スワップス
和名:スワップス |
英名:Swaps |
1952年生 |
牡 |
栗毛 |
父:カーレッド |
母:アイアンリワード |
母父:ボーペール |
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快速を武器にケンタッキーダービーを勝った後に右前脚の裂蹄と闘いながら世界レコードを実に5回も記録した20世紀カリフォルニア州産の最強馬 |
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競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績25戦19勝2着2回3着2回 |
誕生からデビュー前まで
米国カリフォルニア州チノランチ牧場において、同牧場の所有者レックス・C・エルスワース氏によって生産・所有された。現在においてもカリフォルニア州は米国における馬産の中心地とは言えないが、当時はさらにケンタッキー州との格差が大きく、カリフォルニア州産馬である本馬は、言うなれば日陰者だった。アリゾナ州でカウボーイをしていたエルスワース氏は、1930年代初頭に虎の子の600ドルをはたいてケンタッキー州で8頭の馬を買い、馬産家としてのキャリアをスタートさせていた。そして徐々に実績を積み重ね、本馬の父カーレッドをデンバー銀行から借りた16万ドルで導入して種牡馬入りさせていた。エルスワース氏は、アリゾナ州に住んでいた幼少期からの学友だったカリフォルニア州の調教師メッシュ・テニー師に本馬を預けた。
当時の米国競馬界においては、競走馬を甘やかす事は不要であるという考え方が一般的だったが、敬虔なモルモン教信者だったエルスワース氏やテニー師はそれとは異なる考え方の持ち主だった。要するに彼等は放任主義であり、本馬は良く言えば自由気儘に、悪く言えばほったらかしにされて育った。それに限らずエルスワース氏は独自の理論を持つ人物であり、牧場を捕虜収容所のように塹壕と鉄条網で囲んでみたり、馬の育成には通常の牧草ではなく人工的に作り上げた飼料を用いたりしていた。エルスワース氏のこれらの手法は、テニー師と意見を交換しながらのものだったらしく、それが本馬の馬名“Swaps(交換)”の由来となったという。後に本馬の好敵手となるナシュアの主戦を務めたエディ・アーキャロ騎手は、本馬を「史上最悪の管理体制で育った馬」と呼んだほどだった。
なお余談だが、本馬が競走馬を引退した6~7年後の1962・63年にエルスワース氏のチノランチ牧場は北米首位馬主になる成功を収めたが、1970年代には経営難に陥り、1974年の暮れには関係者達が牧場に馬を置き去りにして行方をくらましてしまうことになる。置き去りにされた馬達のうち、本馬の母アイアンリワードを含む130頭以上が翌1975年に餓死しており、チノランチ牧場の経営陣は動物虐待の罪で告発されたという。
本馬の話に戻すが、テニー師によると、本馬は食べて寝る事が何よりも好きな馬だったという。テニー師自身も馬屋で本馬と一緒になって寝る事を好んだ。こんな環境でも本馬は歴史的名馬に育ったのだから、不思議といえば不思議だが、競走馬の育成というのは馬の個性に応じて方法が違って当然であり、本馬にはこうした環境が適合したということなのだろう。食べて寝る生活が影響したのか、本馬は成長すると体高16.2ハンド、体重は1200ポンド近い大型馬になった。しかし身体の脂肪は少なく、非常に筋肉質な馬体を誇っていた。特に胸の筋肉の発達度合が素晴らしかったという。大柄で筋肉質だったにも関わらず、馬体はあくまでも柔軟で、軽快に走ることが出来たという。走る際は「火の玉のようだ」と評されたが、通常時は「子羊のように従順」と評された気性の持ち主だった。
競走生活(2歳時)
