リボー

和名:リボー

英名:Ribot

1952年生

鹿毛

父:テネラニ

母:ロマネラ

母父:エルグレコ

圧勝に次ぐ圧勝で凱旋門賞2連覇・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS制覇など生涯戦績16戦全勝の成績を残した伊国の誇る世紀の名馬

競走成績:2~4歳時に伊仏英で走り通算成績16戦16勝

凱旋門賞2連覇など輝かしい実績を誇り、サラブレッドの理想型と言われた20世紀欧州競馬界を代表する名馬中の名馬。

誕生からデビュー前まで

1952年2月27日に誕生した本馬の生産者は、かつて大種牡馬ネアルコを世に送り出した伊国の天才馬産家フェデリコ・テシオ氏だった。母ロマネラが交配のため英国ニューマーケットのナショナルスタッドに来ている際に誕生したため、形式上は英国産馬ということになっている。

本馬は幼少期から非常に小柄で、“il piccolo(イル・ピッコロ。意味は「ちびすけ」)”と呼ばれていた。地元伊国の資料では、幼少期の本馬は“Un brutto anatroccolo(醜いアヒルの子)”だったと評されている。この「イル・ピッコロ」という愛称は日本でもよく知られているが、長じてもずっとこれで呼ばれていたわけではない。幼少期は確かに小柄だった本馬だが、成長すると体高16ハンドと平均的な身長まで成長していたからである(映像や写真で競走馬時代の本馬を見ると、確かに他馬と比較してそれほど小柄ではない)。成長後の本馬の愛称は“il cavallo super(イル・カバロ・シュペール。意味は「スーパーホース」)”で、例えばキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSのレース映像でもこのように紹介されている。しかし本馬は成長しても小柄なままだったと誤解している人が海外にも日本にも少なくないようである。ただし身長は伸びても体重はそれほど増えず、競走馬全盛期の馬体重は900ポンド(約410kg)しかなかったらしく、「ちびすけ」ではないにしても「痩せっぽち」ではあったようである。

テシオ氏は本馬がデビューする2か月前の1954年5月に85歳で死去しており、テシオ氏がデビュー前の本馬に対してどのような評価をしていたかは謎に包まれている。ただ、本馬は伊国クラシック登録をされていなかった事から、テシオ氏は小柄すぎる本馬の事をそれほど高く評価していなかったという説が海外では一般的である。「確かに体は小さいが、この資質と馬格は凡馬のものではない。将来きっと優秀な馬になるだろう」とリディア夫人に語ったという説もあるし、伊国クラシック登録をされなかったのは、伊国クラシック競走に収まる器ではないとテシオ氏が判断したからだとする説もあるようだが、これらの説は、テシオ氏ほどの名馬産家が本馬ほどの名馬に対する評価を誤るわけがないと思ったテシオ氏信奉者の(悪く言えば)妄想である可能性が高いだろうと筆者は考えている。当時既に80歳を過ぎていたテシオ氏の相馬眼が衰えていたとしても何ら不思議ではないし、伊国クラシック競走に収まる器ではないから登録をしなかったからという説が真実なら英国や仏国のクラシック競走に登録していても良さそうなものだが、そのような形跡は無いからである。

いずれにしてもテシオ氏の死により、本馬はテシオ氏のドナ・リディア未亡人と、テシオ氏と共にドルメロ牧場を経営していたマルケーゼ・マリオ・インチサ・デラ・ロチェッタ侯爵の共同名義となった。管理調教師はウゴ・ペンコ師、主戦は本馬の全競走に騎乗する事になるエンリコ・カミーチ騎手だった。

競走生活(2歳時)

2歳7月に伊国ミラノにあるサンシーロ競馬場(本馬が伊国内で走った13戦中12戦はここで走っている)で行われたトラムスキオ賞(T1000m)でデビューし、同馬主同厩で父も同じテネラニだった牝馬ドナタベネチアナを1馬身差の2着に退けて勝利した。2戦目は現在で言うところのGⅢ競走クラスであるクリテリウムナチオナーレ(T1200m)となり、2着ゼノドトに2馬身差で楽勝した。

3戦目は伊国最強2歳馬決定戦である伊グランクリテリウム(T1600m)となった。過去2戦より距離が伸びたため、カミーチ騎手が距離をもたせるために抑えたところ、折り合いを欠いてしまい、なかなか先行馬を捕らえられなかったが、何とか2着ガイルに頭差で勝利した。これ以後の本馬は全てのレースにおいて、スタートから逃げるか、逃げ馬を見るように進む先行策を採ることになる。2歳時の成績は3戦全勝で、伊最優秀2歳牡馬に選ばれた。

競走生活(3歳前半)

