ダマスカス

和名:ダマスカス

英名:Damascus

1964年生

鹿毛

父:ソードダンサー

母:ケララ

母父:マイバブー

ケンタッキーダービーを取りこぼしたため米国三冠馬にはなれなかったがウッドワードSで歴史的名馬2頭を圧倒して最強馬の称号を獲得する

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績32戦21勝2着7回3着3回

日本の競馬界においては、三強対決と呼ばれて盛り上がりを見せることが今も昔もしばしばある。海外の競馬界においても、三強対決と呼ばれるレースは時々見受けられるが、その中でも空前のレベルを誇った三強対決と言えば、バックパサードクターファーガー、そして本項の主人公ダマスカスの3頭が激突した、1967年のウッドワードSを置いて他には無いのではないだろうか。この3頭全てが米国競馬史上に燦然とその名を残す稀代の名馬であり、筆者がこの名馬列伝集を編む際に確認した星の数ほどの海外の資料において、明確に“Big Three”と書かれていたのは、数あるレースの中でもこの1戦くらいしか記憶にない。そして、この史上最強の三強対決で他の2頭を圧倒した本馬は、1960年代の米国を代表する歴史的名馬として現在も讃えられている。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ジョナベルファームにおいて、エディス・W・バンクロフト夫人により生産・所有された。バンクロフト夫人は、米国ジョッキークラブの会長だったウィリアム・ウッドワード氏の娘である。ウッドワードSは、ウッドワード氏が死去した翌年にその功績を称えて創設されたレースである。有名なベルエアスタッドを所有していたウッドワード一族は、ギャラントフォックス、ハッピーギャル、オマハグランヴィルヴェイグランシー、アパッチ、ブラックターキンナシュアなど米国の歴史的名馬を次々と送り出した名馬産家一族であったが、ウッドワード氏の後を継いだウィリアム・ウッドワード・ジュニア氏が不慮の死を遂げた(詳細はナシュアの項を参照)後は、しばらく活躍馬が出ておらず、本馬はウッドワード一族が送り出した久々にして最大かつ最後の超大物競走馬となった。

バンクロフト夫人は、メリーランド州の自宅の近くにあった小さな町の名前ダマスカスにちなんで本馬を命名した。別の海外の資料には、本馬が歴史あるサラブレッド三代始祖の1頭ダーレーアラビアンの末裔だったから、ダーレーアラビアンの出身地とされるシリアの首都ダマスカスの名を付けたのだという説が載っていたが、衰退傾向にあるゴドルフィンアラビアンバイアリータークの系統ならともかく、競馬界を埋め尽くしているダーレーアラビアンの系統だからという理由で命名されたという意見には納得しかねるから、メリーランド州にあった町の名前に由来するというのが正しいのだろう。

本馬を預かったのは、フランク・イーウェル・ホワイトリー・ジュニア調教師だった。以前にトムロルフを管理し、後にはラフィアンフォアゴーなども手掛けることになるホワイトリー・ジュニア師は、寡黙な調教師の代表格として知られていた。これは後に本馬がケンタッキーダービーに参戦する直前の話であるが、1番人気に支持されていた本馬の管理調教師の談話を取ろうとして、各地のマスコミがホワイトリー・ジュニア師の下へと押し寄せてきた。しかしホワイトリー・ジュニア師は殆ど何も語ろうとせず、唯一報道された台詞は、「ダマスカスはどのように寝ますか?」という質問に対する「私は彼と一緒に寝ていないので分かりません」だけだったという。やや神経質なところがあった本馬を、ホワイトリー・ジュニア師はマスコミの前に出そうとはしなかったため、悪意的なマスコミは「ホワイトリーはダマスカスを甘やかしすぎている」と酷評したほどだった。もっともホワイトリー・ジュニア師に悪気があったわけではない(競馬関係者の間では、ホワイトリー・ジュニア師は親切な男として知られていた)ようで、本馬を表に出そうとしなかったのも馬のことを最優先に考えた結果であるし、ケンタッキーダービー前のコメントの件についても、だらだらと無意味な質問をするマスコミ連中のほうが悪かったと思われる。

小柄だった父ソードダンサーと同じく、幼少期はそれほど目立つ馬格ではなく、成長もそれほど早くなかった。しかしデビューに向けて調教が行われるようになった頃にはかなり大きくなり、均整が取れた美しい馬体の持ち主になった。性格は知性的で真面目であり、調教でもいつも一生懸命に走ったという。

競走生活(2歳時)

2歳9月にアケダクト競馬場で行われたダート7ハロンの未勝利戦で、ウィリアム・シューメーカー騎手を鞍上にデビュー。抑え気味にレースを進めて、直線で前に詰め寄っていったが届かずに、勝ったコンプラドールから2馬身半差の2着だった。このレースでは、明らかに周囲の騒音に気を取られる仕草が見られたという。2週間後に同コースで行われた未勝利戦を8馬身差の圧勝で勝ち上がった。3戦目となったローレル競馬場ダート7ハロンの一般競走は、2着ジョクサーに12馬身差をつけて圧勝。

