ナシュア

和名:ナシュア

英名:Nashua

1952年生

鹿毛

父:ナスルーラ

母:セグーラ

母父:ジョンズタウン

ケンタッキーダービーでは好敵手スワップスに敗れたが後のマッチレースで雪辱を果たし種牡馬としても後世に大きな影響を与えた米年度代表馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績30戦22勝2着4回3着1回

誕生からデビュー前まで

米国メリーランド州ベルレアスタッドは、まだ米国が英国の植民地だった1747年に設立された米国最古の馬産牧場の一つである。1898年にニューヨークの銀行家ジェームズ・T・ウッドワード氏に購入され、後にやはり銀行家だった甥のウィリアム・ウッドワード・シニア卿に受け継がれた。ウッドワード・シニア卿は第一次世界大戦で戦場となった仏国から優れた種牡馬・繁殖牝馬をベルレアスタッドに導入し、数々の名馬を送り出した。例を挙げると、ギャラントフォックスオマハの米国三冠馬父子や、米年度代表馬グランヴィル、ケンタッキーダービー馬ジョンズタウンなどである。米国ジョッキークラブの会長を務め、悪名高き英国のジャージー規則(その中身に関してはブラックターキンの項に詳しい)の廃止に尽力するなど米国競馬界の大立者ともなったウッドワード・シニア卿が最後に送り出した最高傑作が本馬である。

誕生したのはベルレアスタッドではなく、ベルレアスタッドが所有する繁殖牝馬の多くが当時預託されていた米国ケンタッキー州クレイボーンファームだった。ウッドワード・シニア卿は所有馬を米国だけでなく英国でも走らせており、ブラウンベティーで英1000ギニーを、ハイシラで英オークスを、ボスウェルとブラックターキンで英セントレジャーを制していた(この4頭の中でブラックターキンのみが米国産馬で他は全て英国産馬)。しかしまだ英ダービーは勝っていなかった事と、本馬が生まれる3年前の1949年に前述のジャージー規則がブラックターキンの英セントレジャー制覇が最後の一押しとなって廃止されていた事もあり、彼は本馬をブラックターキンも手掛けた英国のセシル・ボイド・ロックフォート調教師に預けて、いずれは英ダービーに出走させる腹積もりだった。

しかし本馬が1歳時の1953年9月に、ウッドワード・シニア卿は77歳で死去してしまった(この翌年1954年に彼の功績を讃えて創設されたのがウッドワードSである)。ウッドワード・シニア卿には5人の子どもがいたが、そのうち4人が娘であり、息子はウィリアム・“ビリー”・ウッドワード・ジュニア氏の1人のみだった。父の財産を相続して本馬の所有者となったウッドワード・ジュニア氏は、本馬を英国ではなく米国で走らせる事にして、米国競馬界の大御所サニー・ジム・フィッツシモンズ調教師に委ねた。

競走生活(2歳時)

2歳5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート4.5ハロンの未勝利戦でデビューして、2着リトラクトに3馬身差で勝利を収めた。1週間後にベルモントパーク競馬場で出走したジュヴェナイルS(D5F)では、主戦となるエディ・アーキャロ騎手と初コンビを組んだ。このレースには、後にフラッシュSを勝ちグレートアメリカンSで2着するラフに加えて、後に本馬の好敵手となるユースフルSの勝ち馬サマータンも出走していた。結果は本馬が2着サマータンに半馬身差で勝利した。しかしそれからさらに1週間後にガーデンステート競馬場で出走したチェリーヒルS(D5F)では、鞍上のJ・ヒグリー騎手との呼吸が合わず、道中で折り合いを欠いて、後にアーリントンフューチュリティ・バッシュフォードマナーS・ラファイエットSなどを勝つロイヤルノートの首差2着に敗れた。