3歳時は3月にピサ競馬場で行われたピサ賞(T1500m)から始動した。ここでは終始馬なりのまま走り、デビュー戦で1馬身差の2着に破ったドナタベネチアナを今度は6馬身差の2着に下して圧勝した。続いてサンシーロ競馬場に向かい、現在で言うところのGⅡ競走クラスであるエマヌエーレフィリベルト賞(T2000m)に出走。前年の伊グランクリテリウムで苦戦させられたガイルを10馬身差の2着に葬り去って圧勝した。ガイルも3着デレイン(本馬と同じテネラニ産駒で、後の伊セントレジャーの勝ち馬)には5馬身差をつけていたから凡走したわけではなかったのだが、既に本馬にはまったく歯が立たなかった。しかし本馬はこのレース直後に脚の球節を痛めてしまい、勝ち馬表彰式場に到着するまで5分間を要した。理由はあまりに堅い馬場で走ったためだとされている。

悪い事は続くもので、本馬は呼吸器疾患も患ってしまった。伊国の競馬ファン達は本馬がそのまま引退するのではないかと非常に不安に感じたそうだが、不幸中の幸いで短期間の休養によりひとまず回復。エマヌエーレフィリベルト賞から3か月後のベンボ賞(T2200m)で復帰した。まだ体調は万全ではなかったようで、前走で15馬身差をつけたデレインを1馬身差の2着に抑えてなんとか勝利した。秋にはベサナ賞(T2400m)に出走。2週間後の伊セントレジャーを勝つ2着デレインに今度は10馬身差をつけて圧勝した。

競走生活(3歳後半):1度目の凱旋門賞制覇

デビュー以来7戦全勝の本馬は、今度は仏国に遠征して、故テシオ氏が生前一度も勝てなかった悲願を果たすべく、凱旋門賞(T2400m)に挑んだ。伊国内で無敵を誇る本馬も、伊国競馬自体が英仏と比較して一枚落ちと見なされていた当時の状況が影響して前評判はそれほど高くなく、単勝オッズ9.8倍の3番人気だった。ロワイヤルオーク賞・モーリスドニュイユ賞・ケルゴルレイ賞の勝ち馬マシプ(後にアスコット金杯に勝利)、ロベールパパン賞・モルニ賞・ユジェーヌアダム賞・プランスドランジュ賞の勝ち馬でヴェルメイユ賞2着の一昨年の仏最優秀2歳牝馬コルドヴァ、ダリュー賞の勝ち馬クルンなど、仏国の名馬産家マルセル・ブサック氏の所有馬4頭がカップリングで1番人気に支持され、この年の仏ダービー・オカール賞の勝ち馬ラパスが2番人気、仏グランクリテリウム・ユジェーヌアダム賞の勝ち馬でパリ大賞・英セントレジャー3着のボウプリンスが4番人気となっていた。他にも、愛ダービー・愛セントレジャー・デズモンドSの勝ち馬ザラズーストラ(後にアスコット金杯に勝利)、愛2000ギニー・レイルウェイSの勝ち馬でミドルパークプレート・愛ダービー2着のヒュールパス(後に英チャンピオンSに勝利)、この年の仏オークス馬でヴェルメイユ賞3着のドゥーヴ、イスパーン賞の勝ち馬フリック(後に2度目のイスパーン賞やコロネーションCなどに勝利)、ヴィシー大賞の勝ち馬でパリ大賞・ロワイヤルオーク賞2着のビーウイッチド(後にローマ賞・カドラン賞に勝利)、バルブヴィル賞・アルクール賞の勝ち馬でサンクルー大賞2着のマハン(後にコンセイユミュニシパル賞・ワシントンDC国際Sに勝利)、コンセイユミュニシパル賞・ジャンプラ賞の勝ち馬でサンクルー大賞2着のサヴォイア、カンバーランドロッジS・ハードウィックSの勝ち馬で英セントレジャー・英チャンピオンS2着・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS3着のエロープメント、コンデ賞・シャンティ賞・ヘンリードゥラマーレ賞の勝ち馬ヴァルハラ、マルレ賞の勝ち馬で仏オークス・ヴェルメイユ賞2着のピコウンダ、ジャンプラ賞・リス賞の勝ち馬フォーシュルヴァン、ヘンリードゥラマーレ賞の勝ち馬で愛ダービー2着・愛セントレジャー・伊ジョッキークラブ大賞3着のイダルゴ、リス賞の勝ち馬ミストラロール、仏ダービー3着馬ベニエなどのメンバーが揃っていた。

重馬場の中でスタートが切られると、マハンが先頭に立ち、本馬は逃げるマハンの後方2番手を追走した。最終コーナーを回ってすぐに先頭に立つと、馬なりのまま後続を引き離した。最後は2着ボウプリンスに3馬身差をつけて楽勝した。鞍上のカミーチ騎手が鞭を使用する場面は無く、むしろゴール前で手綱を抑えるほどの楽勝だった。

