エクスターミネーター
和名:エクスターミネーター |
英名:Exterminator |
1915年生 |
騙 |
栗毛 |
父:マックギー |
母:フェアエンプレス |
母父:ジムゴアー |
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現役時代に100戦してケンタッキーダービーなど50勝を挙げるという恐るべき成績を残した20世紀前半における米国最強騙馬 |
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競走成績:2~9歳時に米加墨で走り通算成績100戦50勝2着17回3着17回 |
数々の実戦を経験して鍛えられている事を意味する「百戦錬磨」という言葉があるが、通算100戦している本馬はまさしくその言葉を体現している馬であり、米国競馬史上における最強騙馬の1頭として挙げられる。
誕生からデビュー前まで
米国ケンタッキー州アルマハーストファーム(後にスタンダードブレッドの名馬グレイハウンドの生誕地となる事で知られる)において、F・D・“ディクシー”ナイト氏により生産された(実際の生産者は彼の母親であるM・J・ミズナー夫人であるが、牧場の所有者だったナイト氏が生産者として公式に記録された)。体高こそ高かったが、痩せこけて骨が浮き出た見栄えがしない馬だった。
1歳時のサラトガパドックセールに出品され、J・カル・ミラム氏により1500ドルで購入された。ちなみに同じセールでは後に本馬と因縁浅からぬ関係を持つようになるサンブライアーという馬が、後に本馬の馬主となるウィリス・シャープ・キルマー氏に5千ドルで購入されている。
本馬は気性が荒かった事もあり、痩せた体格の成長を促す意味も含めて2歳時に去勢された。ミラム氏は妻の勧めにより、対戦相手を絶滅させる馬になってほしいという願いを込めて「撲滅者」という意味の名前を本馬に付けた。
競走生活(ケンタッキーダービーまで)
所有者であるミラム氏自身の調教を受けた本馬は、2歳6月にラトニア競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦でデビューして、2着ミストレスポリーに3馬身差で快勝した。2週間後には加国オンタリオ州ウインザー競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走に出たが、レース序盤で他馬にぶつかるアクシデントがあり、後に分割競走として行われたプリークネスSの勝ち馬の1頭となるジャックヘアジュニアの10馬身差4着に敗退した(3着馬ビバアメリカは後にケンタッキーオークス馬となる)。しかし僅か3日後にウインザー競馬場で出たダート5.5ハロンの一般競走では、2着ファーンハンドリーに1馬身差で勝利した。その9日後にはケニルワース競馬場で行われたダート5.5ハロンの一般競走に出たが、ミスブラインの半馬身差4着に敗退。この後に脚を捻挫したために長期休養入りして、2歳時の成績は4戦2勝となった。デビュー前に既に16.2ハンドあった体高は2歳暮れには17ハンドに達していたという。
3歳になった本馬は、ウィリス・シャープ・キルマー氏により700ドルで購入された。先に触れたように、キルマー氏は本馬と同じセリで取引されたサンブライアーの所有者だった。サンブライアーは2歳時にホープフルS・サラトガスペシャルS・グランドユニオンS・グレートアメリカンS勝ちなど9戦5勝の成績を残し、後年に米最優秀2歳牡馬に選ばれる有力馬だった。キルマー氏は、ケンタッキーダービーで有力視されていたサンブライアーをハード調教で鍛えるための調教相手を探していた。そして専属調教師だったヘンリー・マクダニエル師の薦めにより、サンブライアーの調教相手として本馬を購入したのである。
キルマー氏は本馬の事をあまり評価しておらず、「山羊」「貨物馬」と呼んでいた。しかしマクダニエル師は、本馬がサンブライアーの調教相手として十分以上の働きを見せた(単に速く走るだけでなく、調教に相応しくサンブライアーをわざと先に行かせるなど賢い一面を見せた)事から、本馬の秘められた素質に薄々感付いていたようである。
