ミルリーフ

和名:ミルリーフ

英名:Mill Reef

1968年生

鹿毛

父:ネヴァーベンド

母:ミランミル

母父:プリンスキロ

英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・凱旋門賞の3競走を史上初めて全て制覇した欧州競馬の誇る至高の名馬

競走成績:2~4歳時に英仏で走り通算成績14戦12勝2着2回

英国と仏国を股に掛けて走り、史上初めて英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・凱旋門賞の3競走を制するなど超一流の競走成績を残しただけでなく、種牡馬としても超一流の成績を残した至高の名馬。

誕生からデビュー前まで

米国ヴァージニア州のロークビーステーブルズにおいて、同牧場の所有者だった米国の大富豪ポール・メロン氏により生産・所有された。メロン氏は1907年に米国ペンシルヴァニア州ピッツバーグで生まれた。1980年代には世界最大の資産運用会社まで成長していたメロン・ファイナンシャル社の前身メロン銀行の創業者トーマス・メロン氏を祖父に、米国財務省長官などを務めたアンドリュー・メロン氏(日本で最も有名な米国の富豪アンドリュー・カーネギー氏とは友人で、一緒にカーネギーメロン大学を創設している)を父に持つメロン氏は、祖父が遺した莫大な遺産の相続人の1人だったため、労さずして数十億ドルを有する大富豪になった。

メロン財閥の経営にも携わったが、彼の興味はビジネスではなく、美術品収集や慈善事業など他の方向に向いていた。競馬に興味を抱いたのは本人曰く「幼少期から馬が好きだったから」だそうで、彼がケンブリッジ大学に留学した2年後の1933年に最初の競走馬を購入している。そして第二次世界大戦に従軍して復員した後の1940年代後半に、ヴァージニア州にロークビーステーブルズを開設して馬産を開始した。

なお、原田俊治氏の「新・世界の名馬」には、1931年にロークビーステーブルズを開設したのはメロン氏の母親で、メロン氏が1935年に結婚したのを機に彼が引き継いだのだと書かれているから、少し補足説明が必要だろう。メロン氏の父アンドリュー氏と母ノーラ・メアリー・マクマレン夫人(「新・世界の名馬」にも少し書かれている通り英国の大手ビール会社の大株主の娘である。原田氏は日本中央競馬会の職員と言う立場のためかこのビール会社の具体名を記載することを避けているが、特に何のしがらみも無い筆者がここにずばり会社名を書いてしまうとギネスビールである)は1900年に結婚したが、当時アンドリュー氏は45歳で、ノーラ夫人は20歳という年の差婚だった。そして若いノーラ夫人は浮気に走ったらしく、それを理由に1912年、メロン氏が5歳のときに両親は離婚。ノーラ夫人は1923年に14歳年下の英国人骨董家と再婚したが、2年後に再び離婚。その一方でアンドリュー氏は1937年に没するまで生涯再婚しなかった。ノーラ夫人は2度目の離婚後に息子メロン氏の要望によって再びメロン姓を名乗ったが、アンドリュー氏と再婚したわけではないし、基本的に英国に住んでいた。よって、ロークビーステーブルズを開設したのがノーラ夫人だとしても、それは自分のためではなく愛息メロン氏(彼には姉はいたが男兄弟はいなかった)のためであると思われる。

1937年に父が死去するまでメロン氏はロークビーステーブルズで本格的な馬産を行わず、しかもそれからしばらくして第二次世界大戦に従軍したから、結局メロン氏が本格的な馬産に着手したのは大戦終了後であり、ロークビーステーブルズの開設が一般的に1940年代後半とされているのはそれ故だと思われる。

本馬の馬名は西インド諸島アンティグア・バーブーダにあった小島の海岸の名前である。1947年にメロン氏がこの海岸にある小島にミルリーフ会館という別荘を建てて所有していた事に由来する。

本馬は成長しても体高15.2ハンドにしかならなかった小柄な馬だったが、非常に美しく均整が取れた馬体の持ち主だった。気性は温和で親切だったが、走る段階になると闘争心をむき出しにしたという。

メロン氏はアーツアンドレターズフォートマーシーに代表されるように所有馬を米国で走らせることが多かったが、本馬に関しては、脚の繋ぎの長さや走り方などから、パワーを要する米国のダート競馬よりも欧州の芝競馬の方に適性ありと判断して、欧州で走らせる事にした。そして本馬は1歳12月に英国ハンプシャー州キングスクレアに厩舎を構えていたイアン・ボールディング調教師の管理馬となった。

キングスクレア厩舎はかつて英国競馬史上に残る名伯楽ジョン・ポーター調教師が、オーモンドアイソノミーコモンオームラフレッチェフライングフォックスウィリアムザサードなどを育成した英国伝統の名門厩舎ではあるが、ボールディング師自身は、本馬を預かる前月に31歳になった若手調教師だった。

こんな若くて実績も無い調教師にメロン氏が本馬を委ねた経緯については、以下のような話が存在する。メロン氏はかつて1935年に新婚旅行のために米国から英国に来た際に、他者から勧められてキングスクレア厩舎を訪れた事があった。そこでメロン氏は英国競馬史上に名を残す名長距離馬ブラウンジャックを手掛けたオーブリー・ヘイスティングス調教師の未亡人や、ヘイスティングス師の死後にブラウンジャックの管理を受け継いだアイヴォー・アンソニー調教師と知り合いになった。アンソニー師は、ポーター師が1905年に調教師を引退した後に何人かの手を経てきたキングスクレア厩舎を引き継いだ人物でもあった。ヘイスティングス未亡人やアンソニー師達からブラウンジャックにまつわる話を聞くなどして、キングスクレア厩舎の事を気に入ったメロン氏は、いつかは自分の所有馬をここに預けてみたいと思ったようである。キングスクレア厩舎はその後の1950年代になってから、ヘイスティングス夫妻の息子ピーター・ヘイスティングス調教師が引き継いだが、1964年にピーター師は44歳で早世してしまった。その後にキングスクレア厩舎を引き継いだのが、ピーター師の調教助手で、ピーター師の娘エマ・ヘイスティングス夫人の夫でもあったボールディング師だったのである。

