シャーガー

和名:シャーガー

英名:Shergar

1978年生

鹿毛

父:グレートネフュー

母:シャーミーン

母父:ヴァルドロワール

史上最大の10馬身差で圧勝した英ダービーを筆頭に欧州の大競走を次々制覇した名馬中の名馬だが種牡馬入り後に誘拐されて行方不明となる

競走成績:2・3歳時に英愛で走り通算成績8戦6勝2着1回

誕生からデビュー前まで

名馬産家アガ・カーンⅣ世殿下が愛国キルデア州に所有するバリメニースタッドにおいて生産・所有した馬で、英国サー・マイケル・スタウト調教師に預けられた。本馬は調教でも実戦でも、舌を横にだらりと出して走ったという。疲れて舌を出す馬は珍しくないが、本馬の場合は疲れていなくても舌を出していたため、非常に特徴的な走り方であると評されていた。また、気性は非常に温和であり、厩務員から「紳士」と評されたほど扱いやすい馬だったという。あまり優雅な走り方とは言えない本馬だったが、その素質は幼少期から卓越しており、周囲は将来の英国クラシック候補として期待していた。

競走生活(2歳時)

2歳9月にニューベリー競馬場で行われたクリスプレート(T8F)で、レスター・ピゴット騎手を鞍上にデビュー。23頭立ての1番人気に支持されると、1分39秒7のコースレコードを計時して2馬身半差で勝ち上がった。

次走は5週間後にドンカスター競馬場で行われたウィリアムヒルフューチュリティS(英GⅠ・T8F)となった。ここでは、仏グランクリテリウム・コヴェントリーSの勝ち馬で翌年の仏2000ギニーを勝利するレシテイション、ロイヤルロッジSの勝ち馬ロベリーノの2頭が人気を集めており、本馬は7頭立て3番人気の評価だった。スタートが切られるとシアーグリットという馬が逃げを打ち、本馬は3番手を追走した。そのままの位置取りで直線に入ると残り2ハロン地点で仕掛けたが、2番手から先に抜け出していた単勝オッズ15倍の伏兵ベルデイルフラッターが勝利を収め、本馬は追撃及ばずに2馬身半差の2着に敗れた。このレースにおける本馬の調子はあまり良くなく、その理由はキャリア2戦という経験の浅さだったとされている。

2歳時の成績は2戦1勝で、国際クラシフィケーションの評価は116ポンド(同世代トップのストームバードより12ポンド下で、2歳馬全体では15位)というものだった。

競走生活(3歳初期)

3歳時は英2000ギニーには目もくれず、ひたすら英ダービーを目指した。まずは4月のサンダウンクラシックトライアルS(英GⅢ・T10F)に出走。このレースから主戦を務めることになる当時19歳のウォルター・スウィンバーン騎手を鞍上に、単勝オッズ2倍の1番人気に支持された。レースではウィリアムヒルフューチュリティSと同じく逃げ馬を見るように3番手を追走。そして2番手で直線に入ると、馬なりのまま残り3ハロン地点で先頭に立った。そして残り2ハロン地点でスウィンバーン騎手が追い始めると、瞬く間に後続馬を突き放し、チェシャムSの勝ち馬で後にイタリア大賞を勝つカートリングを10馬身差の2着に下して大圧勝した。

その10日後にはチェスターヴァーズ(英GⅢ・T12F65Y)に出走。ここでは単勝オッズ1.36倍という断然の1番人気に支持された。そして2着サンリービルズに12馬身差をつけるという、2戦連続の大圧勝劇を披露した。