ところがケンタッキーダービーの直前になって、肝心のサンブライアーが脚に骨瘤を発症したために回避することになってしまった。大きく失望しているキルマー氏に対して、本馬の能力を唯一人見抜いていたマクダニエル師は本馬を代理でケンタッキーダービーに出走させるよう勧めた。しかし本馬を軽視していたキルマー氏は、本馬が自身の勝負服で晴れの舞台に出る事を拒絶した。そこでマクダニエル師は、チャーチルダウンズ競馬場の代表者だったマット・ウィン大佐に本馬の調教光景を見てもらうという作戦を採った。本馬の走りに感銘を受けたウィン大佐がキルマー氏を説得したため、本馬はケンタッキーダービーに出走することになった。それでもキルマー氏は気が乗らなかったようで、「サンブライアーとエクスターミネーターでは格が違いすぎる事くらい分かっている」と新聞記者に対してまくし立てたという。
本馬にはサンブライアーに乗る予定だったウィリー・ナップ騎手が騎乗したが、彼も本馬には全く期待していなかった。競馬ファンも本馬には期待しておらず、単勝オッズ31倍で8頭立ての最低人気だった。1番人気は英国からの輸入競走馬で後に分割競走として行われたプリークネスSの勝ち馬の1頭となるウォークラウド、2番人気はブリーダーズフューチュリティ勝ち馬エスコバだった。
この年のケンタッキーダービー(D10F)は早朝からの雨で泥だらけの不良馬場となっていた。多くの出走馬達がこの不良馬場に脚を取られて苦しむ中、直線で先頭争いを演じたのは本馬とエスコバの2頭だった。そして本馬が叩き合いの末にエスコバを1馬身差の2着に下して優勝。多くの競馬ファンだけでなく、乗っていたナップ騎手も予想外のこの結果に呆然としたというが、一番驚いたのがキルマー氏だった事は書くまでも無いだろう。キルマー氏はマクダニエル師の慧眼に感謝し、彼に1千ドルのボーナスを支給した。もっとも、本馬が誰もが認める最強馬としての評価を得るにはまだまだ時間が必要だった。
競走生活(3歳後半)
ケンタッキーダービーの2週間後に出たターフアンドフィールドH(D8F)では、キルツの1馬身差2着に敗退。次走のラトニアダービー(D12F)では、サバーバンHやベルモントSを勝ってきた同世代馬ジョーレンとの対戦となった。斤量はジョーレンの127ポンドに対して本馬は124ポンドと3ポンドのハンデを貰っていたが、ジョーレンの2馬身差2着に敗退。次走のケナーS(D9.5F)では、1分56秒6の全米レコードタイで走破した牝馬エンフィレードの2馬身差2着に敗れた。次走のトラヴァーズS(D10F)では、ジョーレン、サンブライアー、ウォークラウドの3頭との対戦となり、まさしく同世代最強馬決定戦の様相を呈した。しかし本馬は勝ったサンブライアーから12馬身差の4着最下位に終わった。続くサラトガ競馬場ダート10ハロンのハンデ競走もチケットの9馬身半差3着に敗れてしまい、これで5連敗となった。
しかし秋以降は着実に実力を磨いていった。10月にローレル競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走では、2着フランクリンに1馬身差で勝利。次走のキャロルトンH(D8.5F)も、2着ザポーターの追撃を頭差抑えて勝利した。次走のワシントンH(D9F)はミッドウェイの3馬身半差3着だったが、エリコットシティH(D9F)では2着オーラムに2馬身半差で勝利。ナショナルH(D9F)は再度ミッドウェイに屈して頭差の2着だったが、ピムリコオータムH(D10F)は2着フォアグラウンドに半馬身差で勝利した。次走のガヴァナーボウイーH(D12F)では、2歳年上のジョージスミス、1歳年上のオマルハイヤームという2頭のケンタッキーダービー馬も出走していた。結果は130ポンドのトップハンデを背負っていたジョージスミスが勝って現役最後のレースを飾り、115ポンドのオマルハイヤームが2着、120ポンドの本馬はジョージスミスから1馬身半差の3着に敗れた。
続くラトニアCH(D18F)では、11ポンドのハンデを与えた2着ビーバーキルに鼻差で勝利。次走のラトニアサンクスギビングH(D8.5F)も、22ポンドのハンデ差をものともせずに、2着ドラスティックに2馬身半差で勝利。3歳時の成績は15戦7勝で、後年に選定された米最優秀3歳牡馬の座はジョーレン(米年度代表馬も獲得)に譲ったが、世代有数の実力馬である事は証明できた。
競走生活(4歳時)
