ボールドルーラー

和名:ボールドルーラー

英名:Bold Ruler

1954年生

黒鹿

父:ナスルーラ

母:ミスディスコ

母父:ディスカヴァリー

競走馬としてもプリークネスSなどを勝ち米年度代表馬に選ばれた一流馬だが、種牡馬として8回もの北米首位種牡馬に輝き20世紀米国最高の種牡馬と言われる

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績33戦23勝2着4回3着2回

競走成績も一流だったが、種牡馬としてはさらに大きな成功を収め、1960年代の米国競馬をリードした米国史上屈指の大種牡馬。

誕生からデビュー前まで

「競馬場のファーストレディ」と呼ばれた米国の馬産家グラディス・リビングストン・ミルズ・フィップス夫人の馬産団体ホイートリーステーブルの生産・所有馬で、誕生したのはフィップス夫人の友人ブル・ハンコック氏が運営していたケンタッキー州クレイボーンファームだった。本馬が産まれたのは1954年4月6日の夜だったが、その僅か30分前には同じクレイボーンファームにおいてラウンドテーブルが誕生しており、2頭揃って米国競馬史上に名を残す名馬となる。

幼少期に不幸な逸話が多かった馬としては、ブランドフォードサンデーサイレンスが有名であるが、その2頭ほど酷くはないにしても本馬もまた幼少期に頻繁に不幸に見舞われる馬だった。1歳時には馬屋内の事故(どういう事故だったのかは資料に記載が無く不明)により、舌を切断寸前まで切ってしまった。舌を完全に失ってしまう事態は免れたが、本馬の舌は爬虫類のように2つに割れてしまい、その痛みに生涯を通じて悩まされることになった。さらに、それからしばらく経った後には水桶に躓いて転倒し、脚を負傷してしまった。一歩間違えば骨折して予後不良になるところだったという。あまりにも事故を多く起こして傷が絶えない馬だったので、ハンコック氏は訪問客に驚いた本馬が事故を起こしたりしないように、クレイボーンファームの裏手の小牧場で放牧させていた。そのためにクレイボーンファームに来たフィップス夫人は幼少期の本馬の姿を見ることが出来なかったという。

成長すると体高は16.1ハンドに達した本馬だが、どちらかと言えば身体は細身であり、脚がひょろ長い馬だった。そのために、名門ジェームズ・E・フィッツシモンズ厩舎に預けられた際にもそれほどの評判馬というわけではなかった。ところがフロリダ州ハイアリアパーク競馬場において調教が開始されると、距離2ハロンを22秒フラットというとんでもない速さで駆け抜けた。数々の名馬を手掛けてきたフィッツシモンズ師(本馬が2歳の時点で既に82歳。彼は91歳まで生きるが、彼にとっては本馬が最後のチャンピオンホースとなった)もさすがに驚いたし、この噂が広まったために瞬く間に本馬は評判馬となった。

競走生活(2歳時)

2歳4月にジャマイカ競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦でデビューし、3馬身半差の快勝でデビュー戦を飾った。10日後に出走した同コースの一般競走も、2着レッドカデットに1馬身差で勝利。5月に出走したユースフルS(D5F)では、2着レッドカデットに3馬身半差で快勝。次走のベルモントパーク競馬場ダート5ハロンの一般競走では、主戦となるエディ・アーキャロ騎手と初コンビを組み、2着となった後のサプリングS・ホープフルS勝ち馬キングハイランに首差で勝利した。同コースで行われた6月のジュヴェナイルS(D5F)も、2着キングハイランに1馬身差をつけて、56秒0のレースレコード勝ちを収めて5連勝を飾った。

その後は3か月以上の間隔を空け、9月にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰。しかし初体験となる不良馬場に脚を取られたのか、同じナスルーラ産駒であるナシュヴィルの1馬身差2着に敗れて初黒星を喫した。しかし10月のアンティシペーションH(D6F)では、2着となったピムリコフューチュリティの勝ち馬ミサイルに半馬身差で勝利。さらにベルモントフューチュリティS(D6.5F)では、2着グリークゲームに2馬身1/4差で勝利した。この頃になると、幼少期の本馬の事を良く知らなかったフィップス夫人もすっかり本馬の事を気に入っており、本馬の鬣を自身で編んであげるようになった。