11月にアケダクト競馬場で出走したレムセンS(D8F)では、サマーS・コロネーションフューチュリティ・カップ&ソーサーS・カールトンSなど7連勝で臨んできた加国最強2歳牡馬クールレセプション、後にエヴァーグレイズS・バハマズS・フラミンゴSを勝つリフレクテッドグローリーなどが対戦相手となった。レースで本馬は四角で上がっていく際に内枠にぶつかるアクシデントがありながらも、2着ネイティヴガイルに1馬身半差で勝利を収めた。リフレクテッドグローリーが3着で、クールレセプションは5着だった。このレース後にシューメーカー騎手は以下のように本馬を賞賛している。「私達は柵に激しく叩きつけられました。普通の馬はここから闘争心を発揮することは出来ません。しかし彼は立ち直って勝利しました。私は彼に何度か乗りましたが、彼は私を失望させませんでした。ほとんどの馬は1度乗れば次はもう乗りたくないと私に思わせるものなのですが。」2歳時は4戦3勝の成績だった。

競走生活(3歳初期)

3歳時は3月にピムリコ競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動した。レースは普通の良馬場で行われたのだが、最後の直線の1箇所だけ何故か水溜りが出来ていたという。直線で追い込んできた本馬は、その水溜りを飛び越えるように突破して、最後は2着ソーラーボムに頭差で勝利した。2週間後にアケダクト競馬場で出走したベイショアS(D7F)でも、トゥマーケットS・サンミゲルSの勝ち馬で後にスワップスSを勝つディシプリナリアンを2馬身半差の2着に破って勝利した。

それから3週間後に同じアケダクト競馬場で出走したゴーサムS(D8F)では、本馬にとって生涯最大の強敵となる同期の快速馬ドクターファーガーとの初顔合わせとなった。2歳時にワールズプレイグラウンドS・カウディンSを勝ちシャンペンSで2着だったドクターファーガーは、このレースが3歳初戦だった。シューメーカー騎手はカウディンSやシャンペンSでドクターファーガーに騎乗しており、ここでもその気になれば騎乗可能だったはずだが、本馬に乗ることを選んだ。この時期には、ニューヨーク州の競馬関係者達がストライキ運動を起こしており、このレースも実施されるかどうかが不透明だったが、何とか予定どおり実施されることになった。2頭の対決は早くもかなりの注目を集めており、アケダクト競馬場には5万522人の観衆が詰めかけた。レースは、逃げ馬から離れた2~3番手を本馬とドクターファーガーの2頭が併走する展開となった。そして2頭揃って三角で仕掛けて四角で先頭に立ち、ここから内側の本馬と外側のドクターファーガーによる激しい叩き合いが展開された。そしてゴール直前でドクターファーガーが前に出て勝利し、本馬は半馬身差2着に敗退した。この直線の攻防において本馬とドクターファーガーの馬体が接近していたために、鞍上のシューメーカー騎手が右鞭を使えずに左鞭を使う事になったのも敗因とされている。

次走のウッドメモリアルS(D9F)でも本馬とドクターファーガーの対決が期待されていたのだが、ドクターファーガー陣営はケンタッキーダービーなどの米国三冠競走に参戦する意思が無かった(理由は公式には右膝の脚部不安となっている)らしく、前哨戦であるこのレースにも不参戦だったため、ファン達は大いに失望したという。結果は本馬が後のジムダンディSの勝ち馬ギャラパフォーマンスを6馬身差の2着に破って圧勝し、ケンタッキーダービーの最有力候補となった。

競走生活(米国三冠競走)

そして迎えたケンタッキーダービー(D10F)では、ドクターファーガーを2着に破ったシャンペンSの他にトレモントS・ガーデンステートSを勝ち前年の米最優秀2歳牡馬に選ばれていたサクセッサー、デルマーフューチュリティ・サンタアニタダービーの勝ち馬ルークン、アーリントンワシントンフューチュリティ・ブルーグラスSの勝ち馬ディプロマットウェイ、ダービートライアルSを勝ってきたバーブズディライト、タイロS・カリフォルニアダービーの勝ち馬でゴーサムSでは3着だったリーズントゥヘイル、ルイジアナダービーの勝ち馬でアーカンソーダービー2着のアスクザフェア、ブルーグラスS2着のプラウドクラリオンなどを抑えて、単勝オッズ2.6倍の1番人気に支持された。なお、ドクターファーガーは前述のとおり不参戦であり、やはり出走していれば人気になっていたはずのカップレース(前年のケンタッキーダービーで本命視されながら故障のため直前で回避したグロースタークの半弟)も怪我のため回避していた。

