オジジアン

和名:オジジアン

英名:Ogygian

1983年生

鹿毛

父:ダマスカス

母:ゴンファロン

母父:フランシスエス

米国三冠競走にもエクリプス賞にも縁が無かったがその快速は見る者を魅了して止まなかったテディ直系の本邦輸入種牡馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績10戦7勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

米国フロリダ州タータンファームの生産・所有馬で、父ダマスカスの好敵手ドクターファーガーを手掛けたジョン・ネルド調教師の息子ジャン・H・ネルド調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳6月にベルモントパーク競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦でデビューして2馬身半差で快勝。このレースで2着に敗れたモガンボは後にシャンペンSを大差勝ちしている。2戦目は、8月末にベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走となった。このレースには後のベルモントS勝ち馬ダンチヒコネクションも出走していたが、本馬が2着馬に8馬身半差をつけて圧勝。ダンチヒコネクションは本馬から12馬身後方の3着だった。

3戦目のベルモントフューチュリティS(GⅠ・D6.5F)では、トレモントS・サラトガスペシャルS・サンフォードSと3連勝中のソヴリンドン、この後も本馬と何度か対戦するフォーエヴァーキャスティングSの勝ち馬グルーヴィ、トレモントS2着馬ミスタークラシックなどとの対戦となったが、本馬が2着グルーヴィに9馬身半差をつけてまたも圧勝した。しかしその後に脛を負傷したため、2歳時はこれが最後のレースとなった。

2歳時の成績は3戦全勝で、BCジュヴェナイル・デルマーフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティを制したタッソーにエクリプス賞最優秀2歳牡馬の座は譲ったが、「この年の2歳馬では最も速かった馬」と評された。米国ジョッキークラブが発表した2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)では126ポンドの評価が与えられ、タッソーと並んで同世代トップとなった。

競走生活(3・4歳時)

2歳12月に調教に復帰したが、今度は柵に脚をぶつけて負傷してしまい、右後脚の骨片摘出手術を受けた。そのため、この時点では本命視されていたケンタッキーダービーを始めとする米国三冠競走には出走できずじまいだった。結局本馬が不在のケンタッキーダービーはファーディナンドが制しているのだが、ファーディナンドを管理したチャールズ・ウィッティンガム調教師の妻ペギー夫人は夫の死後に「オジジアンがケンタッキーダービーに出ていたら夫の馬は勝てなかったでしょう」と語っている。

3歳4月にアケダクト競馬場で行われたダート6.5ハロンのハンデ競走で復帰して半馬身差の2着。続いてベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンのハンデ競走に出走して、後続に9馬身3/4差をつけて圧勝した。次走のリヴァリッジS(D7F)では、ベルモントフューチュリティSで対戦したグルーヴィと2度目の顔合わせとなったが、本馬が2着ワイヤーに3馬身半差で勝利し、グルーヴィは本馬から8馬身半差の4着に終わった。

続くドワイヤーS(GⅠ・D9F)では僅か4頭立てながらも、前走ベルモントSでダンチヒコネクションの2着していたジョンズトレジャーや、後にワイドナーH・サバーバンHとGⅠ競走を2勝するベルモントS4着馬パーソナルフラッグといった強敵が対戦相手となった。しかし本馬が2着ジョンズトレジャーに2馬身1/4差で勝利を収めた。

次走は血統的に問題無いとして距離10ハロンのトラヴァーズSが予定されていたが、泥だらけの不良馬場になった事を理由として回避し、その2週間後のジェロームH(GⅠ・D8F)に向かった。シャンペンS勝利後もゴーサムSを勝ちウッドメモリアルSで2着するなど活躍していたモガンボ、リヴァリッジS4着後にファイアクラッカーS・トムフールS・フォアゴーHと3連勝していたグルーヴィなどが対戦相手となった。本馬は3歳馬ながら125ポンドのトップハンデが課されたが、2着モガンボに頭差で勝利した。グルーヴィは本馬から5馬身1/4差の4着で、翌年にエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるグルーヴィは本馬の前に3戦全敗となった。

次走のペガサスH(GⅡ・D9F)では、トラヴァーズSで2着してきたベルモントS・ピーターパンSの勝ち馬ダンチヒコネクション、ウッドメモリアルS・オハイオダービーの勝ち馬でケンタッキーダービー・プリークネスSのいずれも3着だったブロードブラッシュという2頭の強敵との対戦となった。しかしここではその2頭に屈して、勝ったダンチヒコネクションから4馬身差の3着に敗退。