この勝利で欧州にその名を轟かせた本馬に対して、米国からワシントンDC国際S参戦の打診もあった。しかし陣営はその招待を断り、凱旋門賞の2週間後に行われる伊国最大のレースの1つである伊ジョッキークラブ大賞(T2400m)に本馬を向かわせた。このレースを一昨年・昨年と2連覇していたノルマン、前走のバーデン大賞を勝ってきたスタニといった、伊国や独国ではトップクラスの馬達が対戦相手となったが、いずれも本馬の敵ではなかった。本馬が2着ノルマンに15馬身差、3着スタニにはさらに5馬身差をつけて大圧勝した。3歳時の成績は6戦全勝で、伊最優秀3歳牡馬に選ばれた。

競走生活(4歳前半):キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSの制覇

4歳時は5月のグィリオヴェニノ賞(T2000m)から始動して、2着フスカルドに4馬身差で楽勝した。その僅か4日後にはヴィチュオーネ賞(T2400m)に出走して、2着マジストリスに12馬身差をつけて圧勝。次走のガルバニャーテ賞(T2000m)でも、前年の伊ダービー2着・イタリア大賞3着のグランドラピッズを8馬身差の2着に破って圧勝した。

引き続き、当時の伊国最大のレースであったミラノ大賞(T3000m)に出走した。この年の伊ダービーの勝ち馬バルバトニと同2着馬ヴィットールピサーニに加えて、イタリア大賞の勝ち馬ティソットなど、伊国内のトップレベルが勢揃いしたが、本馬はいつもどおりの走りで2着ティソットを8馬身ちぎって圧勝した(実際にはもっと離れていたとする意見もある)。ティソットは本馬が競走馬を引退して競馬場からいなくなった後に、伊ジョッキークラブ大賞・ローマ賞2回・伊共和国大統領賞と伊国内の大レースを総なめにして伊国最強馬として君臨するのだが、全く本馬の相手にはならなかった。

これで13戦全勝とした本馬は、今度は英国に遠征して、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(T12F)に参戦した。これは、前年に英タイムフォーム社が本馬に与えたレーティングが133ポンドで同世代のパッパフォーウェイ(139ポンド)より6ポンドも低いなど、英国における本馬の評価が低かったためだと言われている。その理由は、前年の凱旋門賞で破った馬のレベルに疑問符が付けられていたからであるらしい(これはあくまで当時の評価で、後から見れば前年の凱旋門賞のレベルは相当なものである)。このレースではこれといった対戦相手がいなかった事もあり、単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持された。

重馬場というよりも不良馬場に近い状態の中でスタートが切られるとハイヴェルツが先頭に立ち、トドレが2番手、スタートで後手を踏んだ本馬は3番手を追走した。やがてハイヴェルツはいったん位置取りを下げ、トドレと後方から上がってきたデーモンの2頭が先頭に立ち、本馬は相変わらず3番手だった。そのままの態勢で直線に入るとデーモンは脱落し、本馬がトドレを置き去りにして抜け出しにかかった。しかしここでいったん後方まで下がっていたハイヴェルツが内側から本馬に並びかけてきた。カミーチ騎手は必死になって本馬を追ったが、ハイヴェルツをなかなか引き離す事が出来なかった。しかし残り1ハロン地点から瞬間的に差を広げ、最後は2着ハイヴェルツに5馬身差をつけて優勝した。

明らかに格下のハイヴェルツと直線半ばで併走になった事から、このレース後に英国における本馬の評価は下がったとする資料が存在するのだが、これはおそらく事実と反する。レース後にアスコット競馬場に詰め掛けていた観衆達は、通常は英国王室の所有馬が勝った時にしか行わない、帽子を脱いで敬礼するという行為を本馬に対して行ったからである。レースを観戦していた英国エリザベスⅡ世女王陛下も「優れた馬が勝ったのを見てとても興奮しました。リボーは私を驚かせました」と賞賛している。

英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が1999年に出した“A Century of Champions”においては、1951年から1999年までの歴代のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS勝ち馬が「Greatest」「Great」「Superior」「Average」「Inferior」「Poor」「Worst」の7段階にランク付けされている。“A Century of Champions”は英ダービー馬に関しても同じ事をしているのだが、筆者は「弱い〇〇勝ち馬」を決め付けるようなこうした行為が嫌いであり、“A Century of Champions”を今一つ信用できない要因となっているし、これらの評価は原則としてこの名馬列伝集では無視する方針としている。しかし本馬の項に関しては例外的に取り上げる事にする。それは最上級の「Greatest」にランクされているのは本馬のみという事実をここに記載するためである。「Great」にランクされているのは、ピンザニジンスキーミルリーフブリガディアジェラードシャーガーダンシングブレーヴの6頭であり、“A Century of Champions”は、これらの馬達を抑えて本馬を史上最強のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS勝ち馬として認定したわけである。

