ゼヴ

和名:ゼヴ

英名:Zev

1920年生

鹿毛

父:ザフィン

母:ミスカーニー

母父:プラヌデス

英ダービー馬パパイラスとの歴史的マッチレースに勝利して米国競馬の英雄となったケンタッキーダービー・ベルモントSの勝ち馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績43戦23勝2着8回3着5回

誕生からデビュー前まで

ザフィンや母ミスカーニーの生産・所有者でもあった20世紀初頭の米国における大馬産家ジョン・E・マッデン氏により、米国ケンタッキー州ハンブルグプレイススタッドにおいて生産された。成長しても体高は15.3ハンドにしかならなかったというから、あまり大柄な馬ではなかった(ちなみに、後に本馬とマッチレースで戦うことになる英ダービー馬パパイラスの体高も同じく15.3ハンドだった。2頭は馬体重も1030~1040ポンドとほぼ同じで、胴回りはパパイラスのほうが少し大きかった)。

1歳時に、米国の石油会社シンクレアオイル社の社長だったハリー・F・シンクレア氏により購入された。シンクレア氏は、やはりマッデン氏の生産馬であるグレイラグも所有していた新鋭馬主だった。シンクレア氏のランコーカスステーブル名義で競走馬となり、グレイラグも管理していたサム・ヒルドレス調教師とデヴィッド・J・リアリー調教師に預けられた。馬名はシンクレア氏の友人で個人弁護士契約も締結していたジェームズ・ウィリアム・ゼヴェリー大佐の名前“Zevely”にちなんでいる。

競走生活(2歳時)

2歳6月にベルモントパーク競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走でデビュー。ゴール前で鋭く追い込んできたが、勝ったプリンスリージェントに鼻差及ばず2着に惜敗した。3日後のハドソンH(D5F)では、名馬ウィスクブルームの甥に当たる後のグレートアメリカンS2着馬サンファレンス、後にジェロームH・サラナクH・キーン記念S・ロングビーチHなどを勝つチェリーパイなどに屈して、勝ったサンファレンスから2馬身3/4差の4着に敗れた。さらに2日後のアケダクト競馬場ダート5ハロンの未勝利戦では、主戦となるアール・サンド騎手と初コンビを組んだが、後のサラトガセールスS・スプリングHなどの勝ち馬サイクロプス(カブラヤオーやダイタクヘリオスの4代母の父)の2馬身差3着に敗退。その後は1か月ほど間隔を空け、7月下旬にエンパイアシティ競馬場ダート5.5ハロンの一般競走に出走したが、後に好敵手の1頭となるダンリンの3/4馬身差2着に惜敗した。それから11日後のサラトガ競馬場ダート5ハロンの未勝利戦も、後のアナポリスハイウェイトHの勝ち馬コミックサの3馬身半差2着と、勝てない日々が続いた。

初勝利を挙げたのはデビュー6戦目となったサラトガ競馬場ダート5.5ハロンの未勝利戦で、前走から僅か4日後だったが、5馬身差の圧勝劇を演じた。さらに3日後に出走したサラトガ競馬場ダート5ハロンの一般競走では、後のトラヴァーズSの勝ち馬ウィルダネスを4馬身差の2着に破って圧勝した。さらに1週間後に同コースで出走した一般競走では、他馬より6~15ポンド重い125ポンドが課せられたが、後にケンタッキージョッキークラブS・ハヴァードグレイスHを勝つエンチャントメントを半馬身差の2着に抑えて勝利した。これで3連勝と勢いに乗った本馬は、グランドユニオンホテルS(D6F)に出走。このレースも2着ダンリンに2馬身差で勝利した。さらに126ポンドを課せられたアルベイニーH(D6F)も、後にケンタッキーダービーで対戦する事になるヴァジルを2馬身半差の2着に破って勝利。