2歳5月にハリウッドパーク競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦で、やはりモルモン教信者だったジョニー・バートン騎手を鞍上にデビューして、2着アイリッシュチアーに3馬身差で勝ち上がった。しかし翌6月に出走したウエストチェスターH(D5F)では、バックホー、本馬の母アイアンリワードの半弟で本馬とは同い年のトレントニアンの2頭に屈して、勝ったバックホーから2馬身1/4差の3着に敗退した。3戦目のジューンジュヴェナイルS(D5F)でもトレントニアンとの対戦となった。今回は甥の本馬が叔父のトレントニアンを2馬身半差の2着に退けて勝利した。しかし次走のハギンS(D5F)では、ミスターサリヴァン、バックホーの2頭に屈して、ミスターサリヴァンの2馬身差3着に敗退。7月のチャールズSハワードH(D5.5F)では、カーネルマック、ミスターサリヴァン、バックホー達に屈して、勝ったカーネルマックから8馬身3/4差をつけられた5着と完敗した。
その後は5か月間の休養に入り、12月末にサンタアニタパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰した。ここではバートン騎手に代わって名手ウィリー・シューメーカー騎手を鞍上に迎えた。そして2着ボーブッシャーに鼻差で辛うじて勝利を収めた。なお、シューメーカー騎手はこの後に本馬の主戦となり、本馬の大半のレースで騎乗する事になる。2歳時の成績は6戦3勝であり、この時点ではこれといって目立つ成績ではなかった。
競走生活(3歳前半)
しかし3歳初戦となった1月のサンヴィンセントS(D7F)では、ゴールデンゲートフューチュリティを勝っていた叔父のトレントニアンを3馬身半差の2着に、ゴールデンゲートフューチュリティ2着馬ジーンズジョーを3着に退けて勝ち、ようやく頭角を現し始めた。しかし不良馬場で行われたこのレースを走った事が災いしたのか、本馬は右前脚の蹄に感染症を起こしてしまい、蹄を切開して膿を出す手術が行われた。テニー師は本馬の蹄を保護するために、柔らかい革を詰めた特製蹄鉄を考案し、本馬に装着させた。
そして僅か12日の休養で調教に復帰し、サンヴィンセントSからちょうど1か月後にはサンタアニタダービー(D9F)に参戦してきた。ここではシューメーカー騎手ではなくジョニー・ロングデン騎手とコンビを組んだ。レースでは直線でよれる場面こそあったが、サンヴィンセントS3着後にサンフェリペSを勝っていたジーンズジョーを半馬身差の2着に、デルマーフューチュリティの勝ち馬ブルールーラーを3着に破って勝利。これで米国西海岸のトップホースとしての地位を確立した。
その後はケンタッキーダービーを目指して東に向かった。同行したテニー師はホテル代をけちり、いつもどおり馬屋の中で本馬と一緒に寝ることにした。西海岸最強3歳馬と言っても、東海岸における本馬の注目度は低かった。当時の競馬界の注目を集めていたのは、ジュヴェナイルS・グランドユニオンホテルS・ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・フラミンゴS・フロリダダービー・ウッドメモリアルSを勝って東海岸最強3歳馬と言われていた前年の米最優秀2歳牡馬ナシュアと、ジュヴェナイルS・ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・ウッドメモリアルSではナシュアの2着に敗れていたがカウディンSではナシュアを2着に破っていたユースフルS・ユナイテッドステーツホテルS・ガーデンステートSの勝ち馬サマータンの2頭だった。そんな状況下でケンタッキー州に到着した本馬は、まずはチャーチルダウンズ競馬場ダート6ハロンの一般競走に、シューメーカー騎手鞍上で出走。このレースにはアーカンソーダービーの勝ち馬トリムデスティニーが出走していたが、本馬がトリムデスティニーを8馬身半差の2着に破って圧勝し、前年からの連勝を4に伸ばした。この圧勝ぶりで、ようやく西海岸からの挑戦者である本馬にも注目が集まるようになった。