このレース後に英国や米国の馬主団体が巨額の種牡馬シンジケート額をロチェッタ侯爵やリディア未亡人に提示して、本馬を購入させてほしい旨を申し出てきた(前者は50万ポンド、後者は130万ドルを提示した)。しかし陣営はそれらをいったん断り、2度目の凱旋門賞制覇を果たした後に種牡馬入りさせる旨を表明した。当時の欧州競馬関係者にとって、この決定は理解できなかったらしく、「非常に危険な決定」「頭がどうかしている」と陣営を批判した。その理由は本馬の能力に未だ疑問符が付けられていたからではなく、伊国の有名な作家兼ジャーナリストだったグイド・ピオヴェーネ氏が示した「悪意がある仏国の騎手が凱旋門賞連覇を阻止すべく、レース中にリボーをブロックするのではないでしょうか」という懸念があったからであるらしい(過去に凱旋門賞を2連覇した3頭はいずれも仏国調教馬だった)。

競走生活(4歳後半):凱旋門賞2連覇を達成して無敗のまま引退

夏の休養を挟んで出走した秋初戦のピアツァーレ賞(T1800m)では、この年の伊2000ギニー馬マガビットが本馬に挑んできた。レースは先行した本馬をマガビットが追いかける展開となった。マガビットが本馬まで2馬身差まで迫ったところでカミーチ騎手が合図を送ると、本馬は「ジェット機のような」加速を見せてマガビットを瞬く間に引き離し、最後は8馬身差をつけて圧勝した。

そして再度仏国に向かい、2度目の凱旋門賞(T2400m)に挑んだ。今回の凱旋門賞は、前年以上にメンバーが揃っていた。モルニ賞・仏グランクリテリウム・グロット賞・仏1000ギニー・仏オークスを勝ってきた名牝アポロニア、リュパン賞・ノアイユ賞・プランスドランジュ賞の勝ち馬で仏ダービー3着のタネルコ(後にガネー賞とサンクルー大賞をいずれも2連覇)、この年の英オークスを後のヴェルメイユ賞の勝ち馬ジャニアリ相手に3馬身差で完勝していたシカレル、この年の愛ダービー馬タルゴ、ロワイヤルオーク賞を勝ってきたアラビアン、この年のパリ大賞・エスペランス賞の勝ち馬でロワイヤルオーク賞2着のヴァテル、サンクルー大賞の勝ち馬オロソ(翌年の凱旋門賞とジャンプラ賞に勝利)、サンクルー大賞でオロソと同着勝利したブルゴス、前年の凱旋門賞9着後にイスパーン賞の2連覇を果たし前哨戦のフォワ賞も勝ってきたフリック、グッドウッドCを勝ってきた前年着外のザラズーストラ、モーリスドニュイユ賞の勝ち馬マスターボーイング(この直後のワシントンDC国際Sに勝利)、サラマンドル賞・フォンテーヌブロー賞の勝ち馬で仏グランクリテリウム・仏2000ギニー3着のテナレーズ、プリンセスオブウェールズS・ラクープドメゾンラフィットの勝ち馬で愛セントレジャー・ノルトラインヴェストファーレン大賞(現ベルリン大賞)2着のコベット、ダリュー賞の勝ち馬アンビアクス、仏ダービー2着馬サンラファエルなどに加えて、カウディンS・グレートアメリカンS・シャンペンS・ゴーサムS・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションS・ワシントンDC国際S・エクセルシオールHを勝ちベルモントS・ウッドメモリアルS・ホイットニーH・ジョッキークラブ金杯で2着していたフィッシャーマン、この年のベルモントSで米国顕彰馬ニードルズの2着に入ったグランドユニオンホテルS・ユナイテッドステーツホテルS・ゴーサムS・ユナイテッドネーションズHの勝ち馬でホープフルS・ガーデンステートS・ブルーグラスS2着のキャリアボーイの2頭の米国調教馬も参戦してきた。

しかし本馬は前年と異なり、今回は単勝オッズ1.6倍という正真正銘の大本命での登場となった。本馬を一目見ようと、ロンシャン競馬場にはアガ・カーンⅢ世殿下の息子アリ・カーン王子や、ウィンストン・チャーチル元英国首相を含む大観衆が詰め掛けていた。