4歳時は3月にオークローンパーク競馬場で行われたダート8ハロン70ヤードのハンデ競走から始動して、馬なりのまま1分43秒4のコースレコードを樹立して、2着ラッキービーに3馬身差で勝利した。次走のオークローンパーク競馬場ダート6ハロンのハンデ競走も、馬なりのまま1馬身半差で勝利。さらにベンアリH(D8.5F)も、25ポンドのハンデ差をものともせずに、2着アメリカンエースに3馬身差で快勝。続くカムデンH(D10F)は2頭立てとなった。本馬には132ポンドが課せられ、118ポンドの斤量だったもう1頭の出走馬ミッドウェイとは14ポンド差があったが、ミッドウェイに1馬身差をつけて勝利した。その1週間後に出たチャーチルダウンズ競馬場ダート8ハロンの一般競走では、5日前のケンタッキーダービーでサーバートンの3着だったアンダーファイアの鼻差2着だった。さらに1週間後に出た前走と同コースのハンデ競走では134ポンドを課せられたが、2着フライアウェイに5馬身差で圧勝した。しかし再度134ポンドが課せられたケンタッキーH(D10F)では、12ポンドのハンデを与えたミッドウェイ、26ポンドのハンデを与えたビーバーキルの2頭にゴール前で差されて、ミッドウェイの1馬身差3着に敗れた。
その後は不調に陥り、128ポンドを背負って出走したサバーバンH(D10F)では、コーンタッセルの5馬身1/4差5着に敗退(コーンタッセル、スイープオン、ボニフェイスの上位3頭は全て110ポンド未満の斤量だった)。次走のエクセルシオールH(D8.5F)では123ポンドの斤量だったが、マンハッタンH勝ち馬ナチュラリストの5馬身3/4差5着に敗れた(この年に8歳となっていたかつての米国最強馬ローマーもこのレースに出ていたが6着に終わっている)。1か月半の短期休養を経て出走したデラウェアH(D8F)では、1分36秒2の全米レコードで勝利した後のガゼルH勝ち馬フェアリーワンドから1馬身差、2着サンブライアーから頭差の3着。次走のシャンプレインH(D9F)も、サンブライアーの1馬身差2着に敗退した(もっとも、この時には同馬主同厩の相手に勝ちを譲るかのようにゴール前ではあまり追われなかったという)。次走のマーチャンツ&シチズンズH(D9.5F)では、ブルックリンH・ディキシーH・ケンタッキーHなどの勝ち馬で、前年とこの年の2年連続で米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるカジェルとの対戦となった。カジェルの斤量は132ポンドで、本馬は125ポンドだったのだが、結果はカジェルが勝ち、3馬身差の3着に敗れた本馬はこれで6連敗となってしまった。
それでも8月末に行われた当時の米国古馬最強馬決定戦であるサラトガC(D14F)では、2分58秒0のコースレコードを樹立して、ドワイヤーS勝ち馬パーチェイスを1馬身半差の2着に破って勝利を収めた。しかしハートフォードカウンティH(D8F70Y)は、ザポーターの4馬身差2着に敗退。次走のハヴァードグレイス競馬場ダート8.5ハロンの一般競走は、2着カジェルに3/4馬身差で勝利した。次走のハヴァードグレイスH(D9F)では、1歳年下の初代米国三冠馬サーバートンとの対戦となった。しかし本馬は進路が塞がる不利を受けてしまい、カジェルの半馬身差2着に敗退した(本馬より斤量が2ポンド軽かったサーバートンは3着だった)。次走のローレル競馬場ダート8.5ハロンの一般競走は2着オレステスに首差で辛うじて勝ったが、128ポンドを背負ったアナポリスH(D12F)では20ポンドのハンデを与えたサンダークラップの頭差2着に敗退(カジェルは3着だった)。134ポンドを背負ったラトニアC(D18F)でも、12ポンドのハンデを与えたビーフランクの2馬身差2着に敗退。128ポンドの斤量だったガヴァナーボウイーH(D12F)では、勝ったロイスロールズから13馬身差の5着最下位に終わった(カジェルが2着で、この段階では無名だった3歳馬マッドハターが3着だった)。しかし新設競走ピムリコCH(D18F)ではゴール前で流す余裕を見せて、2着ロイスロールズに4馬身差をつけて4分13秒0のコースレコードで圧勝し、長距離得意なところを見せ付けた。4歳時はこの出走が最後で、21戦9勝の成績だった。
競走生活(5歳時)
