゼルS(米GⅠ)・ガーデニアS(米GⅡ)・バレリーナS(米GⅡ)・ハニービーH(米GⅢ)

1984

Alysheba

ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)・BCクラシック(米GⅠ)・スーパーダービー(米GⅠ)・チャールズHストラブS(米GⅠ)・サンタアニタH(米GⅠ)・フィリップHアイズリンH(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)・メドウランズCH(米GⅠ)・サンバーナーディノH(米GⅡ)

1984

Cadillacing

バレリーナS(米GⅠ)・ディスタフH(米GⅢ)

1984

Hiaam

プリンセスマーガレットS(英GⅢ)

1984

Rolls Aly

フェデリコテシオS(米GⅢ)

1984

Talinum

フラミンゴS(米GⅠ)・スタイヴァサントH(米GⅡ)

1985

Criminal Type

メトロポリタンH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH・サンパスカルH(米GⅡ)・サンアントニオH(米GⅡ)

1985

Lucky So n' So

アクサーベンジュヴェナイルS(米GⅢ)

1985

Sarhoob

ユジェーヌアダム賞(仏GⅡ)

1986

Alydaress

愛オークス(愛GⅠ)・リブルスデールS(英GⅡ)

1986

Beautiful Melody

ビヴァリーヒルズH(米GⅠ)

1986

Cacoethes

ターフクラシックH(米GⅠ)・キングエドワードⅦ世S(英GⅡ)・リングフィールドダービートライアルS(英GⅢ)

1986

Easy Goer

ベルモントS(米GⅠ)・カウディンS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)・ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)・ゴーサムS(米GⅡ)

1986

Foresta

ダイアナH(米GⅡ)・オールアロングS(米GⅡ)・ニューヨークH(米GⅡ)

1986

Tis Juliet

シュヴィーH(米GⅠ)

1987

Aishah

レアパフュームS(米GⅡ)

1987

Greydar

アファームドH(米GⅢ)・エセックスH(米GⅢ)

1987

Jefforee

ニジャナS(米GⅢ)

1987

Peinture Bleue

ロングアイランドH(米GⅡ)

1987

Stella Madrid

スピナウェイS(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)・フリゼットS(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)

1987

Train Robbery

モンマスパークBCH(米GⅢ)

1988

Alydavid

ダービートライアルS(米GⅢ)

1988

Mujaazif

ロイヤルロッジS(英GⅡ)

1988

Strike the Gold

ケンタッキーダービー(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・ブルーグラスS(米GⅡ)・ナッソーカウンティH(米GⅡ)

1988

Winglet

プリンセスS(米GⅡ)

1988

リンドシェーバー

朝日杯三歳S(GⅠ)

1989

Alysbelle

ラカナダS(米GⅡ)・ニューヨークH(米GⅡ)・ブラックヘレンH(米GⅢ)

1989

Big Sur

サプリングS(米GⅡ)

1989

Juliannus

レイザーバックH(米GⅡ)

1989

Repletion

クイーンズカウンティH(米GⅢ)

1990

Aztec Empire

クイーンズカウンティH(米GⅢ)

1990

Minidar

シカゴBCH(米GⅢ)

1991

Benchmark

サンバーナーディノH(米GⅡ)・デルマーBCH(米GⅡ)・グッドウッドBCH(米GⅡ)

1991

Dare and Go

ストラブS(米GⅠ)・パシフィッククラシックS(米GⅠ)

1991

Kandaly

ルイジアナダービー(米GⅢ)

1991

Lotta Dancing

アフェクショネイトリーH(米GⅢ)

1991

Winning Pact

デルマーフューチュリティ(米GⅡ)