そして迎えたケンタッキーダービー(D10F)では、ナシュア、サマータンに加えて、ブルーグラスSの勝ち馬レーシングフール、シャンペンS・ダービートライアルSの勝ち馬でピムリコフューチュリティ2着のフライングフューリー、サンタアニタダービー2着後にブルーグラスS・ダービートライアルSでも2着していたジーンズジョー、トリムデスティニー、フロリダダービー2着馬ブルーレム、ダービートライアルS3着馬ナベスナ、サンタマリアH・ハリウッドオークス・ハリウッドダービー・ヴァニティH・トップフライトHなどを制した名牝ハネムーンの息子ハニーズアリバイ(名牝ダリアの母父)の計9頭が対戦相手となった。アーキャロ騎手騎乗のナシュアが単勝オッズ2.3倍の1番人気に支持され、シューメーカー騎手騎乗の本馬は単勝オッズ3.8倍の2番人気となった。
スタートが切られると、まずはハニーズアリバイがナシュアを抑えて先頭を伺ったが、それを本馬が外側からかわしていき、先頭が本馬でナシュアが3番手という位置取りでレースが進んだ。そのうちハニーズアリバイが遅れてナシュアが2番手に上がり、さらに直線入り口で先頭の本馬を捕らえにかかった。しかしここから二の脚を使った本馬がナシュアの追撃を1馬身半差で封じて優勝した。ナシュアも3着サマータンには6馬身半差をつけており、決して凡走したわけではなかったのだが、本馬には敵わなかった。本馬の勝ちタイム2分01秒8は、1941年の同競走でワーラウェイが計時したコースレコード2分01秒4に0秒4だけ届かない好タイムだった。なお、前年のケンタッキーダービーもカリフォルニア州産馬のディターミンが勝っており、日陰者とされていたカリフォルニア州産馬が2年連続でケンタッキーダービーを勝った事になった。レース後にテニー師は今度こそまともなホテルに泊まるようになったかと思いきや、今度は自動車の中で寝ることにしたそうである。
そのままプリークネスSを目指すかと思われたが、蹄の状態が悪化したためにそのまま西海岸に戻ることになり、プリークネスSとベルモントSには出走しなかった。もっとも、エルスワース氏は7500ドルの追加登録料を嫌ってプリークネスSに本馬を出走登録しておらず、最初からケンタッキーダービーのみの参戦という考えだったようである。なお、本馬不在の2競走は共にナシュアが制している。
競走生活(3歳後半)
本馬は西海岸に戻った後も連勝を続けた。ステークス競走で初めて1番人気に支持された5月末のウィルロジャーズS(D8F)では、カブリロSの勝ち馬ビクィースを12馬身差の2着に、かつて幾度か苦杯を舐めさせられたミスターサリヴァンを3着に破って大勝した。それから12日後に出走した創設2年目のカリフォルニアンS(D8.5F)では、サンタアニタダービー・サンガブリエルS・サンフェリペS・ベイメドウズダービー・ゴールデンゲートH・マリブS・サンタアニタマチュリティSなども勝ち前年の同競走で2着していた前述のディターミンが出走してきて、カリフォルニア州産のケンタッキーダービー馬対決となった。さらには、前年のサンタアニタHを筆頭にウェスターナーS・アメリカンH・ホーソーン金杯H・サンパスカルHを勝っていたリジェクティドも参戦してきて、古馬も含めた西海岸最強馬決定戦となった。結果は本馬が2着ディターミンに1馬身1/4差をつけて勝利した。ゴール前は完全に馬なりだったにも関わらず、勝ちタイム1分40秒4は世界レコードだった。7月に出走したウェスターナーS(D10F・現ハリウッドダービー)では、単勝オッズ1.05倍という断然の1番人気に支持された。レースでは道中で後続馬に10馬身差をつける大逃げを打ち、ゴール前は流して、2着ファビュラスべガスに6馬身差をつけて完勝した。
この頃、東海岸の競馬関係者やファン達は、ナシュアが本馬に雪辱する機会を熱望していた。アーキャロ騎手も、今のナシュアならスワップスは敵ではないと本馬陣営を挑発。それに焦ら立ちを募らせたエルスワース氏とテニー師がナシュアとの再戦を受諾したため、8月31日にイリノイ州シカゴにあるワシントンパーク競馬場において、本馬とナシュアの10万ドルを賭けたダート10ハロンのマッチレースが行われることが決定した。
このマッチレースに出走するために本馬はワシントンパーク競馬場に向かい、まずは本番11日前に行われたアメリカンダービー(T9.5F)に出走。本馬にとっては初の芝レースとなった上に、ウィザーズS・オハイオダービーの勝ち馬で後にジェロームH・ウッドワードS・メトロポリタンH・サバーバンHなどを勝つトラフィックジャッジという強豪馬が出走してきた。しかし1分54秒6のコースレコード(及び全米タイレコード)を樹立した本馬が、2着トラフィックジャッジに1馬身差をつけて勝利を収め、連勝を9まで伸ばした。
