ローマー
和名:ローマー |
英名:Roamer |
1911年生 |
騙 |
鹿毛 |
父:ナイトエラント |
母:ローズツリー |
母父:ボナヴィスタ |
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両親の自然交配という運命的な出来事で誕生し、卓越したスピードでレコードタイムを連発するも最後に悲劇に巻き込まれる |
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競走成績:2~8歳時に米で走り通算成績98戦39勝2着26回3着9回 |
誕生からデビュー前まで
米国ケンタッキー州ラニミードファームにおいて、ハノーヴァー、ミスウッドフォード、ベンブラッシュといった名馬の所有者でもあった同牧場の創設者エゼキエル・クレイ大佐の息子カーネル・クレイ氏とウッドフォード・クレイ氏の兄弟により生産された。
本馬の誕生については有名な逸話がある。ラニミードファームにクレイ兄弟が所有するローズツリーという牝馬が繋養されていた。しかしローズツリーは目が不自由で、繁殖活動は困難だった。ある日、ラニミードファームに居たナイトエラントという種牡馬が牧場の柵を飛び越えてローズツリーのところに行き、ローズツリーと交配した。その結果、ローズツリーは妊娠した。逆に、ローズツリーが柵を乗り越えてナイトエラントのところに行ったという説もあるが、いずれにしても人為的な交配ではなく自然交配だったのは事実のようである。
これは当時ラニミードファームにいた名種牡馬スターシュートをローズツリーの交配相手として考慮していたクレイ兄弟にとって予想外の出来事だったが、目が不自由だったローズツリーはそれほど重要な繁殖牝馬とはみなされていなかったため、ローズツリーの胎内の子は中絶される事は無かった。翌年ローズツリーは難産の末に牡駒を産み落とした。この馬が本馬である。目が不自由な母は、本馬を育てるのが困難だったため、牧場のスタッフ等が手助けして本馬を育成していったという。
本馬は小柄な馬だったため、成長を促すために去勢された。しかし結局はあまり大きくならなかった。なお、本馬の去勢の理由にはもう一説ある。柵を飛び越えて勝手に交配した父ナイトエラントの息子であるが故に、父と同じ行動を取る事を恐れたクレイ兄弟が早めに禍根を絶ったのだという説であり、おそらく両説とも真相を突いているのだろう。
本馬の馬名を直訳すると「放浪者」という意味で、柵を飛び越えて本馬を産ませた父の行動から連想されたと言われている。
競走生活(2歳時)
クレイ兄弟の所有馬として競走馬となった本馬は、2歳5月にケンタッキー州レキシントンで行われたレースでデビューし、5馬身差で勝ち上がった。その後2回走って、この年の米最優秀2歳牡馬騸馬に選ばれる後の好敵手オールドローズバドの2着、3着となった後、本馬はニューヨークに移動した。そしてクレーミング競走に出走して1千ドル(2千ドルとする資料もある)で購入されたが、クレイ兄弟は2005ドルで本馬を買い戻した。その数日後、今度はニューヨークの大手出版業者アンドリュー・ミラー氏の専属調教師だったA・J・“ジャック”・ゴールズボロー師が2500ドルで本馬の購入を要求。この取引は成立したため、本馬の所有者はクレイ兄弟からミラー氏に変わり、ゴールズボロー師の管理馬となった。
当時56歳のミラー氏は、セオドア・ルーズベルト大統領とはハーバード大学の級友で、当時の米国で最も著名な週刊誌の1つだった“Life(ライフ)”の創業に携わるなど米国の出版業において大きな功績を残し、一度は閉鎖されていたサラトガ競馬場に資金提供して復活させるなど競馬界にも大きな足跡を残した人物である。そうした活動の傍らで30年間も馬主をしてきたが、その活動は障害競走やスタンダードブレッドによる繋駕速歩競走に重点が置かれており、平地競走に参入したのは本馬を購入する少し前のことだった。
転厩後初戦のレースはリトルネヒューの2着だったが、4日後のサラトガスペシャルS(D6F)では、後の名種牡馬ブラックトニーを3着に破り、2着となったグレートアメリカンS・ユースフルSの勝ち馬ゲイナーに1馬身半差をつけて勝利した。その後もラファイエットH(D6F)でゲイナーの2着になるなど、2歳時は17戦4勝2着6回3着1回の成績を残した。
競走生活(3歳時)