不良馬場の中でスタートが切られると、フィッシャーマンが米国調教馬らしく猛然と加速して大逃げを打ち、ノーフォークが大きく離れた2番手、本馬が3番手、アポロニアが4番手につけた。先にピオヴェーネ氏が懸念していたような仏国の騎手による意図的な妨害は無かった。フォルスストレートで前の2頭が失速すると、本馬は馬なりのまま先頭に立って直線に突入。そして“simply cruised away like a missile(発射台から打ち出されたミサイルの様)”な加速を見せて、後続馬をどんどん引き離して独走となった。それでもカミーチ騎手は、凱旋門賞連覇を目指す旨を表明した際に酷評した欧州の競馬関係者達に本馬の実力を見せ付けるかのように全力で追い続け、ゴール直前で後方を振り向いてようやく追うのを止めた。2着タルゴに6馬身差をつけて、1951年のタンティエーム以来5年ぶり史上4頭目の凱旋門賞2連覇を達成した。

この6馬身差は1965年のシーバード、2001年のサキーと並ぶ同競走史上最大の着差である。もっとも本馬がタルゴにつけた実際の着差は推定8馬身半差とされており、“A Century of Champions”など多くの資料において、凱旋門賞史上最大着差で勝ったのは本馬単独であるとしている。筆者が写真や映像を見た限りでも確かに6馬身程度の着差とは思えず、8馬身半という着差は的を射ていると思われる。カミーチ騎手は勝利騎手インタビューにおいて「こんな無尽蔵のエンジンを持った馬が世界中のどこにいるでしょうか?」と語った。事実、レースが終わった直後の本馬はすぐに息を整えて、いつもどおりにけろっとしていた。

本馬はこのレースを最後に4歳時7戦全勝の成績で競走馬を引退。16戦全勝という欧州近代競馬の金字塔を樹立した。16戦で2着馬につけた着差合計は99馬身+頭差であり、2度目の凱旋門賞が実際には8馬身半差であった事を考慮に入れると100馬身を超えている事になる。この年の伊最優秀古馬牡馬だけでなく、英最優秀古馬牡馬及び仏最優秀古馬牡馬も獲得。前年に133ポンドだった英タイムフォーム社のレーティングにおいても、この年は142ポンドという史上屈指の高評価が与えられた。

伊国内における評価は群を抜いており、後に伊国内で選考が実施された20世紀最高の競走馬にも当然のように選出されたし、伊国のスポーツ誌ラ・ガゼッタ・デッロ・スポルトが世論調査で実施した20世紀のイタリア運動選手トップ100においては人間達に混ざって第4位にランクインした。

競走馬としての特徴

本馬は、スピード、スタミナ、精神力、健康面など全ての要素が超一流で、距離の長短も関係なく、重馬場も苦にしなかった万能馬であり、サラブレッドの頂点ここに極まったとまで評された名馬だった。

本馬のスピードの源泉については独国の有名週刊誌“Der Spiegel(シュピーゲル)”が1957年1月27日号で研究している(この号の表紙は本馬の顔写真である)。それによると後脚の使い方が上手かったらしく、非常に力強いながらも、まるで手を差し伸べるかのようにスムーズに動かす事が出来ていたという。先に書いたとおり体重は900ポンドしかなかったが、余分な脂肪は極限まで削ぎ落とされ、速く走るために必要な最小限の筋肉だけを残した結果がこの体重だったと推定されている。

スタミナ能力についても上記“Der Spiegel”の中で解説されている。それによると肺の容量が非常に大きい上に機能も強靭であり、平均的なサラブレッドが吸って吐くという1回の往復動作において移動するのと同じ容量の空気を1度に吸うことが出来た、つまり普通のサラブレッドの2倍の肺活量を有していたのだという。また、レースが終わって2時間後には脈拍数も血圧も元通りになっていたらしく、心臓の機能が群を抜いていたようである。

精神力については、伊国外のレースでも平気で圧勝を続けた事から超一流であったと断定できる。本馬の現役当時は他国への遠征が現在ほど容易に行われていたわけではなく(現在も決して「容易」ではない。あくまで相対的な話である)、伊国調教の馬が仏国や英国まで来てその国最高のレースを次々に圧勝していくなど、前代未聞と言っても過言では無かったのである。

健康面については、3歳時に脚の負傷と呼吸器疾患を併せて患った以外は故障と病気知らず(しかも両方まとめて3か月で回復している)の馬であり、また(精神力と同様に)遠征にも強かった点から証明されていると言える。