さて、キングスクレア厩舎に来た本馬は即座に頭角を現した。本馬が入厩して1か月も経たない時期にキングスクレア厩舎を訪ねてきた元アマチュア騎手で当時は競馬ジャーナリストをしていたジョン・オークシー卿(負傷騎手基金を創設するなどして英国競馬界で最も尊敬される人物の1人だった)は本馬の走りを見て驚き、ボールディング師に“Who's that?(あれは何という馬ですか?)”と尋ねたところ、ボールディング師は“That is Mill Reef!(あれはミルリーフです!)”と自慢そうに応じた。主戦はジェフ・ルイス騎手で、本馬の全レースに騎乗した。

競走生活(2歳時)

2歳5月にソールズベリー競馬場で行われたソールズベリーS(T5F)でデビューした。このレースには、ファイアサイドチャットという評判馬も出走していた。この2週間後に米国でマザーグースSを勝つオフィスクイーン(この年の米最優秀3歳牝馬に選出)の1歳年下の全弟であるファイアサイドチャットは既に勝ち上がっていた上に、騎乗するのが名手レスター・ピゴット騎手ということもあって、単勝オッズ1.22倍という圧倒的な1番人気に支持されていた。本馬は単勝オッズ9倍で2番人気の評価だったが、後にセーネワーズ賞やゴールデネパイチェを勝つファイアサイドチャットを4馬身差の2着に切り捨てて逃げ切り圧勝した。なお、本馬はレースでは常に白のシャドーロールを着けており、それがトレードマークだった。

翌6月にはアスコット競馬場でコヴェントリーS(T6F)に出走。ここでは単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された。そして馬なりのまま走り、2着クロムウェルに8馬身差(6馬身差とする資料もあるが、8馬身差とする資料のほうが多い)、3着トゥエルフスナイトにはさらに5馬身差をつけて圧勝した。勝ちタイム1分16秒16は、当時のコースレコードにコンマ数秒及ばないだけという素晴らしいものだった。

その後は渡仏して、7月にメゾンラフィット競馬場で行われたロベールパパン賞(T1100m)に出走した。このレースには英国でゼトランドS・ウッドコートSと連勝し、仏国でも既にボワ賞を勝っていたマイスワローの姿もあり、仏国の主要2歳競走なのに英国調教馬の2強対決となった。しかし本馬は英国から仏国に向かう途中の飛行機内で体調を崩してしまい、食欲が低下して本調子ではない中での出走となった。レースでは先行したマイスワローと、馬群に包まれながらも抜け出してきた本馬が“magnificent duel(壮大な決闘)”と評されたほどの壮絶な激戦を展開したが、マイスワローが短頭差で勝利を収め、本馬は2着に敗れた(3着馬アヴァントには4馬身差をつけていた)。

マイスワローはそのまま仏国に留まって主要2歳競走に出走を続けたが、本馬は英国に戻り、8月にヨーク競馬場で行われたジムクラックS(T6F)に向かい、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。ところがレース前夜に豪雨が降り、馬場状態は極悪不良馬場になった。そのためにボールディング師は、本馬の走る姿を初めて見に来ていたメロン氏に出走回避を進言したが、メロン氏が「走らせましょう。私は大丈夫だと思います」と応じたために、結局出走する事になった。対戦相手は手強く、リッチモンドS2着馬グリーンゴッドや、後の愛ナショナルS・愛2000ギニーの勝ち馬キングスカンパニーなどの姿があった。

しかしメロン氏の予想どおり、本馬は重馬場をまるで苦にしなかった。それどころかこのレースで本馬は圧倒的な走りを見せた。スタートしてしばらくは2番手集団の好位につけていたが、残り3ハロン地点でまったくの馬なりのまま先頭に立った。そしてルイス騎手が追い始めると、一気に他馬との差が開いた。後方を振り返って状況を確認したルイス騎手は鞭を使う必要も無く、手だけで本馬を追い続けたが、それでも後続との差は開く一方だった。ゴール前では完全に馬なりのまま走ったにも関わらず、2着グリーンゴッドに10馬身差をつけて圧勝した。このレースで本馬とグリーンゴッドの2頭に与えられたレーティングの差は実に33ポンドに達し、これは英国の主要2歳競走としては史上空前の大差だった。負けたグリーンゴッドは後に短距離路線に向かい、スプリントCを勝ち、ナンソープSで2着(正確には1位入線したが進路妨害で降着となっている)する活躍を見せることになる。

翌9月にはケンプトンパーク競馬場でインペリアルプロデュースS(T6F)に出走して、単勝オッズ1.22倍の1番人気に支持された。しかし事前調教が不十分だったらしく、当日の本馬は明らかに準備不足だったと評されている。レースではチェリーヒントンSを8馬身差で圧勝していた牝馬ヘクラが先頭を快走し、残り1ハロン地点で本馬の敗北は決定的と思われた。しかしルイス騎手が必死に追うと鋭く伸び、ヘクラを差し切って1馬身差で勝利した。

そして10月のデューハーストS(T7F)に向かい、単勝オッズ1.57倍の1番人気に支持された。準備万全で迎えたこのレースでは、今までの中団待機策ではなく、逃げ馬を見るように走る先行策に転換。そして残り2ハロン地点で悠々と抜け出し、2着ウェンセスラスに4馬身差、3着となったラークスパーSの勝ち馬ロンバードにはさらに半馬身差をつけて楽勝。余談だが、後にブランドフォードS・セレクトSを勝ち愛セントレジャーで2着したウェンセスラスと、後に愛ダービーで2着したロンバードは、2頭とも競走馬引退後に日本で種牡馬入りしている。ウェンセスラスはあまり成功できなかったが、ロンバードは一定の成功を収めている。

一方の本馬は、2歳時を6戦5勝の成績で終えた。英タイムフォーム社のレーティングにおいては133ポンドの評価が与えられ、これはロベールパパン賞勝利後にモルニ賞・サラマンドル賞・仏グランクリテリウムも勝って2歳時の成績を7戦全勝としていたマイスワローの134ポンドよりは低かったが、それでもこの年の英国三冠馬に輝いたニジンスキーに対する前年の評価131ポンド(ニジンスキーの2歳時はデューハーストSなど5戦全勝だった)より高く、2歳馬としてはかなり高い部類の評価だった。なお、仏グランクリテリウムでマイスワローから半馬身差の2着に入った仏国調教馬ボナミも本馬と同じ133ポンドで、ミドルパークSなど4戦全勝の成績を残したブリガディアジェラードが132ポンドで第4位だった。また、英国の2歳馬フリーハンデではマイスワローが133ポンドの1位、本馬が132ポンドで2位、ブリガディアジェラードが131ポンドで3位だった(仏国調教馬のボナミは英国で走っていないので、英国の2歳馬フリーハンデでは対象外である)。