次走は、この年における賞金総額が30万ドル以上と当時世界最高賞金競走だったガーデンステートS(D8.5F)となった。ところが本馬はレース中に左後脚と腰の筋肉を痛めてしまい、ケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬フェデラルヒル、ベルモントフューチュリティSで3着だった同じナスルーラ産駒のアマルーラとの大接戦を鼻差・首差で制して勝利したバルビゾンから24馬身差の17着と惨敗してしまった。それから僅か10日後にはレムセンS(D8.5F)に出走したが、どうやらガーデンステートSにおける負傷が完治していなかったようで、まともな競馬にならず、鞍上のアーキャロ騎手の判断により競走を中止した。

2歳時は10戦7勝という好成績を残したのだが、ガーデンステートSの結果が重視されたのか、米最優秀2歳牡馬の座は2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)で同世代最高の126ポンドを獲得したバルビゾンに奪われてしまった。また、2歳時に走った10戦のうち8戦が距離6.5ハロン以下のレースで、その成績は8戦7勝2着1回と抜群だったのだが、それを超える距離の2戦はいずれも惨敗していた(敗因は距離だけではなく負傷にもあったが)ため、2歳戦終了時点における本馬の評価は典型的な早熟の短距離馬といったものであり、ケンタッキーダービーを始めとする米国三冠競走で活躍するのは難しいだろうと思われていた。

競走生活(3歳前半)

しかし本馬陣営は3歳時の目標をやはりケンタッキーダービーに置いていたようで、冬場は温暖なフロリダ州で本馬を過ごさせ、3歳時は1月にハイアリアパーク競馬場で行われたバハマズS(D7F)からの始動となった。このレースには名門カルメットファームが絶大な期待を寄せていたゲンデュークという馬も出走していた。ゲンデュークの走りを見たものは時間が経つのを忘れると評されたほどの素質馬であり、ワーラウェイサイテーションに次ぐカルメットファーム3頭目の米国三冠馬誕生も有力であると言われていた。しかし少なくともバハマズSの距離では本馬に分があったようで、ゲンデュークを4馬身半差の2着に、本馬が惨敗したガーデンステートSで2着だったフェデラルヒルを3着に破り、1分22秒0のコースレコードタイで圧勝した。ちなみにこのレースは、後に本馬最大の好敵手となるハイビスカスSの勝ち馬ギャラントマンとの初対決でもあったが、ギャラントマンは4着に終わっている。

次走のエヴァーグレイズS(D9F)は、本馬にとって初の9ハロン競走となった。そのために不安視する向きもあったが、実際には十分な走りを見せた。レース結果自体は、前走で負かしたゲンデュークがそれまでの記録を1秒4も更新する1分47秒4のレースレコードで勝利を収め、本馬は頭差の2着に敗れた(3着にはゲンデュークと同じカルメットファーム所有のアイアンリージが入った)。しかし斤量面に目を向けると、ゲンデュークは114ポンド、本馬は126ポンドで、その差は実に12ポンドもあったから、斤量差さえ無ければ本馬が勝ったと言える内容だったのである。そしてフラミンゴS(D9F)では、2着ゲンデュークに首差ながらも勝利を収めた(アイアンリージが3着だった)。着差は僅かだったが勝ちタイム1分47秒0はコースレコードであり、これで少なくとも9ハロン戦までなら大丈夫という目算が立った。

ところが次走のフロリダダービー(D9F)では、ファウンテンオブユースSを勝ってきたゲンデュークが1分46秒8の全米レコードタイで勝利を収め、本馬は1馬身半差の2着に敗れてしまった(アイアンリージは今回も3着だった)。ケンタッキーダービーは10ハロン戦なので、9ハロン戦が精一杯では本番では厳しいと思われた。次走のウッドメモリアルS(D9F)では、ギャラントマンとの激闘を鼻差で制して、1分48秒8のコースレコードで勝利を収めたが、それでもスタミナ面に不安がある事実が変わる事は無く、ケンタッキーダービーでは2番手(本命視されていたのはゲンデューク)の扱いだった。

ところがケンタッキーダービー(D10F)では、直前に故障したゲンデュークがレース当日になって回避してしまい、代わりに本馬が単勝オッズ2.2倍の1番人気に祭り上げられた。単勝オッズ4.6倍の2番人気はクレイボーンファームで本馬より30分早く産まれたラファイエットS・ブリーダーズフューチュリティ・ブルーグラスS・ベイメドウズダービーの勝ち馬ラウンドテーブル、単勝オッズ4.7倍の3番人気はギャラントマンだった。他にも、カルメットファームがゲンデュークの代打として送り込んできたアイアンリージ、バハマズS3着後にルイジアナダービー・ダービートライアルSを勝ってきたフェデラルヒルなどが出走しており、ゲンデュークやバルビゾンなどが不在とは言え、後に米国競馬史上最強3歳世代とまで言われた同世代の最強馬決定戦に相応しい好メンバーが揃ったハイレベルの1戦となった。

