パンザレタ

和名:パンザレタ

英名:Pan Zareta

1910年生

栗毛

父:アベフランク

母:キャディーグリフィス

母父:ランコカス

北米大陸の各地に足を運び下級短距離戦で過酷なハンデを背負いながら走り続けた米国競馬史上最多勝利牝馬

競走成績:2~7歳時に墨米加で走り通算成績151戦76勝2着31回3着21回

日本における知名度は皆無に近いが、勝利数は牝馬としては米国競馬史上最多であり、おそらく米国のみならず世界中にもこれだけ勝ち星を挙げた牝馬はちょっといないだろう。その点においては、世界競馬史上有数の名牝と言っても過言では無いかもしれない。主戦場は短距離戦であり、現在以上に短距離戦の格が低かった当時のことであるから、走ったレースの多くは無名競走である。その点が知名度の低さに繋がっているのだろうが、他馬に対して与えた非常識な斤量差を考慮すると、例え無名競走が主戦場であっても、その実力に疑問を差し挟む余地は無い。

誕生からデビュー前まで

米国テキサス州スウィートウォーターの牧場主J・F・ニューマン氏と孫のハロルド・S・ニューマン氏の両名により生産・所有された。馬名は本馬が競走馬としてデビューした墨国チワワ州最大の都市シウダー・フアレスの市長の娘の名前にちなんでいる。本馬は本業の調教師に管理された事は無かったようで、本馬の生産者ハロルド・S・ニューマン氏や、後に本馬の所有者となるE・T・コルトン氏など、本馬を管理したのは調教師としての簡単な訓練を受けた程度の人物ばかりであったという。しかし本馬は人と遊ぶのが好きな賢い馬であり、本職でない人物でも容易に調教が出来たと言われている。

競走生活(2~4歳時)

本馬がシウダー・フアレスにあるオールドフアレス競馬場において競走馬デビューしたのは、2歳1月7日という今日では考えられないほど早い時期であり、ダート3ハロンのレースで着外という結果だった。その3日後には2戦目に出走し、直線で真っ直ぐ走れなかったにも関わらず2着に入り、きちんと走れば勝てただろうと言われた。その4日後に出走したセニョリータS(D3.5F)を2着トゥルーリーに3/4馬身差で制して初勝利を挙げた。次走も直線でふらつきながら走ったが2馬身差で勝利。5戦目では12ポンドのハンデを与えた他馬と大激戦を演じて1着同着となった。3月のレースで3着に敗れた後に少し休養が与えられ、5月にアイダホ州コーダリーン市で行われたレースで復帰して、4馬身差で楽勝した。その後、勝ち星を一つ上乗せした本馬は、今度はユタ州ラグーンに向かい、3戦して2勝2着1回の成績を残した。すると今度はモンタナ州ビュート町に向かい、4戦して3勝2着1回の成績を残した。モンタナ州の州都へレナで行われたワンダーランドH(D5F)でエンヴィーの3着に敗れた後にシウダー・フアレスに戻り、年内にもう3勝を加えた。2歳時の成績は19戦13勝2着3回3着2回だった。

3歳時はシウダー・フアレスで出走したリオグランデS(D6F)において、向こう正面で不利を受けたにも関わらず勝利した。さらに6日後の一般競走も勝ち、さらにチワワS(D6F)も勝利した。チャプルテペックH(D6F)では2着となった牡馬コルキットにに27ポンドのハンデを与えながら勝利を収めた。フアレスS(D6F)では、本馬の生涯の宿敵ユーシーイットを2着に破って勝利した。フアレスH(D6F)でもユーシーイットを3着に破って勝っている。この年は加国オンタリオ州ウィンザー競馬場にも遠征してセントクレアH(D6F)に出走したが、ここでは牡馬フラッバーガストの2着に敗れている。3歳時の成績は33戦15勝2着8回3着3回だった。

4歳時も走り続けた。この年は加国ケベック州ドルヴァルパーク競馬場で行われたラピッズH(D6F)でウォーターレディの2着、オールドフアレス競馬場で出走したドスリパブリカスH(D7F)で牡馬オーブの3着という成績が残っているが、ステークス競走の勝利は無かった模様である。しかしそれでも4歳時は28戦13勝2着9回3着2回の成績を残し、後年になってこの年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれている。

競走生活(5~7歳時)