競走生活(3歳初期)

3歳時は4月のグリーナムS(英GⅢ・T7F)から始動した。英2000ギニーに向けての前哨戦ではあるが、ニューS・リッチモンドS・ジュライSを勝ちサラマンドル賞・ミドルパークSで3着していたスウィングイージー、英シャンペンSの勝ち馬ブリーダーズドリームなどが出走しており、それほどレベルが低いレースでは無かった。しかし結果は単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された本馬が馬なりのまま走り、2着ブリーダーズドリームに4馬身差、3着スウィングイージーにはさらに3馬身差をつけて圧勝した。ブリーダーズドリームはこの後に仏2000ギニーに向かって3着。また、スウィングイージーはこの後に短距離路線に向かい、キングズスタンドS・ナンソープS(グリーンゴッドの降着による繰り上がり)を勝ち、アベイドロンシャン賞で2着する活躍を見せることになる。

一方の本馬は続いて英2000ギニー(英GⅠ・T8F)に挑んだ。この年の英2000ギニーの出走馬は、ニジンスキーが勝利した前年の14頭立てから半分以下の6頭立てとなっていた。その理由は、本馬、マイスワロー、ブリガディアジェラードという2歳戦のトップホース3頭が揃って参戦を表明していた(こうした事例はあまり無かった)ため、回避した他馬陣営が続出したためと思われる。上記3頭以外の出走馬3頭のうち2頭は実績不足の馬だった(ホーリスヒルSの勝ち馬グッドボンドはいたけれども)が、残り1頭はニジンスキーの全弟で、レイルウェイS・ベレスフォードS・グラッドネスSを勝ってきたミンスキーであり、戦前から名勝負が期待されていた。マイスワローの主戦だったピゴット騎手がミンスキーに騎乗したためにマイスワローはフランキー・デュール騎手に乗り代わっており、それが影響したのか単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持されたのは本馬だった。単勝オッズ3倍の2番人気にマイスワロー、単勝オッズ6.5倍の3番人気にブリガディアジェラード、単勝オッズ8.5倍の4番人気にミンスキーと続いた。

スタートが切られるとマイスワローが先頭に立ち、本馬もマイスワローの出を伺いながら先行。ブリガディアジェラードは本馬の後方で機会を待っていた。本馬とマイスワローの枠順は離れていたために、2頭の馬体も最初は離れていたが、徐々に馬体が接近してきた。そして残り3ハロン地点で本馬が前方のマイスワローに並びかけて叩き合いを開始。すると本馬の後方を走っていたブリガディアジェラードも加速して本馬に並びかけてきた。そして一瞬だけこの3頭が横一線になったのだが、ここからブリガディアジェラードが瞬く間に他2頭を置き去りにして抜け出していった。本馬もマイスワローと叩き合いながら伸びたのだが、ブリガディアジェラードには届かなかった。最後はブリガディアジェラードが勝利を収め、本馬は3馬身差の2着、本馬から3/4馬身差の3着にマイスワローが入った。

このレースにおける本馬の敗因については、単にこの距離では本馬よりブリガディアジェラードのほうが上だったからだと筆者は思うのだが、それ以外にも色々言われている。そのうちの1つを紹介すると、レース前のパレードであった出来事が影響しているのだという。出走全馬が一列になって周回したのだが、この際にミンスキーが本馬を威嚇する仕草を見せたのだという。全兄ニジンスキーに似て大柄な馬体だったミンスキーに脅された本馬は萎縮してしまい、レースでも本来の走りを見せられなかったのだという。

競走生活(3歳中期)

本馬の次走は英ダービー(英GⅠ・T12F)となった。ブリガディアジェラードとマイスワローは距離適性を考慮していずれも回避していたが、オブザーヴァー金杯(現レーシングポストトロフィー)・チェスターヴァーズを勝ってきたリンデントリー、リングフィールドダービートライアルSを勝ってきたホメリック、サンダウンクラシックトライアルSを勝ってきたラパッチ、デューハーストSで本馬の3着だったロンバード、ソラリオSの勝ち馬アシンズウッド(後に英セントレジャー・グレートヴォルティジュールSを勝っている)、ホワイトローズSを勝ってきたジャガーノートといった面々に加えて、仏2000ギニー馬ズグ、オカール賞を勝って臨んできたブルボン(後にロワイヤルオーク賞を勝っている)、ギシュ賞・フォルス賞を勝ってきたミレニアム、ダリュー賞を勝ちリュパン賞で3着してきたアイリッシュボール(後に愛ダービーを勝っている)といった仏国調教馬も大挙して出走してきた。

本馬の父ネヴァーベンドは現役時代に9ハロンを越える距離では7戦全敗だったため、その息子である本馬に関してもスタミナ不足を指摘する意見が多かったが、それでも単勝オッズ4.33倍の1番人気に支持された。ボールディング師はこのレース前に本馬をどのように仕上げるべきか迷ったらしいが、前年の勝ち馬ニジンスキーを手掛けたヴィンセント・オブライエン調教師の方法を見習って、レース10日前に同じ12ハロンの距離を1回だけ走らせるだけという調教を施した。

さて、レースが始まるとリンデントリーが先頭に立ち、ロンバードが2番手、本馬は馬群の好位につけた。そのままの態勢でレースが進行し、本馬は4番手で直線に入ってきた。直線に入ってしばらくしたところでロンバードが先頭のリンデントリーに並びかけて叩き合いを開始した。さらに後方から本馬もやってきて、残り1ハロン半の地点では3頭が横一線となった。ロンバードはやがて失速し、リンデントリーが必死に粘っていたが、残り1ハロン地点で本馬が完全に前に出て勝負あり。2着リンデントリーに2馬身差、追い込んで3着に入ったアイリッシュボールにはさらに2馬身半差をつけて完勝を収めた。好位につけて直線で悠々と抜け出すというこの勝ち方はスタミナが不足している馬に出来るようなものではなく、これで距離不安説は完全に一掃された。