スタートが切られるとフェデラルヒルが先頭に立ち、本馬のスタミナ不安を懸念していたアーキャロ騎手が抑えた本馬が2番手、アイアンリージが3番手につけた。そのままの態勢で三角に入ってきたのだが、本馬は伸びを欠き、並ぶように走っていたアイアンリージが本馬を置き去りにして上がっていき、直線入り口でフェデラルヒルをかわして先頭に立った。そこへ外側からギャラントマンが本馬を抜き去ってアイアンリージに迫ったが、ギャラントマン鞍上のウィリアム・シューメーカー騎手がゴール板を誤認したために、アイアンリージが鼻差で粘り切って優勝。2着ギャラントマンからさらに2馬身3/4差の3着に内側を掬ったラウンドテーブルが入り、フェデラルヒルをかわすのがやっとだった本馬はラウンドテーブルからさらに3馬身差の4着と完敗を喫した。

敗因はアーキャロ騎手が道中で手綱を抑えすぎたためと言われている。実際にアーキャロ騎手も後日自分のミスを認めているらしく、デイリーレーシングフォーム紙の名物記者チャールズ・ハットン氏の著書である米国の競馬年鑑「アメリカン・レーシング・マニュアル」など、本馬を紹介した海外の資料におけるケンタッキーダービーの箇所には、必ずと言って良いほど「アーキャロ騎手が抑えすぎたため負けました」と書かれている。

その後はプリークネスSに直行せず、プリークネスプレップ(D8.5F)に出走して、2着インスウェプトに2馬身差で勝利。続くプリークネスS(D9.5F)では、本拠地の米国西海岸に戻ってしまったラウンドテーブルと、ベルモントSに照準を絞ったギャラントマンの2頭がいずれも回避し、強敵はアイアンリージと、ケンタッキーダービー5着のフェデラルヒルの2頭だった。ケンタッキーダービーの反省からか、今回のアーキャロ騎手はスタートから本馬の行く気のままに先頭を走らせた。そしてアイアンリージが少し離れた3番手を追走してきた。三角に入るところでアイアンリージが仕掛けたが、本馬も同時に加速したために2頭の差は縮まらなかった。直線に入っても本馬はしっかりと脚を伸ばし、2着アイアンリージに2馬身差をつけて勝利した。

その後はベルモントS(D12F)に向かった。この距離でもアーキャロ騎手は本馬を抑えずに先頭をひた走らせたが、快速を誇る本馬にとってこの距離で抑えずに走るというのは無理があったようで、レース中に心臓に異常を起こして(重篤なものではなく、おそらく心房細動だったと思われる)、直線で失速。本馬がラビット役になってしまったレースは、ピーターパンHを勝って万全の状態で臨んできたギャラントマンが、2着となったプリークネスS3着馬インサイドトラクト(後にジョッキークラブ金杯を勝っており、スタミナ豊富な馬だった)に8馬身差をつけてコースレコードで圧勝し、本馬はインサイドトラクトからさらに4馬身差の3着に終わった。

競走生活(3歳後半)

体調を整えるために夏場は休養に充て、秋は9月にベルモントパーク競馬場で行われたタイムズスクエアH(D6F)から始動した。128ポンドという3歳馬としては結構厳しい斤量が課せられたが、この距離なら斤量が重かろうが関係無かったようで、2着グリークゲームに5馬身半差をつけて圧勝した。次走のジェロームH(D8F)では130ポンドを課された上に、スタミナを消耗する不良馬場となったのだが、そろそろ全盛期を迎えつつあった本馬にとってはたいした問題では無かったようで、ドワイヤーHを勝ちトラヴァーズSでギャラントマンの2着してきたビューロクラシーを6馬身差の2着に破って圧勝した。続くウッドワードS(D10F)では、ジャージーS・ブルックリンH・ホイットニーH・ホーソーン金杯H・ジョンBキャンベルH・モンマスHなどの勝ち馬でサバーバンH・カーターH・メトロポリタンH2着の実績があった2歳年上のデディケート、トラヴァーズS・ナッソーカウンティHを連勝してきたギャラントマンの2頭に執拗にマークされてしまった。そしてこの2頭に直線で差されて、勝ったデディケートから3馬身半差、2着ギャラントマンから1馬身1/4差の3着に敗れた。

