ハノーヴァー

和名:ハノーヴァー

英名:Hanover

1884年生

栗毛

父:ヒンドゥー

母:ブルボンベレ

母父:ボニースコットランド

ベルモントS圧勝を含むデビュー17連勝を達成するなど距離不問の活躍を見せ、種牡馬としても4年連続北米首位種牡馬に輝いた19世紀米国有数の名馬

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績50戦32勝2着14回3着2回

誕生からデビュー前まで

米国競馬黎明期の名馬産家エゼキエル・フィールド・クレイ大佐が米国ケンタッキー州に所有していたラニミードスタッドにおいて、父ヒンドゥーの初年度産駒として誕生した。

やや暗い鹿毛だった父とは異なり、炎のように明るい栗毛の馬体を有していた。成長した時の体高は16ハンドと父より少し高く、胴回りは深く、細長い流星が走った美しい顔と綺麗な目を有し、左後脚以外の3つの脚にストッキングを履き、誰が見ても他馬とは異なる上品さを備えた馬だったという。また、類稀なスピードと闘争心を有していた。

父ヒンドゥーの現役時代の所有者だったフィル・ドワイヤー氏とマイク・ドワイヤー氏の兄弟は当歳時の本馬を見て、あまりにもヒンドゥーに似ていないためにヒンドゥー産駒である事を疑ったという。しかし彼等もまた本馬に魅了され、将来的に売りに出された場合には必ず購入する事を決意したという。

1歳5月にラニミードスタッドが実施したセリに出された本馬は、ドワイヤー兄弟に1250ドル(1350ドルとする資料もある)で購入された。母ブルボンベルの名前がブルボン王朝の美人と言う意味だったため、同じ欧州の王朝であるハノーヴァー王朝にちなんで命名された。

競走生活(2・3歳時)

父ヒンドゥーの管理調教師だったジェームズ・ロウ師が、馬を酷使する事に反対してドワイヤー兄弟と口論となり解雇されていたため、本馬はフランク・マッケーブ調教師に預けられた。その結果として本馬は父以上に酷使される羽目になる。もっとも、2歳時には、たまたまドワイヤー兄弟の所有馬にトレモント、キングストンといった快速馬がおり、ドワイヤー兄弟はこの2頭の方を酷使したため、本馬の出走は3回のみで済んだ。

とは言っても内容は濃く、ホープフルS(D6F)を勝ち、ジュライS(D6F)では2着となったオネコなど他馬勢に10ポンドのハンデを与えて勝ち、サプリングS(D6F)ではキングストンを2着に破って勝利と、3戦無敗の成績だった。

3歳になると、2歳時13戦無敗の成績を残したトレモントが故障で引退したため、本馬が酷使される番になった。シーズン前半は無敵で、ブルックデールH(D9F)ではこの年のブルックリンHを勝つ4歳牡馬ドライモノポールを3馬身差の2着に下して勝利。ウィザーズS(D8F)でも勝利した。オネコとの僅か2頭立てとなったベルモントS(D12F)では15馬身差(30馬身差という説もある)で圧勝。さらにブルックリンダービー(D12F・現ドワイヤーS)では、同世代のプリークネスSの勝ち馬ダンボインを15馬身差の2着に葬り去って圧勝。スウィフトS(D7F)では7ハロンという短い距離にも関わらず、2着キングストンと3着フィレンツェ以下に10馬身差をつけて圧勝した。コニーアイランドダービー(D12F)でも2着オネコに10馬身差で圧勝。タイダルS(D8F)ではキングストンを2着に破って勝利。牝馬アルミーとの2頭立てとなったロリラードS(D12F)も勝利。他にもカールトンS(D8F)・スピンドリフトS(D10F)にも勝つなど、殆どのレースでトップハンデを背負って圧勝を続けた。