前年のニジンスキーは愛国調教馬だったために愛ダービーに向かったが、ボールディング師は本馬の次走として地元英国のエクリプスS(英GⅠ・T10F)を選択した。このレースは初の古馬混合戦となり、特にロッキンジS2回・クイーンアンS・クイーンエリザベスⅡ世Sを勝っていた現役英国古馬最強マイラーのウェルシュページェントと、仏国から参戦してきた仏2000ギニー・イスパーン賞・ガネー賞・アルクール賞の勝ち馬で前年の仏ダービーではササフラの3着だったカロの2頭は強敵と思われた。スタートが切られるとペースメーカー役のブライトビームという馬が先頭に立ち、ウェルシュページェントが2番手で、単勝オッズ2.25倍の1番人気だった本馬とカロはいずれも後方につけた。そのままの態勢で直線に入ると、残り2ハロン半の地点で本馬とカロの2頭が馬群から抜け出してきた。しばらくはカロも前を行く本馬に必死に食らいついていたが、残り1ハロン半辺りから2頭の差がどんどん開き始めた。最後は本馬が2着カロに4馬身差、3着ウェルシュページェントにはさらに2馬身半差をつけて、2分05秒4のコースレコードで完勝した。本馬とニジンスキーを比較する声が聞かれ出したのはこの時期からである。

続いてキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ・T12F)に出走。愛ダービーを2着ロンバードに3馬身差で完勝してきたアイリッシュボール、前年の英ダービーでニジンスキーの3着だったクリテリウムドサンクルー・リュパン賞・ギシュ賞・シャンティ賞の勝ち馬スティンティノ、伊ダービー・イタリア大賞・ハードウィックSに勝利して地元伊国ではリボー以来の名馬と言われていたオーティス、本馬と同じく米国ヴァージニア州産馬でネルソン・バンカー・ハント氏が欧州に送り出していたダリュー賞2着馬アクリマタイゼーションなどが対戦相手となった。しかしレースでは単勝オッズ1.62倍の1番人気に支持された本馬の独壇場。先行して3番手で直線に入ってくると残り2ハロン地点で逃げるオーティスをかわして先頭を奪取。そして残り1ハロン半地点からは「まるで発射台から打ち出されたミサイルのような」勢いで後続馬を突き放し、2着オーティスに当時同競走史上最大着差となる6馬身差をつけて圧勝した。オーティスも3着アクリマタイゼーションには3馬身差をつけていたのだが、本馬にはまるで歯が立たなかった。勝ちタイム2分32秒56は前年のニジンスキーの勝ちタイム2分36秒16より3秒6も速く、この時点で既にニジンスキーを超えたとの声も聞かれた。そのニジンスキーの主戦だったピゴット騎手でさえも、「ミルリーフは私が見てきた中で最も優れた馬です」と賞賛の声を送ってきた。

競走生活(3歳後期)

ボールディング師は本馬の次の目標として凱旋門賞を設定した。英国伝統のクラシック競走である英セントレジャーについては目標としても前哨戦としても選択肢に入らなかった。英2000ギニーを勝っていないから英国三冠馬の資格は無いこと、前年にニジンスキーが英セントレジャー出走後の凱旋門賞で敗北を喫したことなどが影響していたようである。ボールディング師は凱旋門賞に向けた前哨戦に本馬を出走させなかった。4月中旬のグリーナムSから7月下旬のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSまで3か月強の間に5戦を消化していた疲労を回復させる目的と、前年にロベールパパン賞出走のために渡仏した際の輸送時に体調を崩した苦い経験も影響していたようで、ボールディング師はニューベリー競馬場で軽い調教を施すと、本番2週間前には本馬をロンシャン競馬場に到着させていた。

そして迎えた凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)では、カロ、アイリッシュボール、オーティス、ロワイヤルオーク賞を勝ってきたブルボンといった既対戦組に加えて、サンタラリ賞・仏オークス・ヴェルメイユ賞・クロエ賞・ノネット賞を勝ちまくり仏国競馬史上最高の3歳牝馬という呼び声も高かったピストルパッカー、カドラン賞・サンクルー大賞・モーリスドニュイユ賞・バルブヴィル賞の勝ち馬ラムシン、前年のロワイヤルオーク賞でササフラを抑えて1位入線するも進路妨害で2着に降着となっていたジャンプラ賞・プランスドランジュ賞の勝ち馬アレツ、イスパーン賞の勝ち馬ミスターシックトップ、前年のヴェルメイユ賞で2着、凱旋門賞でササフラとニジンスキーに次ぐ3着、ワシントンDC国際Sで本馬と同じくメロン氏の所有馬だったフォートマーシーの2着していたケルゴルレイ賞・ドーヴィル大賞・フィユドレール賞の勝ち馬ミスダン、サンロマン賞・ロシェット賞の勝ち馬シャラプール、仏オークスでピストルパッカーに鼻差、ヴェルメイユ賞で1馬身差まで迫る2着だったミネルヴ賞の勝ち馬カンブリッチア、コンセイユミュニシパル賞・ジャンドショードネイ賞の勝ち馬アルモス、ロワイヤルオーク賞で2着してきたオアズマン、加国から遠征してきた加国際CSS・サンセットHの勝ち馬ワンフォーオール(ノーザンダンサーの初年度産駒。マルゼンスキーの伯父でもある)などが出走してきた。英国調教馬の同競走勝利は23年前の1948年に勝ったミゴリまで遡らなければならなかったのだが、それでも本馬が単勝オッズ1.7倍という断然の1番人気に支持された。

スタートが切られるとラムシン陣営が用意したペースメーカー役のオシアンが先頭に立ち、オーティスなどもそれを追って先行。それら先行馬勢を見るように進んだ本馬は、直線入り口で出走18頭が一団となった時点では馬群の内側好位の位置だった。しかし本馬の前には先行馬勢が壁になっており、抜け出してこられるのか一瞬懸念された。しかしそんな心配は杞憂であり、あっさりと壁の隙間から抜け出して残り400m地点で先頭に立った。後方外側からはピストルパッカーが追いかけてきたが影は踏ませず、2着ピストルパッカーに3馬身差、3着カンブリッチアにはさらに1馬身半差をつけて2分28秒3のコースレコードで優勝。

これで、本馬は英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・凱旋門賞の3競走を史上初めて1頭で制覇した馬になった。なお、この3競走を同一年に全て制覇する事を、一時期の日本では「欧州三冠」と呼んでいたが、この呼び名は日本だけのものであり欧州ではそういった表現はしない(日本では「欧州3歳牡馬マイル三冠」など様々な欧州競馬の三冠が紹介される事があるが、これら複数の国を跨いだ「三冠」は全て日本人の創作であると考えてよい)という事実が知れ渡ったために、現在ではそういった表現をする人は減少傾向にある。また、1995年にラムタラがこの3競走を全て勝利したため、これは本馬の専売特許ではなくなった。そのためか、海外の資料で本馬を讃える際には「英ダービー・エクリプスS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・凱旋門賞の4競走を全て制した史上唯一の馬」と、エクリプスSを加えた表現が用いられる事が多いようである。