謎の死とその後の経緯

さて、海外競馬にある程度詳しい人であれば、ここまで本項を読み進めてきて、不思議に思ったかもしれない。それは本馬の死に関する記述が簡潔すぎるという点においてである。本馬の死についてもっと詳しく書くべきだと思う人もいることだろう。まったくそのとおりで、本馬の死の真相はファーラップ変死事件やシャーガー誘拐事件に匹敵する世界競馬史上有数の謎であると筆者も思っている。しかし本馬の死について詳述する場合、それが犯罪の結果であったか否かというデリケートな問題に触れなければならない(シャーガー誘拐事件は完全なる犯罪であるし、ファーラップ変死事件は事故死の公算が大きいらしいから、本件ほどには犯罪なのか事故なのか不明瞭というわけではない)。これはレースの使い方に問題があるとして陣営を批評するのとは訳が違い、下手な書き方をすると、無実の人間を犯罪者扱いすることになってしまうのである。日本の資料では本件について曖昧に記載されている場合が多いのも、もしかしたらその辺りに理由があるのかもしれない(犯罪だったと断定してしまっている日本のサイトがあるが、実際には断定されていないので、それは誤りである)。

そこで本項では、以下の2点を予め断った上で、海外の資料を参考に本馬の死とその後の経緯について詳述したいと思う。①本件関係者達は訴追されて有罪判決を受けたが、この有罪判決は本馬の死に直接関するものではない。本馬の死に関しては既に公訴期限を経過しているため、被告人達は本馬の死に関しては法的に無実である事が確定している。②参考にした資料はスキャンダルを扱ったものであるから、この名馬列伝集を作成する際に参照した多くの他資料と比すると信憑性の点で見劣る(シャーガー誘拐事件の顛末に関してマスコミが報じた出鱈目な記事のオンパレードを見れば、この類の記事が信用し難い事がよく分かる)。ただし裁判の結果のみは事実である。それを踏まえた上でお読みいただきたい。

まずは舞台となったカルメットファームについて触れておく。カルメットファームはかつて米国三冠馬サイテーションを筆頭に数々の名馬を輩出した米国きっての名門牧場である。全盛期の牧場主は創業者ウィリアム・ライト氏の義理の娘ルシール・パーカー・ライト・マーキー夫人で、やり手として知られていた。彼女にはルシール・“シンディ”・ライト嬢という孫娘がいた。シンディ嬢は16歳の時に5歳年上のジョン・トーマス・ランディ氏と結婚した。シンディ嬢は内向的な人物で社交界は苦手であり、気さくな青年だったランディ氏に心を奪われたようである。しかしランディ氏は野心家であり、将来の夢はカルメットファームを手に入れることだと友人に語っていたという。シンディ嬢と結婚したランディ氏は自分でも小牧場を買って馬産を開始し、馬に対する自身の情熱をアピールした。やがてランディ氏の牧場も数百万ドルの価値があるまでに拡大していった。もっとも、マーキー夫人はランディ氏を嫌っており、ランディ氏がカルメットファームにおいて馬産を行う事を許さなかった。

本馬が誕生した頃、既にマーキー夫人は80歳近かったがまだ馬産に対する情熱は失っていなかった。しかし本馬が三冠競走で全て2着に敗れた時に大いに失望したマーキー夫人は、種牡馬としての本馬の活躍を見ることなく1982年に85歳で死去した。ランディ氏はカルメットファームの相続人達に対して自身の馬産実績を大きくアピールし、その結果彼はカルメットファームの支配権を手に入れる事に成功した。