その後は3か月ほど休養して、8月にサラトガ競馬場で行われたグランドユニオンホテルS(D6F)で、アーキャロ騎手を鞍上に復帰した。ここでは1週間前のサラトガスペシャルSで2着してきたピレネーが対戦相手となったが、本馬が2着ピレネーに1馬身3/4差をつけて勝利した。翌週に出走したホープフルS(D6.5F)ではピレネーに加えて、ジュヴェナイルS2着後にユナイテッドステーツホテルSを勝ち、ナショナルスタリオンSで2着、サラトガスペシャルSで3着していたサマータンと再び顔を合わせた。ここでは直線でサマータンが先頭に立って勝利目前だったが、本馬がサマータンをゴール寸前で差し切って首差で勝利した。

しかし翌9月に出走したカウディンS(D6.5F)では道中で不利を受けてしまい、1分16秒0のコースレコードで走破したサマータンの1馬身半差2着に敗れた。次走のベルモントパーク競馬場ダート6ハロンのスペシャルウェイト競走では、サラトガスペシャルS・サプリングS・グレートアメリカンSを勝っていたロイヤルコイナージュとの対決となった。結果は1分08秒2という好タイムで走り抜けた本馬が、2着ロイヤルコイナージュに1馬身差で勝利した。次走のベルモントフューチュリティS(D6.5F)では、サマータン、ロイヤルコイナージュとの対戦となった。直線では本馬とサマータンの息詰まる攻防戦が繰り広げられた末に、本馬が頭差で勝利を収めた(ロイヤルコイナージュは3着だった)。

2歳時は8戦6勝2着2回という優秀な成績を収め、米最優秀2歳牡馬に選ばれた。しかし2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)においては、ガーデンステートSを勝って2歳時の成績を11戦5勝2着4回3着1回としたサマータンの方が本馬より1ポンド高い評価を受けた。

競走生活(3歳前半)

3歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走から始動して、2着ミュンヒハウゼンに1馬身半差で勝利した。それから5日後に出走したフラミンゴS(D9F)も、2着サラトガに1馬身半差で勝利した。さらに1か月後に出走したフロリダダービー(D9F)は不良馬場の競馬となったが、2着ブルーレムに首差で勝利した。翌4月に出走したウッドメモリアルS(D9F)では、サマータンとベルモントフューチュリティS以来の顔合わせとなった。ここでも直線で逃げ込みを図るサマータンと、追い上げる本馬の大接戦となったが、本馬が首差かわして勝利した。

次走のケンタッキーダービー(D10F)では、本馬が単勝オッズ2.3倍の1番人気に支持された。単勝オッズ3.8倍の2番人気に推されたのは、サンヴィンセントS・サンタアニタダービーなど4連勝中のスワップスだった。スワップスは米国西海岸を主戦場としており、これまで本馬と対戦する機会は無かった。今までの好敵手サマータンが3番人気で、他にもブルーグラスSの勝ち馬レーシングフール、シャンペンS・ダービートライアルSの勝ち馬フライングフューリー、サンフェリペHの勝ち馬でサンタアニタダービー・ブルーグラスS・ダービートライアルS2着のジーンズジョー、アーカンソーダービーの勝ち馬トリムデスティニー、ブルーレムなどの顔もあった。スタートが切られるとまずは本馬が先頭を伺った。過去に本馬がサマータンと戦ったレースでは、サマータンより後方を走っていたのだが、ここではより確実にサマータンを破るために、その前を走ろうとしたのだという。しかし本馬をかわしたスワップスが果敢に先頭に立って逃げ、本馬は3番手でそれを追走する展開となった。四角でスワップスとの差を縮めた本馬が直線でスワップスを捕らえにかかった。しかしスワップスは見事な粘りを見せて本馬に抜かさせず、そのまま逃げ切って優勝。本馬は3着サマータンには6馬身半差をつけたものの、1馬身半差の2着に終わった。

この後スワップスは右前脚の裂蹄が悪化した事を理由に西海岸に帰ってしまった(スワップスの蹄が悪かったのは事実だが、スワップス陣営はもともとケンタッキーダービーだけで帰る予定だった)ため、プリークネスSとベルモントSは本馬の独壇場となった。