3歳時の成績は6戦5勝で、この年の本馬に唯一の黒星を付けたブリガディアジェラード(英2000ギニー後にセントジェームスパレスS・サセックスS・グッドウッドマイルS・クイーンエリザベスⅡ世S・英チャンピオンSを勝って6戦全勝)と互角以上の評価を得た。英タイムフォーム社のレーティングでは2頭揃って141ポンド、英国フリーハンデでは本馬が133ポンドでブリガディアジェラードが129ポンドの評価だった。英タイムフォーム社の評価で過去の名馬と比べてみると、この141ポンドという数字は前年の英国三冠馬ニジンスキーの138ポンドより3ポンド高く、1965年のシーバード(145ポンド)、1947年のテューダーミンストレル(144ポンド)、1950年のアバーナント、1951年のウインディシティ、1956年のリボー(いずれも142ポンド)の5頭に次いで当時史上6位の高評価だった。

競走生活(4歳時)

本馬とブリガディアジェラードは揃って4歳時も現役を続行した。ブリガディアジェラードが古馬になっても現役を続けた理由は資料に明記されておらず不明だが、本馬に関してはメロン氏が古馬になってもまだ強くなると感じたため、凱旋門賞2連覇を目標としたのだと書かれていた。また、2頭のどちらが本当は強いのかこの時点において既に盛んに議論されていたから、これは筆者の意見だが、お互いに相手を叩きのめして自分が最強である事を立証するために現役を続けた一面もあるかもしれない。

4歳時はニューベリー競馬場で行われた距離12ハロンのトライアル競走から始動した(公開調教扱いであるため、本馬の競走成績にはカウントされない)。そして14ポンドのハンデを与えた同厩馬2頭を苦も無く12馬身ちぎり捨てて、観衆達に健在ぶりを見せた。

そして渡仏して4月のガネー賞(仏GⅠ・T2100m)に出走した。仏国のGⅡ競走アンリデラマール賞を6馬身差で圧勝していたトラテッジオ、前年のガネー賞でカロの2着だったアマドウ、前年の凱旋門賞では12着に終わっていたミスターシックトップ、日本から遠征してきていた野平祐二騎手(本来の目的は「シンボリ」の和田共弘氏、「メジロ」の北野豊吉、「トウショウ」の藤田正明氏達有力馬主の支援を受けて欧州で有力な競走馬を調達し、欧州の大競走制覇を目指す目的だったが、馬探しだけでなく騎手としても働いていた)が騎乗するロンバードなどが出走していたが、本馬が単勝オッズ1.1倍という圧倒的な1番人気に支持された。そして結果は「まるでコース上に敷かれた線路の上を爆走する列車のような」走りを見せた本馬が、2着アマドウに10馬身差(実際には12馬身差とも20馬身差とも言われる)をつけて圧勝した。実況がゴール前で、「5、6、7、8、9、10馬身!」とカウントダウンならぬカウントアップをしたのが印象的だった。

先頭を爆走する本馬を後方から眺めることしか出来なかった野平騎手は後日、「馬体は決して立派ではないのですが、一旦レースに出れば驚くばかりの強さを発揮しました。乗っていた騎手には失礼かもしれないのですが、これなら誰が乗っても勝てると思いました」と本馬の強さを賞賛している。本馬との出会いが野平騎手の競馬観に影響を与えたようで、この3年後に調教師となった彼は「強い馬」を作ることに執念を燃やし、そしてシンボリルドルフを育て上げたのだった。なお、本馬を賞賛した上記発言はテイエムオペラオーが登場した際のものであり、シンボリルドルフと質は違ってもそうした馬にもう一回巡り合ってから競馬界を去りたいと語っていた野平氏は、2000年にテイエムオペラオーが有馬記念を勝って年間8戦全勝を達成した時に「テイエムオペラオーはシンボリルドルフを超えたと言われても反論できない」と語り、その翌年2001年にこの世を去った。

野平騎手に衝撃を与えたガネー賞の次走はコロネーションC(英GⅠ・T12F)となった。ここでは、一昨年のデューハーストSで本馬の2着に敗れた前年の愛セントレジャー2着馬ウェンセスラス、前年の英ダービーで着外に終わった後に英セントレジャーで首差2着していたホメリック、ペースメーカー役のブライトビームの3頭だけが対戦相手となり、単勝オッズ1.13倍の1番人気に支持された本馬の独り舞台になると思われた。レースはブライトビームが速いペースで先頭を引っ張り、他3頭がそれを追走。直線に入るとホメリックが抜け出したが、なかなか本馬はホメリックに迫ることが出来なかった。残り1ハロン地点でようやくホメリックに並びかけたが、ここから突き抜けることが出来ず、しばらくは2頭の叩き合いが続いた。ゴール前で本馬がようやく前に出て首差で勝利したが、3着ウェンセスラスにはさらに10馬身差をつけていたとは言え、本馬にとっては今ひとつの内容だった。

レース直前の悪天候で調教が不十分だった上に、レース直後の検査でウイルス性疾患に感染している事が判明するなど、調子は極めて悪かったようである。また、ホメリックは後にこの年の凱旋門賞でサンサンの2馬身差3着に敗れる事になるが、ゴールまで残り200m地点で故障(そのまま引退種牡馬入り)しており、それが無ければおそらくこの年の凱旋門賞はホメリックが勝っただろうと言われたくらいだから、本馬にとっては恥ずかしい相手に苦戦したわけではなかった。なお、この勝利で本馬は6連続GⅠレース出走6連勝という欧州記録を樹立した。前年にグループ制が施行されたばかりなので、新記録になる事自体は当然だが、これが破られたのは2002年のロックオブジブラルタルまで30年の月日を要しており、素晴らしい記録である事に異論を挟む余地は無い。

次走はエクリプスSが予定されていた。このレースには4歳になってもロッキンジS・ウエストベリーS・プリンスオブウェールズSと連勝街道を邁進していたブリガディアジェラードも参戦を予定しており、2頭の再戦が大きく期待された。しかし本馬はレース10日前にウイルス性疾患をぶり返してしまい回避となった。本馬不在のレースは結局ブリガディアジェラードが勝って14連勝を達成した。