5歳時はマクダニエル師に代わってキルマー氏の専属調教師になったJ・サイモン・ヒーリー師の管理馬になった。5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンのハンデ競走から始動したが、21ポンドの斤量差が堪えたのか、アリバイの首差2着に惜敗。次走のサバーバンH(D10F)では2歳年下のケンタッキーダービー馬ポールジョーンズとの対戦となったが、1番人気に応えられず、17ポンドのハンデを与えたポールジョーンズの6馬身差3着に敗れた。2週間後のロングビーチH(D9F)は1分51秒2のコースレコードを計時して、2着シーラスに1馬身差で勝利した。しかしブルックリンH(D9F)では、前走で負かしたシーラス、エクセルシオールH勝ち馬ボニフェイス、マッドハターの3頭に後れを取り、勝ったシーラスから8馬身1/4差の4着に終わった。その後はアケダクト競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走で、マンハッタンH2勝目を挙げてきたナチュラリストを3/4馬身差の2着に破って勝利。次走のブルックデールH(D9F)も、129ポンドを背負いながら、2着シーラスに1馬身半差で勝利した。続くフロンティアH(D9F)では、スリッパリーエルム、ザポーターの2頭に屈してスリッパリーエルムの2馬身半差3着に敗れた。
次走のサラトガH(D10F)では、サーバートン、メトロポリタンH勝ち馬ワイルドエア、ザポーター、マッドハターの4頭との対戦となった。本馬にしては珍しくハンデを貰う側となり、129ポンドのサーバートンより4ポンド軽い125ポンドだった。それにも関わらず、サーバートンの2馬身差2着に敗退した。次走のシャンプレインH(D9F)でも、ノームの1馬身1/4差2着に敗れた(前走最下位のマッドハターが3着だった)。しかし加国に移動して出走したジョッキークラブH(D9F)では、15ポンドのハンデを与えたワイルドエアを1馬身1/4差の2着に下して勝利。スローペースだったにも関わらず、勝ちタイム1分51秒2はコースレコードタイだった。その1週間後に同じウインザー競馬場で出たジョージヘンドリーH(D8.5F)も、131ポンドを背負いながら2着ワイルドエアに1馬身差で勝利した。
次走のサラトガC(D14F)には、2歳年下のマンノウォーもエントリーしていた。しかし結局マンノウォーは回避したために、この年の米最優秀3歳牝馬に選ばれるCCAオークス・ピムリコオークス勝ち馬クレオパトラとの2頭立てとなってしまった。結果は本馬が15ポンドのハンデを与えたクレオパトラに6馬身差をつけ、2分56秒4の全米レコードを樹立して圧勝した。次走のオータム金杯(D16F)では132ポンドを背負った本馬、23ポンドのハンデを与えたクレオパトラ、30ポンドのハンデを与えたダマスクの3頭立てとなった。結果は3分21秒8の全米レコードを樹立した本馬が2着ダマスクに頭差で勝利した。
このレース後、ヒーリー師がキルマー氏の専属調教師を辞したため、本馬はかつて本馬を管理したマクダニエル師の弟ウィル・マクダニエル調教師の管理馬となった。突然の調教師交替でも本馬の強さには影響は無く、132ポンドを課せられたトロントオータムC(D10F)では、通算95戦23勝の成績を残す名牝マイディアに40ポンドのハンデを与えながらも頭差で破った。134ポンドを課せられたオンタリオジョッキークラブC(D18F)も、前走3着のボンデージを1馬身1/4差の2着に抑えて勝利を収め、6連勝とした。
この時期、キルマー氏は本馬とマンノウォーをマッチレースで対戦させるべく八方画策していた。しかしマンノウォーの所有者サミュエル・D・リドル氏は決して首を縦に振ろうとしなかった。マンノウォーの現役最後のレースとなった同年10月のケニルワースパーク金杯にはサーバートンは招待されたが本馬は招待されず、本馬とマンノウォーの対戦は遂に実現しないまま終わってしまった。この2頭が対戦していればどのような結果になったのかは神のみぞ知るところだが、リドル氏の立場にしてみれば、既に米国史上最高の名馬という評価を得ていたマンノウォーを、負ける危険を冒してまで本馬と対戦させる理由など無かったのも確かであろう。ただし本馬を主役とする資料には上述したようにマンノウォーが本馬から逃げたように書かれているが、マンノウォーを主役とする資料には、マンノウォーの現役最後のレースとなったケニルワースパーク金杯に本馬も招待されていたのに辞退した旨が書かれており、逃げたのは本馬のほうであると書かれている。いずれが正しいのかは筆者には判断できない。