5歳時は前年10月からの連勝を16まで伸ばした。この連勝中は最大で146ポンドを背負い、多くのレースでそれに近い斤量を背負っていたという。146ポンドを背負って勝ったレースにおける2着馬の斤量は100ポンドで、その差は実に46ポンドだった。連勝が止まったのは7月で、このレースでは28ポンドのハンデを与えた馬に頭差で敗れている。しかし自身の斤量が140ポンドまで軽くなったレースでは連勝を止めた馬を2馬身半差で下している。他にも、あるレースで44ポンドのハンデを与えた牝馬に惜敗したが、後のレースでは同馬に39ポンドのハンデを与えて勝利したなど、本馬が他馬より断然重い斤量を背負う事は当たり前になっていた。10ポンドのハンデを与えた牡馬ジョーブレアとのダート5ハロンのマッチレースでは、ジョニー・ロフタス騎手鞍上の本馬はスタートで大きく出遅れたにも関わらず、直線でジョーブレアを捕らえて2馬身差で勝利。勝ちタイム57秒2は全米レコードであり、31年間(35年間とする資料もある)破られなかった。5歳時の本馬は26戦15勝2着6回3着4回の成績を残した。

本馬が6歳になった後、資金繰りに苦しんだニューマン一家は所有馬全てを手放す羽目になり、本馬はE・T・コルトン氏に1万ドルで購入された。コルトン氏の元でニューオーリンズ州、アーカンソー州、加国、ルイジアナ州フェアグラウンズ競馬場と転戦して、フェアグラウンズ競馬場で行われたクレセントシティH(D6F)など勝ち星を積み重ねた本馬は、この年初めてニューヨーク州に姿を現した。初戦となったジャマイカ競馬場ダート5.5ハロンのレースでは1分05秒6のコースレコードを樹立。その後もニューヨーク州で135~140ポンドを背負いながら勝ち星を増やしていった。6歳時の成績は11戦7勝2着1回3着3回だった。

翌7歳時は過去最も多い34戦を消化し、エセックスH(D5.5F)・カトナH(D5.75F)に勝つなど13勝2着4回3着7回の成績を残した。勝率こそ過去6年間で一番低かったものの、獲得賞金総額は過去最高の年となった。また、本馬は現役時代に有名な馬との対戦歴はあまり無いのだが、この年には、ケンタッキーダービー・ユカタンS・スプリングトライアルS・ハロルドS・フラッシュS・ユナイテッドステーツホテルS・シンシナティトロフィーSの勝ち馬で、この年のクラークH・クイーンズカウンティH・カーターH・フロンティアH・ベイビューH・ラトニアイノーギュラルH・デラウェアH・レッドクロスH・マウントヴァーノンH・サーアーチーハイウェイトHを勝って米年度代表馬に選ばれるオールドローズバドと2回対戦している。3月に行われたレースでは本馬が勝利してオールドローズバドは3着、4月に行われたレースではオールドローズバドが勝利して本馬は3着だった。本馬はこの7歳時を最後に競走馬を引退した。

競走馬としての評価

本馬は現役時代に北米大陸の各地に脚を運び、24箇所の競馬場で出走した。その当時は交通機関が未発達の時代だったから、本馬が全米中や隣国を駆け回るのは相当な負担だったはずだが、従順な性格の本馬は黙々と人間の指示に従ってレース出走を続けた。所有者達が本馬に感謝の念を有していたかどうかは定かではないが、少なくとも担当厩務員は本馬に対して自分の子どもを育てるかのような対応をしていたようで、本馬が長年に渡り過酷な斤量を背負いながら過酷な出走に耐えたのはそれも1つの理由であると思われる。

本馬はレースに出ると闘争心をむき出しにして勝とうとする意志を持った馬だったらしく、頑健かつ従順で能力も精神力も一流という競走馬の見本のような馬だった。

レースレコードは11回更新(タイレコードを含む)しており、そのうちダート5.5ハロンの全米レコードタイである1分04秒6を2回記録している。最初にも書いたが、本馬の出走したレースの大半は名も無い下級短距離レースである。出走レースにおける1着賞金の平均は300ドル程度であり、最も多いレースでも1050ドルだった。本馬は現役時代に3万9082ドルを稼ぎ出したが、米国ではミスウッドフォードフィレンツェなど10万ドル以上を稼いだ牝馬が19世紀中に登場しており、獲得賞金総額の点では及ばない。しかし繰り返しになるが、本馬が出走したレース数や勝利数は牝馬としては米国競馬史上最多(レース数に関しては定かではないが、勝利数は米国のみならず世界競馬史上最多であると思われる)であり、今後も破られる事は無いと思われる。