その後、本馬は2週間後のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSには向かわず(このレースはブリガディアジェラードが勝って15連勝を達成している)、エクリプスSから5週間後のベンソン&ヘッジズ金杯を目指す事になった。このレースにもブリガディアジェラードが参戦を予定しており、今度こそ2頭の再戦が期待された。しかし本馬は脚に腫れが出てしまい、同競走も回避となった。本馬不在のベンソン&ヘッジズ金杯では、この年の英ダービー馬ロベルトが勝利を収め、2着に敗れたブリガディアジェラードは生涯最初で最後の黒星を喫した。英国の競馬ファン達は誰もがブリガディアジェラードの敗戦を悲しみ、ロベルトは英国競馬史上稀有の悪役と評されるようになってしまったが、ブリガディアジェラードを破ったのが本馬であれば英国のファンがそこまで失望する事も無かっただろう。

致命的な故障からの生還

ブリガディアジェラードとの再戦を果たせなかった本馬のその後の目標は凱旋門賞2連覇だけであり、その前哨戦として9月にアスコット競馬場で行われるカンバーランドロッジSが予定された。しかしカンバーランドロッジSの2日前、ベンソン&ヘッジズ金杯から2週間後にアクシデントが本馬を襲った。毎日の日課だった調教中に躓いた本馬は左前脚の管骨を骨折してしまったのだった。本馬が故障した瞬間の映像が残っているが、全力で走っていたわけでもなく馬なりで走っていた本馬の走りが突然おかしくなり、乗っていた調教助手が慌てて本馬を止める様子が克明に映し出されている。

メロン氏はその一報を聞くと、米国から獣医学の専門家チャールズ・アレン博士を急遽英国に呼び寄せて、本馬の診察と治療を依頼した。アレン博士が患部を調べると、骨折の状態は極めて重度だった。砲骨(脚の前部にある第3中手骨)は末端から約2インチ半のところで真っ二つに折れて骨の上側部分がずれ落ちていたし、その裏側にある第4中手骨にも亀裂が入っていた。そして種子骨の1つは完全に粉砕されていた。競走馬の腕関節から先を支える砲骨と、最も体重の負担が掛かる種子骨がこうなってしまっては、もはや手の施しようが無いと思われた。

しかしメロン氏は緊急手術の実施を決断。手術は厩舎内に急遽建てられた手術用の小屋内において行われ、キングスクレア厩舎の専属獣医エドワード・ジェームズ・ロバーツ教授がアレン博士の補佐を受けながら執刀することになった。まずは折れてずれた砲骨を元通りの位置に戻すと、患部の周囲に強化ステンレス製のプレートをはめ込んで、それを3本のボルトで固定。種子骨についてはその全てが粉砕されたわけではなかったので、保存療法で対応できた。この手術の経過は英国の高級紙「ザ・タイム」で報道された。6時間に及ぶ手術(資料によって手術時間が異なる。「新・世界の名馬」には4時間と書かれているし、10時間と書かれている海外の資料もある。どこからどこまでを手術時間とするかの見解の違いだろう)は無事に終了したが、今度は蹄葉炎の発症が懸念された。そのため本馬の担当厩務員ジョン・ホーラム氏は3か月間付きっ切りで本馬の看病に当たった。

この時期の本馬の様子を捉えた映像が残っているが、本馬の左前脚は包帯やらギプスやらで雁字搦めに固められており、見るのも痛々しい状態だった。しかし本馬は全く痛がる素振りを見せず、医師が診察するため故障した脚を持ち上げても嫌がらずに大人しくしていた。また、この映像で筆者が驚いたのは、左前脚を完全に固められた状態の本馬が藁布団の中で普通に横向きになって寝ていた事である。こうした状況の馬を横に寝かせることは死に直結する(サラブレッドは横になって寝続けると皮膚や内臓に負担が掛かって生命に関わるため、普通は蹲って寝るか立って寝る。自分で寝返りができる健康体なら横になって寝る事も可能だが、脚を折っていたら無理である)はずであり、これは筆者の常識の範囲外であった。おそらく小柄で体重が軽い上に気性が大人しい本馬は、複数の人間が力を合わせれば寝返りを打たせる事が可能だったからこそ出来た芸当なのだろう。この素直さも幸いしたのか、本馬の脚にかかる負担は最小限に抑えられ、蹄葉炎を発症することなく骨がくっついて普通に歩けるようになり、本馬は一命を取り留めた。

しかし現役を続行できる状態ではなく、そのまま4歳時2戦2勝の成績で引退となった。ブリガディアジェラードの敗戦に続く本馬の故障引退の報に、英国の競馬ファンは失望を隠せなかったらしいが、一命を取り留めただけでも幸いとしなければならないだろう。かつてデビュー前の本馬を見て驚嘆したオークシー卿は「ミルリーフは、殆どの人間が一生かけても体験できないほどの栄光と苦難を僅か2シーズンで体験しました」と語った。

無事に種牡馬入りできる事が決まり、本馬がキングスクレア厩舎を旅立つ日がやってくると、1500人の競馬ファン達がキングスクレア厩舎に詰め掛けて、本馬の顔や頭を撫でて名馬の生還を祝い、同時に別れを惜しんだ。英タイムフォーム社のレーティングにおいては前年と同じ141ポンドが与えられたが、ベンソン&ヘッジズ金杯敗戦後に何事も無かったかのようにクイーンエリザベスⅡ世S・英チャンピオンSを連勝して4歳時8戦7勝の成績で引退したブリガディアジェラードには144ポンドが与えられ、この年は本馬よりブリガディアジェラードのほうが上の評価となった。

競走馬としての評価と特徴

本馬とブリガディアジェラードの比較は英2000ギニー終了後から今日まで盛んに議論されている。マイル戦ではブリガディアジェラードが上位で、12ハロンの距離では本馬が上位であっただろう事は衆目の一致するところだが、10ハロンの距離ではどちらに分があったか。これはさすがに判定不能だが、仮に馬場状態が湿っていれば本馬が勝った可能性が高いだろう。大柄な馬体を揺らしながら大跳びで走ったブリガディアジェラードは明らかに重馬場を不得手としていた(もっとも馬場状態が原因で負けた事は1度も無いというのは凄い)が、本馬は重馬場をまるで苦にしなかったからである。その理由として、小柄な本馬は蹄も小さく、それがスパイクのような役割を果たしたからではないかと言われている。