しかし得意距離に戻ったヴォスバーグH(D7F)では、130ポンドの斤量、不良馬場という悪条件をものともせずに快走し、2着となった1歳年上のチックタック(これまでにカウディンS・トラヴァーズS・ジェロームH2着などの実績を挙げており、翌年のヴォスバーグHや翌々年のトボガンHに勝つなど通算93戦20勝の成績を残し、この当時の米国短距離路線では主役の1頭だった)に9馬身差をつけて圧勝した。不良馬場にも関わらず、勝ちタイム1分21秒4は、20世紀初頭米国の短距離路線を席巻した “The Big Train”ことローズベンが1905年に計時した1分22秒0のコースレコードを52年ぶりに更新するという素晴らしいものであり、これは本馬が勝ったレースの中で最も衝撃的な内容だったと「アメリカン・レーシング・マニュアル」において評された。

次走のクイーンズカウンティH(D8.5F)では、133ポンドを背負いながらも、23ポンドのハンデを与えた2着プロミスドランド(本馬が勝ったウッドメモリアルSで3着していた馬で、この後に本格化してローレンスリアライゼーションS・ローマーH・ピムリコスペシャル・ジョンBキャンベルH・サンフアンカピストラーノ招待H・マサチューセッツHなどに勝利している。スペクタキュラービッドの母父、又はサンデーサイレンスの母父アンダースタンディングの父と言ったほうが、理解が早いか)に2馬身半差で勝利。ベンジャミンフランクリンH(D8.5F)では、136ポンドを背負いながらも、不良馬場の中で圧倒的な走りを見せて、2着サルノに12馬身差をつけて大圧勝した。

3歳最後のレースとなったトレントンH(D10F)は本馬を含めて3頭立てで、ケンタッキーダービー3着後にウィルロジャーズS・シネマH・ハリウッド金杯・ウェスターナーS・アメリカンダービー・ユナイテッドネーションズH・ホーソーン金杯など11連勝中だったラウンドテーブル、ウッドワードS2着後にジョッキークラブ金杯を勝ってきたギャラントマンとの同世代最強馬決定戦第2ラウンドとなった。距離的に本馬がやや不利と思われたためか、斤量は本馬が122ポンドで、他2頭が124ポンドに設定された(本馬は130ポンドを背負っていたとする資料もあるが、「アメリカン・レーシング・マニュアル」など信憑性が高い資料にはいずれも122ポンドと明記されている。130ポンドという数値はおそらく近走でそれ以上の斤量を背負っていたために筆が滑ったものであろう)。しかし本馬は重馬場の中でスタートから快調に先頭を飛ばすと、2着ギャラントマンに2馬身1/4差、3着ラウンドテーブルにはさらに8馬身3/4差をつけて逃げ切り快勝。2ポンドの斤量差こそあったが、内容的にはそれ以上の差があり、これで完全に3強の頂点に立った。

3歳時は16戦11勝の成績を残し、米最優秀3歳牡馬だけでなく、デディケートと共に米年度代表馬にも選ばれた(正確に書くと、デイリーレーシングフォーム社の投票においては本馬が16票、ギャラントマンが9票、デディケートが4票で本馬が年度代表馬に選ばれたが、全米サラブレッド競馬協会の投票においてはデディケートがトップになった)。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続行して、5月のトボガンH(D6F)から始動した。このレースには、前年のヴォスバーグH2着後にピムリコスペシャルで2着していたチックタックに加えて、本馬と同世代ながらもケンタッキーダービーには不出走だったウィザーズS・アーリントンクラシックSの勝ち馬でサンフォードS・サラトガスペシャルS・ジャージーS2着のクレムも出走してきた(後にこの年のワシントンパークH・ユナイテッドネーションズH・ウッドワードSでいずれもラウンドテーブルを破って勝利することになる)。本馬には133ポンドが課せられたが、2着クレムに半馬身差で勝利した。

次走のカーターH(D7F)には、前走3着のチックタックに加えて、好敵手ギャラントマンも参戦してきた。距離からしてギャラントマンより本馬のほうが明らかに有利だったが、その分はギャラントマンより7ポンド重い135ポンドを課せられる事で相殺されるかと思われた。しかし本馬が2着チックタックに1馬身半差で勝利を収め、ギャラントマンは3着だった。

次走のメトロポリタンH(D8F)では、ギャラントマンと8度目にして最後の対決となった。距離的にやはり本馬がやや有利であり、斤量は本馬が135ポンドで、ギャラントマンは130ポンドとなった。しかし今回はギャラントマンが本馬を2馬身差の2着に破って勝利(クレムが3着だった)。ギャラントマンとの対戦成績は4勝4敗の五分。バハマズS・ウッドメモリアルS・トレントンH・カーターHはいずれも本馬が1着で、ケンタッキーダービー・ベルモントS・ウッドワードS・メトロポリタンHではギャラントマンが先着するという結果となった。