また、下級レースばかりの出走とは言え、本馬が他馬に与えた斤量差や勝ちタイムを考えると、本馬の実力が単なる井の中の蛙では無かった事は歴然としており、事実、前述のとおり4歳時には米最優秀ハンデ牝馬に選ばれている。

本馬が走った151戦のうち牝馬限定戦は8戦のみで、残り143戦は牡馬相手のレースだった。ハンデキャップ競走は100戦してうち46勝をマーク。126ポンド以上を背負って走った事が48回、うち28回は130ポンド以上、うち7回は140ポンド以上を背負っている。

なお、本馬と対戦歴がある著名馬としてオールドローズバド以外にもう1頭、前述のユーシーイットがいる。ユーシーイットはオクラホマ州を本拠地として走り、122戦34勝を挙げており、オクラホマ州における短距離戦でユーシーイットに勝てるのは本馬のみだったという。なお、ユーシーイットは母としてケンタッキー州など米国4つの州でダービーを制した米国顕彰馬ブラックゴールドを産んでいる。

本馬の競走馬人気は高く、“Panzy(パンジー)”の愛称で親しまれ、“Queen of the Turf(競馬場の女王)”の異名でも呼ばれたという。

血統

Abe Frank Hanover Hindoo Virgil Vandal
Hymenia
Florence Lexington
Weatherwitch
Bourbon Belle Bonnie Scotland Iago
Queen Mary
Ella D. Vandal
Falcon
Cheese Straw Muncaster Doncaster Stockwell
Marigold
Windermere Macaroni
Miss Agnes
Cheesecake Parmesan Sweetmeat
Gruyere
Songstress Chanticleer
Mrs Carter
Caddie Griffith Rancocas Iroquois Leamington Faugh-a-Ballagh
Pantaloon Mare
Maggie B B Australian
Madeline
Ontario Bonnie Scotland Iago
Queen Mary
Lady Lancaster Monarch
Lady Canton
Boston Girl Boston Boy Jack Boston Lexington
Miss Pattie
Nannie Mitchell Glengarry
Katy Trousdale
Sallie Johnson Blue Dick Wade Hampton
Bettie Worth
Mittie Stephens Shiloh Jr
Nellie Gray

父アベフランクはハノーヴァー産駒で、コンペティションS・クイックステップS・ケンウッドS・テネシーダービーの勝ち馬だが、ケンタッキーダービーでは4頭立ての最下位(勝ち馬アラナデール)に敗れている。3歳時にJ・F・ニューマン氏に購入されて種牡馬入りした。種牡馬としては本馬以外に特筆出来る活躍馬を出しておらず、本馬が5歳の時に落雷により他界している。

母キャディーグリフィスの競走馬としてのキャリアは不明。キャディーグリフィスの曾祖母ミッティーステファンズはアメリカンスタッドブックにおいて非サラブレッドとして記録されており、本来であればキャディーグリフィスも非サラブレッドになるはずだったが、複雑な裁決を経てサラブレッドとして認められたという記録がある。しかし本馬は純粋なサラブレッドではないという意見は一部にあったようである。こうしたごたごたの影響もあったのか、近親には活躍馬は皆無である。→牝系:その他(サラ系等)

母父ランコカスはイロコイ産駒だが、競走馬としてのキャリアはよく分からない。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は繁殖入りしたが、初年度は不受胎だったため、競走馬に復帰させられたという。しかし本馬は再度レースを走る事無く、8歳のクリスマスにフェアグラウンズ競馬場において肺炎のため他界したという。しかし、肺炎を患った本馬が8歳1月16日又は19日に現役のまま他界したとする資料もあり、本馬が本当にいったん繁殖入りしたのかどうかは定かではない(大半の資料にはいったん繁殖入りして現役復帰したとあるため、これが真実である可能性が高いとは思われる)。いずれにしても本馬の遺体はフェアグラウンズ競馬場に埋葬され、その9年後には本馬の好敵手ユーシーイットの息子ブラックゴールド(授精能力の低さから現役復帰させられ、レース中の故障で命を落とした)が本馬の隣に埋葬されている。1966年、フェアグラウンズ競馬場において本馬の名を冠した短距離競走パンザレタHが創設されている。1972年に米国競馬の殿堂入りを果たし、1999年にはテキサス州競馬の殿堂入りも果たしている。

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