しかしレース前のパドックを歩く本馬は激しく動揺して発汗していた。その理由は、チャーチルダウンズ競馬場に詰めかけた大観衆の声援に脅えたためだと推察されている。この年は、全米中で公民権運動が激化しており、それは地元ルイビル市も例外ではなかった。そのため、この年のケンタッキーダービーは、騒乱が起きて逮捕者が出たり、州兵が出動したり、ルイビル大学のバンド部がレース前演奏を拒否したりする、物々しい雰囲気の中で行われた。こうしたぴりぴりした環境も、真面目な本馬の精神状態に悪影響を及ぼしたのかもしれない。神経質になっている本馬の様子を見たホワイトリー・ジュニア師は、今日は厳しいと直感したという。ホワイトリー・ジュニア師の悪い予感は的中し、折り合いを欠いた本馬は直線でいまひとつ伸びず、単勝オッズ31倍の9番人気馬プラウドクラリオンとバーブズディライトの2頭に遅れて、勝ったプラウドクラリオンから4馬身差の3着に敗れてしまった。皮肉にも、勝ったプラウドクラリオンは回避したカップレースの代役として急遽参戦した馬だった。骨膜炎やら神経質な性格やらのために2歳時はろくに活躍できなかったプラウドクラリオンは、ブルーグラスS2着が評価されて、故障したカップレースの代わりに参戦しており、ここでは別馬のような落ち着きを見せて栄冠を勝ち取ったのだった。

プラウドクラリオンとは対照的にここ一番で冷静さを欠いて敗れてしまった本馬を次走プリークネスSまでの間に立て直すために、ホワイトリー・ジュニア師はダッフィーという名前のポニーを付き添わせて落ち着かせることにした。当然報道陣は完全に遮断された。そして迎えたプリークネスS(D9.5F)では、プラウドクラリオン、バーブズディライト、前走4着のリーズントゥヘイル、同5着のアスクザフェア、ピムリコフューチュリティ・ハイビスカスS・ファウンテンオブユースS・フロリダダービーの勝ち馬インリアリティ、ナショナルスタリオンS・サプリングS・デラウェアバレーHの勝ち馬でホープフルS2着のグレートパワーなどを抑えて、再度1番人気に支持された。ダッフィーと一緒にいたことによる効果が出たのか、ここでの本馬は非常に落ち着いていた。レースはケルティックエアーという馬が非常に速いペースで逃げを打ったため、シューメーカー騎手は後方待機策を選択。前走のように焦れ込んで引っ掛かることもなく、じっくりと後方から機会を伺った。そしてレース終盤になって一気にスパートすると、2着インリアリティに2馬身1/4差をつけて勝利した。勝ちタイム1分55秒2は、プリークネスSが9.5ハロンで施行されるようになって以降では史上2位の好タイム(1位は1955年にナシュアが計時した1分54秒6)だった。

次走のベルモントS(D12F)でも、前走3着のプラウドクラリオン、ブリーダーズフューチュリティS・ホーソーンジュヴェナイルSの勝ち馬でブルーグラスS3着のジェントルマンジェームス、レムセンSで本馬の5着に敗れた後にマリーンSを勝ちダービートライアルSで2着していた前年の加最優秀2歳牡馬クールレセプションなどを抑えて1番人気に支持された。そして結果は本馬が2着クールレセプションに2馬身半差をつけて勝利した。ただ、このレースの模様については詳しく触れられている資料が無かったので、詳述できない。それはおそらく、2着したクールレセプションが残り1ハロン地点で右前脚を故障してレース終了後に安楽死となったという後味が悪い結末だったからであろう(クールレセプションは脚を折ったままラスト1ハロンを走っており、故障が無ければ結果はどう転んでいたか分からない)。ちなみにクールレセプションは後の2005年に加国競馬の殿堂入りを果たしている。

競走生活(3歳中期)

一方、米国三冠競走が終了した後も、本馬は休むことなく走り続けた。まずはベルモントSから2週間後にデラウェアパーク競馬場で行われたレオナルドリチャーズS(D9F)に出走した。サラトガスペシャルSの勝ち馬フェイヴァレーブルターン、アナポリスSの勝ち馬ミスティクラウドなどが挑んできたが、本馬が2着ミスティクラウドに3馬身1/4差をつけて完勝した。さらに3週間後には同じデラウェアパーク競馬場で新設競走ウィリアムデュポンジュニアH(D8.5F)に出走。このレースは古馬混合戦であり、ベイショアS・ゴーサムS・ウッドメモリアルS・ウィザーズS・スタイヴァサントHなどを勝っていた5歳馬フラッグレイザー、サバイバーS・シャルドンS・アナポリスS・シティオブボルチモアHを勝っていた4歳馬エクシーディングリーなどが参戦してきた。ここではエクシーディングリーが勝利を収め、本馬は鼻差2着に敗れてしまった。