単勝オッズ1.3倍の1番人気で出走したプリークネスS(D9.5F)では、サラトガを1馬身差の2着に、後にウィザーズS・オハイオダービー・ジェロームH・ウッドワードS・メトロポリタンH・サバーバンHを勝つトラフィックジャッジを3着に破り、1分54秒6のコースレコードで制覇。プリークネスSがダート9.5ハロンで行われるようになってから、過去に1分56秒を切るタイムさえ出た事が無かった事(過去最速タイムは1949年にカポットが計時した1分56秒フラット)を考えると、これは非常に優秀なタイムで、近年のプリークネスSでもこれより速いタイムで決着する事のほうが少ない(参考までに、2001年~2015年までの15年間におけるプリークネスSの平均勝ち時計は1分55秒65で、この期間に本馬より速いタイムで勝ったのはカーリンのみ)。

続くベルモントS(D12F)では、単勝オッズ1.15倍の1番人気に支持された。そして他馬のやる気を無くさせるような快走を見せて、2着ブレージングコートに9馬身差をつけて圧勝した。

翌7月に出走したドワイヤーS(D10F)でも、2着サラトガに5馬身差をつけて勝利。それから2週間後のアーリントンクラシックS(D8F)では、ベルモントS3着後にウィザーズS・オハイオダービーを勝っていたトラフィックジャッジが再び立ち向かってきた。このレースでは本馬とトラフィックジャッジの激闘となったが、本馬が半馬身差で勝利を収めた。

競走生活(3歳後半)

本馬が東海岸で快進撃を続けている頃、西海岸ではスワップスがウィルロジャーズS・カリフォルニアンS・ウェスターナーSを勝ち、やはり快進撃を続けていた。そのために本馬とスワップスのマッチレースを熱望する声が高まり、米国各地の競馬場が壮絶なマッチレース招致合戦を繰り広げた。結局ワシントンパーク競馬場が提示した条件を両陣営が受け入れ、8月31日に2頭のマッチレースがワシントンパーク競馬場のダート10ハロンで行われることになった。賞金は10万ドルで、勝者が全額獲得できることになっていた。本馬はアーリントンクラシックSから1か月後の本番に直行し、西海岸から遠征してきたスワップスは本番10日前のアメリカンダービーでトラフィックジャッジを撃破してくるという臨戦過程となった。レース前日に雨が降ったが、当日は普通の馬場状態まで回復していた。当日は3万5262人もの大観衆がワシントンパーク競馬場に詰め掛け、CBSテレビが生中継した全国放送は、全米で5000万人もの人々が視聴した。単勝オッズはスワップスが1.3倍、本馬は2.2倍であった。

レースでは大方の予想に反して、アーキャロ騎手が出鞭を使った内枠の本馬が先手を奪った。しかしスワップスも最初のコーナーで本馬の外側から並びかけてきた。そして逃げる本馬を、半~1馬身ほど後方でスワップスが追いかける展開となった。2頭が競り合ったために、最初の半マイル通過は46秒、6ハロン通過は1分10秒4と、比較的速いペースでレースは推移した。そのままの状態で直線に入ってきたが、ここから本馬がスワップスを突き放して最後は6馬身半差で勝利した。

前半に比較的速いラップを刻んだ割には、前日の雨で少し時計がかかる馬場状態になっていたとは言え、勝ちタイムは2分04秒2と極めて平凡なものだった(参考までに、同距離のケンタッキーダービーにおけるスワップスの走破タイムは2分01秒8。本馬が距離10ハロンで計時した最速タイムは後のサバーバンHにおける2分00秒8である)。実はスワップスはこの時期に持病である右前脚の裂蹄が非常に悪化しており、このレースでは実力を出せる状態には無かった。そのためにこのマッチレースは実際には名勝負とは程遠いものだったのだが、それでも直線に入るまでは非常に緊迫感がある一騎打ちだったこともあり、本馬とスワップスの直接対決は米国競馬史上における最も有名なライバル対決の1つとして後世に語り継がれる事になった。なお、この2頭の競馬場における直接対決は、2度目の対戦となるこれが最後だった。レース後にアーキャロ騎手は「私はナシュアよりも疲れました」と語り、このマッチレースに出るに際して相当なプレッシャーを受けていた事を明らかにした。しかし既に齢80歳を過ぎていた百戦錬磨の老調教師フィッツシモンズ師には自信があったようで、レース後には周囲からの祝福を笑顔であしらっていた。