レース後に脚首から7つの骨片が発見され、再度長期休養入りとなった。3歳時の成績は6戦4勝だった。

復帰戦は4歳4月にアケダクト競馬場で行われたボールドルーラーS(GⅡ・D6F)となったが、パインツリーレーンの7馬身3/4差6着に大敗。翌月に競走馬引退が発表された。

競走馬としての特徴と馬名に関して

日本では産駒のエイシンワシントンなどの印象が強いためか、本馬もまた一本調子の快速馬だったという印象を抱くかもしれないが、実際には騎手の指示には従順に従い、逃げても差しても勝てるという自在性がある競走馬だったという。

馬名の由来には諸説あるが、海外の各種資料では古代ギリシアの叙事詩オデュッセイアに登場するニンフのカリュプソーが住んでいたオギュギア島(カリュプソーはこの島に漂着したオデュッセイアと7年間共に過ごして子どもをもうけている)に由来するとあるため、これが正しいようである。筆者は以前友人から、日本人が「オー、外人!」と言ったのを馬主が英語表記にして命名したものだという話を聞いた事があるが、真偽は不明である。

血統

Damascus Sword Dancer Sunglow Sun Again Sun Teddy
Hug Again
Rosern  Mad Hatter
Rosedrop
Highland Fling By Jimminy Pharamond
Buginarug
Swing Time Royal Minstrel
Speed Boat
Kerala My Babu Djebel Tourbillon
Loika
Perfume Badruddin
Lavendula
Blade of Time Sickle Phalaris
Selene
Bar Nothing Blue Larkspur
Beaming Beauty
Gonfalon Francis S. Royal Charger Nearco Pharos
Nogara
Sun Princess Solario
Mumtaz Begum
Blue Eyed Momo  War Admiral Man o'War
Brushup
Big Event Blue Larkspur
La Troienne
Grand Splendor Correlation Free America Blenheim
Columbiana
Braydore Roidore
Bray Beauty
Cequillo Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Boldness Mahmoud
Hostility

ダマスカスは当馬の項を参照。

母ゴンファロンは本馬と同じくタータンファームの生産・所有馬。競走馬としては14戦して1勝を挙げた程度だったが、12頭の産駒のうち8頭が勝ち上がるという優秀な繁殖成績を収めている。また、本馬の半妹フェアトゥオール(父アルナスル)の子には、オナーアンドグローリー(牝馬ながらに帝王賞を勝ったネームヴァリューの父)【メトロポリタンH(米GⅠ)・ブリーダーズフューチュリティS(米GⅡ)・サンラファエルS(米GⅡ)・キングズビショップS(米GⅡ)】がいる。ゴンファロンの牝系子孫からは他にも何頭かのステークスウイナーが出ている。

ゴンファロンの半姉キラルー(父ドクターファーガー)の子には、名種牡馬ファピアノ【メトロポリタンH(米GⅠ)・ディスカヴァリーH(米GⅢ)】、ポートロウ【イロコイS(米GⅢ)】、トレンシャル【ジャンプラ賞(仏GⅠ)】、孫にはクラバーガール【トップフライトH(米GⅠ)】、コメンダブル【ベルモントS(米GⅠ)】、曾孫にはキーパーヒル【ケンタッキーオークス(米GⅠ)・ラスヴァージネスS(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】、日本で走ったエリザベスローズ【セントウルS(GⅢ)】、オンユアマーク【東京記念・九州大賞典2回】、玄孫にはフサイチゼノン【弥生賞(GⅡ)】、アグネスゴールド【スプリングS(GⅡ)・きさらぎ賞(GⅢ)】、リミットレスビッド【東京盃(GⅡ)2回・ガーネットS(GⅢ)・根岸S(GⅢ)・兵庫ゴールドトロフィー(GⅢ)2回・黒船賞(GⅢ)・さきたま杯(GⅢ)】がいる。牝系を遡ると、エイコーンSの勝ち馬ホスティリティを経て、世界的名牝系の祖プラッキーリエージュに行きつく。→牝系:F16号族③

母父フランシスエスはロイヤルチャージャー直子で、現役成績は36戦8勝。ウッドメモリアルS・ドワイヤーH・ガヴァナーズ金杯・ベイショアHの勝ち馬。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、父ダマスカスも供用されていた米国ケンタッキー州クレイボーンファームで種牡馬入りした。クレイボーンファームで種牡馬生活を送っている間に本馬は事故で左目を失明してしまったという(詳細な状況は不明。なお、本馬の訃報を伝えた米ブラッドホース誌の記事には海外、つまり日本における種牡馬生活中に失明したと書かれている。いずれが正しいのか筆者には分からない)。クレイボーンファームにおける種牡馬供用時代には23頭のステークスウイナーを出しているが、自身のような大物産駒には恵まれなかった。