翌週にアケダクト競馬場で出走したドワイヤーH(D10F)では、128ポンドのトップハンデと不良馬場を克服して、16ポンドのハンデを与えたレオナルドリチャーズS3着馬フェイヴァレーブルターンを3/4馬身差の2着に抑えて勝利した。一時は先頭から12馬身差をつけられた後方からの差し切り勝ちであり、斤量差と馬場状態を考えれば、かなり常識破りの走りである。さらに3週間後にはアーリントンパーク競馬場に姿を現し、アメリカンダービー(D9F)に出走した。フェイヴァレーブルターン、プリークネスS2着後にジャージーダービー・ラムソンH・チョイスSを勝っていたインリアリティなどが挑んできた。しかし本馬が2着インリアリティに7馬身差をつけて、1分46秒8のコースレコード勝ちを収めた。

その2週間後にはサラトガ競馬場に移動してトラヴァーズS(D10F)に出走した。ここでは2頭の逃げ馬がスタートから猛然と飛ばしたため、本馬は一時先頭から15~16馬身も離された。しかし向こう正面で仕掛けると、三角で一気に前の2頭を飲み込んで先頭を奪取。後は後続を引き離す一方で、ゴールしたときには2着リーズントゥヘイルと、3着となったユースフルS・カーターH・グレーヴセンドHの勝ち馬チュミガの2頭に22馬身差もの大差をつける圧倒的な走りを披露した。不良馬場だったにも関わらず、勝ちタイム2分01秒6は1962年の勝ち馬ジャイプールや前年の勝ち馬バックパサーと並ぶコースレコードタイだった。もっとも、このレースはテレビカメラが2着争いに注目してしまったために先頭を爆走する本馬の姿が映像では確認できず、22馬身という大差を実感できたのは、雨天にも関わらずサラトガ競馬場に足を運んだ観衆だけだった。

次走のアケダクトS(D9F)は再び古馬相手のレースとなった。対戦相手は、ハリウッドオークス・レディーズH・サンタマルガリータ招待H・サンタバーバラH・ベッドオローゼズH2回・シープスヘッドH・フィレンツェH・オーキッドH・トップフライトH・デラウェアHなどを勝ちまくってこの年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれるストレートディール、プライオレスS・アラバマS・ガゼルH・ベルデイムS・ブラックヘレンHなどを勝ち一昨年の米最優秀3歳牝馬に選ばれていたワットアトリート(英愛首位種牡馬ビーマイゲストの母)、ワイドナーHの勝ち馬でサバーバンH・ホイットニーS2着のリングトゥワイスなどだった。斤量は古馬である他馬勢よりも本馬のほうが重く、最大で20ポンドもの斤量差があったのだが、それでも2着リングトゥワイスに2馬身差で完勝した。

ウッドワードS

そして次走となったのが、もはや伝説となった冒頭のウッドワードS(D10F)だったのである。このレースには、本馬とは最初で最後の対戦となる1歳年上のサプリングS・ホープフルS・アーリントンワシントンフューチュリティ・シャンペンS・エヴァーグレイズS・フラミンゴS・アーリントンクラシックS・ブルックリンH・アメリカンダービー・トラヴァーズS・ウッドワードS・ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯・マリブS・サンフェルナンドS・メトロポリタンH・サバーバンHの勝ち馬バックパサーと、ゴーサムSで本馬を破った後にウィザーズS・アーリントンクラシックS・ロッキンガムスペシャルS・ニューハンプシャースウィープSを勝っていたドクターファーガーも参戦してきた。

バックパサーの引退レースでもあったこのレースは、施行前から“Race of the Century”と呼ばれて絶大な盛り上がりを見せており、アケダクト競馬場(例年ならウッドワードSが施行されるのはベルモントパーク競馬場なのだが、この年は改修中だった)には5万5259人の観衆が詰めかけていた。この3頭以外の出走馬は、前走ブルックリンHでバックパサーを8馬身差の2着に下してきたホーソーンダービー・トレントンH・ナッソーカウンティH・エイモリーLハスケルHの勝ち馬ハンサムボーイ、本馬陣営がドクターファーガー潰しのために用意したラビット役のメトロポリタンH2着馬ヘッドエヴァー(前年のエクワポイズマイルHにおいて、ダート1マイルにおける当時の世界レコード1分33秒2を樹立していた)、バックパサー陣営が用意したラビット役のグレートパワー(プリークネスSで本馬の10着最下位に敗れた後にジムダンディSで2着していた)だけであり、合計6頭という少頭数だった。

単勝オッズ2.6倍の1番人気はブラウリオ・バエザ騎手鞍上のバックパサーで、シューメーカー騎手鞍上の本馬と、主戦だったバエザ騎手がバックパサーに騎乗したためにビル・ボランド騎手が騎乗したドクターファーガーが、並んで単勝オッズ2.8倍の2番人気となった。