次走のスタイミーH(D9F)では133ポンドを背負いながらも、2着アドミラルヴィーに5馬身差で圧勝。クレムとの対戦となったサバーバンH(D10F)では134ポンドを課せられ、これは109ポンドのクレムより実に25ポンドも重い斤量だった。距離10ハロンのレースは前年のトレントンHで1度だけ勝っているが、その時の斤量は122ポンドであり、はっきり言ってこのサバーバンHを勝つのはかなり厳しい状態だった。しかし今の本馬にとってはこの距離でこの斤量でも何とかなってしまい、スタートからゴールまで続いたクレムとの激しい一騎打ちを鼻差で制して勝利した(3着には110ポンドの斤量だったロングアイランドH・ローマーHの勝ち馬サードブラザーが入った)。次走のモンマスH(D10F)でも134ポンドを課せられたが、2着シャープスバーグに3/4馬身差で勝利した。

こうして古馬になっても順調に勝ち星を積み重ねていた本馬だったが、古馬になって出走したレース全てで133ポンド以上を背負わされていた本馬の脚には既に黄信号が点灯していた。それが赤信号になってしまったのは次走のブルックリンH(D9.5F)だった。135ポンドを課せられた本馬はレース中に脚の球節を痛めてしまい、勝った同世代馬コーホーズ(大繁殖牝馬ラトロワンヌの孫に当たる良血馬で、サラナクHなどを勝っていた)から15馬身差をつけられた7着に敗退。レース後の検査により剥離骨折が判明したため、このレースを最後に4歳時7戦5勝の成績で競走馬引退となった。この年の米年度代表馬・米最優秀ハンデ牡馬の座は、古馬になって本馬と1度も顔を合わせなかったラウンドテーブルが選ばれたために逃したが、米最優秀短距離馬には選出された。

競走馬としての特徴

本馬は細身の身体だったと評されているが、その割にはかなり強靭な筋肉を身体のうちに秘めていたらしく、ハンコック氏は後に「父のナスルーラと似たような構造の体格をしており、特に下半身の筋肉は有り余っていました」と本馬の速さの秘密を語っている。

また、ナスルーラはその気性難で有名だったが、本馬は正反対にとても物静かで賢い馬であり、「アメリカン・レーシング・マニュアル」の中でハットン氏は「冷静で礼儀正しく、自信と機知に満ちており、ナスルーラの血を引く馬の多くに見られる意地の悪さは微塵もありませんでした」と評している。さらに所有者フィップス夫人との良好な仲は非常に有名であり、本馬が種牡馬入りした後も両者の関係が変わることは無かった。両者の交流の様子を目撃したハットン氏は「フィップス夫人が牧場にやって来たのを見かけたボールドルーラーは、まるで古い牛のようにゆったりと歩いてフィップス夫人の元へと近づきました。それに対して老婦人が手を差し出すと、ボールドルーラーはまるで女王に傅くかのように頭を下げました。するとフィップス夫人はボールドルーラーの頭を優しく抱擁しました。それは私がかつて見た中で最も素晴らしい情景でした」とデイリーレーシングフォーム紙の記事で書いている。もっとも、「アメリカン・レーシング・マニュアル」には「彼の舌はほぼ2つに割れており、患部の痛みに敏感に反応してしばしば不機嫌になりました」とも書かれているが、これは気性難に起因するものではないだろう。

本馬の頭の良さに関しては、主戦を務めたアーキャロ騎手のコメント「ボールドルーラーは私よりも競馬を良く知っていました」が有名(「アメリカン・レーシング・マニュアル」に載っている)であり、自分で勝手にレース配分を決めて走ると評された。

このように本馬は運動能力と精神面では非常に優れていたが、健康面には問題があり、さながら病気のデパートの様相を呈していた。切れた舌の痛み、背中や腰の筋肉痛、脚部不安、心臓の異常といった本文中に記載したものの他にも、慢性関節炎、神経痛などを抱えており、頻繁に身体の不調を訴えた。しかし本馬が競走馬を引退した1958年に米国競馬の殿堂入りを果たした名伯楽フィッツシモンズ師は適切にそれらに対処し、(2歳シーズンの終盤と現役最終戦を除くと)一見して健康問題を抱える馬とは思えないほどの経歴を積み上げることが出来ている。