英ダービー

それから1か月後に迎えた本番の英ダービー(英GⅠ・T12F)では、前走ダンテSで敗れるまではホーリスヒルSなど6連勝していたカラグロウ、伊グランクリテリウム・伊ダービーを勝ってきたグリントオブゴールド、仏国の名伯楽として名を馳せることになるアンドレ・ファーブル師が送り込んできたフォルス賞の勝ち馬アルナスル、リングフィールドダービートライアルSの勝ち馬リベレット、ウィリアムヒルフューチュリティSで本馬から2馬身差の3着だったリングフィールドダービートライアルS2着馬シアーグリット、クレイヴンSの勝ち馬カインドオブハッシュ、ブルーリバンドトライアルSで2着してきたロベリーノ、ダンテSで2着だったショットガン、同3着だったシンティレーティングエアー、英シャンペンS3着馬チャーチパレード、サンダウンクラシックトライアルSで3着だったキングズジェネラル、サンリービルズなどが対戦相手となった。

本当はもう1頭、有力な対戦相手が出てくるはずだった。それは前年のウィリアムヒルフューチュリティSで本馬を破ったベルデイルフラッターで、前哨戦のダンテSを勝っており、本馬に対抗しうる唯一の馬とみなされていた。しかしベルデイルフラッターは本番前週の調教中に放馬して、前年のジュライC・スプリントC・アベイドロンシャン賞・フォレ賞を勝っていた当時の欧州短距離王者ムーアスタイルと激突する事故を起こしていた。2頭とも不幸中の幸いで競走馬として再起不能になるような怪我ではなかった(ベルデイルフラッターは後に同年のベンソン&ヘッジズ金杯を勝ち、ムーアスタイルは後に同年のフォレ賞やモーリスドギース賞などを勝っている)が、膝と肋骨を負傷したベルデイルフラッターは英ダービーの回避を余儀なくされていた。

そんなわけで、この年の英ダービーは本馬に人気が集中する事になり、単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持された。これは、1968年のサーアイヴァー(単勝オッズ1.8倍)以降では最小であり、1970年のニジンスキー(単勝オッズ2.375倍)や1971年のミルリーフ(単勝オッズ4.33倍)を超える前評判の高さだった。

スタートが切られるとリベレットが先手を奪い、シルヴァーシーズンがそれに並ぶような形の2番手、本馬が前2頭を見るように3番手につけた。そしてそのままの位置取りでレースは進み、タッテナムコーナーを回るところでリベレット鞍上のパット・エデリー騎手とシルヴァーシーズン鞍上のE・ジョンソン騎手の手が激しく動き始めた。しかし本馬鞍上のスウィンバーン騎手の手は殆ど動いていなかった。そしてその状態で直線に入るとすぐに前2頭を外からかわしていった。先頭に立ったところで、ようやくスウィンバーン騎手が追い始めると、英ダービー史上に残る本馬の独走劇が始まった。映像では直線半ばから本馬しか映し出されていないために後続馬の様子はさっぱり分からないが、本馬との差は開く一方だったと思われる。ゴール前で一瞬だけ後方を振り向いたスウィンバーン騎手は、本馬を減速させながらゴールインした。それでも、2着グリントオブゴールドとの着差は、2015年現在でも英ダービー史上最大である10馬身差となった(本馬以外の出走馬17頭のうち、本馬から20馬身差以内でゴールしたのは5頭のみ)。

グリントオブゴールド鞍上のジョン・マティアス騎手は直線で自分が先頭に立ったと勘違いして、夢だった英ダービーを制覇したと喜びながらゴールインしたが、それからしばらくして「地平線の彼方に別の馬がいた」のを見つけてしまったそうである。これだけの差がつくと他の出走馬が弱かったのではと思われがちだが、グリントオブゴールドはこの後にパリ大賞・オイロパ賞・サンクルー大賞・バーデン大賞のGⅠ競走4勝を含む11戦6勝2着4回3着1回の好成績を残し、13着に敗れたカラグロウは翌年のエクリプスS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを優勝、17着に敗れたアルナスルは後にイスパーン賞を勝利と、本馬にまるで敵わなかったにも関わらずその後活躍した馬もおり、他馬が弱かったというわけでもないようである。対抗馬とみなされながらも事故で回避していたベルデイルフラッターを管理していたマイケル・ジャーヴィス調教師は「ベルデイルフラッターが無事に出走してもシャーガーには敵わなかったでしょう。しかしあの馬の2着になれるのなら、それはそれで素晴らしい事だったのですが」と賞賛の声を送った。