さて、一方の本馬は3度目の正直を目指してカヴァナーボウイーH(D12F)に出走した。しかし134ポンドが課せられた上に馬群の中から抜け出せずに、マッドハターの3馬身半差5着に敗退し、このレースは3連敗となった。次走のピムリコCH(D18F)では、前走ボウイーHで2着だったボニフェイスを鼻差の2着、ポールジョーンズを3着に下して勝利。勝ちタイム3分53秒0は前年に自身が樹立したコースレコードをなんと20秒も更新する素晴らしいものだった。5歳時の成績は17戦10勝で、米年度代表馬の座はマンノウォーのものとなったが、サーバートンを抑えて米最優秀ハンデ牡馬騙馬に選ばれる事になった。
競走生活(6歳時)
6歳時は5月にジャマイカ競馬場で行われたキングズカウンティH(D8.5F)から始動して、マッドハターの3馬身差2着。1週間後のエクセルシオールH(D8.5F)では、11ポンドのハンデを与えたブレイゼズの1馬身差2着だった。さらに1週間後に出たロングビーチH(D9F)では、前2走より重い130ポンドを背負いながらも、2着マッドハターに3/4馬身差をつけて、1分50秒0のコースレコードを計時して勝利した。しかし3度目の出走となったサバーバンH(D10F)では133ポンドの斤量に泣いて、カーターHを2連覇していたオーダシャス、マッドハターなどに後れを取り、勝ったオーダシャスから8馬身3/4差の5着に敗退。次走のブルックリンH(D9F)では、前走のベルモントSを勝ってきた3歳馬グレイラグ、前年のドワイヤーSでマンノウォーを苦しめたジョンピーグリアとの対戦となったが、この2頭に敗れてグレイラグの3馬身差3着に終わった。この敗戦を受けて、キルマー氏は本馬の管理調教師をF・カーチス調教師に交替させた。
その後は一息入れてインディペンデンスH(D12F)に出走して、130ポンドを克服して2着ウッドトラップに1馬身半差で勝利した。しかしダニエルブーンH(D9.5F)では135ポンドを課されて、ベストパルの2馬身差3着に敗退。132ポンドを背負って出たフロンティアH(D9F)でも、ベストパルの2馬身差3着に敗れた。この連敗が原因で、カーチス師は本馬の管理調教師を辞めさせられ、代わりにかつてケンタッキーダービーで本馬に騎乗し、一時期は本馬の主戦騎手を務めたウィリー・ナップ元騎手が調教師として本馬を管理する事になった。
130ポンドを背負ったマーチャンツ&シチズンズH(D8.5F)では大激戦の末にマッドハターを1馬身差の2着に下して勝利。そして迎えたサラトガC(D14F)では、長距離得意の本馬に挑んでくる馬がおらず単走で勝利した。次走のオータム金杯(D16F)では挑戦者としてベルソーラーという牝馬が現れたため2頭立てのレースとなった。本馬はベルソーラーより26ポンド多い130ポンドが課せられたが、6馬身差で圧勝して格の違いを見せ付けた。さらにトロントオータムC(D10F)では137ポンドが課せられながらも、前年の同競走2着馬マイディアを再び2着に破って首差で勝利した。その後は135ポンドを課せられたアナポリスH(D12F)で、ザポーターの8馬身半差3着。132ポンドを課せられたローレル競馬場ダート10ハロンのハンデ競走では2着マイディアに1馬身差で勝利。134ポンドを課せられたレキシントンC(D12F)では、ファイアブランドの6馬身半差3着だった。シーズン最終戦のピムリコCH(D18F)は2着ボニフェイスに頭差で勝って同競走3連覇を達成し、6歳時の成績を16戦8勝とした。米年度代表馬の座はグレイラグのものとなったが、マッドハターと並んで米最優秀ハンデ牡馬騙馬に選ばれる事になった。
競走生活(7歳時)
翌7歳時がおそらく本馬の全盛期で、大半のレースで132ポンド以上の斤量を課せられながらも勝ち星を重ねていった。なお、管理調教師は7人目となるユージーン・ウェイランド師に代わっていた。シーズン初戦となった4月のハートフォードH(D6F)では、ユナイテッドステーツホテルS・サンフォードS・トボガンHなどを勝っていた4年前の米最優秀2歳牡馬騙馬ビリーケリーとの対戦となった。斤量は両馬共に132ポンドだったが、長距離得意の本馬に対してビリーケリーはこのハートフォードHを前年まで3連覇するなど短距離を得意としており、距離適性ではビリーケリー有利だった。道中も本馬はついていけないのか12頭立ての6番手を追走していたが、残り半分を過ぎたところから追い上げて、最後はビリーケリーを1馬身差の2着に破って勝利した。