スタートが切られると、ドクターファーガーとヘッドエヴァーの2頭が猛然と競り合いながら先頭を飛ばし、グレートパワーが少し離れた3番手、ハンサムボーイがかなり離れた4番手で、本馬とバックパサーの2頭は最後方を追走した。ヘッドエヴァーに競られたドクターファーガーのペースは、最初の2ハロン通過が22秒4、半マイル通過は45秒2、6ハロン通過が1分09秒2という、非常に速いものとなった。向こう正面でグレートパワーは既に先頭の2頭に付いていけなくなったが、ドクターファーガーとヘッドエヴァーの争いはまだ続いていた。三角手前でようやくヘッドエヴァーが失速してドクターファーガーが単独で先頭に立った。一時はドクターファーガーから12馬身差をつけられた本馬鞍上のシューメーカー騎手は三角で仕掛け、少し遅れてバエザ騎手鞍上のバックパサーも上がってきた。四角途中で本馬がドクターファーガーを抜いて一気に先頭に立つと、そのまま直線でドクターファーガーを引き離していった。さらに後方から来たバックパサーも、本馬にはまったく追いつけず、ゴール直前でようやくドクターファーガーを捕らえるのが精一杯だった。最後は2着バックパサーに10馬身差をつけた本馬が圧勝し、ドクターファーガーはバックパサーから半馬身差の3着に敗れた(4着ハンサムボーイはさらに13馬身後方)。

三強対決と呼ばれて盛り上がった割には、本馬の強さばかりが目立つ結果となった。もちろん、この1戦だけをもって、バックパサーとドクターファーガーより本馬が強かったと断定することは出来ない。バックパサーは既に全盛期を過ぎていたと思われるし、ドクターファーガーはヘッドエヴァーと競り合って暴走気味に飛ばしたためである。しかし、バックパサーとドクターファーガーを10馬身ちぎった事実は厳然として残っており、このレースにおける本馬の強さが神懸かっていたことを否定できる人は誰もいなかった。本馬が歴史的名馬と呼ばれる理由のうち、かなりの割合をこのレースが占めていることは間違いないだろう。シューメーカー騎手は、かつて自身が騎乗したスワップスケルソギャラントマン、そしてバックパサーなどを差し置いて「ダマスカスは全時代を通じて最良の馬だと思いますし、私は今後も同じことを言い続けるでしょう」とレース後に語った。

競走生活(3歳終盤)

次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では、ハンサムボーイ、ケンタッキーダービー6着後にローレンスリアライゼーションSを勝ちディスカヴァリーHで2着していたサクセッサーなどが挑んできたが、本馬が2着ハンサムボーイを苦もなく4馬身半ちぎって勝利した。3歳最後のレースとなった11月のワシントンDC国際S(T12F)では、初の芝競走ということもあったのか、既に芝を主戦場としてロングブランチH・ナシュアH・タイダルH・バーナードバルークHを勝っていたフォートマーシーの鼻差2着に惜敗した。それでも、コックスプレート2回・ヴィクトリアダービー・アンダーウッドS・マッキノンS・CFオーアS・オールエイジドS・ドンカスターマイル・コーフィールドC・トゥーラックHを勝って豪州から移籍してきたトービンブロンズ(3着)、アメリカジョッキークラブC・目黒記念・天皇賞春・日本経済賞と4連勝して日本から参戦してきたこの年の啓衆社賞年度代表馬スピードシンボリ(5着)には先着した。

3歳時は16戦12勝の成績で、米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬・米最優秀ハンデ牡馬に選出された(米最優秀ハンデ牡馬はバックパサーと同時受賞。米最優秀芝馬の選考においても、第3位の評価を受けた)。米ブラッドホース誌が作成したフリーハンデ表においても、ドクターファーガーより4ポンド多い133ポンドでトップにランクされた。3歳時における獲得賞金総額81万7941ドルは、1シーズンにおける1競走馬の獲得賞金新記録だった(この記録を破ったのはセクレタリアト)。

3歳時の本馬に関して、伝説的競馬記者チャールズ・ハットン氏は、米国の競馬年鑑「アメリカン・レーシング・マニュアル」の中で「彼はあらゆる種類の走りを見せ、1マイルから2マイルまでの距離で活躍しました。彼がはみを外すのを誰も見ませんでした。ドワイヤーSでは128ポンドという厳しいトップハンデに直面しましたし、アケダクトSではリングトゥワイスやストレートディールといった年上の馬にハンデを与えました。不慣れな芝競走だったワシントンDC国際Sでも滑らかに走りました。このレースの勝ち馬はフォートマーシーでしたが、群集のハートを勝ち取ったのはダマスカスでした」と記している。

競走生活(4歳前半)