マッチレースから25日後に出走したサイソンビーマイルS(D9F)では、前年にベルモントS・ピーターパンH・ドワイヤーS・マンハッタンH・サイソンビーマイルS・ジョッキークラブ金杯を勝って米最優秀3歳牡馬に選ばれ、この年もメトロポリタンH・ブルックリンHを勝ちサバーバンH・モンマスHで2着して米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるハイガン、ウィザーズS・ローマーH・オリンピックH・ワシントンパークHの勝ち馬ジェットアクション(名牝ブッシャーの息子)という2頭の実力派4歳馬との対戦となった。しかし本馬はこの2頭に屈して、勝ったハイガンから1馬身3/4差の3着とまさかの敗戦を喫してしまった。しかしシーズン最後の出走となったジョッキークラブ金杯(D16F)では不良馬場の中を快走し、ピムリコフューチュリティ・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションSを勝っていた同世代馬シンキングキャップを5馬身差の2着に破って完勝。

3歳時の成績は12戦10勝となった。この年の本馬の収得賞金は75万2550ドルであり、サイテーションが1948年に樹立した年間最多収得賞金記録70万9470ドルを7年ぶりに塗り替えた。また、9戦8勝のスワップスを抑えてこの年の米年度代表馬・最優秀3歳牡馬に輝いた。

馬主の謎の死により超高額の種牡馬シンジケートが組まれる

ところが、この年の10月30日(ジョッキークラブ金杯から半月後)に、とある大事件が勃発していた。本馬の所有者であるウッドワード・ジュニア氏がニューヨークの自宅において妻のアン夫人に射殺されてしまったのである。“The Shooting of the Century(世紀の射殺事件)”とまで称されたこの事件は今日でも謎に包まれている怪事件である。その経緯は以下のとおりである。事件前日にウッドワード・ジュニア氏とアン夫人は連れ立ってウィンザー公爵夫人(元英国王エドワードⅧ世の妻ウォリス夫人のこと。エドワードⅧ世は彼女と結婚するために王位を弟のジョージⅥ世に譲位した)の晩餐会に出席していた。その際に近所でしばしば強盗事件が起きていた事を随分と心配していたという。帰宅後は2人とも別々の寝室で就寝した。この夫婦は両方とも狩猟が趣味であり、寝室には銃を常時携帯していた。夜中に不審な物音を聞いて目を覚ましたアン夫人は銃を持って廊下に出ようとした。そこで不審な人影に遭遇したので、銃を撃ったところ、その人影は自分の夫だった。アン夫人は起訴されることもなく、事件は不慮の事故として処理された。以上が事件の公式な経緯であるが、ウッドワード・シニア卿の妻でウッドワード・ジュニア氏の母親であるエリザベス夫人を始めとして、この経緯に疑問を抱いた人は多かったようで、作家のトルーマン・カポウティは後の1975年にこの件を題材にした作品を発表し、夫の女性関係が原因で離婚の危機にあったアン夫人が夫を意図的に殺害したと決め付けた。作品発表の直後にアン夫人は睡眠薬自殺を遂げ、ウッドワード・ジュニア氏とアン夫人の間にいた2人の息子も後に両方自殺してしまうという悲劇的な結末となった。

真相は結局不明のままであるが、いずれにしても罪に問われなかったアン夫人はウッドワード・ジュニア氏の財産をそのまま受け継ぐ事になった。しかし社交界にはいられなくなり(ニューヨークの社交界を取り仕切っていたエリザベス夫人は、女優出身のアン夫人をもとから嫌悪していたという)、彼女は相続した牧場と馬をことごとく売却した。本馬もセリに掛けられ、米国ケンタッキー州スペンドスリフトファームの経営者レスリー・コムズⅡ世氏が組んだシンジケートにより125万1200ドル(当時の為替レートで約4億5千万円)という値段で購買された。これは、それまでの世界記録だったタルヤーの25万ポンド(当時の為替レートで70万ドル)を大幅に上回る莫大な金額であり、1頭の競走馬に100万ドルの値が付いた史上初めての例でもあった。