しかし本馬の持病である右前脚の裂蹄はこの時期に急激に悪化していた。それでも陣営は本馬をナシュアとのマッチレースに参戦させた。本馬の脚の状態を知らないファン達は、本馬を単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持した(対するナシュアは単勝オッズ2.2倍)。ワシントンパーク競馬場には3万5262人の観衆が詰め掛け、CBSテレビの全国放送の視聴者を合わせると、全米で5000万人がこのレースに注目した。かつてシービスケットとウォーアドミラルが激突した1938年のピムリコスペシャル以来となる東西戦争として絶大な盛り上がりを見せたのだが、残念ながら17年前のような手に汗を握る名勝負にはならなかった。痛む脚を引き摺るように走った本馬は、まったくいつもの走りを見せることが出来ず、スタートから先手を奪ったナシュアに6馬身半差をつけられて惨敗してしまったのである。勝ったナシュアも全力で走ったわけではなく、勝ちタイム2分04秒2は、同距離のケンタッキーダービーにおける本馬の勝ちタイム2分01秒8より2秒4も遅かった。それでも本馬は惨敗したのだから、最初から公平な競走でなかった事は明らかだったと言われている。後に本馬が種牡馬生活を送ったダービーダンファームの運営者オーリン・ジェントリー氏は「私はエルスワース氏の事を好きでしたが、彼がスワップスをこのマッチレースに出走させたことだけは許せません。あまりにも脚が痛かったので、スワップスは脚をどのように地面に置いて走ればよいのかさえも分かりませんでした」と述懐している。エルスワース氏自身も、後になってこの強行参戦は失敗だったと認めている。
蹄の治療のために長期休養に入った本馬は、この年は以降レースに出る事はなかった。3歳時は9戦8勝の好成績を残したのだが、米年度代表馬及び米最優秀3歳牡馬の座は、12戦10勝の成績を挙げたナシュアに奪われてしまった。
競走生活(4歳前半)
西海岸に戻った本馬は、半年の休養を経て4歳2月に復帰したが、まだ蹄の状態は万全とは言えなかった。まずはサンタアニタパーク競馬場で行われたロサンゼルスカウンティフェアH(D8.5F)に出走した。ここでは、サンフォードS・ポーモノクH・カーターH・サンフランシスコH・タンフォランH・サンパスカルH・サンマルコスHを勝っていたボビーブロカートという強敵が対戦相手となった。本馬には127ポンドが課されたが、逃げて勝つレースが殆どだった今までと異なり、珍しく控えるレースぶりとなった。理由はよく分からないが、本馬の脚の状態を慮ったシューメーカー騎手が無理をさせなかったと考えるのが妥当だろう。それでもボビーブロカートを1馬身3/4差の2着に退けて勝ち、復帰戦を白星で飾った。
通常であればその後はサンタアニタHを目指すところだが、サンタアニタHはロサンゼルスカウンティフェアHから僅か8日後という強行軍であり、まだ蹄の状態が万全でない事を懸念した陣営は、サンタアニタH参戦を自重した。本馬不在のサンタアニタHはボビーブロカートが勝利した。
少し休養した本馬は4月にフロリダ州ガルフストリームパーク競馬場に向かい、ブロウォードH(D8F70Y)に出走した。ここでは130ポンドの斤量を課され、他馬とは15ポンド以上の差があった。それにも関わらず、1分39秒6の世界レコードを樹立して、2着ガルダーに2馬身1/4差で勝利した。