日本では外国産馬として走ったエイシンワシントンの活躍で注目され、1996年からは北海道浦河町のイーストスタッドで供用されることになった。初年度は126頭の繁殖牝馬を集め、2年目の1997年も121頭の繁殖牝馬を集める人気種牡馬となった。この1997年には、これまた外国産馬として輸入されていたバトルラインが活躍した。そのために一層の期待がかけられたはずだが、3年目以降の交配数は、77頭、70頭、60頭、61頭、59頭、50頭と右肩下がりとなり、2004年には25頭まで落ち込んだ。日本における種牡馬生活で送り出した産駒から、それほど活躍馬は出なかったのが種牡馬人気低下の要因だった。全日本種牡馬ランキングでは2001年の35位が最高だった。

2003年に、日本で種牡馬入りしていたファーディナンドが屠殺されていたらしいという旨が発覚して米国競馬界に大きな衝撃を与えた。他に日本で種牡馬入りしていた多くの活躍馬がさらに屠殺されるのではという危惧を抱いた米国の功労馬保護団体オールドフレンズの代表者マイケル・ブロウエン氏は、日本人馬主が海外のセリに参加する際に代理人を務める事が多い競馬エージェント会社ナーヴィックインターナショナル社に、日本競馬界との縁故を使って本馬やサンシャインフォーエヴァー、フレイズなどの行方を捜索するように依頼した。こうして発見された本馬は、オールドフレンズによって1万3400ドル(当時の為替レートで150万円)で買い戻され、サンシャインフォーエヴァーやフレイズと共に2005年8月に米国に帰国し、そのまま種牡馬を引退。その後はケンタッキー州のドリームチェイスファームで余生を過ごした。高齢の上に眼が不自由なためにあまり激しい運動はできなかったようだが、牧場内を歩き回る程度の運動はしていたそうである。

三冠競走にもエクリプス賞のタイトルにも縁が無かった本馬だが、競走馬時代の印象は極めて鮮烈であったらしく、米国の競馬作家ラス・ハリス氏は、オールドフレンズの代表者ブロウエン氏に対して「彼はかつて見た中で最も優れた競走馬でした」と語ったという。余生を過ごす本馬の元を訪れた競馬ファンは数多く、オールドフレンズの資金調達に一役買っていたという。

2015年3月に疝痛に伴う合併症のため安楽死の措置が執られた。享年32歳で、サラブレッドとしてはかなりの高齢であり、大往生だったと言えるだろう。

種牡馬としては今ひとつだったと海外でも評されている本馬だが、繁殖牝馬の父としては欧米統一2歳王者ヨハネスブルグ、トリプルベンド招待H・ビングクロスビーHの勝ち馬ストリートボス、キングズビショップSの勝ち馬ガイジスターなど36頭以上のステークスウイナーを出しており、海外における各種資料でも優れた繁殖牝馬の父と評価されている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1990

D'hallevant

パットオブライエンBCH(米GⅢ)・パロスヴェルデスH(米GⅢ)

1991

Fly'n J. Bryan

サンヴィンセントBCS(米GⅢ)

1991

Lindzell

ベイメドウズオークス(米GⅢ)

1991

Ramblin Guy

ハリウッドジュヴェナイルCSS(米GⅡ)

1991

エイシンワシントン

CBC賞(GⅡ)・セントウルS(GⅢ)

1993

バトルライン

プロキオンS(GⅢ)・かしわ記念(GⅢ)・エルムS(GⅢ)・全日本サラブレッドC(GⅢ)

1995

Dice Dancer

ウィザーズS(米GⅡ)

1996

タイキダイヤ

クリスタルC(GⅢ)

1997

ジョーディシラオキ

チューリップ賞(GⅢ)

1998

ゴオカイキング

春霞賞(札幌)

1998

フジノコンドル

サラブレッドチャレンジC(GⅢ)・サマーチャンピオン(GⅢ)・新緑賞(SPⅡ)・マーチC(SPⅡ)

1998

ミッドウェル

しもつけ3歳スプリンターズC(北関GⅡ)

1999

グランドレイル

七夕賞(北関GⅢ)

2002

レッドペガサス

園田ジュニアC(園田)

2003

パーフェクトラン

六甲盃(園田)

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