唯一欠点だったかも知れないのが気性面である。しかし本馬の気性面については諸説ある。“fiery temperament(燃えるような気性)”の持ち主で、調教で調教助手を振り落とす、人に噛み付く(2度目の凱旋門賞制覇の前夜にロチェッタ侯爵の娘が本馬に噛まれたとか、この勝利を祝福しようとしたアリ・カーン王子も噛み付かれたなどの話が伝わっている)など、非常に危険な馬だったという説が以前は一般的であり、上記“Der Spiegel”の中にもその旨が書かれている。しかし最近では正反対に穏やかな気性の持ち主だったとする説が多く、海外の資料もこちらが主流である。例を挙げると、“a lovely intelligent head and a perfect temperament(非常に知的な顔と完璧な気性)”の持ち主だった、“a gentle and amenable temperament(穏やかで従順な気性)の持ち主だった、といったところである。日本でも、おそらくは週刊ギャロップに連載されていた“A Century of Champions”の影響だと思われるが、頑固な一面こそあったが賢く悪戯好きで人懐っこい性格だったという説が最近では一般化しているようである。競走馬時代の本馬の日常を捉えた映像を見たことがあるが、(少なくとも映像の中では)確かに大人しい馬であり、周囲の人間も平気で本馬に近づいて手掴みで飼葉をやっていたから、競走馬時代にはそれほど危険な馬では無かったようである。しかしデビュー3戦目の伊グランクリテリウムにおいて折り合いを欠いて危うく敗戦する寸前だった事実からしても、完全に従順な馬では無かったようである。

馬名に関して

馬名は19世紀に仏国で活躍した写実主義画家テオドール・オーグスタン・リボーに由来する。自身も絵が好きだったテシオ氏は、自身の生産馬に画家の名前を付ける事が多かったのである。なお、名前の由来となった画家のリボーは無名画家だったと主張している人もいるようだが、リボーは写実主義の提唱者ギュスターヴ・クールベと並んで当時の仏国写実主義の代表的画家であり、仏国皇帝ナポレオン・ボナパルトが創設した仏国の名誉勲章レジオンドヌール勲章を受賞したくらいであるから、それほど無名の画家というわけではない。ただし現在では殆ど忘れられた画家であるのは確かであり、前述の“Der Spiegel”でも「忘れられています」と記載されている。

血統

Tenerani Bellini Cavaliere d'Arpino Havresac Rabelais
Hors Concours
Chuette Cicero
Chute
Bella Minna Bachelor's Double Tredennis
Lady Bawn
Santa Minna Santoi
Minnow
Tofanella Apelle Sardanapale Prestige
Gemma
Angelina St. Frusquin
Seraphine
Try Try Again Cylgad Cyllene
Gadfly
Perseverance Persimmon
Reminiscence
Romanella El Greco Pharos Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
Gay Gamp Gay Crusader Bayardo
Gay Laura
Parasol Sunstar
Cyclamen
Barbara Burrini Papyrus Tracery Rock Sand
Topiary
Miss Matty Marcovil
Simonath
Bucolic Buchan Sunstar
Hamoaze
Volcanic Corcyra
La Soufriere

父テネラニは2~4歳時に伊英で走り通算成績24戦17勝。本馬と同じくテシオ氏の生産馬で、3歳時には伊ダービー・伊セントレジャー・ミラノ大賞・イタリア大賞・伊ジョッキークラブ大賞と伊国内の大レースを総なめにし、伊最優秀3歳馬に選出された。翌年は活躍の場を伊国内のみならず英国にも広げ、クイーンエリザベスS(キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSの前身)・グッドウッドCという英国の大レース2戦に勝利(ただしグッドウッドCは繰り上がり勝利)。伊国でもオムニウム賞(現伊共和国大統領賞)に勝つなど活躍し、伊最優秀古馬に選ばれた。しかし、馬房で壁に向かって立ち上がる妙な癖があったこともあり、テシオ氏に嫌われて種牡馬入り後3年で英国に輸出されている。もっとも、その能力自体はテシオ氏も評価していたようで、輸出後も自身が所有する繁殖牝馬の交配相手として積極的に活用した。本馬が英国で誕生したのは、テシオ氏が母ロマネラを再びテネラニと交配させる目的で、まだ妊娠中だったロマネラを英国に送ったためである。テネラニは英国で8年間種牡馬生活を送り、テシオ氏死後の1960年に伊国に戻り、1965年頃に他界したらしい。産駒には本馬の他にもファイティングチャーリー【アスコット金杯2回】、テンターフックス【グッドウッドC】、マルホア【ミラノ大賞】、デレイン【伊セントレジャー】、ボナール【ドンカスターC】、ティソ(伊首位種牡馬)などがいる。

テネラニの父ベリーニもテシオ氏の生産馬で、伊ダービー・伊セントレジャー・伊ジョッキークラブ大賞・アンブロシアーノ賞2回・リットリオ賞(伊共和国大統領賞)・キウスラ賞勝ちなど23戦15勝の成績を残し、1939年の伊最優秀2歳牡馬、及び1941年の伊最優秀古馬牡馬に選ばれている。競走馬引退後は伊国で種牡馬入りしたが、不幸にもこの時期は第二次世界大戦の最中であり、1944年に伊国の同盟国だった独国へ輸出されたベリーニはそのまま消息不明となってしまった。