3歳時は5月にベルモントパーク競馬場で行われたハンデ競走から始動して4馬身差で勝利。この3日後のウィザーズS(D8F)ではチャールストニアンの3着に敗れ、2着ゲイナーにも先着を許した。その後はハンデ競走を勝利してから、トボガンH(D6F)に出走したが、前年のウィザーズS・ブルックリンダービー・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションS・トボガンHを勝ちベルモントSで2着していたロックビュー(後年になって前年の米最優秀2歳牡馬に選ばれている)の着外に敗れた。しかしその後に出走したカーターH(D7F)では、トップハンデのボロー(後にこの年の米最優秀ハンデ牡馬騸馬に選ばれる)を馬なりのまま2馬身差の2着に、アラバマS・クイーンズカウンティHなどを勝っていたフライングフェアリーを3着に下し、1分24秒8のコースレコードを樹立して勝利した。次走のハンデ競走も勝利。続いて出走したブルックリンダービー(D10F・現ドワイヤーS)では、ゲイナーを8馬身差の2着に、チャールストニアンを3着に破って圧勝。続くエンパイアシティH(D9F)では、クラークH・ブルックリンHなどの勝ち馬バックホーンの3着だった。しかし2頭立てだったミッドサマーS(D12F)では、唯一の対戦相手ロバートオリヴァーを寄せ付けずに快勝。
そして迎えたトラヴァーズS(D10F)では本馬の独り舞台となり、馬なりのまま走ったにも関わらず、2着サプライジング、3着ゲイナー、4着ストロンボリなどを完膚なきまでに打ちのめし、2着サプライジングに10馬身差をつけて圧勝。勝ちタイムの2分04秒0はコースレコードだった。さらにヒューロンH(D10F)では128ポンドを背負いながらも、2着パンチボウルや3着ゲイナーに5馬身差をつけて勝利。次走のステートフェアS(D10F)ではゲイナーとの2頭立てとなり、8馬身差で圧勝した。ミュニシパルH(D10F)も、アラバマSの勝ち馬アディーエムに1馬身差で勝利。その後のオータムウェイトフォーエイジSでは対戦相手が集まらず単走で勝利した。ボルチモアH(D8.5F)では6ポンドのハンデを与えたストロンボリの着外に敗れたが、その9日後に出走したワシントンH(D9F)では2着ターターとは22ポンドのハンデ差があったにも関わらず、ダート9ハロンの全米レコード1分49秒6を樹立して圧勝した。このレースには前年のプリークネスSやこの年のメトロポリタンHを勝っていたバスキンも出走していたが3着に敗れている。この年16戦12勝2着1回3着2回の成績を挙げた本馬は、2万9105ドルを獲得して年間賞金王に輝いただけでなく、後年になってこの年の米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬騸馬に選出されている。
競走生活(4歳時)
4歳時はチャーチルダウンズ競馬場で行われた一般競走に出走して、愛国から移籍してきた後のディキシーH・クイーンズカウンティHの勝ち馬ショートグラスやプリンスヘルメスなどを蹴散らして勝利。しかしボロー、後にクラークHを2連覇するホッジ、ショートグラス、プリンスヘルメスなどとの対戦となった数週間後のケンタッキーH(D10F)では、ボローの着外に敗れた。ニューヨークに戻ってきた本馬は、ブルックリンH(D9F)に出走。ここでは22ポンドのハンデを与えたターターの2着に敗れたが、3着ボローには先着した。その後のクイーンズカウンティH(D8F)では、ストロンボリを破って勝利。そしてカーターH(D7F)に参戦したが、130ポンドを課せられて、フォスファーの6着に敗れた。
しかしこの僅か5日後には、ブルックデールH(D9F)に128ポンドを背負って出走し、馬なりのまま2着ストロンボリや3着ロックビューに5馬身差をつけ、1分50秒6のコースレコードタイで圧勝した。エンパイアシティH(D9F)では道中の不利が影響してゲイナーの着外に敗れた。次走のサラトガH(D10F)では、トラヴァーズSで1位入線するも最下位に降着となっていた後のジェロームH・カーターHの勝ち馬トライアルバイジュリーとの対戦となった。しかし128ポンドを背負っていた本馬が、2着サラトガに10馬身差をつけて圧勝を収め、トライアルバイジュリーは4着に終わった。その後に出走したシャンプレインH(D9F)では132ポンドの斤量が課せられてしまった。さらに不良馬場も堪えたようで、前走サラトガHで3着していた斤量110ポンドの牝馬スタージャスミンの4着に敗れ、2着ゲイナーや3着ストロンボリにも先着された。
その後はマーチャント&シチズンH(D9.5F)に出走して、ボローやストロンボリと対戦。本馬には129ポンドが課せられたが、2着ボローとの叩き合いを半馬身差で制し、ストロンボリを3着に下して勝利した。その後のサラトガC(D14F)では、前年の同競走とマーチャント&シチズンHを勝っていたスターゲイズとの対戦となったが、本馬が2着ヴィリレに8馬身差をつけて圧勝した。ハヴァードグレイスH(D9F)も1分51秒2のコースレコードを計時して、ストロンボリ以下に楽勝。132ポンドを背負ったナショナルH(D9F)では、9ポンドのハンデを与えたストロンボリやショートグラスに馬なりのまま3馬身差をつけて勝ち、4歳時を13戦8勝2着1回の成績で締めくくった。後年に決定されたこの年の米年度代表馬はケンタッキーダービーを勝った牝馬リグレットに譲ったが、米最優秀ハンデ牡馬騸馬に選出されている。