本馬は14戦したが同じ競馬場で3回以上走った事はなく、合計で10の競馬場で走っている。生涯英国から出なかったブリガディアジェラードが走った競馬場は合計7であるから、コース形態や馬場を問わないオールマイティーさでは本馬に一日の長があるかもしれない。

本馬の気性に関しては諸説あり、資料によってかなり異なっている。一般的には先述したように温和で親切だったと評されているのだが、ボールディング師が後に自身が手掛けた名マイラーのセルカークの訃報に接した際に「(セルカークは)ミルリーフのように厩舎で人に襲い掛かるような馬ではありませんでした」と語ったとする資料も存在する。確かに本馬の血を引く馬は気性が激しい傾向が強かったから、本馬もまた実は気性が激しかった可能性は完全には否定できない。しかし故障闘病中の様子や、キングスクレア厩舎を旅立つ際に詰め掛けた人々から顔や頭を撫で回されながらも大人しくしていた様子を筆者が見た限りでは、この馬が人を襲うような馬だったとは到底思えず(そんな馬だったらキングスクレア厩舎を旅立つ際に陣営が人間を近づけさせないだろう)、やはり親切で温和な馬だったという意見が正しいのだろう。

血統

Never Bend Nasrullah Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Mumtaz Begum Blenheim Blandford
Malva
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine
Lalun Djeddah Djebel Tourbillon
Loika
Djezima Asterus
Heldifann
Be Faithful Bimelech Black Toney
La Troienne
Bloodroot Blue Larkspur
Knockaney Bridge
Milan Mill Princequillo Prince Rose Rose Prince Prince Palatine
Eglantine
Indolence Gay Crusader
Barrier
Cosquilla Papyrus Tracery
Miss Matty
Quick Thought White Eagle
Mindful
Virginia Water Count Fleet Reigh Count Sunreigh
Contessina
Quickly Haste
Stephanie
Red Ray Hyperion Gainsborough
Selene
Infra Red Ethnarch
Black Ray

ネヴァーベンドは当馬の項を参照。

母ミランミルは本馬と同じくメロン氏の生産・所有馬だが、幼少期の脚の故障が原因で現役成績1戦未勝利に終わった。12歳で早世した影響もあり、本馬以外に活躍馬は出せなかった。それでもミランミルは本馬以外に何頭かの牝駒を残しており、それらの馬が牝系を伸ばす事に成功した。本馬の半妹ミリセント(父コーニッシュプリンス)の孫であるミルレーサーは日本に繁殖牝馬として輸入され、シャイニンレーサー【マーメイドS(GⅢ)】とフジキセキ【朝日杯三歳S(GⅠ)・弥生賞(GⅡ)】の姉弟を産み、さらにシャイニンルビー【クイーンC(GⅢ)】、フサイチミライ【兵庫サマークイーン賞・園田チャレンジC・トゥインクルレディー賞】、キョウエイアシュラ【オーバルスプリント(GⅢ)】、ノボリディアーナ【府中牝馬S(GⅡ)】の祖母となるなど日本で優れた牝系を築いた。また、ミルレーサーの半妹ミルカレントも日本に繁殖牝馬として輸入され、ニホンピロアワーズ【ジャパンCダート(GⅠ)・名古屋グランプリ(GⅡ)・東海S(GⅡ)・ダイオライト記念(GⅡ)・名古屋大賞典(GⅢ)・白山大賞典(GⅢ)・平安S(GⅢ)】の曾祖母となっている。ミルレーサーやミルカレントの母マーストンズミルの半弟にはピーターホフ【フライングチルダースS(英GⅡ)】とモスコーバレー【レイルウェイS(愛GⅢ)】がいる。本馬の半妹ミルフルール(父ハシント)の子にはクルセダーキャッスル【伊セントレジャー(伊GⅡ)】が、全妹メモリーレインの子にはフィールズオブスプリング【ヘルプスト牝馬賞(独GⅢ)】、孫にはロンダ【ファルマスS(英GⅡ)】がいる。

ミランミルの曾祖母インフラレッドの牝系子孫における本馬以前の活躍馬と言えば、ミランミルの半妹で英1000ギニーと英オークスで共に2着したバークリースプリングス(父ヘイスティロード)【チェヴァリーパークS】や、ミランミルの母ヴァージニアウォーターの従兄弟で、英2000ギニーと英ダービーで共に3着したパイプオブピース【ミドルパークS・グリーナムS・ゴードンS】がいたものの、他に活躍馬は殆どおらず、あまり優秀な牝系とは言えなかった。しかし本馬の登場以降は偶然なのか必然なのか、インフラレッドの牝系子孫からは活躍馬が続出。ウォロー【英2000ギニー(英GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・ベンソン&ヘッジズ金杯(英GⅠ)】、ゴールドリヴァー【凱旋門賞(仏GⅠ)・ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)・カドラン賞(仏GⅠ)】、レッドアンカー【コックスプレート(豪GⅠ)・豪シャンペンS(豪GⅠ)・コーフィールドギニー(豪GⅠ)・ヴィクトリアダービー(豪GⅠ)】、ゴールドスプラッシュ【マルセルブサック賞(仏GⅠ)・コロネーションS(英GⅠ)】、アレクサンダーゴールドラン【オペラ賞(仏GⅠ)・香港C(香GⅠ)・プリティポリーS(愛GⅠ)2回・ナッソーS(英GⅠ)】、フィンシャルベオ【英1000ギニー(英GⅠ)・愛1000ギニー(愛GⅠ)・マルセルブサック賞(仏GⅠ)】、ゴルディコヴァ【BCマイル(米GⅠ)3回・ロートシルト賞(仏GⅠ)4回・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)・ファルマスS(英GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・イスパーン賞(仏GⅠ)2回・クイーンアンS(英GⅠ)・フォレ賞(仏GⅠ)】、グリーンムーン【メルボルンC(豪GⅠ)・ターンブルS(豪GⅠ)】、日本で走ったダイナコスモス【皐月賞(GⅠ)】、シャドウゲイト【シンガポール航空国際C(星GⅠ)】などが登場した。もっとも、いずれも本馬から見れば近親と言うには少し遠いだろう。

まだ挙げていない本馬の近親馬として目立つのは、ミランミルの半妹ヴァージニアグリーン(父ナシュア)の子で外国産馬として日本で走ったタクラマカン(メイセイオペラの母父)あたりだろうか。インフラレッドの曾祖母アワーラッシーは1903年の英オークス馬で、その牝系子孫からは、インプルーデンス、ブラッシンググルームレディーズシークレット、リュウフォーレル、アグネスデジタル、キングカメハメハ、ビリーヴなどが出ている。→牝系:F22号族①