血統

Nasrullah Nearco Pharos Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
Nogara Havresac Rabelais
Hors Concours
Catnip Spearmint
Sibola
Mumtaz Begum Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Mumtaz Mahal The Tetrarch Roi Herode
Vahren
Lady Josephine Sundridge
Americus Girl
Miss Disco Discovery Display Fair Play Hastings
Fairy Gold
Cicuta Nassovian
Hemlock
Ariadne Light Brigade Picton
Bridge of Sighs
Adrienne His Majesty I
Adriana
Outdone Pompey Sun Briar Sundridge
Sweet Briar
Cleopatra Corcyra
Gallice
Sweep Out Sweep On Sweep
Yodler
Dugout Under Fire
Cloak

ナスルーラは当馬の項を参照。欧米を股に掛けて活躍した20世紀世界有数の名種牡馬であるが、その名声を米国において決定的にしたのが本馬の登場である。

母ミスディスコは、ネイティヴダンサーなどの生産・所有者として知られるアルフレッド・G・ヴァンダービルト氏によりサガモアファームにおいて生産された馬だが、誕生したのが第二次世界大戦最中の1941年だったため、ヴァンダービルト氏はこの年に生産した馬24頭のうち半分の12頭を手放してしまい、ミスディスコもその中に含まれていた。皮肉なことに、ヴァンダービルト氏が手元に残した12頭からは活躍馬が出なかったのに、手放した12頭からはミスディスコや1948年の米最優秀ハンデ牝馬カナイヴァーなど8頭もステークスウイナーが登場した。シドニー・シュッパー氏という人物によって購入されたミスディスコは、ファッションS・テストS・ニューロチェルH・インターボローH・アメリカンレギオンHに勝つなど54戦10勝の成績を挙げた。ある程度長い距離の競走でも活躍したが、「アメリカン・レーシング・マニュアル」には「本当は短距離馬なのは彼女の周囲の人々はみんな知っていました」と書かれており、その点においてはミスディスコと本馬は似た者母子である。

さて、競走馬を引退したミスディスコはブル・ハンコック氏に購入されてクレイボーンファームで繁殖入りすることになった。しかしミスディスコを一目で気に入ったフィップス夫人が自分に売って欲しいと申し出てきた。フィップス夫人はハンコック氏の友人というだけでなく顧客でもあったので、ハンコック氏はその申し出を断ることが出来ず、その結果としてミスディスコはフィップス夫人の所有馬となり、そのままクレイボーンファームに預託されて繁殖生活を送ることになった。

ミスディスコは母としては本馬の2歳年上の全兄インディペンデンス【米グランドナショナル】、1歳年下の全弟ナスコ【サラナクH】も産んでいる。ナスコは後に日本に種牡馬として輸入されたが活躍馬は出せなかった。本馬の半姉ヒルローズ(父ローズモント)の子にはトゥルーノース【ワイドナーH・セミノールH】が、全姉エクスプローラーの牝系子孫には、ウォールストリート【ソーンドンマイルH(新GⅠ)・ウィンザーパークプレート(新GⅠ)・スプリングクラシック(新GⅠ)・エミレーツS(豪GⅠ)】などが、半妹フーリッシュワン(父トムフール)の子にはファニーフェロー【ローレンスリアライゼーションS・ローマーH・ギャラントフォックスH・ドンH】、プロタント【レムセンS・ローマーH・ホイットニーH・スタイミーH(米GⅢ)】、マンデラ【プリンセスロイヤルS(英GⅢ)】の3兄妹がいる。さらにマンデラの子にはタッチングウッド【英セントレジャー(英GⅠ)・愛セントレジャー(愛GⅠ)】、孫にはプライド【サンクルー大賞(仏GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)・香港C(香GⅠ)】、曾孫にはスペシオーサ【英1000ギニー(英GⅠ)】がいる。マンデラの全妹ファンシフールの子にはフールズホーム【グレイヴィルチャンピオンS(南GⅠ)・ゴールドチャレンジ(南GⅠ)・ターフフォンテンチャンピオンS(南GⅠ)】がいる。ミスディスコの1歳年下の全弟にはルーザーウィーパー【メトロポリタンH・サバーバンH・ディキシーH】がいる。