翌4歳時は、マリブS・サンフェルナンドS・チャールズHストラブSの所謂ストラブシリーズ完全制覇とサンタアニタH制覇を目指して米国西海岸に向かい、1月のマリブS(D7F)から始動した。前年のケンタッキーダービー8着後はシネマH2着・ハリウッドダービー3着などいまひとつだったルークン、後に西海岸を代表する上級ハンデキャップ馬となるサンフェリペSの勝ち馬ライジングマーケットなどが挑んできたが、本馬が2着ライジングマーケットに2馬身半差をつけ、コースレコードに僅かに及ばない1分21秒2の好タイムで勝利した。

同月のサンフェルナンドS(D9F)では、スローペースを後方から追走するという苦しい展開となったが、ラスト1ハロンを11秒6という豪脚を繰り出し、2着となったウィリアムPカインHの勝ち馬モーストホストに2馬身差をつけて勝利した。

次走のチャールズHストラブS(D10F)では、シューメーカー騎手からロン・ターコット騎手に乗り代わった(理由は不明だがシューメーカー騎手が本馬に騎乗する事は2度と無かった)。ターコット騎手は、この日の馬場状態(重馬場)に本馬が手こずっていると感じたという。結果はモーストホストの頭差2着に惜敗してしまい、ストラブシリーズ完全制覇は成らなかった。レース後に調べてみると、蹄鉄が一つ外れていた上に、別の脚に外傷を負っているのが見つかった。この怪我を治療するために、サンタアニタHは回避して東海岸に戻ってきた。

4か月の休養を経て出走した6月のデラウェアパーク競馬場ダート8ハロン70ヤードの一般競走は、新しく主戦となったマヌエル・イカザ騎手を鞍上に、2着ライトザフューズに3馬身3/4差で快勝した。

次走のサバーバンH(D10F)では、前年のウッドワードS3着後にホーソーン金杯・ヴォスバーグH・ローズベンH・カリフォルニアンSを勝っていたドクターファーガーと3度目の対戦となった。斤量は2頭ともかなり厳しく、本馬には133ポンド、ドクターファーガーには132ポンドが課せられた。スタートが切られるとやはりドクターファーガーが先頭に立った。このレースにはラビット役のヘッドエヴァーが不参戦だったため、本馬自身が積極的に先行してドクターファーガーを追撃した。そしてドクターファーガーと本馬が並んで直線に入ってきたのだが、ここからドクターファーガーが抜け出して1分59秒6のコースレコードで勝利。直線で失速した本馬は、フラッシュS・ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・サラナクH・ディスカヴァリーH・ベンジャミンフランクリンH・グレイラグHなどを勝っていた同世代馬ボールドアワーに差されて、ドクターファーガーから5馬身差、ボールドアワーから3馬身差の3着と完敗してしまった。

次走のエイモリーLハスケルH(D10F)では、若干ハンデが軽くなって131ポンドとなった。しかし、ボールドアワー、本馬不在のサンタアニタHを筆頭にドワイヤーH・ローマーH・トレントンH・クイーンズカウンティHを勝っていたミスターライトの2頭に屈して、勝ったボールドアワーから1馬身半差の3着に敗れた。

次走のブルックリンH(D10F)では、サバーバンHから直行してきたドクターファーガーと4度目にして最後の対戦となった。ドクターファーガーの鞍上には、かつての相棒シューメーカー騎手の姿があった。この時点では、古馬になって全盛期を迎えていたドクターファーガーのほうが本馬より上位であると判断されていたようで、斤量は本馬が130ポンド、ドクターファーガーが135ポンドだった。サバーバンHのときと異なり、ここではラビット役のヘッドエヴァーが出走しており、ドクターファーガーの前に出て先頭を飛ばしまくった。そのため自分のペースを守って走ることができた本馬は、三角手前で先頭に立ったドクターファーガーに直線入り口で並びかけると、直線半ばで突き放して2馬身半差で勝利。勝ちタイム1分59秒2はコースレコードだった。これで本馬とドクターファーガーの対戦成績は2勝2敗の五分となった。

競走生活(4歳後半)

続くレースは、前年に鼻差2着に敗れた8月のウィリアムデュポンジュニアH(D8.5F)となった。斤量は前年より13ポンド重い134ポンドに設定された。しかしこのレースから主戦となったかつてのバックパサーの主戦バエザ騎手を鞍上に酷量を克服して、2着ビッグロックキャンディに2馬身差で勝利した。9月には前年に勝利したアケダクトS(D9F)に出走した。ここでも前年より9ポンド重い134ポンドを課せられたが、前年の同競走で着外に終わった後に急成長してタイダルH・ロングフェローH・バーナードバルークH・フォールハイウェイトHを勝っていたモアセンツを1馬身半差の2着に破って勝利した。

しかし、133ポンドを背負ったミシガンマイル&ワンエイスH(D8.5F)では、22ポンドのハンデを与えた1歳年下のアーカンソーダービー馬ノーダブル(翌年から2年連続で米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる)に敗れて2馬身3/4差の2着だった。どうやらこの時期から本馬には屈腱炎の兆候が現れていたようである。