競走生活(5・6歳時)
5歳時は13戦したが、127ポンドで出走したヨンカーズH(D8.5F)で、この年のウィザーズS・トラヴァーズS・ジェロームHの勝ち馬スパーを2着に、トレモントSの勝ち馬エドクランプを3着に破って勝った1勝のみに終わった。しかしトップハンデで出走して2着に入った事が6回あった。その中には、この年のベルモントS・ブルックリンH・サバーバンHを勝って米年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選ばれるフライアーロックに14ポンドのハンデを与えて2着になったサラトガC(D14F)も含まれていた。このレースの3着馬は、前年のベルモントS・ウィザーズSの勝ち馬でこの年もメトロポリタンHを勝っていたザフィンだった。勝ち星こそ伸びなかったがこれらの内容が評価されて、後年にグラスと並んでこの年の米最優秀ハンデ牡馬騸馬に選ばれている。
6歳時はアンディ・シュッティンガー騎手を主戦として迎えた。まずはチャーチルダウンズ競馬場で行われた一般競走から始動して、長期休養から復帰してきたケンタッキーダービー馬オールドローズバドやエドクランプを破って勝利。1週間後のクラークH(D8.5F)では、11ポンドのハンデを与えたオールドローズバドの2着に敗れた。その後のケンタッキーH(D10F)では、キングゴリンの3着に敗北した。2着は翌年にディキシーH・ブルックリンHを勝って米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる3歳馬カジェルだったが、本馬はこの上位2頭にはかなりのハンデを与えていた。
その後はニューヨークに戻った。エクセルシオールH(D8.5F)では6ポンドのハンデを与えたボローを1馬身半差の2着、翌年のカーターHを勝つオールドクーニックを3着に破って、1分45秒4のコースレコードを計時して勝利。この1週間後にはブルックリンH(D9F)に出走し、リグレット、オールドローズバド、オマールカイヤムの3頭のケンタッキーダービー馬や、ボロー、ストロンボリ、ブーツなどの強豪と激突したが、117ポンドの軽量だったボローがリグレットを差し切って勝利し、オールドローズバドは3着、128ポンドのトップハンデだった本馬は5着に終わった。その後のクイーンズカウンティH(D8F)では、4ポンドのハンデを与えたオールドローズバドの2着だった。この1週間後にはブルックデールH(D9F)に出走。ここでは3着ボローには先着したが、ブーツに敗れて2着だった。ボローやスパーとの対戦となったエンパイアシティH(D9F)では重馬場に苦戦して、スパーの4着に敗退。CCAオークス馬ウィストフルとの対戦となったマウントヴァーノンH(D8F)では、セントイシドアの4着(ウィストフルは3着)に敗れた。
しかしサラトガH(D10F)では、オールドローズバドを5着に沈めて勝利した。続くデラウェアH(D8F)では、オールドローズバドとレディーズH2着馬カプラの2頭に敗れて、オールドローズバドの3着に終わった。続いて出たハンデ競走では他馬より23ポンド以上重い斤量を背負いながら3馬身半差で勝利した。さらに1週間後のアケダクトH(D9F)では他馬より19~26ポンド重い127ポンドを背負いながら、2着マニスタートイに3馬身差で勝利した。エッジメアH(D8.5F)では130ポンドの斤量と不良馬場に泣いて、16ポンドのハンデを与えた牝馬チクレットの2着に敗れた。しかしその後に出走したハンデ競走ではウィストフルを破って勝利。次走のアーリントンH(D8.5F)も2馬身差で勝利した。そしてモニュメンタルH(D9.5F)でスパーの4着に敗れたのを最後に、6歳シーズンを終えた。この年は17戦7勝2着4回3着2回の成績をマークしたが、後年にこの年の米年度代表馬・最優秀ハンデ牡馬騸馬に選ばれたのは21戦15勝の成績を挙げたオールドローズバドだった。
競走生活(7・8歳時)