ベリーニの父カヴァリエレダルピーノは体質が弱かったため満足な競走生活を送れなかったが、ミラノ大賞・アンブロシアーノ賞・オムニウム賞(現伊共和国大統領賞)など5戦無敗の成績を残し、テシオ氏をして自身の生産馬の中で生涯最良の名馬と言わしめたほどの馬で、種牡馬としても1941年の伊首位種牡馬になっている。

カヴァリエレダルピーノの父アヴルサックはラブレー産駒。ネアルコの母父でもあるので、詳細はそちらを参照してほしい。

母ロマネラもテシオ氏の生産馬。2歳時にクリテリウムナツィオナーレ・プリミパッシ賞勝ちなど7戦5勝の成績を挙げて伊最優秀2歳牝馬に選ばれたが、故障のため3歳以降はレースに出ず繁殖入りした。繁殖牝馬としても優秀で、本馬の半姉ロザルバベルニーニ(父ニコロデラルカ)【ドルメロ賞】、全妹ロゼリナ【伊1000ギニー・ドルメロ賞】、半弟レイバーン(父ボッティチェリ)【伊2000ギニー・2着伊ダービー】などを産んだ。

ロゼリナの子にはルイスデール【伊ダービー・イタリア大賞・伊ジョッキークラブ大賞】がいる。ルイスデールは本邦輸入種牡馬であり、天皇賞・有馬記念を勝った女傑トウメイとの間に天皇賞馬テンメイを出した事で知られている。また、本馬の半姉ロヴェッツァーナ(父ニコロデラルカ)がテネラニとの間に産んだ娘ラニザナは、社台グループの代表者吉田善哉氏により日本に繁殖牝馬として輸入され、持ち込み馬フイニイ【京都記念・阪神大賞典・ハリウッドターフクラブ賞(現京都大賞典)】を産んだ。しかしキーストンが故障した阪神大賞典の勝ち馬でもあるフイニイはキーストン以上に運の無い馬で、クラシック競走や天皇賞などの大競走を勝ってもおかしくない実力を持ちながら最後まで勝てず、現役中に夭折してしまった。種牡馬としてのフイニイに期待を寄せていた吉田氏が、フイニイが死んだ翌年に代わりに入手したのがノーザンテーストであるわけだが、これは本馬とは直接関係が無い話である。

ロマネラの母バーバラブリーニは英ダービー馬パパイラスの娘として英国で誕生した。パパイラスはケンタッキーダービー・ベルモントSの勝ち馬ゼヴとのマッチレースで完敗した事ばかりが取り沙汰されて決して評価が高い英ダービー馬とは言えなかったが、テシオ氏は評価していたらしく、近親にはほとんど活躍馬がいなかったバーバラブリーニを350ギニーで購入してドルメロ牧場で繁殖入りさせていた。本馬の近親には既に挙げた以外に全く活躍馬がおらず、牝系を100年遡ってもこれといった馬の名前は無い。バーバラブリーニの7代母サッポーの半妹アルケスティスの孫には1881年の英1000ギニー・英オークス馬テバイスと1882年の英1000ギニー馬セントマルゲリートの全姉妹がおり、セントマルゲリートの子孫には数多くの活躍馬がいるのだが、ここまで離れると遠縁とも言えない。→牝系:F4号族④

母父エルグレコはファロスの直子で、やはりテシオ氏の生産馬。現役成績は21戦17勝で、伊セントレジャー・リットリオ賞(現伊共和国大統領賞)・アンブロシアーノ賞・キウスラ賞を勝っている。

テシオ氏は自分の生産した競走馬をほかに売却して、代わりに新しい血統を導入する主義だったが、本馬は例外的に両親と祖父・祖母の6頭全てがテシオ氏の生産馬又は購入馬であり、まさに本馬はテシオ氏のサラブレッド生産の集大成であったと言える。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、第18代ダービー伯爵エドワード・ジョン・スタンレー卿(名馬産家として知られた第17代ダービー伯爵エドワード・スタンレー卿の孫である)によって1年当たり50万ポンドのリース契約で英国に導入され、1957年からウッドランドスタッドで種牡馬入りした。本馬を伊国ではなく英国で種牡馬入りさせた陣営の意図は、優良な繁殖牝馬を多く集めるためだったと言われている。しかし地元では、本国の英雄が英国に行ってしまう事に反発した大規模なデモが国会前で行われた。