次走のフィラデルフィアH(D8.5F)では133ポンドを背負わされて、ボニフェイスの鼻差2着だった。しかし次走のピムリコスプリングH(D8.5F)では同じ133ポンドを背負いながら、2着ボニフェイスに頭差で勝利した。次走のクラークH(D9F)でも133ポンドを背負いながら、2着レディマッドキャップに1馬身半差で勝利。続くケンタッキーH(D10F)では138ポンドが課せられたが、それでも2着ファイアブランドに1馬身半差で勝利した。次走のベルモントパーク競馬場ダート9ハロンのハンデ競走では、133ポンドを背負いながらも、26ポンドのハンデを与えた2着ビーフランクに半馬身差で勝利した。次走のベルモントパーク競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走では134ポンドが課せられたが、2着マッドハターに1馬身半差で勝利した。
続くブルックリンH(D9F)ではグレイラグと2度目の対戦となった。斤量は本馬がグレイラグより9ポンドも重い135ポンドだったが、ゴール前の叩き合いの末にグレイラグを頭差の2着に下して勝ち、グレイラグにこの年唯一の黒星をつけた。次走のインディペンデンスH(D12F)では140ポンドが課せられてしまい、さすがにこれでは厳しくファイアブランドの12馬身差6着と大敗した。続くサラトガH(D10F)でも136ポンドが課せられて、グレイラグの10馬身差5着最下位に敗退。しかし次走のサラトガC(D14F)では2着マッドハターに首差で勝利を収めて同競走4連覇を達成した。続くトロントオータムC(D10F)も132ポンドを背負いながら、2着ガイに1馬身半差で勝利を収めて同競走3連覇を達成。
続いて出走したのは、ホーソーン競馬場ダート10ハロンのコースレコードに挑戦するタイムトライアルレースとなった。しかし結果はレコードどころか本馬が過去にダート10ハロンで勝利した際の最速タイム2分04秒4にも程遠い2分10秒0の走破タイムで、タイムオーバー負け。単走レースで敗戦という珍記録を経験することとなった。
次走のローレル競馬場ダート6ハロンのハンデ競走では133ポンドを課せられて、カラミティジェーンの1馬身半差4着に敗れた。132ポンドを背負って出たローレルS(D8F)では、サラトガスペシャルS・ケンタッキージョッキークラブS・ユースフルS・ジェロームHなどを勝っていた一昨年の米最優秀2歳牡馬トライスター、英国でデュークオブヨークH・シティ&サバーバンHを勝った後に米国に移籍してきたパラゴンなどが挑んできたが、本馬が2位入線のパラゴン(進路妨害により失格)に4馬身差をつけて圧勝した。132ポンドを背負って出たワシントンH(D10F)では、28ポンドのハンデを与えたオセアニックの3馬身半差4着に敗れた。次走のピムリコCH(D18F)では125ポンドの斤量という事もあり、4連覇は確実視されていた。しかし結果は勝ったキャプテンアルコック、2着ポールジョーンズから大差をつけられて3着に敗退。7歳時の成績は17戦10勝となった。この年は過去2年逃した米年度代表馬に選ばれ、グレイラグと共に3年連続の米最優秀ハンデ牡馬騙馬にも選ばれる事になった。しかし、この7歳シーズン後半から、さすがの本馬にも衰えが見え始めていたようである。
競走生活(8・9歳時)
8歳時は新たな管理調教師としてW・シールズ師とアール・サンド師が続けて就任した。まずは前年同様に4月のハートフォードH(D6F)から始動したが、132ポンドを課せられ、26ポンドのハンデを与えたブレイゼズ、ビリーケリーの2頭に敗れて、ブレイゼズの1馬身1/4差3着に終わった。次走のフィラデルフィアH(D8.5F)では132ポンドを背負いながら、2着ポールジョーンズに首差で勝利した。しかし次走のハヴァードグレイス競馬場ダート8ハロン70ヤードのハンデ競走では、132ポンドを課せられて2着に敗退。8歳時はこの3戦のみで休養入りした。
9歳時は延べ10人目の調教師として、かつて本馬の素質を一番早く見抜いたヘンリー・マクダニエル師が再度管理する事になった。2月に墨国のティファナ競馬場で行われたダート8ハロン70ヤードの一般競走から始動した。本馬にとっては裸同然の113ポンドの斤量では負けるわけにはいかず、1馬身差で勝利した。しかし次走のコーフロスH(D10F)では130ポンドを課せられて、ランスターの1馬身半差4着に敗れた。次走のハヴァードグレイス競馬場ダート8ハロン70ヤードの一般競走は斤量が107ポンドと軽かったために楽勝したが、フィラデルフィアH(D8.5F)では全盛期の本馬であれば何の問題も無い124ポンドだったにも関わらず、スポットキャッシュの8馬身1/4差5着に完敗。次走のピムリコ競馬場ダート8ハロンのハンデ競走も、勝ち馬マーチンゲールから10馬身差の3着に敗れた。その後は加国ケベック州ブルーボンネッツ競馬場に向かい、ダート8ハロンの一般競走に出て、2着ゴールデンルールに1馬身差で勝利。そしてデビュー以来通算100戦目の出走となったクイーンズホテルH(D8.5F)でスポットキャッシュの5馬身半差3着になったのを最後に、9歳時7戦3勝の成績で遂に現役を退いた。