競走生活(3歳後半)

その後の本馬の目標は愛ダービーとなったが、英ダービーの12日後に事件が起こった。午前中の調教において放馬した本馬はそのまま馬場の外側に逃走してしまったのである。そのまま走り続けてどこかに衝突でもしたら大変な事態になるところだったが、幸いにも最寄りのヘンリー・セシル厩舎にいた車の運転手によって捕獲され、怪我一つ負わなかった。

そして迎えた次走の愛ダービー(愛GⅠ・T12F)では、騎乗停止中のスウィンバーン騎手に代わってピゴット騎手とコンビを組んだ。ホワイトローズSの勝ち馬カットアバヴ、テトラークSの勝ち馬ダンスビッドなど11頭が対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ1.33倍という断然の1番人気に支持された。レースでは逃げ馬を見るように内埒沿いを先行。そして三角手前で外に持ち出すと直線入り口では先頭に立ち、後はお得意の独走劇。前走のスウィンバーン騎手と同じくピゴット騎手も後方を振り返って差を確認し、最後は減速させる余裕ぶりで、2着カットアバヴに4馬身差をつけて完勝。1979年のトロイ以来2年ぶり史上8頭目となる英ダービー・愛ダービーのダブル制覇を成し遂げた。BBCテレビの実況担当者ピーター・オサリバン氏が「まるで調教において馬なりに走っているかのようでした」と評したほどの強さであり、愛国産だった本馬は地元愛国の国民的英雄になった。

それからしばらくしてアガ・カーンⅣ世殿下は、3歳限りで本馬は競走馬を引退して生まれ故郷のバリメニースタッドで種牡馬入りする予定であると発表し、本馬の種牡馬シンジケートを結成した。その内容は、欧州で種牡馬入りする馬としては当時史上最高額となる、25万愛ポンド×40株の1000万愛ポンド(当時の為替レートで約43億円)だった。そのうち6株をアガ・カーンⅣ世殿下が所持して、残り34株は、ドバイのシェイク・モハメド殿下、第19代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿、愛国クールモアスタッドの経営者ジョン・マグナー氏、本馬の担当獣医スタン・コスグローヴ氏などが所有した。

1か月後のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ・T12F)では、ベンソン&ヘッジズ金杯・コロネーションC・エクリプスS・ジョッキークラブSの勝ち馬で前年の英ダービー・英チャンピオンS2着のマスターウィリー、プリンセスオブウェールズSを勝ってきた前年の英セントレジャー・キングエドワードⅦ世Sの勝ち馬ライトキャヴァリー、この年のジョンポーターS・オーモンドS・ハードウィックSを勝ってきた後のバーデン大賞勝ち馬ペルラン、同年の仏オークス馬で英オークス2着のマダムゲイ、カンバーランドロッジSの勝ち馬でエクリプスS3着のフィンガルズケイヴなどとの対戦となった。鞍上にスウィンバーン騎手が戻ってきた本馬が単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持された。レースでは、逃げるライトキャヴァリーを見るように先行。直線では先に仕掛けたマダムゲイに進路を塞がれてなかなか抜け出せなかったが、残り2ハロン地点で内側から抜け出すと、最後は2着マダムゲイに4馬身差をつけて完勝し、1979年のトロイ以来2年ぶり史上5頭目の“High Summer Treble”を達成した。

次の目標は当然、秋の凱旋門賞となったが、陣営は本馬を凱旋門賞の前に英セントレジャーに出走させると発表し、世間を驚かせた。英セントレジャーは英国最古のクラシック競走であるが、欧州において長距離競走の格が下がっていた事や、11年前に英セントレジャーを勝って英国三冠馬に輝いたニジンスキーが次走の凱旋門賞で敗戦した原因の1つとして英セントレジャー出走が挙げられた事などもあって、同レースの権威は既に大幅に失墜していたのである。しかし本馬は実際に英セントレジャー(英GⅠ・T14F127Y)に出走した。