競走生活(4歳時)

翌4歳時は、好敵手のスワップスと同様に重い斤量との戦いになったが、斤量に対する抵抗力はスワップスより本馬の方が低かったようで、苦戦を強いられるレースが増えた。シーズン初戦は2月のワイドナーH(D10F)となった。色々な意味で有名になった本馬を一目見ようと、ハイアリアパーク競馬場の入場人員記録となる4万2千人もの大観衆が詰め掛けた。対戦相手は手強く、かつて1953年のケンタッキーダービーでネイティヴダンサーとカップリングされて1番人気となった事もあるレムセンH・ホイットニーH・ナラガンセットスペシャルH・ギャラントフォックスH・マクレナンH・ジョンBキャンベルH・サンセットH・サラトガH・マンハッタンH・トレントンHの勝ち馬ソーシャルアウトキャスト、前年のトボガンH・ローマーH・フォールハイウェイトH・ピムリコスペシャルSを勝っていた同世代馬セーラー、オハイオダービー・グレイラグH・エンパイアシティH・サンカルロスH・エクセルシオール2回・クイーンズカウンティH・ニューオーリンズHなどを勝っていたファインドなどが相手となった。本馬には127ポンドが課せられたが、2着ソーシャルアウトキャストに頭差で勝利した。この勝利で本馬の獲得賞金総額は100万ドルを突破し、サイテーションに次ぐ史上2頭目の“The million dollar”となった。

しかしさらに2ポンド重い129ポンドとなった翌月のガルフストリームパークH(D10F)では、セーラーやファインドなど4頭に屈して、勝ったセーラーから7馬身差の5着と大敗を喫し、生涯初の着外となった。その後は少し間隔を空けて、5月のグレイラグH(D9F)に出走。128ポンドの斤量だったが、10ポンドのハンデを与えたファインドを頭差の2着に、グレートアメリカンS・シャンペンS・カウディンS・ゴーサムS・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションS・ワシントンDC国際S・エクセルシオールHを勝っていた5歳馬フィッシャーマンを3着に破って勝利した。次走のカムデンH(D9F)では129ポンドが課せられたが、2着フィッシャーマンに2馬身差で快勝した。この勝利で本馬の獲得賞金総額はサイテーションの108万7560ドルを上回り、全米賞金王となった(最終的には128万8565ドルまで記録を伸ばす)。

次走のメトロポリタンH(D8F)では、さらに1ポンド斤量が増えて130ポンドとなった。ここでは、ミッドアフタヌーン、メイフラワーS・パームビーチH・マクレナンHの勝ち馬スイッチオン、ファインドとの三つ巴ならぬ四つ巴の勝負となったが、ミッドアフタヌーンが勝利を収め、頭差の2着がスイッチオン、さらに半馬身差の3着がファインドで、本馬はさらに首差の4着に敗れてしまった。このレースでは着外と言っても勝ち馬との着差は3/4馬身差に過ぎなかったのだが、同じ130ポンドで出走した翌月のカーターH(D7F)では、ロースベンH・ベイショアHなどを勝っていた快速馬レッドハニガンやスイッチオンなどに屈して、勝ったレッドハニガンから3馬身半差の7着に敗れ去った。メトロポリタンHとカーターHの敗因は斤量だけではなく、本馬にとっては距離が足りなかったせいもあるとされている。