そしてホープフルS(D6F)に駒を進めた。ここではサラトガスペシャルS・グレートアメリカンSの勝ち馬ゴーシャークとの対戦となった。2頭共に130ポンドの斤量を課せられながらも、直線まで一騎打ちを演じたが、15ポンドのハンデを与えたダンリンに2頭共々差されてしまい、本馬は1馬身1/4差3着に敗れた。次走のベルモントフューチュリティS(D6F)では、3着ウィルダネスには先着したものの、8ポンドのハンデを与えた牝馬サリーズアレイの3馬身差2着に敗退。その後の調教中に負傷したために、ピムリコフューチュリティを回避して、12戦5勝の成績で2歳時を終えた。それでも後年になってこの年の米最優秀2歳牡馬に選ばれている。なお、この年の米最優秀2歳牝馬には本馬不在のピムリコフューチュリティを勝利したサリーズアレイが選出された。

競走生活(3歳前半)

3歳時は5月にジャマイカ競馬場で行われた古馬混合戦ポーモノクH(D6F)から始動した。レースでは早め先頭に立つもゴール前で失速して、ウォルデンSなどを勝っていた6歳馬ドミニクに迫られたが、首差凌いで勝利した。次走は、この年はケンタッキーダービーの前週に行われたプリークネスS(D9F)となった。1番人気に支持されたのだが、スタート時に他馬に蹴られるアクシデントが災いして、勝ったヴァジルから26馬身差をつけられた12着と惨敗してしまった。ケンタッキーダービーには直行せず、3日後のレインボーH(D6F)に出走して、2着ドミニクに半馬身差で勝利した。

そしてそれから4日後のケンタッキーダービー(D10F)に参戦した。ここで1番人気に支持されたのは、名伯楽サー・ジェームズ・G・ロウ調教師が送り込んできたエンチャントメント、リアルト、チェリーパイ、ピケッターの4頭のカップリングだった。かなりの混戦模様であり、プリークネスSを勝ってきたヴァジルでも6番人気止まりだった。本馬もプリークネスSの惨敗と、過密日程が嫌われて単勝オッズ20倍の7番人気まで評価を落としていた。馬主のシンクレア氏もあまり期待していなかったようで、チャーチルダウンズ競馬場に姿を見せていなかった。しかし蓋を開けてみれば、道中は単騎逃げに持ち込んだ本馬が、直線入り口で後続馬に迫られながらも、そこから二の脚を使い、2着となったユナイテッドステーツホテルS・トレモントSの勝ち馬マーティンゲールに1馬身半差、3着ヴァジルにはさらに1馬身差をつけて鮮やかに逃げ切った。次走のウィザーズS(D8F)でも2着マーティンゲールを半馬身抑えて勝利した。

そしてベルモントS(D11F)に向かった。ここでは1番人気に復帰し、レースでも期待に応えて2着チックヴェイルに1馬身半差で快勝。ケンタッキーダービー馬がベルモントSを制したのは、1919年のサーバートン以来4年ぶり史上2頭目だった。さらに2週間後のクイーンズカウンティH(D8F)も2着ダンリンに3馬身半差をつけて楽勝した。夏場は休養に充て、秋は9月にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動して、2着ビッグハートに2馬身半差をつけて難なく勝利した。次走のローレンスリアライゼーションS(D13F)では、ケンタッキーオークス・アラバマS・ガゼルHなどを勝ってこの年の米最優秀3歳牝馬に選ばれるアンタイディーを2馬身半差の2着に、リアルトを3着に破って完勝。本馬の現役時代は、いずれもニューヨーク州で施行されるウィザーズS・ベルモントS・ローレンスリアライゼーションSの3競走が3歳馬限定競走の中で最も権威が高い競走であり、この3競走を全て制した本馬は、3歳最強馬としての地位を確立した。

パパイラスとのマッチレース

本馬の競走生活における白眉は何と言っても、ローレンスリアライゼーションSの6週間後、10月20日にベルモントパーク競馬場ダート12ハロンにおいて行われた、同年の英ダービー馬パパイラスとのマッチレースである。

この時期の米国競馬は、この3年前に行われたマンノウォーとサーバートンとのマッチレースに見られるように、急速にスポーツ化・大衆化が進行していた。こうした状況を背景に、ベルモントパーク競馬場の関係者は、この年の英ダービーを優勝したパパイラスの陣営に対して、渡米して賞金総額10万ドルのマッチレースに出るように要望し、8月19日にパパイラス陣営もこれを承諾した。