単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された本馬だったが、スタートで出遅れて後方からの競馬となってしまい、道中は後方2番手を追走。そして三角手前で上がっていき、3番手で直線を向いた。そして直線半ばまでは前の馬を射程内に捉えた位置取りで走っていたが、残り3ハロン地点で他馬が仕掛けると、ついていけずに置き去りにされてしまった。最後は愛ダービー2着馬カットアバヴが、英ダービー2着馬グリントオブゴールドを2着に抑えて勝利。かつて歯牙にもかけなかった馬達に屈した本馬は、カットアバヴから11馬身半差をつけられた4着と完敗してしまった。敗因については、既に競走馬としてのピークを過ぎていた、距離が長かったなど色々と言われているようだが、出遅れて後方追走から、ドンカスター競馬場の5ハロンにも及ぶ長い直線に入る前の最終コーナーでスパートするという、負けて当然のレースぶりだったというのが映像を見た筆者の感想である。

そして凱旋門賞に出ることはなく、このレースを最後に3歳時6戦5勝の成績で競走馬を引退した。国際クラシフィケーションの評価は、同世代2位だったビカラ(仏ダービーを勝ち、凱旋門賞でゴールドリヴァーの2着)より9ポンドも高い140ポンドで、これは1977年に国際クラシフィケーションが創設されて以降では、1978年のアレッジドと並ぶ最高評価(3歳馬では単独首位)となった(ただし2013年にワールド・サラブレッド・レースホース・ランキングが実施した過去のレーティング見直しにより、現在は136ポンドになっている)。

引退直後に愛国に凱旋した本馬は、大通りでパレードを行い、大勢のファンから熱烈な歓迎を受けた。

血統

Great Nephew Honeyway Fairway Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
Honey Buzzard Papyrus Tracery
Miss Matty
Lady Peregrine White Eagle
Lisma
Sybil's Niece Admiral's Walk Hyperion Gainsborough
Selene
Tabaris Roi Herode
Tip-Toe
Sybil's Sister Nearco Pharos
Nogara
Sister Sarah Abbots Trace
Sarita
Sharmeen Val de Loir Vieux Manoir Brantome Blandford
Vitamine
Vieille Maison Finglas
Vieille Canaille
Vali Sunny Boy Jock
Fille de Soleil
Her Slipper Tetratema
Carpet Slipper
Nasreen Charlottesville Prince Chevalier Prince Rose
Chevalerie
Noorani Nearco
Empire Glory
Ginetta Tulyar Tehran
Neocracy
Diableretta Dante
Dodoma

父グレートネフューはグランディの項を参照。

母シャーミーンは現役成績8戦1勝。その産駒には、本馬の半弟シェルナザール(父バステッド)【ジェフリーフリアS(英GⅡ)・セプテンバーS(英GⅢ)】、半妹シャラマナ(父ダルシャーン)【ミネルヴ賞(仏GⅢ)】がいる。シャーミーンの牝系子孫は現在も発展しており、本馬の半妹シャパーラ(父ラインゴールド)の孫にシャナウィ【サンルイオビスポH(米GⅡ)】、ゴールデンネピ【伊1000ギニー(伊GⅡ)】、曾孫にブラジリアンパルス【クラウンオークス(豪GⅠ)】が、本馬の全妹シャルザナの子にシャマラン【ガリニュールS(愛GⅡ)・ロイヤルホイップS(愛GⅢ)】、孫にチョックアイス【EPテイラーS(加GⅠ)】、ロイヤルオース【キングエドワードBCS(加GⅡ)】が、本馬の半妹シャマルザナ(父ダルシャーン)の子にシャマダラ【マルレ賞(仏GⅡ)】、孫にシャムダラ【ミラノ大賞(伊GⅠ)・ショードネイ賞(仏GⅡ)・ヴィコンテスヴィジェ賞(仏GⅡ)】、曾孫にシャムディナン【セクレタリアトS(米GⅠ)】が、シャラマナの子にジャイアントサンドマン【ゴールデネパイチェ(独GⅡ)】、孫にシャラナヤ【オペラ賞(仏GⅠ)】、シャンカーデー【ショードネイ賞(仏GⅡ)】がいるなど、世界各国で活躍馬が登場している。