その後は西海岸に戻って、5月のカリフォルニアンS(D8.5F)で2連覇を狙った。ここには、前年の同競走で3着した後にピムリコスペシャルで2着してサンアントニオHを勝っていたミスターガス(後にこの年のウッドワードSでナシュアを2着に破って勝利している)、ベルモントフューチュリティS・サンカルロスH2回・パロスヴェルデスH・サンタバーバラHを勝ちサンタアニタHで3着していた3年前の米最優秀2歳牡馬ポーターハウスといった実力馬が出走してきた。127ポンドを課せられた本馬は快調に先頭を飛ばし、直線では後続勢に4馬身ほどの差をつけた。これで勝ったと安心したシューメーカー騎手が手綱を緩めた隙を突かれて、9ポンドのハンデを与えたポーターハウスに差されて頭差の2着に敗れた。当然のようにシューメーカー騎手は非難を受けたが、脚が悪い本馬に無理をさせたくなかったらしいという事情が斟酌されて、本馬の主戦を降ろされることは無かった。しかしシューメーカー騎手の反省は少し足りなかったのか、彼はギャラントマンに騎乗して出走した翌年のケンタッキーダービーでゴール板を誤認して、本馬の叔父アイアンリージに敗れるという大失態を犯すことになる。
気を取り直して6月に出走したアーゴノートH(D8F)では、ボビーブロカート、ポーターハウスとの再戦となった。本馬不在のサンタアニタHを勝利したボビーブロカートは、その後もサンフアンカピストラーノ招待H・サンフランシスコH・タンフォランHを勝つなど絶好調だった。しかし1950年のゴールデンゲートマイルHでサイテーションが樹立した世界レコード1分33秒6を0秒4更新する1分33秒2で駆け抜けた本馬が、ボビーブロカートを1馬身1/4差の2着に、ポーターハウスを3着に破って勝利した。
2週間後に出走したイングルウッドH(D8.5F)では130ポンドを背負いながら、最初の1マイル通過が1分32秒6というとんでもないペースで飛ばしまくった。そして最後は自身が前年のカリフォルニアンSで樹立したダート8.5ハロンの世界レコード1分40秒4を1秒4も更新する1分39秒0というとてつもない快タイムを叩き出し、カリフォルニアンSで3着だったミスターガスを2馬身3/4差の2着に、ボビーブロカートを3着に破って快勝した。なお、このイングルウッドHから、本馬は全戦130ポンドの斤量を背負って走る事になる。
7月初めのアメリカンH(D9F)でも、19ポンドのハンデを与えたミスターガスを1馬身3/4差の2着に、ボビーブロカートを3着に破って勝利した。このレースの勝ちタイム1分46秒8は、1950年のフォーティナイナーズHにおいてヌーアが計時した世界レコードと同タイムだったが、ヌーアがそのときに背負っていた斤量は123ポンドだったから、それより7ポンド重い斤量で走った本馬の方がより優秀であると言える。
それから10日後に出走したハリウッド金杯(D10F)では、ミスターガスを2馬身差の2着に、ポーターハウスを3着に破り、前年の同競走でリジェクティドが計時した1分59秒6のコースレコードを1秒も更新する1分58秒6の好タイムで勝利を収めた。
さらに11日後に出走したサンセットH(D13F)では、それまでの記録を2秒4も更新する2分38秒2というダート13ハロンの世界レコード(現在も破られておらず、同距離のレースが殆ど無くなった今日となっては破られることはないだろう)を樹立して、2着ハニーズアリバイに4馬身1/4差をつけて完勝した。
競走生活(4歳後半)
8月になると、前年と同じくワシントンパーク競馬場に遠征した。まずは2度目の芝レースとなる新設競走アークワード記念H(T8.5F)に出走した。しかしあまりにも堅すぎる馬場状態のために脚の痛みが再発してしまい、直線で失速。仏国でバルブヴィル賞・アルクール賞・コンセイユミュニシパル賞を勝ちサンクルー大賞で2着した後に米国に移籍してきた翌年のワシントンDC国際Sの勝ち馬マハン、豪州でカンタベリーギニー・AJCダービー・ヴィクトリアダービー・ローソンS・オールエイジドS・ジョージメインSなどを勝った後に米国に移籍してきたプリンスモルヴィといった面々に屈して、勝ったマハンから6馬身1/4差をつけられた7着に惨敗した。