パパイラスと対戦する相手については当初から決定されていたわけではなく、本番2週間前の10月6日になって初めて、3歳最強馬としての地位を確立していた本馬がパパイラスの対戦相手として決定された。したがって、よく言われる「英ダービー馬とケンタッキーダービー馬のマッチレースとして企画された」というのは正確な表現ではない。そもそも、当時のケンタッキーダービーは確かに一定の地位を有する大競走ではあったが、3年前にマンノウォーが出走しなかったのを見れば分かるとおり、英ダービーと対比されるほどの権威はまだ確立していなかった。本馬が対戦相手に選ばれたのは、ケンタッキーダービー馬だったからではなく、米国の3歳馬の中で一番強かったからなのである。

英セントレジャーで2着したパパイラスの陣営は、すぐさま渡米の準備を整えた。そしてマッチレース1か月前の9月22日に、管理するバジル・ジャービス調教師や主戦のスティーヴ・ドノヒュー騎手達と共に英国を出発。9月末にニューヨークに到着し、米国民の熱狂的な歓迎を受けた。

そしてマッチレース当日、ベルモントパーク競馬場には5万人とも6万人とも言われる大観衆が詰めかけた。スポーツライターのN・W・バクスター氏はワシントンポスト紙において、米国東海岸の競馬場においてかつて見られた最大の群集だったと記している。しかしパパイラスにとっては長距離遠征に加えて初のダート競走という何重もの不利があった。しかも当日は雨で泥だらけの不良馬場となり、パパイラスを管理していたジャービス師は、水溜りの中を走ったパパイラスが脚を痛めるのではないかと懸念していた。一方の本馬は、不良馬場対策のために、防水コーティングが施された滑り止めの爪を蹄に装着して臨んでいた。本馬陣営はパパイラス陣営に対しても、同じ爪を装着するよう提案したが、パパイラス陣営は何故かそれを断った。

スタートが切られると外側のパパイラスが先手を取ったのだが、内側の本馬が猛然と加速してすぐに先頭を奪取。パパイラスも遅れまいと付いてきて、本馬が1馬身ほどリードした状態でレースが進んだ。スタート後の2ハロン通過タイムは50秒4で、走りづらい不良馬場だった事を考えると速いペースだった。いったんはパパイラスが本馬に並びかけてきたのだが、向こう正面に入ると本馬がパパイラスを引き離し始めた。そして三角手前で本馬が完全にリードを奪うと、ゴールではパパイラスを5馬身ちぎって圧勝。競馬場に詰め掛けた大観衆の喝采を浴びた。もっとも、期待されたほどの大激戦にはならなかったため、前述のバクスター氏は期待はずれだったと書いている。ケンタッキーダービー馬と英ダービー馬の直接対決はこれが史上初であり、以後はこの76年後の1999年のドバイワールドCにおいてシルバーチャームハイライズが対戦するまで見られることはなかった。

競走生活(3歳終盤)

米国競馬界の英雄となった本馬は、マッチレースから11日後にエンパイアシティ競馬場でオータムチャンピオンシップS(D8F)に出走した。このレースには、キーン記念S・ユースフルS・サラトガスペシャルS・ケンタッキージョッキークラブS・ポトマックH・ジェロームH・ポーモノクH・ピムリコフォールシリアルナンバー1・ピムリコフォールシリアルナンバー2・ピムリコフォールシリアルナンバー3・エンパイアシティHなどを勝っていた5歳馬トライスターに加えて、翌年にウィザーズSを勝つブラカデールと翌年にドワイヤーSを勝つラドキンという有力2歳馬も出走してきた。しかし本馬が2着ブラカデールに4馬身差をつけて圧勝した。しかしその3日後に出走したラトニアチャンピオンシップ(D14F)では、最後の直線でばててしまい、イリノイダービーの勝ち馬インメモリアムの6馬身差2着と不覚を取ってしまった。しかし、それから5日後に出走したピムリコフォールシリアルナンバー3(D10F)では、ジョッキークラブ金杯を勝ってきたホームストレッチを3馬身差の2着に、オータムチャンピオンシップSで3着だったトライスターを3着に下して快勝。