シャーミーンの祖母ジネッタは仏1000ギニー・ムーランドロンシャン賞などを勝った名牝。ジネッタの曾祖母ムムタズビガムは大種牡馬ナスルーラの母であり、言わずと知れた世界的名牝系の祖ムムタズマハルの娘である。→牝系:F9号族③

母父ヴァルドロワールは仏ダービー・ドーヴィル大賞・ノアイユ賞・オカール賞勝ちなど21戦7勝。種牡馬としても優秀で、1973年から3年連続で仏首位種牡馬となった。ヴァルドロワールの父ヴューマノワールはブラントーム直子で、現役時代は5戦3勝、パリ大賞を勝ち、英セントレジャーで2着して仏最優秀3歳牡馬に選出された。種牡馬としても1959年に仏首位種牡馬になっている。

競走馬引退後:誘拐されたまま行方不明となる

競走馬を引退した本馬は、1982年から愛国バリメニースタッドで、8万ポンドの種付け料で種牡馬生活を開始した。初年度に集まった繁殖牝馬は35頭だったが、翌年には55頭ほどの繁殖牝馬が集まる予定だった。

しかし2度目の繁殖シーズンに入る1週間前の1983年2月8日の夜、愛国中を揺るがす大事件が勃発したのである。

この夜は月が出ていなかった上に霧が立ち込めて視界が悪かった。午後8時半頃、馬運車がバリメニースタッドに入ってきた。妻や6人の子どもと一緒に牧場内に住んでいた主任厩務員ジェームズ・フィッツジェラルド氏は、車の音には気付いたが、特に気にも留めなかった。

8時40分頃、フィッツジェラルド氏の家の扉をノックする者がいた。フィッツジェラルド氏の息子バーナード氏が出てみると、そこには覆面を被った怪しい男が立っていた。男は「彼は中にいますか?」と尋ねた。バーナード氏が父親を呼ぼうとして振り返った瞬間、彼は後ろから殴られて床に倒れた。物音を聞いて飛び出してきたフィッツジェラルド氏が見たものは、自分に向けられている銃口だった。3人の賊が家に侵入してくると、フィッツジェラルド氏一家を銃で脅して台所に押し込めた。

賊は「シャーガーを誘拐するために来た。200万ポンドの身代金を要求する」と語った。フィッツジェラルド氏の回想によると、賊は静かに組織的に行動していたという。賊のうち2人はフィッツジェラルド氏の家族を見張るために室内に残り、1人がフィッツジェラルド氏を家の外に連れ出し、本馬が繋養されている馬屋に案内させた。そして賊はフィッツジェラルド氏に手伝わせて、牧場に持ってきた場運車に本馬を乗せた。フィッツジェラルド氏によると、家に侵入してきた者以外にも賊がおり、家に残った賊も含めて7~9人ほどだったという。

やがて賊は本馬を乗せた車と、フィッツジェラルド氏を押し込めた別の車に分乗して、牧場から逃走した。3時間ほど経ったところで、賊はフィッツジェラルド氏に、今後の交渉で使用するための合言葉“King Neptune(キング・ネプチューン)”を教えると、警察に通報しないように念を押して車の外に放り出し、そのまま本馬を連れて夜の闇に消えていった。

解放されたフィッツジェラルド氏は、最寄りの村まで歩くと、バリメニースタッドの経営者ジスラン・ドリオン氏に電話を掛けて事情を説明した。ドリオン氏は、今度は本馬の担当獣医でシンジケートの一員でもあったコスグローヴ氏に架電した。コスグローヴ氏は競馬仲間だったショーン・ベリー氏に架電した。ベリー氏は愛国の財務大臣アラン・デュークス氏に架電した。そしてデュークス氏が愛国の法務大臣マイケル・ノーマン氏に架電した。誰もが余程慌てていたようで、ようやく連絡を受けた警察がバリメニースタッドに駆けつけてきたのは、事件発生から8時間が経ってからだった(フィッツジェラルド氏の家族は無事だった)。