しかし7月のラリタンS(D10F)で17ポンドのハンデを与えたラガード(ちなみに“Laggard(ラガード)”とは「のろま」という意味)に敗れて、デビュー以降の連勝は17で止まった。それでも酷使は終わらず、その11日後にはユナイテッドステーツホテルS(D12F)を勝利。その2日後の米チャンピオンS(D12F)でもフィレンツェやアメリカンダービーの勝ち馬ヴォランテを蹴散らして勝利した。しかし翌週のオムニバスS(D12F)では、泥だらけの不良馬場の中で、7ポンドのハンデを与えたラガードとフィレンツェの2頭に頭差で敗れた。その5日後のチョイスS(D12F)でも敗戦を喫し、当時の競馬記者が「今回の敗戦で馬主もようやく目を覚ますでしょう。この1か月間のハノーヴァーの戦いぶりを見れば、ハノーヴァーが本調子では無いだけでなく、根本的に何かが間違っている事が誰でも分かるはずです」と書いて、間接的にドワイヤー兄弟を批判している。

しかし、ドワイヤー兄弟はそのような声には耳を貸さず、本馬を延々と走らせ続けた。しかし3歳時はその後8戦して、セカンドスペシャルS(D9F)・ブレッケンリッジS(D16F)・ディキシーS(D16F)の僅か3勝に終わった。2頭立てだったジェロームS(D14F)ではフィレンツェに打ち負かされ、それとは別のレースでは生涯最初の着外も経験している。3歳時の成績は27戦20勝2着5回3着1回だった。なお、この年は記録に残っている中では最古の米年度代表馬に選ばれている(後年、米最優秀3歳牡馬にも選出)。

競走生活(4歳時)

4歳時は5月のブルックリンH(D10F)から始動したが、プリークネスS・ジェロームH・ディキシーS・フリーホールドS2回・オムニバスS・チョイスS・セプテンバーSなどを勝っていた1歳年上のザバードの前に1馬身差の2着に敗退。その11日後に出走したブルックリンC(D12F)では、勝ったザバードに10馬身差をつけられて2着に敗れた。その後3勝は挙げたものの、ブルックデールH(D9F)はリッチモンドの2着に敗退。その後脚部不安を発症したために休養入りとなり、4歳時は6戦3勝2着3回の成績に留まった。

通常ならここで引退して種牡馬入りするのが筋だが、ドワイヤー兄弟は5歳になった本馬を競走に復帰させた。しかしシーズン序盤は4戦して距離7ハロンの下級競走で僅か1勝を挙げたのみだった。セントジェームズホテルS(D10F)ではディアブロの2着、ブルックリンC(D12F)でも敗れ、ブルックリンジョッキークラブH(D10F)では前年の3着馬エグザイルの着外に終わり、生涯2度目の着外を喫した。そこでドワイヤー兄弟は本馬を出走させるレースの格を落とすことにした。そしてカリフォルニアS(D8F)など5勝を挙げた。カリフォルニアSの僅か2日後にはコニーアイランドCに出走したが、フィレンツェの前に敗れた。その後は7戦して、マーチャンズS、それに2着馬に14ポンドのハンデを与えたエクスプレスS(D7F)の2勝を挙げたが、他の5戦は全て敗れて、5歳時17戦9勝2着6回3着1回の成績でようやく競走馬を引退した。

生涯獲得賞金は11万8887ドルで、ミスウッドフォードが有していた当時の北米記録11万8270ドルを更新した。本馬は現役時代4ハロンから2マイルまで様々な距離で走り、着外は2回だけだった。余談だが、本馬の同僚だったキングストンは10歳まで走り138戦89勝2着33回の成績を残し、14万195ドルを稼いで本馬の獲得賞金記録を更新し、種牡馬としても2度の北米首位種牡馬に輝いている。また、本馬を何度か負かしたフィレンツェは本馬の父ヒンドゥーの姪に当たり、通算成績82戦47勝、レディーズH・ジェロームH・ガゼルH・モンマスH・モンマスオークスなどを勝ち、1981年に米国競馬の殿堂入りを果たしているほどの名牝だった。本馬はこの2頭と比べると出走回数は少ない(こうして見るとこの時期は馬を酷使するのが当たり前だったのがよく分かる)が、2頭より重いハンデを背負って互角以上に戦い続けており、競走馬の能力と言う点では一枚抜けていた。