その9日後には、ケンタッキー州ジョッキークラブがチャーチルダウンズ競馬場ダート10ハロンにおいて組んだ、インメモリアムとの2万5千ドルを賭けたマッチレースに出走した。レースはあっさりと決着したパパイラスとのマッチレースと異なり、先行したインメモリアムを本馬がかわし、さらにインメモリアムが差し返すという大激戦となり、2頭が殆ど並んでゴールインした。判定は本馬の鼻差勝利だったが、映像の角度によってはインメモリアムが勝っていたようにも見えたことから、この結果については疑問の声も出たようである。チャーチルダウンズ競馬場が地元のケンタッキー州出身である本馬を贔屓したという説もあるようだが、インメモリアムもケンタッキー州産馬であるから、この意見は的外れである。3歳時はこれが最後のレースとなった。

この年は14戦12勝2着1回の素晴らしい成績で、後年になってこの年の米年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選出された。ただし最優秀3歳牡馬はインメモリアムとの同時受賞だった。インメモリアムは3歳時15戦6勝2着3回3着2回で、本馬と比べるとかなり見劣りする成績だったのだが、本馬との2度の対戦における互角以上の走りが評価されたものらしい。

競走生活(4歳時)

本馬は翌4歳時も現役を続けたが、この時代の米国競馬における最強馬の宿命で、重い斤量を背負わされるようになった。また、この時期は馬主であるシンクレア氏が、大統領が関与する米国史上最大のスキャンダルとされたティーポットドーム事件(詳細はグレイラグの項を参照)の渦中にあったため、本馬陣営の雰囲気も暗かったようである。

初戦のポーモノクH(D6F)では131ポンドを課されてしまい、ベルモントフューチュリティS・サラトガスペシャルS・ユナイテッドステーツホテルSを勝って前年の米最優秀2歳牡馬に選ばれていたセントジェイムズの3馬身差2着に敗退した。セントジェイムズはこのレースを最後に故障引退してしまったため、本馬がセントジェイムズに雪辱する機会は無かった。次走のキングズカウンティH(D8.5F)では130ポンドを克服して、後にベルモントSを勝つ3歳馬マッドプレイを2馬身差の2着に破って勝利した。しかしこの勝利により、次走のエクセルシオールH(D8.5F)では133ポンドを背負わされてしまった。その結果、リアルト、サンシーニの2頭に屈して、リアルトの1馬身差3着に敗れた。130ポンドを背負って出走したブルックリンH(D9F)では、ヘパイストスの3馬身3/4差7着に敗退。

次走は、国際競走インターナショナルスペシャル第1戦となった。これは、前年に本馬とパパイラスが対戦したレースが大いに盛り上がった事もあり、仏グランクリテリウム・フォレ賞・イスパーン賞・スチュワーズCなどを勝って欧州最強馬と言われていたエピナードを米国に招待して、全3戦の国際競走シリーズが計画されたものだった。第1戦はベルモントパーク競馬場ダート6ハロンで施行された。出走馬は本馬とエピナードの他に、ハロルドS・ケンタッキージョッキークラブSなどを勝ってセントジェイムズと並んで前年の米最優秀2歳牡馬に選ばれたワイズカウンセラー、前年のトラヴァーズSの勝ち馬ウィルダネス、この年のドワイヤーSの勝ち馬ラドキン、サラトガスペシャルSの勝ち馬ゴスホークなどだった。本馬やエピナードなどの古馬牡馬には130ポンドという厳しい斤量を課された。結果はワイズカウンセラーが勝ち、エピナードが2着、ラドキンが3着で、本馬はワイズカウンセラーから6馬身1/4差の5着に終わった。

1週間後に出走した同コースのハンデ競走でも130ポンドを課された。結果は前走よりさらに悪く、勝ったシャッフルアロングから14馬身差をつけられた9着最下位と惨敗した。2週間後に出走したアルヴァーンH(D6F)でも130ポンドを課されたが、ここではこの年の米年度代表馬に選ばれるシャンペンS・カーターHなどの勝ち馬サラゼンの1馬身差2着と好走した。