すぐにランディ氏はカルメットファームの設備投資に乗り出し、プールや最新鋭の設備を備えた診療所を作らせた。さらに銀行から1320万ドルの融資を受けて優秀な種牡馬や競走馬を購入した。当初4万ドルだった本馬の種付け料も25万ドルまで値上げした。それでも本馬の優秀な種牡馬成績により、本馬との交配を希望する繁殖牝馬所有者は後を絶たず、ランディ氏のやり方は最初順調だったようである。1985年にはノーザンダンサー産駒の英ダービー馬セクレトを導入。1987年にはアファームドをリースして本馬と隣同士の生活を送らせた。1988年にランディ氏はさらに事業を拡大するべく、牧場を抵当に入れるなどして銀行から次々と融資を受け、その総額は9500万ドルにも達した。いかに名門牧場とは言え、これだけの莫大な金額を銀行が牧場に融資する事は異例だったが、これにはそのうち5000万ドルを融資したテキサス州最大の銀行持株会社ファーストシティバンコーポレーションの副頭取フランク・C・シハック氏とランディ氏の黒い繋がりがあったようである。ランディ氏はシハック氏に110万ドル以上の賄賂を送っており、シハック氏は、ランディ氏とカルメットファームの財務責任者だったゲイリー・マシューズ弁護士の両名が提出した牧場の財務諸表等を監査しないように部下に命じたという。

しかしちょうどこの1988年に競走馬バブルがはじけため、馬産界は冬の時代に突入する事になった。ランディ氏は本馬の交配数を年100頭に増やす(米国競馬界においては50~70頭が一般的とされていた)事で対処を図った。しかし1990年10月、莫大な不良債権を抱え込んだ責任を取ってシハック氏がファーストシティバンコーポレーションの副頭取を辞任すると事態は一気に悪化。ファーストシティバンコーポレーション側はカルメットファームに対して翌年2月中に1500万ドルを返済しなければ牧場の抵当権を実行すると通達してきた。

それから3週間後も経たない11月13日の夜、本馬が馬房内で倒れているのを警備員が発見した。本馬の右後脚下腿骨は粉砕骨折しており、骨が皮膚を突き破って外に出ている状態だった。連絡を受けて駆けつけたラリー・ブラムレッジ獣医に対して、ランディ氏は本馬が馬房の扉をとても強く蹴ったために骨折したのだと説明した。ケンタッキー州で当時最高の名獣医と言われたブラムレッジ獣医は本馬を牧場内の診療所に連れて行き、翌14日に本馬の脚をギプスで固定する手術を行った。本馬は食欲も回復し、ひとまず窮地は脱したと思われた。しかし数時間後、本馬は同じ右後脚の今度は大腿骨を骨折してしまった。この骨折は治療不可能と診断され、11月15日朝に安楽死の措置が執られた。再度の骨折の理由は、牧場内にいた牝馬達の声を耳にした本馬が動こうとして躓いたためとされた。本馬の遺体は牧場内に埋葬され、墓碑が建立された。

それから間もない1991年4月にランディ氏はシンディ夫人と離婚してカルメットファームを去り、同年7月にカルメットファームは破産した。負債総額は1億2700万ドルだった。破産の原因は本馬によってもたらされていた莫大な種付け料収入が本馬の死によって消滅した事であると各種マスコミが報じた。カルメットファームの施設や繋養されていた馬達はセリで売られていった。

この当時から本馬の死に対する疑問の声は上がっていた。馬房の管理者は、本馬が激しく扉を蹴った事は記憶に無いと語った。また、仮に扉を蹴ったとしても、脚を折るほど激しく蹴る事が出来るのかという意見もあった。しかし馬は時に理解不能な行動を取るものだし、サラブレッドの脚はガラスの脚だから何かの拍子に折れてしまうこともあるだろうという見解も多く、疑問の声が大きくなる事は無かった。

本馬の死から5年以上が経過した1996年のある日、ヒューストンの女性検事補ジュリア・ハイマン女史(後に結婚してトマラ姓になっているため、以降はトマラ検事補と記載する)は、テキサス州で発生した金融機関の連鎖倒産事件を調べていた。これは485の銀行と238の貯蓄貸付組合が1986年から92年にかけて倒産したもので、ファーストシティバンコーポレーションもその中に含まれていた。ファーストシティバンコーポレーションを倒産に追いやった責任者のシハック氏は、トマラ検事補が担当した裁判において、合計で禁固34年7か月の判決を受けて余生を刑務所で過ごす事が確定していた。