通報の遅れが響いて初動で出遅れた警察の捜査は難航した。事件翌日は、ゴフ社が実施する愛国内最大級の馬のセリの日であり、事件当夜は愛国中を馬運車が走り回っていたため、賊が乗った馬運車を特定する事は出来なかった(それを狙って賊はこの日に決行したと考えられている)。愛国中は大騒ぎとなり、マスコミが超能力者、心理学者、占い師などに本馬の行方を尋ねたり、誘拐犯と称する人間がテレビ局に交渉を持ちかけてきたりした。

その一方で、本当の誘拐犯は、パリにいたアガ・カーンⅣ世殿下に連絡を入れて身代金を要求してきていた。誘拐犯は、アガ・カーンⅣ世殿下が本馬の所有権の一部しか既に持っていないことを知らなかったようで、シンジケート加入者が複数いるために即答できないと聞かされると、ひとまず本馬がまだ生きている証拠の提出には応じると回答した。証拠の受け取りのためにコスグローヴ氏がシンジケート代表として選ばれ、受け取り場所としてダブリンにあるクロフトンホテルが指定された。しかしコスグローヴ氏の身が危険であると感じたアガ・カーンⅣ世殿下はそれを拒否した。一応、本馬の顔を撮った写真が後日警察に送られてきた(コスグローヴ氏が結局クロフトンホテルに取りに行ったとも言われる)が、シンジケート側は納得しなかった。

元々シンジケート側は、誘拐犯の言いなりになって身代金を払ってしまうと、世界中の馬が今後誘拐の対象になってしまう事になるため、交渉には応じるが身代金を払う意思はまったく無かったという。事件勃発から4日後の連絡を最後に誘拐犯からの要求は途絶え、その後は何の連絡も無かった。警察の捜査も進展しなかったため、誘拐犯を特定することは出来ず、連れ去られた本馬が戻ってくることも無かった。

事件勃発時におけるバリメニースタッドの警備体制は、当番警備員は不在、防犯カメラは不完全と、非常にお粗末なものだった。歴史的には馬の誘拐事件は時々起きている。ハンガリーの至宝キンチェムや、豪州の歴史的名馬ザバーブにも、幼少期に誘拐されたという話があるが、これらはいずれも伝説めいているから信憑性は不明である。確実に起こった事件で有名なものは、1975年に同年の伊オークスを勝ったカルナバが誘拐された事件がある。カルナバはミラノの食肉業者のところに居るところを無事に発見され、カルナバの所有者だったネルソン・バンカー・ハント氏はすぐにカルナバを米国ケンタッキー州に送って繁殖入りさせた。それから2年後の1977年6月には、ケンタッキー州クレイボーンファームに繋養されていた繁殖牝馬ファンフルルーシュ(3歳時に加年度代表馬に選ばれた名牝で、後に加国競馬の殿堂入りも果たしている)が誘拐される事件も起きている。ファンフルルーシュはしばらく消息不明となったが、5か月後にテネシー州との境にある牧場にいるところを無事に発見されている。国道をふらふらと歩いていたファンフルルーシュを同牧場の人が保護していたらしく、ファンフルルーシュのお腹にいた子も無事だった。2014年には凱旋門賞を2連覇したトレヴの半兄である種牡馬トレヴィミクスが誘拐されたという事件が報じられたが、これはトレヴィミクスを繋養していた牧場の経営者夫婦が喧嘩をして、妻がトレヴィミクスを連れて家出をしただけだった。