母父プリンスキロは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、当時の英国繋養種牡馬としては最高額となる総額200万ポンド(当時の為替レートで約17億2800万円)というシンジケートが組まれ、英国ニューマーケットのナショナルスタッドで種牡馬入りした。やはり英国で種牡馬入りしたブリガディアジェラードのシンジケート額は100万ポンドだったから、その2倍の額だった。

本馬とブリガディアジェラードの競走馬としての評価はほぼ互角だが、種牡馬としては明暗が分かれた。ブリガディアジェラードが種牡馬として失敗したのと対照的に、本馬は種牡馬としても超一流の成績を残した。スタミナが豊富だがスピードも内包しており、大レースに強い精神力や闘争心も伝える名種牡馬だった。全盛期のノーザンダンサーとも渡り合い、1978年・87年の英愛首位種牡馬に輝いた。

1986年2月に心臓の機能が極端に低下したために18歳で安楽死の措置が執られ、遺体はナショナルスタッド内に埋葬された。その後、ナショナルスタッドには本馬の彫像が建てられ、その台座にはメロン氏が作った以下の文章が刻まれた(一部意訳)。「私はあらゆる競馬場に鳥のように速く舞い降りました。王女も王も市民も誰もが私を讃えるために歌いました。勝っても負けても私は私の役割を果たしました。馬を愛する全ての人は私の事を忘れないでください。もし貴方の心が折れそうになったとき、私は私が持っているあらゆる限りの勇気を全て分け与えましょう。」

本馬の直子には後継種牡馬として成功した馬も多いが、現在直系は他の勢いのある系統に押され気味であり、唯一シャーリーハイツからダルシャーンを経由する系統が何とか頑張っている。日本にも直子のミルジョージ、パドスール、マグニテュードが輸入され、いずれもGⅠ競走勝ち馬を出したが、やはり現在直系は衰退している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1974

Millionaire

クイーンズヴァーズ(英GⅢ)

1975

Acamas

仏ダービー(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)

1975

Idle Waters

パークヒルS(英GⅡ)

1975

Mill George

1975

Shirley Heights

英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・ロイヤルロッジS(英GⅡ)・ダンテS(英GⅢ)

1976

Main Reef

ジュライS(英GⅢ)・カンバーランドロッジS(英GⅢ)・セントサイモンS(英GⅢ)

1976

Milford

プリンセスオブウェールズS(英GⅡ)・ホワイトローズS(英GⅢ)・リングフィールドダービートライアルS(英GⅢ)

1977

Scouting Miller

エリントン賞(伊GⅢ)

1978

Fairy Footsteps

英1000ギニー(英GⅠ)・ネルグウィンS(英GⅢ)

1978

Glint of Gold

伊グランクリテリウム(伊GⅠ)・伊ダービー(伊GⅠ)・パリ大賞(仏GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)・グレートヴォルティジュールS(英GⅡ)・ジョンポーターS(英GⅡ)

1979

Diamond Shoal

ミラノ大賞(伊GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)・ジョンポーターS(英GⅡ)・エヴリ大賞(仏GⅡ)

1979

Dione

オペラ賞(仏GⅡ)

1979

Pas de Seul

フォレ賞(仏GⅠ)・エクリプス賞(仏GⅢ)・ハンガーフォードS(英GⅢ)

1979

Simply Great

ダンテS(英GⅡ)

1980

Garde Royale

ジャンドショードネイ賞(仏GⅡ)・ラクープ(仏GⅢ)

1980

Green Reef

プシシェ賞(仏GⅢ)

1980

Mille Balles

エクスビュリ賞(仏GⅢ)・メシドール賞(仏GⅢ)

1980

South Atlantic

ブランドフォードS(愛GⅡ)

1980

Wassl

愛2000ギニー(愛GⅠ)・グリーナムS(英GⅢ)・ロッキンジS(英GⅢ)

1981

King of Clubs

エミリオトゥラティ賞(伊GⅠ)・ヴィットリオディカプア賞(伊GⅡ)・リボー賞(伊GⅡ)・フェデリコテシオ賞(伊GⅡ)・アールオブセフトンS(英GⅢ)

1981

Lashkari

BCターフ(米GⅠ)・コンセイユドパリ賞(仏GⅡ)

1981

Marooned

AJCシドニーC(豪GⅠ)

1981

Paris Royal

伊オークス(伊GⅠ)

1981

Sandy Island

ランカシャーオークス(英GⅢ)

1982

Big Reef

フェデリコテシオ賞(伊GⅡ)

1983

Fleur Royale

プリティポリーS(愛GⅡ)

1983

Gull Nook

リブルスデールS(英GⅡ)

1984

Entitled

デズモンドS(愛GⅢ)

1984

Ibn Bey

イタリア大賞(伊GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)・ベルリン銀行大賞(独GⅠ)・愛セントレジャー(愛GⅠ)・ドーヴィル大賞(仏GⅡ)・モーリスドニュイユ賞(仏GⅡ)・ジェフリーフリアS(英GⅡ)

1984

Milligram

クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅠ)・コロネーションS(英GⅡ)・クリスタルマイル(英GⅡ)

1984

Reference Point

英ダービー(英GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)・ウィリアムヒルフューチュリティS(英GⅠ)・英セントレジャー(英GⅠ)・ダンテS(英GⅡ)・グレートヴォルティジュールS(英GⅡ)

1984

Rose Reef

グラッドネスS(愛GⅢ)

1984

Star Lift

ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)・アルクール賞(仏GⅡ)・エヴリ大賞(仏GⅡ)・フォワ賞(仏GⅢ)

1985

Doyoun

英2000ギニー(英GⅠ)・クレイヴンS(英GⅢ)

1986

Along All

グレフュール賞(仏GⅡ)・シェーヌ賞(仏GⅢ)

1986

Behera

サンタラリ賞(仏GⅠ)・ペネロープ賞(仏GⅢ)

1986

Creator

ガネー賞(仏GⅠ)・イスパーン賞(仏GⅠ)・ギョームドルナノ賞(仏GⅡ)・ドラール賞(仏GⅡ)・アルクール賞(仏GⅡ)

1986

Sierra Star

伊セントレジャー(伊GⅢ)

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