彼女はシハック氏が行った不正行為の証拠調べをさらに続ける中で、本馬の死とカルメットファームの破産という事実について知る事になった。彼女は競馬の事は何も知らなかったが、シハック氏が競走馬の生産牧場に莫大な融資を行った点について不審を抱いた。翌1997年、彼女はFBIの新人捜査官ロブ・フォスター氏を同伴してケンタッキー州に調査に向かった。2人はかつてカルメットファームや同牧場の診療所で働いていた人物を訪ね歩き、本馬の死に関して色々な質問をした。人々は、何故この2人が今頃になってそんな事を調べているのか疑問に思ったが、その理由は後になってトマラ検事補が「アリダーの死は偶然ではなく、意図的に殺されたものだった」と連邦裁判所で宣言した事で明らかになる事になる。

本馬には英国の著名な保険組合ロイズオブロンドンとカリフォルニア州ゴールデンイーグル保険会社の2社との契約により3650万ドルという巨額の保険金が掛けられていたのである。しかも両社共にカルメットファームの保険料支払遅滞を危惧して契約の解約を要求してきており、特にゴールデンイーグル保険会社は、1991年1月以降の契約は更新しない旨を通達してきていた。結局契約解除を目前に本馬が他界したため、サラブレッドに対するものとしては史上最高額の保険金はそのまま支払われ、そのお金はファーストシティバンコーポレーションへの返済に充てられていた。また、本馬の種付け料は25万ドルであり、年間種付け数が100頭だった事からすると年間収入2500万ドルに達する計算になるが、実際にはランディ氏と親しい人物が所有する繁殖牝馬に対しては種付け料を無料にしており、その数は交配数100頭の過半数に達していたため、本馬の種付けから得られる収入は2500万ドルの半分以下に過ぎない事が判明した。また、本馬は種付けの過多で腰の筋肉を痛めており、ランディ氏は本馬の種牡馬としての将来に見切りをつけ始めていた。1500万ドルの一括返済を迫られたランディ氏は、新たな融資先を見つける事に失敗し、投資家の説得(はるばる日本まで出掛けて行った事もあったという)にも悉く失敗してしまった。当時のカルメットファームは毎月100万ドルの赤字を出していた。また、カルメットファームの生産・所有馬で1990年のエクリプス賞年度代表馬に選ばれた本馬産駒のクリミナルタイプが最大目標のBCクラシックを目前に故障引退に追い込まれ、ランディ氏が期待していた高額賞金を手にするチャンスもふいになってしまった。これらの状況証拠は全てランディ氏が用済みとなりかけていた本馬を保険金目的に殺害した事を示していた。

しかしトマラ検事補とフォスター氏の質問を受けた当時の関係者は、ランディ氏が負傷した本馬を救命するためにケンタッキー州最高の名医ブラムレッジ獣医に治療を依頼した事を理由として、「ランディ氏がアリダーを殺したとは思えない」と口を揃えた。ロイズオブロンドンに雇われた保険金査定員のトム・ディクソン氏は本馬が奇禍に遭ったその日に現場に行って写真を撮り、第一発見者だった警備員のアルトン・ストーン氏に質問をしたところ、「本馬は扉を蹴る癖があった」と証言が得られたため、この件は事故と判断し、速やかに保険金を支払った事を明らかにした。しかしロイズオブロンドンに雇われた別の保険金査定員は当日夜に牧場への立ち入りを拒否されたと証言した。また、ゴールデンイーグル保険会社の社員テリー・マクベイ氏が事故翌日に牧場を訪問したところ、まるで証拠隠滅のように現場は綺麗に片付けられており、本馬が蹴り壊した扉も既に修理されていたという。もし本当に本馬が扉を蹴る癖があったならば、馬が怪我をしないように何らかの対策が講じられて然るべきだったはずだという意見もあったようだが、結局ゴールデンイーグル保険会社も保険金の支払に同意している。