7歳時にはエクセルシオールH(D8.5F)で、一昨年のケンタッキーダービー馬ジョージスミスの2着。ブルックリンH(D9F)では、3着ジョージスミスには先着するも、カジェルの2着に敗れた。クイーンズカウンティH(D8F)では、2着トムマクタガートに2馬身半差で勝利を収め、2年連続2着だった同競走3年ぶりの勝利を挙げた。カーターH(D7F)ではスタートで失敗したが、コースレコードで勝ったオールドクーニックの短首差2着まで盛り返した。次走は過去に3年連続出走して全て敗れていたエンパイアシティH(D9F)だった。前年に本馬を4着に破って勝利したスパーの姿もあったが、今回は本馬が128ポンドを背負いながら1分51秒0のコースレコードタイで駆け抜けて、2着ホリスターに8馬身差で圧勝した。さらに133ポンドを背負って出たマウントヴァーノンH(D8F)では、オールドクーニック、サンフォードS・ベルモントフューチュリティSの勝ち馬パップを蹴散らして、2着オールドクーニックに2馬身差で勝利。続いて出走したサラトガH(D10F)では、カジェルを3馬身差の2着に破り、4年前のトラヴァーズSで自身が樹立したレコードを1秒8も更新する2分02秒2のコースレコードを計時して3度目の同レース制覇を果たした。
その20日後には、サラトガ競馬場ダート1マイルで行われたライトニングとのマッチレースに出走。ライトニングの参戦は、本馬に本番の競走だと思わせて全力で走らせるためであり、実際には1890年にサルヴェイターがモンマスパーク競馬場で行われたタイムトライアルレースで計時した全米レコード1分35秒5(資料によって1分35秒25だったり1分35秒4だったりと一定していない)を更新できるかに挑戦する、本馬のタイムトライアルレースだった。サルヴェイターの管理調教師だったマシュー・バーン師も見守る中、110ポンドを背負って出走した本馬はダート1マイルを1分34秒8で走破して見事に全米レコードを更新してみせ、バーン師も含めた周囲の人々から祝福された。米国競馬において、本格的なレコードアタックが行われたのはこれが最後だった。本馬が樹立したこの全米レコードは、50年後の1968年にドクターファーガーがアーリントンパーク競馬場のワシントンパークHで1分32秒2を計時するまで保持されたとする資料をしばしば見掛けるが、14年後の1932年にアーリントンパーク競馬場ダート1マイルのハンデ競走でエクワポイズが1分34秒4を計時しているから、実際にはこの段階では破られていた事になる。それでも当時としては驚天動地の快タイムであった事には間違いが無い。
その後出走したサラトガC(D14F)では、14ポンドのハンデを与えた4歳年下のベルモントS・サバーバンH・ローレンスリアライゼーションS勝ち馬ジョーレン(この年の米年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選ばれる)との2頭立てであり、結果は本馬の敗戦だった。続くエッジメアH(D9F)では、ジョージスミス、4歳年下のプリークネスS・ドワイヤーSの勝ち馬ウォークラウドの2頭に後れを取り、ジョージスミスの3着。しかしピアポントH(D9F)ではウォークラウドを3着に破り、2着マニスタートイに首差で勝利した。その後2回走って2着と3着になり、16戦6勝2着6回3着2回の成績で7歳シーズンを終えた。
8歳時も現役を続けたが、さすがの本馬の身体にも衰えが見え始めており、6戦して1勝2着2回3着1回の成績に終わった。しかしこの1勝であるドミノH(D6F)では、グレートアメリカンS・サラトガスペシャルS・ホープフルS・トラヴァーズSを勝っていた4歳年下のサンブライアー(後年になって一昨年の米最優秀2歳牡馬とこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる)を2着に破っている。また、シーズン最終戦となったヨンカーズH(D8.5F)では、バリーの頭差2着に入り、3着スパーに先着した。
本馬はこの年までで98828ドルを稼いでおり、10万ドルの大台を目指して翌年も現役を続行すると思われた。しかし12月31日、本馬の所有者ミラー氏がマンハッタンの自宅で心臓発作のため62歳で死去。それから僅か数時間後、本馬は放牧中に地面に張っていた氷で脚を滑らせて転倒して脚を折ってしまい、翌1月1日に安楽死の措置が執られた。両親の自然交配という奇跡によりこの世に生を受けた本馬は、不運によってこの世を去っていったのである。
競走馬としての特徴
本馬はステークス競走で27勝を挙げたが、その距離は6ハロンから14ハロンまであり、短距離でも長距離でも関係なく走れる馬だった。また、非常にスタートダッシュが優れた馬で、全盛期である3・4歳時には、レース中盤で決定的な差をつけて、後は馬なりのまま勝利する事が殆どだった。幾度もレコードタイムを計時しており、本馬以前に本馬以上にレコードタイムを連発した馬はいないと言われた。また、重斤量と重馬場のダブルパンチだと負けることが多かったが、斤量の負担が小さければ重馬場でも普通に走ったという。
