ボールドラッド

和名:ボールドラッド

英名:Bold Lad

1962年生

栗毛

父:ボールドルーラー

母:ミスティモーン

母父:プリンスキロ

2歳時の圧倒的な強さに関してはセクレタリアト以上の評価を受けた良血のボールドルーラー産駒

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績19戦14勝2着2回3着1回

誕生からデビュー前まで

ボールドルーラーの生産者兼馬主でもあったホイートリーステーブルの生産・所有馬で、ウィリアム・ウィンフレイ調教師(本馬の1歳下の名馬バックパサーを手掛ける事になる)に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳5月にアケダクト競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦でデビューして、インディアインクの1馬身差2着。その13日後に同コースで行われた未勝利戦を、2着カスクに3/4馬身差で勝ち上がった。さらに12日後に同コースで行われた一般競走にも出走したが、ここではグロトンの1馬身半差2着だった。それから6日後に出走したナショナルスタリオンS(D5.5F)では、2着タニステアに半馬身差で勝利した。そしてここから本馬の快進撃が始まる。翌7月に出走したトレモントS(D5.5F)では不良馬場となったが、2着ジャウストに半馬身差で勝利した。翌8月にモンマスパーク競馬場で出走したダート6ハロンの一般競走では、2着となったタイロSの勝ち馬ネイティヴチャージャーに2馬身差で勝利。それから1週間後に出走したサプリングS(D6F)では、ネイティヴチャージャーを半馬身差の2着に、後にサラトガスペシャルS・アーリントンワシントンフューチュリティ・ガーデンステートS・ピムリコフューチュリティを勝つサダーを3着に退けて勝利した。

それから3週間後に出走したホープフルS(D6.5F)では、その持てる能力を最大限に発揮。道中は先頭から少し離れた2番手を追走していたが、三角手前で加速して一気に先頭を奪取。そのままゴールまで後続馬を引き離し続け、2着ネイティヴチャージャーを7馬身ちぎって、1分15秒6のコースレコードを樹立して圧勝した。それから約1か月後に出走したベルモントフューチュリティS(D6.5F)では、2着ネイティヴチャージャーに1馬身1/4差、3着トムロルフにはさらに2馬身1/4差をつけて、1分16秒0のコースレコードタイで勝利した。さらに翌10月に出走したシャンペンS(D8F)では、名牝レヴィー産駒で米国顕彰馬シュヴィーの半兄である良血馬ロイヤルガンナー(フューチュリティトライアルSを勝って臨んだアーリントンワシントンフューチュリティで3着していた)を7馬身差の2着に破って楽勝。

2歳時10戦8勝2着2回の成績で、満票でこの年の米最優秀2歳牡馬に選出された。この年の本馬のパフォーマンスに対して、米国ジョッキークラブの公式ハンデキャッパーは2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)において130ポンドの評価を与えた。これは後にセクレタリアトの2歳時に与えられた129ポンドより高く、米国における2歳馬としては異例の高さである(史上最高値は1942年のカウントフリートの132ポンド)。当然、ケンタッキーダービーを始めとする米国三冠競走の最有力候補となった。

競走生活(3歳時)

3歳時は2月にフロリダ州のハイアリアパーク競馬場から始動する予定だったが、右前脚を負傷したために復帰は遅れた。復帰戦は4月にアケダクト競馬場で行われた古馬相手のダート6ハロンの一般競走となった。休み明けで古馬相手という不利な条件が重なっていたが関係なく、2着パックトリップに3馬身差をつけて快勝した。それから2週間後に出走したウッドメモリアルS(D9F)では、ベイショアS・ゴーサムSを勝ってきたフラッグレーザー、ハイビスカスSの勝ち馬でピムリコフューチュリティ・ファウンテンオブユースS・フロリダダービー2着のヘイルトゥオールの2頭に屈して、2着ヘイルトゥオールを首差抑えて勝ったフラッグレーザーから1馬身1/4差の3着に終わり、前年からの連勝は8で止まった。しかしそれから10日後のダービートライアルS(D8F)では、2着カーペンターズルールに4馬身差をつけて圧勝。