本馬を最初に診察したブラムレッジ獣医は、本馬が蹴った扉にはころがついており、強く蹴っても扉が動くためにそれだけで脚を折る事は無いが、開いた扉と壁の隙間に運悪く脚を挟まれた本馬が脚を抜こうとして暴れた結果として骨折したのだろうと証言した。トマラ検事補とフォスター氏が本馬の故障部分のX線写真を見せてくれるように、カルメットファームの専属獣医だったリンダ・ローズ・スチュワート獣医に依頼すると、彼女は本馬の死から1年後に写真を紛失したと返答した。

トマラ検事補とフォスター氏が、警備員だったストーン氏を再度問い詰めると、同僚の警備員だったキード・ハイリー氏という人物の名を挙げた。そこで2人がハイリー氏を訪ねると、ハイリー氏はパトロールのために本馬の馬房に近づくと明かりがついており、やがて本馬の嘶く声が聞こえてきたため慌てて駆けつけると本馬が倒れているのを発見したためにストーン氏へ連絡した旨を証言した。当初はストーン氏が第一発見者とされていたが、実はハイリー氏だったという点において、何らかの隠蔽工作が施されている公算が高いとトマラ検事補は考えた。

さらにトマラ検事補は、当時カルメットファームで厩務員をしていたハロルド・“カウボーイ”・キップ氏という人物の存在を知り、彼に質問を試みた。キップ氏は大の馬好きで、休暇を取る事も無く馬の世話をしており、特に本馬の世話は彼の役目であった。破産したカルメットファームがポーランド生まれの実業家ヘンリク・デ・クフャトコフスキー氏(ダンチヒの現役時代の所有者として知られる)に購入された後も、キップ氏は牧場に留まって警備員として働いていた。キップ氏は、本馬が負傷する5日前にカルメットファームのお偉方(ただしキップ氏はその人物の顔は知っていたが名を知らなかった)から、11月13日に休暇を取るよう勧められた旨を証言し、特に休暇が必要とは思わなかったけれども指示に従って13日は休んだ事をトマラ検事補に話した。各人の主張がばらばらである理由について、トマラ検事補は本件スキャンダルが競馬に対するイメージ悪化を招く事を恐れて口をつぐむ競馬関係者が多かった事を挙げている。

トマラ検事補はまずストーン氏を、自身が第一発見者であると偽ったとして偽証罪で訴追した。この程度の偽証罪で連邦裁判所に訴追される事例は滅多に無く、トマラ検事補の狙いはストーン氏にプレッシャーを掛けて証言を引き出すことだった。ストーン氏の弁護人は、トマラ検事補が本馬殺害の陰謀論に憑かれていると指摘した。さらにストーン氏の弁護人は弁護側証人としてランディ氏を召喚しようとしたが、彼は当時姿をくらましていた。陪審員の中にマーシャ・マシューズという女性がおり、彼女はかつてカルメットファームの財務責任者マシューズ弁護士の妻だった。彼女は夫とランディ氏が負債を解決する相談をしている時に「馬を取り除く方法があります」という内容が聞こえたと証言した。しかしこの証言は採用されなかった。結局ストーン氏は裁判で本馬の死について語ろうとはせず、5か月の禁固刑を受け入れた。

トマラ検事補の目論見は失敗したが、彼女にはもう一つの手が残っていた。1999年3月、トマラ検事補はフロリダ州にいるところを発見されたランディ氏と、マシューズ弁護士の両名を、銀行に対する詐欺、共謀、贈賄、偽証の罪で連邦裁判所に訴追した(本馬殺害の動機とされる保険金詐欺については告発されていない)。ランディ氏の弁護を担当したダン・コッジェル弁護士は最終弁論において、ランディ氏がこのような不正行為を遂行できるほど利口に見えますかと陪審員に尋ねたが、陪審員は見えると答えた。