本馬は小柄な馬で、体重が1000ポンド(約455kg)を超えた事は無かったという。非常に小食な馬であり、“Iron Horse of American Turf(米国競馬の鉄馬)”と評された本馬の頑健さと卓越した競走能力がどこから湧き出てくるのかはゴールズボロー師にも分からなかったという。主戦を務めたシュッティンガー騎手によると、本馬は非常に賢くて反応が良く、乗りやすい馬だったという。1981年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第99位。
血統
Knight Errant | Trenton | Musket | Toxophilite | Longbow |
Legerdemain | ||||
West Australian Mare | West Australian | |||
Brown Bess | ||||
Frailty | Goldsbrough | Fireworks | ||
Sylvia | ||||
Flora Mcivor | New Warrior | |||
Io | ||||
St. Mildred | St. Simon | Galopin | Vedette | |
Flying Duchess | ||||
St. Angela | King Tom | |||
Adeline | ||||
Lady Fitz James | Scottish Chief | Lord of the Isles | ||
Miss Ann | ||||
Hawthorn Bloom | Kettledrum | |||
Lady Alice Hawthorn | ||||
Rose Tree | Bona Vista | Bend Or | Doncaster | Stockwell |
Marigold | ||||
Rouge Rose | Thormanby | |||
Ellen Horne | ||||
Vista | Macaroni | Sweetmeat | ||
Jocose | ||||
Verdure | King Tom | |||
May Bloom | ||||
Fanny Relph | Minting | Lord Lyon | Stockwell | |
Paradigm | ||||
Mint Sauce | Young Melbourne | |||
Sycee | ||||
Elm | Consternation | Blair Athol | ||
Rosabel | ||||
Elmina | King of Trumps | |||
Ella |
父ナイトエラントは20世紀初頭における米国有数の名馬産家ジェームズ・R・キーン氏の生産馬。競走馬としてはシーゲートSを勝っているが、それほど優秀な競走実績を挙げたわけではない。名門ラニミードファームで種牡馬入りしたくらいだから、まったくの無名種牡馬というわけでもなかったようだが、期待種牡馬というわけでもなかったようで、柵を飛び越えて産ませた本馬以外に特筆できる産駒は出していない。ナイトエラントの父トレントンは、豪州の歴史的名馬カーバインの父であるマスケット産駒で、新国産馬である。現役時代は豪州で走り13戦8勝、マッキノンSを勝っており、引退後は2度の豪首位種牡馬に輝いた後に英国に輸入されていた。
母ローズツリーは英国産馬で、元々は英国で競走馬デビューした。そして売却競走において購買されて渡米し、米国で競走生活を続けた。したがって生まれつき目が不自由だった訳では無い様である。競走馬としてはオーナーズCというダート1マイルのステークス競走で1分38秒2のコースレコードを計時した記録が残っており、母親のマイル戦における速さは息子にもしっかりと受け継がれている。
近親にはほぼ活躍馬の名前が見当たらないが、ローズツリーの血は本馬の半妹ローズウッド(父マグネット)から後世に受け継がれており、ローズウッドの孫にはデロー【アーリントンH】、牝系子孫にはフォーマルゴールド【ドンH(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)】、ポトリウィッシュ【5月25日大賞(亜GⅠ)】、ビジーガイ【ホアキンVゴンザレス大賞(亜GⅠ)】、日本で走ったフェラーリピサ【兵庫チャンピオンシップ(GⅡ)・エルムS(GⅢ)・根岸S(GⅢ)】などがいる。また、本馬の半弟ザワンダラー(父バルカン)は種牡馬入りしたが、種牡馬成績も後世に与えた影響も振るわなかった。→牝系:F18号族
母父ボナヴィスタは当馬の項を参照。