翌9月に出走したワシントンパークH(D8F)では、かつてケンタッキーダービーで対戦したサマータンと顔を合わせた。ケンタッキーダービーで3着に敗れたサマータンは、その後の3歳シーズンを故障で棒に振っていたが、4歳になって復帰するとエッジメアH・アーリントンH・ホイットニーSでいずれも2着と勝てないまでも好走していた。このワシントンパークHの後にはヴォスバーグH・ギャラントフォックスH・ピムリコスペシャルを勝っており、ナシュアに次ぐ東海岸の実力者としての地位を維持していた。レースはサマータンが前半の半マイルを44秒2という超ハイペースで飛ばし、それを追いかけた本馬は6ハロンを1分07秒8という芝並みのラップで通過。結局本馬が2着サマータンに2馬身差で勝利したが、勝ちタイム1分33秒4は自身の持つ世界レコードにコンマ2秒まで迫るもので、それまでの記録を2秒も更新するコースレコードだった。
次走は9月にアトランティックシティ競馬場で行われるユナイテッドネーションズHが予定されていたが、蹄の状態が非常に悪化してしまい、膿を摘出する手術が2度も行われた。結局ユナイテッドネーションズHはレース1時間前に回避し、11月のワシントンDC国際Sが次の目標として設定された。
しかしそれに向けたガーデンステート競馬場における10月の調教中に、後脚の脛骨を2箇所骨折してしまった。ギプスを装着して治療が行われたが、事故の数日後に苦痛で暴れた際にギプスを壊し、症状が悪化して本馬の生命は危機的状況に晒された。この本馬の苦境を救ったのは意外な人物だった。それは好敵手ナシュアを管理していたサニー・ジム・フィッツシモンズ調教師だったのである。フィッツシモンズ師は本馬の元を訪れると、天井から本馬の身体を吊るすための三角巾を設計して本馬に装着させた。さすがに米国競馬史上屈指の名伯楽フィッツシモンズ師だけあって、彼の措置は的確であり、これでひとまず骨折がそれ以上悪化する事態は避けられた。しかし感染症を防ぐために45分ごとに体勢を整え直す必要があり、テニー師は不眠不休で本馬の看護に当たった。1か月に及ぶ闘病生活で本馬の体重は300ポンド(約136kg)も減ってしまったが、ほぼ似たような状況下だったテンポイントと異なり、本馬は奇跡的に一命を取り留めることができた。
当然現役を続行できるはずもなく、そのまま競走馬引退となったが、4歳時は10戦8勝の成績で、サバーバンH・ジョッキークラブ金杯勝ちなど10戦6勝のナシュアを抑えて、前年は獲得できなかった米年度代表馬と米最優秀ハンデ牡馬のタイトルを獲得した。
この4歳時には、10戦中7戦で130ポンドを背負い、残り3戦も127~128ポンドという斤量を背負っていたが、それでも4つの異なる距離で世界レコードを記録した。本馬が樹立した世界レコードは延べ5回(タイレコードを含めると6回)であり、ウィリアム・H・P・ロバートソン氏は著書“History of Thoroughbred Racing in America”の中で、本馬を「史上最高の世界レコードコレクター」と評している。
本馬は凱旋門賞2連覇の欧州調教馬リボーと同世代であり、本馬の全盛期である4歳時はリボーの全盛期とも重なっていた。欧州においてはリボーこそ世界最強の馬であるという意見が主流だったが、米国では西海岸だけでなく東海岸においてもスワップスこそが世界最強の馬であるという意見の人ばかりだったという。
血統
Khaled | Hyperion | Gainsborough | Bayardo | Bay Ronald |
Galicia | ||||
Rosedrop | St. Frusquin | |||
Rosaline | ||||
Selene | Chaucer | St. Simon | ||
Canterbury Pilgrim | ||||
Serenissima | Minoru | |||
Gondolette | ||||
Eclair | Ethnarch | The Tetrarch | Roi Herode | |
Vahren | ||||
Karenza | William the Third | |||
Cassinia | ||||
Black Ray | Black Jester | Polymelus | ||
Absurdity | ||||
Lady Brilliant | Sundridge | |||
Our Lassie | ||||
Iron Reward | Beau Pere | Son-in-Law | Dark Ronald | Bay Ronald |