翌7月に出走したサバーバンH(D10F)では、前2走より距離が延び、斤量も少しは軽減されて128ポンドとなった。そして、2着となった同世代のジャージーSの勝ち馬デディケイトに1馬身1/4差で勝利した。デディケイトはこの段階ではそれほど著名な馬では無かったが、この後に同年のブルックリンH・ホイットニーH・ホーソーン金杯Hを勝ち、翌年にはジョンBキャンベルH・モンマスH・ウッドワードSを勝って米年度代表馬・米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるほどの強豪馬に成長する事になる。それから10日後に出走したモンマスH(D10F)では129ポンドの斤量となったが、2着ミスターファーストに3馬身半差をつける完勝だった。次走はウッドワードS(D10F)となった。本馬の生産者ウッドワード・シニア卿の功績を記念して2年前に創設されたレースだっただけに勝利を飾りたいところだったが、サンアントニオH・アーリントンHの勝ち馬で、イングルウッドH・アメリカンH・ハリウッド金杯でスワップスの2着だったミスターガスに敗れて、2馬身半差の2着に終わった。しかし次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では、前年に自身が勝ったときのタイムより4秒4も速い3分20秒4の全米レコードを樹立して、ドワイヤーS・ローレンスリアライゼーションSの勝ち馬ライリーを2馬身1/4差の2着に、名馬ヒルプリンスの全弟サードブラザーを3着に破って完勝を収め、2連覇を達成した。これが現役最後のレースとなった。ほぼ同時期にスワップスは脚を骨折してしまい(一時期は生命に関わる状態だったが、本馬を管理していたフィッツシモンズ師の助力もあって一命を取り留めている)、やはり現役引退となっている。

4歳時の成績は10戦6勝で、米年度代表馬と米最優秀ハンデ牡馬の座は10戦8勝のスワップスに譲る事になった。

競走馬としての特徴

本馬は成長すると体高16.2ハンドに達した見栄えが良い馬で、しかも脚は頑丈で故障知らずであり、サラブレッドの完璧な見本と評されたほどだった(原田俊治氏の著書「新・世界の名馬」には、本馬は疝痛の持病を持っていたと書かれているが、筆者は海外の資料において確認できなかった)。しかし少しばかり頑固で気まぐれな一面もあり、レース中にアーキャロ騎手が仕掛けてもなかなかスパートしようとしない事がしばしばあった。そのためか一部のレースを除いて後続馬に大きな差をつけることは無く、接戦を制して勝つ場合が多かった。それが理由でアーキャロ騎手は本馬に騎乗するときはいつも不安を感じていたという。こうした本馬の性格はおそらく父ナスルーラ譲りと思われるが、牧場では愛嬌がある馬であり、スタッフからは“Mickey(ミッキー)”の愛称で呼ばれていたという。

血統

Nasrullah Nearco Pharos Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
Nogara Havresac Rabelais
Hors Concours
Catnip Spearmint
Sibola
Mumtaz Begum Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Mumtaz Mahal The Tetrarch Roi Herode
Vahren
Lady Josephine Sundridge
Americus Girl
Segula Johnstown Jamestown St. James Ambassador
Bobolink
Mlle. Dazie Fair Play
Toggery
La France Sir Gallahad Teddy
Plucky Liege
Flambette Durbar
La Flambee
Sekhmet Sardanapale Prestige Le Pompon
Orgueilleuse
Gemma Florizel
Agnostic
Prosopopee Sans Souci Le Roi Soleil
Sanctimony
Peroraison Tarporley
Conclusion

ナスルーラは当馬の項を参照。本馬はナスルーラが米国に輸入されて最初の世代の産駒に当たる。

母セグーラは現役成績49戦9勝、CCAオークス3着の実績がある。繁殖牝馬としては、本馬の半姉サベット(父アルサブ)【ギャロレットH・アラバマS・ダイアナH】も産んでいる。本馬の全妹スタヴルーラの子にはヴィトゲンシュタイン【クリテリウムドメゾンラフィット(仏GⅡ)・ラクープドメゾンラフィット(仏GⅢ)】、孫にディターミンドキング【アメリカンダービー(米GⅠ)】、玄孫世代以降にルイカトルズ【プリークネスS(米GⅠ)】とロイヤルインディ【ガゼルH(米GⅠ)】の兄妹、ワイルドキャットエア【フランクJドフランシス記念ダッシュS(米GⅠ)】、オーサムジェム【ハリウッド金杯(米GⅠ)】などがいる。セグーラの半姉スキュラ(父サーギャラハッド)の牝系子孫にはテイクドトゥアー【オグデンフィップスH(米GⅠ)2回】がいる。