そして本命馬としてケンタッキーダービー(D10F)に向かった。対戦相手は、フラッグレーザー、ヘイルトゥオール、カーペンターズルール、サンヴィンセントH・サンタアニタダービー・ブルーグラスSの勝ち馬でサンフェリペS2着のラッキーデボネア、前年のベルモントフューチュリティS3着後にカウディンS・チェサピークSを勝っていたトムロルフ、前年は本馬に徹底的にやられたがこの年はフラミンゴS・フロリダダービーを勝って上昇気配のネイティヴチャージャー、ゴーサムS2着馬ダッパーダン、アーカンソーダービー・トゥマーケットS・ハイドパークS・ホーソーンジュヴェナイルSの勝ち馬でブルーグラスS2着のスウィフトルーラー、ブルーグラスS3着馬ミスターパックなど10頭だった。本馬は1番人気の支持を受けたのだが、しかし結果は終盤に失速して、勝ったラッキーデボネアから12馬身差をつけられた10着と惨敗してしまい、先着できたのは僅か1頭という結果に終わった。

貧血に伴う痛みが原因と診断され、結局三冠競走の残り2戦は回避となった。本馬不在のプリークネスSはトムロルフが、ベルモントSはヘイルトゥオールがそれぞれ制する結果となっている。本馬は6月にアケダクト競馬場で復帰する予定だったが、再び脚を故障して手術が行われ、結局この年は以降レースに出る事はなく、3歳時の成績は4戦2勝に留まった。

競走生活(4歳時)

翌年からは勇退したウィンフレイ師に代わってエドワード・ネロイ調教師の管理を受ける事になった。約1年間の休養を経た本馬は、4歳4月にガーデンステート競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰し、2着バグラーに頭差ながら勝利を収めた。1週間後にアケダクト競馬場で出走したダート7ハロンの一般競走は2着エイデックに4馬身差で勝利した。それからさらに12日後に出走したローズベンH(D7F)では、11日前のカーターHを勝っていた亜国産馬デイビスを3馬身差の2着に破って楽勝。次走のメトロポリタンH(D8F)ではローズベンHより7ポンド多い132ポンドが課せられたが、1番人気に応えて、2着ヘッドエヴァー(翌月のエクワポイズマイルHでダート1マイルにおける当時の世界レコード1分33秒2を樹立する事になる快速馬だが、それよりも同厩の名馬ダマスカスが好敵手ドクターファーガーと対戦した際に、ドクターファーガーを潰すためのラビット役としてダマスカスを支援したことの方が有名である)に2馬身半差をつけて快勝。完全復活を印象付けた。

しかしそれも束の間、次走のサバーバンH(D10F)では同レースにおいて1923年のグレイラグ以来となる135ポンドの斤量が影響したのか、それともやはり距離が長かったのか、はたまた当日の非常な暑さにやられたのか、25ポンドのハンデを与えた3歳馬バッフルに10馬身差をつけられて6着と大敗してしまった。しかもレース後の検査で左前脚に故障が判明し、このレースを最後に4歳時5戦4勝の成績で競走馬を引退する事となった。この年の米最優秀ハンデ牡馬の候補にも挙がったが、チャールズHストラブS・モンマスH・ワシントンパークH・ホーソーン金杯Hを勝ったボールドビダーの次点に終わった。

生涯戦績を見ると、マイル以下の距離では16戦14勝2着2回と完璧に近い成績を残しているが、マイルを超える距離では最高が3着だったことから、距離に限界があった可能性が強いと思われる。言い換えればマイル以下では非常に強く、健康面に問題が無く、なおかつ徹底して短距離路線を進んでいれば歴史的名馬になれていた可能性も十二分にある逸材だった。

血統

Bold Ruler Nasrullah Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Mumtaz Begum Blenheim Blandford
Malva
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine
Miss Disco Discovery Display Fair Play
Cicuta
Ariadne Light Brigade
Adrienne
Outdone Pompey Sun Briar
Cleopatra
Sweep Out Sweep On
Dugout
Misty Morn Princequillo Prince Rose Rose Prince Prince Palatine
Eglantine
Indolence Gay Crusader
Barrier
Cosquilla Papyrus Tracery
Miss Matty
Quick Thought White Eagle
Mindful
Grey Flight Mahmoud Blenheim Blandford
Malva
Mah Mahal Gainsborough
Mumtaz Mahal
Planetoid Ariel Eternal
Adana
La Chica Sweep
La Grisette