しかし本馬の牝系はずば抜けて繁栄しているというほどではなく(所謂ファミリーナンバー8号族の中ではむしろ繁栄していない部類に入る)、ラウンドテーブルの牝系のほうが遥かに発展している。良血馬のほうが種牡馬として成功しやすいという世間一般の常識からすれば、本馬の種牡馬成績はラウンドテーブルより下になって然るべきなのだが、実際には逆である(ラウンドテーブルも種牡馬として成功しているが、本馬との比較においては見劣りする)。優れた競走成績を残した馬は、その血統の良し悪しを問わずに繁殖の機会が与えられなければならないというのが筆者の持論であるが、日本ではなかなかそうならない。むしろGⅠ競走を勝っても種牡馬入りさえ出来ない馬が最近は増えてきている状況からすると、筆者が好ましいと思っているのとは逆方向に向かっているようである。馬産家も生活が懸かっているわけだから彼等を一方的に責める事は難しいが、何とかならないものだろうか。→牝系:F8号族③

母父ディスカヴァリーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のクレイボーンファームで種牡馬入りした。本馬が種牡馬入りした1959年の5月に、同じクレイボーンファームで種牡馬生活を送っていた父ナスルーラが大動脈破裂のために急死したため、その後継種牡馬として本馬に懸かる期待は嫌が応にも大きくならざるを得なかった。しかし本馬はそんな大きな期待を遥かに上回る種牡馬成績を残した。初年度産駒がデビューした翌年1963年に早くも北米首位種牡馬に輝くと、以降も安定して活躍馬を輩出し続けて、1969年まで7年連続で北米首位種牡馬を獲得した。

1970年に鼻腔と副鼻腔に癌を発症したために、いくつかの実験的治療を含む様々な治療が試みられた。いったん症状は落ち着いたかに見えたが、実は治癒しておらず、やがて身体の各所に癌が転移した事が判明。そのため1971年7月に17歳で安楽死の措置が執られ、遺体はクレイボーンファームに埋葬された。本馬の訃報を報じた新聞の見出しは“The King is dead”だった。前年の1970年10月にはフィップス夫人が87歳で死去しており、まるでその後を追ったかのようだった。死後2年目の1973年、本馬の最高傑作となった米国三冠馬セクレタリアトの大活躍により8度目の北米首位種牡馬を獲得した。この年には米国競馬の殿堂入りも果たしている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第19位。

なお、本馬は素晴らしい種牡馬成績を挙げながらも、米国三冠競走にはなかなか縁が無く、セクレタリアトが本馬の直子として最初で最後の米国三冠競走の勝ち馬となった。セクレタリアトがむしろ例外であり、基本的に本馬の産駒は仕上がり早い快速馬が多かったと言える。また、自身の健康不安を産駒にも遺伝させてしまう傾向が強く、大一番を目前に故障した有力馬も少なくなかった。確かに速いが壊れやすいというのが本馬の産駒に対する一般的な評価だった。それを差し引いても本馬の種牡馬成績は突出しており、20世紀米国における最高の種牡馬としての呼び声も高い。

後世に与えた影響

本馬が登場する以前の米国競馬は、スピードとスタミナを兼備する馬こそが最強という評価が一般的であり、本馬のようにスピードこそが命というタイプの馬はまだそれほど評価されなかった。本馬は3歳時の1957年に米年度代表馬を受賞しているが、前述のとおり本馬を推す人とデディケートを推す人に分かれており、全米一致で受賞したわけではなかった。引退年の1958年には米最優秀短距離馬を受賞しているが、その2年後の1960年から1963年までこのタイトルは消滅してしまっている。この期間は、ケルソが距離16ハロンのジョッキークラブ金杯を5連覇(1960~64年まで)して5年連続で米年度代表馬に選ばれた時期と重なっている。ケルソの活躍とタイトル消滅が関係しているかどうかは定かではないが、いずれにしても本馬が競走馬を引退してからしばらくは短距離馬の地位が低いままだったのは確実である。米最優秀短距離馬のタイトルが復活したのは1964年だったが、これは本馬が最初の北米首位種牡馬に輝いた翌年の事だった。そして米最優秀短距離馬のタイトルはこの年以降今日まで途切れることなく続いており、短距離馬には必ず一定の評価が与えられるようになった。それは1967年に3歳を迎えたドクターファーガーという稀代の快速馬が出現した事も大きいだろうが、本馬の活躍とも無関係ではないはずである。

直子最大の大物だったセクレタリアトは直系を伸ばすことが出来なかったが、ボールドネシアンの直系から出現した米国三冠馬シアトルスルーとその息子エーピーインディがいずれも種牡馬として大きな成功を収め、本馬の直系は現在でも米国における主流血脈の1つとなっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1960