Darkie | ||||
Mother in Law | Matchmaker | |||
Be Cannie | ||||
Cinna | Polymelus | Cyllene | ||
Maid Marian | ||||
Baroness La Fleche | Ladas | |||
La Fleche | ||||
Iron Maiden | War Admiral | Man o'War | Fair Play | |
Mahubah | ||||
Brushup | Sweep | |||
Annette K. | ||||
Betty Derr | Sir Gallahad | Teddy | ||
Plucky Liege | ||||
Uncle's Lassie | Uncle | |||
Planutess |
父カーレッドは当馬の項を参照。
母アイアンリワードは米で走り8戦未勝利。アイアンリワードの半弟には、本馬と同い年で直接対決も何度かあったトレントニアン(父ブルリー)【ゴールデンゲートフューチュリティ・サンブルーノS・エルカミノH】の他に、本邦輸入種牡馬アイアンリージ(父ブルリー)【ケンタッキーダービー・ジャージーS・シェリダンH・マクレナンH】がいる。また、アイアンリワードの祖母ベティデルの半兄には1929年のケンタッキーダービー馬クライトヴァンデューセンがおり、不思議とケンタッキーダービーには縁がある血統である。アイアンリワードが産んだ本馬以外の主な産駒は、本馬の3歳年下の全弟ザシュー【シネマH・デルマーダービー】、3戦未勝利ながら種牡馬として14頭のステークスウイナーを出した7歳年下の全弟セミプロなどである。アイアンリワードは1955年に本馬の活躍によりカリフォルニア州最優秀繁殖牝馬に選ばれている。アイアンリワードはかなり長寿を保った馬だが、前述のとおりチノランチ牧場の経営陣が牧場を見捨てて夜逃げした後の1975年に29歳で餓死した。
本馬の全姉トラックメダルは母としてツタンカーメン【マンハッタンH・ドンH】、フールズゴールド【ムシドラS】、アウティングクラス【ホープフルS・サラナクH・ドワイヤーH】、オハラ【サンセットH】と活躍馬を続出させている。トラックメダルの牝系子孫には、オープンコール【加国際S(加GⅠ)】、ミダスアイズ【フォアゴーH(米GⅠ)】などがいる。また、本馬の全妹アイアンエイジは日本に繁殖牝馬として輸入され、孫にサクラサニーオー【アルゼンチン共和国杯(GⅡ)・京成杯(GⅢ)】、曾孫にダンディコマンド【北九州記念(GⅢ)】、玄孫世代以降にトランセンド【ジャパンCダート(GⅠ)2回・フェブラリーS(GⅠ)・マイルCS南部杯(GⅠ)・レパードS・みやこS(GⅢ)・2着ドバイワールドC(首GⅠ)】、クロフネサプライズ【チューリップ賞(GⅢ)】、マイネルラクリマ【オールカマー(GⅡ)・京都金杯(GⅢ)・七夕賞(GⅢ)】を出している。本馬が属するアメリカンファミリー4号族は、所謂アメリカンファミリーに分類される中では現在最も繁栄している部類に入るが、実際にはファミリーナンバー21号族に由来するという説が有力である。→牝系:F21号族②
母父ボーペールはサンインローの直子で、現役時代は英国で走り11戦3勝。勝ったレースは全て下級ハンデ競走という地味な競走成績だったが、母が英1000ギニーの勝ち馬で英オークス2着のシナ(シナの祖母は名牝ラフレッチェであり、サンデーサイレンスとは同じ牝系である)という血統が評価されて種牡馬入りを果たした。後に新国・豪州で供用されたが、新国では2度の首位種牡馬に輝き、豪州でもコックスプレートとマッキノンSを共に2連覇したボーヴィートを出すなど成功を収めた。それが評価されて10万ドルで米国カリフォルニア州に輸入された。そして米国でも多くの活躍馬を出して成功を収めた。本馬と同世代のハニーズアリバイの母ハネムーンもボーペール産駒である。1946年の種付け料は2500ドルで、これは同時代の米国供用種牡馬の中で最も高い金額だった。