血統

Hindoo Virgil Vandal Glencoe Sultan
Trampoline
Tranby Mare Tranby
Lucilla
Hymenia Yorkshire St. Nicholas
Miss Rose
Little Peggy Cripple
Peggy Stewart
Florence Lexington Boston Timoleon
Sister to Tuckahoe
Alice Carneal Sarpedon
Rowena
Weatherwitch Weatherbit Sheet Anchor
Miss Letty
Birdcatcher Mare Birdcatcher
Colocynth
Bourbon Belle Bonnie Scotland Iago Don John Waverley
Comus Mare
Scandal Selim
Haphazard Mare
Queen Mary Gladiator Partisan
Pauline
Plenipotentiary Mare  Plenipotentiary
Myrrha
Ella D Vandal Glencoe Sultan
Trampoline
Tranby Mare Tranby
Lucilla
Falcon Woodpecker Herod
Miss Ramsden
Ophelia  Wild Medley 
Sir Archy Mare 

ヒンドゥーは当馬の項を参照。

母ブルボンベルは不出走馬。ブルボンベルの母エラディーは優れた競走馬だったらしいが、詳細な成績は伝わっていない。本馬の全妹ケンタッキーベルの子にはケンタッキーボー【シャンペンS】がいる他、その牝系子孫からはメアリージェーン【ケンタッキーオークス】、ヤングピーター【トラヴァーズS】、スピネイ【サンタアニタマチュリティS・加国際CSS】、シャープダンス【ベルデイムS(米GⅠ)】などが出ている。

エラディーの母ファルコンは、1838年に距離2マイルの全米レコードを樹立した牡馬グレイイーグルの全妹に当たる。→牝系:F21号族②

母父ボニースコットランドは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はミルトン・ヤング大佐により購入されて、彼がケンタッキー州に所有していたマクグラシアーナファームで種牡馬入りする事になり、ドワイヤー兄弟との縁はようやく切れた。本馬は種牡馬としても成功し、1895年から1898年まで4年連続4度の北米首位種牡馬に輝いた。4年連続で北米首位種牡馬に輝いたのは、サーチャールズ(1830~33年)、グレンコー(1854~57年)、レキシントン(1860~74年)に次いで4頭目で、本馬以降にはボールドルーラー(1963~69年)しか登場していない。本馬の産駒は、自身と同様に距離不問で、短距離から超長距離まで幅広くこなした。

本馬は1898年の暮れ頃に大腸を患って疝痛を発症。一時は快方に向かっていたが、療養のために食事制限をされたために焦らつき、床に脚を叩きつけた際に蹄骨を骨折。患部から敗血症を発症したため、1899年3月に15歳で安楽死の措置が執られた。1955年には父ヒンドゥーや、同僚だったキングストンなどと共に米国競馬の初代殿堂入りを果たしている。

後継種牡馬としては、ハンブルグ、アベフランク、ブラックストックが成功した。ブラックストックは、その直系からワイズカウンセラーを出すなど、本馬の直系をしばらく持ちこたえさせていたが、1950年代には完全に滅んだ。ハンブルグやアベフランクも直系を伸ばせなかった(ハンブルグは当馬の項を参照。アベフランクはパンザレタの項を参照)。しかし、本馬の血は、ハンブルグの娘フリゼットを経由して現在も多くの馬に受け継がれている。なお、本馬を母父に持つ馬には、英ダービー馬オービー、英1000ギニー馬ロードラがいる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1892

Halma

ケンタッキーダービー・クラークH

1893

Handspring

ウィザーズS・ブルックリンダービー

1895

Hamburg

ローレンスリアライゼーションS

1895

Handball

ジェロームH

1895

Sanders

マンハッタンH

1896

Half Time

プリークネスS

1899

Blackstock

エクセルシオールH

1899

Compute

ウィザーズS

1899

Yankee

ベルモントフューチュリティS

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