細かく調べれば他にも複数の事例があるはずだが、これは世界中で年間10万頭以上は生産されているサラブレッドの総数からすればごく一握りに過ぎない。バリメニースタッドの関係者が、まさか自分の身に降りかかるとは思ってもみなかったとしても無理もないだろう。本馬が身代金目的の誘拐の対象に成り得るほどの名馬だった事が、不運の始まりでもあったのである。この事件を受けて、世界各国の牧場警備体制が強化されるようになったのは言うまでも無いだろう。

この誘拐事件の容疑者は複数挙げられている。最も疑わしいとされているのは、IRA(アイルランド共和軍暫定派。北アイルランドを英国から分離させてアイルランドを統一する事を目指す対英テロ組織)であり、その動機は武器調達資金の確保だったとされている。シンジケート側もIRAを非難する声明を出しているため、IRA犯行説が最も有力視されており、現在ではほぼ定説となっているようだが、IRAの上層部は犯行を認めておらず、本馬の誘拐犯は公式には確定されていない。

なお、元IRAメンバーだったショーン・オキャラハン氏の証言によると、誘拐された本馬は馬運車内で大暴れして脚を負傷したため、扱いに困った賊によって射殺され、遺体はリートリム州バリーナモア近郊の山中に埋められたとされる。これも現在ではほぼ定説となっているが、その物的証拠は見つかっていない。

他の有力容疑者として挙げられているのは、リビアの独裁者だったカダフィ大佐である。彼はイスラム世界全体の指導者としての地位を得るために、同じイスラム教の指導者だったアガ・カーンⅣ世殿下のステータスの一つだった本馬を強奪しようとしたのが動機だという。カダフィ大佐が黒幕であり、IRAは単なる実行犯に過ぎないとする説もある。もっとも、カダフィ大佐が2011年のリビア内戦で殺害された今となっては、証明不能である。

なお、本馬には多額の保険が掛けられており、一部には保険金目当てでシンジケート加入者の誰かが仕組んだのではという意見もあった。もっとも、アビバ保険やロイズオブロンドンを除く大多数の保険会社は、本馬が生きている可能性があると主張して保険金の支払いを拒否しているし、保険金を支払ったロイズオブロンドンも、もし本馬が生きていた場合には全額を返してもらうとしている(本馬の生存が確認されていない以上、返還はされていないと思われる)。他にも米国マフィア犯行説などもあるが、どれも決定的証拠は存在せず、誘拐犯の正体は現在も不明のままである。

1999年に英国グッドウッド競馬場において、本馬の名を冠した騎手招待競走シャーガーカップが創設された。現在はアスコット競馬場で開催され、欧州を始めとして世界各地から有名騎手が招待される大イベントとして認知されている。また、1999年にはこの誘拐事件を題材とした映画がハリウッドで製作された。この映画「シャーガー」では本馬は無事に生還する設定になっているが、実際には世紀の英ダービー馬シャーガーは、闇の中に遥として消えてしまったままである。

なお、英国の新聞がこの事件を題材にした嘘の記事を掲載するなど、本馬の誘拐事件は海外マスコミの好餌となっている。外国ではエイプリルフールという風習があり、悪趣味な冗談もある程度は許容される文化であるらしいが、筆者はとても許容できない。主戦を務めたスウィンバーン騎手や、本馬を目の前で誘拐されたフィッツジェラルド氏、担当獣医のコスグローヴ氏なども、これらマスコミの低次元な記事のせいでとても苦しんだという。こうしたマスコミの低級記事をここに掲載する事は、本馬だけでなく、この名馬列伝集をも汚すことになるため、一切無視させていただく。

本馬の産駒唯一のGⅠ競走勝ち馬アウザールは引退後に日本に種牡馬として輸入され、中日スポーツ賞四歳Sを制したイブキラジョウモンを出したが、他に活躍馬を出せずに2001年に種牡馬を引退、本馬の直系は途絶えてしまった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1983

Authaal

愛セントレジャー(愛GⅠ)・クイーンエリザベスS(豪GⅠ)・VATCアンダーウッドS(豪GⅠ)

1983

Maysoon

フレッドダーリンS(英GⅢ)

1983

Tashtiya

プリンセスロイヤルS(英GⅢ)

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