ボールドルーラーは当馬の項を参照。

母ミスティモーンは現役成績42戦11勝、モリーピッチャーH・モンマスオークス・ダイアナH・ギャラントフォックスHなどに勝利し、1955年の米最優秀3歳牝馬と最優秀ハンデ牝馬に選ばれた名牝。繁殖牝馬としても優秀で、本馬の半兄サンライズフライト(父ダブルジェイ)【ギャラントフォックスH】、全姉ボールドコンソート【テストS】、1966年の米最優秀2歳牡馬に選ばれた全弟サクセッサー【シャンペンS・ローレンスリアライゼーションS】などを輩出し、1963年のケンタッキー州最優秀繁殖牝馬にも選ばれた。本馬の半姉インザクラウズ(父ダブルジェイ)の孫にはパッチーズ【ハリウッドオークス(米GⅠ)】が、ボールドコンソートの曾孫には日本で走ったダイナレター【札幌記念(GⅢ)・根岸S(GⅢ)】が、本馬の全姉ビューティフルデイの子にはブライトサン【スカイラヴィルS】、玄孫にはブリリアンス【サンタラリ賞(仏GⅠ)】が、本馬の半妹ラブリーモーニング(父スワップス)の孫にはタイムフォーアチェンジ【フラミンゴS(米GⅠ)】、本邦輸入種牡馬アジュディケーティング【カウディンS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)】、ディスピュート【ケンタッキーオークス(米GⅠ)・ガゼルH(米GⅠ)・ベルデイムS(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】、曾孫にはシークレットセイヴィングス【ドンカスターマイル(豪GⅠ)】などが、本馬の全妹クイーンオブザスカイの曾孫にはオンアソープボックス【CCAオークス(米GⅠ)】、玄孫には日本で走ったシンボリインディ【NHKマイルC(GⅠ)】などがいる。

ミスティモーンの母グレイフライトは現役成績35戦12勝でステークス競走の勝ちは無いが、やはり非常に優秀な繁殖牝馬で、ミスティモーンの半兄フルフライト(父アンビオリクス)【サラナクH】、半妹ボールドプリンセス(父ボールドルーラー)【スカイラヴィルS】、半妹ボールドクイーン(父ボールドルーラー)【ブラックアイドスーザンS】、北米首位種牡馬2回の半弟ワットアプレジャー(父ボールドルーラー)【ホープフルS】を産んだ他に牝系子孫も発展させ、ボールドプリンセスの子にプレディクテーブル【セリマS・カムリーS】、イントレピッドヒーロー【ハリウッドダービー(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)・セクレタリアトS(米GⅡ)・ボードウォークH(米GⅢ)・バーナードバルークH(米GⅢ)】、曾孫にコーラーワン【ドバイゴールデンシャヒーン(首GⅠ)】、玄孫にテセオ【エプソムH(豪GⅠ)・マッキノンS(豪GⅠ)・ランヴェットS(豪GⅠ)2回・ チッピングノートンS(豪GⅠ)】が、ミスティモーンの半妹クイックフライト(父エルバジェ)の曾孫にアシャル【アスコット金杯(英GⅠ)】が、ミスティモーンの半妹クリアセーリング(父ボールドルーラー)の子にクイックアズライトニング【英1000ギニー(英GⅠ)・フィリーズマイル(英GⅢ)】、ストラトスフェリク【カンデラブラS(英GⅢ)】、孫にエデュケイティドリスク【フリゼットS(米GⅠ)・トップフライトH(米GⅠ)】、米国顕彰馬インサイドインフォメーション【BCディスタフ(米GⅠ)・アッシュランドS(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)・シュヴィーH(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】、曾孫にコナゴールド【BCスプリント(米GⅠ)・サンカルロスH(米GⅠ)】、スマッグラー【マザーグースS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)】が、ミスティモーンの半妹プレザントフライト(父ボールドルーラー)の子にフリットアロング【パンアメリカンS(米GⅡ)・ロングアイランドH(米GⅢ)】、曾孫にプリオロ【ジャンプラ賞(仏GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】などがいる。グレイフライトの母プラネトイドの半妹ミヤコの孫には米国の歴史的名馬ネイティヴダンサーがいる。→牝系:F5号族③