リース契約は1回だけ更新され、伊国に戻ってきてテシオ氏が遺したドルメロ牧場で種牡馬生活に入ったのは2年後の1959年だった。

しかし地元での種牡馬生活は僅か1年で、翌1960年には米国の事業家兼馬産家ジョン・W・ガルブレイス氏が組んだ種牡馬シンジケートとの間で5年間135万ドルのリース契約が締結され、ガルブレイス氏が所持する米国ケンタッキー州ダービーダンファームに輸出された。英国輸出時に抗議運動が起きた事を考慮して、今回は予め伊国政府が契約に一枚噛んでおり、5頭分の種付け権利を伊国側が保持する形を採ったという。

しかし5年間のリース期間が満了しても本馬は伊国には戻らなかった。この理由は、本馬の気性が米国において極端に悪化したためであるとされている。現役時代から気性が激しかったと書かれている資料においては現役時代以上に悪化したと書かれているし、現役時代は大人しい馬だったと書かれている資料においては環境の変化と加齢により馬が変わったように気性が悪化したと書かれているが、いずれにしても米国で本馬の気性が極めて悪化したのは間違いない。本馬が欧州に戻る輸送中に事故を起こす事を懸念した保険会社が保険契約を受け入れなかった(米国に来る際には受け入れたのにも関わらず)事実がそれを証明している。

結局リース契約は延長され、本馬はそのままダービーダンファームに留まり、1972年4月に腸捻転のため20歳で他界するまで彼の地で過ごした。ダービーダンファームにおける本馬は極めて危険な馬であり、ダービーダンファームは牧場で最も勇敢な厩務員を本馬の担当に据えた。他の種牡馬が視界に入るのを嫌がって暴れたり、近場を牛の群れが通過した際に大暴れして群れが視界から消えるまで決して落ち着こうとしなかったりなどの逸話が伝わっている。ダービーダンファームに埋葬された本馬の墓のすぐ近くには息子グロースタークヒズマジェスティも埋葬されている。

本馬は欧州と米国のいずれでも優秀な種牡馬成績を収め、1963・67・68年の英愛首位種牡馬に輝いた。種牡馬供用期間は米国が最も長かったが、産駒の成績は欧州の方がやや優勢だった。ただし、直系を繋いだのはトムロルフ、グロースターク、ヒズマジェスティの3頭の米国活躍馬のほうだった。本馬の直系は現在も残っており、19世紀末の大種牡馬セントサイモンの血を現代に蘇らせている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1958

Molvedo

凱旋門賞・伊グランクリテリウム・伊ジョッキークラブ大賞・ドーヴィル大賞

1958

Vinci

サンルイレイS

1959

Romulus

サセックスS・クイーンエリザベスⅡ世S・ムーランドロンシャン賞・グリーナムS・ハンガーフォードS

1960

Corpora

ユジェーヌアダム賞

1960

Ragusa

愛ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・英セントレジャー・エクリプスS・グレートヴォルティジュールS

1961

Alice Frey

伊オークス

1961

Prince Royal

凱旋門賞・ミラノ大賞

1962

Long Look

英オークス

1962

Maribeau

ファウンテンオブユースS

1962

Sette Bello

ワイドナーH

1962

Tom Rolfe

プリークネスS・カウディンS・アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・サルヴェイターマイルH

1963

Destro

レディーズH

1963

Graustark

1964

Epidendrum

ミラノ大賞

1964

Ribocco

オブザーヴァー金杯・愛ダービー・英セントレジャー

1965

Ribero

愛ダービー・英セントレジャー

1965

Riboccare

ジョッキークラブC

1965

Rimark

プリティポリーS

1966

Arts and Letters

ベルモントS・エヴァーグレイズS・ブルーグラスS・メトロポリタンH・ジムダンディS・トラヴァーズS・ウッドワードS・ジョッキークラブ金杯・グレイラグH

1966

Onandaga

ガリニュールS・ディキシーH

1966

Ribofilio

デューハーストS・英シャンペンS・ロングフェローH

1967

Chatter Box

マルレ賞

1967

Riboprince

ブランドフォードS

1968

His Majesty

エヴァーグレイズS

1969

Boucher

英セントレジャー(英GⅠ)・ベレスフォードS(愛GⅡ)・ニジンスキーS(愛GⅡ)・デスモンドS(愛GⅢ)

1969

Carezza

ネルグウィンS(英GⅢ)

1969

Regal Exception

愛オークス(愛GⅠ)

1970

Filiberto

モルニ賞(仏GⅠ)

1970

Otha

英シャンペンS(英GⅡ)

1971

Blood Royal

クイーンズヴァーズ(英GⅢ)・ジョッキークラブC(英GⅢ)

1971

Never Return

セントサイモンS(英GⅢ)・ウェストベリーS(英GⅢ)

1972

Libra's Rib

プリンセスオブウェールズS(英GⅢ)

1973

Riboboy

モーリスドニュイユ賞(仏GⅡ)・サンダウンクラシックトライアルS(英GⅢ)

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