競走馬としての評価などに関する補足
獲得賞金総額25万2996ドルは、マンノウォーの24万9465ドルを上回るもので、当時の北米賞金王に君臨した。本馬は米国内だけでなく、隣国の加国や墨国まで脚を延ばして各地の競馬場を駆け巡った。ステークス競走の勝利数34勝(33勝とする資料もある)は、ネイティヴダイヴァーと並んで現在も破られていない北米記録である。また、9人の調教師が管理したというのも他に例を見ない珍記録である(原因は、炎の気性と呼ばれたほど性格が激しいキルマー氏の性格にあった)。130ポンド以上を背負って出走したのは35回に達したため、本馬を応援するファンはいつも心配していたという。
本馬が他界した翌年にサガモアプレス社から出版された“American Race Horses”においては、「多くの競馬関係者は彼を自分が見た中で最も偉大な馬だと感じていました。彼を見た事が無い競馬関係者でも、彼がサラブレッドのスタミナと勇気を現す永遠のシンボルである事を知っていました」と評している。1949年に死去するまで毎年のようにケンタッキーダービーを見続けたチャーチルダウンズ競馬場の代表者ウィン大佐は「最も偉大なケンタッキーダービー馬を選べといわれたら、私はエクスターミネーターを選びます。何故なら、スピード、スタミナ、勇敢さ、賢さ、そして最も重要な頑丈さを全て有していたからです」と生前に語ったという。本馬に騎手及び調教師として携わったナップ氏は「彼がベストの状態なら、マンノウォー、サイテーション、ケルソや他のどの馬が相手でも勝つことが出来たはずです」と述べている。
気性が激しいために去勢されたはずの本馬だったが、現役時代は非常に賢い馬に変貌しており、スタート前に焦れ込む事などは無かった。それどころか、スタート時に隣に気性が悪い馬がいて暴れていた場合、その馬に寄りかかって落ち着くまで押さえていたという有名な逸話もある。長距離移動の連続だったが、輸送用列車には静かに乗り込んでいき、列車内においても藁まみれになって犬とじゃれあいながら、さながら自分の家の中にいるかのように過ごし、列車が目的地に到着すると再び静かに降りて行ったという。
愛称は“Old Bones(老骨)”“Slim(ほっそり)”“The Galloping Hatrack(走る帽子掛け)”“Old Shang(古い商人)”など数多い。特に“Old Bones”は本馬を紹介した児童向け伝記の題名に使用されているため有名であるが、元々は痩せこけて骨が浮き出た体格から単に“Bones(骸骨)”と呼ばれていたのが、6歳頃にファンの希望により“Old”が加えられたという。あの大作家アーネスト・ヘミングウェイ氏も本馬と自身を重ね合わせていたという。
なお、本馬を紹介している日本の資料では必ず本馬の競走成績を100戦としているが、米国ではホーソーン競馬場で行われたタイムトライアルレースを本馬の公式記録に含めない事もあるようで、例えば本馬が晩年を過ごしたニューヨーク州ビンガムトン市の地元新聞が本馬の死去のニュースを報じた際には、その成績を99戦50勝としている(英語版ウィキペディアでも99戦になっている。なお、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトのように本馬の競走成績を100戦としている米国の資料も少なからず存在している)。
血統
McGee | White Knight | Sir Hugo | Wisdom | Blinkhoolie |
Aline | ||||
Manoeuvre | Lord Clifden | |||
Quick March | ||||
Whitelock | Wenlock | Lord Clifden | ||
Mineral | ||||
White Heather | Blair Athol | |||