その2週間後には、ウッドワードS(D10F)で2連覇を狙った。しかしエイモリーLハスケルH2着後にブルックリンHで3着していたミスターライトに鼻差及ばず2着に敗退。その4週間後に出走したジョッキークラブ金杯(D16F)では、本馬の脚は遂に限界に達してしまい、最後は走るというより歩くような状態で、勝ったクイックンツリー(後のサンタアニタH勝ち馬)から37馬身後方の6着最下位に終わった。これが現役最後のレースとなり、4歳時の成績は12戦6勝だった。この年はドクターファーガーが米国競馬史上唯一の例となる、米年度代表馬・米最優秀ハンデ牡馬・米最優秀芝馬・米最優秀短距離馬の4部門完全独占を達成し、本馬は無冠に終わった。

競走馬としての評価

本馬は距離7ハロンから16ハロンまで様々な距離でステークス競走を勝ち、芝や重い斤量でも好走した万能馬である。しかもやたらと厳しい日程で走っており、3~4歳時においては、4歳春の4か月間の故障休養以外にほとんど休みなど無かった。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選では第16位であり、第6位のドクターファーガーや第14位のバックパサーより下だったが、これは単に見解の違いというべきで、本馬がドクターファーガーやバックパサーより下であると決定付けられたわけではないとされている。

血統

Sword Dancer Sunglow Sun Again Sun Teddy Teddy
Sunmelia
Hug Again Stimulus
Affection
Rosern  Mad Hatter Fair Play
Madcap
Rosedrop St. Frusquin
Rosaline
Highland Fling By Jimminy Pharamond Phalaris
Selene
Buginarug Blue Larkspur
Breakfast Bell
Swing Time Royal Minstrel Tetratema
Harpsichord
Speed Boat Man o'War
Friar's Carse
Kerala My Babu Djebel Tourbillon Ksar
Durban
Loika Gay Crusader
Coeur a Coeur
Perfume Badruddin Blandford
Mumtaz Mahal
Lavendula Pharos
Sweet Lavender
Blade of Time Sickle Phalaris Polymelus
Bromus
Selene Chaucer
Serenissima
Bar Nothing Blue Larkspur Black Servant
Blossom Time
Beaming Beauty Sweep
Bellisario

ソードダンサーは当馬の項を参照。

母ケララは1歳時のキーンランドセールにおいて9600ドルで取引された馬で、競走馬としては不出走に終わった。1967年には本馬の活躍によりケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選ばれているが、本馬以外にそれほど活躍馬を出しているわけではない。ただし、その牝系子孫はかなりの発展を見せている。本馬の半姉アーントティルト(父タルヤー)の子にはアンティリブ【シュヴィーH(米GⅡ)】、孫にはティファニーアイス【サンフォードS(米GⅡ)】、オールアットシー【ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、玄孫世代以降には、1998年のエクリプス賞最優秀3歳牝馬バンシーブリーズ【CCAオークス(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)・アップルブロッサムH(米GⅠ)・ゴーフォーワンドH(米GⅠ)】、トゥワイスオーヴァー【英チャンピオンS(英GⅠ)2回・エクリプスS(英GⅠ)・英国際S(英GⅠ)】などがいる。本馬の半妹ボウフィックス(父ウェザービューロウ)の孫にはミスグリス【伊1000ギニー(伊GⅠ)・伊オークス(伊GⅠ)】、曾孫にはブッダ【ウッドメモリアルS(米GⅠ)】が、本馬の半妹カーダッサ(父ロイヤルヴェイル)の子にはステン【ボーリンググリーンH(米GⅡ)・フォートマーシーH(米GⅢ)】が、本馬の全妹アルレーンフランシスの子にはファビュラスファインド【ウエストチェスターH(米GⅢ)】が、本馬の半妹シャラマー(父ニジンスキー)の曾孫にはルピット【サンイシドロ大賞(亜GⅠ)】がいる。

ケララの母ブレイドオブタイムは非常に優秀な繁殖牝馬で、ケララの半兄バイムアボンド(父バイムレック)【サンタアニタダービー】、半兄ブルーボーダー(父バイムレック)【ホープフルS・パームビーチS】、半兄ギロチン(父バイムレック)【ベルモントフューチュリティS・カーターH】、半姉ルディ(父デヴィルダイヴァー)【プライオレスS・モンマスオークス】など活躍馬を続出させている。ブレイドオブタイムの母バーナッシングの半兄にはバブリングオーバー【ケンタッキーダービー・シャンペンS】がいる他、バーナッシングの半姉バイミステイクの牝系子孫には日本で走ったレインボーダリア【エリザベス女王杯(GⅠ)】がいる。バーナッシングの祖母ベリサリオの半姉には米国顕彰馬マスケット【ベルモントフューチュリティS・メイトロンS・アラバマS・ガゼルH】がいる。→牝系:F8号族③