その後にケンタッキー州スペンドスリフトファームに購入されたが、1947年の繁殖シーズンが始まって間もなく20歳で他界している。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は西海岸に戻り、空港で何千人ものファン達から歓迎された。そしてそのままカリフォルニア州で種牡馬入りしたが、生まれ故郷で過ごした期間はごく短かった。種牡馬シーズン1年目が終了した直後に、ケンタッキー州ダービーダンファームの所有者ジョン・W・ガルブレイス氏により200万ドルで購入され、ダービーダンファームに移り住んだのである。本馬は二度とカリフォルニア州の土を踏むことはなかったが、1958年7月にはハリウッドパーク競馬場に本馬とシューメーカー騎手の銅像が建てられた。1966年にはナシュアより1年遅れで米国競馬の殿堂入りを果たした。1967年にはナシュアも当時繋養されていたケンタッキー州スペンドスリフトファームに移動した。その5年後の1972年11月に20歳で他界した。遺体はいったんスペンドスリフトファームに埋葬されたが、後の1986年に遺骨が掘り出されて、チャーチルダウンズ競馬場にあるケンタッキーダービー博物館の庭に移された。現在は、かつて自身が全米に名を轟かせたチャーチルダウンズ競馬場のゴールラインからちょうど100ヤード離れた場所に眠っている。
本馬の種牡馬成績に関して、原田俊治氏は著書「新・世界の名馬」のナシュアの項の中で「スワップスの種牡馬成績は期待をかなり下回った」と辛口の評価をしている。しかし実際にはそこまで悪い種牡馬成績ではなく、シャトーゲイやアフェクショネイトリーなど35頭のステークスウイナーを出し、ステークスウイナー率は8%と、いずれも水準以上の成績を挙げている。米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトにおいては「彼はナシュアよりもステークスウイナーの数は少なかったですが、より質が高い馬を誕生させました」と、ナシュアに引けを取らない種牡馬成績だったという評価を下している。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第20位。
ファーザーズイメージは日本に種牡馬として輸入され皐月賞馬ハワイアンイメージを出した。また同じく日本に種牡馬として輸入された産駒のフェートメーカーはダート王者フェートノーザンやカウンテスアップを出した。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1958 |
Primonetta |
プライオレスS・アラバマS・モリーピッチャーH・スピンスターS・フォールズシティH |
1959 |
Black Beard |
ジェロームH |
1960 |
ソロリティS・スピナウェイS・ヴォスバーグS・ラスフローレスH・ディスタフH・トボガンH・トップフライトH・ヴェイグランシーH |
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1960 |
ケンタッキーダービー・ベルモントS・ブルーグラスS・ジェロームH |
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1960 |
Main Swap |
アスタリタS |
1960 |
No Robbery |
ウッドメモリアルS |
1962 |
Eurasian |
ランプライターH |
1964 |
Irish County |
アスタリタS |
1967 |
Jogging |
タイダルH(米GⅡ) |
1967 |
Lady Vi-E |
ケンタッキーオークス |
1967 |
Pass the Drink |
ラウンドテーブルH |
1971 |
Green Gambados |
ローマーH(米GⅡ)・ファウンテンオブユースS(米GⅢ)・ディスカヴァリーH(米GⅢ) |
1972 |
Laramie Trail |
ゴーサムS(米GⅡ)・ベイショアS(米GⅢ) |
1973 |
スピリットスワプス |
きさらぎ賞 |