セグーラの祖母プロソポピーの半兄にはプレディカトゥール【カドラン賞・仏共和国大統領賞】がいるが、かなり遡ってもあまり活躍馬の名前は見られない。→牝系:F3号族②

母父ジョンズタウンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はスペンドスリフトファームで種牡馬入りした。そして最終的には77頭のステークスウイナーを出す成功を収めた(ステークスウイナー率は12%)。1965年には米国競馬の殿堂入りを果たした(翌年にはスワップスも殿堂入りしている)。1967年にはスワップスもスペンドスリフトファームにやって来た(スワップスも35頭のステークスウイナーを出して成功している)が、スワップスはその5年後の1972年に他界した。スワップスが世を去った後も本馬は長寿を保ち続け、現役種牡馬として活躍した。1982年2月に30歳で他界した。本馬の死後、スペンドスリフトファームには女流彫刻家リザ・トッド女史(女優エリザベス・テーラーの娘)が作成した本馬の像が建立され、現在も残っている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第24位(スワップスは第20位)。

種牡馬として大きな成功を収めた本馬だが、牝馬のほうが牡馬より走る傾向があったこともあり、直系はあまり繁栄しなかった。ただし、南米に輸出されたグッドマナーズが当地で種牡馬として大成功し、現在も本馬の直系は存続している。また、繁殖牝馬の父としては非常に優秀で、122頭のステークスウイナーを輩出。その中にはミスタープロスペクターロベルトなどもおり、現代競馬界に大きな影響を与え続けている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1958

Shuette

スカイラヴィルS

1959

Bramalea

CCAオークス・ガゼルH

1960

Nalee

サンタイネスS・ブラックアイドスーザンS

1960

Tona

アラバマS・ヴァインランドH

1961

Journalist

ケンタッキージョッキークラブS

1961

National

オハイオダービー

1962

Gold Digger

ギャロレットH2回

1962

Marshua

CCAオークス・スカイラヴィルS・セリマS

1963

Aqua Vite

ウィルロジャーズS

1964

Diplomat Way

アーリントンワシントンフューチュリティ・ブルーグラスS・ニューオーリンズH

1964

Nashua Pilot

アーケイディアH

1965

Bugged

ガーデンステートS

1966

Governor's Party

サンバーナーディノH・ゴールデンゲートH

1966

Right Cross

サンシメオンH

1966

Shuvee

エイコーンS・マザーグースS・CCAオークス・フリゼットS・セリマS・コティリオンH・アラバマS・レディーズH・トップフライトH2回・ダイアナH2回・ベルデイムS・ジョッキークラブ金杯2回

1966

Spring Sunshine

ゴールデンロッドS

1968

You All

アッシュランドS

1969

Fairway Flyer

フォールズシティH・クラークH・ダイアナH(米GⅡ)・フォールズシティH(米GⅢ)・ヴァリイフォージュH(米GⅢ)

1970

Captain Cee Jay

サンルイオビスポH(米GⅡ)

1971

Schoeller

ダフニ賞(仏GⅢ)

1972

Bombay Duck

ワールズプレイグラウンドS(米GⅢ)

1972

Guillaume Tell

ゴードンS(英GⅢ)

1973

Kesar Queen

コロネーションS(英GⅡ)

1975

Esop's Foibles

ルイジアナダービー(米GⅡ)・アーカンソーダービー(米GⅡ)

1975

Wickerr

デルマー招待H(米GⅡ)・エディリードH(米GⅡ)・エディリードH(米GⅢ)

1976

Beldale Ball

メルボルンC(豪GⅠ)

1976

Producer

フォレ賞(仏GⅠ)・オペラ賞(仏GⅡ)・ロワイヨモン賞(仏GⅢ)・クロエ賞(仏GⅢ)

1976

Tim the Tiger

サプリングS(米GⅠ)・カウディンS(米GⅡ)

1978

Flying Nashua

サンヴィンセントS(米GⅢ)

1978

Noble Nashua

スワップスS(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)・ドワイヤーS(米GⅡ)・ジェロームH(米GⅡ)

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