母父マイバブーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、256万ドルの種牡馬シンジケートが組まれて、米国ケンタッキー州クレイボーンファームで種牡馬入りした。本馬はバックパサーやドクターファーガーと同じく種牡馬としても一流の成績を残し、テディから連なる貴重な血統が後世に残る原動力となった。産駒のステークスウイナーは71頭とされている(資料によって差があり、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトでは51頭となっている)。また、繁殖牝馬の父としての評価も高く、100頭以上(資料によっては150頭以上)のステークスウイナーを出している。1974年に米国競馬の殿堂入りを果たした。1989年、受精率低下のために20年に及ぶ長い種牡馬生活に終止符を打って引退。その後もクレイボーンファームで穏やかな余生を過ごし、1995年8月の睡眠中に31歳で他界。遺体はクレイボーンファームに埋葬された(場所はイージーゴアの隣だという)。

プライヴェートアカウントが後継種牡馬として成功している。日本で走った産駒には、谷川岳特別を2連覇した他に宝塚記念で3着したタクラマカンがいる。タクラマカンはメイセイオペラの母父としても知られている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1970

Honorable Miss

フォールハイウェイトH(米GⅡ)・ヴェイグランシーH(米GⅢ)・フォールハイウェイトH(米GⅢ)

1970

Timeless Moment

ナッソーカウンティH(米GⅢ)

1971

Accipiter

ウィザーズS(米GⅡ)・サラナクS(米GⅡ)

1971

Gold and Myrrh

ガルフストリームパークH(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)・グレイラグH(米GⅡ)・ソールシルバーマンH(米GⅢ)

1971

Judger

フロリダダービー(米GⅠ)・ブルーグラスS(米GⅠ)

1971

Lover John

アーリントンワシントンフューチュリティ(米GⅠ)・ドーバーS(米GⅢ)・ドラグーンS(米GⅢ)

1972

Ascetic

エヴァーグレイズS(米GⅡ)

1972

Diabolo

デルマーフューチュリティ(米GⅡ)・サンハシントS(米GⅡ)・カリフォルニアダービー(米GⅡ)

1972

Sarsar

サンタスサナS(米GⅡ)・ウィザーズS(米GⅡ)

1973

Pacific Princess

デラウェアオークス(米GⅠ)・ヘンプステッドH(米GⅡ)

1973

Soy Numero Uno

ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・オークローンH(米GⅡ)・カーターH(米GⅡ)

1973

Zen

ゴーサムS(米GⅡ)

1974

Bailjumper

サラナクS(米GⅡ)・ドワイヤーH(米GⅡ)

1976

Himalayan

ガゼルH(米GⅡ)

1976

Private Account

ワイドナーH(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)・ジムダンディS(米GⅢ)

1977

Damask Fan

スカイラヴィルS(米GⅢ)

1978

Belted Earl

デスモンドS(愛GⅢ)・グリーンランズS(愛GⅢ)

1978

Edge

エルエンシノS(米GⅢ)

1978

Highland Blade

パンアメリカンS(米GⅠ)・ブルックリンH(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)・レッドスミスH(米GⅡ)

1979

Good Economics

クリサンセマムH(米GⅢ)

1979

Pert

ファーストフライトH(米GⅢ)

1979

Sword Blade

ウィルロジャーズH(米GⅡ)

1979

Syrianna

スワニーリヴァーH(米GⅢ)

1980

Desert Wine

チャールズHストラブS(米GⅠ)・カリフォルニアンS(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・ハリウッドジュヴェナイルCSS(米GⅡ)・サンフェリペS(米GⅡ)・サニースロープS(米GⅢ)・サンラファエルS(米GⅢ)

1981

Eastern Dawn

オマール賞(仏GⅢ)

1981

Time for a Change

フラミンゴS(米GⅠ)・エヴァーグレイズS(米GⅢ)

1983

Ogygian

ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・ドワイヤーS(米GⅠ)・ジェロームH(米GⅠ)

1984

Damascus Regal

プリンチペアメデオ賞(伊GⅡ)・ミラノ金杯(伊GⅢ)

1984

Doubles Partner

アンアランデルH(米GⅢ)

1984

Drachma

ギャラントマンS(米GⅢ)

1985

Aquaba

コティリオンH(米GⅢ)

1985

Crusader Sword

ホープフルS(米GⅠ)・サラトガスペシャルS(米GⅡ)

1985

Festive

ニューオーリンズH(米GⅢ)

1985

Stoneleigh's Hope

フルールドリスH(米GⅢ)

1986

Highest Glory

レアパフュームS(米GⅡ)

1987

Confidential Talk

ジャマイカH(米GⅡ)

1987

Rousing Past

ボールドルーラーS(米GⅢ)

1988

Eastern Echo

ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)

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