母父プリンスキロは当馬の項を参照。

父ボールドルーラーと母父プリンスキロの組み合わせはセクレタリアトと同じだが、距離適性は全然違ってしまうのだから、血統だけで距離適性を図ることは出来ないのである。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は米国ケンタッキー州で種牡馬入りした。その血統背景から大きな期待を背負っての種牡馬入りだったと思われるが、その種牡馬成績は期待を下回るものだった。そのために1973年からは仏国で種牡馬生活を開始し、1978年からは日本で種牡馬生活を継続した。欧州ではそれなりの成功を収めたため、日本では期待され、初年度は88頭、2年目は106頭、3年目は92頭、4年目は62頭、5年目の1982年は59頭の繁殖牝馬を集めた。日本における初年度産駒は1981年にデビューしていたが、翌1982年になっても重賞勝ち馬が出ず、6年目の1983年の交配数は32頭まで減少。この年になってようやく産駒が活躍を始め、全日本種牡馬ランキングで12位に入った。しかし年齢の関係もあり、翌7年目の1984年の交配数は37頭とあまり回復しなかった。この1984年には全日本種牡馬ランキングで7位に入ったが、同年に交配した37頭の繁殖牝馬は全て不受胎又は死産に終わり、1985年の産駒数は0頭となった。同年に3頭と交配したが受胎しなかったために種牡馬を引退。翌1986年に24歳で他界した。

直系は廃れたが、サクラローレル、ニーヴァス(キンググローリアスの父)などの母の父、ジルザルポリッシュプレシデント、タイムパラドックスなどの祖母の父、スワーヴダンサーなどの曾祖母の父として後世に影響力を保っている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1968

Bold Fascinator

仏1000ギニー(仏GⅠ)・グロット賞(仏GⅢ)

1968

Niagara

シネマH

1970

Boldboy

ロッキンジS(英GⅡ)・スプリントC(英GⅡ)・グリーナムS(英GⅢ)・ポルトマイヨ賞(仏GⅢ)・ダイアデムS(英GⅢ)・チャレンジS(英GⅢ)2回・デュークオブヨークS(英GⅢ)

1970

Marble Arch

ノーフォークS(英GⅠ)・愛フェニックスS(愛GⅡ)

1970

Royal Knight

オマハ金杯(米GⅢ)・オークローンH(米GⅢ)

1971

Rube the Great

ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ゴーサムS(米GⅡ)・ディスカヴァリーH(米GⅢ)

1974

Sirlad

伊グランクリテリウム(伊GⅠ)・伊ダービー(伊GⅠ)・ミラノ大賞(伊GⅠ)・サンセットH(米GⅠ)・エマヌエーレフィリベルト賞(伊GⅡ)・ベルエアH(米GⅡ)・クリテリウムナツィオナーレ(伊GⅢ)

1976

Bolsa

ポモーヌ賞(仏GⅢ)

1976

Discretion

シェーヌ賞(仏GⅢ)・ラクープドメゾンラフィット(仏GⅢ)

1976

L'Ile du Reve

チェシャーオークス(英GⅢ)

1976

Van der Linden

エマヌエーレフィリベルト賞(伊GⅡ)

1978

Sun Shines

オメノーニ賞(伊GⅢ)

1979

ボールドスミス

宇都宮記念(宇都宮)

1979

ミスハイヤー

キヨフジ記念(川崎)

1980

キャノンゼット

金鯱賞(GⅢ)

1980

シンブラウン

阪神大賞典・阪神大賞典(GⅡ)

1980

ボールドマン

アラブ王冠賞(大井)

1981

セントエリアス

新潟グランプリ(新潟)2回・青山記念 (新潟)・若草賞(三条)・豊栄大賞(新潟)・朱鷺大賞典(新潟)

1981

ブリージーラッド

青雲賞(大井)・阪神障害S春

1981

モナンクイン

サガクイーン賞(佐賀)

1982

タイガーボーイ

セントライト記念(GⅢ)

1983

テツノヒリュウ

関東盃(大井)2回・東京盃(大井)2回・東京シティ盃(大井)

2歳年下の愛国産馬ボールドラッドについて

なお、本馬の2歳年下の愛国産のボールドルーラー産駒に同名の馬がおり、この馬も競走馬及び種牡馬として活躍している。そのため2頭を区別する必要が生じる場合が少なくなく、愛国産のボールドラッドは“Bold Lad Ⅱ”又は“Bold Lad(IRA)”と記載される事が多く、本馬も“Bold Lad(USA)”と記載される事がある。また、この2頭はたまたま同名になったわけではなく、愛国産のボールドラッドの生産者であるレディ・グラナードことベアトリス・ミルズ・フォーブス女史は本馬の生産者ホイートリーステーブルの代表グラディス・ミルズ女史とオグデン・ミルズ氏の姉弟であり、活躍した本馬にちなんで自身の生産馬にも同じ名前を付けたらしい。

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