May Bell | ||||
Remorse | Hermit | Newminster | Touchstone | |
Beeswing | ||||
Seclusion | Tadmor | |||
Miss Sellon | ||||
Vex | Vedette | Voltigeur | ||
Mrs. Ridgway | ||||
Flying Duchess | The Flying Dutchman | |||
Merope | ||||
Fair Empress | Jim Gore | Hindoo | Virgil | Vandal |
Hymenia | ||||
Florence | Lexington | |||
Weatherwitch | ||||
Katie | Phaeton | King Tom | ||
Merry Sunshine | ||||
War Dance Mare | War Dance | |||
Mamie S | ||||
Merrythought | Pirate of Penzance | Prince Charlie | Blair Athol | |
Eastern Princess | ||||
Plunder | Buccaneer | |||
Defence Mare | ||||
Raybelle | Rayon d'Or | Flageolet | ||
Araucaria | ||||
Blue Grass Belle | War Dance | |||
Ballet |
父マックギーは英国産馬で米国に競走馬として輸入され、53戦24勝の成績を残したが、ステークス競走の勝ちは無かった。種牡馬としては1913年のケンタッキーダービーを単勝オッズ92.45倍という同競走史上最大の大穴で制したドネレイルを出したのを皮切りに多くの活躍馬を出して北米種牡馬ランキング上位の常連となり、1922年には本馬の活躍により北米首位種牡馬に輝いている。マックギーの父ホワイトナイトは競走成績には特筆すべきものはなく、種牡馬としても大した成功は出来ないまま早々に見切りをつけられて去勢され種牡馬廃用となっている。ホワイトナイトの父サーヒューゴは英ダービー優勝馬。さらにそれから遡るとラタプラン、ザバロンに至る血統である。
母フェアエンプレスは現役成績2戦未勝利。繁殖牝馬としては16頭の子を産み、そのうち本馬を含む9頭が勝ち上がるという優れた成績を残した。近親には活躍馬はあまり見当たらないが、フェアエンプレスの祖母レイベルの全姉ザベルの子にはレンセラー【トラヴァーズS・ジェロームH】、牝系子孫にはテラング【サンタアニタダービー・サンアントニオH・サンタアニタH】などが、同じくレイベルの全姉パンドラの子にはハーフタイム【プリークネスS】が、レイベルの母ブルーグラスベルの1歳年下の全妹には第1回アメリカンダービーも制したケンタッキーオークス馬モデスティがいる。モデスティの曾孫には牝馬として史上初めてケンタッキーダービーを制した名牝リグレットがいる。→牝系:A1号族
母父ジムゴアーはヒンドゥーの直子で、クラークSを勝ち、ケンタッキーダービー・ラトニアダービー・セントルイスダービーで2着している。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は馬主のキルマー氏がヴァージニア州に所有していたコートマナーハウスで余生を送り、1940年にキルマー氏が死去した後はニューヨーク州ビンガムトン市のサンブライアーコートに移動した。現役時代からマンノウォーと人気を二分するほどの支持を得ていた本馬のところには、全米中からファンが連日押し寄せた。仲が良かったポニー達(全て「ピーナッツ」と名付けられていた)と一緒に好物のニンジンケーキやアイスクリームを食べながら悠々自適の余生を送った本馬は、1945年9月に30歳で他界した。墓碑は作られなかったが、晩年を共に過ごしたポニー達の墓の隣に埋葬されたという。現在はビンガムトン市にあるウィスペリングパインズ・ペット霊園(旧称ラフランス・ペット霊園)内に、同じくキルマー氏の所有馬だったサンブライアーやケンタッキーオークス馬サンティカと共に墓碑が建立されている。1957年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第29位。