Batteur

サンタマルガリータ招待H・ニューヨークH2回・サンタマリアH・サンタバーバラH・サンタモニカH

1960

Bold Consort

テストS

1960

Bold Princess

スカイラヴィルS

1960

Lamb Chop

CCAオークス・モンマスオークス・ガゼルH・スピンスターS・フィレンツェH

1960

Ornamento

ブリーダーズフューチュリティS・ヴォスバーグS

1960

Speedwell

プライオレスS

1961

Bold Queen

ブラックアイドスーザンS

1961

Chieftain

カウディンS・アーリントンH

1961

Time for Bed

テストS

1962

Bold Bidder

ジェロームH・ホーソーンダービー・チャールズHストラブS・モンマスH・ワシントンパークH・ホーソーン金杯

1962

Bold Experience

ソロリティS

1962

Bold Lad

サプリングS・ベルモントフューチュリティS・ホープフルS・シャンペンS・メトロポリタンH

1962

Cestrum

テストS

1962

Cornish Prince

サンフォードS・ジムダンディS

1962

Jacinto

サンフェリペS

1962

Queen Empress

フリゼットS・ヴェイグランシーH

1962

Staunchness

ドワイヤーH・ホイットニーH

1962

Terentia

アッシュランドS・ポストデブS

1963

Bold and Brave

ジェロームH・ロイヤルパームH

1963

Boldnesian

サンタアニタダービー

1963

My Boss Lady

プライオレスS

1963

Romanticism

ウィルシャーH

1963

Stupendous

ゴーサムS・アーリントンH・ホイットニーH

1964

Bold Hour

ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・サラナクH・ディスカヴァリーH・グレイラグH・エイモリーLハスケルH

1964

Bold Lad

ミドルパークS・コヴェントリーS・シャンペンS

1964

Disciplinarian

スワップスS

1964

Gamely

プリンセスS・テストS・アラバマS・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H・ウィルシャーH2回・イングルウッドH・ヴァニティH・ベルデイムS2回・サンタモニカH・ダイアナH

1964

Great Power

サプリングS・デラウェアバレーH

1964

Successor

シャンペンS・ガーデンステートS・ローレンスリアライゼーションS

1964

Suteki

サンカルロスH

1965

Bold Favorite

イリノイダービー・クラークH2回

1965

Dewan

サンフェリペS・サンアントニオH・ウエストチェスターH・ブルックリンH

1965

Heartland

テストS・ディスタフH・ベッドオローゼズH

1965

Queen of the Stage

ソロリティS・スピナウェイS・メイトロンS・フリゼットS

1965

Syrian Sea

アスタリタS・セリマS

1965

Vitriolic

サラトガスペシャルS・シャンペンS・ピムリコローレルフューチュリティ

1965

What a Pleasure

ホープフルS

1966

Big Advance

ソロリティS

1966

Jungle Cove

カナディアンターフH

1966

King Emperor

サンフォードS・カウディンS・ピムリコローレルフューチュリティ・スタイヴァサントH

1966

King of the Castle

イリノイダービー

1966

Might

オマハ金杯

1966

Reviewer

サプリングS・サラトガスペシャルS・ベイショアS・ナッソーカウンティH

1966

Tyrant

デラウェアバレーH・カーターH・サルヴェイターマイルH

1967

Irish Castle

ホープフルS

1967

Meritus

アディロンダックS・スピナウェイS

1968

Raja Baba

デラウェアバレーH

1969

Calve

コロネーションS(英GⅡ)

1970

Key to the Kingdom

スタイミーH(米GⅢ)

1970

My Great Aunt

フロール賞(仏GⅢ)

1970

North Broadway

シープスヘッドベイH(米GⅡ)・ジャージーベルH(米GⅢ)・クリサンセマムH(米GⅢ)

1970

Secretariat

ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・マンノウォーS(米GⅠ)・サンフォードS・ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・ローレルフューチュリティ・ガーデンステートS・ゴーサムS(米GⅡ)・加国際CSS(加GⅡ)・ベイショアS(米GⅢ)・マールボロC招待H

1971

Celestial Lights

コリーンS(米GⅢ)

1971

In Hot Pursuit

ファッションS(米GⅢ)

1971

Top Command

オークツリー招待H(米GⅠ)・カールトンFバークH(米GⅡ)

1971

Ward McAllister

バーナードバルークH(米GⅢ)

1972

Alpine Lass

メイトロンS(米GⅠ)

1972

Jabot

スワニーリヴァーH(米GⅢ)

1972

Singh

ジャージーダービー(米GⅠ)・ゴーサムS(米GⅡ)・スウィフトS(米GⅢ)

1972

Sugar Plum Time

マスケットH(米GⅡ)・フィレンツェH(米GⅡ)

1972

Wajima

モンマス招待H(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)・ガヴァナーS(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)

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