トマラ検事補はマサチューセッツ工科大学の教授だったジョージ・プラット博士を証人として召喚した。プラット博士は米国競馬安全委員会の議長でもあった。プラット博士はトマラ検事補の依頼を受けて、1年前からある調査をしていた事を明らかにした。それは本馬が蹴り壊したとされる扉に関しての調査だった。該当する扉は本馬の死の直後に修理されていたが、扉のころと床を接続していたボルト(半分に割れており、上半分は既に処分されていた)の下半分がまだ床下に残っていた。また、既に処分されたボルトの上部分についても保険金査定員のディクソン氏が撮影した写真に写っていた。当該ボルトの下半分と写真を比較したプラット博士は、ボルトの断面が一致しない上に、ボルトを破壊した力は馬房の内側からではなく外側から加えられたものである事を明らかにし、何らかの人為的工作が施されていると説明した。さらにプラット博士は本馬がいた馬房や扉の寸法を測り、扉のころを蹴るためにはどの程度の脚力が必要かを調査した。その結果は、地面から3フィートの高さにおいて6600ポンドの力が必要というものだった。どんなに脚力が強い種牡馬でも、1000~2000ポンドが精一杯であるとプラット博士は証言し、以上の事柄から、本馬が蹴り壊したとされる扉は別の方法により破壊されたものであると結論付けた。そして本馬の脚とトラックをロープで繋いで、トラックを発車させる事により本馬の脚を破壊せしめたのだろうという推測を述べた。

プラット博士の話が終わった時、落ち着いた様子のランディ氏をトマラ検事補は冷たい目で見つめていた。そして彼女はランディ氏のみが本馬を殺害する動機と機会を持っていたと主張し、ランディ氏が本馬を救命するために名獣医に治療を依頼した事についても、既に救命不可能であると確信していたランディ氏の演技であると結論付けた。

3時間足らずの評決により、ランディ氏には禁固4年、マシューズ弁護士には禁固21か月の有罪判決が下されたが、いずれも銀行に対する詐欺と贈賄に関するものであり、保険金目的で本馬を殺害した疑惑については証拠不十分であると結論付けられた。

トマラ検事補は判決後、いずれは真相を明らかにすると意気込んだ。しかし米国における保険金詐欺の公訴時効は10年であり、その後改めて訴追が行われたという事実は無いから、ランディ氏は本馬の死に関しては法的に無実である事が既に確定している。

ランディ氏は判決後、身辺整理のためにいったんフロリダ州に戻り、飼育していた馬や病気の母親の世話をした後に、「私はアリダーを愛していました。もし彼が生きていれば私は何でもするでしょう」と語った。ランディ氏とマシューズ弁護士の両名とも既に服役を終えて出所している。

以上が本馬の死に関して米国マスコミが報じたものである。内容は米国のテレビ番組“抑えられない欲望”とAP通信社の記事“アリダー殺害”が主な情報源となっている。記事のタイトルからするとランディ氏が本馬を殺害したと決め付けているようにも見える。しかし本馬が殺害されたのかどうかについては証拠不十分とされており、確かに完全に否定されたわけではないが、断定されたわけでもなく、真相が白日の下に晒されたとは言い難い。しかし仮にランディ氏が本馬を殺害したのだとしても、彼はもう十分に報いを受けたように思えるし、ランディ氏が本馬を殺害したのでないなら、彼を糾弾するのは勿論不当である。筆者は真相が明らかになってほしいと望んでいるわけではない。何故なら、それで本馬が生き返る訳でもないし、裁判沙汰になった事によって類似事件が発生する事の抑止力には既に十分になっているからである。

三冠競走全て2着という事実や謎の死により、本馬は不運な馬だったと言われる事が多い。しかし本馬が不運なら世の中のサラブレッドの99%以上はもっと不運だと筆者は考える。三冠競走勝利に縁が無かったとは言え、競走馬及び種牡馬として大きな成功を収めた本馬は、サラブレッドの中でも最も幸運な部類に入るはずであると記載して本馬への手向けとし、筆を置く事とする。

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