さらに3日後にはアケダクト競馬場ダート8ハロンで行われたインターナショナルスペシャル第2戦に参戦。対戦相手は、エピナード、ワイズカウンセラー、ラドキン、トラヴァーズS・マンハッタンH2回・ブルックリンHの勝ち馬リトルチーフなどだった。ここで本馬に課せられた斤量は125ポンドと、第1戦よりはましになっていた。しかし結果はラドキンが勝ち、エピナードが再び2着、ワイズカウンセラーが3着で、本馬はラドキンから3馬身半差の4着に敗退した。

4日後のインターボローH(D8.5F)では130ポンドが課されて、22ポンドのハンデを与えたグランドユニオンホテルSの勝ち馬ビッグブレイズの2馬身差2着に敗退。127ポンドで出走したコンチネンタルH(D9F)でも、12ポンドのハンデを与えたマッドプレイと、22ポンドのハンデを与えたプリシラルレイ(この年のアラバマS・ジェロームH・ガゼルHの勝ち馬)の2頭に差されて、勝ったマッドプレイから4馬身1/4差3着に敗れた。

このコンチネンタルHの1週間後にケンタッキー州ラトニア競馬場でインターナショナルスペシャル第3戦が行われる予定となっており、本馬もラトニア競馬場に赴いた。まずは第3戦前日のダート6ハロンの一般競走に出て1馬身差で勝利した。そして翌日に出走したのはインターナショナルスペシャル第3戦ではなく、前走と同じダート6ハロンの一般競走だった。本馬が第3戦に出なかった理由は調べても良く分からなかったが、ひとまずラトニア競馬場に来てはみたものの、出ても勝ち目が無いと判断された可能性が大きそうである。第3戦の代わりに出走したこの一般競走は、2着ペガサスに2馬身差で勝利した。さらに2日後に出た同コースの一般競走も2着バッファリングに2馬身差で勝利した。さらにダート8ハロンのハンデ競走に出て、129ポンドの酷量を克服して1分36秒4のコースレコード勝ちを収めた。

ラトニア競馬場で4連勝した本馬は、ピムリコ競馬場に移動して、ピムリコフォールシリアルナンバー1(D6F)に出走。130ポンドを背負いながらも、2着ゴーシャークに半馬身差で勝利した。しかしそれから3日後に同コースで出走した一般競走は、スウィンギング(名馬エクワポイズの母)の首差4着と取りこぼした。翌日に出走したピムリコフォールシリアルナンバー2(D8F)では、この年のトラヴァーズSを勝っていたサンフラッグの4馬身差3着に敗退。これが現役最後のレースとなった。4歳時の成績は17戦6勝だった。

獲得賞金は31万3639ドルに達し、本馬より5か月前に引退したエクスターミネーターの25万2996ドルや、マンノウォーの24万9465ドルを上回り、当時の北米賞金王になった。また、5万8655ポンドを稼いでいた英国三冠馬アイシングラスの記録も更新して、当時の世界賞金王にもなったとされる。

血統

The Finn Ogden Kilwarlin Arbitrator Solon
True Heart
Hasty Girl Lord Gough
Irritation
Oriole Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Fenella Cambuscan
La Favorite
Livonia Star Shoot Isinglass Isonomy
Dead Lock
Astrology Hermit
Stella
Woodray Rayon d'Or Flageolet
Araucaria
Wood Nymph Magnetizer
Woodbine
Miss Kearney Planudes St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Lonely Hermit Newminster
Seclusion
Anonyma Stockwell
Miss Sarah
Courtplaster Sandringham St. Simon Galopin
St. Angela
Perdita Hampton
Hermione
Set Fast Masetto St. Simon
Lady Abbess
Bandala King Ban
Mannie Gray

ザフィンは当馬の項を参照。

母ミスカーニーはダッシュSを勝ち、アラバマSで2着している。ミスカーニーの父プラヌデス、母父サンドリンガム、祖母の父マセットはいずれもセントサイモン産駒であるから、ミスカーニーはセントサイモンの2×3×4という強いインブリードの持ち主ということになる。ミスカーニーの半弟にはペノブスコット(父ヤンキー)【米グランドナショナル】が、ミスカーニーの半妹ザナース(父ヤンキー)の子には、CCAオークスを姉妹で2年連続制覇したフローレンスナイチンゲール、エディスキャヴェルの2頭がいる。

ミスカーニーの曾祖母バンダラはレディーズS・マーメイドSの勝ち馬で、19世紀米国最高の快速馬ドミノ【メイトロンS・ベルモントフューチュリティS・ウィザーズS】の半姉に当たる。バンダラの甥には名種牡馬ハンブルグ【ローレンスリアライゼーションS】がいる。→牝系:F23号族②

母父プラヌデスは前述のとおりセントサイモンの直子だが、競走馬としての経歴は良くわからない。しかし母が英オークス馬ロンリーという血統が評価され、英国から米国に種牡馬として輸入され、シカゴで供用されていたようである。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は米国で種牡馬入りしたが、種牡馬としては受精率が低いせいもあり、ほぼ完全な失敗に終わった。産駒のステークスウイナーは、クリスマスH2回・ラッセルEストーン記念Sを制したゼヴサンと、クレッセントシティHを制したジダの2頭のみである。前者は169戦31勝、後者は74戦18勝を挙げているが、共に重要なステークス競走は勝っていない。

本馬が種牡馬として失敗に終わった理由として、母ミスカーニーがセントサイモンの強いクロスを有していたことによる近親交配の弊害であるとしている日本の血統研究資料を見かけたが、ミスカーニー自身に近親交配の弊害が現れるというならともかく、その子である本馬に弊害が現れるというのは、絶対無いとまでは言えないにしても今ひとつしっくりこない(本馬自身はハーミットの4×5のクロスがある程度の健全な配合である)。

また、同じ資料には、現代の競走馬の血統表中に本馬の名を見ることはないとも書いているが、こちらは完全に誤りである。確かに5代血統表からは既に外れている(これは当然である)が、本馬の血を引く馬は現存している。代表産駒でもある牝駒のジダは繁殖入りして、サンガブリエルHを勝ったローリングボールや、サンパスカルHを勝ったシムマローンの母、サンタイネスS・ヴァニティHの勝ち馬ゼヴスジョイの祖母となり、末裔にアーリントンワシントンフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティS・ジムビームS・ワシントンパークHなどの勝ち馬ポーラーエクスペディション、ソロリティSの勝ち馬ブルージーンベイビー、ジュライSの勝ち馬ネヴィシアンラッド、ハッチソンS・ブルックリンHの勝ち馬ライムハウス、UAEダービーの勝ち馬ブルースアンドロイヤルズなどを出している。ブルージーンベイビーは日本に繁殖牝馬として輸入され、阪神牝馬Sの勝ち馬アイアムカミノマゴや、ユニコーンSの勝ち馬アイアムアクトレスの祖母となっているから、本馬の血を受け継ぐ馬は日本にもいるのである。なお、本馬とマッチレースで戦ったパパイラスも種牡馬としては失敗したが、プリンスキロの母父、リボーの祖母の父として後世にその血を伝えている。

また、種牡馬失敗の烙印を押された本馬は9歳時に競走馬に復帰させられたが、13歳になって見かねたシンクレア氏に買い取られてランコーカスステーブルで余生を送ったとする話が上記資料に載っていたが、本馬に関して触れた海外の資料にはこうした話は見当たらない。まったく同じ話が同じくシンクレア氏の所有馬だったグレイラグにある(詳細はグレイラグの項を参照。現役復帰時の年齢が9歳、シンクレア氏に買い取られたときの年齢が13歳というところまでまったく同じである)ことからすると、この資料の編者は本馬とグレイラグの逸話を混同しているようである。この資料(本項ではかなり批判的に書いてしまっているので具体名の記載は避ける)は、サラブレッド血統史において重要な位置づけにある馬達に関して満遍なく詳細に調べられた優秀な資料だが、本馬に関してだけは、パパイラスとのマッチレースにおいてはパパイラスがスタートから終始本馬をリードしたなど、誤った情報ばかり載っていたのは残念だった。

本馬は1943年に23歳で他界した。1983年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第56位。

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